蒸気の中のエルキルス

上津英

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第六章 不便な世界

1-41 「ん? 俺は数に入れてくれないのかよー……」

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 公的な書類は結構な時間待たされる物だ。これもそうなるかと思っていたが、書類を持った一つ下の後輩女性が扉から出てきたので、慌てて珈琲を飲み干す。

「先輩~はい、これ。約束通り今度合コンのメンバー集めお願いしますよ。先輩以外でっ!」

 茶封筒に入った書類を渡される際耳打ちされた言葉につい頷き、書類を受け取った。

「ん? 俺は数に入れてくれないのかよー……」

 仕事に戻って行った後輩をしょぼしょぼと見送り、自分も戻ろうと外を歩く。
 それにしても運が良かった。一時期は本当にクビになるかと思った。
 リチェは頭上に広がる曇り空を見て目を細め、すれ違う同僚女性に声をかけつつ刑事課に戻った。帰ったばかりだからか、壁に染み付いた煙草の臭いが鼻につく。

「クルトー? これ、頼まれてたやつ」

 デスクに座っていた後輩は有り難う、と封筒を受け取り、書類を取り出して目を通し始めた。用は終わったので自分も仕事に戻ろうと思った、その時。

「えっ!?」

 後輩にしては珍しく大きい声だった。部屋に居た課長も、今の声は誰だと周囲を見渡している。

「どうした? 何か不備でもあったか?」

 足を止め書類を覗き込む。そこに書かれていた文字を見て眉間に皺を寄せた。

「ノア、だよな……これ? あいつ学生だよな? 何でこんな物持ってんだよ」

 尋ねるがクルトは何も言わなかった。その横顔は驚きに満ちていて、黒い瞳が見張られている。暫くした後クルトは思い出したように動き始め、デスクの引き出しにしまっていた電話帳を取り出しページを捲り出した。
 クルトから説明を待っていたが、一向に説明されなさそうなので書類を手に取る。改めて書類に目を通したが、何度読んでも理解不能な文字が並んでいてリチェは首を捻った。

***

 午後の授業が始まったので、ノア・クリストフは窓の外、蒸気を噴出している何処かの工場の煙突をぼんやりと眺めていた。その時、担任じゃない教師が教室の扉を開け入ってきた。

「クリストフ、ちょっと」
「へっ?」

 授業中教師に呼び出される程不良ではないつもりだ。ちょいちょいと手招く仕草を見て驚く。

「電話」

 教師はそう言い廊下に姿を消した。教室内の視線が自分に集まるのを感じつつ、授業中の教師の許可も出たので、立ち上がって教室を後にする。

「警察から」

 廊下の教師は困惑しきった表情で短く言った。
 一昨日か昨日かクルトか、と一瞬悩んだが電話ならクルトだろう。そういえば聴取の際学校名を言った記憶がある。若干肩の力が抜けた。
 同時にクルトの顔を思い出す。極度の人見知りながらも、先輩の為に勇気を出した少年を思うと、友人はともかく教師に無駄口を叩いている自分が恥ずかしくなった。

「……あー警察に友達居て。職権濫用ってやつだと思うんでそう身構えないで下さい」

 改まった口調で返すと、教師は相手を確認するように自分を振り返る。その反応に言い返したい気持ちを堪え、手をズボンのポケットに入れて目を逸らした。
 「ならいいけど」と子の成長を喜ぶ親のように返され、職員室に入る。数人しか居ない職員室で、保留中の電話を指差され早速受話器を耳に当てた。

「お待たせさんー」
『ノア……? 俺、クルト』
「あー、やっぱお前か。どうした?」

 電話の主が睨んだ通りクルトだと分かり安心した反面、ヴァージニアの事だと察し声を潜める。

『さっき、昨日頼まれたやつの結果が出て……』
「サンキュ。で、どうだったよ?」
『それが……思いの外、悪くて……。覚悟して聞いて』

 眉間に皺が寄った。そう言われれば誰だって最悪の結果を予想する。心臓が急にうるさくなった。一拍後「ん」と頷き、クルトの返事を待つ。

『……あれは確かに同じ物だったよ。けど、市販のどれとも成分が違う。主成分はコラーゲンないしタンパク質だったんだけど……、それが人間の皮膚から抽出されたもので』

 耳に届く言葉に目を見張る。
 人間の皮膚。どういう事かすぐに理解できなかった。同時に思い出したのは、昨日工場で抽出機に人間の皮膚が入っていたことだった。

『……コラーゲンって抽出が難しくて……結構取れないし、そもそも一般的な抽出元は動物や魚鱗で……人間の皮膚なんかじゃない。でも、渡された物は……』

 クルトはそこで一度言葉を区切り、黙り込んだ。この少年が言いたい事はよく分かる。あのグミが特別すぎる程特別で、それを持っていたヴァージニアも特別な存在だということだ。

『……あのさ、俺……リチェより真面目だから』
『おいっ!』

 受話器の向こうからリチェの声が聞こえた。クルトの近くにリチェが今も居るという事は、昨日の行為は無駄ではなかったのだ。今はそれが救いに思えて、ノアは微かに笑みを浮かべる。

『人命救助でもないし……イヴェットの時みたいには、見過ごせない。捕まった不良も居るし……あの、俺が撃った。……詳しく聞かせて。見たでしょ、昨日……抽出器』

 後半だけ声を潜めるクルトに何も言えなかった。これは連続連れ去り事件の根底に関わる問題だ。捜査に協力したい。
 だが、血は繋がってないものの、ヴァージニアは親のような存在だ。急展開すぎて気持ちが追い付かない。

「悪ぃ、少し……一日待ってくんないか? 頭の中が混乱してて無理だ」
『うん……けど……』
「頼む。一日だけで良いんだ。被害は出さねぇから!」

 頼む、ともう一度繰り返し、返事を待つ。少しして、分かった、と小さな声が返ってくる。

『……明日は絶対聞く。そのつもりで居て。……それじゃあ』

 頷く前に電話が切られ自分も受話器を置いた。気付けば体に汗が滲んでいて、ノアはふぅと息をつく。
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