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第二章 回り出す歯車
1-9 「あんたら警官か! 丁度良かった!」
しおりを挟む第二章 回り出す歯車
「っざけんなよ!」
夜も更けた路地で、ノア・クリストフは声を上げた。
動きたい、そう思っても馬車が消えているのでどうする事も出来ない。せめて警察に通報する前に馬蹄の跡を辿って、どこに行ったか大まかな方向を特定するしかない。連れ去られた女性には申し訳ないが、すぐすぐ通報したとしても事件に進展があるとは思えなかった。
ノアは女性が連れ去られた場所まで行き、腰を曲げて地面に顔を近づけた。月灯りを頼りに、真新しい馬蹄の跡を探し追っていく。「ヘンゼルとグレーテル」という大昔に出来た童話の子供達のようだと思ったが、場所が通りなので不審極まりない。
残された馬蹄の跡から察するに、この馬車は工業区に行ったのでは、という思いが強まっていく。橋を渡らないのなら、混み合っている工業区を犯人がわざわざ通らないと思ったのだ。
「あ」
通りを辿っていた時、誰も居ないと思っていた通りに聞き覚えのない少年の声が響いた。直後、後方から何かにぶつかられる。
「うわっ!」
ぶつかった勢いで地面に手も付く。同時に背中に重たい物が落下し暖かい液体のような物が広がっていく感覚があった。
何かをかけられた、直感で思った。熱いし、気持ち悪い。それに何故かカレーの匂いが鼻孔を擽る。嫌な予感がした。
「あああっ!? うっわっ! すんません!!」
慌てふためく声が聞こえ、背中から物が退けられる。それでも尚カレーの匂いは漂ったままだし、背中もどんどん冷たくなっていく。
「悪い見えなくてカレー掛けちまった! 拭くからちょっと動かないでいてください! クルトちょっとカレー持ってて」
軽薄そうな男性の声が聞こえてくる。どうやら嫌な予感が当たってしまったようだ。霧が出ている夜に地面と睨めっこしていた自分が悪いのだが、この軽薄そうな人とぶつかり背中にカレーを掛けられてしまったらしい。
「あー……」
背中をタオルのような物で拭かれている間、馬蹄が続いてる通りを荷馬車が横切っていく。こうなってしまっては素人の自分で検討は付けられない。工業区だろうと分かっただけでも収穫だ。橋を渡れば警察署が近いので、今のことを直接通報しよう。
「と、もういいぞ、すみません……ってかお前何してたんだ? 這いつくばって。若いな、学生か?」
背中を拭いてくれたが、まだカレーの匂いが周囲に漂っている。拭いただけで匂いが取れるわけでもないし、落下音もしたので地面にも落ちたのだろう。
立ち上がり、態度が鋭くなった青年の方を向く。職務質問みたいで居心地が悪い。適当に話を切り上げようと思ったが、霧の中見えた二人の男性が着ている服を見て、目を丸くする。
「あんたら警官か! 丁度良かった!」
スパイスの匂いが漂う中、自分とぶつかったプラチナブロンドの青年に詰め寄る。青年の眉が訝しげにしかめられた。
「僕さっき、女の人が馬車に乗った男に連れ去られるのを見たんだ! これはどこに行ったのか知ろうと、馬蹄の跡を見てて」
ヴァージニアにテストを見せる時のような切々とした声で、青年に訴える。その言葉にレンズの奥にあるライトブルーの瞳が驚きに揺れた。青年の後ろに隠れるように立っていたもう一人の警官も、自分の言葉を聞いてこちらに顔を向けるのが分かった。
「それってもしかしなくても連れ去り事件か! どのくらい前だ?」
「五分くらい前だ。悪いんだけど通報はあんま意味ないと思って、今のうちに馬蹄の行き先を見てたんだ」
「お前がタチの悪い嘘をついてるんじゃないなら、それで正解だ」
青年の瞳が蚤の市で値踏みしている鑑定士のように細められる。軽薄そうに思えたこの青年も、ちゃんと慎重なところがあるらしい。
「カレーを掛けられた恨みで誰がこんな嘘つくよ。僕は確かにガキだけど証言能力くらいあるっつの」
「まーそうだな。署に来てくれないか? そこで詳しい話を聞かせてくれ。……ついでにシャワーもどうぞ」
最後は調子が弱々しくなったのが面白くて小さく笑う。事件を目撃してから初めて漏れた笑みだった。ああ、と頷いてノアは歩き出した二人の後を付いていく。
この時、三歳児程の大きさの紙袋を抱えている黒髪の少年――青年と呼ぶにはまだまだな気もする――が視界に映った。この紙袋の中のカレーの一つが自分に掛かったようだ。クルトと呼ばれたこの少年は、高専を出てすぐに警察に入ったクチだろう。
「なあ、そのカレーどうしたよ? 何人分あんの?」
自分とそう背丈の変わらない少年に声をかける。声を掛けた瞬間、クルトの肩がびくりと跳ね、一度こちらに視線を向けたものの直ぐに紙袋で顔を隠してしまった。
話し掛けても応じない姿は、バイト中に一人は見かける人見知りの子供のようだ。きっとクルトも人見知りなのだと思い、ノアはそれ以上話し掛けるのを止める。
「中央公園の炊き出しで貰ってきたんだ。署の人らにもあげようと思って、十個貰ったけど今は九個だ」
クルトの代わりに答えたのは、前を歩く眼鏡をかけた青年だった。
そう言えばヴァージニアもこのカレーを貰っている筈だ。心配もしているだろうし、署に着いたらヴァージニアに電話をかけておいて貰おうと思った。
***
遅い。
ポピーの閉店作業を終わらせ、毎月恒例と化した炊き出しのカレーを二つ貰った。教会に行くと言っていた赤毛の少年の帰りを、ヴァージニア・エバンスは店の二階にある居間で待っていた。
もうポピーから教会まで三往復できる程の時間が経っている。なのに一向に階段を上がる音が聞こえて来ないのは流石におかしい。
趣味であるアイロン掛け中、危うくシャツを焦がしかけてしまった位ヤキモキした。もしかして何か事件に巻き込まれたのだろうか。今、エルキルスは物騒だ。
気の強い子ではあるし男とは言え、少年な事には変わりがない。あの辺りは不良の多い工業区にも近い。心配だ。
ヴァージニアは深く息をつき、落ち着いていられず立ち上がる。食器棚へ向かい、最近手放せなくなっているグミの袋を探す。
サングラスを掛けたクマのプリントがされた焦げ茶色の紙袋を取り出し、大分減ったグミを一粒口内に放り込んだ。それに歯を立てると若干気持ちが落ち着いた。
「ノア君~……っ」
八つ当たり気味に呟いた時、リビングに置いてある木製の電話からコール音が鳴り響いた。ハッと息を飲み込む。苦手なセールス電話なんかではなく、ノアからの電話であると良い。
ヴァージニアは祈るような気持ちでグミを飲み込み、慌てて電話へと向かった。
***
「そう言えばイヴェットさん。昨日、学校の友達と歴史博物館に行ったと言ってませんでした?」
惣菜の唐揚げにレモンをかけた後、ユスティンが手を止めて尋ねてくる。
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