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第一章 エルキルスの人々
1-5 「落とした。ハンカチ、落とした。ハンカチ落としたぁ!」
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アンリとは、エルキルス教会の事務員で、叔父の幼馴染みの青年だ。普段は教会の二階にある子供部屋の一室に住み着いているが、食事は一緒に取るし作ってもくれる。イヴェットの両親もユスティンの両親も違う街の教会に異動になった為、今はユスティンとアンリが家族のようなものだ。
「イヴェットさんが作ってくれても私は構いませんが? 姪の手料理を頂くのが夢なんですよ」
「嫌だ買うのー!」
「そこまで嫌がらなくても良いじゃないですか……?」
「だってー、惣菜やアンリさんが作ってくれる物の方が絶対美味しいし。それにあたしには手料理なんて早いし有り得ない」
うーん、と残念そうにしてる叔父を前に必要以上に拗ねきって言う。叔父に言った気持ちも本当だが、まだ学生なのだから怠けていたい気持ちもあった。何か言いたそうな叔父の気持ちも分かるが、掘り下げて欲しくない部分だ。
チラリと見た叔父の手の甲が腫れている。荷物を取り返してくれた時の傷を見て、ふと思い出した。
「あああー!!」
暗くなった川沿いの道で足を止め、大声を上げる。叔父が、ぎょっとして目を見張るのが分かった。
「どうかされました?」
怪訝そうにこちらを見る叔父の言葉に反応せず、慌てて腕に掛けていたスクールバッグを漁る。教科書、ノート、筆箱、弁当箱、水筒……そこまで確認した所で冷静になった。あれを鞄にしまった覚えはない。
「落とした。ハンカチ、落とした。ハンカチ落としたぁ!」
「ハンカチ、って……私の血を拭いたあれですか?」
こくこくと首を縦に振る。腕を引っ張られた時に落としてしまったようだ。突然の叔父の行動にハンカチを気にかける余裕なんて無かった。
「それは……申し訳ありません。私のせいですね。イヴェットさんが家に入ったら取りに行って来ますよ、きっと公園にあるでしょうから」
申し訳なさそうに顔を歪め叔父は言う。その青色の瞳を見ていると、そんなに騒ぐ程の内容でもない気がしてきた。
「いいよ、そこまでしてくれなくて! 無地のやっすいハンカチだし、それに公園まで戻ってもあるかどうか分からないよー」
「ですが……」
首を横に振っても叔父の表情は変わらない。イヴェットは一際明るい声を出し、クリスマスプレゼントをねだる子供のような笑顔を浮かべる。
「その代わり新しいの買って! それと懐中時計も壊れちゃってさ……」
「吹っ掛けすぎじゃありませんか、それ。まあ考えておきますよ、懐中時計も」
「考えなくていいよ! アンリさんに直して貰うー」
「アンリに? それはそれで面白くないですね」
叔父が唯一呼び捨てで呼ぶ友人の名前に、叔父の表情がいじけた物に変わった。子供らしい表情を浮かべていたユスティンは、やがて堪えきれないとばかりに表情を崩す。笑ってくれて良かった。そう思う自分も立派な叔父馬鹿だ。
白い壁のエルキルス教会が見えてきた頃、イヴェットは胸の中でそう思った。
***
機械が好きだ。
アンリ・アランコは子供の頃、鉱石ラジオを授業で作って以降機械の魅力から抜け出せずにいる。あんな簡単にラジオが作れるなんて、自分が魔法使いになったようだった。それからは何かと分解したり、組み立てたり、繋いだりしている。蒸気に包まれた街では至る所に機械が存在し内心テンションが上がる。用もなくあちこちの電気店に行くこともしょっちゅうだ。
けれども工業区にある電気店で、お得意様にしか売らないというプラスティック製品を購入したのは一昨日が初めてだった。半導体と呼ばれていた物等も総合プラスティック製品と呼ばれる今、これらは早々買える物ではなく「これはチャンス」と通帳に謝ってすぐに購入した。
値は張ったが目的が目的なのでそこは惜しまなかった。黒色の小さな物体は、木とも石ともゴムともスチームとも違う馴染みの薄い触感だ。
問題はこれをいつイヴェットの持ち物に仕込むかだ。常に持ち歩く物でなければ意味はないので、なかなか難しい。気付かれたくはないし、財布が一番だろうか。
「ふ……ぁ~……ねむ」
ベッドの上で考えていたら欠伸が出た。今日は休みだ、と調子に乗って朝まで起きていたので寝不足に違いない。もうすぐ起きないといけないが、今は喉が渇いて起きただけなのでまだ余裕がある。
今日は中央公園の炊き出しのボランティアに行くつもりだ。十五分後に起きれば余裕を持って出掛けられるので、一瞬だけ寝ようかと思う。先日自分で作ったお気に入りのラジオでもよく、昼寝は十分くらいが一番だと言っている。自分もそれに倣おう。
悩むのは起きてからでも遅くはない筈だ。
***
「もう夜だなあ……」
着替えてからポピーを出たノア・クリストフは、携帯用ラジオから聞こえる流行歌を聞きながらエルキルスに唯一流れているコーマス川沿いを歩いていた。エルキルス教会はこの道を真っ直ぐ歩いていけば辿り着く。
最近エルキルスは夕方を過ぎると出歩いている女性が少なくなっている。特にこの辺りは、治安が悪い工業区と川を挟んで隣だ。去年の今頃は仕事帰りの女性や、部活帰りの学生が街に溢れていたと言うのに。
その代わり女性が乗っていると思われる馬車の往来が増えた。景観や騒音上の理由で馬車の個人所有は禁じられているので、馬車会社は今大忙しだ。
嫌な事件だ。おかげで「夜が寂しい」とヴァージニアが嘆いていた。
正直時代が時代なら秒で解決している事件だ。前近代では監視カメラが街のあちこちにあって至る所を録画していたと聞くが、今はそう量産できる物では無いので隙間は生まれやすい。
加えて今回の連れ去り事件は手慣れているようで、女性の口を塞ぎながら連れ去るという。馬車での連れ去りなので警察犬もいまいち振るわず、警察もこの事件には頭を悩ませているようだった。
こういう時、自分は男で良かったと思ってしまう気持ちがどこかにあった。
「はあ……」
後ろめたさもあって、思わず口から深い溜め息が出てしまった。反面、前はこんなこと考えなかったのに、と思う。さっきの事がよっぽど堪えたようだ。
気を取り直すように、ポケットに突っ込んだ白いハンカチを、ぽんっと軽く叩き前を向いた。
***
服屋、その隣の雑貨屋、飲食店、民家、通りを歩いていた製紙工場勤めの男性。
その人達にポスターを見せ、リチェ・ヴィーティは被害者の共通点を探すべく歩いたが、思った通り「知らない」と首を横に振られるだけだった。
「イヴェットさんが作ってくれても私は構いませんが? 姪の手料理を頂くのが夢なんですよ」
「嫌だ買うのー!」
「そこまで嫌がらなくても良いじゃないですか……?」
「だってー、惣菜やアンリさんが作ってくれる物の方が絶対美味しいし。それにあたしには手料理なんて早いし有り得ない」
うーん、と残念そうにしてる叔父を前に必要以上に拗ねきって言う。叔父に言った気持ちも本当だが、まだ学生なのだから怠けていたい気持ちもあった。何か言いたそうな叔父の気持ちも分かるが、掘り下げて欲しくない部分だ。
チラリと見た叔父の手の甲が腫れている。荷物を取り返してくれた時の傷を見て、ふと思い出した。
「あああー!!」
暗くなった川沿いの道で足を止め、大声を上げる。叔父が、ぎょっとして目を見張るのが分かった。
「どうかされました?」
怪訝そうにこちらを見る叔父の言葉に反応せず、慌てて腕に掛けていたスクールバッグを漁る。教科書、ノート、筆箱、弁当箱、水筒……そこまで確認した所で冷静になった。あれを鞄にしまった覚えはない。
「落とした。ハンカチ、落とした。ハンカチ落としたぁ!」
「ハンカチ、って……私の血を拭いたあれですか?」
こくこくと首を縦に振る。腕を引っ張られた時に落としてしまったようだ。突然の叔父の行動にハンカチを気にかける余裕なんて無かった。
「それは……申し訳ありません。私のせいですね。イヴェットさんが家に入ったら取りに行って来ますよ、きっと公園にあるでしょうから」
申し訳なさそうに顔を歪め叔父は言う。その青色の瞳を見ていると、そんなに騒ぐ程の内容でもない気がしてきた。
「いいよ、そこまでしてくれなくて! 無地のやっすいハンカチだし、それに公園まで戻ってもあるかどうか分からないよー」
「ですが……」
首を横に振っても叔父の表情は変わらない。イヴェットは一際明るい声を出し、クリスマスプレゼントをねだる子供のような笑顔を浮かべる。
「その代わり新しいの買って! それと懐中時計も壊れちゃってさ……」
「吹っ掛けすぎじゃありませんか、それ。まあ考えておきますよ、懐中時計も」
「考えなくていいよ! アンリさんに直して貰うー」
「アンリに? それはそれで面白くないですね」
叔父が唯一呼び捨てで呼ぶ友人の名前に、叔父の表情がいじけた物に変わった。子供らしい表情を浮かべていたユスティンは、やがて堪えきれないとばかりに表情を崩す。笑ってくれて良かった。そう思う自分も立派な叔父馬鹿だ。
白い壁のエルキルス教会が見えてきた頃、イヴェットは胸の中でそう思った。
***
機械が好きだ。
アンリ・アランコは子供の頃、鉱石ラジオを授業で作って以降機械の魅力から抜け出せずにいる。あんな簡単にラジオが作れるなんて、自分が魔法使いになったようだった。それからは何かと分解したり、組み立てたり、繋いだりしている。蒸気に包まれた街では至る所に機械が存在し内心テンションが上がる。用もなくあちこちの電気店に行くこともしょっちゅうだ。
けれども工業区にある電気店で、お得意様にしか売らないというプラスティック製品を購入したのは一昨日が初めてだった。半導体と呼ばれていた物等も総合プラスティック製品と呼ばれる今、これらは早々買える物ではなく「これはチャンス」と通帳に謝ってすぐに購入した。
値は張ったが目的が目的なのでそこは惜しまなかった。黒色の小さな物体は、木とも石ともゴムともスチームとも違う馴染みの薄い触感だ。
問題はこれをいつイヴェットの持ち物に仕込むかだ。常に持ち歩く物でなければ意味はないので、なかなか難しい。気付かれたくはないし、財布が一番だろうか。
「ふ……ぁ~……ねむ」
ベッドの上で考えていたら欠伸が出た。今日は休みだ、と調子に乗って朝まで起きていたので寝不足に違いない。もうすぐ起きないといけないが、今は喉が渇いて起きただけなのでまだ余裕がある。
今日は中央公園の炊き出しのボランティアに行くつもりだ。十五分後に起きれば余裕を持って出掛けられるので、一瞬だけ寝ようかと思う。先日自分で作ったお気に入りのラジオでもよく、昼寝は十分くらいが一番だと言っている。自分もそれに倣おう。
悩むのは起きてからでも遅くはない筈だ。
***
「もう夜だなあ……」
着替えてからポピーを出たノア・クリストフは、携帯用ラジオから聞こえる流行歌を聞きながらエルキルスに唯一流れているコーマス川沿いを歩いていた。エルキルス教会はこの道を真っ直ぐ歩いていけば辿り着く。
最近エルキルスは夕方を過ぎると出歩いている女性が少なくなっている。特にこの辺りは、治安が悪い工業区と川を挟んで隣だ。去年の今頃は仕事帰りの女性や、部活帰りの学生が街に溢れていたと言うのに。
その代わり女性が乗っていると思われる馬車の往来が増えた。景観や騒音上の理由で馬車の個人所有は禁じられているので、馬車会社は今大忙しだ。
嫌な事件だ。おかげで「夜が寂しい」とヴァージニアが嘆いていた。
正直時代が時代なら秒で解決している事件だ。前近代では監視カメラが街のあちこちにあって至る所を録画していたと聞くが、今はそう量産できる物では無いので隙間は生まれやすい。
加えて今回の連れ去り事件は手慣れているようで、女性の口を塞ぎながら連れ去るという。馬車での連れ去りなので警察犬もいまいち振るわず、警察もこの事件には頭を悩ませているようだった。
こういう時、自分は男で良かったと思ってしまう気持ちがどこかにあった。
「はあ……」
後ろめたさもあって、思わず口から深い溜め息が出てしまった。反面、前はこんなこと考えなかったのに、と思う。さっきの事がよっぽど堪えたようだ。
気を取り直すように、ポケットに突っ込んだ白いハンカチを、ぽんっと軽く叩き前を向いた。
***
服屋、その隣の雑貨屋、飲食店、民家、通りを歩いていた製紙工場勤めの男性。
その人達にポスターを見せ、リチェ・ヴィーティは被害者の共通点を探すべく歩いたが、思った通り「知らない」と首を横に振られるだけだった。
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