ダーナの館

上津英

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見つかった犯人(後)

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「!?」

 慌てて腕を伸ばし、必死の思いで廊下の縁に捕まった。ぶらぶらと体が揺れる中、なんとか掴めた床に精一杯力を入れてしがみつく。
 じたばたと足を動かしていたら、爪先が何かに引っ掛かった。藁にもすがる気持ちで小指を寝かせられる程の広さしかないその出っ張りに足をかける。

「っは……!」

 足をかける場所が見つかったら腕から先の筋肉の負担が軽くなり、この部屋に入って初めて息をつけることができた。
 頭上を見上げると帽子掛けのような棒が一本横に伸びており、慎重にそこを掴み直してそっと周囲を見渡した。
 視線を落とした先にはあの巨大な植物が自分が落ちてくるのを待っていた。どうやらここは部屋ではなく、食堂と吹き抜けになっているようだった。
 赤の粘膜を持ったこの毒々しい植物から目を離せずにいるとある一点に目が吸い寄せられた。葉の隙間に人が見えたのだ。

 人といっても下半身は溶けきって骨しか残っていなかった。
 苦痛に顔を歪めたその躯は、皺の数や髪色から老婆であるように見える。あの不幸な老婆はダーナの毒牙にかかったのだろうが、落ちた位置が悪かったのか中途半端に食べられてしまったようだ。
 酸っぱい物が込み上げてくるのを堪えるように眉を潜めていると、ダーナの声が響いた。

「どうして皆さん私に追われると二階に逃げるのでしょうか。ですから私、二階をこういう造りにしましたのよ。なかなか画期的でしょう?」

 ダーナの声は下から聞こえてくる。安全な場所から自分を観察しているのだと思うと、ギシッと歯を軋ませていた。
 ナタリアはきつく目を瞑り、なんとかできないかと自分が食中植物についてなにを知っているか、本に書いてあったことを思い出していった。
 葉で捕食するタイプの食中植物は、虫などが葉に触れた際、反射的に葉を閉じる動作を行う。その動作にはかなりのエネルギーを消費するため、何度も空振りをすると枯れてしまうのだ。
 この食中植物はとても巨大で、老婆の栄養を半端にしか補給できていない。何回も捕食動作を繰り返せば確実に消耗し枯れるだろう。自分が生き延びるにはこの動作を利用するしかないようだ。しかしどうすれば今の自分がこの動作を利用できるかが分からなかった。

「では、ここでナタリアの最期を見届けることにしますわ。私、足掻く人を見るのも好きですが、養分がいっぱいになったこの子が咲かせた花をスケッチしているんですの」

 午後のお茶会でも開くかのようにどことなく優雅に言われ腹が立った。この足場と棒はダーナからの嬉しくないプレゼントなのかもしれない。

「馬鹿言わないで……!」

 睨み付けて怒りをぶつけようと思い、ナタリアは落ちないように手に力を入れる。顔を一階に落とし食中植物の隣に立つダーナを睨んだ際、パサリと髪が顔にかかった。
 毛先が頬を撫でてこそばゆい。しかし髪を後ろに払いのけたくても、この状況では難しい。
 意識が髪に向きハッとした。自分は髪を上げているじゃないか。髪を上げるには物が必要だ。

 あの植物に食べさせる物がある。
 洞窟の中で光を見付けた気持ちになった。ナタリアは己の髪に手を伸ばす。
 母から貰った髪飾りを外す。花飾りのついた髪飾りには無視できない重みがあり、ナタリアは髪飾りを掴んでいた手を開いて地面に落とした。髪飾りは林檎が木から落ちるようにしっかりと食虫植物に落ちていく。
 異物を感じた食虫植物は狙い通り獲物を捕らえたと勘違いしたようだった。二階にぶら下がっている自分にまで風が届くほど勢いよく巨大な葉を閉じ髪飾りを飲み込む。植物とは思えないその動きにひっと喉が締まる。
 だけど手応えを感じたのも確かだ。この調子で行けばこの食中植物を枯らせることができるかもしれない。

「まあまあ……、なにをやっているのです?」

 くすくすとこちらを嘲笑ってくるダーナに構わずナタリアは次の手を考えた。
 髪飾りはもうない。他に捨てられそうなのは靴ぐらいだ。
 いくら掴まるところと僅かな足場があるとは言え、空中で靴を脱ぐのは難しい。覚悟を決めるように息を吸い、疲労を訴え始めた腕に力を入れて棒を掴んだ。
 浮かせた片足をもう片足に擦り付け引っ掛けるように脱ごうとしていると、ナタリアが足掻いていると勘違いしたのかダーナの笑い声が一際大きくなった。

「あらあら、疲れてきましたか? もうそろそろお休みになられたらいかがです?」

 愉悦に染まった声がこちらまで響いてくる。
 面白がりやがって……! と内心毒づきながらナタリアは片足を足場に乗せ、脱ぎかけの靴が引っ掛かった足を何度もばたつかせた。数秒も立たずに皮でできた簡素な靴が足から外れ、こちらの苦労も知らん顔で食中植物にすとんと落下していった。少しして風がこちらまで届く。

「……ちょっと、靴が脱げてますよ?」

 それまではこちらが嫌になるくらい穏やかな口調だったダーナの声が、不満げに低くなった。
 こうも立て続けに空振りさせると枯れる、というのはダーナも知っているのだろう。つまり自分がやっていることは正解だったのだ、と胸を撫で下ろす。
 続けてもう片足の靴も脱ぎ捨てる。慣れたのか今度はあっさりと脱ぎ捨てられた。再び足場に足を置き、他に食わせられそうなものを探すと、ダーナの叫び声が響いた。

「止めなさいよ!?」

 あの細い体でどうしてそんな大きい声が出せるのかと肩が跳ねる。
 そろりとダーナを見下ろすと、持っていたパレットをこちらに投げつけようとしているのが見えた。ダーナにはもう、自分の最期を笑って見届ける気はないようだ。むしろ衝撃を与えて自分を落とそうとしている。

「……っ、ああもう!」

 パレットを二階まで投げるのは難しいはずだ。むしろ食中植物に食わせかねないと思ったのか、ダーナから苛立ちの声が上がる。
 床に投げ捨てられたパレットがパァンと割れる音が響き、ダーナは髪を振り乱しながら部屋を飛び出していく。二階まで上がってくるつもりなのだろう。
 直接落としに来られたら今の自分では耐えられない。こめかみを一筋の汗が伝っていくのが分かり、ナタリアはスカートのポケットに手を突っ込み落とせそうな物を探した。けれど指先にはなにも触れない。

 食虫植物をよく見ると葉先が萎びれてきている。後一回でも空振りさせたら動かなくなるだろう。どうしてなにも持っていないんだと自分を詰り飛ばす。
 落とせそうな物を探すが、目ぼしい物はない。服を脱ぐには体力と時間が必要だが、やるしかない。足裏が裂けそうなほど痛くなってきたことに耐えながら服に手をかける。
 と、ダーナが二階まで上がってきたのが足音で分かり顔を上げる。

「落ちなさいよ! 落としてあげるから!」

 追いつめられた魔女のように表情が険しいダーナは、通りで会った時とは別人だった。目を血走らせている様は魔女ではなく狂人のようにも見え、ナタリアは思わず目を反らしてしまった。
 気迫で負けてしまったからか、ダーナが鼻で笑ってくる声が耳に入った。身を屈め腕を伸ばし、棒から手を外そうと指に触れてくる。

「止めてっ!」

 声を上げて拒否をしたが、聞き入れて貰えなかった。石を持ち上げるように指を外され、ついには片腕だけでぶら下がることになってしまった。すぐにもう片手に指を伸ばされる。
 一瞬の躊躇はあった。でも死にたくなかった。

「きゃっ!」

 気が付けばナタリアはダーナの腕を掴み引っ張っていた。
 よくこんな力が残っていたなと感心してしまったが、自分の手を外そうと必死だったダーナは、元の重心がずれていたこともあり引っ張られるままに前のめりで空中に飛び出していく。
 手を離し自分の体勢を整え終わった時、頭から落ちていく女性と目が合った。
 まさか自分がこうなるとは思っていなかったという驚きと、感情に身を任せて行動してしまったことへの後悔を、いっしょくたにしたような目だった。

「きゃあああああ!?」

 断末魔が館に響き渡りすぐに落下音が続いた。数秒後にはナタリアのスカートが風ではためくこととなった。
 耳にまで届きそうなくらい心臓の鼓動はうるさいし、そのまま口から飛び出していきそうなほど気持ちが高ぶっていたが、それらを飲み込んで視線を落とす。
 食中植物の葉は満足そうに閉じられており、葉の中央は養分となるご馳走を覆ってぷくりと盛り上がっていた。

 ダーナが自分に優しく声をかけてきた時の顔が脳裏を過るのと同時に、食中植物は一度捕らえた養分を消化するまで一週間は葉が開かないことを思い出す。中に先客が入った以上、今自分が落ちたとしてもこの食中植物はなんの反応も示さないはずだ。
 そう思ったら、見ないふりを続けていた身体の疲労が急に存在を主張してきた。とにかく横になりたかった。
 疲労と安堵。気付けばナタリアは棒から手を離していた。

「ぁ」

 過失に気が付いた時のように何気ない声が滑り出る。
 落ちていく時というのは不安だ。あっという間に流れていく景色から逃れようとナタリアはぎゅうっと目を瞑っていた。

「っ!」

 続いて襲ってきた落下の衝撃は思っていたよりも柔らかかった。ベッドの上に倒れ込んだ時に似た衝撃が過ぎた後、ナタリアは恐々と目を開ける。
 一番最初に視界に飛び込んできたのは緑だった。牙のように長い葉もいくつか見える。

「ひっ」

 喉の奥から引き攣った声が漏れた。あのおぞましい植物の上に落ちたのだと思い、とにかく離れようと寝返りを打つ。
 それがまずかった。食虫植物からどいたのはいいが、おかげでおもいっきり背中を床に打ち付けてしまったからだ。

「かっ……!」

 息が詰まるような痛みに、自分の物とは思えない動物めいた声が上がる。背中を強く打ってしまい、しばらくは空気を求めて魚のように口をぱくつかせる。
 痛みが引いて来て、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開ける。視界には石でできた天井と床のない部屋の入り口が映り、自分は助かったのだな、という実感が湧き上がってきた。
 一息ついた頃、ガチャリと食堂の扉が開く音がした。まだ誰かいるのかと、体が一気に強張った。もうこれ以上は無理だ。ナイフを掲げられても逃げられない。

「うわっ! ……って、え??」

 が、戸惑っている男性の声が聞こえ、ナタリアも戸惑ってしまった。

「あ、大丈夫ですか!?」

 ナタリアが倒れているところまで駆け寄ってきた男性を視界に映し、あっと思った。この館に入る前に署名を集めて回っていたあの青年だったからだ。
 人だ。
 なぜここにいるかは分からないが、見たことのある人物を前に涙が頬を流れていく。

「憲兵……呼んで、きて。この植物に、人が入って…から……」

 それだけを言うと、糸が切れたように意識が途絶えた。


 次に意識を取り戻したのは診療所の寝台の上でだった。緊張と疲労で一日寝込けていたようだ。
 あの青年は集まらない署名を前に、一軒一軒お願いに行こうと決めたらしく、館の玄関までやってきたらちょうどダーナの断末魔を聞き、手入れの届いていない館の雰囲気もあり心配になって鍵を壊して入ってきた者だという。
 集まった憲兵達は巨大な植物に恐怖を覚えながらも、肌が少し溶けたダーナを引きずり出した。老婆の死体と観念したダーナの自供もあり、ダーナを長く街を騒がせていた誘拐事件の犯人として牢屋にぶちこんだ。

 ナタリアは憲兵からそう聞かされ、いくつか事情聴取を受けた。自分のこと、ダーナとどこで会ったか、館に入ってからどういう行動を取ったか、などだ。
 ダーナを落としたことが何かの罪に当たるのではないかとびくついていたが、殺人鬼に騙され殺されかけたのだからそんなことはないと否定された。むしろ長年追ってきた犯人をよく捕らえてくれたと感謝された。自分のためにしたことで誰かに感謝されるのはこそばゆい。
 その憲兵はこうも告げてきた。

「貼り紙、見ましたか? 誘拐事件に関する有力な情報提供者には賞金を、ってやつです」

 と。
 どうやらあの賞金は全部自分が受け取れるらしい。
 とんだ不幸中の幸いだ。これで治療費が捻出できる。母も助かるだろう。デアドラに移ることもでき、もう肩身が狭い思いをしなくてすむ。
 夜になり、ナタリアは安堵の涙を拭いながら、痛む腕を堪えて便箋に万年筆を滑らせた。


『お母さんへ。
 毎日手紙書く! って言っておいて早速出せなくてごめんね! ちょっとバタバタしてて……。
 それで私、出稼ぎを止めて村に戻ろうと思います。……仕事が見つからなかったとかじゃないよ? 帰ったら詳しく話すけど、色々あって城からお金を頂くことになりました。お母さんの診療費を賄える上に、デアドラに家を買えるくらいのお金です。だからお母さん、病気を治すことだけを考えて。それで病気が治ったら、一緒にデアドラに住もうね。
 じゃあお大事に。有り難う、またね!
 ナタリアより』
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