スマイリング・プリンス

上津英

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第2章 少年と茄子の挟み揚げ

第9話 「……あ、そうだ藤沢さんに話があったんよ」

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 テーブルの向かいで、味噌汁の入った透明な円筒の容器の側で白色のハンドブレンダーの準備をしていたパート女性が小声で呟く。

「そうたいね~、後で伝えんと」

 その言葉に目を細めて頷くとすぐに円筒の容器の中に入ったハンドブレンダーの電源が入り、ブルルル! というドリルに似た大きな音が室内に響いた。
 撹拌《かくはん》された大根の味噌汁が、素の色からあっという間に薄いベージュ色に変わっていく。この作業を目の当たりにする度自然の色素の存在感に感動する。
 ペースト食や刻み食の準備が終わると、交代での職員の食事に入る。今日は歩が一番最初に車椅子部屋から抜ける事になっていたので、断りを入れてから部屋を後にするべく片付けを始める。
 ちらっと尚也を見ると、黒いTシャツの少年は三角食べをしている最中だった。おおぞらの利用者は食べるのが早い人が多く、自立部屋の人なんかだとものの数分で皿の上が綺麗になっていたりするが、尚也はそんな事ないようだ。

「じゃ、一旦抜けますばいー」

 声をかけて廊下に出る。裏口に近い廊下に出ると、蝉の鳴き声と共に一気に夏のむわっとした空気が主張してくる。
 それに加えて今回は飛行機の賑やかな音も耳に入ってきて、歩は目を伏せる。その音を聞きながら、歩は尚也の午前の過ごし方についてある案を考えていた。



 事務所の奥にある六畳の和室は、二十年前に事業所が開かれ蔵造りの建物を改築した時から、職員の荷物置き場兼休憩室として使うと決めていた場所らしい。
 窓の外には駐車場と大井の長閑な風景が広がっていた。晴天を見ながら歩は誰も居ない和室で伸びをする。

「あー暑か~」

 事務所続きなので若干冷房を感じるが、ここに冷房はない。部屋の隅にある白い扇風機の電源を入れ、オレンジ色のスマートフォンを取り出しながら横長の座卓に向かった。
 座卓の隅に準備されてある職員用の昼食の皿を引き寄せ、SNSをチェックしながら味噌汁を啜る。
 と、誰か入って来た音がした。

「お疲れ様ですたいー」

 誰が入って来たかも確認せずに挨拶をする。

「佐古川君、なんしとーと行儀悪かね」

 氷のように冷たい声は、おおぞらの所長の物だった。SNSのタイムラインを表示している液晶画面から顔を上げ、ショートボブの女性の姿を認める。

「あ、藤沢さん。ごめんなさい……藤沢さんはやらんです? スマホ見ながらご飯食べんの」

 椀の中を飲み干し、バツが悪いとはにかみながら問い掛ける。
 自分の言葉に小百合は「んふふふ」と笑った後、「偶にやるたい」と声を潜めて言い、同じくはにかんでから座卓に座った。本当に偶に変な一面を見せる人だ。

「鴻野君はどげんだったと?」
「先週よりも良かですよ、嬉しかねぇ。俺にはぽつぽつと喋ってくれるようになりましたし……ああでも、奥津さんがワゴンば押して車椅子部屋入った時は、さすがに緊張しとった感じやったけど」
「それは……仕方無かかもね、鴻野君やなくたって知らん顔は緊張するし、私達は車椅子部屋にいきなりのワゴンは慣れとーけど、鴻野君は慣れとらんし……」

 同じく水色のスマートフォンを取り出して軽く通知を確認した小百合は、すぐにスマートフォンをブルージーンズに戻して食事の支度を始める。
 自分もスマートフォンをしまい、ごま油香るチンゲン菜の明太子和えを頬張った。

「……あ、そうだ藤沢さんに話があったんよ」

 幸せそうに茄子の挟み揚げを頬張っていた小百合が、僅かに真剣味を帯びた自分の声に「ん?」と首を傾げる。

「鴻野君午前の運動する時間、手持ち無沙汰にしとー感じなんですよ。俺、どうにかしとーて」

 自分が話している間、小百合は「うん」と頷くだけで口を挟まずにいてくれた。おかげで窓の外から聞こえる蝉の鳴き声が一際大きく聞こえる。

「それで俺、鴻野君が通っとーリハビリ病院さい一緒に行って、どげんリハビリしてんのか見たいんもあるばってん、おおぞらでもやれそうな運動メニューば考えて貰おう思っとんの。藤沢さん、どげん思うと?」
「良いんやないと? 通院の付添いはうちら良くやるもんね、リハビリもやるのは名案たい。やけん……鴻野君が頷いてくれるかいね?」
「そん時はそん時で、お母さんに代わりに話ば通して貰えたら思っとるんやけど…………午前の運動メニュー考えて貰うだけでも収穫やし」
「そっか。じゃあ夕方お母さんに電話してみるたい。駄目やってなったら、そん時は諦めんしゃいよ」
「はーい。話聞いてくれて有り難う御座います!」

 その後は今日は自立部屋で働いていた年下女性も和室に昼食を食べに来たので、小百合と込み入った話をする事もなく、味処奥津の料理に舌鼓を打ちながら暫しの休憩を楽しみ車椅子部屋に戻った。



 鍵っ子だった自分は人と触れ合う仕事がしたくて、笑顔溢れるおおぞらで働く事にしたのだ。やりたいと思った仕事をやれているおかげか、大体何時も仕事中はあっという間だ。
 昼食後は利用者に一時間ほど休憩を取って貰うが、その間職員は水場で軽い洗い物をしたりエプロンを洗濯にかける。排泄介助や移乗介助に呼ばれる事も多いし、利用者の家族や法人の重役など客が訪れた時はその対応をする時もある。

 利用者の休憩時間が終わると、散歩や日用品の買い出しに行くグループ、DVDを見ながらゆっくりするグループ、事務所の簡単な手伝いや空き缶潰しをするグループ、山崎家の畑を手伝いに行くグループ――何時も食材を注文している商店街の青果店が山崎家の野菜も扱っていたという縁で始めた――などなどに別れるので、職員もどこのグループに入るかでその日やる事が変わる。
 汗だくになる日もあればスーパーやコンビニでみんなのアイスを買って帰る日もあって、ハードだがなかなか楽しい。先日は近所の喫茶店でみんなとコーヒーを飲んできた。

 今日歩は散歩に行くグループの付き添いだった。尚也はDVDを見る体で俯いていた。
 十五時を過ぎると家やグループホームに帰るべく、一人で帰れる人以外は迎えが来たり、計四台の送迎車に乗り込む準備が始まる。おおぞらはこの時間が一番忙しい。

「っと……」

 利用者の車椅子を押して外に出ようとした時、小百合と尚也に似ている女性が談笑しているのが見えた。きっとあのミディアムヘアの女性が尚也の母親だろう。
 尚也は送迎車を利用していない。送迎車の利用は無償なのだが、母親もまだ新参者だからかおおぞらに顔を出したいようだし、尚也が嫌がっているらしい。
 付き添いの話をしてくれているのかな、と一瞬思ったが、こんな忙しい時間に話をするわけないか、と思い直して裏口から外に出る。利用者の送迎が終わるとおおぞらに戻り簡易報告を済ませ、職員は帰宅の運びとなった。

「今日もお疲れさーん……」

 呟き歩もおおぞらから一歩足を踏み出すと、夕焼け空が頭上に広がっていた。十七時を過ぎてもこう空が明るいのは嬉しい。
 隣の民家からカレーの匂いが漂ってきて胸が踊り、自分も今日はカレーにしようと決意する。最近良くカレーを食べている気がするが、あれはいつ食べても心ときめく素晴らしい料理なので一つも問題は無い。
 小百合から「鴻野君今疲れて仮眠しとーげな、明日お母さんが付き添い可否の連絡をくれるって」と連絡を貰ったのは、暗い家の玄関を開けた時だった。
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