密告者

makotochan

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終章

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 労働基準監督署による指導が入った日から一カ月が経過した日の夜、社員たちが帰った後の社内で会話をする健一と浩二の姿があった。
 その日労働基準監督署への報告を済ませた浩二が、そのことを健一に報告した。
 「ご苦労さま」報告を終えた浩二に向かって、健一が声をかけた。
 「いろいろとありましたけど、最終的に良い結果になりましたよ」浩二は、密告事件がきっかけで社内の風通しが良くなったことを口にした。
 「オレもそう思うよ」健一も満足げに頷く。
 「こうなったのもキミのおかげだよ。あらためて感謝する」机の上に手を突き軽く頭を下げた健一に向かって、「礼を言うなら社員たちに言ってあげてください。彼らが、自分たちで話しあって今のような状況を作り出したんですから」と、浩二が社員の功績であることを強調した。
 「もちろん、彼らにも感謝しているよ」健一も同意する。
 二人の間で、社員の成長を喜びあう会話が交わされた。

 会話が一区切りついた。浩二は「そろそろ出ましょうか?」と声をかけた。
 「ちょっと待ってくれ」席を立とうとした浩二を、健一が呼び止めた。
 「なんですか?」
 「キミに話さなければならないことがあるんだ」健一が、神妙な目をした。
 席に座りなおした浩二は、視線を健一に向けた。
 「密告の件なんだけどな」
 「はい」
 「実は……、あれをやったのはオレなんだ」
 「はっ? どういうことですか?」浩二は聞き返した。健一の言う『あれをやった』の意味が理解できずにいた。
 「だから、密告者はオレなんだよ」
 「はっ?」浩二が再び聞き返す。今度は、言っていることの意味はわかったのだが、なぜ健一自身がそのようなことをしたのかを理解することができなかった。
 混乱する浩二の姿を尻目に、健一が密告したときのことを説明した。氏名を微妙に隠した出退勤記録と給料明細のコピーを取り、告発文とともに労働基準監督署に送ったということだ。
 「でも……、なんでなんですか?」頭の中を整理できずにいる浩二が声を絞り出す。
 「前々から、デザイナーたちの間に結束がないことを危惧していたんだよ。それだけじゃない。彼らが毎日夜遅くまで頑張ってくれているのは嬉しかったのだが、ほんとうにこれでいいのかという思いもあったんだ。一日は、誰にも二十四時間しかない。彼らも好きでこの仕事をやっているのだろうが、仕事以外にもやるべきことはたくさんあるはずだ」
 「……」
 「こんな状態が続いていたら、成長できる奴も成長できなくなるだろう? かといって、オレから言って聞かせても、彼らが自発的に仕事を早く切り上げて自分たちの時間を作るようになるとは思えなかったからな。そもそも、一人で案件を抱えたまま仕事を進めていたのでは、定時内に仕事を終えることなんてできっこない」
 「……」
 「この状態を変えようと思ったら、誰かが先頭に立って彼らのことを引っ張りながら、彼ら自身に変わる必要性に気づかせ、自らを変えていくための知恵を絞らせなければならない。しかし、オレは激情家タイプな人間だ。オレが先頭に立ったら、彼らに対して厳しく当たると思うし、彼らも社長であるオレに対して、遠慮してなかなか腹も割らないだろうと考えた。それで、賭けに出ることにしたんだよ。あえて混乱を引き起こし、冷静なタイプのキミに間に入ってもらうことで、彼らに大事なことを気づかせようと考えたんだ」
 「……」
 「こんな形でキミのことを利用して済まなかったと思っている。ただ、キミでなければできない仕事だとも思っていた……」
 健一の言葉を聞きながら、浩二は不思議な感覚に包まれていた。健一のことを恨む気持ちは毛頭ない。むしろ、彼がこのような決断を下す前に自分のほうから率先してこのような役割を果たすべきであった。そこのところはお相子だったが、健一の決断により、自分も社員たちも貴重なものを得ることができた。
 自分も社員たちも、相互に助けあう精神を持つことで集団の中でみんなが幸せになれることを身をもって知ることができた。加えて社員たちは、なにも考えずに過ごしていると時間だけが失われていくことに気づくことができた。まさに、社員の成長や働きやすい職場づくりの推進そのものだ。
 自分は、悩み抜いた末にようやくその使命に気づいたが、今回の健一による仕掛けの中で、自然とその使命が果たされていた。
 浩二は、社員たちと催した食事会の席で、密告事件から端を発した一連の出来事が、誰かの演出のもとで起こされているのではないかと感じたときのことを思い返した。短期間の間に社員たちの意識が変わり自分自身の行動も変わったことについて、予め敷かれたレールの上を走りながら一直線に変化していったように感じていたのだが、よもやほんとうに演出者がおり、しかも演出した張本人が健一であるとは思いもよらなかった。
 健一のことは兄として経営者として尊敬していたが、あらためて器が大きい人間であることを感じた。その思いとともに、健一に対する感謝の気持ちが湧き上がってきた。
 「ほんとうに騙してすまなかった」健一が、再び頭を下げてきた。
 「別に怒っていませんから、謝らなくてもいいですよ」
 「そうか……」健一が、ほっとしたような表情を浮かべる。
 「今夜は、飲みに行きたい気分ですね」浩二は、健一を飲みに誘った。
 「そうだな。どこへ行きたい? キミの行きたいところに付きあうよ」
 「そうですね。静かに話せるところがいいですね。実は新宿に、お兄さんにも言ったことのないバーがあるんですけど、行きませんか? 今日は、ボクが奢りますから」浩二の心の中に、一人で考え事をするときに利用している秘密のバーに健一を連れて行きたいという衝動が生まれていた。
 「キミが奢るって、どういう意味? 奢らなければならないのはオレのほうだと思うのだけど」奢られることの意味がわからない健一が、怪訝な表情で聞き返す。
 「まぁ、いいじゃないですか。ともかく、行くなら早く行きましょうよ。帰りが遅くなっちゃいますよ」浩二は、急かすように席を立った。健一が、慌てて帰り支度を始める。
 浩二は、面と向かって言うのは照れくさかったが、先ほど抱いた健一に対する感謝の思いをいつかは口にしたいと思っていた。その言葉を口にすることで、自分自身がまた一つ成長するのではないかという確信を抱いていた。
 「今日、口にしちゃうかもしれないな」バーのカウンターで正面の洋酒棚に視線を向けながら、隣でグラスを傾ける健一に向かって感謝の言葉を口にしている自分の姿を、浩二は思い描いていた。
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2022.11.19 ユーザー名の登録がありません

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