密告者

makotochan

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第3章 結束

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1.
 会社に戻った浩二は、社員たちの今晩の予定を確認して回った。一刻でも早く社内の結束強化を実現するための仕掛けを行動に移したかったからだ。
 健一は午後から取引先のもとに出かけており、今日は会社には戻ってこない。社長のいないところのほうが、社員たちもしゃべりやすいはずだ。ほんとうは今すぐにでも行動に移したかったのだが、社員たちは忙しそうにしている。
 幸い定時後に特別な予定がある者はおらず、終業時刻後に会議を行うことになった。

 終業時刻後、全社員が会議室に集合した。オフィスには鍵がかけられ、電話は留守番電話に切り替えられた。
 会議室内で社員たちが座る位置にも今の社内の雰囲気が表れていた。鶴見と中山、江川と間島とで互いに離れて席に着いた。井上も、四人とは間隔を開けて席に着く。加藤は、間島の隣に座った。
 その様子を目にした浩二は、全員で固まるようにと口にしかけたが、その言葉を途中で飲み込んだ。社員たちのほうから自発的に結束するように仕向けたかったからであった。今は、このような状態でもいい。この会議を終えたときに、自然にみんなの距離が近くなっていればよいのだ。
 そのように気持ちを切り替えた浩二は、会議を進めるために、社員たちに向かって話しかけた。
 「今日は、突然で申し訳ない。ただ、どうしてもみんなの力を借りないといけないことがあってね。それで集まってもらいました」浩二は、社員たちの顔を見回した。
 社員たちの視線も浩二に向けられていた。五人のデザイナーの顔には、一様に怪訝そうな表情が浮かんでいた。加藤だけは、期待に胸を膨らませているかのような表情を浮かべている。
 「例の労働基準監督署の件なのだけど、サービス残業が発生しない仕組みを作った上で報告しなければならないのですよ」
報告の期限は一カ月後だった。すでに十日が経過している。
 それに対する社員たちからの反応はない。デザイナーたちの顔には、『それをやるのは自分たちの仕事ではない』とでもいいたげな無関心な表情が表れていた。
 浩二は言葉を続けた。
 「ただボクはね、それよりも前に考えるべきことがあるのじゃないかと思っているのですよ。加藤さんは別にして、鶴見くんも中山くんも井上くんも江川くんも間島くんも、みんな毎日のように帰りが遅くなっているでしょう? ボクは、そのことに対して大変申し訳ないという気持ちで一杯なのですよ」浩二は、デザイナーたちの顔をゆっくりと見回した。一人一人と視線を合わせる。デザイナーたちも視線を返してきた。
 「もちろん残業した分のお金は払うべきだとは考えているのだけど、それ以前の話として、みんなが普段からもっと早く帰れるようになるためにはどうすればよいのかを考えていきたいのですよ。鶴見くんのところには小さなお子さんがいるでしょう? 中山くんだって結婚するかもしれないって言っていたしね。井上くんや江川くんや間島くんだって、まだ若いのだから、もっと遊ぶ時間がほしいだろうし。どう見たって、今の状態は良くないと思いますよ」
 「部長はそのようにおっしゃいますけど、でもそれだけ仕事があるのだからどうしようもないですよ」浩二の発言に鶴見が異論を示した。他のデザイナーの顔にも、鶴見の言葉に同調するかのような表情が浮かんでいる。
 「たしかに、仕事が少ないとは言わないよ。しかし、やり方次第では残業時間を今よりもっと減らすことができるんじゃないのかな?」
 「やり方次第って、具体的になにをどうすればいいんですか?」江川が質問をした。
 「それを、みんなで考えてみたいんだよ」浩二が、全員に向かって呼びかける。
 浩二の頭の中には、はっきりとした答えがあった。その通りに事を進めれば、確実に全員の残業時間を減らすことができるはずだ。しかし、このタイミングで答えを口にするつもりはない。口にしてしまえば、ただの押し付けになってしまう。あくまでも社員たちの言葉で言わせてみたい。
 『みんなで考えてみたい』という呼びかけに、社員たちは押し黙った。呼びかけたことに対して関心は示しているのだが、誰もが口にできるほどの意見を持ち合わせていないようだった。
 デザイナーたちの意識を変えさせることが今日の会議の目的である。それも、彼らが自発的に議論する中で変えさせたい。
 浩二は、そのためのさらなる問いかけを行った。
 「みんなさぁ、もし会社が明日から残業することは一切禁じますって言ったらどうする?」
 その問いかけに、その場がざわつく。江川や間島の口から、「そんなのムリだよ……」というような言葉が漏れ出た。
 その様子を目にした鶴見が口を開く。
 「残業を減らすためには、定時までの時間に仕事を済ませようと意識するところから入らなければならないと思うな。残業代を節約しようとしている他所の会社の話を聞くこともあるけど、たいがいその部分から入っているみたいだしね。ボクたちの仕事も、みんながそういうことを意識すれば、ムダな空き時間がなくなることで、生産性が良くなると思うな」
その言葉に中山が頷く。
 それに対して、「普通の会社ならそういうことが言えるかもしれないけど、ボクたちの場合は当てはまらないのではないですか?」と江川が反論した。
 彼の主張は、デザイナーの仕事は自分のペースで作業を進めていくことが重要だということだった。閃きと集中力が必要な仕事なので、気持ちが乗っているときに集中して作業を進め、気持ちの乗らないときは無理して進めない。そうすることが、結果としてお客様に対して品質の高いデザインを提供できるという考えであった。
 その発言に、間島が「ボクも、そう思います」と同調する。周囲のやり取りを黙って聞いていた井上も頷いた。デザインの専門学校を卒業し、卒業後も小島デザイン研究所のデザイン仕事しか経験したことのない三人にとって、仕事という意識よりも芸術性を第一に考える意識のほうが強いことが窺えた。
 「ボクもデザイナーだから江川くんの言うことも理解できるんだけど、でも作業の効率を良くして生産性を高めたほうが、お客さんにとっても自分たちにとってもプラスになると思うんだけどな」中山が、三人に対して発言した。
 「プラスになるって、具体的にどんな部分がですか?」
 「たとえばだけど……」中山が、プラスに働くと思うことを口にした。
 彼の考えは、作業効率が良くなることで納期を短縮することができる、デザイン見直しの際に依頼者に対して緻密な対応をすることができるようになるといった面で発注者にとってのメリットが生じるとともに、今まで以上に案件をこなせることでデザイン制作の経験が豊富になり、プライベートな時間が増えることで勉強のための時間も作れるという面で自分たちにとってのメリットも生じるという内容だった。

2.
 鶴見と中山、江川と間島との間で活発な議論が交わされた。最初のうちは互いをけん制しあうような発言もあったが、時間が経つにつれて、同じ会社で働く人間同士としてどのような働き方をするのがよいのかを議論する発言へと変化した。議論を行うときの視点が、会社や取引先、今後の自分たちにとって望ましいことを考えるという方向へ統一されていく。
 浩二は、微笑を浮かべながらデザイナーたちの議論を見守った。自分が思い描いていた方向にデザイナーたちの意識が変化していたからだ。
 「鶴見さんたちの言う通りかもしれませんね」間島が、敵対していた鶴見たちの発言に同調する言葉を口にした。四人による議論の大勢が、作業の効率を良くして生産性を高めていくことが必要だという見解に向かっていた。
 そんな中、江川が「担当する案件ごとにボリュームや難易度のバラツキがあるのがネックですよね。みんなが定時で作業を終わらせる意識を持ちながら仕事を進めたとしても、ボリュームの多い案件や難易度の高い案件を抱えていた場合は、定時で終わらせたくても終われない可能性が高いと思うし。みんなの残業時間を減らして会社としての生産性を高めていこうという考えは賛成だけど、でも、現実問題、難しいと思うんですよね」と不安要素を口にした。
 実際のところ、案件に取り掛かってみないと完了させるまでにどの程度の時間が必要なのかがわからないことに加えて、納期が短かったりボリュームが多かったり難易度が高かったりする案件を担当した場合は、必然的に残業時間が増えてしまうのではないかということへの指摘である。そのような理由から、残業時間のバラツキが生じてしまう。
 その指摘をに、鶴見や中山も「そうだよな」と顔をうつむけた。そのことへの対抗意見を口にできずにいる。四人の間での盛り上がりが急速にしぼんでいった。
 つかの間の沈黙が会議室内を支配する。
 そんな中、今まで一度も発言してこなかった井上が口を開いた。
 「それぞれ案件を個人の担当という考えでこなしていくのではなくて、みんなが担当という考えでこなしていけばいいんじゃないんですか?」
 「どういう意味?」突然の意見に、何人かが同時に聞き返した。
 「一人のデザイナーが最初から最後までを必ずやり切らなくてもいいわけでしょ。全員で、稼働しているすべての案件を納期までに仕上げればいいわけだし」
 「……」
 「全員で分担して、その日中に必ずやらなければならない作業を進めるって感じにしていけば、残業時間のバラツキも生まれないと思うんだけど」井上の指摘に、他の四人が虚を突かれたような表情を浮かべた。案件を個人で完結するやり方に慣れていた四人にとって、デザイナー同士で協力しあうという発想は浮かんでこなかった。
 「私も、井上さんの意見に賛成です。全員で分担しあえば、みんなもいろんな案件を経験できて勉強になると思うし、みんなの技量が合わさることでデザインの品質も今まで以上に良くなると思うし、絶対にいいと思います」加藤が、井上の意見を後押しした。
 「ボクも、彼の意見に賛成だな」浩二も加勢する。
 浩二は、全員が定時で仕事を終えようという意識を持ち続けながら互いに協力しあって仕事を進めていく雰囲気を社内に根付かせたいという思いを抱いていた。そうなることで、生産性が向上するとともに社内の結束も強くなる。そうなったときの残業代対応の形も、頭の中に描いていた。
 鶴見、中山、江川、間島の四人も、井上の意見に対する反対意見は口にしなかった。デザイナーたちが互いに協力しあうことの具体的なイメージは浮かんでいないものの、協力しあうことによるメリットは理解していた。
 「みんなで協力しあうとして、具体的に、どのように進めていけばいいのかな?」浩二は、井上の考えを聞いた。
 「案件ごとに、このパーツは誰で、このパーツは誰っていうように分けていけばいいんじゃないですか?」
 「パーツの振り分けは誰がやるのかな?」
 「それは……、その都度みんなで決めるとか」
 「でも、それをやるとグチャグチャにならないですかね? 担当している案件が同時並行でたくさん流れていると必ず混乱すると思うし、優先順位とかで揉めそうな気もするし」
 「振り分けをする人も大変だろうな。全員、均等に分けなければならないわけでしょ? モノじゃないんだし、それって難しいだろうね」江川と中山が問題点を口にした。その指摘に、井上が口を閉ざす。
 「いろいろと問題点はありそうだけれども、井上くんのみんなで協力しあうっていう発想は正解だと思うんだよ。生産性を高めることにしても残業を少なくすることにしても、みんなが協力しあわなければ実現しないから。なので、やり方を考えればいいんじゃないのかな?」浩二は、全員に問いかけた。
 もう社員たちの意識は、会社の生産性を高め、その結果全員の残業を少なくすることを考えようという方向に向いている。互いに協力しあいながら日々の作業を進めるということについても、反対する者はいない。あとは、それをやるための方法論であった。みんなが納得しみんなで取り組める方法をこの場で見出したい。それも、社員たちが自ら見出して自ら実行していこうという雰囲気にしたい。浩二は、方法について議論することに関して、誰かが口火を切ることを期待した。
 社員たちの顔にも、前向きに物事を考えようとする表情が浮かんでいた。
やがて、鶴見が口を開いた。
 「いいことを思いついたんだけど、案件ごとにメイン担当とサブ担当を決めるっていうやり方はどうかな? メイン担当が、その日に進める作業の範囲やパーツの割り振りを決めて、サブ担当はそれに従いサポートするっていうやり方。こういうやり方を取り入れればみんなで協力しあおうという雰囲気も生まれると思うし、他の人のサポートもあるから時間を意識して作業を進めようっていう感じにもなるはずだし、いいと思うんだけど」
 その意見に対して、他の社員たちも「案件ごとのサブ担当は一人なのか?」、「メインやサブを、どのようなルールで決めるのか?」などの質問を投げかけた。
 それらの質問に、鶴見が、案件ごとにメイン担当一人サブ担当一人の体制で対応し、メインやサブを決めるのは全員の話しあいで決めるのがよいという考えを口にした。今現在稼働している案件についてはサブ担当を決め、今後入ってくる案件についてはメイン担当とサブ担当をその都度決めるという考え方だった。
 「特大案件や特急案件の場合はどうするんですか? そういうのも含めて、メイン一人サブ一人でこなしていくんですか?」江川が質問を重ねる。特大案件とは特別に量の多い案件のことであり、特急案件とは特別に納期の早い案件のことである。たまにそのような案件が生じることがあり、そのような案件に対しては、社長の指示で複数のデザイナーが係ることもあった。江川の質問の意図は、そのような案件が生じた場合もメイン一人サブ一人にこだわるのかということと、どのようにしてメインとサブを決めるのかということだった。
 それに対して、鶴見が、そのような案件のメインとサブの配置についても、全員の話しあいの中で臨機応変に決めていけばよいという見解を口にする。メイン一人サブ一人にこだわるという意味合いではなく、今までは社長の指示で決められていたものを全員の話しあいで決めていこうという考えであった。
 それを聞いた江川が納得した表情を浮かべる。
 その後も、社員たちによる白熱した議論が繰り返された。鶴見の提案が正式に受け入れられ、今現在稼働している案件や新しい案件が発生したときの担当の割り振りや作業の進め方に関するシミュレーションも行われた。
 会議が始まるころは互いに距離を開けて席に着いていた社員たちだったが、今は全員が固まるように額を突き合わせ議論を行っていた。張りつめたような空気も消え去り、若者たちの熱気から放たれる明るく活発な空気が会議室内を支配していた。
 社員たちの議論する姿を見ながら、浩二は満足げに頷いた。自分が思い描いていたような雰囲気ができつつあったからだ。みんなが生産性を高める意識を持ちながら、互いに協力しあうという雰囲気である。
 浩二は、壁の時計に目をやった。時計の針は午後九時を指していた。かれこれ三時間も熱く議論していたことになる。
 「みんな、今日は突然の会議だったのに、参加してくれてありがとう。みんなと腹を割って今後のことを話しあうことができて、ほんとうに良かったと思っています。案件ごとにメインとサブを決めるやり方は、さっそく明日から取り入れましょう。社長にはボクのほうから伝えておきます。それと、残業代の件もきちんとしようと思っています。詳しいことは、後日みんなと相談した上で決めたいと思っているので、よろしく!」
浩二は、実りのある会議の終了を告げた。

3.
 会議の結論が、さっそく実行に移された。次の日の朝、顔を揃えたデザイナーたちが、今現在各自が抱えている案件の内容を説明しあった上で案件ごとのサブ担当者を決定した。一日の作業計画についても、メイン担当者とサブ担当者との間で話しあいが行われた。
 翌日には新規の案件が発生したが、浩二とデザイナーたちとの話しあいにより、メイン担当者とサブ担当者が決定された。

 浩二は、新たな取り組みを健一に報告することにした。
 社員たちと話しあいをした二日後に、その機会は巡ってきた。営業情報の共有や会社の今後のことについての意見交換を行うことを目的とした健一との夕食会の場であった。
 浩二は、デザイナーたちが自主的に案件ごとのサブ担当者を設け、互いに協力しあいながら作業を進めていく体制を作ったことを口にした。加藤からデザイナーたちが分裂しているという報告を受け、その日のうちに全員を集めて話しあったことも説明した。
 「そんなやり方をしたら、かえって効率が悪くなるんじゃないのか?」健一が、怪訝な表情を浮かべた。
 「大丈夫です。デザイナーたちも、このやり方のほうが効率が良くなることを認めています」
 「理由は?」
 「デザイナーたちが、時間を意識するようになるからですよ……」浩二は、効率が良くなる理由を説明した。デザイナーたちが、今まで気持ちの乗ったときに集中的に作業を行うことがデザイン品質の向上につながるという思いで日々の仕事をしてきたために、ムダな空き時間の発生など効率の低下を招いていたことを口にする。作業の効率を良くすることで、取引先にもデザイナーにもメリットが生まれることも指摘した。
 「なるほどね。わからんでもないけどな……。ところで、その取り組みはもう実行されているの?」
 「はい」
 「オレのところに、事前の相談はなかったけどね」
 「すみませんでした。ただ、社内の結束を強めることについてのやり方は任せるって社長はおっしゃっていましたから」
 「たしかに、任せてはいたけどな」
 「それに、社員たちが盛り上がっていたので。そんなときに、『社長の承認を得てから始めましょう』なんて言ったら、一気にみんなのテンションが下がっちゃいますから」浩二は、事前相談を行わなかったことを詫びながらも、自分の判断で実行に移したことの正当性を主張した。
 「それでよかったんじゃないか」頷きながら健一が口にする。
 「ちなみに、密告者が誰なのかはわかったのか?」
 「いいえ、わかっていませんが、その問題は封印しちゃってもいいんじゃないかと思いますけどね」
 「封印しちゃっても大丈夫なのか?」
 「どういうことですか?」
 「社員たちの間に、わだかまりが残らないのかということだよ」
 「ですから、先ほども言いましたように、社員たちで充分に話しあって気持ちを一つにしたのですから。会議のときにも、『密告者は誰だ?』なんて話題は全然出ませんでしたし」
 「タブーみたいになっていて、それで誰も触れなかっただけじゃないのか?」
 「違います。社員たちは、密告者が誰かなんて、そんなことはどうでもいいと思っているんですよ。そんなことよりも、これからどうしていくのがよいのかってことに意識が向いています」浩二は、力強く宣言した。
 社員たちのやり取りを見ながら、浩二は、社内が団結したことを確信していた。今回の密告事件が、良い意味での引き金になったとも感じている。いまさら密告者のことを蒸し返すと、せっかくまとまり始めた社内の絆が壊れるだけである。
 「キミも、それでいいんだな?」気持ちを察した健一が、浩二自身が納得しているのかどうかを確認した。
 「ボクも、それでいいと思っています」
 「そうか……。わかった」健一が頷いた。
 健一が、徳利に残った酒を浩二のお猪口に注いだ。空になった徳利を右手に掲げ、酒のお代わりを注文する。
 注がれた酒を飲み干した浩二は、健一に視線を向けた。他にも相談したいことがあったからだ。
 「社内情報の管理強化ルールのことなのですけどね。あれも、止めにしませんか?」
 「どうして?」
 「先ほども言いましたように、今は、社内が団結しています。社員たちがなにか懸念に思うことがあったとしても、必ずボクたちに相談してくれると思います。現実問題、ボクたちが決めたルールのせいで社員たちが仕事をやり辛くなっているのも事実ですし……。社員たちを信用して、元に戻したほうがいいんじゃないですか?」
 「別に社員たちを信用していないわけじゃないけど、あんなことが起こったわけだからな。経営者として、リスクの排除に努めるのは当然の話だろう?」
 「そうですけどね」
 「わかった。あのルールは、もう止めにしよう。明日の朝礼で、オレからみんなに伝えるよ」
 「ありがとうございます」浩二は頭を下げた。
 こうすることで、ますます社員たちの仕事がやりやすくなり、効率の向上につながるだろう。浩二の胸の中が一段とスッキリした。
 「仕事の話はこのへんにして、あとは軟らかい話でもするか!」テーブルに運ばれた新しい徳利を手にした健一が威勢の良い声を上げた。表情が、社長の顔から兄の顔へと変わっていた。
 「あっ、もう一つだけ」浩二は、再び仕事の話題に引き戻した。
 「なんだよ?」出ばなをくじかれた健一が怪訝な表情を浮かべる。
 「残業代の件なのですけどね。デザイナーたちとの間で協定を結ぼうと思っているんですよ」
 「協定?」
 「労働基準監督署の人が言っていたじゃないですか。協定を結べば、実際の勤務時間に関係なく、一日の労働時間を一定時間に見なすことができるって。あれからボクなりに調べてみたのですけど、世の中にそのような仕組みがありました。裁量労働時間制っていうんですけどね」
 「さいりょうろうどう? なんだかよくわかんないけど、要は残業代を払わなくてもよくなるってことなわけ?」
 「必ずしもそういうわけではないです。協定で一日八時間を超える時間を設定した場合は、基本給とは別に残業手当を支給する必要があります」浩二は裁量労働時間制の説明を始めた。会社が実労働時間とは関係なく社員と協定した時間分の賃金を支払えばよいのだということを強調する。
 「それで、うちは一日の労働時間を何時間に設定すればいいの?」
 「それは、社員との間の話しあいになります。実態と合う時間じゃなきゃいけないですから。今やっているメインとサブの取組みで正味必要な時間が見えてきますから、それをベースに社員と話しあいをしたいと思っています。その前に、裁量労働時間制を取り入れることに対して、社長の承認を得たいんですけど」
 「うん。まぁ、キミがそこまで言うのだったらいいと思うよ。ただ、協定を結ぶときは、私にも事前に相談してくれよな」
 「もちろんですよ。社長の名前で協定を結ぶんですから」浩二は、笑いながら健一のお猪口に酒を注いだ。

4.
 社内情報の管理強化ルールの廃止は、会社にとって追い風となった。デザイナーたちが、取引先に対して積極的に提案するようになったからだ。メイン担当者とサブ担当者が作業の進め方について相談しあう中で取引先の要望に見合うデザインの内容を明らかにした上で、そのデザインが最良であることの理由を説明する。過去の取引記録からも取引先のデザインに対する考え方を読み取り、今まで小島デザイン研究所が手掛けてきたデザインの実績を駆使しながら取引先の望みをかなえていった。
それにより、取引先もデザイン選択の幅が広がった。彼らの対応は、取引先からの好評を得ていた。

 その後も、デザイナーたちの協力体制は順調に行われていた。誰もが体験したことのない取り組みだったが、混乱は生じなかった。わからないことは、その都度デザイナーたちが相談しあって決めていたからだ。
 社内に活気がみなぎった。以前のように、一人のデザイナーが壁にぶち当たり何時間も悩み続けることで作業が止まってしまうような姿は見られなくなった。互いに相談しあう雰囲気ができあがったからだ。
 寡黙だった井上も、自分のほうから社内の輪に溶け込むようになった。シャイな性格の井上は対人コミュニケーションが苦手であり、自分のほうから話しかけることができずにいたのだが、和気あいあいとした雰囲気の中で自然と話せるようになった。このことは、彼に対する取引先からの評価を良くすることにもつながった。

 デザイナーたちの協力体制が敷かれたことによる残業面での効果も表れた。
 以前は深夜の時間帯にまで及ぶ残業が頻繁にあったのが、全員が午後八時までには帰れるようになった。デザイナーたちが時間を意識するようになったことに加えて、互いに相談、協力しあえる雰囲気が定着していたからだ。今まで一人で悩んでいたことが、周囲からの意見や協力により、その場で解決することができる。それにより作業を進めるテンポも速くなり時間短縮につながったのだ。
 残業時間が減ったことによる効果は、デザイナーたちの表情にも表れた。食事の時間が規則的になり、充分な睡眠時間も確保できるようになった。家族や友人と触れあう時間や趣味に費やす時間も増え、ストレスからも解放される。デザイナーたちの体に活力がみなぎり、それが前向きな姿勢にもつながっていた。
 デザイナーたちの様子を注意深く見守っていた浩二だったが、思いのほか良い効果が表れている状況にほっと胸を撫で下ろした。

 デザイナーたちの残業時間が安定してきたことを確認した浩二は、デザイナーたちと協定を結ぶ準備に取り掛かった。
 一日の労働時間を協定で取り決めなければならなかった。取り決めた時間が八時間を超えた部分を、今後残業代として支給しなければならない。しかし、協定を結ぶことで、日々一人一人が仕事を終えた時刻を把握する手間がなくなる。それをしなくても、労働基準監督署から突っ込まれることはないのだ。
 デザイナー全員を集めた浩二は、協力体制を敷くようになってからの一人一人の退社時刻を、出勤簿に記入された退社時刻を一覧にした資料をもとに説明した。
 その上で、協定を結びたいという意見を伝えた。協定を結んだあとは、毎月固定的な残業手当を支給することになるのだということも説明する。
 デザイナーたちも、協定を結ぶことの意味を理解した。
 その後、浩二とデザイナーとの間で、協定化する一日の労働時間についての協議が行われた。一日の労働時間は、通常一日の労働時間がこの程度で収まるという感覚で取り決めることが求められていた。現在の実績では、毎日の残業時間は一時間から二時間の範囲に集中していた。
 協議を重ねた結果、一日の労働時間を九時間とすることで見解がまとまった。現在の協力体制が定着すれば平均的にその程度の時間内には収まるだろうという統一的な認識がデザイナーたちの間に存在していた。
 浩二は、社長の承認を得た上で正式に協定化し、労働基準監督署に届け出ることをデザイナーたちに約束した。

 協議を終えた浩二は、結論を健一に報告した。今現在のデザイナーの残業実績を提示した上で、一日の労働時間を九時間とした根拠を説明する。
 「九時間ということは、一日一時間分の残業代を基本給に上乗せするということか?」健一からの確認に浩二は頷いた。一日の労働時間を九時間とするということは、一日一時間分の固定残業手当が発生するということだ。
 「でも、その仕組みを取り入れることで、毎回残業代を計算しなくてもよくなりますから」浩二は、残業代の面倒な計算が不要になるメリットも指摘した。
 いずれにしても、今後は正規のやり方で残業代を支給しなければならないのだ。どうせ支給するのであれば、極力面倒でないやり方で支給したい。その考え方は、健一も浩二も同じであった。
 「加藤くんの残業代は、どのように取り扱えばいいの?」健一が、事務職の加藤の残業代の取り扱いについて訊いてきた。
 それに対して、浩二は、加藤の場合は実際に残業した時間分の残業代を支給する必要があることを説明した。協定を結ぶやり方は、法律で決められた職種にしか適用できないからだ。
 健一が了承したことでデザイナーの一日の労働時間を九時間とする協定を結ぶことが正式に決定された。

5.
 ある日の夜、貸し切った居酒屋の個室に顔を揃えた浩二と社員たちの姿があった。浩二の呼びかけにより、小島デザイン研究所のスタッフ全員での食事会をやることになったのだ。
健一も同席する予定でいたのだが、急遽取引先との打ち合わせが入ったため欠席することになった。急用ができたからということだが、浩二は、健一が気を利かせて席を外したのだろうと思っていた。
 会社と社員たちとの間に立ち、会社としての方針や社員たちの思いを上手に融合させながら働きやすい職場づくりを推進していくことへの橋渡し役になりたいという浩二の思いを健一は充分に理解している。今回の食事会も、忘年会以外では初めてみんなで集まる社内行事だったが、あえて社長である自分が同席しないことで浩二と社員たちとで心置きなく会話をすることができるのではないかという配慮をしたのだろうと浩二は感じていた。
 個室のテーブルに料理が運ばれてきた。七人分の飲み物も運ばれてくる。
 浩二が乾杯の音頭を取り、宴が始まった。テーブルの上の料理が次々と若い胃袋の中へ消えていく。
 「どうぞ」気を利かせた加藤が、料理を取り分けた皿を浩二のもとに運んできた。
 「ありがとう」礼を口にした浩二が料理を口に運ぶ。
 「みんな、すごいな」浩二は、デザイナーたちの食べっぷりに感心した。
 「男の人って、みんな食べますもんね」猛烈な勢いで消えていく料理を目の当たりにした加藤も目を丸くする。
 忘年会のときも若い男たちの食欲が猛威を振るっていたが、今目の前で繰り広げられている光景とは異質な雰囲気があった。それは、ただ食べることに集中した行為であった。そこには、賑やかさは存在しなかった。
 しかし、今は賑やかさが存在していた。会話と料理をセットで楽しむ時間が流れている。心を許した者同士が時間を共有する中で、各自の食欲が満たされていた。
 料理とともに酒も進んだ。デザイナーたちが、次々と酒のお代わりを注文する。彼らの盛り上がりに刺激を受けた浩二も、いつにもなく速いペースで酒を口にした。

 デザイナーたちによる会話が、プライベートな時間の過ごし方に変わった。早く帰れるようになったことで生じた時間をどのように使っているのかという会話が繰り広げられていた。
 「ボクね、検定試験を受けることにしたんですよ」井上が語り出した。人とのコミュニケーションを苦手にしていた井上が自分のほうから会話の口火を切ることなど、以前には見られない光景であった。それだけ、彼自身が人間として成長していた。
 「なんの検定?」中山が問いかける。
 「Webデザイナーの検定」井上が検定名を口にした。Webサイトのデザイン能力を身に付けるための検定であった。その能力を身に付けることによって、小島デザイン研究所が受注できる案件の範囲も拡大する。
 「そいつは、会社としても大歓迎だな」浩二も声をかけた。
 「部長、資格手当制度を作ってくださいよ」浩二の声を耳にした江川が要望を口にする。
 「ボクたちがいろんな資格を持っていたほうが、お客さんに対して話がしやすくなるんじゃないですか?」鶴見も、浩二の顔を覗う。
 「たしかに、鶴見くんの言う通りだよ」浩二は頷いた。
 「じゃあ、資格手当を作りましょうよ」デザイナーたちが浩二をせっつく。
 浩二は、前向きに考えることを約束した。

 その後も、デザイナーたちによるプライベートな時間の過ごし方の会話が続いた。
 鶴見は、妻や子どもとの時間を充実させたことを口にした。子どもが起きている時間に帰れるようになり、子どもに対して積極的に話しかけたり家の中で一緒に遊んだりなどコミュニケーションを図っているということだった。妻との会話も増え、今後の人生設計について話しあう時間も増えたということであり、周りから二人目の子どもを作る良いタイミングだと冷やかされた鶴見の顔が赤くなった。
 中山も、家庭を意識した発言を口にした。彼女と過ごす時間が増え、二人の間で結婚についての話題が上ることが増えたということだった。二人の時間が増えたことで、相手の価値観を確認しあうプロセスが一気に進み、互いに結婚に対する自信を深めたことによる結果であった。仕事で良い結果を出し、もっと給料がもらえるようになりたいという中山の発言に、浩二は眼を細めた。
 江川は、友人と付き合う時間を積極的に作っているということを口にした。もともと友人はたくさんいたのだが、最近では疎遠になっていた友人も多くいたということだった。仕事の終わる時間が遅く、平日の夜に友人たちと気軽に飲みに行く機会を作れずにいたからだ。仲間とともに過ごす時間が増えたことで、あらためて友人の大切さを知ったということだ。合コンにも積極的に参加しているという江川の言葉に、一同が爆笑した。
 順番にプライベートの時間の過ごし方を口にしあったデザイナーたちの視線が間島に向けられた。間島が、慌てたような素振りを見せる。特別なにかに時間を費やしているというものがなかったからだ。早く帰れるようになったことで、なにかしら生活が変わったわけでもない。それぞれに目的意識を持つ先輩デザイナーたちの話を聞いた間島に焦りが生じていた。
 「間島くんは、どんなことに時間を使っているの?」加藤が問いかけた。
 「ボクは……、みんなみたいに、なにかしているってわけじゃないから」間島が恥ずかしそうにうつむく。
 「時間ができたからって、すぐになにかをしなきゃいけないってわけじゃないからさ。じっくりと考えていけばいいんじゃないの?」鶴見が、フォローする言葉を口にした。
 「そんなの、焦ったって答えは出ないわけだし」
 「オレたちの中で一番若いんだし、これからじゃん」
 江川と中山も声をかける。
 「なにか、してみたいと思うことはあるのかな?」浩二も問いかけた。
 「ないことはないですけど……」
 「たとえば?」
 「その……、彼女を作りたいなと思って……」
 「婚活したいって?」間島の言葉を耳にした江川が話を広げる。
 「ち、違いますよ。別に、結婚なんか考えていませんよ」間島が、大声で否定した。
 「付き合っている女性(ひと)はいないの?」浩二が問いかける。
 「はい」
 「今まで、一度も女性と付き合ったことがないとか?」
 「そんなことはないですけど」
 「けっこう、こう見えて彼は奥手なんですよ」江川が口をはさんだ。
 現代的なマスクで、外見からは遊んでいそうに見える間島だったが、女性に対して積極的なタイプではなかった。歳が一番近くプライベートな話をしたことも多かった江川は、そのような一面を見抜いていた。
 「彼女を作りたいんだったら、自分から行動しなきゃね」
 「江川くんに、一緒に合コンに連れて行ってもらったら?」
 井上と中山が励ますように声をかける。
 そんな中、鶴見が「それよりもさぁ、もっと身近に目を向けたほうがいいんじゃないの?」と声を張り上げた。
 全員の視線が鶴見に集まる。鶴見が、視線を加藤に向ける。加藤が頬を赤らめた。
 「どういうことですか?」鶴見と加藤のやり取りを目にした江川が問いかける。
 「だから、こういうこと」笑みを浮かべながら、鶴見が言葉を返す。
 「なるほど、そういうことね」状況を理解した浩二や中山、井上が頷いた。
 間島も、状況を理解していた。相談したいことがあると言われ、仕事帰りに会社の近くのカフェで加藤と食事をともにしたときのことを思い返した。あのとき、彼女が自分に対して特別な感情を抱いているのではないだろうかと一瞬感じたことも記憶によみがえっていた。
 「すみません、トイレに行ってきます」いたたまれなくなった加藤は、その場から逃げ出すように、バッグを手に個室を出ていった。

6.
 宴も佳境に入った。
間島と加藤は、席を隣り合わせていた。気を利かせた先輩デザイナーたちが、二人をくっつけようとあれこれ画策した。
 お互いを意識した二人の会話は弾まない。その様子を目にした先輩たちが、二人の間を盛り上げようと、次から次へと話題を投げかけていた。
 そんな中、酒に酔ったデザイナーたちが、密告事件の話題を口にし始めた。誰もが気に止めていたことではあったのだが、自ら口にすることがはばかられていた。口にすることで、せっかく一つにまとまり始めた自分たちの絆が壊れてしまうのではないかという心配があったからだ。
 「実は、密告したのはボクでーす!」江川が奇声を上げた。
 「マジで?」何人かが問い返す。
 「嘘に決まってるじゃん!」江川が、笑いながら否定した。その場を盛り上げるための悪ふざけの発言だった。
 その場に笑いが起きる。互いに詮索しあうような空気は生まれてこなかった。密告事件があったという事実は全員の記憶から拭うことはできないが、もはやそれは過去の出来事としての記憶に収まっていた。
お互いに過去の出来事として笑って話せることを知ったデザイナーたちの口が滑らかになる。それぞれが、その当時に感じていたことを口にしあいながら、密告事件があったことがきっかけでみんなの心が一つになったことを実感しあっていた。
 「そういえば、今だから言えることがあるんだけどさ」鶴見が口を開いた。一同の視線が鶴見に向けられる。
 「部長、気を悪くしないでくださいね」
 「えっ?」いきなり話を振られた浩二は、目を丸くした。
 「実はね、こいつ、最初部長のことを疑っていたんですよ」鶴見が、中山のことを指差した。
 「それは、言っちゃまずいでしょう!」指を差された中山が顔をしかめる。
 「なんで、部長が怪しいと思ったんですか?」他のデザイナーや加藤が、中山の顔を覗き込む。
 「オレも聞きたいな」浩二は、笑いながら話の先を促した。
 「本当に、部長、怒りません?」
 「別に怒らないよ。済んだことだし」心配そうな表情を向ける中山に、浩二が言葉を返した。
 「密告文と一緒に証拠資料が添えられていたって言っていたじゃないですか? そういう資料を一番手に入れやすい立場にいる人間は誰なのかなと考えたときに……」
 「それがオレってわけか」
 「すみません」
 「いや、いいよ。たしかに、オレが密告者だったら証拠資料を揃えるのは簡単だよな」
 「マジに、部長じゃないですよね?」井上が視線を向けてきた。
 「ほんとうにオレだったらどうする?」浩二が、謎かけをするような表情で問い返す。
 「どうするって言われても……」井上が言いよどむ。
 「でも、考えてみれば、部長が密告者なわけないじゃん。部長だったら、社長に直接意見できるし、それに管理責任者として責任を追及される立場でもあるわけでしょ? 部長にとってなんのメリットもないわけだし、オレは始めから部長犯人説はないと思っていたんだけどね」鶴見が自分の考えを主張した。
 「ちょっと待ってくださいよ。ボクが『やっぱり違うか』って言ったときに鶴見さんは『そうとも言えないかも』って言っていたじゃないですか!」
 「そうなのか?」浩二は、鶴見に視線を向けた。
 「ボクは、最初からそんなことあり得ないと思っていたんですけど、せっかく中山くんが意見しているんだから、頭から否定しちゃ可哀そうかなと思って」鶴見が懸命に言い訳をした。
 その姿を目にした井上や江川、間島、加藤の間に笑いが広がった。

 社員たちが楽しむ様子を見ながら、浩二は、短期間の間に起こった出来事を頭の中で思い返していた。密告事件は社員たちのまとまりをもたらせたが、自分にとっても得るものが大きかった。
 数年前に、会社を立ち上げるという兄に乞われて今の地位についた。事務管理的な仕事の苦手な兄に代わって、社内の管理的な業務を託された。もちろん、仕事を取ってくるための営業の業務を兼務しながらである。
 いきなり取締役管理部長というポジションについたのだが、社員たちとどのように接していけばよいのかを常に戸惑いながらの仕事だった。
 目の前の社員たちは、自分にとっては部下だ。管理部長という立場上、会社が決めたルールを徹底して守らせることはもちろんのこと、社員の成長や働きやすい職場づくりを推進していく役割も課せられていたのだが、サラリーマン時代に部下を持った経験がなく、その上一回り以上も歳の離れている社員たちにどのように接していけばよいのかがわからずにいる己がいた。自分自身がデザイナーの経験がないことも、社員たちに遠慮してしまった原因であった。
 しかし、今回の密告事件で、自分の使命というものに気づかされた。それも、管理部長としての表面的な役割ではなく、社長である兄の右腕としての役割についてであった。
 社員たちが自分の呼びかけに応じてくれたのも、会社と社員たちとの間に立ちながら会社を良くしていきたいという思いが通じたからだろう。今回の密告事件は、会社と社員たちとの間の、そして社員同士の絆をつくるきっかけともなったのだ。
 振り返ってみると、社員たちにとっても、自分にとっても、そして会社にとっても、実に良いきっかけであった。浩二は、誰かの演出のもとで、密告事件から端を発した一連の出来事が発生したように感じていた。
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