密告者

makotochan

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第2章 分裂

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1.
 間島と加藤が二人だけで会っていたときと同時刻、新宿の繁華街の奥にある裏路地に面したバーカウンターの片隅に、一人静かにグラスを傾ける小島浩二の姿があった。ここは、彼が考え事をしたいときによく利用しているバーであった。ここに来るときは、いつも一人だった。
 浩二は、頭を抱えていた。兄から密告者を探し出すようにという指示を与えられていたが、それに対してどのように対処したらよいのかを思い悩んでいたからだ。
 やり方は任せるとは言いながらも、兄は、暗に一人一人と面談した上で探り出すことを期待しているような言葉を口にしていた。むろん、面談を行うのは簡単なことだ。社外のどこか落ち着いた場所で一人一人と相対し、話をすればよいだけである。仕事帰りに一対一で酒を飲み交わしながらでの話でもよい。
 「しかし、社員たちがオレに対して本音をしゃべるだろうか……」心配のもとは、この部分にあった。自分は社長の弟であり取締役管理部長という肩書もある。誰の目にも社長と一心同体の存在に映り、管理する側の人間だという目で接してくることは間違いない。そんな自分に対して、社員たちが本音を語るとは、とてもではないが思えない。
 面談を行うからには、密告者が自分のことを信頼して真実を打ち明け、『社長には黙っていてほしい』と懇願されつつも状況を改善してほしいなどと相談を受けるような展開でなくてはならない。
 そのような事態に直面したとき、自分がどのような感情にとらわれるのか、真実を打ち明けられた後にどのような行動を取るのかはそのときにならないとわからないが、少なくとも密告者の話に耳を傾けることはやるつもりでいる。やるつもりというよりも、やらなければならない、やれる自信があるというのが本心であった。
 しかし、それは自分のほうから見た一方的な見方であり、社員が、そもそも自分との間に壁を築いているのであれば、自分の思い描くような展開が実現するはずもない。そのことに関しては、まったくといってよいほど自信を持てなかった。
 グラスの中身を飲み干し、そっとグラスをカウンターに置いた浩二は、深いため息をついた。
 なんとか良い形で今回の事態を解決し、兄の期待に応えたい。そのためには、密告者の存在を特定する必要がある。しかしながら、社員たちが自分に対して本音を語るとは思えない。堂々巡りの展開に、浩二は解決の糸口を見いだせずにいた。

 「なんとしてでも告発者を特定しなければ……」焦りを覚え始めた浩二の脳裏に、一人の男の顔が浮かんできた。デザイナーの江川であった。
 浩二は、告発者の位置に江川の存在を当てはめていた。江川のことを怪しいと感じた理由は、兄が弁護士をしているということと彼自身が正義感の強い人間であるということだった。
 身内に弁護士がいるのであれば、告発の方法を知ることも容易であろう。また、どのような証拠資料を揃えれば労働基準監督署が動くのかということを知った上で行動することも可能だったのではないだろうか。
 そしてなによりも、江川が密告者であるということは自分の勘に働くことでもあった。
 浩二は、自分の勘を大事にするタイプだった。今まで難しい局面に立たされたときに、勘を信じて行動し難を逃れたことが幾度となくあった。浩二は、自分のことを勘の鋭い人間であると思っていた。
 江川が密告者であるということに関しては、状況証拠もあり自分の勘にも働いている。
 浩二は、江川が密告者であることを裏付ける証拠を集めた上で、彼と直接話をしてみようかと考えていた。
 証拠を集めようと思えば集められないこともない。今は、パソコンの使用履歴を調べる技術が発達している。個人が所有するパソコンならともかく、仕事で使用しているパソコンは会社の所有物であるため、専門業者に頼んで江川が使っているパソコンの使用履歴を調べても問題はない。
 デスクや備品なども会社からの貸与品であり、中身を調べても問題はないだろう。
 あるいは、会社に取り付けてある防犯カメラの映像を解析することで、江川が証拠資料を無断でコピーしている証拠をつかむことができるかもしれない。
 証拠集めのための行動を起こそうかと考えた浩二だったが、心の中で自制を求めるもう一人の自分がいた。「そんなことをして意味があるのか?」、「事が大げさすぎやしないか?」そのような思いが胸の中を駆け廻っていた。
 実際にパソコンの使用履歴を調べるのであれば、一定期間パソコンを差し押さえなければならなくなる。江川のパソコンだけを差し押さえることに関して、周囲を納得させる理由を作ることができるだろうか。さらに、パソコンが使えなくなれば、その期間は江川が担当する案件の作業が滞ってしまう。江川が都合よく何日間かまとめて休みを取ってくれればよいのだが、そのような保証もない。
 また防犯カメラの映像を解析するにしても、防犯カメラには社内の特定部分の映像しか記録されていないため、偶然その範囲に怪しい映像が映り込んでいない限り証拠にはつながらない。そもそも、いつ密告のための証拠資料を入手したのかさえもわからないので、対象とする映像の範囲も特定できない。
 証拠集めが現実的でないのであれば直接江川と対決するよりほかないのだが、それだと、社員が自分に本音を語るとは思えないという壁にぶち当たってしまう。
 浩二は、何度も頭を振り、大きなため息をついた。

2.
 出口の見えない状況の中でもがき苦しんでいた浩二の脳裏に、ある疑問が芽生えてきた。「そもそも犯人捜しを行うべきなのだろうか?」という疑問だった。
 犯人捜しなどに労力を使うのではなく、今回の密告を社員からの声であると受け止めた上で、会社としてやれる範囲で善処することに全力を注ぐべきなのではないだろうか。
 自分も、今の会社に入るまでは普通のサラリーマンだった。雇用される側の人間が、会社に対して管理されているという意識を持つことや働いた分のお金はきっちりと貰いたいという気持ちを持つことは理解できる。
 兄は、デザイナーたちは自分のペースで作業をしているのだから残業のことなど意識するはずもないなどというようなことを言っていたが、ほんとうにそうなのだろうか。
 彼らは、慢性的な長時間労働にさらされている。たしかに、細かい指示を与えられない分、時間に対する意識は一般のサラリーマンよりは低いのかもしれないが、そのことと残業代とは別の話なのではないだろうか。
 家庭のある社員もいる。子どもが成長するにつれて、必要となるお金は増えてくる。
家庭がなくても、将来の結婚を意識していれば、お金はいくらでも必要だと考えるはずだ。
 そんな中、どれだけ働いても収入に反映されない構図に警鐘を鳴らしている社員がいるのではないだろうか。
 デザイナーは、会社にとって重要な戦力だ。仕事を取ってくるのは兄と自分の役目であるが、営業活動を行えるのも社内に優秀なデザイナーがいるという安心感があるからだ。発注者側の要望に応えるためのデザインをデザイナーたちが企画、設計してくれる。その出来栄えを評価してくれた取引先が、新たな案件を発注してくれる。
 重要な戦力であるデザイナーたちにそっぽを向かれたら、たちまち会社は立ち行かなくなるだろう。
 そのような危機感を抱いた浩二は、「自分の果たすべき役割とはなんなのか?」ということに関する自問自答を始めた。
 取締役という肩書がある以上は、経営側の立場で行動をしなければならない。会社である以上、必要最低限の利益を確保しなければ存続できない。社員たちの言うことに対してなんでも耳を傾ければよいわけではない。
 しかしながら、社員たちに気持ち良く働いてもらい、能力を存分に発揮してもらえるような環境を築く責任も背負っている。社員がいてからこその会社だからだ。
 また会社である以上、法律を守る義務も課せられている。労働基準監督署から言われるまでもなく、働いた時間分の賃金をきっちりと払うことは当然の話だ。
 管理部長であるならば、本来であればそのような法律を率先して守らなければならない立場にいる。反面、四角四面なやり方をしていたのでは、会社の経営が成り立たなくなる。
 いくつもの相反する事象が浩二自身の周囲を取り巻いていた。
 浩二は、思考を巡らせた。
 会社としてやらなければならないことは、社員たちの意見に耳を傾けながら会社の考えも伝え、その上で社員たちがなんの疑念も抱くことなく能力を発揮できる状況を作ることだ。
 法律を守ることに関しても、守ることを前提にした上で、会社にムリが生じない形で改善していく道筋をつけることが必要だ。それに関して、社員たちからの理解も労働基準監督署からの理解も必要となる。
 そのように考えを推し進めた浩二の中で、自分の果たすべき役割というものが見えてきた。
 社員たちの声に耳を傾けながら会社の考えも伝え、その上で今回の事態を収束させるための道筋をつけることこそが自分の果たすべき役割ではないだろうか。
 最終的な決定は社長である兄に委ねるにしても、そこまでの橋渡しをするのが自分の役割だ。
 そのような考えに至った浩二の心が軽くなった。胸全体を覆っていた重しが取れたようにも感じていた。
 「具体的に、どうするかだな……」役割を果たすためにどのような行動を取るべきなのかということについて考えを巡らす。
 いくつものアイデアを思い浮かべては、その先の落としどころが見えないためにアイデアが萎んでいくことが頭の中で繰り返された。
 そんな中、浩二の胸中に、ある不安が芽生えてきた。今回のことが原因で、社内が分裂してしまう危険性があることについてであった。社員たちの間にも疑心暗鬼が芽生えている可能性が高い。それが原因で社内がぎくしゃくしてしまう恐れもある。
 「そのような事態になってほしくない!」浩二は、自分が具体的な行動を起こすまでの間に、社内に悪い変化が生じないことを祈った。

3.
 労働基準監督署の調査が入った日から三日後の夜、健一と浩二は、二人の行きつけの店の一つである小料理屋に姿を現した。
 二人は、週に一度は晩御飯をともにしていた。たいていは、健一からの呼びかけにより食事の場が設けられていた。
 食事の目的は、営業情報の共有や会社の今後に対する意見交換などであった。
 二人は、会社の営業を担う立場であるのと同時に経営者でもあった。会社の重要事項に関する話しあいを行う場合など、狭い社内では話しづらいことも多い。行きつけの店であれば、社員たちの目を気にすることもない。
 今日も、二人は酒と食事をともにしながら、主要取引先の一つから申し入れのあった価格の見直しの件について話しあっていた。取引価格を下げられないかという申し入れであり、二人の間で、デザインの企画制作を請け負う販促品の分野を増やしてもらうことを条件に価格の引き下げに応じることを取引先に対して交渉するという考えで一致した。
 方針がまとまったことに対して、健一が安堵の表情を浮かべる。売上の二割ほどを占める取引先であり、要求通りに価格を下げてしまうと、経営に大きな影響が生じてしまう。そうかといって、真っ向から断ることもやり辛い。相手の心証を害してしまい取引がなくなるようなことがあれば元も子もないからだ。
 そのような葛藤を抱えていた健一だったが、取引の量を増やしてもらうことを条件に価格を下げるという形で要求を飲めばよいのではないかという浩二の意見に、胸の中が整理できた。自分のところで対応する範囲を広げるということは、取引先に対してデザイン品質を均一化させるというメリットを生じさせるとともに、自分のところにもトータルの利益を増やすというメリットを生じさせるからだ。
 不安を解消させた健一だったが、すぐに新たな不安要素が湧き上がってきた。労働基準監督署の件だあった。密告者を探し出し、密告の意図を明らかにすることを管理部長である浩二に指示していた。やり方は本人に任せてあるが、上手く進んでいるのだろうか。
 そのことを確認すべく、健一は浩二に問いかけた。
 「それはそうと、社員との面談は進んでいるのか?」
 「労働基準監督署の件ですか?」
 「うん」
 「……実は、まだ面談はやっていません」
 「なんでだよ? もう、あれから四日も経っているんだよ」
 「そうなんですけどね……」
 「なにか引っかかることでもあるのか?」
 「あります」そう言うと、浩二は胸に抱えていた思いを吐き出した。犯人捜しに注力するのではなく、社員たちの声に耳を傾けながら会社の考えも伝え、その上で今回の事態を収束させる道筋をつけるための橋渡しをすることこそが自分の果たすべき役割なのではないのかという思いだった。
 そのために自分が取るべき行動についての具体的なアイデアは浮かんでいなかったが、一日でも早く行動したいという思いも口にした。
 「どうしても、犯人捜しをしなくてはなりませんか?」浩二は、健一に視線を向けた。
 「どうしてもっていうわけじゃないけど、このままわだかまりが残ったら、オレたちも社員たちも、お互いやり辛くなるだろう? これだけの人数でやっているんだから……。いいよ、キミになにかいいアイデアがあるんだったら犯人捜しはやらなくても。要は、みんながスッキリできればいいんだから」
 「わかりました。なんとかやってみます」
 「やり方は、キミに任すよ」健一が、任せるという言葉を口にした。
 健一の言葉を聞いた浩二は、考えを巡らせた。社員たちに対して、どのように接していけばよいのかということについての考えだった。バーの中で思い浮かべていたアイデアを再び思い浮かべてみる。どのアイデアも、社員たちと接した後の落としどころが見えないために萎んでいった。そのときと同じで、今も落としどころが見えてこない。
 考えにふける浩二に向かって、健一が言葉を発した。
 「社内の管理を見直す必要があるかもしれないな」
 「どういうことですか?」考えから覚めた浩二が聞き返す。
 「取引条件や財務的な情報の管理のことだよ。今は、みんなが閲覧できる状態で保管されているものがたくさんあるだろう? それを見直したほうがいいんじゃないかってことだよ」
 「……」
 「今回の密告の件でも、証拠資料が同封されていたっていうんだろう? 現物は見せてもらえなかったけど、勤務時間や賃金計算の記録のような資料が付けられていたからこそ、労働基準監督署も自信満々な態度でやって来たんだと思うんだよ。そのような資料を社員が簡単に手に入れられるってことが問題なわけだよ。取引条件や財務的な情報も同じだ。今回のように、特定の取引先や税務署などに漏らされるようなことがあったら堪らないからな」
 「たしかにそうですけど、でも重要な資料は、社長とボクしか見られないようになっていますけど」
 「ほんとうに重要な資料は、もちろんちゃんと管理しているよ。でも、充分ではないのかもしれない。現に、今回のようなことが起こったわけだし」
 「じゃぁ、どんな資料の管理を見直すんですか?」浩二は健一の顔を覗った。またしても自分に任されるのではないかと思ったからだ。
 「それは、この場で考えようよ」予想に反して、健一が二人で考えようと口にする。
 そのまま、二人の間で保管管理を強化すべき情報や資料についての議論が行われた。強化すべき情報や資料の候補を口にしあい、それぞれについて、特定の相手に漏洩したときの影響を確認しあう。
 浩二としては、今以上に管理体制を厳しくすることは積極的には行いたくなかった。今でも、重要書類や機密情報に関しては、自分と健一との間できちんと管理されている。
 取引の情報や財務的な情報については、ある程度までの範囲は社員との間で共有する必要がある。デザイナーたちは、デザインの企画も行っているからだ。企画を通すためには、どの程度のデザイン料が必要になるのかを試算し提示する必要もある。デザイナーたちが取引の情報や財務的な情報に触れることができなくなれば、デザインの企画やデザイン料の試算に支障をきたしてしまう。
 浩二は、健一に向かって、そのことを口にした。
健一も、そのことついては理解していた。
 二人による話しあいの結果、特定の情報や資料について、今後社員たちが触れる場合は、その都度健一か浩二の許可を得ることをルール化することが決められた。
 二人の頭の中では、この程度の管理強化であれば、社員たちの仕事に大きな支障は出ないであろうという考えがあった。

4.
 健一と浩二が決めた社内情報の管理強化ルールは、翌朝の朝礼で社員たちに伝えられた。突然発表されたルールに、社員たちの間に戸惑いが広がった。
 「なぜ、このようなルールができたのか?」という社員たちからの問いかけに対して、健一が「取引先からセキュリティ管理の徹底を求められており、ルールの見直しを行った」と説明した。
 個人情報保護法が施行されてから、世の中全体にセキュリティ管理の強化を図る動きが広がっていた。セキュリティ管理が徹底されていることを認証する制度も存在する。小島デザイン研究所でも、認証の取得を検討していた矢先でもあった。
 しかし、健一の説明に社員たちは納得していなかった。各々の頭の中で、密告があったことに対する会社の対策ではないかという考えが広がっていた。
 「ともかく、先ほど説明した資料に触れるときは、私か管理部長の許可を得るように」疑わしげな表情を浮かべる社員たちに向かって、健一が念押しをした。

 新たなルールは、デザイナーたちの仕事に影響を及ぼした。影響の第一号は、朝礼終了後、間がなく発生した。そのときオフィスにいたのは、浩二と鶴見、中山、井上、間島、加藤の六人だった。
 新規に受注したデザインの企画作業に取り掛かろうとしていた鶴見が、取引先数社の過去の取引内容が記録されたファイルの閲覧を浩二に求めた。鶴見が担当している案件は新規のキャラクターに関するデザインであり、デザインの特徴が同じような業界の同業他社に提供したものと被らないようにしようという配慮からであった。
 目的を確認した浩二が、指定されたファイルが収められたキャビネットの鍵を開け、取り出したファイルを鶴見に手渡す。鶴見が、ファイルの中身を確認した後、ファイルを浩二に返却する。ファイルは、再び鍵のかけられたキャビネットに収められた。
 しばらく経った後に、鶴見が同じファイルの閲覧を浩二に申し出た。新たに確認したいことが発生したからだ。浩二が席を立ち、キャビネットから同じファイルを取り出す。確認を終えたファイルは、浩二の手でキャビネットに戻された。
 しかし、浩二と鶴見のやり取りはこれで終わりではなかった。間がなく、鶴見が三度目の閲覧を申し出てきたのだ。
 「またか?」浩二は、うんざりしたような表情を向けた。
 「すみません。キャラクターものなんで、慎重にやらないといけないと思って。社長も、むやみにコピーするなっておっしゃっていましたし」
 鶴見の言う通り、健一は勝手にコピーをしないようにという言葉を口にしていた。
 渋々といった表情を浮かべながら、浩二は席を立ち、ファイルを鶴見に渡した。
 ファイルを席に持ち帰った鶴見が、強くファイルをデスクの上に置いた。ドンという乾いた音が周囲に響き渡る。
 「ったく、面倒くさいな!」顔を俯けながら鶴見が呟いた。その声に、中山が顔を向ける。
 「ペースが狂いますよね」なにかある度にいちいち許可を得ながら確認しなければならないため、作業のペースが乱れるという指摘であった。
 「勝手に見るな、コピーもするなじゃ、作業が進まないよ!」鶴見が、憤懣やるかたないといった表情を浮かべながら語気を強める。その声に、井上、間島、加藤の三人も顔を向けた。
 「ここまでやる必要があるんですかね?」中山が同調したような口調で口をはさんだ。
 「どこかの誰かさんが余計なことをしてくれたおかげで、こんな風になっちゃったんだよ」誰に向けるともなく鶴見が言葉を返した。
 「ほんと、余計なことをしてくれましたよね」中山も言葉を重ねる。
 中山の視線は井上に向けられていた。二人の様子を覗っていた井上と中山の視線がぶつかった。視線を向けられた井上の顔色が変わる。
 「なんなんですか? ボクのことを疑っているんですか?」井上が、中山に向かって声を荒げた。
 「誰も、そんなこと言ってないだろ!」中山が言い返す。
 「だって、ボクのことを見ていたじゃないですか!」
 「そんなの、しらねぇよ」中山が視線を逸らせた。
 そのとき、鶴見がボソッと「お前がやったんじゃないのか」と呟いた。小さく呟いたつもりであったが、その声は井上の耳にも届いていた。
 表情をひきつらせた井上が、鶴見に顔を向ける。
 「なんの証拠があって、そんなことを言うんですか!」井上は、再び声を荒げた。
 「じゃぁ言うけど、いつも最後まで残っているのってお前だろう? 証拠資料をこっそり揃えるためには、みんながいないところでコピーしなきゃならないからな。それに、井上は、普段からみんなとしゃべんないから、疑われても仕方がないだろう!」引っ込みのつかなくなった鶴見が言い返した。
 「鶴見さんだって、一番遅くまで残っていたことがあるじゃないですか! ボクにコピーできたって言うんだったら、鶴見さんにだってチャンスはあるわけじゃないですか!」
 「最後まで残っていることが多いっていう理由だけで井上さんのことを疑うのなんて、乱暴ですよ」傍らでやり取りを聞いていた間島も井上に加勢した。
 「別に、オレは井上がやったって断定はしてないだろう? ただ、疑われても仕方がないんじゃないのかって言っただけじゃないかよ」
 「証拠もないのに疑われていることが腹が立つんですよ。なんにも疑われることをしていないのに」井上が鶴見と中山のことを睨みつけた。いつもは寡黙な井上が怒りをあらわにしたことに、オフィス内に緊張が走る。
 社員たちの言いあいに、浩二が割って入った。
 「言いあいするのは止めろよ!」
 「だって、チクッた奴のせいで、おれたち仕事がやり辛くなったんですよ!」顔を紅潮させた鶴見が浩二に食って掛かった。鶴見としても、会社にたてつくつもりはなかったのだが、言いあいをしたことで気持ちに火が付いてしまったのだ。
 「部長、ファイル管理の強化って、これからもずっと続けるつもりなんですか?」
 「それって、なんとかなんないんですか?」
 中山と間島が、続けざまに浩二に向かって言葉を投げかけてくる。
 「社長とよく話しあってみるから、とにかく社員同士で喧嘩するのは止めてくれないか」浩二の投げかけにより、いったんは、その場は収まった。

5.
 しかし、翌朝、再び社内での言いあいが勃発した。
 その日、健一は取引先へ直行したため、昼からの出社であった。浩二も、朝から営業の仕事で外出し、社内にいたのは社員だけであった。
 事の発端は、江川宛にかかってきた一本の電話だった。彼が新しく担当することになった案件の発注先からの電話であり、おおよそのデザイン料を教えてほしいという内容であった。社内での決済に必要なため、早急に回答が欲しいということを電話の相手は口にした。
 折り返し連絡すると伝えた江川は、デザイン料を試算すべくパソコンに向かい、発注先が要望するデザインの内容を確認した。しかし、そこから先は会社のデザイン料金基準や類似案件のデザイン料を確認しなければならなかった。
 江川は、オフィスの奥に視線を向けた。オフィスの奥には社長と管理部長の席があるのだが、あいにく二人とも不在である。
 「どうしたらいいんだよ……」江川が狼狽えた。
 「どうしたんですか?」間島が声をかける。
 「案件の発注先にデザイン料を回答しなきゃならないんだけど、ファイルが見られない」会社のデザイン料金基準や過去の案件のデザイン料の記録が収められたファイルは、鍵のかかったキャビネットの中にある。
 「いつまでに回答しなきゃならないんですか?」
 「早急に回答してほしいって言われているんだけどな」電話の相手は、昼までには回答してほしいという言い方をしていた。
 「社長と部長って、いつぐらいに戻ってくるの?」二人のやり取りを耳にした鶴見が、事務担当の加藤に確認する。
 「社長は、午後から出てくるっておっしゃっていましたけど。部長は、なにも聞いていません」
 「とりあえず、先方に連絡を入れたほうがいいんじゃないのか? 回答が昼過ぎになりますっていう連絡を」鶴見が、江川にアドバイスを送った。
 江川が、発注先に電話を入れた。昼過ぎに回答の連絡を入れるということを伝える。電話に向かって、何度も詫びの言葉を口にした。相手が、すんなりとは理解をしてくれないようであった。
 電話を終えた江川が、顔をしかめながら舌打ちをした。
 「嫌なことを言われたんですか?」間島が話しかける。
 「散々嫌味を言われたよ。時間がかかるんだったら、他のデザイン会社に乗り換えちゃうよとか言いやがってさぁ……」江川が、電話でのやり取りをつぶさに口にした。
 電話でのやり取りをさらけ出した江川の胸中に、やり場のない怒りが湧き上がってきた。電話の相手にねちねちと責められたことにも納得がいかなかったが、それ以上に、必要な情報をすんなりと見ることのできない状況に陥っていることへの不満が募った。
今までであれば、なんでもないことであった。普通にキャビネットからファイルを取り出し、会社のデザイン料金基準と類似案件のデザイン料を確認した上で、これから自分が担当する案件のデザイン料を試算し、発注先に連絡を入れる。せいぜい三十分もあれば済む話だった。
 そうであれば、とっくに連絡を終え、デザインの制作に取り掛かっているはずだった。それなのに、連絡を入れられる目途も立たず、デザインの制作にも取り掛かれない。
 「なんなんだよ、これって!」江川は声を荒げた。全員の視線が江川に集まる。
 「この中の誰かが余計なことをしたからだよ」鶴見も声を張り上げた。
全員が、それぞれの顔を覗う。互いに腹の中を探りあうような空気が生まれた。
「オレじゃねーよ!」その場の空気に耐えられなくなった中山が口を開く。
 「オレと中山が犯人じゃないことは確かだからね」労働基準監督署の調査が入ったその日の夜、会社近くの居酒屋で中山と語りあったときのことを思い返しながら、鶴見も口にした。
 「じゃぁ、ボクたちの中に犯人がいるとでも言うんですか?」江川が、興奮気味に言葉を返す。
 「そんなこと、一言も言ってないだろう! ただ、オレたち二人は犯人じゃないって言っただけだろうが」
 「それって、ボクたちの中に犯人がいるって言っているようなもんじゃないですか!」
 「そんなの、あんたが勝手にそう思っているだけだろ」
 「だれが聞いたって、そういう風に言っているように聞こえますよ」
 「しらねーよ、そんなの!」
 鶴見と江川の間に火花が散った。オフィス内がピリピリとした空気に包まれる。
 「じゃぁ、ボクも言わせてもらいますけど、チクッたのって鶴見さんたちじゃないんですか?」江川が、鶴見と中山に向かって言い返した。二人の顔色が変わる。
 「ボクたちは、この仕事が好きでこの会社に入ったんだし、社長にも感謝しているし、チクろうとなんて思わないですよ。でも、鶴見さんたち転職組は、オレたちとはそこらへんの気持ちは違うだろうからさ。それに、家族がいてお金も必要だからチクッたんじゃないかと思っていますけどね」感情を抑えることができなくなった江川が言い放った。家族がいるという意味は、結婚を意識した相手のいる中山に対しても向けられた言葉だった。
 「証拠があるのかよ、証拠が!」
 「お前が一番怪しいんだよ。お兄さんが弁護士をしているとかで、調査だとか権限だとか詳しいことを知っていたじゃないかよ!」
 鶴見と中山もやり返す。
 鶴見と中山、江川との間で口論が繰り広げられた。
 口論は、間島にも飛び火した。間島が労働Q&Aページを検索していた場面を、中山が一度目撃していたからだった。そのことを思い出した中山が、間島に矛先を向ける。それに対して、間島が加藤に弁明したときと同じ言葉を口にする。飲み会で話が盛り上がり、興味本位で検索したという話であった。
 「飲み会? 言い訳をするのなら、もう少しましな嘘をつけよ!」鶴見が小馬鹿にしたような視線を送る。
 「言い訳なんかしていませんよ。ほんとうのことなんですから」間島が気色ばむ。
 「鶴見さん、その言い方ってひどいと思います。一方的に嘘ついているって決めつけるのって」加藤も口を挟んだ。
 意表を突かれた鶴見が加藤に視線を向けた。彼女から反撃を食らうとは思っていなかったからだ。
 一人言いあいに加わらずにパソコンに向かっていた井上が唸り声を上げた。あからさまにイライラとした表情を浮かべる。口にこそ出さないものの、その表情からは『いい加減にしてくれ!』というメッセージが発せられていた。
 井上の表情を目にした鶴見が、しかめっ面をしたまま視線をパソコンの画面に戻した。せわしなくマウスをクリックする。
 つられたように、中山と江川、間島も、パソコンの画面に視線を向けた。
 張りつめた空気の中で、マウスをクリックしキーボードをたたく音だけがオフィス内に響き渡った。

6.
 それ以来、社内が険悪な空気に包まれた。五人のデザイナーの間に三枚の壁があるかのような空気ができあがってしまったのだ。鶴見と中山、井上、江川と間島という図式であった。
 鶴見、中山と江川、間島が、互いに口を聞かなくなった。井上も、今まで以上に一人だけの殻にこもるようになった。
 デザイナー間での険悪なムードは、加藤の仕事にも影響した。デザイナーが抱えている案件の取引条件等について確認を取ろうとしたときに、今までであれば、初めて経験する発注先や案件タイプだったことで担当のデザイナーが即答できないときに、経験したことのある他のデザイナーが助け舟を出すことで解決できていたのだが、今は、相手が困っていることを知りながらも互いに知らん顔をするため、解決するのに時間がかかってしまうことが起こるようになった。
 複数のデザイナーが絡んだ案件に関しても、自分に関連すること以外については口を開こうとしない。
 さらに、互いに仲たがいしているデザイナー間で連絡を取り合うときに、加藤を介してやり取りが行われるようにもなった。
 デザイナーたちの異様な行動は、それだけでは収まらなかった。社内で、お互いが監視しあうような空気も生まれていた。
 会社が指定した資料に関して健一か浩二の許可を得た上で閲覧するルールは続けられていたが、閲覧している人間の行動を監視するような動きをデザイナーたちが取るようになっていたのだ。
 監視する側は仲たがいしている相手が機密性の高い資料に触れていることが気になり、監視されている側も資料に触れているときの周囲からの視線を感じていた。
 自分たちの中に密告者がいるという思いが、社員全員を疑心暗鬼に陥らせていた。

 デザイナーたちの険悪な雰囲気に振り回されていた加藤も疲れ果てていた。全員に対して気を配らなければならなかったからだ。社内のコミュニケーションが悪くなったことで、仕事を進めるのに必要以上に時間がかかってしまう。そのことに対しても、加藤はストレスを感じていた。
 一人で抱えきれなくなった加藤は、上司である浩二に相談することにした。思いつめたような表情で、彼に対して相談したいことがあるという言葉を口にした。
 その表情を見た浩二は、加藤を会社の近くの喫茶店に連れ出した。社内では口にしづらいような話があると感じていたからだ。
 二人分のコーヒーを注文した浩二は、「相談したいことってなに?」と視線を向けた。
 「その……、社内が、おかしな雰囲気になっているんです」加藤が声を絞り出した。
 「おかしな雰囲気とは、どんな雰囲気なの?」浩二が、優しく問いかける。
 「実は……」加藤は、自分が感じている社内の異様な雰囲気を洗いざらい打ち明けた。健一と浩二のいないときに密告者の存在を巡ってデザイナーたちの間で激しい言いあいが発生したこと、それ以来五人のデザイナーが三つに分裂してしまったこと、デザイナーたちの間で自分を介したやり取りが行われていること、そして互いに監視しあっているような空気があることを話した。
 「そのようなことが起きていたのか」浩二は、驚きの表情を浮かべた。
 密告があったとき以来、社員同士で言いあいをしている場面を目にしたことはあったが、社内がそのような状況になっているとは気づかなかった。自分の席とデザイナーたちの席が離れていることや営業の仕事で外出する時間が多いことから、そのような社内の雰囲気を感じ取れずにいた。
 「このままだと、みんなダメになっちゃうと思って。でも私の手には負えないから、部長に相談したほうがよいのかなと思いまして……」浩二の驚く顔を目にした加藤が、申し訳なさそうな表情を浮かべた。まるで、自分自身が原因を作ってしまったとでも言いたげな表情であった。
 「ありがとう、相談してくれて。本来であれば、ボクがもっと注意深く見ていなければならなかったんだ」浩二は、感謝の言葉を口にした。
 彼女の話を聞く限り、事態は深刻だ。デザインに関する作業は担当のデザイナーが単独で行う場合が多かったが、複数のデザイナーで対応しなければならない案件もある。そういうときは、チームワークがしっかりしていないと仕事にならない。そもそも社内の人間関係の悪化は、社員の仕事に対して確実に悪い影響を与えるはずだ。
 本来であれば、管理部長という立場上、常に社内の動向に目を光らせ、ギクシャクしていることがあれば改善するための取組みを行わなければならない役割が自分にはあった。加藤から相談を持ちかけられるまで社内の変化に気がつかなかった自分のことを、浩二は恥じた。
 「部長、どうしたらいいのでしょうか?」加藤が、困り果てた目を向けた。
 「社内がギクシャクし出したのは、密告の件で言いあいになってからなんだよね?」鶴見、中山と江川、間島との間で本格的な言いあいがあったことは、浩二も初耳だった。
 浩二の問いかけに、加藤が頷く。
 「ちなみに、加藤さんは、誰が密告者なのかを知っているのか?」
 「いいえ、知りません」
 「そうか……」
 「会社も、犯人探しをしているのですか?」加藤が不安げな表情を浮かべた。自分が浩二に相談したことで、会社からの追及がさらに激しくなるのではないかと感じていたからだ。
 「なにがなんでも探し当てようと考えているわけではないよ。ただ、このまま変なわだかまりが残るのも困るしね。正直言って、どのように対処しようか頭を悩ましているところなんだ」加藤の気持ちを察した浩二が、犯人探しに執着しているわけではないことを説明にした。
 その言葉を聞いた加藤が、安堵の表情を浮かべる。
 「今後のことはボクのほうでなんとかするから、キミは心配しなくてもいいよ」
 「でも、現に私を介して話をしようとしてくるんですけど……」
 「わかっている。早急に五人を集めて話をするから」
 「お願いします」加藤は、浩二に深々と頭を下げた。

7.
 一足先に加藤を会社に戻した浩二は、そのまま喫茶店に残り、二杯目のコーヒーを注文した。今後のことを考えたかったからだ。
 加藤に対しては『自分がなんとかするから』と答えたが、具体的な考えがあるわけではない。ただ、そのように答えておかないと話が終わらないと感じたからだった。
 「どうしたものかな」両手で頬杖をついた浩二は、視線を天井に向けた。デザイナーたちが分裂してしまっている状況をなんとかしなければならない。
 加藤から聞かされた話では、社内は深刻な状態だった。このまま手をこまねいていると、彼女も含めたすべての社員にストレスを与え続けてしまう。離職する者も出てくるだろう。
今の五人のデザイナーは、いずれも優秀なメンバーであった。一人でも抜けてしまうと、会社にとってのダメージも大きい。人数が減った分、案件への対応力が低下し、そのことが売上の低下に直結してしまう。新しいデザイナーを採用したとしても、戦力になるまでには時間が必要だ。
 加藤も優秀な社員だった。浩二が管理部長でありながら営業の仕事を兼任できるのも、ひとえに彼女のおかげであった。彼女が社内の事務仕事を一手に引き受け正確にこなしてくれているからである。その加藤がリタイアしてしまうと、浩二も今までのように営業の仕事に時間を裂けなくなってしまう。そうなると、会社の売上も低下してしまう。
 「なんとかしなきゃまずいな、ほんとうに……」浩二は頭を抱えた。
 いまさら社内情報の管理強化ルールを撤廃することで済む話ではなさそうだった。そのようなルールを敷いたことで、もともと社内に存在していたデザイナー間でのすれ違いが表に出てきたのだ。
 浩二の目から見ても、五人のデザイナーは決して一枚岩ではなかった。専門学校を卒業してすぐに入社してきた三人と他社から転職してきた二人の間には、お互いにけん制しあう部分があった。生え抜き同士でも、寡黙なタイプの井上とそうでない江川、間島の間には、互いに相容れないようなものも存在していた。
 このような軋轢が表に出てしまった以上、第三者が間に入って仲を取り持つようなやり方では解決できない。そのようなやり方ではなく、全員の心が一つになれるような雰囲気作りが必要だ。もっと言えば、そのような雰囲気を作り出すための特別な仕掛けが必要である。
 浩二は、頭の中で考えを巡らせた。
 特別な仕掛けとは、どのようなものであるべきなのか。いずれにしても、全員で話し合いができるような場が必要だ。たとえば、社長も含めた八人全員でパーティなどを催してみてはどうだろうか。現状では、全員で集まる行事といえば年末の忘年会だけだ。よその会社の取組みで、花見や夏のバーベキューなど季節ごとに全員が参加する行事を催したことで社内の結束力を強めていったというような話を聞いたこともある。小島デザイン研究所でも、そのような取り組みを増やしていけば、結束力が強まっていくのではないだろうか。
 しかし、そのような発想は浩二の頭の中に定着しなかった。全員参加型の行事を増やしたとしても、それで全員が腹を割ってしゃべれるようになるとは思えないと感じたからだ。行事に参加している最中はお互い楽しく会話をするだろうが、それが終わってしまえば、今まで通りの関係に戻るのではないだろうか。行事の最中は仕事から解放されているため全員がリラックスした状態で時間を共有できるが、仕事のときは全員が常に緊張を抱えながらいるからだ。
 そのような上辺のコミュニケーションを刺激するのではなく、お互いに共有できる価値観的な部分で結束を図らなければならないのではないか。
浩二は、そのような思いを強めていた。
 「どのような価値観なら共有できるのだろう?」浩二は、いろいろな価値観の形を頭の中に思い浮かべてみた。
 会社の売上が増える、今よりも立派なビルにオフィスを移転する、社員の数を増やす、自分にとってはものすごくイメージしやすい価値観だったが、はたして社員たちにとってはどうなのだろうか。経営的には重要な価値観だが、働く側からしてみたら心を踊らされるようなことではないのかもしれない。ステータスを重んじる社員であれば立派な価値観に映るかもしれないが、今の小島デザイン研究所には、そのようなタイプの社員はいない。
 みんなの給料を増やす、ボーナスをたくさんもらえるようにする、昇格のチャンスが増える、このような価値観ならどうだろうか。会社の売上を増やすことでみんなの給料を上げていける。売上を増やせれば社員の数を増やすことも可能であり、そうなれば今の社員たちを昇格させることもできる。
 たしかに、このような話であれば社員たちは乗ってくるだろう。しかし、そうすることで全員の結束力が強まるというイメージは湧いてこない。社員たちの意識の中には、売上を増やすのは経営者の役目であり、営業の仕事をする社長と管理部長の責任であるという考えがあるはずだからだ。自分たちがなにか工夫をすることで売上が増えるなどとは考えないのではないだろうか。
 浩二は、頭をかきむしった。はっきりとした答えが浮かんでこない。目の前のコーヒーカップを手に取った。コーヒーは、すっかり冷めていた。中身を飲み干した浩二は、三杯目を注文した。
 間がなく、新しいコーヒーが運ばれてきた。コーヒーカップの表面から湧き上がる湯気が芳醇な香りを鼻腔に運んでくる。出来立てのコーヒーの香りを吸いこみ深呼吸をした浩二の頭の中に、ある疑問が浮かんできた。互いに共有できる価値観があれば社員たちの結束が強まることは間違いないことだが、そもそも他人から押し付けられた価値観を共有しあえるのかという疑問だった。自分たちで見出した価値観だからこそ共有しあえるのではないだろうか。自分自身の心の中でやっていきたいと思えることをみんなで感じあえる、そのような状態があることで結束が強まるのではないのか。
 頭の中の疑問を追及していった浩二の脳裏に、あるイメージが湧き出てきた。先ほどまで思い描いていた『会社と社員たちとの間の橋渡しをするのが自分の果たすべき役割なのだ』、『全員の心が一つになれるような雰囲気作りをするための仕掛けが必要だ』、『自分たちで見出した価値観だからこそ共有しあえるのだ』という考えが一つの形にまとまった。
 「そうか、これならいけるかも!」浩二は、とある仕掛けを思いついた。この仕掛けならば、社員たち自身で価値観を見出すことができ、会社と社員たちとの間の橋渡しをするという自分の役割も果たすことができる。
 確信を抱いた浩二は、伝票をつかみ、席を立った。コーヒーカップの中には半分ほどのコーヒーが残っていたが、それには目もくれずレジへと急ぐ。会計を済ませ、会社に向かって早歩きで歩き出した。
 思いついた仕掛けを一刻も早く行動に移してみたいという思いが、浩二の胸の中を支配した。
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