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第4章 真相
戦国シミュレーション
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1.
渡し舟の上から見渡す視界の前方に宮宿の町並みが広がっていた。乗客たちが下船の準備を始めていた。船着き場には、桑名に向かう乗客が列をなしている。
大和の国へ向かうために宮宿を発ってから四週間が経過し、季節は着実に進んでいた。着物の隙間から入り込む海風が肌寒い。
松井と落ち合う約束をした日まで、まだ二週間の時間があった。
ボクは、その二週間で、栄斉が参加していたという歌会の所在を突き止めるつもりでいた。手がかりは、高野広葉という商人だ。
興条寺の女中の話では東方に位置する近隣の国ということだったが、その国とは十中八九尾張の国だろうと考えていた。この時代に秀吉とゆかりのある国といえば他にも近江、山城、摂津、但馬などがあったが、いずれも興条寺から見て東方には位置しない。
ボクは、尾張の国の連歌師たちに栄斉と高野広葉が参加している歌会を知らないかと聞いて回るつもりだった。商人たちへの聞き込みによる高野広葉の所在の追及も並行して行うことにしていた。
舟が船着き場に到着した。先頭の乗客から順に、船頭の指示に従って下船する。
舟を降りたボクは、さっそく捜査を開始した。町中を、連歌師や商人を探し歩いた。
今回の捜査は、秀吉の足跡を探して歩くといった漠然とした捜査ではなく、聞き込みの相手も連歌師と商人に限定されるため、広範囲での捜査は必要なかった。
連歌師と商人は人の集まるところで活動するため、捜査を行う場所として宿場町は打ってつけだ。
尾張国内には宮宿と鳴海宿という二つの宿場町があったが、その二つの町で聞き込みを行えば何らかの手がかりが得られるだろうと考えていた。
やみくもに捜査をしても時間を浪費するばかりなので、連歌師に関しては、町中で開かれている歌会に顔を出して聞き込みを行うことにした。
何者かに監視されている気配は相変わらず続いていたが、意識しないことにした。ボクのことを護ろうとする存在もいたからだ。現に、大和の国へ向かう道中で妨害に遭って以来、ボクの身に危険は降りかかっていない。
東海道最大の宿場町といわれるだけあって、宮宿内のあちらこちらで歌会が催されていた。連歌師から手ほどきを受けたにわか歌人たちが、手前の歌を披露し合う。
この時代の和歌は、現代でも読まれている五七、五七、七形式の短歌以外にも、五七を三回以上繰り返した後に最後を七音で締めくくる長歌、五七七を二回繰り返す旋頭歌という形式があった。
昔の人が読む和歌に対して小難しいものだというイメージを抱いていたのだが、以外にも、にわか歌人たちが読む歌の内容をすんなりと理解することができた。頭脳が佐平次であるせいなのかもしれない。
ボクは、歌会に顔を覗かせ、栄斉と高野広葉のことを聞いて回った。すぐにでも手がかりが得られるのではないのかと意気込んでいたのだが、予想に反して栄斉や高野広葉のことを知るという連歌師は現れなかった。
ボクは、興条寺や逍遥院という名前も口にした。
しかし、これはという情報は耳に入ってこない。
ボクは、連歌師への聞き込みを中断し、商人への聞き込みを行うことにした。高野広葉の所在をつかめれば、そこから歌会の所在を手繰り寄せることができる。
ボクの推論が的を射ているのであれば、栄斉が定期的に参加している歌会には大名や城主クラスの人間も参加しているはずであり、そのような場に参加できる商人の名は、商人たちの間で広まっているはずであった。
しかし、商人への聞き込みの結果も芳しくなかった。高野広葉の名を知るという者が現れないのだ。
(もしかしたら、高野広葉というのも筆名なのかもしれないな)
その可能性はあった。興条寺住職の逍遥院とは歌会仲間であることから、寺の者に対しては筆名を名乗っていたことも十分に考えられる。
歌会探しの捜査は、難航の兆しが見え始めていた。
宮宿一帯を歩き回ったものの、歌会や高野広葉に関する手がかりを入手することができずにいた。
その結果は、ボクには意外だった。宮宿は東海道最大の宿場町であり、連歌師や商人もたくさん集まってくる。
栄斉が関係する歌会が尾張国内で開かれていたのなら、これだけの聞き込みを行ったのだから何らかの手がかりがつかめていなければおかしい。
(尾張の国ではないのかな?)まだ鳴海宿での捜査が残っていたが、ボクは弱気になっていた。しかし、女中の話が正しいのであれば、歌会の場所は尾張国内だとしか考えられない。
むろん、諦めるわけにはいかなかった。筒井順慶との外交役を果たしていた栄斉が定期的に歌会に参加していたというのは、重要な手がかりだったからだ。
鳴海宿でも手がかりがつかめなかった場合は、捜査のやり方を変えた上で、再度連歌師を中心とした聞き込みをやってみよう。ずばり秀吉の名前を口にして、彼が参加する歌会を知らないかと聞いて回るのだ。秀吉が参加する歌会に栄斉の名前があれば、二人の関係性を証明できる。
松井と約束した日が迫ってきていたため、取り急ぎ鳴海宿での捜査を済ませてしまおうと、ボクは気を奮い立たせた。
鳴海宿へ移動する日の朝のことだった。
宿の人間から、尾張国内の歌をたしなむ僧侶たちが一堂に会する歌会が開かれるという情報を入手したボクは、会場に立ち寄ることにした。
参加者たちから、何か栄斉のことを聞き出せるかもしれない。会場も鳴海宿へ移動する道中にあり、時間のロスを気にする必要はなかった。
歌会の会場には、何人もの連歌師の姿があった。
ボクは、連歌師たちへの聞き込みを行った。
ここでも求める情報を入手することはできなかったのだが、ボクは不思議な体験をした。それは、とある連歌師に聞き込みをしたときのことだった。
聞き込み相手である連歌師が、ボクの顔をまじまじと見つめ、こう問いかけてきたのだ。
「もしや、桐香寺(どうこうじ)の歌会で、それがしがお供をさせていただいたことはございませぬでしょうか?」
「桐香寺とは、どちらにある寺のことでしょうか?」
「愛知郡日部の郷にある桐香寺のことでござりますれば……」
「どなたかのお伴でまいったことがあるのやも知れませぬが、それがしは覚えておりませぬ。いつのことでしょうか?」
「七、八年ほど前のことと存じます」
「七、八年前でありますか?」
「はい。それがしは物覚えのよい人間でありますゆえ、間違いないことと思うておりまする。あなた様が結構な歌のお手前であったことも記憶しておりまする」
「それがしは、歌など詠みませぬ。そなたの記憶違いではござらぬかのう」
「あなた様がそうおっしゃられるのなら、そうやもしれませぬ。失礼仕りました」
頭を下げた連歌師だったが、その後も、何度も首をひねっていた。
歌会会場を後にしたボクは、鳴海宿に向かって東海道を東に進んだ。
ボクの頭の中は混乱していた。これで、尾張の国の中で見知らぬ人間から声をかけられたのが三度になったからだ。宮宿に来て間がないころに武士と商人から声をかけられたときの記憶が頭の中によみがえってきた。商人は、作之進という名前も口にしていた。
二度ならずとも三度もあるということは、もはや偶然ではかたづけられない。佐平次と尾張の国とが無関係ではないということの証明だ。
ボクの知る佐平次の経歴は、三河の国で生まれ、幼いころに両親を失い、その後一人で生きてきた中で、五年前に徳川家に仕官したという内容だ。
そして今、徳川家に仕官する以前の佐平次と尾張の国との間に関係があるという状況が色濃くなってきている。この事実を客観的に見た場合、両親を失った後より徳川家に仕官するまでの間に尾張の国で暮らしていたときがあったということになる。
問題は、尾張の国で暮らしていたと思われる時期と身分だった。
三人の話をまとめると、少なくとも七、八年前から五年前までの期間は武士として尾張の国で暮らしていたことになる。
そのことが事実であったとするならば、佐平次は、もともと織田家もしくは織田家家臣の武将に仕える武士であり、五年前に仕える先を徳川家に変えたということだ。
ボクに声をかけてきた三人の口ぶりからして、浪人などではなくちゃんとした武士として活動していたことは間違いないことのようだった。
そのことを、どう解釈したらよいのだろうか。
織田家と徳川家は同盟関係にある。よって、佐平次が織田家もしくは織田家家臣の武将のもとを出奔したのであれば、本人も次の士官先として同盟相手の大名など選ばないだろうし、たとえ本人が仕官を求めたとしても徳川家のほうで召し抱えるのを断ったはずだ。
佐平次は一介の下級武士であり、大名間の政策で士官先が変わったなどというようなことも考えにくい。
ボクは、この謎と、ボクのことを監視する複数の存在があることとが関係あるのは間違いことだろうと考えていた。しかも、複数の存在には敵対する感じが伺える。織田家と徳川家が同盟関係にあることとは矛盾していた。
ボクは、鳴海宿へ向かいながら、矛盾に対する答えを考え続けた。
2.
鳴海宿へは、あっという間に到着した。旅慣れたせいか、歩く速度が速くなっていたからだ。もっとも、考え事をしながら歩いていたので、あっという間に到着したのだと感じたのかもしれない。
いまだに、矛盾に対する答えを見つけることはできずにいた。ただ、佐平次が徳川家に仕える前に尾張の国で暮らしていたということに関しては、矛盾はないと感じていた。
前にも思ったことだが、幼少期に両親をなくして以降二十五歳にもなるまで片田舎で一人わびしくくすぶっていたとは考えられなかったからだ。都会に出て身を立てようと考えることのほうが自然である。
当時の男が身を立てるといえば武士として取り立てられるということであり、そういう意味で佐平次が武士として尾張の国で活動していたというのは話の筋は合うのだが、今現在徳川家に仕えていることへの説明がどのように考えてもつかなかった。
佐平次が五年前に徳川家に仕官したのは、周囲の人たちの証言から明らかなことだ。
矛盾を解く鍵が、ボクが複数の存在から監視されていることにあるのも間違いないことだろう。
ただ、監視されている構造が不可解だった。大和の国へ向かう道中で三人組の強盗に襲われたときに、強盗たちはボクのことを傷つけることなく旅荷を奪えと頼まれたという言葉を口にした。そのことをどのように解釈すべきなのかが、いまだにわからない。
強盗は、依頼した人物が生駒親正の名前をチラつかせたとも言っていた。生駒親正は秀吉の側近であり、秀吉方が都合の悪いことを調べられるのを阻止する目的で仕掛けたことなのだと解釈することはできるのだが、そうなると傷をつけるなということへの説明がつかなくなる。
都合の悪いことを調べられるのが嫌だと思うのなら、まどろっこしい仕掛けなどせずに殺しにかかればよいのではないだろうか。こっちは一人なのだし、首をはねることなど訳のないことのはずだ。信長抹殺の裏に秀吉の存在があったことを推測させる証拠を探しに旅に出ているのだという目的を知っているのならば、監視をするなどという悠長な対応を取ること自体がおかしいのだ。
ボクのことを護ろうとする存在がいることも、不可解なことだ。
常識的に考えれば、ボクに指示を与えた徳川方が護ってくれているのだと考えられるのだが、なぜ監視する必要があるのだろうか。
理由として考えられるのは、ボクのことを信用しきれていないからなのか、あるいはボクが円滑にミッションを遂行できるように陰ながら護ろうとしていたからなのかということだが、前者が理由であるのならば、始めから信用のおける人間に指示をすればよいだけのことだ。城下には佐平次よりも長く徳川家に仕え功績のある人間もたくさんいたからだ。
また後者が理由であるのならば、このような任務を遂行するために必要なキャリアを積んだ人間にやらせれば済む話である。徳川家ほどの大大名であれば、そのような人材はたくさんいるはずだ。
監視を行うには、それなりのコストがかかる。そのための人員や費用が必要となるからだ。任せると言いながらコストをかけて監視する。
そのような無駄なことを、はたして、あの家康がやるだろうか。
佐平次に尾張の国で武士として活動していた時期があった可能性があるということとボクに対して不可解な監視体制が張り巡らされているということとの間に関連性があるのではないかという推測に対しては自信を持てるのだが、具体的な内容については見い出せずにいた。
鳴海宿に到着したボクは、即座に連歌師に対する聞き込みを開始した。
そんな中、ある連歌師が、手がかりとなる重要な情報を口にした。最近になって活動拠点を尾張の国に変えたという連歌師だった。
興条寺の住職と高野広葉のことを知っているというその連歌師は、歌会が開かれていた場所を教えてくれた。
「お探しの歌会とは、栄和寺にて催される歌会のことではござらぬでしょうか」
「栄和寺とは、いずこにある寺なのですか?」
「三河の国の額田にございます」
「三河の国とな!」
ボクは、驚きの声を上げた。予想だにもしていない答えだったからだ。三河の国は徳川領内である。
「まことの話でござるか!」思わず声を高くし、連歌師に詰め寄った。
「まことの話でござりますれば」連歌師は、怯えたような表情を浮かべながら後ずさりをした。ボクが斬りかかってくるとでも思ったようだ。
「驚かせて済まぬ。拙者が思うていたこととは異なる答えが返ってきたゆえ。そなたは、その歌会に参加されたことがおありになるのでしょうか?」
「はい。半月ほど前までは、それがしは三河の国で活動しておりました。逍遥院殿や高野殿とは、栄和寺の歌会で、何度か顔を合わせてございまする」
「歌会は、いかような方々が参加しておられたのでしょうか?」
「お武家さまや御僧侶さま、商人などがお見えになります」
「お武家さまの中には、御高名な方もおられたのでしょうか?」ボクは、核心部分に触れた。連歌師に、強い視線を送る。
「御高名な方と申されますと……。石川数正殿でしょうか」
「石川殿!」
栄和寺は西三河の領地内にある。そして、石川数正は西三河の筆頭であり、西三河の中心城である岡崎城の城主でもあった。
連歌師から栄和寺の場所を確認したボクは、東海道を東へと向かった。栄和寺は、岡崎城からほど近い場所にあった。高野広葉も、岡崎城下で商いをしているということだ。
ボクは、歩きながら考え続けた。
栄斉とつながりのあったのは、秀吉ではなく徳川だったのだ。
ということは、栄斉は、徳川方の外交僧として筒井順慶のもとに出向いていたということになる。要件も、重要な内容であったはずだ。沼田が殺されたからだ。
そうなると、ボクのことを襲ったのは徳川方の人間だったということになるのか。傷つけずに行動を邪魔しようとしたわけであり、あり得ない話でもない。
しかし、この推理には、二つの疑問が残った。
一つ目の疑問は、邪魔をするくらいなら最初からこのような捜査を指示しなければよかったのではないかということだ。
捜査の目的は、本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていないかどうかを調べることにある。
光秀と特に親しかった筒井順慶は、ある意味本能寺の変のキーマンとなる大名であった。勝又御子(みこ)神社の一件がなくても捜査の対象にはなる。そんなことは、始めからわかりきったことではなかったのか。
二つ目の疑問は、ボクのことを護るために監視をしていた存在はどこから来たのかということだ。
徳川家以外に、ボクのことを護ろうとする存在は考えられない。今のボクは、徳川家のために動いているからだ。
理屈から考えて、徳川家と敵対する存在がボクのことを護ろうとしていたのだという考えは矛盾する。
栄斉を通じた徳川家と筒井家との関係を敵方がすでに知っていたのならば今さらボクが大和の国へ行けるようにするために護る必要はないし、知らなかった場合も大和の国にこのような秘密があったことを敵方は知らないわけだから、なおさらボクのことを護る必要などない。
ボクは、考え続けた。なかなか、しっくりといく答えが見つからない。
(まてよ?)ボクは、連歌師から聞いた話を、今一度頭の中で思い返してみた。
連歌師は、石川数正と栄斉、高野広葉との間に関係があったとは言っていたが、家康本人とも関係があったとは言っていない。石川数正が、単独で栄斉を使って外交を行っていたという可能性も考えられるのだ。
史実では、石川数正は、一五八五年の十一月に秀吉方に寝返っている。となれば、その三年前より、すでに秀吉と通じていたということも考えられなくはない。
そんな中、秀吉が、己のリスクを考え、石川数正を使って筒井順慶と交渉していたのかもしれない。交渉事が表沙汰になっても、自分には関係がないことだと主張するためにだ。
その場合、表に立っているのは石川数正なのだから、家康がまずい立場に立たされる。知恵者の秀吉が考えそうなことだ。
そうであった場合、ボクのことを妨害しようとしていたのは石川数正であり、ボクのことを護ろうとしていたのが家康だということになる。
その関係性が正しいのであれば、家康は、石川数正が栄斉を使って密かに筒井順慶との外交を行っていることに感づいていたということになる。そんな中、ボクが大和の国に目をつけたことを知り、護る行動に出たのであろう。
しかし、そうであったとすると、家康は、どうやってボクの行動計画を知ったのだろうか。捜査状況を定期的に報告することは求められていなかったため、ボクのほうからは何も連絡はしていない。
疑問は解決されなかったが、石川数正が密かに秀吉と通じていたのではないかという考えが、ボクの頭の中を支配していた。
3.
栄和寺に到着したボクは、住職に会い、歌会のことを訊ねた。警戒されないために、栄和寺での歌会のことを教えてくれた連歌師の名前を伝えた。
そして、住職の口から、石川数正、興条寺の住職、高野広葉の三人が、栄和寺で開かれる歌会の常連であったことを確認した。
歌会は、石川数正からの指示で二年前より開かれるようになったということであり、興条寺の住職と高野広葉は最初からのメンバーということだった。住職の記憶によれば、石川数正と興条寺の住職は、それ以前からの知り合いのように見えたということだ。
これで、二人がつながっていたことがはっきりとした。なぜ徳川家の重臣と徳川領外にある寺の住職との間で関係ができたのかはわからないが、領外の人間だったからこそ秘密外交のパイプ役として活用することができたのではないかということも言える。
ボクは、本能寺の変自体に石川数正が関係していた可能性を考えてみた。
栄和寺を後にしたボクは、東海道をさらに東へと向かった。
松井と落ち合う約束をした日までまだ一週間あったが、やることを全てやりつくしたという思いがボクの中にあったからだ。
そのような中、浜松城下に立ち寄ってみたいという気持ちが湧いてきた。お玉に会うことが目的だった。
佐平次の家を発ってから二ヵ月が経とうとしていた。そして、彼女のことが無性に恋しくなっていた。タイムスリップをした後のわずかな時間ではあったが、彼女と過ごした時間は、心地の良い記憶としてボクの頭の中に住みついていた。
浜松城下へは、二日後に到着した。
本多忠勝や直接の上司である足軽大将の大山左馬之助に対して一言挨拶をすべきなのではないのかという考えが頭をよぎったが、やらないことにした。なんのために戻ってきたのだと問われたときの適当な理由が思いつかなかったからだ。長居するだけの時間的な余裕のないことも理由だった。
佐平次の家にたどり着いたボクは、鍵のかかっていない入口の扉を開け、家の中に足を踏み入れた。
家の中は、綺麗な状態が保たれていた。ごみやほこりも落ちていない。お玉が、毎日掃除をしてくれているのだろう。
一通り家の中を見回したボクは、家を出て、二軒隣りの商家に向かった。お玉が住む家である。彼女の家は、今でいうところの生活雑貨を売る商店だった。
店の中は、お玉の母親が店番をしていた。突然姿を現したボクを見て驚く。ボクは、まだ任務中なのだが、近くに来たので立ち寄ったのだと説明した。
お玉は、買い物に出かけているということだった。すぐに戻るということであり、ボクは、母親に、手が空いたら佐平次の家に来てくれるようにお玉に伝えてほしいと頼み、家に戻った。
一時間後に、お玉が家に現れた。嬉しそうな顔で、ボクのもとに駆け寄ってくる。
「久方ぶりでございます。お元気そうで、何よりでございます」
「そなたも、息災のようであるな」
ボクたちは、一別以来の言葉を交わした。
ボクは、いろいろと話したいことがあったのだが、いざ本人を前にすると言葉が上手く出てこなかった。お玉も、話したいことがあるのに言葉が口を突いて出ないというような表情を浮かべている。
しばしの沈黙の後に、お玉が言葉を発した。
「あのときよりずっと、佐平次さまの心配ばかりしておりました」
「拙者も、そなたのことを気にかけておったのだ」
「まあ、嬉しゅうございます」
「文は届いたかのう?」
「はい。何度も読ませていただきました」
お玉が、懐から手紙を取り出した。何度も読み返したという言葉通り、紙の折れ目がもろくなっているのが目に映る。
ボクは、手紙を書いたときのことを思い返した。
女からの誘惑を振りほどき、再び大和の国へ向かって歩き出した日のことだった。女と過ごした熱い一夜のことが頭に浮かんでくる。
女の顔が、お玉の顔と重なった。ボクは、悪夢を振り払うかのように首を振った。ボクのことを心配し続けてくれていたお玉に対して申し訳ないという気持ちが湧いていた。
「こたびは、なんどきまで居られるのでありましょうか?」お玉が、いつまで浜松城下に留まっていられるのかを聞いてきた。まだ任務中であることは知っているようだった。
「明日には旅立つつもりじゃ」
「明日でございますか!」お玉が、目を見開いた。もう少し長く留まるものだと思っていたようだ。
「すまぬな。こたびは、そなたの顔が見たくなり、立ち寄ったのじゃ」
「嬉しゅうございます」
「今日一日はゆるりとできる。そなたとも、存分に語り合いたい」
「私もでございます」
お玉の顔を見たボクの心が癒されていた。
ボクとお玉は、時間を忘れて語り合った。
お玉は、もはや佐平次に対して特別な感情を抱いていることを隠そうとはしなかった。暗に、一緒になることを望んでいるような言葉を口にした。二ヵ月間もの間逢えずにいた反動からか、思いをストレートにぶつけてきた。
それに対して、ボクも、気持ちが同じであることを口にしていた。
ボク自身は、この先どうなるのかわからないのだから軽々しく期待を持たせるような言葉を口にすべきではないという思いでいたのだが、意に反して、口からはお玉の思いを受け止めることを直接的に現す言葉を発していた。
心が佐平次の魂に支配されたのだろうと感じていた。
思いを寄せ合う男女の会話に、お玉が、今まで見せたことのないような幸せに満ちた表情を浮かべた。
その表情を目にしたボクの頭の中に、今は亡き祖父が死ぬ間際に浮かべた表情が浮かんできた。死に際に、病室のベッドを囲んだ身内の人間たちに向かって、祖父は「悔いなき人生だった」という言葉を口にした。なんら思い残すことなくあの世に旅立てるのだという思いを伝えるための言葉だった。
そのときの祖父の表情と目の前のお玉が浮かべた表情とが重なった。顔の輪郭やパーツが似ているという意味ではなく、瞬間的に見せる顔の表情に似たところがあるのを感じていた。
(もしかして?)ボクの胸の中で、ある考えが湧いてきた。お玉は、自分の先祖なのかもしれない。
残されている家系図や古文書からも、佐平次が自分の先祖だったことは間違いない。しかしタイムスリップをしたことでわかったのだが、佐平次は三十歳になった現在独身である。子どもがいるという話も聞こえてこない。そんな佐平次が子孫を残したということは、生んだ女性がいるということだ。
ボクは、その女性の位置にお玉を置いた。そのように考えても、なんら不思議ではない。むしろ自然であった。
二人が愛し合っているのは間違いない。お玉はストレートにそのことを口にしているし、佐平次もボクの心を押しのけて彼女の思いを受け止める言葉を口にしている。
ボクの中で、お玉に対する思いが、可愛い女性から敬うべき相手へと変わっていった。
浜松での時間は、あっという間に過ぎ去った。
お玉は、ボクに甲斐甲斐しく尽くしてくれた。心づくしの料理を振る舞い、着物や下着、足袋などの洗濯もしてくれた。
夕食を済ました後も、夜が更けるまで、ボクたちは二人でいた。
お玉は、女としての覚悟を表してきた。ボクにも、そのことは手に取るように伝わった。
しかし、ボクは、お玉に対して一線を踏み越えることはしなかった。彼女に対する思いが、敬うべき相手へと変化していたからだ。ボク自身が彼女の血を引いているのではないかという思いも、確信へと変わりつつあった。
そのような中で、ボクは、お玉の思いを精一杯受け止めた。ボクの胸に顔を埋める彼女の肩を優しく抱き、彼女に向けた想いを口にし続けた。佐平次の心とボク自身の心が一つになったことを感じながら、お玉に接し続けた。
出発の時を迎えた。
洗い立ての着物に袖を通したボクは、未練を断ち切るように出発することを告げた。
「年を終えるまでは、もう戻っては来られぬのですね」お玉が、寂しそうな眼差しを向けてきた。
お玉には、年が明けた一月一日に、この家に戻ってくるつもりだと伝えてあった。
「おそらくは」ボクも、寂しそうに答えた。
「私は、あなた様が御無事でおられることを、毎晩祈っております」
いつの間にか、お玉のボクに対する呼び方が、佐平次さまからあなた様へと変わっていた。
「心配は無用じゃ。けっして危うい旅ではござらぬゆえ、そなたが案ずる必要はない」
「……」
「では、そろそろまいる」
ボクは、お玉の手に触れた。お玉に対して、優しい眼差しを向ける。荷物を入れた籠を背負い、ゆっくりと立ち上がった。
お玉も、無言で立ち上がる。
「拙者が留守の間、この家のことをお頼み申す」
「承知しておりまする」
「それでは、拙者はまいる」
「お気をつけて……」
再びお玉の手に触れたボクは、西へと向かって歩き出した。途中何度か振り向いたが、お玉は、家の前に立ちつくし、遠ざかるボクに視線を向け続けていた。
やがて、お玉の姿が点になり、ボクの視界から消えた。
そのとき、ボクの胸の中で、ある予感が走った。もう、彼女と会うことはないのではないのかという予感だった。
4.
ボクは、東海道をゆっくりと歩いた。浜松から宮宿までは距離にして百キロ余り、そして松井と落ち合う約束をした日は四日後であった。一日二十五キロのペースで移動すれば間に合う計算だ。
道を歩きながら、ボクは、いろいろなことを考えた。
現世のことが頭をよぎった。みんな、ボクのことをどう思っているのだろうか。誰もが、失踪する理由など見当たらないと口にしていることだろう。事実、失踪する理由などなかったのだから。
俗世間的なことも浮かんできた。時期的に、プロ野球のクライマックスシリーズが開催されているころだ。巨人は、セ・リーグを優勝したのだろうか。タイムスリップする直前までは、巨人と阪神が首位を争っていた。
この時代のことも考えた。
別れたばかりのお玉のことを思い浮かべる。彼女が現世で生きていたら、さぞかし持てたであろうと思った。器量も気立てもよい。古風な女性が好きな男にはうってつけな存在だ。
結局のところ、お玉と佐平次は結ばれたのだろうか。
二人が惹かれあっていることは間違いない。お玉も思いを口にしていたし、佐平次もその話をするときだけボクの心の中に入り込んでいたからだ。
ボクは、二人が結ばれることを心の底から願っていた。ともに、人としてリスペクトできる存在だったからだ。ボクが、あの二人の末裔だったとしたならば、なんと素晴らしいことだろう。
それにしても、実際のところ、佐平次は、家康からこのような役割を仰せつかったのだろうか。
実際は、タイムスリップをしたボクが、佐平次の肉体と頭脳を借りて行動をしている。行動をコントロールしているのはボク自身の心だ。佐平次による秀吉の捜査が史実であったのならば、ボク自身の行動が歴史を変えてしまうことにもつながりかねない。
そのことに、末恐ろしさを感じていた。
石川数正と栄斉との関係について考えを巡らせていたボクの頭の中で、ある疑問が湧いてきた。
数日前、ボクは、石川数正が密かに秀吉と通じていたのではないかという推理を打ち立てた。その推理を柱にしていろいろなことを考えたわけだが、はたしてそのように決めつけてもよいのだろうかという疑問だった。
秀吉のあらさがしをするために旅に出ているという意識があったために、自動的に石川数正が秀吉のために秘密外交をしているのだという先入観ができあがってしまったのだが、冷静に考えてみれば、上司である家康のために動いていたと考えるのが普通だ。
栄斉が外交僧に選ばれた理由はわからない。彼が英知に富んでいたから選ばれたのかもしれないし、筒井順慶にコネがあったため筒井家への外交役として選ばれたのかもしれない。
いずれであったにしても、石川数正を通じて栄斉という存在を知った家康が外交僧として使うように指示を与えたとも考えられなくはない。
そうだった場合、外交の目的は、どのようなものだったのだろうか。
栄斉が頻繁に筒井城を訪れていたことは確認済みだ。ということは、ある時期から両者の間で外交交渉が続いていたということになる。
そうだとすると、大和の国へ向かうボクを妨害したのは家康だった可能性が高くなる。つまり、外交の内容が公にできないものだったということなのだろう。
栄和寺に向かう道中でも頭の中によぎった推理だったが、あのときは二つの疑問が残り、現実的ではないと判断してしまった。特に、邪魔をするくらいなら最初からこのような捜査を指示しなければよかったのではないかという疑問に対しては、どのように考えても答えが出てこなかった。
そんなボクの頭の中で、家康が命じた捜査の裏に、何か別の狙いがあったのではないかという疑問が湧いていた。本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていないかどうかを調べることとは別の目的である。
一介の下級武士が地道な捜査をするために旅に出ただけにしては、身の回りで起こったことのスケールがでかすぎるように感じたことが疑問の湧く原因だった。
ボクは、三度にわたる妨害の内容を何度も思い返した。
浜松を発ってから四日目の夕方、松井と落ち合う約束をした宮宿の宿に到着した。宮宿での捜査を開始したときに定宿にしていた小宿である。
松井は、まだ宿に到着していなかった。
ボクは、二人分の宿泊料金を支払い、部屋に入った。松井と別れた後の捜査の内容を頭の中で整理する。松井との間で互いの成果を確認し合った上で、今後の計画を立てなければならなかった。
頭の中での整理をし終えたころに、松井が宿にやって来た。
久々に彼の顔を目にしたボクの胸の中で、懐かしさが込み上げてきた。長い間離れ離れになっていた家族と再会したときのような気分になっていた。
「幾分、日に焼けたようであるな」ボクは、労いの意味を込めて第一声を放った。
「兄者も、だいぶん日に焼けたようでございますね」松井が、笑顔で返す。
日焼けは、活動の証である。
「尾張での調べは、いかがであったか?」久しぶりに顔を合わせたことへの挨拶もそこそこに捜査の報告を求めたボクに対して、松井が成果を説明した。
彼は、ボクが大和の国へ旅立った後に、宮宿以外の尾張の国全域にまんべんなく聞き込みを行ったということだった。農村部にも足を延ばしてみたということである。
「やはり、羽柴殿は怪しゅうございます」松井は口にした。
本能寺の変が起こる以前に、近い将来秀吉の躍進があるのではないかという話を耳にしたという人間が何人もいたということだった。その中には町人同士の噂話も含まれていたが、秀吉に近い者同士が話をしていたのを耳にしたという事例もあった。
ボク自身が宮宿での聞き込みを行っていたときにも、旅商人から、但馬の国で羽柴秀長配下の武士たちが「これからは秀吉の時代だ」などと語り合っていたということを耳にしたが、このような話があちらこちらでされていたのであれば、本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていたことを疑わせる状況根拠になる。
「跡をつけられてはおらなんだか?」ボクは、尾行されていなかったかどうかを確認した。
それに対して、松井が首を横に振る。そのように感じたことは一度もなかったということだ。
「兄者は、跡をつけられたので?」
「いかにも。大和の国へ旅立つ頃より、跡をつけられておった」
ボクは、三度にもわたって妨害されたことを口にした。妨害された内容や助けられたときの状況も詳しく説明する。
松井が、驚きの表情を浮かべた。
「さようなことが三度にもわたって起こったのであれば、何者かに跡をつけられていたという可能性が高こうございますね。さすれば、羽柴殿に監視されていたということでしょうか?」
「その可能性が高いと思われる」
「して、異なる監視の目もついていたということでしょうか? その者どもが、兄者のことを助けたということになるのでしょうか?」
「さようなことになるのであろう」
「異なる監視とは、我が方でありまするか?」
「お主は、いかが思う?」
「我が方だとしか考えられぬではありませぬか。我らは、徳川家のために動いておるのですから」
「なぜ、拙者だけが監視されておったのかのう?」
「それは、羽柴殿が、大和の国の方向へ向かおうとする者に対して監視の目を強めていたからではありませぬか? その者どもの目に、兄者が偶然に捕らえられたということではござりませぬか?」
「ならば、拙者を助けた側は、いかがなるのじゃ? 我が方による者だとして、なにゆえ拙者のことを監視しておったのであろうか?」
「監視などではなく、偶然見守るような結果になったのではありませぬか? たとえば、他の目的で大和の国の方向へ向かっていた我が方の者が偶然兄者のことをお見かけして、その折に跡をつける者がおることを知り、陰ながら見守っていたのではないでしょうか」
「ならば、なにゆえ拙者に声をかけぬのじゃ?」
「跡をつける者がどこぞの手の者かを確認することが先決であると判断したのやも知れませぬ」
「たしかに、お主の申すような解釈もできるのであるが……」
ボクは、松井の説明に納得していなかった。決して偶然などではない。口で説明するとそのように聞こえてしまったのかもしれないが、三度のことは、いずれも偶然ではなかったという確信がある。
そのこととは別に、頭の中で違和感が生じていた。今までとは違う角度から一連の出来事を精査してみるべきではないのかという意識が湧いていたのだ。先ほどまでの松井との会話の中のどこかの部分が引っ掛かっていた。
(何のことだろう?)会話の中身を思い返してみたのだが、引っ掛かった原因を見つけることができずにいた。
5.
松井から報告を受けたボクは、自分自身の捜査結果を松井に説明した。
興条寺の住職が頻繁に筒井順慶のもとを訪ねていたことや、そのことを調べていた沼田が何者かに殺害されたこと、興条寺の住職が石川数正とつながっていたことなどを伝えた。
「興条寺の住職が外交僧という立場で筒井殿と会っていたのは、間違いないことなのでありましょうか?」松井が、確認の言葉を口にした。
「筒井殿は大名であるゆえ、幾度ものこととなれば、外交僧という立場で訪ねたのだとしか考えられぬ」
「して、外交を命じたのが石川殿ということでありましょうか?」
「直接命じたのは石川殿であろうが、事は大名同士の外交であろう」
「すると、直接の外交相手とは……」
松井が口をつぐんだ。ボクは三年後に石川数正が秀吉のもとに駆け込むことを知っているが、リアルにこの時代を生きている松井には未来のことなどわからない。
そのような松井の頭の中で浮かんでくる答えは一つしかないはずだ。そのために、戸惑いを覚えたのだろう。
ボクは、未来の史実を語るわけにはいかなかったため、家康の名前を口にした。
「我が大殿であろう」
「ご用向きは、いかような?」
「それは、拙者にもわからぬ」
「なれど、興条寺の住職が我が方の外交僧であったのならば、こたびに大殿から仰せつかったこととは関係がございませぬな」
「さようであろうな……。ときに、羽柴殿と筒井殿との関係についてなのじゃが、森高義秀殿と片桐且元殿とがつながっておったという話は、どこからも聞くことができなんだ」
ボクは、沼田を使って捜査をしたことを伝えた。
「お主は、勝又御子(かつまたみこ)神社にて、しかと、お二方が会っておられたことを耳に致したのであったな?」
「いかにも。ヨシと名乗る女中から、しかと聞き申してございまする」
松井が、怪訝な表情を浮かべた。
「ならば、拙者が頼み致した者の調べが足りなかったのであろう」
「勝又御子神社へ、再び調べを致しまするか?」
「お主が、存分に調べてくれたのじゃ。この上調べを致すと、不審がられるやもしれぬ」
「ならば、このまま近江の国へ旅立ちまするか?」
「お主は、いかが思うのじゃ?」
「それがしは、この上尾張の国で調べることはないものと思うておりまする」
「ならば、明日にでも旅立つと致そう」
「近江の国では、いかような調べを致しまするか?」
「そのことは、一晩寝た後に考えようではないか。お主も、疲れたであろう」
「ちと疲れました」
松井が笑みを浮かべた。
一晩寝て、頭をスッキリとさせた上で今後の計画を考えることにした。
ボクと松井は並んで床に就いた。
間がなく、隣から松井の寝息が聞こえてきた。
しかし、ボクは、すんなりとは寝つけなかった。頭の中での引っ掛かりが残ったままだったからだ。
ボクは、松井とのやり取りを思い返した。互いの活動報告をしあったやり取りの中身に、何か引っ掛かかるものがあったのだ。
薄目をあけながら、考えをめぐらす。
そして、ついにその正体を見つけたような気がした。それは、大和の国へ向かう道中に妨害行為にあったという話をしたときの会話の中にあった。
何者かに助けられたという話をしたときに、松井が、ボクのことを見守っていた存在があったのではないかという考えを口にした。
それに関してはボクも同じ考えだったのだが、今まで見守ってくれていたのは、当然徳川方だと思っていた。佐平次は家康の指示を受けて行動していたのであり、そのように考えるのが当然なのだが、はたしてそのように決めつけてもよいものなのだろうか。
そのように考えたボクの頭の中で、今までにない発想が浮かんできた。見守ってくれていたのは秀吉方だったとは考えられないのかという発想だった。
味方であるはずの徳川方が大和の国入りを妨害する可能性があることは、以前にも考えた。筒井家との秘密外交の存在を探られたくないことが理由だ。ボクを傷つけないように妨害しようとしたこととの整合性もある。
加えて、佐平次に尾張の国で武士として活動していた時期があったのであれば、秀吉方が見守っていたというのもあり得ることなのだ。三人組の強盗が生駒親正の名前を口にしたときにボクを助けてくれた男たちが一様に怪訝な表情を浮かべていたことも、見守ってくれていたのが秀吉方の人間だったのならば頷ける話だ。秀吉側近の生駒親正が、秀吉の意に反する行為をするはずがないからだ。
考えを巡らせながら、今回の一連の捜査結果に対する検証を進めてみた。
松井から報告を受けた、秀吉の策略が働いていたことを疑わせるような状況証拠がいくつも浮かび上がってきたことも意外ではあった。
本能寺の変が起こる前から、近い将来秀吉の躍進があるのではないかというような話が巷のあちらこちらで聞こえていたのであれば、当然諸大名たちの耳にも届いていたはずだ。
史実では、主君の仇を取るという大義名分を得たことで秀吉は光秀との戦や清州会議での内容を有利に進めることができたわけだが、その裏で、家康と同様に、秀吉に対して疑惑を抱いていた大名がたくさんいたのだろうか。
勝又御子神社における森高義秀と片桐且元の密会に関しても、予想外の結果が生じていた。
松井は話を聞いたという女中の名前も口にしており二人の間で密会があったことは確かなことなのだろうが、なぜ沼田を介した捜査では、それに関する形跡が一切つかめなかったのだろうか。
沼田は、森高義秀配下の者たちに対して聞き込みを行っていた。聞き込み相手の中には、勝又御子神社に詣でる森高義秀の伴をしたことのある者も含まれていた。
秘密外交に関することであり、慎重に事が進められていたからなのだろうが、関係者への聞き込み捜査で状況証拠すら得られなかったというのは意外な結果だ。
二人が持ち帰った捜査情報を照らし合わせることではっきりとしたものが見えてくることを期待していたのだが、曖昧な部分が多く残ってしまった。
そのことに、ボクは釈然としない思いを抱えていた。
寝付けない状態が続いていた。
頭の中で、お玉に会いに行った浜松城下からの帰り道に思い巡らせていた推理が再び浮かんできた。栄斉を動かしていたのは家康であり、探られたくない方向に向かい出したボクのことを邪魔したのではないだろうかという推理だ。
この推理には、二つの疑問が立ちはだかっている。邪魔をするくらいなら最初からこのような捜査を指示しなければよかったのではないかという疑問と、邪魔をしたのが家康方の者だったのだとしたらボクのことを助けたのは誰なのかという疑問だ。
助けてくれた側も、明らかにボクのことを監視していた。手を差し伸べたタイミングからして、間違いのないことだ。
栄斉の件に関しては、家康が石川数正を通じて使っていたと考えるほうが筋は通る。
栄斉を使っていたのが家康だと仮定した場合、二つの疑問に対する上手い説明はできないかとボクは考えてみた。
一つ目の疑問に対しては、どのように考えても上手い説明は見つからなかった。
家康から指示されたことの目的が本能寺の変に関して秀吉の策略が巡らされていたことを疑うことのできる証拠を探すことであり、捜査のやり方もボクに一任されていたからだ。
光秀が秀吉に敗れた原因の一旦となった筒井順慶のことを調べることになることも容易に察しがつくはずであり、そこに目を向けてほしくないのなら、捜査の目的を変えるか、もしくは捜査方法を直接指示することをしたはずである。
二つ目の疑問に対しては、どうだろうか。
前に考えた時は、徳川家の人間であるボクのことを助けるのは徳川家以外にはありえないという結論に至ったのだが、違う見方をすることはできないだろうか。
徳川家に仕える人間の行動を徳川方が妨害し、徳川方の敵対勢力が助ける。このような矛盾が成り立つケースは、あり得るのだろうか。
普通に考えたら、あり得ない。敵対勢力が、敵対する側の指示を受けて行動する人間を庇護することなど考えられないからだ。
あるとしたら、佐平次自身が敵対勢力にとって必要な人間だったというケースだ。
そのようなことが、はたしてあり得るのだろうか。
頭の中が冴えわたってきた。
暗闇の中で、天井に視線を向けた。静寂な空間に、松井の寝息が漏れ広がる。
(ある!)ボクは、佐平次が敵対勢力にとって必要な人間だったというケースがあり得ることに気がついた。佐平次が、敵対勢力の指示で徳川家に仕官していた場合だ。現代でいうところのスパイ活動である。
(しかし……)そこで一つの疑問が湧いてきた。三河の国の出身である佐平次を徳川家に対するスパイとして使うだろうかという疑問だった。
三河の国は徳川家発祥の地であり、住人との結びつきも強い。そのような国の出身者をスパイにするというのは、使う側にとってリスクが高すぎやしないだろうか。
(まてよ?)ボクは、あることに気がついた。佐平次は、ほんとうに三河の国の出身なのだろうかという疑問だった。
五年前に徳川家に仕官したことは間違いないことだろう。複数の人間の証言もある。
しかし、三河の国の出身であったというのは、松井から聞かされて知ったことだ。それ以外に、耳にしたことはない。佐平次の出身の地とされている三河の国の八名郡美和郷の近隣の郷で暮らしていたという松井の父親も、佐平次の存在は知らなかったと言っていた。
もし、松井の言葉が正しくなかったのだとしたら、佐平次の出身は三河の国ではなかったと考えることに差し支えはない。三河の国の出身でないのだとしたら、どこの国の出身なのだろうか。
そのことを考えたボクの頭の中に、宮宿での聞き込みを行っていたときに佐平次のことを知っているような反応を見せた三人の人間のことが浮かんできた。武士と商人、連歌師だ。
ボクは、彼らの反応から、佐平次は徳川家に仕官する以前に尾張の国で暮らしていたことがあったのではないだろうかという推理を打ち立てた。
そして、今、推理の幅が広がった。佐平次の出身は、尾張の国だったのではないだろうかという考えが、頭の中を支配していた。
そうであったのならば、徳川家に対するスパイとして使われていたとしてもおかしくはない。そして、スパイとして使っていたのは、尾張の国とゆかりの深い人物であり、家康と敵対関係にある人物だ。
そのような人物として思いつくのは、一人しかいなかった。秀吉である。
(まさか……)ボクは、突拍子もない推理に呆然とした。筋は通っているが、ボクの中での価値観が百八十度真逆になることだったからだ。
そんな中、ボクは、タイムスリップをする以前に何度もデジャブに見舞われていたことを思い浮かべた。デジャブの中身は、いずれも名古屋に関係していた。名古屋といえば、尾張の国だ。
ボクは、デジャブの原因が、佐平次の記憶が現世で生きるボクに甦ったからなのではないだろうかと思った。
6.
ボクの脳裏に、ある記憶が甦って来た。現世からタイムスリップをしたときに見た夢のような光景だった。
戦場で戦う佐平次がいた。槍を振り回し、敵兵を次々となぎ倒していく。
そんな中、とある敵兵が振り回した槍が後頭部を直撃し、佐平次は、その場に倒れ込んだ。
(こんなところで身罷る(みまかる)わけにはまいらぬ)そのときの佐平次の心の声が聞こえてきる。
遠ざかる記憶の中で、佐平次は、無意識のうちに何ごとかを思い浮かべていた。川に沿って広がる町並みや何者かに向かってひれ伏している彼自身の姿が、断片的にボクの頭の中に映し出される。
佐平次の思い浮かべる町並みとボクの記憶の中での町並みとが重なった。それは、尾張の国の中で見た町並みだった。
ひれ伏す先の人物のシルエットが浮かび上がってきた。顔の輪郭が、徐々にはっきりとしてくる。歴史の教科書でも目にしたことのある特徴のある顔が浮かび上がってきた。
ボクの意識は、完全に佐平次に乗っ取られていた。
(早く上様にお伝えせねばならぬ)疑惑が確信へと変化していく。五年もの歳月を費やして拾い集めた数々の疑惑の集積に栄斉を使った秘密外交の存在が加わり、パズルを完成させた。とある大大名が描いた壮大な謀略の筋書きが浮かび上がっていた。
ひれ伏す先の人物が敵対意識を燃やす大大名を失脚させるための切り口としては充分すぎる内容であった。
佐平次の意識から解き放たれたボクの中でも、疑惑が確信に変化していた。佐平次が徳川方へ放たれたスパイであることへの確信だった。そして、放った張本人は秀吉である。
(これから、どうしたらよいのだろうか?)ボクは、現実の世界に引き戻された。明日、次の目的地である近江の国へ向かって松井とともに旅立つことになっている。
しかし、ボクは、このまま旅を続けるつもりはなかった。
佐平次が、秀吉に伝えたがっている。栄斉を介した家康と筒井順慶との秘密外交のことを、そして徳川家に仕えて以降拾い集めた家康に関する数々の疑惑を伝えたがっている。
伝えるためには、秀吉のもとへ行かなければならない。
秀吉は、今どこにいるのだろうか。史実では、山崎の戦いの後に、居城を山城国内の山崎城に移していた。秀吉に伝えるためには、山崎城へ行く必要があった。
ボクは、山崎城へ行くためにはどうすればよいのかを考えた。
まずは、松井の存在をなんとかしなければならない。彼と一緒に山崎城へ行くわけにはいかないからだ。しかし、夜が開ければ、彼とともに近江の国へ向かわなければならない。
考え抜いた末に、ボクは、近江の国を二分した上で二人が別々に捜査する捜査計画を松井に指示することにした。松井が東近江を担当し、ボクが西近江を担当するのだ。
東近江を捜査する松井と別れ、そのまま西近江を通過して山崎城へ行く。これが、一番スムーズに事を運べるやり方である。
宮宿を捜査したときも、城下町を二分した上で別々に捜査をした。近江を二分するボクの計画に対して、松井が反対することはないだろうと思った。
時間は、静かに流れていた。頭の中は、すっかりと冴えわたっていた。次々と、物事が浮かんでくる。
ボクは、佐平次の出身のことを考えていた。
彼が、尾張の国の出身だったのは間違いないことだろう。そのように考えることで、話のつじつまがあってくる。
しかし松井は、佐平次の出身は三河の国だと言った。具体的な地名まで教えてくれた。
そのため、ボクの頭の中で佐平次が三河の国の出身なのだという先入観が植え付けられたのだ。
(彼は、嘘をついたのだろうか?)
松井は、誤った情報をボクに伝えた。彼自身がどこからか誤った情報を耳にしてボクに伝えたのか、あるいは故意に嘘をついたのかの二つに一つだ。
いずれであったにせよ、見過ごすことはできない。
彼が誤った情報を耳にしたのなら、その話がどこから来たのかということを知る必要がある。そのことを松井に伝えた者がどのような理由でそのことを口にしたのか、何か特別な意図が存在したのかを知らなければならない。
故意に嘘をついたのだとは考えたくはなかった。彼の佐平次のことを慕う態度に嘘は感じられない。二人の間にある信頼関係も本物に思える。
いずれにしても、本人に聞いてみれば解決できることだ。ボクは、明日そのことを松井に確認してみようと思った。
頭の中が、佐平次の出身に対する疑問から家康に対する疑問へと変わった。なぜ家康は、今回の捜査をボクに命じたのだろうかということについてだった。何日も前からそのことを考えていたが、納得のいく答えを見つけられずにいる。
家康は、ボクが徳川領外から来たことを知った上で召し抱えたはずだ。仕官を申し出た者に対する身辺調査は必ずやるはずだったからだ。尾張の国の出身だということも知っていたのだろう。
そんな佐平次に対して、なぜ秀吉のあらさがしを行うことを命じたのだろうか。尾張の国は秀吉の勢力が及んでいる地であり、下手をすれば家康自身の首を絞めかねない。
家康は、慎重な性格だ。頭も切れる武将である。そんな彼が、子どもでもわかるようなリスキーなことをした理由がわからない。
現に、家康にとって不利な情報を入手した佐平次が秀吉のもとへ向かおうとしている。
佐平次が拾い集めていたと思われる数々の疑惑の内容については、今は何も浮かんでこないが、佐平次として秀吉に会った時には浮かんでくるのではないだろうか。筒井順慶との秘密外交のことも、間違いなく秀吉に有利に働く情報だ。家康が筒井順慶を抱き込もうとしたことを疑わせるのに十分な情報だからだ。
捜査を始めるときは、ボクが酒場で秀吉陰謀説を口にしたことを知った家康が抜擢したのだと解釈していたが、今は、何らかの意図があって命じたのだと確信していた。
しかし、その意図が見えてこない。どのように考えても、家康にとってのメリットが伺えないからだ。
ボクの中で、いくつもの考えが浮かんでは消えていった。
7.
「兄者、朝餉を食べにまいりませぬか」松井の呼び掛ける声でボクは目を覚ました。夜は明けていた。部屋の中に、外からの活気が伝わってくる。
一晩中、さまざまなことを考えた。そして、空が白み始めたころにようやく眠りに着いた。
つかの間の眠りだったが、寝不足感はない。そればかりか、頭の中が興奮で冴えわたっていた。秀吉のもとへ向かうことを決意したからだ。
松井と一緒に朝食を済ませたボクは、昨晩考えた今後の捜査計画を口にした。
しかし、ここで想定外の事態が生じた。ボクの計画に対して、松井が異を唱えたのだ。
「時も限られますゆえ、それがしは、こたびの宮宿での調べのときと同じように、羽柴殿のゆかりの地を二人で重点的に調べ致したほうがよいのではないかと考えておりまする」
秀吉が居城にしていた長浜城下や主だった城下町に的を絞って二人で手分けして集中的に捜査をしたほうがよいのではないかという主張だった。
彼の主張は正論だった。以前のボクであれば、同じように考えただろう。
しかし、今は事情が変わったのだ。ボクは、秀吉のもとへ向かわなければならない。それも、松井に気づかれないようにだ。
「近江は京に近い地じゃ。まずは、まんべんなく調べを致した上で、ありとあらゆる情報を持ち帰ることが肝要であると考えておる」
「なれど、住む者の少ない農村にまで時を費やすことは、意味のなきことと存じ上げます。尾張の国での調べのことも、兄者には、お伝え致した通り……」
松井の報告では、農村部では、これといった情報は得られなかったということだ。そもそも、農村部で暮らす人間と武家社会の人間とが接することなどあまりない。松井の疑問は、最もなことだった。
ボクは、九年にわたって秀吉が北近江一帯を支配していたことや、同じころに明智光秀が近江の国の滋賀郡を支配していたことを指摘した上で、近江の国全域をまんべんなく捜査することが大事なのではないかという考えを主張した。
松井も、納得のいかない表情を変えない。
同じ時期に秀吉と光秀の支配が及んでいたとしても、近江の国を二人で二分していたわけではない。国全域を捜査対象にするにしても、分割などせずに、捜査地域ごとに二人でローラー的につぶしていくやり方の方が効率的ではないかというという主張を繰り返してきた。
その主張に対して説得力のある答えは見つからなかったが、ボクは、東西で分割する考えを譲らなかった。
「さすれば、兄者が東近江を調べられたほうがよいのではないでしょうか? 羽柴殿が居城にしておられた長浜城も東近江にありますれば」
「ともに大事ではあるが、西近江は京のある山城の国とも接しており、人の往来も多い。それゆえ、拙者は、西近江のほうを調べてみたいと思うておるのじゃ」
「兄者がそう申されるのであれば、それがしは、異論は申し上げませぬ」
渋々といった表情で、松井が首を縦に振った。
近江の国へは、美濃の国を経由するルートで向かうことになった。現在の東海道本線に沿ったルートだ。岐阜、大垣、米原を通って長浜に到着する。
ボクと松井は、肩を並べながら、ゆったりとした足取りで近江へ向かった。
並んで歩きながら、ボクは、松井にいろいろと話しかけた。話しかけずにはいられない気分だったからだ。
推理した通り佐平次が秀吉の放ったスパイであったのならば、捜査で別れた後に再び彼と会うことはないだろう。
短い時間だったが、彼と過ごした時間は楽しかった。大柄でいかつい風貌に似合わず、繊細で実直な人柄に好感が持てた。佐平次自身も、彼のことを信頼し可愛がっていたのだろう。
タイムスリップをした後にボクが体験したことが遠い昔に佐平次が体験したことと全くイコールなのかどうかはわからないが、これから秀吉のもとへと向かおうとしていることが実際に佐平次の体験したことであったのならば、同じような感情を抱いていたのではないだろうか。
ボクは、松井に、佐平次の出身が三河の国だと口にしたことを聞いてみることにした。彼が、故意に嘘をついたのではないと思いたかったからだ。絶対に、そうであってほしい。
「つかぬことを聞き申すが、こたびの旅の始めにお主の故郷へ立ち寄ったときに、拙者の生まれが三河の国の八名郡美和郷であると口にしておったが、なにゆえ、お主はそのことを知っておったのかのう?」
「なにゆえとは、いかなることで? 兄者から聞いた話でありまするが」
「拙者が、お主に、さように申したのであるか?」
「覚えておられませぬので?」
「そうであったのやも知れぬな」
「そのことが、いかがなされたのですか?」
「いや。別に、どうということはないのじゃが……」
予想もしていなかった答えに、ボクは戸惑いを覚えた。
彼の言う通りだとすると、佐平次が松井に対して嘘をついていたということになる。
しかし、そのような嘘をついて何になるのだろう。出身に関しては、隠す必要のないことだからだ。羽柴家の家臣であるということさえ知られなければ問題はないはずだからだ。
それよりも不思議に感じたのは、佐平次自身が松井に対して出身のことをしゃべっていたということだ。
ボクは、タイムスリップをして直ぐのときに、記憶喪失を装い、お玉から佐平次のことを聞き出した。そのとき彼女は、佐平次の出身のことは知らないと言っていた。
お玉も松井も佐平次にとって大切な存在だが、お玉に対して口にしていないことを松井に対して口にしたということに違和感を覚えた。佐平次がお玉のことを心から愛していたということに対する自信があったからだ。
黙りこくったボクに、松井が不審げな表情を向けてきた。
ボクは、内心の動揺を悟られまいと話を続けた。
「拙者は、徳川家に仕官するまでのことに関しては良き思い出が少ないゆえ、他言せぬよう心掛けておった。正木殿や江島殿も、拙者の出身のことなど知らぬはずじゃ。なれど、お主にだけは話したのやも知れぬ。お主に対しては、特に心を許しておったからであろうかのう」
ボクは、何度か松井を含めた四人で飲んだことのある同僚の正木市兵衛や江島一之進の名前を引き合いに出したうえで、彼の関心を逸らせるために、松井が自分にとって特別な存在だったため他人には話さないことまで話したのだろうと言い訳をした。
その言葉に、松井が表情をほころばせた。気分を良くしたのだろう。
ボクは、それを機に、話題を変えた。
「あちらにて、休息を取りませぬか」松井が、前方に見える茶屋を指差した。苦しげな表情を浮かべている。
「いかが致したのじゃ?」
「腹を下したようにございまする」
松井が、下腹を手で押さえた。息も荒くなっている。
茶屋に到着するや否や、松井は、店の裏手にあるトイレに駆け込んだ。
ボクは、二人分の茶を注文し、店内の長椅子に座って松井が戻ってくるのを待った。頭の中で、山崎城下に着いてからのことを考えた。
今、秀吉は、山崎城に居るのだろうか。居たとして、いきなり会うことなどできるのだろうか。そもそも、佐平次が秀吉の放ったスパイなどではなかった場合、どうなってしまうのだろう。不審者として捉えられてしまうのではないだろうか。
ボクは、山崎城内で尋問を受けている己の姿を想像した。
一片の揺るぎのない気持ちで秀吉のもとへ向かおうと決意したのだが、いざ向かうという状況になると、さまざまな不安が湧いていた。頭の中で、自分にとって都合の悪い場面を想像してしまう。
ボクは、邪念を振り払うように深呼吸をし、出された茶を啜った。
松井の帰りが遅い。彼の茶碗の中身は、すっかり温くなっていた。トイレの中で苦しんでいるのだろうか。
茶を飲み終えた後、しばらくして松井が戻ってきた。長椅子にへたり込むように腰を下ろす。
大丈夫かと問いかけたボクに、思いのほか腹の調子が良くないことを彼は伝えた。顔色も悪い。
松井は、茶を一口啜っただけで茶碗を脇に置いた。苦しげな表情で腹のあたりをさする。立ち上がるのもしんどそうであった。
ボクは、どうするべきかを考えた。
この様子では、松井は歩き続けることはできないだろう。かといって、彼を置いたまま一人で先を急ぐ気にはなれなかった。
とりあえず休息を取らせ、彼の体調が戻るのを待つことにしよう。深刻な病気でないのならば、二、三日静養すれば治るだろう。それで解決しないときは、そのときに考えよう。
二、三日遅れたところで、今のボクを取り巻く状況が大きく変化するわけでもない。
「近くの宿にて、休息を取ることに致そう。拙者も、供を致す」ボクは、松井に言葉をかけた。
松井が、弱々しく返事をする。
「なれど、先を急がねば……」
「かまわぬ。もともとの予定よりも早く旅立っておるのだから」
当初計画していた出発予定日よりも二日早く、近江の国へ向かっていた。
店の人間から一番近い宿の場所を確認したボクは、松井に肩を貸しながら教えられた宿へ向かった。
8.
とある城内の茶室で、二人の男が密談を交わしていた。
二人の前には、たてられたばかりの茶が置かれていた。茶碗は、萩から取り寄せた名器である。
有名な茶人から手ほどきを受けた上座に座る男が、腕によりを振るい、たてた茶であった。
上座の男が、茶碗を手にした。うっすらと湯気が立ち上る。目を細めながら、静かに茶を啜った。
下座の男は、口を真一文字に結びながら、鋭い視線を茶室の天井に送った。
「我ながら、美味い茶であるぞ。そなたも、冷めぬうちに飲んだらどうじゃ」
「では、頂戴つかまつりまする」
一礼した下座の男が、茶碗を手にした。
「味は、いかがじゃ?」
「まことに、良き味にございまする」
「そうであるか」
上座の男が、満足げに頷いた。
「して、事態は、悪しき方向へ向かっておるというわけじゃな?」
「はっ……」
「隠さずともよい。そちの顔に、そのように書いておるわい」
上座の男が、笑い声をたてた。
「おそれながら」下座の男が平伏する。
「いかが致すつもりじゃ?」
「致し方ありませぬ。始末をつけるより、他はありますまい」
「未練はないのじゃな?」
「放っておけば、必ずや、獅子身中の虫となりましょう」
「ことは、いつ起こすのじゃ?」
「もう、手は打ってございます。一両日中には、始末を終えておることでございましょう」
「そうであるか……。なれど、無念であったのう。そちも、相当な期待をしておったのだからのう」
「こたびは、それがしの勝手な振る舞いにて殿にご迷惑をおかけ致したことを、深くお詫び申し上げまする」
下座の男が、再び平伏した。
「気に致すことはない。優れた茶器があってこそ、茶は引き立つのじゃ。人も同じじゃ。優れた家臣がおってこそ、武将としての器が引き立つ。優れたる者を積極的に登用しようとするそちの姿勢を、余は買うておるのじゃ」
「ありがたき幸せにございます」
「今後のことは、そちの良きに計らうがよい」
「ははっ」
三度、下座の男は平伏した。
丸二日間宿で静養したことで、松井の体調は回復した。三日目の朝食を、松井は全て平らげた。このまま何ともなければ午後にでも出発しようということを二人の間で決めていた。
そして、昼を迎えた。松井の体調に変化は見られない。顔色は良く、トイレにこもるようなこともなかった。
そろそろ出発しようかとボクが松井に声をかけようとしたそのとき、宿の人間が部屋にやって来た。
「客人がお見えにございますが、部屋にお通ししてもかまわぬでしょうか?」ボクたちに客が訪ねてきたことを告げた。
「客人?」ボクと松井は、顔を見合わせた。
客が訪ねてくることなど、想像もしていないことだったからだ。そもそも、ボクたちがこの宿に泊まっていることは誰にも告げていない。
(もしかして?)ボクは、一つの可能性を思い浮かべた。ボクのことを監視していた存在のことだ。
大和の国を出た後は、特にボクの身に変わったことは起こっていない。ボクも、あえて監視されていることを気にせずに行動していた。しかし、あれから後も監視体制は続いていたということなのか。
例えそうであったとしても、直接訪ねてくることなどあるのだろうか。
「いかが致す?」ボクは、松井の考えを聞いてみた。
「おうてみますか」松井が返事を返す。
ボクは、客を部屋に通すよう、宿の人間に告げた。
宿の人間が下がり、入れ替わるように二人の男が部屋にやって来た。一人は背が低くがっちりとした体型であり、もう一人は正反対の背が高くひょろっとした体型であった。
「吉原佐平次殿と松井作次殿でございましょうか?」背の低いほうの男が、僕たちの顔を交互に見ながら名前を聞いてきた。
「そなたたちは?」
「失礼いたしやした。我らは、本多忠勝様からの使いの者でして、それがしは多田半六と申す者でございます」
もう一人の男は、菊井作次郎と名乗った。
「殿からの使者であることを証するものは、お持ちでしょうか?」ボクは、使者であることの証明を求めた。刀を袂に手繰り寄せ、万が一の事態に備える。松井の顔にも緊張が走った。
多田が、懐から一通の手紙を取り出した。
ボクと松井に宛てた手紙であり、伝えたいことがあるので指示する場所まで来るようにと書かれていた。場所は、多田と菊井に伝えてあるということだ。
手紙には本多忠勝の署名がされており、見覚えのある印も押されていた。
中身に目を通したボクは、手紙を松井に渡した。信用してもよいのかを考える。
本当に本多忠勝が書いたものなのかどうかの判断はできなかった。彼の筆跡を覚えていないからだ。
しかし、手紙に押されている印は本物のようだ。佐平次の上司の大山左馬之助を通じて本多忠勝が書いた書面を何度か見たことがあるが、それらに押されていた特徴のある印影と目の前の手紙に押された印影が同じであったからだ。
印が本物であるのなら、本多忠勝の意思を示した手紙であることに間違いないだろう。印は、本物であることを見分けるための印として使われるものだからだ。
松井が、読み終えた手紙をボクに寄越した。
「殿のお書きになった書に相違ありませぬ」と口にする。
「かような用向きで、殿はお呼びになられたのでしょうか?」ボクは多田に、本多忠勝からの用件を問うた。伝えたいことの中身が想像つかなかったからだ。
「それがしは文をお届けする役目を仰せつかっただけにありまして、詳しいことはいっさい存じ上げませぬ」
「殿は、何ゆえ、我らがこの宿に泊まっておることを存じておられたのでしょうか?」
「そのことも存じ上げませぬ」
「各々方が、我らのことを監視しておったのではござらぬか?」
「さようなことは致しておりませぬ。我らは、本多忠勝様からの指示により参っただけにござりまする」
ボクは、多田と菊井の顔を交互に眺めた。二人の表情からは、嘘をついているのかどうかを読み取ることはできなかった。
伝えたいこととは、どのようなことなのだろう。指示されていた捜査に影響を及ぼすような世の中での動きが発生したとでもいうのだろうか。あるいは、指示内容に変更が生じたのだろうか。
いずれにしても、わざわざ呼んで伝えるとは、よほど大事なことなのだろう。単なる情報の提供や指示内容の変更であれば、そのことを記した書面を届けるだけで済む話だからだ。
ボクは迷った。
一刻も早く秀吉に会ってみたかった。会えば、なにもかもがはっきりとするはずだからだ。
そして、ボク自身もすっきりとしたい。頭の中に染みついた疑惑を解決することが、再び現世へ戻れることにもつながるのではないかという感も働いていた。
それとは別に、本多忠勝からの指示に従うことで、いまだに解決できずにいる疑問が解き明かされるのではないかという思いもあった。なぜ家康が尾張の国の出身である佐平次に秀吉のあらさがしを行うことを命じたのかということへの答えである。
いずれにしても、今現在の佐平次は、徳川家の家臣として家康の命を受けて行動している身なのだ。そういう意味でも、本多忠勝からの指示を無視するわけにはいかない。
ボクは、本多忠勝が、どこで待っているのかを確認した。
返ってきた答えは、三河の国にあるとある寺の名前だった。この宿からだと、半日もあれば着ける距離だという。
身支度を済ませたボクと松井は、二人の後をついて、本多忠勝が待つ寺へと向かった。
寺へは、その日に到着した。その夜は、ボクと松井は寺の宿坊に泊まり、明日の日中に本多忠勝と面会することになった。
布団に入った後も、ボクは、本多忠勝から呼ばれた理由を考え続けた。
世の中の動きに関する情報や指示内容の変更などを伝えることが目的であったのならば、書面のやり取りでも済ませられるはずだ。よって、伝えたいことがそのような話ではないというのは間違いないことだろう。
もしかしたら、別の命令が下されるのかもしれない。そうなったら、秀吉のもとへ行けなくなる可能性が出てくる。
一瞬、この場を逃げ出そうかという考えが浮かんだ。ここを抜け出して、秀吉のもとへ向かうのだ。
しかし、すぐにそのような行動が得策ではないことを悟った。そんなことをすれば、追手がかかる。捕まった時に、逃げ出した理由を説明することも難しい。
状況が変わったのだとしても、タイミングを見て秀吉のもとへ向かえばよいではないか。
ボクは、はやる気持ちを懸命に諌めた。
9.
翌日、朝食を済ませ、部屋の中で待機していたボクと松井を、本多忠勝の使いの人間が呼びに来た。寺の離れで忠勝が待っているということだった。
離れに移動したボクと松井は、刀を小姓に預け、忠勝の待つ部屋へと案内された。剣道の道場としても使われている広い部屋であり、中には忠勝以外に三人の家臣がいた。
「大義であった」忠勝が声をかけてきた。ボクと松井は平伏した。
「そこもとたちが調べに発ってから二カ月と少々の時間が経ったわけじゃが、いかようなことがつかめたのか申してみよ」忠勝が、今までにわかったことを報告するよう求めてきた。
それに対して、ボクが、二人を代表して今までにわかったことを報告した。興条寺の住職が筒井順慶と会っていたことや石川数正との間に密接な関係があったことも、包み隠さずに報告した。
「そのことについて、そこもとは、いかように考えておるのじゃ?」栄斉と石川数正との関係を説明したボクに、忠勝が鋭い視線を向けてきた。
「おそれながら、栄斉殿を介して、我が徳川家と筒井家との間で外交があったのではないかと思うておりまする」
「いかような外交がなされておったと思うておるのじゃ?」
「そこまでは、考えが及びませぬ」
「遠慮など要らぬ。思うたことを口にしてみるがよい」
(どういう意味だ?)ボクは、忠勝の表情を伺った。
なぜ、そのような言い方をするのだろう。聞き方によっては、ボクが外交の中身に関して確信的な見解を持っていることを知っているのだと言っているようにも聞こえてしまう。
ボクは、返事に迷った。
ボクは、信長の排除を画策していた家康が筒井順慶を抱き込むための外交を行っていたのではないかという疑惑を抱いていた。
むろん、この場でそのようなことをストレートに口にすることはできないが、何も考えが及ばないととぼけ切れる状況ではなかった。
ボクは、当たり障りのない内容で、考えを口にした。
「筒井殿との関係を深めるための外交ではなかろうかと」
「関係を深めるとは、いかようなことじゃ?」
「情報の交換を密にし、交易を盛んにする。すなわち、同盟を前提とした交渉事が行われていたのではないかと思うておりまする」
「同盟を前提とな」忠勝が、薄ら笑いを浮かべた。
「吉原の。拙者は、国力を高めるためには、能ある者を積極的に登用し配することが肝要だと思うておる。このことは、大殿も同じ考えじゃ」
「……」
「そこもとには、物事の全体を大局的に見る力、決断する力が備わっておる。加えて、謙虚でもある。信濃における武田との戦でのことは、大殿も、たいそう褒めておられた」
忠勝が、佐平次が武田との戦で味方の危機を救ったこと、そしてそれに対する恩賞を固辞したことを口にした。初めて耳にする話しだったが、佐平次の誇らしい一面を聞かされたボクは、気分を良くした。
「拙者は、そこもとのことを、大いに期待しておったのじゃ」忠勝が、言葉を続けた。
ボクは、その言い方に引っ掛かるものを感じた。過去系の言い方だったからだ。ということは、今は期待されていないのだろうか。
「至極、残念なことであるのう」忠勝が呟く。
「残念なこととは、いかなることでございましょうか?」
不審に思ったボクは、問い返した。
「そこもとを手放すことよ」
(手放すとは、どういう意味なのだろう?)忠勝の配下ではなくなるということなのか。すなわち、人事異動のようなことが行われるのだろうか。
「大殿がそこもとに対して羽柴殿に関する調べを命じたまことの理由は、いかようなことであったと思うておるのじゃ?」忠勝が、ボクに対する質問を続けた。
「信長様が京にて抹殺されたことに羽柴殿が関与していることを証する情報を手に致すことではないのでしょうか?」
「まことの理由は、そのことではない」
「……」
「そこもとの調べを致すことが、まことの理由なのじゃ」
「それがしの調べとは、いかなることでございましょうか?」
「そこもとには、羽柴殿の手の者ではないのかとの疑いが掛けられておった。そこもとの身の上を調べた結果、疑われても不思議ではないような状況が浮かんでまいった。なれど、そこもとは有能な家臣であった。疑いがあるということだけで手放すには惜しい逸材じゃ。そんな折、そこもとが、戦いの最中に記憶を失った。薬師の見立てでも、半年や一年経っても記憶が戻らぬ場合は、一生戻らぬ可能性が高いということであった」
(そういうことだったのか)タイムスリップをする瞬間に、ボクの頭の中に敵兵の槍で頭を強打され戦場に倒れ込む佐平次の姿が映し出されたが、そのときに佐平次は記憶を失ったのだ。
「薬師は、本人にゆかりのあることに関して強い刺激を与えた場合に記憶が戻ることもあるのだということを申しておった。そこで、一計を案じたのじゃ。そこもとに羽柴殿に関する調べを命じてみるということじゃ。そこもとが羽柴殿の手の者であった場合は、調べを行うことで記憶を取り戻す可能性が高い。長時間調べを行っても変化が起こらぬようであれば、そこもとは潔白であったのか、もしくは羽柴殿の手の者であったとしても元々の記憶が戻らぬゆえ、以後も家臣として使い続けることができる。加えて、こたびのような調べを申しつけることで、そこもとの能力を計ることもできるからのう」
本多正信が家康に対して秀吉の身辺捜査を行うよう進言したことを知った本多忠勝が、家康を説得し、ボクに捜査が命じられたということだったのだ。
ボクは、捜査方法を一任され期限も切られなかったことの意味を知った。捜査の対象は、秀吉ではなく佐平次自身だったからだ。
「そこもとの行動は忍びの者を通じて常に監視をしておったが、そこもとが有能な者であることが、あらためて証明された」忠勝が、ボクの行動を称賛した。大局観に富み決断力や危機対応力があると感じた行動内容を具体的に口にする。
「して、そこもとは、記憶を取り戻したようじゃな?」忠勝が、鋭い視線を向けてきた。
「なにゆえ、そのようなお言葉を」
ボクは、忠勝の顔に視線を当てながら問い返した。今さら秀吉が放ったスパイであることを否定するつもりはなかったが、なぜボクの記憶が戻ったと言い切るのかが不思議だった。
その答えを、忠勝が口にした。
「そこもとは、最近になって、三河の国の出身であるということに疑問を抱いたようじゃ。近江の国を東西に分割した上で調べを行う考えを持ったようじゃが、まことの目的は、羽柴殿が住まわれる山崎城に向かうことにあったのであろう?」
本多忠勝の指摘したことは事実だったが、なぜそのことを知っているのかが不思議だった。監視をされていたことはわかっていたが、そのことを他人に対して口にした覚えはなかったからだ。
ボクは、無言で次の言葉を待った。
「拙者がさようなことを知っておることを不思議に思うておるようじゃな。そこもとには、二重の監視体制を敷いておったのじゃよ」
「二重の監視体制と申されますと?」
「わからぬか?」
忠勝が、視線を横に向けた。視線の先には、松井の姿があった。
ボクも、松井に視線を向けた。松井は、うつむいていた。
(まさか、松井が……)あり得ないことだと思いたかったが、ボクが佐平次の出身地を確認した相手も近江の国を東西に分ける捜査方法を口にした相手も松井ただ一人であることも事実であった。彼が内通しない限り、本多忠勝がこのことを知り得ることはできないはずだ。
「五日前、松井が、そのことを知らせてまいった。して、拙者が、そこもとをその場に留めるように命じたのじゃ」
宮宿を発って間がないころに、休憩を取るために立ち寄った茶屋で、松井が長時間トイレから戻ってこなかった。そのときに、ボクのことを監視していた徳川方の人間に伝えたのだろう。その後も腹痛が治らないと主張する松井を静養させるために近くの宿に泊まったのだが、あれも松井の芝居だったのだ。
ボクの胸に、寂しさが込み上げてきた。佐平次と松井が固い絆で結ばれていたことを信じて疑わなかった。その松井が裏切り者だったとは。そもそも、彼は、いつから裏切り行為を始めていたのだろうか。
ボクは、横を向き、松井に問いかけた。
「そなたは、いつのころより、拙者を監視する役目を仰せつかっていたのじゃ?」
「そこもとの監視をするために、拙者が召し抱えたのじゃ」
松井の代わりに本多忠勝が答えた。
三年前に徳川家に仕官したときから佐平次を監視する役目を担っていたということだった。そのために、意図的に佐平次に近づいたということだ。ボクに佐平次の出身が三河の国だと話したのも、忠勝の指示によるものだった。
松井は、今回の捜査の真の目的についても、始めから知らされていた。彼自身、ボクのことを監視しながら、ボクの様子や言動を徳川方に伝える役目を果たしていた。
忠勝は、勝又御子(かつまたみこ)神社の件は松井の勇み足だったということも口にした。
上方からの極秘情報で光秀が謀反を起こす可能性のあることを知った徳川家康と本多忠勝との間で、漁夫の利を得るための策略が練られていた。上方から得た情報を信長には知らせずに光秀に信長を討たせ、その後速やかに光秀を失脚させ、家康の天下取りを実現しようという内容だった。
そのために、石川数正を通じて交流のあった栄斉を使って、筒井順慶を抱き込むための秘密外交が行われたのだ。
結果的に光秀を失脚させる役目は秀吉にさらわれてしまったのだが、光秀の増長を防ぐ役目は果たした。
この秘密外交のことは、本多忠勝以外の重臣たちには知らされていなかった。
そのため、筒井家に関する捜査がタブーであったことを知らずにいた松井が、ボクに秀吉に対する疑惑を膨らませるために、森高義秀と片桐且元との間で密会が行われたという偽情報を流したということだった。
松井から、ボクが大和の国の捜査を行うことを聞かされた忠勝が、大和の国に潜入させないための妨害をしかけたということであり、沼田を殺害したのも、忠勝が差し向けた監視の者たちの仕業だった。
「我ら以外にも、そこもとのことを監視している者どもがおった。なかなか尻尾をつかむことができずにいたのじゃが、ようやく素性が明らかになった。思うてた通り、羽柴殿の手の者であった。そのことは、そこもとが羽柴殿の手の者であることを証することでもある」
羽柴方の者にことごとく邪魔をされ、妨害が果たせなかったのだということを忠勝が説明した。
ボクは、全てを理解した。
そして、昨晩のうちに逃げ出さなかったことを心の底から後悔した。
今になって思えば、宿にやって来た使者が二人だったこともおかしいと思わなければならなかった。伝言だけなら一人でもよいはずだからだ。二人いたのは、ボクが逃亡するのを防ぐ意味もあったのだ。
背後に人の気配を感じた。そっと、周囲を見渡す。ボクは、屈強な男たちに囲まれていた。
「吉原の。まことに残念ではあるが、そこもとを生かしておくわけにはまいらぬ」
男たちが、ボクの両腕と両足をつかんだ。
ボクは、外に引きずり出された。両手を後ろ手に縛られ、両足首も縛られたまま、地面に正座させられる。
「聞きたきことがあれば口に致せ」
忠勝から声をかけられたボクは、佐平次の出目や家族のことをどこまで知っているのかと問いかけた。
それに対して、忠勝が、独自に調べたという佐平次の身の上を語った。それによると、佐平次は尾張の国の知多郡の生まれであり、徳川家に仕える前は作之進と名乗っていたということだった。妻子はいないということだ。
ボクは、宮宿で、商人から声をかけられたときのことを思い浮かべた。
「最後に言い残したきことがあれば、拙者が責任を持って伝え致すが」
忠勝から声をかけられたボクの脳裏に、お玉の顔が過ぎった。彼女に、自分のことは忘れて幸せになるようにという言葉を残そうかと思った。今この瞬間佐平次の意識が甦ることを期待したのだが、現れることはなかった。
そんな中、一つの疑問が湧いてきた。ほんとうに佐平次は斬られたのだろうかという疑問だった。
おばあちゃんの家に残された家系図や古文書によれば、佐平次の子孫は存在する。
ボクは、そのことを信じていた。お玉がボクの先祖であったことにも確信を抱いている。
それならば、別れの言葉など口にすることはない。佐平次とお玉は結ばれるのだから。
「ございませぬ」ボクは、返事をした。
「ならば、そこもとも覚悟を決められよ」
忠勝が、目で合図をした。背後で刀を構える気配が伝わる。
ボクは、目をつぶった。タイムスリップする直前の光景が頭に思い浮かんだ。自販機のつり銭口から零れ落ちた百円玉が、コロコロと道端に転がっていく。それを拾おうとしたボクは、めまいに襲われた。
空気を震わす音が耳元を伝わった。
それとともに、ボクの意識は遠のいていった。
エピローグ
首都総合大学理工学部応用物理学科フロアーの一角にある教授専用研究室のドアの前に立った日下部は、インターホンのボタンを押した。研究室のドアには、羽生という部屋の主の名前が書かれたプレートがはめ込まれていた。
「はい」インターホンを通じた応答の声に、日下部は、来客があることを告げた。客の名前は武藤と真鍋である。
二人の会話から、首都総合大学のOBで羽生教授と同期生であることが伺えた。
(ということは、お二方とも六十歳前後なのかな)日下部は、二人の顔を盗み見ながら二人の年齢を推測した。羽生教授と同期生ならば、三十八年前の卒業生ということだ。来春卒業予定の日下部にとって、尊敬すべき大先輩であった。
研究室のドアが開き、羽生が顔を出した。「ごくろうさん」と日下部に声をかけ、二人の客を中に入れる。
カチャっという施錠音とともに、研究室のドアが閉ざされた。
「さっそく見るか?」研究室内の来客用ソファーに腰を落とした武藤と真鍋に向かって、羽生が声をかけた。
「全部見終えるまで、どれくらいの時間がかかるんだ?」武藤が、羽生に確認する。
「どうなの?」羽生が、真鍋に顔を向ける。
「データ量から考えると、八時間程度じゃないかな」
「八時間も! じゃあ、ほとんど徹夜じゃないか!」
武藤が、驚きの表情を浮かべた。
「そう言うなよ。百日分の出来事が、たったの八時間で見られるんだぞ。すごいことだとは思わないか?」
「それに、オレたちが開発したシステムの検証データの第一号でもあるわけだしね」
三人は、共同で画期的なシステムを開発していた。
二〇四十年、アメリカのハーバード大学と宇宙機器メーカーとの共同研究により、銀河系内をランダムに回流するマイクロ電磁波の存在が明らかになった。銀河系全体を蔽う形で存在しており、頭文字を取ってECU波と命名されていた。
その後の研究で、ECU波の構造が銀河系内の惑星における質量や速度、気圧などに影響を与えているという学説が発表された。この説は、世界各国の研究者たちからの支持を得て、宇宙工学の研究に応用されていた。
そんな中、羽生は、ECU波の存在を応用した時空移動理論という独自の研究成果を生み出した。
羽生の理論とは、宇宙は無限な多次元状態にあり、異次元の同一空間が無限に存在するというものであった。過去、現在、未来は、同一空間における次元の相違であり、次元の相違は、ECU波構造の相違によって生じるという結論を導き出していた。
特定の超低周波電磁波を発生させることで、一定範囲内でのECU波構造を変えることができ、そうすることでタイムスリップが可能になるという理論も構築していた。特定の超低周波電磁波を発生させる独自の技術も開発していた。
しかし、これらの理論は、研究者たちの間からは受け入れられなかった。再現可能な検証データのないことが致命傷になっていた。
そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、無二の親友でもある武藤と真鍋だった。
三人は、首都総合大学在籍中に、歴史研究会というサークルで親しくなった。三人とも学部は違ったが、馬が合うのを感じていた。卒業後も、もう一人のメンバーを加えた四人で、定期的に会っていた。
武藤は、大学病院に所属する解剖医だった。彼の技術は、日本の解剖医の中で五本の指に入るとまで言われていた。
一方の真鍋は、ベテランのシステムエンジニアだった。数々の基幹システムの開発に携わっており、変幻自在に開発言語を操る彼のことを、業界の人間は天才と称していた。
その三人の能力を結集して生まれたのが、次元共有空間移動システムだった。このシステムは羽生が唱えた理論の再現性検証も可能にするものであり、次のような内容であった。
タイムスリップしたい時代に関する史実データを分析することにより、その時代が基調としていたECU波構造を割り出す。その後、現世におけるデータをタイムスリップしたい時代のECU波構造に換算したプログラムを特定の空間位置に拡散する。そうすることで、プログラムを拡散した空間に、タイムスリップをしたのと同様の状態を生み出すことができるというものだ。
同様の状態を生み出すことができるというのが、このシステムの特徴である。実際にタイムスリップをしなくても、タイムスリップをしたのと同様の結果を得ることができるのだ。ある人物の性格や思考特性、行動特性などをデータ化し、タイムスリップをした先の人物に移し替えることで、現世の人間が、タイムスリップをした先の人物の頭脳や肉体を操ることができる。
このシステムを利用することで、精度の高い歴史に関するシミュレーション結果が得られると三人は考えていた。
システムの設計、開発は真鍋が行い、タイムスリップする人物の性格や思考特性、行動特性などの抽出は武藤が担当した。
そして彼らは、最初のシミュレーション結果を手にしていた。
タイムスリップした主人公が首をはねられた場面で、シミュレーション画面が終了した。真鍋の推測通り、八時間程度の時間を要した。途中画面を停止し休憩もしたため、開始から十時間以上経過していた。日付はとっくに変わり、窓の外からは鳥のさえずり声が聞こえた。
三人に、疲れはなかった。それぞれが、結果に対して満足していたからだ。
「あらためて、吉原のすごさを見せつけられたよ」
「理詰め思考も、彼そのものだったな」
「あいつが何度も口にしていた吉原佐平次という先祖は、あんな感じの人だったんだね」
三人は、それぞれに感じた思いを語りあった。
吉原とは、大学時代の歴史研究会のメンバーであり、卒業後も仲良くしていた四人のうちの一人の吉原正嗣のことである。
彼は、ひと月前に事故に遭い死亡した。そのときの行政解剖を担当したのが武藤だった。
武藤は、吉原の脳組織の一部を保存し、彼の性格や思考特性、行動特性などをデータ化した。その技術は、三年前に実用化され、再生医療にも使われている。
シミュレーションの結果を検証した三人の頭の中で、あるシーンが同時に浮かんでいた。三十年前の夏、デパートの屋上のビアガーデンで、四人で本能寺の変の真相ということをテーマに意見を戦わせていたときのことである。
三人の持論は徳川家康の陰謀があったというものだったが、吉原一人が羽柴秀吉陰謀説を曲げずにいた。
「結局は、オレたちの説のほうが正しかったということだよね」二人の同意を求めるように真鍋が呟いた。
「直接的な論拠となるものは得られていないけど、オレも、そう断言してもいいと思っているよ。もともと秀吉陰謀説を唱えていた人間が導き出した結果だからね。導く過程も論理的だしね」武藤が頷く。
主人公となる人物の性格や思考特性、行動特性などを設定した者としての思いもあり、結果が論理的であるということを強調した。
「しかし、あいつの先祖の吉原佐平次は、史実でも本当に斬られちゃうのかな? そうだとしたら、あいつそのものが存在していたことがおかしいっていうことになっちゃうのだけどね」羽生が、システムを設計した真鍋に視線を向けた。武藤も、真鍋に視線を向ける。
「現にあいつはこの世に存在したのだから、吉原佐平次は斬られていないでしょ」真鍋が、サラッと言葉を返した。
「でも、シミュレーションでは」
「あくまでもシミュレーションなんだからさあ。設定いかんで結果も変わるわけだし」
「そこは信じてもらいたいな。実際に、医療現場での実績も積んでいるのだから」
武藤が、真鍋の言葉を途中で遮った。一流解剖医としてのプライドを傷つけられたとでも言いたげな表情を浮かべた。
「ごめん。そういう意味で言ったんじゃないよ。たぶん、設定上の吉原佐平次と実際の吉原佐平次との間に誤差があったんだろうな。それが結果に影響を及ぼしたのだと思うよ」真鍋が、タイムスリップをした先の人物の設定誤差がシミュレーション結果に影響を及ぼしていたのではないかという見解を語った。
シミュレーションを行うにあたっては、肉体と頭脳を乗っ取る側と乗っ取られる側双方の設定が必要だった。乗っ取る側については現代の医療技術でカバーできるが、乗っ取られる側については計り知れないことも多く、設定上の誤差が生じるのは仕方のないことだという認識が三人の中にはあった。
次元共有空間移動システムを世の中に発表するためには、シミュレーションを繰り返しながら、乗っ取られる側の設定誤差が結果の信頼性には影響されないことを明らかにする必要がある。
「あと、何回シミュレーションをやればいいんだろうな」羽生が呟く。
「とりあえず、次のテーマを決めないか? 何かリクエストある?」武藤が、二人の顔を見回した。
「次も、吉原を行かすのか?」
「データが揃っているしね。吉原でいいんじゃない?」
武藤が、再び吉原を主人公にすることを主張する。
「じゃあ、時代は戦国だな。オレたちの共通テーマでもあるからね」
「戦国の謎を解き明かす旅の第二段ってやつか。なにがいいのかな?」
「桶狭間の戦いなんかはどうだ? あれって、織田方の書物にしか書かれていないことだからね。それに、いくら奇襲が成功したからって、簡単に二万の軍勢が二千の軍勢に敗れるものかなっていうのもあるしね」
「やるとして、吉原に乗っ取られる人物をどうするかだな」
「蜂須賀小六なんかはどうだ?」
「ああ。信長の命を受けて、農民に扮して、今川軍を油断させる役を担ったってやつだよな」
「蜂須賀小六に関してはいろいろな記録が残っているから、三人で協力して設定データを作りますか……」
三人は、時間が経つのを忘れて、次のシミュレーションに関する議論に没頭した。
渡し舟の上から見渡す視界の前方に宮宿の町並みが広がっていた。乗客たちが下船の準備を始めていた。船着き場には、桑名に向かう乗客が列をなしている。
大和の国へ向かうために宮宿を発ってから四週間が経過し、季節は着実に進んでいた。着物の隙間から入り込む海風が肌寒い。
松井と落ち合う約束をした日まで、まだ二週間の時間があった。
ボクは、その二週間で、栄斉が参加していたという歌会の所在を突き止めるつもりでいた。手がかりは、高野広葉という商人だ。
興条寺の女中の話では東方に位置する近隣の国ということだったが、その国とは十中八九尾張の国だろうと考えていた。この時代に秀吉とゆかりのある国といえば他にも近江、山城、摂津、但馬などがあったが、いずれも興条寺から見て東方には位置しない。
ボクは、尾張の国の連歌師たちに栄斉と高野広葉が参加している歌会を知らないかと聞いて回るつもりだった。商人たちへの聞き込みによる高野広葉の所在の追及も並行して行うことにしていた。
舟が船着き場に到着した。先頭の乗客から順に、船頭の指示に従って下船する。
舟を降りたボクは、さっそく捜査を開始した。町中を、連歌師や商人を探し歩いた。
今回の捜査は、秀吉の足跡を探して歩くといった漠然とした捜査ではなく、聞き込みの相手も連歌師と商人に限定されるため、広範囲での捜査は必要なかった。
連歌師と商人は人の集まるところで活動するため、捜査を行う場所として宿場町は打ってつけだ。
尾張国内には宮宿と鳴海宿という二つの宿場町があったが、その二つの町で聞き込みを行えば何らかの手がかりが得られるだろうと考えていた。
やみくもに捜査をしても時間を浪費するばかりなので、連歌師に関しては、町中で開かれている歌会に顔を出して聞き込みを行うことにした。
何者かに監視されている気配は相変わらず続いていたが、意識しないことにした。ボクのことを護ろうとする存在もいたからだ。現に、大和の国へ向かう道中で妨害に遭って以来、ボクの身に危険は降りかかっていない。
東海道最大の宿場町といわれるだけあって、宮宿内のあちらこちらで歌会が催されていた。連歌師から手ほどきを受けたにわか歌人たちが、手前の歌を披露し合う。
この時代の和歌は、現代でも読まれている五七、五七、七形式の短歌以外にも、五七を三回以上繰り返した後に最後を七音で締めくくる長歌、五七七を二回繰り返す旋頭歌という形式があった。
昔の人が読む和歌に対して小難しいものだというイメージを抱いていたのだが、以外にも、にわか歌人たちが読む歌の内容をすんなりと理解することができた。頭脳が佐平次であるせいなのかもしれない。
ボクは、歌会に顔を覗かせ、栄斉と高野広葉のことを聞いて回った。すぐにでも手がかりが得られるのではないのかと意気込んでいたのだが、予想に反して栄斉や高野広葉のことを知るという連歌師は現れなかった。
ボクは、興条寺や逍遥院という名前も口にした。
しかし、これはという情報は耳に入ってこない。
ボクは、連歌師への聞き込みを中断し、商人への聞き込みを行うことにした。高野広葉の所在をつかめれば、そこから歌会の所在を手繰り寄せることができる。
ボクの推論が的を射ているのであれば、栄斉が定期的に参加している歌会には大名や城主クラスの人間も参加しているはずであり、そのような場に参加できる商人の名は、商人たちの間で広まっているはずであった。
しかし、商人への聞き込みの結果も芳しくなかった。高野広葉の名を知るという者が現れないのだ。
(もしかしたら、高野広葉というのも筆名なのかもしれないな)
その可能性はあった。興条寺住職の逍遥院とは歌会仲間であることから、寺の者に対しては筆名を名乗っていたことも十分に考えられる。
歌会探しの捜査は、難航の兆しが見え始めていた。
宮宿一帯を歩き回ったものの、歌会や高野広葉に関する手がかりを入手することができずにいた。
その結果は、ボクには意外だった。宮宿は東海道最大の宿場町であり、連歌師や商人もたくさん集まってくる。
栄斉が関係する歌会が尾張国内で開かれていたのなら、これだけの聞き込みを行ったのだから何らかの手がかりがつかめていなければおかしい。
(尾張の国ではないのかな?)まだ鳴海宿での捜査が残っていたが、ボクは弱気になっていた。しかし、女中の話が正しいのであれば、歌会の場所は尾張国内だとしか考えられない。
むろん、諦めるわけにはいかなかった。筒井順慶との外交役を果たしていた栄斉が定期的に歌会に参加していたというのは、重要な手がかりだったからだ。
鳴海宿でも手がかりがつかめなかった場合は、捜査のやり方を変えた上で、再度連歌師を中心とした聞き込みをやってみよう。ずばり秀吉の名前を口にして、彼が参加する歌会を知らないかと聞いて回るのだ。秀吉が参加する歌会に栄斉の名前があれば、二人の関係性を証明できる。
松井と約束した日が迫ってきていたため、取り急ぎ鳴海宿での捜査を済ませてしまおうと、ボクは気を奮い立たせた。
鳴海宿へ移動する日の朝のことだった。
宿の人間から、尾張国内の歌をたしなむ僧侶たちが一堂に会する歌会が開かれるという情報を入手したボクは、会場に立ち寄ることにした。
参加者たちから、何か栄斉のことを聞き出せるかもしれない。会場も鳴海宿へ移動する道中にあり、時間のロスを気にする必要はなかった。
歌会の会場には、何人もの連歌師の姿があった。
ボクは、連歌師たちへの聞き込みを行った。
ここでも求める情報を入手することはできなかったのだが、ボクは不思議な体験をした。それは、とある連歌師に聞き込みをしたときのことだった。
聞き込み相手である連歌師が、ボクの顔をまじまじと見つめ、こう問いかけてきたのだ。
「もしや、桐香寺(どうこうじ)の歌会で、それがしがお供をさせていただいたことはございませぬでしょうか?」
「桐香寺とは、どちらにある寺のことでしょうか?」
「愛知郡日部の郷にある桐香寺のことでござりますれば……」
「どなたかのお伴でまいったことがあるのやも知れませぬが、それがしは覚えておりませぬ。いつのことでしょうか?」
「七、八年ほど前のことと存じます」
「七、八年前でありますか?」
「はい。それがしは物覚えのよい人間でありますゆえ、間違いないことと思うておりまする。あなた様が結構な歌のお手前であったことも記憶しておりまする」
「それがしは、歌など詠みませぬ。そなたの記憶違いではござらぬかのう」
「あなた様がそうおっしゃられるのなら、そうやもしれませぬ。失礼仕りました」
頭を下げた連歌師だったが、その後も、何度も首をひねっていた。
歌会会場を後にしたボクは、鳴海宿に向かって東海道を東に進んだ。
ボクの頭の中は混乱していた。これで、尾張の国の中で見知らぬ人間から声をかけられたのが三度になったからだ。宮宿に来て間がないころに武士と商人から声をかけられたときの記憶が頭の中によみがえってきた。商人は、作之進という名前も口にしていた。
二度ならずとも三度もあるということは、もはや偶然ではかたづけられない。佐平次と尾張の国とが無関係ではないということの証明だ。
ボクの知る佐平次の経歴は、三河の国で生まれ、幼いころに両親を失い、その後一人で生きてきた中で、五年前に徳川家に仕官したという内容だ。
そして今、徳川家に仕官する以前の佐平次と尾張の国との間に関係があるという状況が色濃くなってきている。この事実を客観的に見た場合、両親を失った後より徳川家に仕官するまでの間に尾張の国で暮らしていたときがあったということになる。
問題は、尾張の国で暮らしていたと思われる時期と身分だった。
三人の話をまとめると、少なくとも七、八年前から五年前までの期間は武士として尾張の国で暮らしていたことになる。
そのことが事実であったとするならば、佐平次は、もともと織田家もしくは織田家家臣の武将に仕える武士であり、五年前に仕える先を徳川家に変えたということだ。
ボクに声をかけてきた三人の口ぶりからして、浪人などではなくちゃんとした武士として活動していたことは間違いないことのようだった。
そのことを、どう解釈したらよいのだろうか。
織田家と徳川家は同盟関係にある。よって、佐平次が織田家もしくは織田家家臣の武将のもとを出奔したのであれば、本人も次の士官先として同盟相手の大名など選ばないだろうし、たとえ本人が仕官を求めたとしても徳川家のほうで召し抱えるのを断ったはずだ。
佐平次は一介の下級武士であり、大名間の政策で士官先が変わったなどというようなことも考えにくい。
ボクは、この謎と、ボクのことを監視する複数の存在があることとが関係あるのは間違いことだろうと考えていた。しかも、複数の存在には敵対する感じが伺える。織田家と徳川家が同盟関係にあることとは矛盾していた。
ボクは、鳴海宿へ向かいながら、矛盾に対する答えを考え続けた。
2.
鳴海宿へは、あっという間に到着した。旅慣れたせいか、歩く速度が速くなっていたからだ。もっとも、考え事をしながら歩いていたので、あっという間に到着したのだと感じたのかもしれない。
いまだに、矛盾に対する答えを見つけることはできずにいた。ただ、佐平次が徳川家に仕える前に尾張の国で暮らしていたということに関しては、矛盾はないと感じていた。
前にも思ったことだが、幼少期に両親をなくして以降二十五歳にもなるまで片田舎で一人わびしくくすぶっていたとは考えられなかったからだ。都会に出て身を立てようと考えることのほうが自然である。
当時の男が身を立てるといえば武士として取り立てられるということであり、そういう意味で佐平次が武士として尾張の国で活動していたというのは話の筋は合うのだが、今現在徳川家に仕えていることへの説明がどのように考えてもつかなかった。
佐平次が五年前に徳川家に仕官したのは、周囲の人たちの証言から明らかなことだ。
矛盾を解く鍵が、ボクが複数の存在から監視されていることにあるのも間違いないことだろう。
ただ、監視されている構造が不可解だった。大和の国へ向かう道中で三人組の強盗に襲われたときに、強盗たちはボクのことを傷つけることなく旅荷を奪えと頼まれたという言葉を口にした。そのことをどのように解釈すべきなのかが、いまだにわからない。
強盗は、依頼した人物が生駒親正の名前をチラつかせたとも言っていた。生駒親正は秀吉の側近であり、秀吉方が都合の悪いことを調べられるのを阻止する目的で仕掛けたことなのだと解釈することはできるのだが、そうなると傷をつけるなということへの説明がつかなくなる。
都合の悪いことを調べられるのが嫌だと思うのなら、まどろっこしい仕掛けなどせずに殺しにかかればよいのではないだろうか。こっちは一人なのだし、首をはねることなど訳のないことのはずだ。信長抹殺の裏に秀吉の存在があったことを推測させる証拠を探しに旅に出ているのだという目的を知っているのならば、監視をするなどという悠長な対応を取ること自体がおかしいのだ。
ボクのことを護ろうとする存在がいることも、不可解なことだ。
常識的に考えれば、ボクに指示を与えた徳川方が護ってくれているのだと考えられるのだが、なぜ監視する必要があるのだろうか。
理由として考えられるのは、ボクのことを信用しきれていないからなのか、あるいはボクが円滑にミッションを遂行できるように陰ながら護ろうとしていたからなのかということだが、前者が理由であるのならば、始めから信用のおける人間に指示をすればよいだけのことだ。城下には佐平次よりも長く徳川家に仕え功績のある人間もたくさんいたからだ。
また後者が理由であるのならば、このような任務を遂行するために必要なキャリアを積んだ人間にやらせれば済む話である。徳川家ほどの大大名であれば、そのような人材はたくさんいるはずだ。
監視を行うには、それなりのコストがかかる。そのための人員や費用が必要となるからだ。任せると言いながらコストをかけて監視する。
そのような無駄なことを、はたして、あの家康がやるだろうか。
佐平次に尾張の国で武士として活動していた時期があった可能性があるということとボクに対して不可解な監視体制が張り巡らされているということとの間に関連性があるのではないかという推測に対しては自信を持てるのだが、具体的な内容については見い出せずにいた。
鳴海宿に到着したボクは、即座に連歌師に対する聞き込みを開始した。
そんな中、ある連歌師が、手がかりとなる重要な情報を口にした。最近になって活動拠点を尾張の国に変えたという連歌師だった。
興条寺の住職と高野広葉のことを知っているというその連歌師は、歌会が開かれていた場所を教えてくれた。
「お探しの歌会とは、栄和寺にて催される歌会のことではござらぬでしょうか」
「栄和寺とは、いずこにある寺なのですか?」
「三河の国の額田にございます」
「三河の国とな!」
ボクは、驚きの声を上げた。予想だにもしていない答えだったからだ。三河の国は徳川領内である。
「まことの話でござるか!」思わず声を高くし、連歌師に詰め寄った。
「まことの話でござりますれば」連歌師は、怯えたような表情を浮かべながら後ずさりをした。ボクが斬りかかってくるとでも思ったようだ。
「驚かせて済まぬ。拙者が思うていたこととは異なる答えが返ってきたゆえ。そなたは、その歌会に参加されたことがおありになるのでしょうか?」
「はい。半月ほど前までは、それがしは三河の国で活動しておりました。逍遥院殿や高野殿とは、栄和寺の歌会で、何度か顔を合わせてございまする」
「歌会は、いかような方々が参加しておられたのでしょうか?」
「お武家さまや御僧侶さま、商人などがお見えになります」
「お武家さまの中には、御高名な方もおられたのでしょうか?」ボクは、核心部分に触れた。連歌師に、強い視線を送る。
「御高名な方と申されますと……。石川数正殿でしょうか」
「石川殿!」
栄和寺は西三河の領地内にある。そして、石川数正は西三河の筆頭であり、西三河の中心城である岡崎城の城主でもあった。
連歌師から栄和寺の場所を確認したボクは、東海道を東へと向かった。栄和寺は、岡崎城からほど近い場所にあった。高野広葉も、岡崎城下で商いをしているということだ。
ボクは、歩きながら考え続けた。
栄斉とつながりのあったのは、秀吉ではなく徳川だったのだ。
ということは、栄斉は、徳川方の外交僧として筒井順慶のもとに出向いていたということになる。要件も、重要な内容であったはずだ。沼田が殺されたからだ。
そうなると、ボクのことを襲ったのは徳川方の人間だったということになるのか。傷つけずに行動を邪魔しようとしたわけであり、あり得ない話でもない。
しかし、この推理には、二つの疑問が残った。
一つ目の疑問は、邪魔をするくらいなら最初からこのような捜査を指示しなければよかったのではないかということだ。
捜査の目的は、本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていないかどうかを調べることにある。
光秀と特に親しかった筒井順慶は、ある意味本能寺の変のキーマンとなる大名であった。勝又御子(みこ)神社の一件がなくても捜査の対象にはなる。そんなことは、始めからわかりきったことではなかったのか。
二つ目の疑問は、ボクのことを護るために監視をしていた存在はどこから来たのかということだ。
徳川家以外に、ボクのことを護ろうとする存在は考えられない。今のボクは、徳川家のために動いているからだ。
理屈から考えて、徳川家と敵対する存在がボクのことを護ろうとしていたのだという考えは矛盾する。
栄斉を通じた徳川家と筒井家との関係を敵方がすでに知っていたのならば今さらボクが大和の国へ行けるようにするために護る必要はないし、知らなかった場合も大和の国にこのような秘密があったことを敵方は知らないわけだから、なおさらボクのことを護る必要などない。
ボクは、考え続けた。なかなか、しっくりといく答えが見つからない。
(まてよ?)ボクは、連歌師から聞いた話を、今一度頭の中で思い返してみた。
連歌師は、石川数正と栄斉、高野広葉との間に関係があったとは言っていたが、家康本人とも関係があったとは言っていない。石川数正が、単独で栄斉を使って外交を行っていたという可能性も考えられるのだ。
史実では、石川数正は、一五八五年の十一月に秀吉方に寝返っている。となれば、その三年前より、すでに秀吉と通じていたということも考えられなくはない。
そんな中、秀吉が、己のリスクを考え、石川数正を使って筒井順慶と交渉していたのかもしれない。交渉事が表沙汰になっても、自分には関係がないことだと主張するためにだ。
その場合、表に立っているのは石川数正なのだから、家康がまずい立場に立たされる。知恵者の秀吉が考えそうなことだ。
そうであった場合、ボクのことを妨害しようとしていたのは石川数正であり、ボクのことを護ろうとしていたのが家康だということになる。
その関係性が正しいのであれば、家康は、石川数正が栄斉を使って密かに筒井順慶との外交を行っていることに感づいていたということになる。そんな中、ボクが大和の国に目をつけたことを知り、護る行動に出たのであろう。
しかし、そうであったとすると、家康は、どうやってボクの行動計画を知ったのだろうか。捜査状況を定期的に報告することは求められていなかったため、ボクのほうからは何も連絡はしていない。
疑問は解決されなかったが、石川数正が密かに秀吉と通じていたのではないかという考えが、ボクの頭の中を支配していた。
3.
栄和寺に到着したボクは、住職に会い、歌会のことを訊ねた。警戒されないために、栄和寺での歌会のことを教えてくれた連歌師の名前を伝えた。
そして、住職の口から、石川数正、興条寺の住職、高野広葉の三人が、栄和寺で開かれる歌会の常連であったことを確認した。
歌会は、石川数正からの指示で二年前より開かれるようになったということであり、興条寺の住職と高野広葉は最初からのメンバーということだった。住職の記憶によれば、石川数正と興条寺の住職は、それ以前からの知り合いのように見えたということだ。
これで、二人がつながっていたことがはっきりとした。なぜ徳川家の重臣と徳川領外にある寺の住職との間で関係ができたのかはわからないが、領外の人間だったからこそ秘密外交のパイプ役として活用することができたのではないかということも言える。
ボクは、本能寺の変自体に石川数正が関係していた可能性を考えてみた。
栄和寺を後にしたボクは、東海道をさらに東へと向かった。
松井と落ち合う約束をした日までまだ一週間あったが、やることを全てやりつくしたという思いがボクの中にあったからだ。
そのような中、浜松城下に立ち寄ってみたいという気持ちが湧いてきた。お玉に会うことが目的だった。
佐平次の家を発ってから二ヵ月が経とうとしていた。そして、彼女のことが無性に恋しくなっていた。タイムスリップをした後のわずかな時間ではあったが、彼女と過ごした時間は、心地の良い記憶としてボクの頭の中に住みついていた。
浜松城下へは、二日後に到着した。
本多忠勝や直接の上司である足軽大将の大山左馬之助に対して一言挨拶をすべきなのではないのかという考えが頭をよぎったが、やらないことにした。なんのために戻ってきたのだと問われたときの適当な理由が思いつかなかったからだ。長居するだけの時間的な余裕のないことも理由だった。
佐平次の家にたどり着いたボクは、鍵のかかっていない入口の扉を開け、家の中に足を踏み入れた。
家の中は、綺麗な状態が保たれていた。ごみやほこりも落ちていない。お玉が、毎日掃除をしてくれているのだろう。
一通り家の中を見回したボクは、家を出て、二軒隣りの商家に向かった。お玉が住む家である。彼女の家は、今でいうところの生活雑貨を売る商店だった。
店の中は、お玉の母親が店番をしていた。突然姿を現したボクを見て驚く。ボクは、まだ任務中なのだが、近くに来たので立ち寄ったのだと説明した。
お玉は、買い物に出かけているということだった。すぐに戻るということであり、ボクは、母親に、手が空いたら佐平次の家に来てくれるようにお玉に伝えてほしいと頼み、家に戻った。
一時間後に、お玉が家に現れた。嬉しそうな顔で、ボクのもとに駆け寄ってくる。
「久方ぶりでございます。お元気そうで、何よりでございます」
「そなたも、息災のようであるな」
ボクたちは、一別以来の言葉を交わした。
ボクは、いろいろと話したいことがあったのだが、いざ本人を前にすると言葉が上手く出てこなかった。お玉も、話したいことがあるのに言葉が口を突いて出ないというような表情を浮かべている。
しばしの沈黙の後に、お玉が言葉を発した。
「あのときよりずっと、佐平次さまの心配ばかりしておりました」
「拙者も、そなたのことを気にかけておったのだ」
「まあ、嬉しゅうございます」
「文は届いたかのう?」
「はい。何度も読ませていただきました」
お玉が、懐から手紙を取り出した。何度も読み返したという言葉通り、紙の折れ目がもろくなっているのが目に映る。
ボクは、手紙を書いたときのことを思い返した。
女からの誘惑を振りほどき、再び大和の国へ向かって歩き出した日のことだった。女と過ごした熱い一夜のことが頭に浮かんでくる。
女の顔が、お玉の顔と重なった。ボクは、悪夢を振り払うかのように首を振った。ボクのことを心配し続けてくれていたお玉に対して申し訳ないという気持ちが湧いていた。
「こたびは、なんどきまで居られるのでありましょうか?」お玉が、いつまで浜松城下に留まっていられるのかを聞いてきた。まだ任務中であることは知っているようだった。
「明日には旅立つつもりじゃ」
「明日でございますか!」お玉が、目を見開いた。もう少し長く留まるものだと思っていたようだ。
「すまぬな。こたびは、そなたの顔が見たくなり、立ち寄ったのじゃ」
「嬉しゅうございます」
「今日一日はゆるりとできる。そなたとも、存分に語り合いたい」
「私もでございます」
お玉の顔を見たボクの心が癒されていた。
ボクとお玉は、時間を忘れて語り合った。
お玉は、もはや佐平次に対して特別な感情を抱いていることを隠そうとはしなかった。暗に、一緒になることを望んでいるような言葉を口にした。二ヵ月間もの間逢えずにいた反動からか、思いをストレートにぶつけてきた。
それに対して、ボクも、気持ちが同じであることを口にしていた。
ボク自身は、この先どうなるのかわからないのだから軽々しく期待を持たせるような言葉を口にすべきではないという思いでいたのだが、意に反して、口からはお玉の思いを受け止めることを直接的に現す言葉を発していた。
心が佐平次の魂に支配されたのだろうと感じていた。
思いを寄せ合う男女の会話に、お玉が、今まで見せたことのないような幸せに満ちた表情を浮かべた。
その表情を目にしたボクの頭の中に、今は亡き祖父が死ぬ間際に浮かべた表情が浮かんできた。死に際に、病室のベッドを囲んだ身内の人間たちに向かって、祖父は「悔いなき人生だった」という言葉を口にした。なんら思い残すことなくあの世に旅立てるのだという思いを伝えるための言葉だった。
そのときの祖父の表情と目の前のお玉が浮かべた表情とが重なった。顔の輪郭やパーツが似ているという意味ではなく、瞬間的に見せる顔の表情に似たところがあるのを感じていた。
(もしかして?)ボクの胸の中で、ある考えが湧いてきた。お玉は、自分の先祖なのかもしれない。
残されている家系図や古文書からも、佐平次が自分の先祖だったことは間違いない。しかしタイムスリップをしたことでわかったのだが、佐平次は三十歳になった現在独身である。子どもがいるという話も聞こえてこない。そんな佐平次が子孫を残したということは、生んだ女性がいるということだ。
ボクは、その女性の位置にお玉を置いた。そのように考えても、なんら不思議ではない。むしろ自然であった。
二人が愛し合っているのは間違いない。お玉はストレートにそのことを口にしているし、佐平次もボクの心を押しのけて彼女の思いを受け止める言葉を口にしている。
ボクの中で、お玉に対する思いが、可愛い女性から敬うべき相手へと変わっていった。
浜松での時間は、あっという間に過ぎ去った。
お玉は、ボクに甲斐甲斐しく尽くしてくれた。心づくしの料理を振る舞い、着物や下着、足袋などの洗濯もしてくれた。
夕食を済ました後も、夜が更けるまで、ボクたちは二人でいた。
お玉は、女としての覚悟を表してきた。ボクにも、そのことは手に取るように伝わった。
しかし、ボクは、お玉に対して一線を踏み越えることはしなかった。彼女に対する思いが、敬うべき相手へと変化していたからだ。ボク自身が彼女の血を引いているのではないかという思いも、確信へと変わりつつあった。
そのような中で、ボクは、お玉の思いを精一杯受け止めた。ボクの胸に顔を埋める彼女の肩を優しく抱き、彼女に向けた想いを口にし続けた。佐平次の心とボク自身の心が一つになったことを感じながら、お玉に接し続けた。
出発の時を迎えた。
洗い立ての着物に袖を通したボクは、未練を断ち切るように出発することを告げた。
「年を終えるまでは、もう戻っては来られぬのですね」お玉が、寂しそうな眼差しを向けてきた。
お玉には、年が明けた一月一日に、この家に戻ってくるつもりだと伝えてあった。
「おそらくは」ボクも、寂しそうに答えた。
「私は、あなた様が御無事でおられることを、毎晩祈っております」
いつの間にか、お玉のボクに対する呼び方が、佐平次さまからあなた様へと変わっていた。
「心配は無用じゃ。けっして危うい旅ではござらぬゆえ、そなたが案ずる必要はない」
「……」
「では、そろそろまいる」
ボクは、お玉の手に触れた。お玉に対して、優しい眼差しを向ける。荷物を入れた籠を背負い、ゆっくりと立ち上がった。
お玉も、無言で立ち上がる。
「拙者が留守の間、この家のことをお頼み申す」
「承知しておりまする」
「それでは、拙者はまいる」
「お気をつけて……」
再びお玉の手に触れたボクは、西へと向かって歩き出した。途中何度か振り向いたが、お玉は、家の前に立ちつくし、遠ざかるボクに視線を向け続けていた。
やがて、お玉の姿が点になり、ボクの視界から消えた。
そのとき、ボクの胸の中で、ある予感が走った。もう、彼女と会うことはないのではないのかという予感だった。
4.
ボクは、東海道をゆっくりと歩いた。浜松から宮宿までは距離にして百キロ余り、そして松井と落ち合う約束をした日は四日後であった。一日二十五キロのペースで移動すれば間に合う計算だ。
道を歩きながら、ボクは、いろいろなことを考えた。
現世のことが頭をよぎった。みんな、ボクのことをどう思っているのだろうか。誰もが、失踪する理由など見当たらないと口にしていることだろう。事実、失踪する理由などなかったのだから。
俗世間的なことも浮かんできた。時期的に、プロ野球のクライマックスシリーズが開催されているころだ。巨人は、セ・リーグを優勝したのだろうか。タイムスリップする直前までは、巨人と阪神が首位を争っていた。
この時代のことも考えた。
別れたばかりのお玉のことを思い浮かべる。彼女が現世で生きていたら、さぞかし持てたであろうと思った。器量も気立てもよい。古風な女性が好きな男にはうってつけな存在だ。
結局のところ、お玉と佐平次は結ばれたのだろうか。
二人が惹かれあっていることは間違いない。お玉も思いを口にしていたし、佐平次もその話をするときだけボクの心の中に入り込んでいたからだ。
ボクは、二人が結ばれることを心の底から願っていた。ともに、人としてリスペクトできる存在だったからだ。ボクが、あの二人の末裔だったとしたならば、なんと素晴らしいことだろう。
それにしても、実際のところ、佐平次は、家康からこのような役割を仰せつかったのだろうか。
実際は、タイムスリップをしたボクが、佐平次の肉体と頭脳を借りて行動をしている。行動をコントロールしているのはボク自身の心だ。佐平次による秀吉の捜査が史実であったのならば、ボク自身の行動が歴史を変えてしまうことにもつながりかねない。
そのことに、末恐ろしさを感じていた。
石川数正と栄斉との関係について考えを巡らせていたボクの頭の中で、ある疑問が湧いてきた。
数日前、ボクは、石川数正が密かに秀吉と通じていたのではないかという推理を打ち立てた。その推理を柱にしていろいろなことを考えたわけだが、はたしてそのように決めつけてもよいのだろうかという疑問だった。
秀吉のあらさがしをするために旅に出ているという意識があったために、自動的に石川数正が秀吉のために秘密外交をしているのだという先入観ができあがってしまったのだが、冷静に考えてみれば、上司である家康のために動いていたと考えるのが普通だ。
栄斉が外交僧に選ばれた理由はわからない。彼が英知に富んでいたから選ばれたのかもしれないし、筒井順慶にコネがあったため筒井家への外交役として選ばれたのかもしれない。
いずれであったにしても、石川数正を通じて栄斉という存在を知った家康が外交僧として使うように指示を与えたとも考えられなくはない。
そうだった場合、外交の目的は、どのようなものだったのだろうか。
栄斉が頻繁に筒井城を訪れていたことは確認済みだ。ということは、ある時期から両者の間で外交交渉が続いていたということになる。
そうだとすると、大和の国へ向かうボクを妨害したのは家康だった可能性が高くなる。つまり、外交の内容が公にできないものだったということなのだろう。
栄和寺に向かう道中でも頭の中によぎった推理だったが、あのときは二つの疑問が残り、現実的ではないと判断してしまった。特に、邪魔をするくらいなら最初からこのような捜査を指示しなければよかったのではないかという疑問に対しては、どのように考えても答えが出てこなかった。
そんなボクの頭の中で、家康が命じた捜査の裏に、何か別の狙いがあったのではないかという疑問が湧いていた。本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていないかどうかを調べることとは別の目的である。
一介の下級武士が地道な捜査をするために旅に出ただけにしては、身の回りで起こったことのスケールがでかすぎるように感じたことが疑問の湧く原因だった。
ボクは、三度にわたる妨害の内容を何度も思い返した。
浜松を発ってから四日目の夕方、松井と落ち合う約束をした宮宿の宿に到着した。宮宿での捜査を開始したときに定宿にしていた小宿である。
松井は、まだ宿に到着していなかった。
ボクは、二人分の宿泊料金を支払い、部屋に入った。松井と別れた後の捜査の内容を頭の中で整理する。松井との間で互いの成果を確認し合った上で、今後の計画を立てなければならなかった。
頭の中での整理をし終えたころに、松井が宿にやって来た。
久々に彼の顔を目にしたボクの胸の中で、懐かしさが込み上げてきた。長い間離れ離れになっていた家族と再会したときのような気分になっていた。
「幾分、日に焼けたようであるな」ボクは、労いの意味を込めて第一声を放った。
「兄者も、だいぶん日に焼けたようでございますね」松井が、笑顔で返す。
日焼けは、活動の証である。
「尾張での調べは、いかがであったか?」久しぶりに顔を合わせたことへの挨拶もそこそこに捜査の報告を求めたボクに対して、松井が成果を説明した。
彼は、ボクが大和の国へ旅立った後に、宮宿以外の尾張の国全域にまんべんなく聞き込みを行ったということだった。農村部にも足を延ばしてみたということである。
「やはり、羽柴殿は怪しゅうございます」松井は口にした。
本能寺の変が起こる以前に、近い将来秀吉の躍進があるのではないかという話を耳にしたという人間が何人もいたということだった。その中には町人同士の噂話も含まれていたが、秀吉に近い者同士が話をしていたのを耳にしたという事例もあった。
ボク自身が宮宿での聞き込みを行っていたときにも、旅商人から、但馬の国で羽柴秀長配下の武士たちが「これからは秀吉の時代だ」などと語り合っていたということを耳にしたが、このような話があちらこちらでされていたのであれば、本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていたことを疑わせる状況根拠になる。
「跡をつけられてはおらなんだか?」ボクは、尾行されていなかったかどうかを確認した。
それに対して、松井が首を横に振る。そのように感じたことは一度もなかったということだ。
「兄者は、跡をつけられたので?」
「いかにも。大和の国へ旅立つ頃より、跡をつけられておった」
ボクは、三度にもわたって妨害されたことを口にした。妨害された内容や助けられたときの状況も詳しく説明する。
松井が、驚きの表情を浮かべた。
「さようなことが三度にもわたって起こったのであれば、何者かに跡をつけられていたという可能性が高こうございますね。さすれば、羽柴殿に監視されていたということでしょうか?」
「その可能性が高いと思われる」
「して、異なる監視の目もついていたということでしょうか? その者どもが、兄者のことを助けたということになるのでしょうか?」
「さようなことになるのであろう」
「異なる監視とは、我が方でありまするか?」
「お主は、いかが思う?」
「我が方だとしか考えられぬではありませぬか。我らは、徳川家のために動いておるのですから」
「なぜ、拙者だけが監視されておったのかのう?」
「それは、羽柴殿が、大和の国の方向へ向かおうとする者に対して監視の目を強めていたからではありませぬか? その者どもの目に、兄者が偶然に捕らえられたということではござりませぬか?」
「ならば、拙者を助けた側は、いかがなるのじゃ? 我が方による者だとして、なにゆえ拙者のことを監視しておったのであろうか?」
「監視などではなく、偶然見守るような結果になったのではありませぬか? たとえば、他の目的で大和の国の方向へ向かっていた我が方の者が偶然兄者のことをお見かけして、その折に跡をつける者がおることを知り、陰ながら見守っていたのではないでしょうか」
「ならば、なにゆえ拙者に声をかけぬのじゃ?」
「跡をつける者がどこぞの手の者かを確認することが先決であると判断したのやも知れませぬ」
「たしかに、お主の申すような解釈もできるのであるが……」
ボクは、松井の説明に納得していなかった。決して偶然などではない。口で説明するとそのように聞こえてしまったのかもしれないが、三度のことは、いずれも偶然ではなかったという確信がある。
そのこととは別に、頭の中で違和感が生じていた。今までとは違う角度から一連の出来事を精査してみるべきではないのかという意識が湧いていたのだ。先ほどまでの松井との会話の中のどこかの部分が引っ掛かっていた。
(何のことだろう?)会話の中身を思い返してみたのだが、引っ掛かった原因を見つけることができずにいた。
5.
松井から報告を受けたボクは、自分自身の捜査結果を松井に説明した。
興条寺の住職が頻繁に筒井順慶のもとを訪ねていたことや、そのことを調べていた沼田が何者かに殺害されたこと、興条寺の住職が石川数正とつながっていたことなどを伝えた。
「興条寺の住職が外交僧という立場で筒井殿と会っていたのは、間違いないことなのでありましょうか?」松井が、確認の言葉を口にした。
「筒井殿は大名であるゆえ、幾度ものこととなれば、外交僧という立場で訪ねたのだとしか考えられぬ」
「して、外交を命じたのが石川殿ということでありましょうか?」
「直接命じたのは石川殿であろうが、事は大名同士の外交であろう」
「すると、直接の外交相手とは……」
松井が口をつぐんだ。ボクは三年後に石川数正が秀吉のもとに駆け込むことを知っているが、リアルにこの時代を生きている松井には未来のことなどわからない。
そのような松井の頭の中で浮かんでくる答えは一つしかないはずだ。そのために、戸惑いを覚えたのだろう。
ボクは、未来の史実を語るわけにはいかなかったため、家康の名前を口にした。
「我が大殿であろう」
「ご用向きは、いかような?」
「それは、拙者にもわからぬ」
「なれど、興条寺の住職が我が方の外交僧であったのならば、こたびに大殿から仰せつかったこととは関係がございませぬな」
「さようであろうな……。ときに、羽柴殿と筒井殿との関係についてなのじゃが、森高義秀殿と片桐且元殿とがつながっておったという話は、どこからも聞くことができなんだ」
ボクは、沼田を使って捜査をしたことを伝えた。
「お主は、勝又御子(かつまたみこ)神社にて、しかと、お二方が会っておられたことを耳に致したのであったな?」
「いかにも。ヨシと名乗る女中から、しかと聞き申してございまする」
松井が、怪訝な表情を浮かべた。
「ならば、拙者が頼み致した者の調べが足りなかったのであろう」
「勝又御子神社へ、再び調べを致しまするか?」
「お主が、存分に調べてくれたのじゃ。この上調べを致すと、不審がられるやもしれぬ」
「ならば、このまま近江の国へ旅立ちまするか?」
「お主は、いかが思うのじゃ?」
「それがしは、この上尾張の国で調べることはないものと思うておりまする」
「ならば、明日にでも旅立つと致そう」
「近江の国では、いかような調べを致しまするか?」
「そのことは、一晩寝た後に考えようではないか。お主も、疲れたであろう」
「ちと疲れました」
松井が笑みを浮かべた。
一晩寝て、頭をスッキリとさせた上で今後の計画を考えることにした。
ボクと松井は並んで床に就いた。
間がなく、隣から松井の寝息が聞こえてきた。
しかし、ボクは、すんなりとは寝つけなかった。頭の中での引っ掛かりが残ったままだったからだ。
ボクは、松井とのやり取りを思い返した。互いの活動報告をしあったやり取りの中身に、何か引っ掛かかるものがあったのだ。
薄目をあけながら、考えをめぐらす。
そして、ついにその正体を見つけたような気がした。それは、大和の国へ向かう道中に妨害行為にあったという話をしたときの会話の中にあった。
何者かに助けられたという話をしたときに、松井が、ボクのことを見守っていた存在があったのではないかという考えを口にした。
それに関してはボクも同じ考えだったのだが、今まで見守ってくれていたのは、当然徳川方だと思っていた。佐平次は家康の指示を受けて行動していたのであり、そのように考えるのが当然なのだが、はたしてそのように決めつけてもよいものなのだろうか。
そのように考えたボクの頭の中で、今までにない発想が浮かんできた。見守ってくれていたのは秀吉方だったとは考えられないのかという発想だった。
味方であるはずの徳川方が大和の国入りを妨害する可能性があることは、以前にも考えた。筒井家との秘密外交の存在を探られたくないことが理由だ。ボクを傷つけないように妨害しようとしたこととの整合性もある。
加えて、佐平次に尾張の国で武士として活動していた時期があったのであれば、秀吉方が見守っていたというのもあり得ることなのだ。三人組の強盗が生駒親正の名前を口にしたときにボクを助けてくれた男たちが一様に怪訝な表情を浮かべていたことも、見守ってくれていたのが秀吉方の人間だったのならば頷ける話だ。秀吉側近の生駒親正が、秀吉の意に反する行為をするはずがないからだ。
考えを巡らせながら、今回の一連の捜査結果に対する検証を進めてみた。
松井から報告を受けた、秀吉の策略が働いていたことを疑わせるような状況証拠がいくつも浮かび上がってきたことも意外ではあった。
本能寺の変が起こる前から、近い将来秀吉の躍進があるのではないかというような話が巷のあちらこちらで聞こえていたのであれば、当然諸大名たちの耳にも届いていたはずだ。
史実では、主君の仇を取るという大義名分を得たことで秀吉は光秀との戦や清州会議での内容を有利に進めることができたわけだが、その裏で、家康と同様に、秀吉に対して疑惑を抱いていた大名がたくさんいたのだろうか。
勝又御子神社における森高義秀と片桐且元の密会に関しても、予想外の結果が生じていた。
松井は話を聞いたという女中の名前も口にしており二人の間で密会があったことは確かなことなのだろうが、なぜ沼田を介した捜査では、それに関する形跡が一切つかめなかったのだろうか。
沼田は、森高義秀配下の者たちに対して聞き込みを行っていた。聞き込み相手の中には、勝又御子神社に詣でる森高義秀の伴をしたことのある者も含まれていた。
秘密外交に関することであり、慎重に事が進められていたからなのだろうが、関係者への聞き込み捜査で状況証拠すら得られなかったというのは意外な結果だ。
二人が持ち帰った捜査情報を照らし合わせることではっきりとしたものが見えてくることを期待していたのだが、曖昧な部分が多く残ってしまった。
そのことに、ボクは釈然としない思いを抱えていた。
寝付けない状態が続いていた。
頭の中で、お玉に会いに行った浜松城下からの帰り道に思い巡らせていた推理が再び浮かんできた。栄斉を動かしていたのは家康であり、探られたくない方向に向かい出したボクのことを邪魔したのではないだろうかという推理だ。
この推理には、二つの疑問が立ちはだかっている。邪魔をするくらいなら最初からこのような捜査を指示しなければよかったのではないかという疑問と、邪魔をしたのが家康方の者だったのだとしたらボクのことを助けたのは誰なのかという疑問だ。
助けてくれた側も、明らかにボクのことを監視していた。手を差し伸べたタイミングからして、間違いのないことだ。
栄斉の件に関しては、家康が石川数正を通じて使っていたと考えるほうが筋は通る。
栄斉を使っていたのが家康だと仮定した場合、二つの疑問に対する上手い説明はできないかとボクは考えてみた。
一つ目の疑問に対しては、どのように考えても上手い説明は見つからなかった。
家康から指示されたことの目的が本能寺の変に関して秀吉の策略が巡らされていたことを疑うことのできる証拠を探すことであり、捜査のやり方もボクに一任されていたからだ。
光秀が秀吉に敗れた原因の一旦となった筒井順慶のことを調べることになることも容易に察しがつくはずであり、そこに目を向けてほしくないのなら、捜査の目的を変えるか、もしくは捜査方法を直接指示することをしたはずである。
二つ目の疑問に対しては、どうだろうか。
前に考えた時は、徳川家の人間であるボクのことを助けるのは徳川家以外にはありえないという結論に至ったのだが、違う見方をすることはできないだろうか。
徳川家に仕える人間の行動を徳川方が妨害し、徳川方の敵対勢力が助ける。このような矛盾が成り立つケースは、あり得るのだろうか。
普通に考えたら、あり得ない。敵対勢力が、敵対する側の指示を受けて行動する人間を庇護することなど考えられないからだ。
あるとしたら、佐平次自身が敵対勢力にとって必要な人間だったというケースだ。
そのようなことが、はたしてあり得るのだろうか。
頭の中が冴えわたってきた。
暗闇の中で、天井に視線を向けた。静寂な空間に、松井の寝息が漏れ広がる。
(ある!)ボクは、佐平次が敵対勢力にとって必要な人間だったというケースがあり得ることに気がついた。佐平次が、敵対勢力の指示で徳川家に仕官していた場合だ。現代でいうところのスパイ活動である。
(しかし……)そこで一つの疑問が湧いてきた。三河の国の出身である佐平次を徳川家に対するスパイとして使うだろうかという疑問だった。
三河の国は徳川家発祥の地であり、住人との結びつきも強い。そのような国の出身者をスパイにするというのは、使う側にとってリスクが高すぎやしないだろうか。
(まてよ?)ボクは、あることに気がついた。佐平次は、ほんとうに三河の国の出身なのだろうかという疑問だった。
五年前に徳川家に仕官したことは間違いないことだろう。複数の人間の証言もある。
しかし、三河の国の出身であったというのは、松井から聞かされて知ったことだ。それ以外に、耳にしたことはない。佐平次の出身の地とされている三河の国の八名郡美和郷の近隣の郷で暮らしていたという松井の父親も、佐平次の存在は知らなかったと言っていた。
もし、松井の言葉が正しくなかったのだとしたら、佐平次の出身は三河の国ではなかったと考えることに差し支えはない。三河の国の出身でないのだとしたら、どこの国の出身なのだろうか。
そのことを考えたボクの頭の中に、宮宿での聞き込みを行っていたときに佐平次のことを知っているような反応を見せた三人の人間のことが浮かんできた。武士と商人、連歌師だ。
ボクは、彼らの反応から、佐平次は徳川家に仕官する以前に尾張の国で暮らしていたことがあったのではないだろうかという推理を打ち立てた。
そして、今、推理の幅が広がった。佐平次の出身は、尾張の国だったのではないだろうかという考えが、頭の中を支配していた。
そうであったのならば、徳川家に対するスパイとして使われていたとしてもおかしくはない。そして、スパイとして使っていたのは、尾張の国とゆかりの深い人物であり、家康と敵対関係にある人物だ。
そのような人物として思いつくのは、一人しかいなかった。秀吉である。
(まさか……)ボクは、突拍子もない推理に呆然とした。筋は通っているが、ボクの中での価値観が百八十度真逆になることだったからだ。
そんな中、ボクは、タイムスリップをする以前に何度もデジャブに見舞われていたことを思い浮かべた。デジャブの中身は、いずれも名古屋に関係していた。名古屋といえば、尾張の国だ。
ボクは、デジャブの原因が、佐平次の記憶が現世で生きるボクに甦ったからなのではないだろうかと思った。
6.
ボクの脳裏に、ある記憶が甦って来た。現世からタイムスリップをしたときに見た夢のような光景だった。
戦場で戦う佐平次がいた。槍を振り回し、敵兵を次々となぎ倒していく。
そんな中、とある敵兵が振り回した槍が後頭部を直撃し、佐平次は、その場に倒れ込んだ。
(こんなところで身罷る(みまかる)わけにはまいらぬ)そのときの佐平次の心の声が聞こえてきる。
遠ざかる記憶の中で、佐平次は、無意識のうちに何ごとかを思い浮かべていた。川に沿って広がる町並みや何者かに向かってひれ伏している彼自身の姿が、断片的にボクの頭の中に映し出される。
佐平次の思い浮かべる町並みとボクの記憶の中での町並みとが重なった。それは、尾張の国の中で見た町並みだった。
ひれ伏す先の人物のシルエットが浮かび上がってきた。顔の輪郭が、徐々にはっきりとしてくる。歴史の教科書でも目にしたことのある特徴のある顔が浮かび上がってきた。
ボクの意識は、完全に佐平次に乗っ取られていた。
(早く上様にお伝えせねばならぬ)疑惑が確信へと変化していく。五年もの歳月を費やして拾い集めた数々の疑惑の集積に栄斉を使った秘密外交の存在が加わり、パズルを完成させた。とある大大名が描いた壮大な謀略の筋書きが浮かび上がっていた。
ひれ伏す先の人物が敵対意識を燃やす大大名を失脚させるための切り口としては充分すぎる内容であった。
佐平次の意識から解き放たれたボクの中でも、疑惑が確信に変化していた。佐平次が徳川方へ放たれたスパイであることへの確信だった。そして、放った張本人は秀吉である。
(これから、どうしたらよいのだろうか?)ボクは、現実の世界に引き戻された。明日、次の目的地である近江の国へ向かって松井とともに旅立つことになっている。
しかし、ボクは、このまま旅を続けるつもりはなかった。
佐平次が、秀吉に伝えたがっている。栄斉を介した家康と筒井順慶との秘密外交のことを、そして徳川家に仕えて以降拾い集めた家康に関する数々の疑惑を伝えたがっている。
伝えるためには、秀吉のもとへ行かなければならない。
秀吉は、今どこにいるのだろうか。史実では、山崎の戦いの後に、居城を山城国内の山崎城に移していた。秀吉に伝えるためには、山崎城へ行く必要があった。
ボクは、山崎城へ行くためにはどうすればよいのかを考えた。
まずは、松井の存在をなんとかしなければならない。彼と一緒に山崎城へ行くわけにはいかないからだ。しかし、夜が開ければ、彼とともに近江の国へ向かわなければならない。
考え抜いた末に、ボクは、近江の国を二分した上で二人が別々に捜査する捜査計画を松井に指示することにした。松井が東近江を担当し、ボクが西近江を担当するのだ。
東近江を捜査する松井と別れ、そのまま西近江を通過して山崎城へ行く。これが、一番スムーズに事を運べるやり方である。
宮宿を捜査したときも、城下町を二分した上で別々に捜査をした。近江を二分するボクの計画に対して、松井が反対することはないだろうと思った。
時間は、静かに流れていた。頭の中は、すっかりと冴えわたっていた。次々と、物事が浮かんでくる。
ボクは、佐平次の出身のことを考えていた。
彼が、尾張の国の出身だったのは間違いないことだろう。そのように考えることで、話のつじつまがあってくる。
しかし松井は、佐平次の出身は三河の国だと言った。具体的な地名まで教えてくれた。
そのため、ボクの頭の中で佐平次が三河の国の出身なのだという先入観が植え付けられたのだ。
(彼は、嘘をついたのだろうか?)
松井は、誤った情報をボクに伝えた。彼自身がどこからか誤った情報を耳にしてボクに伝えたのか、あるいは故意に嘘をついたのかの二つに一つだ。
いずれであったにせよ、見過ごすことはできない。
彼が誤った情報を耳にしたのなら、その話がどこから来たのかということを知る必要がある。そのことを松井に伝えた者がどのような理由でそのことを口にしたのか、何か特別な意図が存在したのかを知らなければならない。
故意に嘘をついたのだとは考えたくはなかった。彼の佐平次のことを慕う態度に嘘は感じられない。二人の間にある信頼関係も本物に思える。
いずれにしても、本人に聞いてみれば解決できることだ。ボクは、明日そのことを松井に確認してみようと思った。
頭の中が、佐平次の出身に対する疑問から家康に対する疑問へと変わった。なぜ家康は、今回の捜査をボクに命じたのだろうかということについてだった。何日も前からそのことを考えていたが、納得のいく答えを見つけられずにいる。
家康は、ボクが徳川領外から来たことを知った上で召し抱えたはずだ。仕官を申し出た者に対する身辺調査は必ずやるはずだったからだ。尾張の国の出身だということも知っていたのだろう。
そんな佐平次に対して、なぜ秀吉のあらさがしを行うことを命じたのだろうか。尾張の国は秀吉の勢力が及んでいる地であり、下手をすれば家康自身の首を絞めかねない。
家康は、慎重な性格だ。頭も切れる武将である。そんな彼が、子どもでもわかるようなリスキーなことをした理由がわからない。
現に、家康にとって不利な情報を入手した佐平次が秀吉のもとへ向かおうとしている。
佐平次が拾い集めていたと思われる数々の疑惑の内容については、今は何も浮かんでこないが、佐平次として秀吉に会った時には浮かんでくるのではないだろうか。筒井順慶との秘密外交のことも、間違いなく秀吉に有利に働く情報だ。家康が筒井順慶を抱き込もうとしたことを疑わせるのに十分な情報だからだ。
捜査を始めるときは、ボクが酒場で秀吉陰謀説を口にしたことを知った家康が抜擢したのだと解釈していたが、今は、何らかの意図があって命じたのだと確信していた。
しかし、その意図が見えてこない。どのように考えても、家康にとってのメリットが伺えないからだ。
ボクの中で、いくつもの考えが浮かんでは消えていった。
7.
「兄者、朝餉を食べにまいりませぬか」松井の呼び掛ける声でボクは目を覚ました。夜は明けていた。部屋の中に、外からの活気が伝わってくる。
一晩中、さまざまなことを考えた。そして、空が白み始めたころにようやく眠りに着いた。
つかの間の眠りだったが、寝不足感はない。そればかりか、頭の中が興奮で冴えわたっていた。秀吉のもとへ向かうことを決意したからだ。
松井と一緒に朝食を済ませたボクは、昨晩考えた今後の捜査計画を口にした。
しかし、ここで想定外の事態が生じた。ボクの計画に対して、松井が異を唱えたのだ。
「時も限られますゆえ、それがしは、こたびの宮宿での調べのときと同じように、羽柴殿のゆかりの地を二人で重点的に調べ致したほうがよいのではないかと考えておりまする」
秀吉が居城にしていた長浜城下や主だった城下町に的を絞って二人で手分けして集中的に捜査をしたほうがよいのではないかという主張だった。
彼の主張は正論だった。以前のボクであれば、同じように考えただろう。
しかし、今は事情が変わったのだ。ボクは、秀吉のもとへ向かわなければならない。それも、松井に気づかれないようにだ。
「近江は京に近い地じゃ。まずは、まんべんなく調べを致した上で、ありとあらゆる情報を持ち帰ることが肝要であると考えておる」
「なれど、住む者の少ない農村にまで時を費やすことは、意味のなきことと存じ上げます。尾張の国での調べのことも、兄者には、お伝え致した通り……」
松井の報告では、農村部では、これといった情報は得られなかったということだ。そもそも、農村部で暮らす人間と武家社会の人間とが接することなどあまりない。松井の疑問は、最もなことだった。
ボクは、九年にわたって秀吉が北近江一帯を支配していたことや、同じころに明智光秀が近江の国の滋賀郡を支配していたことを指摘した上で、近江の国全域をまんべんなく捜査することが大事なのではないかという考えを主張した。
松井も、納得のいかない表情を変えない。
同じ時期に秀吉と光秀の支配が及んでいたとしても、近江の国を二人で二分していたわけではない。国全域を捜査対象にするにしても、分割などせずに、捜査地域ごとに二人でローラー的につぶしていくやり方の方が効率的ではないかというという主張を繰り返してきた。
その主張に対して説得力のある答えは見つからなかったが、ボクは、東西で分割する考えを譲らなかった。
「さすれば、兄者が東近江を調べられたほうがよいのではないでしょうか? 羽柴殿が居城にしておられた長浜城も東近江にありますれば」
「ともに大事ではあるが、西近江は京のある山城の国とも接しており、人の往来も多い。それゆえ、拙者は、西近江のほうを調べてみたいと思うておるのじゃ」
「兄者がそう申されるのであれば、それがしは、異論は申し上げませぬ」
渋々といった表情で、松井が首を縦に振った。
近江の国へは、美濃の国を経由するルートで向かうことになった。現在の東海道本線に沿ったルートだ。岐阜、大垣、米原を通って長浜に到着する。
ボクと松井は、肩を並べながら、ゆったりとした足取りで近江へ向かった。
並んで歩きながら、ボクは、松井にいろいろと話しかけた。話しかけずにはいられない気分だったからだ。
推理した通り佐平次が秀吉の放ったスパイであったのならば、捜査で別れた後に再び彼と会うことはないだろう。
短い時間だったが、彼と過ごした時間は楽しかった。大柄でいかつい風貌に似合わず、繊細で実直な人柄に好感が持てた。佐平次自身も、彼のことを信頼し可愛がっていたのだろう。
タイムスリップをした後にボクが体験したことが遠い昔に佐平次が体験したことと全くイコールなのかどうかはわからないが、これから秀吉のもとへと向かおうとしていることが実際に佐平次の体験したことであったのならば、同じような感情を抱いていたのではないだろうか。
ボクは、松井に、佐平次の出身が三河の国だと口にしたことを聞いてみることにした。彼が、故意に嘘をついたのではないと思いたかったからだ。絶対に、そうであってほしい。
「つかぬことを聞き申すが、こたびの旅の始めにお主の故郷へ立ち寄ったときに、拙者の生まれが三河の国の八名郡美和郷であると口にしておったが、なにゆえ、お主はそのことを知っておったのかのう?」
「なにゆえとは、いかなることで? 兄者から聞いた話でありまするが」
「拙者が、お主に、さように申したのであるか?」
「覚えておられませぬので?」
「そうであったのやも知れぬな」
「そのことが、いかがなされたのですか?」
「いや。別に、どうということはないのじゃが……」
予想もしていなかった答えに、ボクは戸惑いを覚えた。
彼の言う通りだとすると、佐平次が松井に対して嘘をついていたということになる。
しかし、そのような嘘をついて何になるのだろう。出身に関しては、隠す必要のないことだからだ。羽柴家の家臣であるということさえ知られなければ問題はないはずだからだ。
それよりも不思議に感じたのは、佐平次自身が松井に対して出身のことをしゃべっていたということだ。
ボクは、タイムスリップをして直ぐのときに、記憶喪失を装い、お玉から佐平次のことを聞き出した。そのとき彼女は、佐平次の出身のことは知らないと言っていた。
お玉も松井も佐平次にとって大切な存在だが、お玉に対して口にしていないことを松井に対して口にしたということに違和感を覚えた。佐平次がお玉のことを心から愛していたということに対する自信があったからだ。
黙りこくったボクに、松井が不審げな表情を向けてきた。
ボクは、内心の動揺を悟られまいと話を続けた。
「拙者は、徳川家に仕官するまでのことに関しては良き思い出が少ないゆえ、他言せぬよう心掛けておった。正木殿や江島殿も、拙者の出身のことなど知らぬはずじゃ。なれど、お主にだけは話したのやも知れぬ。お主に対しては、特に心を許しておったからであろうかのう」
ボクは、何度か松井を含めた四人で飲んだことのある同僚の正木市兵衛や江島一之進の名前を引き合いに出したうえで、彼の関心を逸らせるために、松井が自分にとって特別な存在だったため他人には話さないことまで話したのだろうと言い訳をした。
その言葉に、松井が表情をほころばせた。気分を良くしたのだろう。
ボクは、それを機に、話題を変えた。
「あちらにて、休息を取りませぬか」松井が、前方に見える茶屋を指差した。苦しげな表情を浮かべている。
「いかが致したのじゃ?」
「腹を下したようにございまする」
松井が、下腹を手で押さえた。息も荒くなっている。
茶屋に到着するや否や、松井は、店の裏手にあるトイレに駆け込んだ。
ボクは、二人分の茶を注文し、店内の長椅子に座って松井が戻ってくるのを待った。頭の中で、山崎城下に着いてからのことを考えた。
今、秀吉は、山崎城に居るのだろうか。居たとして、いきなり会うことなどできるのだろうか。そもそも、佐平次が秀吉の放ったスパイなどではなかった場合、どうなってしまうのだろう。不審者として捉えられてしまうのではないだろうか。
ボクは、山崎城内で尋問を受けている己の姿を想像した。
一片の揺るぎのない気持ちで秀吉のもとへ向かおうと決意したのだが、いざ向かうという状況になると、さまざまな不安が湧いていた。頭の中で、自分にとって都合の悪い場面を想像してしまう。
ボクは、邪念を振り払うように深呼吸をし、出された茶を啜った。
松井の帰りが遅い。彼の茶碗の中身は、すっかり温くなっていた。トイレの中で苦しんでいるのだろうか。
茶を飲み終えた後、しばらくして松井が戻ってきた。長椅子にへたり込むように腰を下ろす。
大丈夫かと問いかけたボクに、思いのほか腹の調子が良くないことを彼は伝えた。顔色も悪い。
松井は、茶を一口啜っただけで茶碗を脇に置いた。苦しげな表情で腹のあたりをさする。立ち上がるのもしんどそうであった。
ボクは、どうするべきかを考えた。
この様子では、松井は歩き続けることはできないだろう。かといって、彼を置いたまま一人で先を急ぐ気にはなれなかった。
とりあえず休息を取らせ、彼の体調が戻るのを待つことにしよう。深刻な病気でないのならば、二、三日静養すれば治るだろう。それで解決しないときは、そのときに考えよう。
二、三日遅れたところで、今のボクを取り巻く状況が大きく変化するわけでもない。
「近くの宿にて、休息を取ることに致そう。拙者も、供を致す」ボクは、松井に言葉をかけた。
松井が、弱々しく返事をする。
「なれど、先を急がねば……」
「かまわぬ。もともとの予定よりも早く旅立っておるのだから」
当初計画していた出発予定日よりも二日早く、近江の国へ向かっていた。
店の人間から一番近い宿の場所を確認したボクは、松井に肩を貸しながら教えられた宿へ向かった。
8.
とある城内の茶室で、二人の男が密談を交わしていた。
二人の前には、たてられたばかりの茶が置かれていた。茶碗は、萩から取り寄せた名器である。
有名な茶人から手ほどきを受けた上座に座る男が、腕によりを振るい、たてた茶であった。
上座の男が、茶碗を手にした。うっすらと湯気が立ち上る。目を細めながら、静かに茶を啜った。
下座の男は、口を真一文字に結びながら、鋭い視線を茶室の天井に送った。
「我ながら、美味い茶であるぞ。そなたも、冷めぬうちに飲んだらどうじゃ」
「では、頂戴つかまつりまする」
一礼した下座の男が、茶碗を手にした。
「味は、いかがじゃ?」
「まことに、良き味にございまする」
「そうであるか」
上座の男が、満足げに頷いた。
「して、事態は、悪しき方向へ向かっておるというわけじゃな?」
「はっ……」
「隠さずともよい。そちの顔に、そのように書いておるわい」
上座の男が、笑い声をたてた。
「おそれながら」下座の男が平伏する。
「いかが致すつもりじゃ?」
「致し方ありませぬ。始末をつけるより、他はありますまい」
「未練はないのじゃな?」
「放っておけば、必ずや、獅子身中の虫となりましょう」
「ことは、いつ起こすのじゃ?」
「もう、手は打ってございます。一両日中には、始末を終えておることでございましょう」
「そうであるか……。なれど、無念であったのう。そちも、相当な期待をしておったのだからのう」
「こたびは、それがしの勝手な振る舞いにて殿にご迷惑をおかけ致したことを、深くお詫び申し上げまする」
下座の男が、再び平伏した。
「気に致すことはない。優れた茶器があってこそ、茶は引き立つのじゃ。人も同じじゃ。優れた家臣がおってこそ、武将としての器が引き立つ。優れたる者を積極的に登用しようとするそちの姿勢を、余は買うておるのじゃ」
「ありがたき幸せにございます」
「今後のことは、そちの良きに計らうがよい」
「ははっ」
三度、下座の男は平伏した。
丸二日間宿で静養したことで、松井の体調は回復した。三日目の朝食を、松井は全て平らげた。このまま何ともなければ午後にでも出発しようということを二人の間で決めていた。
そして、昼を迎えた。松井の体調に変化は見られない。顔色は良く、トイレにこもるようなこともなかった。
そろそろ出発しようかとボクが松井に声をかけようとしたそのとき、宿の人間が部屋にやって来た。
「客人がお見えにございますが、部屋にお通ししてもかまわぬでしょうか?」ボクたちに客が訪ねてきたことを告げた。
「客人?」ボクと松井は、顔を見合わせた。
客が訪ねてくることなど、想像もしていないことだったからだ。そもそも、ボクたちがこの宿に泊まっていることは誰にも告げていない。
(もしかして?)ボクは、一つの可能性を思い浮かべた。ボクのことを監視していた存在のことだ。
大和の国を出た後は、特にボクの身に変わったことは起こっていない。ボクも、あえて監視されていることを気にせずに行動していた。しかし、あれから後も監視体制は続いていたということなのか。
例えそうであったとしても、直接訪ねてくることなどあるのだろうか。
「いかが致す?」ボクは、松井の考えを聞いてみた。
「おうてみますか」松井が返事を返す。
ボクは、客を部屋に通すよう、宿の人間に告げた。
宿の人間が下がり、入れ替わるように二人の男が部屋にやって来た。一人は背が低くがっちりとした体型であり、もう一人は正反対の背が高くひょろっとした体型であった。
「吉原佐平次殿と松井作次殿でございましょうか?」背の低いほうの男が、僕たちの顔を交互に見ながら名前を聞いてきた。
「そなたたちは?」
「失礼いたしやした。我らは、本多忠勝様からの使いの者でして、それがしは多田半六と申す者でございます」
もう一人の男は、菊井作次郎と名乗った。
「殿からの使者であることを証するものは、お持ちでしょうか?」ボクは、使者であることの証明を求めた。刀を袂に手繰り寄せ、万が一の事態に備える。松井の顔にも緊張が走った。
多田が、懐から一通の手紙を取り出した。
ボクと松井に宛てた手紙であり、伝えたいことがあるので指示する場所まで来るようにと書かれていた。場所は、多田と菊井に伝えてあるということだ。
手紙には本多忠勝の署名がされており、見覚えのある印も押されていた。
中身に目を通したボクは、手紙を松井に渡した。信用してもよいのかを考える。
本当に本多忠勝が書いたものなのかどうかの判断はできなかった。彼の筆跡を覚えていないからだ。
しかし、手紙に押されている印は本物のようだ。佐平次の上司の大山左馬之助を通じて本多忠勝が書いた書面を何度か見たことがあるが、それらに押されていた特徴のある印影と目の前の手紙に押された印影が同じであったからだ。
印が本物であるのなら、本多忠勝の意思を示した手紙であることに間違いないだろう。印は、本物であることを見分けるための印として使われるものだからだ。
松井が、読み終えた手紙をボクに寄越した。
「殿のお書きになった書に相違ありませぬ」と口にする。
「かような用向きで、殿はお呼びになられたのでしょうか?」ボクは多田に、本多忠勝からの用件を問うた。伝えたいことの中身が想像つかなかったからだ。
「それがしは文をお届けする役目を仰せつかっただけにありまして、詳しいことはいっさい存じ上げませぬ」
「殿は、何ゆえ、我らがこの宿に泊まっておることを存じておられたのでしょうか?」
「そのことも存じ上げませぬ」
「各々方が、我らのことを監視しておったのではござらぬか?」
「さようなことは致しておりませぬ。我らは、本多忠勝様からの指示により参っただけにござりまする」
ボクは、多田と菊井の顔を交互に眺めた。二人の表情からは、嘘をついているのかどうかを読み取ることはできなかった。
伝えたいこととは、どのようなことなのだろう。指示されていた捜査に影響を及ぼすような世の中での動きが発生したとでもいうのだろうか。あるいは、指示内容に変更が生じたのだろうか。
いずれにしても、わざわざ呼んで伝えるとは、よほど大事なことなのだろう。単なる情報の提供や指示内容の変更であれば、そのことを記した書面を届けるだけで済む話だからだ。
ボクは迷った。
一刻も早く秀吉に会ってみたかった。会えば、なにもかもがはっきりとするはずだからだ。
そして、ボク自身もすっきりとしたい。頭の中に染みついた疑惑を解決することが、再び現世へ戻れることにもつながるのではないかという感も働いていた。
それとは別に、本多忠勝からの指示に従うことで、いまだに解決できずにいる疑問が解き明かされるのではないかという思いもあった。なぜ家康が尾張の国の出身である佐平次に秀吉のあらさがしを行うことを命じたのかということへの答えである。
いずれにしても、今現在の佐平次は、徳川家の家臣として家康の命を受けて行動している身なのだ。そういう意味でも、本多忠勝からの指示を無視するわけにはいかない。
ボクは、本多忠勝が、どこで待っているのかを確認した。
返ってきた答えは、三河の国にあるとある寺の名前だった。この宿からだと、半日もあれば着ける距離だという。
身支度を済ませたボクと松井は、二人の後をついて、本多忠勝が待つ寺へと向かった。
寺へは、その日に到着した。その夜は、ボクと松井は寺の宿坊に泊まり、明日の日中に本多忠勝と面会することになった。
布団に入った後も、ボクは、本多忠勝から呼ばれた理由を考え続けた。
世の中の動きに関する情報や指示内容の変更などを伝えることが目的であったのならば、書面のやり取りでも済ませられるはずだ。よって、伝えたいことがそのような話ではないというのは間違いないことだろう。
もしかしたら、別の命令が下されるのかもしれない。そうなったら、秀吉のもとへ行けなくなる可能性が出てくる。
一瞬、この場を逃げ出そうかという考えが浮かんだ。ここを抜け出して、秀吉のもとへ向かうのだ。
しかし、すぐにそのような行動が得策ではないことを悟った。そんなことをすれば、追手がかかる。捕まった時に、逃げ出した理由を説明することも難しい。
状況が変わったのだとしても、タイミングを見て秀吉のもとへ向かえばよいではないか。
ボクは、はやる気持ちを懸命に諌めた。
9.
翌日、朝食を済ませ、部屋の中で待機していたボクと松井を、本多忠勝の使いの人間が呼びに来た。寺の離れで忠勝が待っているということだった。
離れに移動したボクと松井は、刀を小姓に預け、忠勝の待つ部屋へと案内された。剣道の道場としても使われている広い部屋であり、中には忠勝以外に三人の家臣がいた。
「大義であった」忠勝が声をかけてきた。ボクと松井は平伏した。
「そこもとたちが調べに発ってから二カ月と少々の時間が経ったわけじゃが、いかようなことがつかめたのか申してみよ」忠勝が、今までにわかったことを報告するよう求めてきた。
それに対して、ボクが、二人を代表して今までにわかったことを報告した。興条寺の住職が筒井順慶と会っていたことや石川数正との間に密接な関係があったことも、包み隠さずに報告した。
「そのことについて、そこもとは、いかように考えておるのじゃ?」栄斉と石川数正との関係を説明したボクに、忠勝が鋭い視線を向けてきた。
「おそれながら、栄斉殿を介して、我が徳川家と筒井家との間で外交があったのではないかと思うておりまする」
「いかような外交がなされておったと思うておるのじゃ?」
「そこまでは、考えが及びませぬ」
「遠慮など要らぬ。思うたことを口にしてみるがよい」
(どういう意味だ?)ボクは、忠勝の表情を伺った。
なぜ、そのような言い方をするのだろう。聞き方によっては、ボクが外交の中身に関して確信的な見解を持っていることを知っているのだと言っているようにも聞こえてしまう。
ボクは、返事に迷った。
ボクは、信長の排除を画策していた家康が筒井順慶を抱き込むための外交を行っていたのではないかという疑惑を抱いていた。
むろん、この場でそのようなことをストレートに口にすることはできないが、何も考えが及ばないととぼけ切れる状況ではなかった。
ボクは、当たり障りのない内容で、考えを口にした。
「筒井殿との関係を深めるための外交ではなかろうかと」
「関係を深めるとは、いかようなことじゃ?」
「情報の交換を密にし、交易を盛んにする。すなわち、同盟を前提とした交渉事が行われていたのではないかと思うておりまする」
「同盟を前提とな」忠勝が、薄ら笑いを浮かべた。
「吉原の。拙者は、国力を高めるためには、能ある者を積極的に登用し配することが肝要だと思うておる。このことは、大殿も同じ考えじゃ」
「……」
「そこもとには、物事の全体を大局的に見る力、決断する力が備わっておる。加えて、謙虚でもある。信濃における武田との戦でのことは、大殿も、たいそう褒めておられた」
忠勝が、佐平次が武田との戦で味方の危機を救ったこと、そしてそれに対する恩賞を固辞したことを口にした。初めて耳にする話しだったが、佐平次の誇らしい一面を聞かされたボクは、気分を良くした。
「拙者は、そこもとのことを、大いに期待しておったのじゃ」忠勝が、言葉を続けた。
ボクは、その言い方に引っ掛かるものを感じた。過去系の言い方だったからだ。ということは、今は期待されていないのだろうか。
「至極、残念なことであるのう」忠勝が呟く。
「残念なこととは、いかなることでございましょうか?」
不審に思ったボクは、問い返した。
「そこもとを手放すことよ」
(手放すとは、どういう意味なのだろう?)忠勝の配下ではなくなるということなのか。すなわち、人事異動のようなことが行われるのだろうか。
「大殿がそこもとに対して羽柴殿に関する調べを命じたまことの理由は、いかようなことであったと思うておるのじゃ?」忠勝が、ボクに対する質問を続けた。
「信長様が京にて抹殺されたことに羽柴殿が関与していることを証する情報を手に致すことではないのでしょうか?」
「まことの理由は、そのことではない」
「……」
「そこもとの調べを致すことが、まことの理由なのじゃ」
「それがしの調べとは、いかなることでございましょうか?」
「そこもとには、羽柴殿の手の者ではないのかとの疑いが掛けられておった。そこもとの身の上を調べた結果、疑われても不思議ではないような状況が浮かんでまいった。なれど、そこもとは有能な家臣であった。疑いがあるということだけで手放すには惜しい逸材じゃ。そんな折、そこもとが、戦いの最中に記憶を失った。薬師の見立てでも、半年や一年経っても記憶が戻らぬ場合は、一生戻らぬ可能性が高いということであった」
(そういうことだったのか)タイムスリップをする瞬間に、ボクの頭の中に敵兵の槍で頭を強打され戦場に倒れ込む佐平次の姿が映し出されたが、そのときに佐平次は記憶を失ったのだ。
「薬師は、本人にゆかりのあることに関して強い刺激を与えた場合に記憶が戻ることもあるのだということを申しておった。そこで、一計を案じたのじゃ。そこもとに羽柴殿に関する調べを命じてみるということじゃ。そこもとが羽柴殿の手の者であった場合は、調べを行うことで記憶を取り戻す可能性が高い。長時間調べを行っても変化が起こらぬようであれば、そこもとは潔白であったのか、もしくは羽柴殿の手の者であったとしても元々の記憶が戻らぬゆえ、以後も家臣として使い続けることができる。加えて、こたびのような調べを申しつけることで、そこもとの能力を計ることもできるからのう」
本多正信が家康に対して秀吉の身辺捜査を行うよう進言したことを知った本多忠勝が、家康を説得し、ボクに捜査が命じられたということだったのだ。
ボクは、捜査方法を一任され期限も切られなかったことの意味を知った。捜査の対象は、秀吉ではなく佐平次自身だったからだ。
「そこもとの行動は忍びの者を通じて常に監視をしておったが、そこもとが有能な者であることが、あらためて証明された」忠勝が、ボクの行動を称賛した。大局観に富み決断力や危機対応力があると感じた行動内容を具体的に口にする。
「して、そこもとは、記憶を取り戻したようじゃな?」忠勝が、鋭い視線を向けてきた。
「なにゆえ、そのようなお言葉を」
ボクは、忠勝の顔に視線を当てながら問い返した。今さら秀吉が放ったスパイであることを否定するつもりはなかったが、なぜボクの記憶が戻ったと言い切るのかが不思議だった。
その答えを、忠勝が口にした。
「そこもとは、最近になって、三河の国の出身であるということに疑問を抱いたようじゃ。近江の国を東西に分割した上で調べを行う考えを持ったようじゃが、まことの目的は、羽柴殿が住まわれる山崎城に向かうことにあったのであろう?」
本多忠勝の指摘したことは事実だったが、なぜそのことを知っているのかが不思議だった。監視をされていたことはわかっていたが、そのことを他人に対して口にした覚えはなかったからだ。
ボクは、無言で次の言葉を待った。
「拙者がさようなことを知っておることを不思議に思うておるようじゃな。そこもとには、二重の監視体制を敷いておったのじゃよ」
「二重の監視体制と申されますと?」
「わからぬか?」
忠勝が、視線を横に向けた。視線の先には、松井の姿があった。
ボクも、松井に視線を向けた。松井は、うつむいていた。
(まさか、松井が……)あり得ないことだと思いたかったが、ボクが佐平次の出身地を確認した相手も近江の国を東西に分ける捜査方法を口にした相手も松井ただ一人であることも事実であった。彼が内通しない限り、本多忠勝がこのことを知り得ることはできないはずだ。
「五日前、松井が、そのことを知らせてまいった。して、拙者が、そこもとをその場に留めるように命じたのじゃ」
宮宿を発って間がないころに、休憩を取るために立ち寄った茶屋で、松井が長時間トイレから戻ってこなかった。そのときに、ボクのことを監視していた徳川方の人間に伝えたのだろう。その後も腹痛が治らないと主張する松井を静養させるために近くの宿に泊まったのだが、あれも松井の芝居だったのだ。
ボクの胸に、寂しさが込み上げてきた。佐平次と松井が固い絆で結ばれていたことを信じて疑わなかった。その松井が裏切り者だったとは。そもそも、彼は、いつから裏切り行為を始めていたのだろうか。
ボクは、横を向き、松井に問いかけた。
「そなたは、いつのころより、拙者を監視する役目を仰せつかっていたのじゃ?」
「そこもとの監視をするために、拙者が召し抱えたのじゃ」
松井の代わりに本多忠勝が答えた。
三年前に徳川家に仕官したときから佐平次を監視する役目を担っていたということだった。そのために、意図的に佐平次に近づいたということだ。ボクに佐平次の出身が三河の国だと話したのも、忠勝の指示によるものだった。
松井は、今回の捜査の真の目的についても、始めから知らされていた。彼自身、ボクのことを監視しながら、ボクの様子や言動を徳川方に伝える役目を果たしていた。
忠勝は、勝又御子(かつまたみこ)神社の件は松井の勇み足だったということも口にした。
上方からの極秘情報で光秀が謀反を起こす可能性のあることを知った徳川家康と本多忠勝との間で、漁夫の利を得るための策略が練られていた。上方から得た情報を信長には知らせずに光秀に信長を討たせ、その後速やかに光秀を失脚させ、家康の天下取りを実現しようという内容だった。
そのために、石川数正を通じて交流のあった栄斉を使って、筒井順慶を抱き込むための秘密外交が行われたのだ。
結果的に光秀を失脚させる役目は秀吉にさらわれてしまったのだが、光秀の増長を防ぐ役目は果たした。
この秘密外交のことは、本多忠勝以外の重臣たちには知らされていなかった。
そのため、筒井家に関する捜査がタブーであったことを知らずにいた松井が、ボクに秀吉に対する疑惑を膨らませるために、森高義秀と片桐且元との間で密会が行われたという偽情報を流したということだった。
松井から、ボクが大和の国の捜査を行うことを聞かされた忠勝が、大和の国に潜入させないための妨害をしかけたということであり、沼田を殺害したのも、忠勝が差し向けた監視の者たちの仕業だった。
「我ら以外にも、そこもとのことを監視している者どもがおった。なかなか尻尾をつかむことができずにいたのじゃが、ようやく素性が明らかになった。思うてた通り、羽柴殿の手の者であった。そのことは、そこもとが羽柴殿の手の者であることを証することでもある」
羽柴方の者にことごとく邪魔をされ、妨害が果たせなかったのだということを忠勝が説明した。
ボクは、全てを理解した。
そして、昨晩のうちに逃げ出さなかったことを心の底から後悔した。
今になって思えば、宿にやって来た使者が二人だったこともおかしいと思わなければならなかった。伝言だけなら一人でもよいはずだからだ。二人いたのは、ボクが逃亡するのを防ぐ意味もあったのだ。
背後に人の気配を感じた。そっと、周囲を見渡す。ボクは、屈強な男たちに囲まれていた。
「吉原の。まことに残念ではあるが、そこもとを生かしておくわけにはまいらぬ」
男たちが、ボクの両腕と両足をつかんだ。
ボクは、外に引きずり出された。両手を後ろ手に縛られ、両足首も縛られたまま、地面に正座させられる。
「聞きたきことがあれば口に致せ」
忠勝から声をかけられたボクは、佐平次の出目や家族のことをどこまで知っているのかと問いかけた。
それに対して、忠勝が、独自に調べたという佐平次の身の上を語った。それによると、佐平次は尾張の国の知多郡の生まれであり、徳川家に仕える前は作之進と名乗っていたということだった。妻子はいないということだ。
ボクは、宮宿で、商人から声をかけられたときのことを思い浮かべた。
「最後に言い残したきことがあれば、拙者が責任を持って伝え致すが」
忠勝から声をかけられたボクの脳裏に、お玉の顔が過ぎった。彼女に、自分のことは忘れて幸せになるようにという言葉を残そうかと思った。今この瞬間佐平次の意識が甦ることを期待したのだが、現れることはなかった。
そんな中、一つの疑問が湧いてきた。ほんとうに佐平次は斬られたのだろうかという疑問だった。
おばあちゃんの家に残された家系図や古文書によれば、佐平次の子孫は存在する。
ボクは、そのことを信じていた。お玉がボクの先祖であったことにも確信を抱いている。
それならば、別れの言葉など口にすることはない。佐平次とお玉は結ばれるのだから。
「ございませぬ」ボクは、返事をした。
「ならば、そこもとも覚悟を決められよ」
忠勝が、目で合図をした。背後で刀を構える気配が伝わる。
ボクは、目をつぶった。タイムスリップする直前の光景が頭に思い浮かんだ。自販機のつり銭口から零れ落ちた百円玉が、コロコロと道端に転がっていく。それを拾おうとしたボクは、めまいに襲われた。
空気を震わす音が耳元を伝わった。
それとともに、ボクの意識は遠のいていった。
エピローグ
首都総合大学理工学部応用物理学科フロアーの一角にある教授専用研究室のドアの前に立った日下部は、インターホンのボタンを押した。研究室のドアには、羽生という部屋の主の名前が書かれたプレートがはめ込まれていた。
「はい」インターホンを通じた応答の声に、日下部は、来客があることを告げた。客の名前は武藤と真鍋である。
二人の会話から、首都総合大学のOBで羽生教授と同期生であることが伺えた。
(ということは、お二方とも六十歳前後なのかな)日下部は、二人の顔を盗み見ながら二人の年齢を推測した。羽生教授と同期生ならば、三十八年前の卒業生ということだ。来春卒業予定の日下部にとって、尊敬すべき大先輩であった。
研究室のドアが開き、羽生が顔を出した。「ごくろうさん」と日下部に声をかけ、二人の客を中に入れる。
カチャっという施錠音とともに、研究室のドアが閉ざされた。
「さっそく見るか?」研究室内の来客用ソファーに腰を落とした武藤と真鍋に向かって、羽生が声をかけた。
「全部見終えるまで、どれくらいの時間がかかるんだ?」武藤が、羽生に確認する。
「どうなの?」羽生が、真鍋に顔を向ける。
「データ量から考えると、八時間程度じゃないかな」
「八時間も! じゃあ、ほとんど徹夜じゃないか!」
武藤が、驚きの表情を浮かべた。
「そう言うなよ。百日分の出来事が、たったの八時間で見られるんだぞ。すごいことだとは思わないか?」
「それに、オレたちが開発したシステムの検証データの第一号でもあるわけだしね」
三人は、共同で画期的なシステムを開発していた。
二〇四十年、アメリカのハーバード大学と宇宙機器メーカーとの共同研究により、銀河系内をランダムに回流するマイクロ電磁波の存在が明らかになった。銀河系全体を蔽う形で存在しており、頭文字を取ってECU波と命名されていた。
その後の研究で、ECU波の構造が銀河系内の惑星における質量や速度、気圧などに影響を与えているという学説が発表された。この説は、世界各国の研究者たちからの支持を得て、宇宙工学の研究に応用されていた。
そんな中、羽生は、ECU波の存在を応用した時空移動理論という独自の研究成果を生み出した。
羽生の理論とは、宇宙は無限な多次元状態にあり、異次元の同一空間が無限に存在するというものであった。過去、現在、未来は、同一空間における次元の相違であり、次元の相違は、ECU波構造の相違によって生じるという結論を導き出していた。
特定の超低周波電磁波を発生させることで、一定範囲内でのECU波構造を変えることができ、そうすることでタイムスリップが可能になるという理論も構築していた。特定の超低周波電磁波を発生させる独自の技術も開発していた。
しかし、これらの理論は、研究者たちの間からは受け入れられなかった。再現可能な検証データのないことが致命傷になっていた。
そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、無二の親友でもある武藤と真鍋だった。
三人は、首都総合大学在籍中に、歴史研究会というサークルで親しくなった。三人とも学部は違ったが、馬が合うのを感じていた。卒業後も、もう一人のメンバーを加えた四人で、定期的に会っていた。
武藤は、大学病院に所属する解剖医だった。彼の技術は、日本の解剖医の中で五本の指に入るとまで言われていた。
一方の真鍋は、ベテランのシステムエンジニアだった。数々の基幹システムの開発に携わっており、変幻自在に開発言語を操る彼のことを、業界の人間は天才と称していた。
その三人の能力を結集して生まれたのが、次元共有空間移動システムだった。このシステムは羽生が唱えた理論の再現性検証も可能にするものであり、次のような内容であった。
タイムスリップしたい時代に関する史実データを分析することにより、その時代が基調としていたECU波構造を割り出す。その後、現世におけるデータをタイムスリップしたい時代のECU波構造に換算したプログラムを特定の空間位置に拡散する。そうすることで、プログラムを拡散した空間に、タイムスリップをしたのと同様の状態を生み出すことができるというものだ。
同様の状態を生み出すことができるというのが、このシステムの特徴である。実際にタイムスリップをしなくても、タイムスリップをしたのと同様の結果を得ることができるのだ。ある人物の性格や思考特性、行動特性などをデータ化し、タイムスリップをした先の人物に移し替えることで、現世の人間が、タイムスリップをした先の人物の頭脳や肉体を操ることができる。
このシステムを利用することで、精度の高い歴史に関するシミュレーション結果が得られると三人は考えていた。
システムの設計、開発は真鍋が行い、タイムスリップする人物の性格や思考特性、行動特性などの抽出は武藤が担当した。
そして彼らは、最初のシミュレーション結果を手にしていた。
タイムスリップした主人公が首をはねられた場面で、シミュレーション画面が終了した。真鍋の推測通り、八時間程度の時間を要した。途中画面を停止し休憩もしたため、開始から十時間以上経過していた。日付はとっくに変わり、窓の外からは鳥のさえずり声が聞こえた。
三人に、疲れはなかった。それぞれが、結果に対して満足していたからだ。
「あらためて、吉原のすごさを見せつけられたよ」
「理詰め思考も、彼そのものだったな」
「あいつが何度も口にしていた吉原佐平次という先祖は、あんな感じの人だったんだね」
三人は、それぞれに感じた思いを語りあった。
吉原とは、大学時代の歴史研究会のメンバーであり、卒業後も仲良くしていた四人のうちの一人の吉原正嗣のことである。
彼は、ひと月前に事故に遭い死亡した。そのときの行政解剖を担当したのが武藤だった。
武藤は、吉原の脳組織の一部を保存し、彼の性格や思考特性、行動特性などをデータ化した。その技術は、三年前に実用化され、再生医療にも使われている。
シミュレーションの結果を検証した三人の頭の中で、あるシーンが同時に浮かんでいた。三十年前の夏、デパートの屋上のビアガーデンで、四人で本能寺の変の真相ということをテーマに意見を戦わせていたときのことである。
三人の持論は徳川家康の陰謀があったというものだったが、吉原一人が羽柴秀吉陰謀説を曲げずにいた。
「結局は、オレたちの説のほうが正しかったということだよね」二人の同意を求めるように真鍋が呟いた。
「直接的な論拠となるものは得られていないけど、オレも、そう断言してもいいと思っているよ。もともと秀吉陰謀説を唱えていた人間が導き出した結果だからね。導く過程も論理的だしね」武藤が頷く。
主人公となる人物の性格や思考特性、行動特性などを設定した者としての思いもあり、結果が論理的であるということを強調した。
「しかし、あいつの先祖の吉原佐平次は、史実でも本当に斬られちゃうのかな? そうだとしたら、あいつそのものが存在していたことがおかしいっていうことになっちゃうのだけどね」羽生が、システムを設計した真鍋に視線を向けた。武藤も、真鍋に視線を向ける。
「現にあいつはこの世に存在したのだから、吉原佐平次は斬られていないでしょ」真鍋が、サラッと言葉を返した。
「でも、シミュレーションでは」
「あくまでもシミュレーションなんだからさあ。設定いかんで結果も変わるわけだし」
「そこは信じてもらいたいな。実際に、医療現場での実績も積んでいるのだから」
武藤が、真鍋の言葉を途中で遮った。一流解剖医としてのプライドを傷つけられたとでも言いたげな表情を浮かべた。
「ごめん。そういう意味で言ったんじゃないよ。たぶん、設定上の吉原佐平次と実際の吉原佐平次との間に誤差があったんだろうな。それが結果に影響を及ぼしたのだと思うよ」真鍋が、タイムスリップをした先の人物の設定誤差がシミュレーション結果に影響を及ぼしていたのではないかという見解を語った。
シミュレーションを行うにあたっては、肉体と頭脳を乗っ取る側と乗っ取られる側双方の設定が必要だった。乗っ取る側については現代の医療技術でカバーできるが、乗っ取られる側については計り知れないことも多く、設定上の誤差が生じるのは仕方のないことだという認識が三人の中にはあった。
次元共有空間移動システムを世の中に発表するためには、シミュレーションを繰り返しながら、乗っ取られる側の設定誤差が結果の信頼性には影響されないことを明らかにする必要がある。
「あと、何回シミュレーションをやればいいんだろうな」羽生が呟く。
「とりあえず、次のテーマを決めないか? 何かリクエストある?」武藤が、二人の顔を見回した。
「次も、吉原を行かすのか?」
「データが揃っているしね。吉原でいいんじゃない?」
武藤が、再び吉原を主人公にすることを主張する。
「じゃあ、時代は戦国だな。オレたちの共通テーマでもあるからね」
「戦国の謎を解き明かす旅の第二段ってやつか。なにがいいのかな?」
「桶狭間の戦いなんかはどうだ? あれって、織田方の書物にしか書かれていないことだからね。それに、いくら奇襲が成功したからって、簡単に二万の軍勢が二千の軍勢に敗れるものかなっていうのもあるしね」
「やるとして、吉原に乗っ取られる人物をどうするかだな」
「蜂須賀小六なんかはどうだ?」
「ああ。信長の命を受けて、農民に扮して、今川軍を油断させる役を担ったってやつだよな」
「蜂須賀小六に関してはいろいろな記録が残っているから、三人で協力して設定データを作りますか……」
三人は、時間が経つのを忘れて、次のシミュレーションに関する議論に没頭した。
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