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第2章 捜査
戦国シミュレーション
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1.
半開きにした小窓から涼風が家の中へ吹き込むのを肌で感じたボクは、目を覚ました。外は白々としていた。夜が明ける頃なのだろう。
旧暦の七月も、今日で終わりだった。現代の暦でいえば、お盆を過ぎたあたりだ。
ということは、今は寅の刻から卯の刻へと変わるころであろうか。お盆を過ぎた頃の日の出の時刻が午前五時ごろであるということを頭に思い浮かべたボクは、そのように今の時刻を推測した。
タイムスリップをしてから一カ月半が経ち、ようやくこの時代の生活にも慣れてきた。
始めのころは鍵のない家で寝るのが怖くて熟睡できなかったが、今は平気になっていた。暑さをしのぐために、小窓を開けて寝ていた。
時計のない生活にも付いて行けるようになっていた。もともと十二支で表す時刻のことは知っており、季節ごとの日の出や日の入りの大よその時刻も頭に入っていたため、この時代を生きる人間との時刻に関する言葉のやり取りにも対応することができた。
現世を生きるボクにとって物のないこの時代の生活は著しく不便であったが、人と人とのつながりは、この時代のほうが強固であると感じていた。決して干渉しあうことはないのだが、お互いのことを思いやる気持ちが強い。
ボクは、この時代の人間たちと触れあいながら、長らく忘れていた大切なモノを思い出したような気がしていた。
目を覚ましたボクは、体を起こした。もう少ししたら、お玉が朝食を作りに来てくれる。
彼女は、毎朝夜が明けてから一時間ほど過ぎた頃に朝食を作りに来てくれていた。現世では外が明るい暗いに関係なく毎朝同じ時刻に起床する生活を送っているが、この時代では夜明けとともに起きるのが習慣だった。
体を起こしたボクは、壁にもたれながら腕を組んだ。顔を上に向け、大きく息を吐く。
この家とも、しばらくの間はお別れになる。明日から、家康に命じられた秀吉に関する捜査を行うために、他国へ旅をしなければならなくなるからだ。
ボクは、本多忠勝から、松井と二人で本能寺の変に関して秀吉の関与が疑われる証拠を見つけるための捜査を行うようにという指示を受けた。秀吉の出身地である尾張の国と居城の長浜城がある近江の国を重点的に調べた上で、必要に応じて秀吉や光秀にゆかりのある地に捜査範囲を広げていくようにと言われた。
家康からの命を受けた後、ボクは、松井と二人で作戦を練った。
そして、旅立ちの前日を迎えた。
明日からの行動を整理していたボクの頭の中に、お玉の顔が浮かんできた。
彼女には、明日からしばらくの間旅に出ると伝えてあった。旅の目的は伝えていなかったが、彼女の表情からは、ボクに重要な任務が与えられたことを悟っていることが読み取れた。
お玉の表情を思い浮かべたボクは、切ない気持ちに包まれた。いつ現世に戻れるのかがわからずに不安に苛まれていたボクの心を癒してくれていたのは、他ならぬ彼女の存在だったからだ。毎朝、毎晩彼女が用意してくれる食事を食べ、食後にお茶を飲みながら彼女と話をすることが、今のボクにとって一番気持ちの安らぐ時間であった。
お玉の用意してくれた朝食を食べ終えたボクは、彼女と向き合い、お茶をすすった。いつ口にしても美味しいと感じられる味だ。目の前のお玉に「いつ飲んでも美味いお茶であるな」と言葉をかけた。
そんなボクに向かって、お玉が「いよいよ、明日でございますね」と寂しそうに呟いた。
「なに。長旅ではござらぬよ」ボクは、胸の中の思いを口にした。家康からは、努めて早く証拠を見つけるようにと厳命されており、その言葉を肝に銘じていたからだ。
「いずこまで旅をなされるのですか?」
「近隣の国を巡ってくる」
ボクは、言葉を濁した。正確な旅先を告げるわけにはいかなかったからだ。
「危険な旅なのでございますか?」お玉が、心配そうな表情を浮かべる。
「案ずることはない。殿からのお申しつけで、近隣諸国の視察をしてくるだけのことじゃ」ボクは、お玉を安心させるような言葉を口にした。
「さようでございますか……」
「しかし、しばしの間、そなたがこしらえてくれる料理を口にできなくなるのは辛いことじゃ」
「それだけにございますか?」
「むろん、そなたと過ごす時間が無くなることが、一番辛いことじゃ」
お玉の女心を悟ったボクは、本音を口にした。
「私も、佐平次さまと過ごす時間が無くなることは、辛ろうございます」
「いっときのことじゃ」
ボクは、そっとお玉の肩に手を置いた。
「長くなるのでしたら、文をください」お玉が、哀願するような表情を浮かべた。
「しかと心得た」ボクは頷いた。お玉の佐平次のことを想う気持ちが胸の奥まで伝わってきた。
2.
京の三条大橋へと続く東海道の道中に、肩を並べて歩く旅浪人姿のボクと松井の姿があった。この道は尾張の国や近江の国へと続いている。
路面に、八月の太陽がさんさんと照りつけていた。
道を歩きながら、ボクは、そっと懐に手を入れた。着物の生地と銭入れとの間に挟まれた小袋に指が触れる。それは、お玉から貰ったお守りだった。
朝、旅立つボクに、お玉が「お気をつけて」という言葉とともに、白い布袋を結った安全祈願のお守りを渡してくれた。
袋の中には、何かが入っていた。お玉は中身がなんであるのかを言わなかったが、彼女と別れた後に松井から冷やかされた言葉で、中身がなんであるかの想像がついた。
お玉は、心の底からボクのことを心配してくれていた。
彼女に対しては単なる近隣諸国の視察であるというように説明したが、ボクの内心は緊張で一杯だった。今や最大の権力者であると言っても過言ではない秀吉の勢力の及ぶ国へ乗り込むからだ。国中に秀吉の目が光っていることを覚悟しなければならない。そのような場所で秀吉にとって不利になるような情報を集めなければならないのだ。それはすなわち、死を覚悟した捜査であった。
(佐平次が戦場に赴くときに、お玉は、毎回お守りを渡したのだろうか?)ボクは、そのようなことを考えながら、東海道を西へと向かった。
国境を越え、三河の国に入った。
家を発ってから四時間以上は経過しているはずだ。このペースでいけば、夕方には吉田宿に到着する。
ボクは全身に疲れを感じていた。現世では、このようにひたすら歩くことなどない。夏場は特にだ。
何よりつらいのは、松井の歩く速度が速いことだった。松井だけではない。道行く人々はみな速い速度で歩いている。ボクは、ついて行くのに必死だった。
「少し休まぬか」視線の先に茶屋があるのを見つけたボクは、松井に声をかけた。
二人で茶屋に入ったボクは、木の長椅子に座り、温いお茶をすすった。
茶屋の中は、藁葺き(わらぶき)屋根で直射日光が遮られ、風も通り、快適だった。額の汗が、急速に引いていく。
「今宵は、吉田宿あたりで夜を明かすことになりそうじゃな」ボクは口を開いた。急げばもう少し先まで行けるのだろうが、先々のことを考えたボクは、無理をせずに吉田宿で一泊するつもりでいた。
「兄者、そのことなのですが、それがしの故郷(ふるさと)に寄っていきませぬか?」
「お主の故郷?」
「道を少々外れはしますが、さほど遠くはありませぬ。兄者も、己の故郷を見たくはありませぬか?」
「拙者の故郷?」
「隣の郷ではありませぬか。それがしの故郷が八名郡多木郷、兄者の故郷が八名郡美和郷、いずれもここからですと一歩きした先にありまする」
「さようであったな」
ボクは、話を合わせた。
佐平次の出身に関しては、なぜだか今まで一度も耳にしたことがなかった。今の松井の言葉で、初めて二人ともが三河の国の出身だったのだということを知った。
しかし、八名郡の多木郷や美和郷などと言われても、どのあたりの地名のことなのかがわからない。ましてや、徳川家に仕官する前の佐平次がどのような暮らしぶりをしていたのかもわからなかった。
(困ったことになったぞ)ボクは、内心焦った。
しかし、次の松井の一言でボクは救われた。
「されば、兄者は、幼少時に御両親様を亡くされたのでございましたね。その後、五年前に徳川家に仕官するまでの間、お一人で苦労なされながら過ごしておられたのでしたね」
「いかにも」
「兄者のお気持ちを考えずに軽々しく己の故郷を見たくはありませぬかなどと口に致して申し訳ございませぬ。それがしは、今も故郷に父上と母上、弟と妹が暮らしておりまする。たいしたもてなしはできぬのでしょうが、今宵は、それがしの生まれ育った家で過ごしませぬか?」
松井の実家で一泊しようという誘いだった。
ボクは、誘いに乗ることにした。彼の両親は農業を営んでいるということであり、この時代の農民の暮らしというものを見てみたいという気持ちもあったからだ。
加えて、佐平次のことを知りたいという気持ちも湧いていた。隣町であり、直接的な交流はなかったのかもしれないが、もしかしたら松井の両親が仕官前の佐平次のことを知っている可能性がある。
ボクは、懐かしそうに故郷のことを語る松井の話に、黙って耳を傾けた。
松井の実家は、藁葺き屋根に土壁の立派な家だった。入り口には馬小屋もある。米を収穫した後に麦と大豆を育てる二毛作を行っているということであった。
「せがれが大変お世話になっておりますようで、礼を申し上げまする」松井と一緒に現れたボクに向かって、父親が頭を下げた。その姿を見た母親と弟、妹も頭を下げてくる。
松井は、家族に対して、ボクのことを常日頃から目をかけてくれている先輩武士だというような言い方で説明をした。日頃の松井の態度から見ても、実際に佐平次は松井のことを可愛がっていたのだろうなとボクも感じていた。
ボクは、松井の家族からもてなしを受けた。用意された蒸し風呂で汗を流す。
蒸し風呂の後は、豪華な夕食が待っていた。野菜中心の料理だったが、品数が多い。酒も用意されていた。
食事の席で、松井が、足軽としての暮らしぶりを家族に語った。両親や弟、妹が松井の話に聞き入る。両親は満足げな表情を浮かべていた。武士という身分になったせがれのことが誇らしいのだろう。
やがて、話題が松井の少年時代のころの話に移り変わった。
「吉原様にとっても、美和のことは良き思い出なのでしょうなあ」父親が、ボクに問いかけてきた。
ボクは、父親から佐平次のことを聞きだすことにした。古くからこの地に住んでおり美和の郷へも行き来したことがあるという父親なら、昔の佐平次のことを知っている可能性がある。
タイムスリップをしてから一カ月半以上が経っていたが、いまだに佐平次に関しては曖昧な部分が多かった。
「それがしは、早くに親を失い、その後は苦労の連続でしたゆえ、正直申しまして美和には良き思い出が少ないのでございます」
「そうでございましたなあ。吉原様の生い立ちは、せがれから聞かされておりました」父親が、辛い過去を思い出させたことを詫びるような表情を浮かべた。
「御父上様は、美和時代のそれがしのことをご存知なのでしょうか?」
「申し訳ございませぬが、吉原様のことは存じ上げてはおりませんでした。しかし、なにゆえ存じ上げないのであろうか? 美和は、さして広い村でもありませぬのに……」父親が首を傾げた。
「あなた様は物覚えの悪いお方ですから、覚えておられぬだけなのではありませぬか?」
「そなたの申す通りかもしれぬ。それがしが覚えておらぬだけなのでありましょう。ご無礼をお許し下され」
母親から指摘された父親が、ボクに向かって頭を下げた。
「お顔をお上げください。きっと子一人でひっそりと暮らしていたそれがしのことなど、村人たちの話題にも上らなかったのでございましょう」ボクは、そのようにとりなした。
笑顔で口にしたのだが、ボクは自分の発言に不自然さを感じていた。子一人で暮らしていたのであれば、かえって人々の話題に上ったはずだった。人々が情に厚いこの時代であれば、親を失った子がいるのであれば、村人たちが率先して面倒を見たであろう。そのような話は、隣町にも聞こえていたはずだ。
ボクの中で、松井から聞かされた佐平次の生い立ちに対する疑問が芽生えていた。
3.
翌朝、松井の家族に別れを告げたボクは、松井とともに東海道を一路西へ向かった。
今日の目的地は、藤川宿だった。そして明日は、いよいよ尾張の国へ入ることになる。その後しばらくの間は、尾張の国最大の宿場町である宮宿に腰を据えて活動を行うつもりでいた。
ボクは、歩く速度を速めた。藤川宿までは十里ほどの距離があり、のんびり歩いていると日が暮れてしまう。
途中、松井の母親が持たせてくれた握り飯を食べるために休憩した以外は休むことなく歩き続けた。おかげで、藤川宿へは日が暮れる前に到着した。
藤川宿へ到着したボクたちは、宿を確保した。現在でいうところの旅館だ。一泊分の宿賃と今晩の夕食、明日朝の朝食の代金を支払った後に、部屋に案内される。
部屋は、畳敷きの八畳ほどの広さだった。入り口に鍵はない。
一息ついたボクたちは、宿の食事処へ向かった。出された夕食を食べ、部屋に戻る。
ボクは、気持ちが落ち着かなかった。本格的な活動を始めるのは明後日からになるが、ボクは、あることを心配していた。三河の国と尾張の国との国境に関所が設けられていないかということだった。
清州会議のときに話しあわれた信長領の分配結果により、尾張の国は信長の次男の織田信雄(のぶかつ)が相続したが、すでに尾張国内に秀吉の力が及んでいる可能性が高かったからだ。現に、後の賤ヶ岳の戦いで、秀吉は信雄を擁立し、三男の信孝を擁立した柴田勝家と戦っているのだ。
ボクは、松井に目をやった。彼の表情からも、落ち着かない様子がうかがえる。
「兄者。宿の者に酒を用意致すよう、申し付けてまいります」松井が腰を上げた。
しばらくして、宿の人間が、酒と摘まみの味噌を運んできた。ボクと松井は、それぞれ手酌で酒を注いだ。
「いよいよ、明日は尾張でございまするな」お猪口の酒を一息で飲み干した松井が、顔の表情を引き締めた。
「そうじゃな」
「尾張の国の様子は、いかがなものでありましょうか?」
「信長様がお亡くなりになって、領民たちも動揺していることであろう。さすれば、羽柴殿の力が及んでいることも考えねばなるまい」
ボクは、国境に関所が設けられている可能性があることを口にした。尾張の国は秀吉の出身地であることから、そのような懸念があったのだ。
「関所が設けられていた場合は、いかが申し立てるおつもりでありましょうか?」
「我らは北条家を出奔した浪人なのだということにして、見識を拡げるために諸国を練り歩いておるのだと申し立てるつもりじゃ」
「怪しまれぬでしょうか?」
「我らが徳川方の間者であるという証拠はどこにもない。案ずることはない。堂々としておればよいのじゃ」
ボクの言葉に、松井が頷いた。再び酒を口にする。
しかし、彼の表情が和らぐことはなかった。不安をぬぐえずにいるのだろう。
しばらくして、松井が口を開いた。
「兄者は、今でも信長様が討たれたことに羽柴殿が関係しているとお考えなのでありましょうか?」
「疑ってはおる」
「さようであるとしたならば、大変由々しきことでござりまするな」
「今は戦国の世。下剋上がまかり通っておる時代じゃ。どなたかが天下を手中に収めるまでは、さようなことが続くのであろう」
「徳川家にも、さようなことが起こり得るのでありましょうか?」
「なんとも申せぬが、起こったとしても不思議ではあるまい」
「もし、我が殿が反旗を翻したとしたならば、兄者は、いかが致すおつもりなのでしょうか?」
「滅多なことを申すではない。我が殿に限って、そのようなことはござらぬ」
「断言することができましょうや?」
そう問われたボクは、小さく頷いた。
歴史を研究したボクは、三河武士と呼ばれる徳川家臣団の中核メンバーたちの結束力が高いことを知っていた。中でも旗本先手役を担っている井伊直政、榊原康政、本多忠勝の忠誠心は、半端なく高いものがあった。戦国シミュレーションゲームの中でも、他大名による彼ら三将の引き抜きは、まずもってできないような設定になっている。
「お主は、我が殿が反旗を翻したとしたならば、いかがいたすつもりじゃ?」ボクは、逆に問いかけた。
松井が、考える表情を浮かべる。しばしの後、口を開いた。
「それがしは……、武士を捨てて、生家に戻るやもしれませぬ」
「もったいなくはあるまいか? お主の御両親様も、お主が武士として奉公していることを誇りに思うておるようであったが」
「それがしも、誇りには思うておりまする。なれど、お仕えする先は、生涯一つでありたいとも思うておりまする。それがしは、大殿にお仕え致す武士でありますゆえ」
「そうであったな。お主は、大殿に感謝しておるのであったな」
松井は、三年前に、鷹狩の帰り道に生家のある村に立ち寄った家康に仕官を申し出て、武士として取り立ててもらっていた。農業一筋で武芸も身に着けていなかった若者のことを、家康は快く迎い入れてくれたということだ。
「兄者は、五年前に、殿に申し出て徳川家の一員となられたのでありましたな。それまでの間は、いかような暮らしをなされていたのでありましょうか?」突然、松井が、徳川家に仕官する前の佐平次のことを聞いてきた。
その言葉を耳にしたボクの頭の中で、再び疑問が芽生えた。
佐平次は、徳川家に仕官するまでの間、どのようにして生きていたのだろう。
五年前といえば、佐平次は二十五歳だ。二十五歳になるまでの間、小さな村の片隅でその日暮らしを続けていたとでもいうのだろうか。
そのことに、不自然さを覚えた。
両親を失ったのであれば、一刻も早く身分を確立しようと考えるのが通常の感覚だ。妻子がいたのであればその地に腰を落ち着けて農民として精を出していたということも考えられるのだが、佐平次は独身だ。一人わびしく農地を耕していたというイメージは湧いてこない。早々に城下に出て、武士か商人として身を立てようとするのではないのだろうか。
ボクは、二十五歳になるまでの空白の期間のことを想像した。
もしかしたら、徳川家以外の大名に仕えていた時期があったのかもしれない。そうであった場合、生まれ育った三河の国を飛び出して他国の大名に仕え、その後徳川家家臣の本多忠勝に仕官を申し出たということになるのだろう。五年前といえば、徳川家は武田勝頼と戦っていたころだ。他国の大名とは、武田家のことなのだろうか。
想像を膨らましていたボクは、松井の視線を感じた。松井が、ボクの答えを待っている。
「気ままにその日暮らしをしておったのよ。諸国を巡り歩いていたころもあった……」ボクは、無難な言葉を口にした。
4.
藤川宿を発ち、東海道三十九番目の宿場である池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)に着いたボクは、緊張に見舞われた。次の宿場は鳴海宿だ。つまり、これから先、三河の国と尾張の国との国境を通過するのだ。
横を歩いている松井の顔も緊張に包まれていた。
途中で休憩した茶屋の人間に聞いた限りでは国境に関所は設けられていないということだったが、安心はできなかった。世の中の情勢は刻一刻と変化しており、いきなり関所が設けられたとしても不思議ではなかったからだ。
やがて、国境に到達した。前方に目を凝らしたが、関所らしきものは見えてこない。
そのまま道を進んだが、何ごとも起こらなかった。道ですれ違う人々の表情にも、特に変わったところはない。平和でのどかな光景が広がっていた。
胸を撫で下ろしたボクたちは、目的地である宮宿へ向かって歩みを速めた。
宮宿へは夕方に到着した。東海道最大の宿場町だと言われるだけあって、たくさんの宿が軒を連ねている。立派な構えの大宿もあれば、庶民の家に毛が生えたような小宿もあった。
その中で、ボクたちは目立たない小宿に投宿した。
小宿を選んだ理由は、監視の目を意識してのことだ。
この時代は尾張の国の領主織田信雄と秀吉との仲が良好であり、さらには秀吉の出身地でもあることより、国中に秀吉の監視の目が及んでいるものと考えて行動する必要があった。大宿は、大勢の人間が出入りする分、監視の目も強くなるはずだ。
宿に入り、早めの夕食を済ませたボクたちは、明日からの活動について確認を行った。声が外に漏れないように小声で話をする。
活動を行うにあたって、ボクたちは偽名を用意していた。ボクは山根弥助、松井は小野作之助であった。ともに北条家を出奔した浪人であり、次の士官先を探すために全国を旅しているという設定である。
人が集まるところへ足を運び、尾張国内の情勢や他国の状況に関する情報を収集しているように見せかけて、その場にいる人たちからさりげなく秀吉に関する情報を聞き出すというやり方を考えていた。
「話の糸口は、いかような内容にすればよいのでありましょうか?」松井が、不安げな表情を浮かべた。
「内容など、いかようなものであってもよい」
「なれど、世俗話をするのが目的ではありませぬ。羽柴殿に関する情報を集めることがまことの目的でありますゆえ」
「相手がお主からの話に乗ってくるような物言いをすればよいのじゃ」
「どのような物言いがよいのでありましょうか?」
「東国ではかような噂が広まっておると口にするのでもよい。あるいは、これからいかような世になるのかと問いかけてみるのでもよい。信長様が討たれたということは、すでに庶民の間にも知れ渡っておる。どの者たちも、他国の情勢やこれからの世のことは気になることであろう。さようなことを口にしても、不審に思う者などおらぬはずじゃ」
「いかにも。して、それがしと兄者は連れだって動くので?」
「そのことよのう。見知らぬ地であるがゆえ連れだって動きたくもあるのじゃが、時間も惜しい。手分けして動き、いずれかが良き情報に巡りおうた場合は協力して深く掘り下げてみてはどうかと考えておる」
「それがしも、兄者の考えに賛成致しまする。ちなみに、こたびの宿を拠点にした調べは、どの程度の範囲まで行いまするか?」
「せいぜい、宿から五里の範囲内であろうの」
五里を現在の距離に直すと二十キロメートルほどだ。早歩きをした場合の速度が時速五キロメートルほどであり、捜査の効率を考えた場合、五里が限度であった。
「いかように手分け致しまするか?」
「拙者は、宿の東方と南方を調べ致す。お主には、西方と北方を調べてもらいたい」
「わかり申した。ちなみに、信長様が討たれたときのことやその後のことについては、どの程度のことまで口にしてもよいのでありましょうか?」
松井からの質問に、ボクは思考を巡らせた。
捜査を行うにあたって、ボクと松井は、本多忠勝を通じて、本能寺の変やその後のことに関する情報を入手していた。現代人が歴史を勉強することで知り得ることとほぼ同じ程度の内容である。
しかし、一介の旅浪人があまりにも詳し過ぎる内容を語っていては、相手に不自然に思われるかもしれない。反面、上辺だけの話をしてしまうと相手も乗ってこないだろうし、そうなると有益な情報を引き出すこともできない。
相反する状況に、ボクは頭を悩ませた。そして、一つの結論へ行きついた。
「殿からお教え仕ったことを、ありのまま口に致せばよいのではあるまいか」
「東国の旅浪人が、そこまでのことを口にしてもよろしいのでしょうか?」
「我らは、北条家を出奔し、西へと旅をしている浪人じゃ。北条家の領国と尾張の国との間には、我が徳川家の領国がござる。徳川家の領内を巡っているときに知ったこととして口に致せば差支えないのではあるまいか?」
「さようなことであれば、話もしやすくなるというものでありまするな」
松井も、相手からそれなりのことを聞き出すためには、こちらもそれなりのことを口にする必要があると思っていたようだ。
作り話を口にすることもできるが、それでは相手の興味を引くような深い話をすることに限度が生じてしまう。話のつじつまが合わなくなってくるからだ。真実の話であれば、そのような心配をする必要もない。
「この界隈での調べに、いかほどの時間を費やされるおつもりでありましょうか?」
松井から、宮宿を拠点にした捜査を行う期間を問われたボクは、思考を巡らせた。
捜査期間の制限は設けられていなかったが、正月はお玉と一緒に過ごしたいと思っていた。そのためには、正月がやって来るまでの間に尾張の国と近江の国の捜査を終えてしまわなければならない。正月までは五カ月ほどだ。
ボクは、時間の計算をした。
国と国との移動にかかる時間を二週間ほどは見ておく必要がある。残りの時間で尾張の国と近江の国での捜査を行うことになるのだが、近江の国は尾張の国よりも国土が広いので時間は多めに取っておきたい。
そんなボクの頭の中で、尾張の国での捜査に費やせる時間が二カ月ほどだという計算が立った。もう一つの宿場町である鳴海宿の近辺とそれ以外のエリアに費やす時間を考えると、宮宿における捜査は二週間が限度だと判断した。
ボクは、その考えを松井に伝えた。
5.
捜査の初日、朝食後に宿を出て松井と別れたボクは、宿場町の中を練り歩いた。
町は活気に満ちあふれていた。随所に、旅人目当ての店が立ち並んでいる。見世物小屋もあった。
その中から、ボクは茶屋と酒場を探した。他人に対して自然に話しかけることができ、加えて腰を据えて話すこともできる場所だったからだ。そこで、時間に余裕のありそうな、さらには世の中のことも知っていそうな客を見つけて話しかけるつもりでいた。捜査に使える時間は限られており、効率的に行動しなければならない。
最初に見つけた茶屋には話しかけたくなるような客はいなかった。二人連れの客がいたが、若い女と小さな女の子だった。旅人のようであり、先を急いでいるようにも見える。
次に見つけた酒場は大勢の客で賑わっていたが、客たちは全員が知り合い同士のようであり、自然に話しかけられる雰囲気ではなかった。
その次に見つけた茶屋で、ボクは話しかけるべき相手と出会った。
一人の男が長椅子に腰を下ろし、のんびりと茶を啜っていた。茶に添えられた菓子には手を付けてない。男の脇には、麻の袋が置かれていた。
茶と菓子を注文したボクは、さりげなく男の横に腰を下ろした。ひと口茶を啜り、「まことに美味い茶でございまするな」と男に声をかけた。
男が顔を向けた。三十代半ばくらいに見える顔だった。ボクの身体を一瞥する。視線が、脇に差した刀に止まった。男は帯刀していない。
「西尾の茶葉を使っておりますゆえ、味に深みがございまする」男が、日に焼けた顔から白い歯を覗かせた。
西尾は、三河の国にある。西尾茶は、現世でもブランド茶として有名だ。
「宮宿へは二日に一度参っておるのですが、参るたびにこの茶を楽しんでおりまする」男が、この店の常連であることを口にした。
「なんぞ、商いでもされておられるのでしょうか?」ボクは、男の身分を訊ねた。
「御師(おし)でございます」
御師とは、特定の社寺に属して、その社寺に参詣者を導き祈祷や宿泊などを取り計らう者のことだ。この時代の人間は信仰心があつく、社寺への参詣を目的とした旅も日常的だった。男の脇に置かれた麻袋の中には、お札が詰まっていた。
「いずこからまいられたのですか?」
「春日井郡にある勝又御子(かつまたみこ)神社という社寺よりまいっておりまする」
春日井郡は、宮宿の北方にあった。その方面は、松井の担当だ。
「この国のお生まれなのでしょうか?」
「はい。愛智郡の出であります。もとは熱田神宮に近い社寺で父親とともに御師をしておりましたが、七年前に妻をめとったのを機に、春日井郡に移り住んでございます」
「尾張の国とは、良きお国のようでありまするな」
「それはもう。温暖でもあり人の集まる地でありますゆえ、作物を耕すのにも商いを行うのにも適した土地柄でありまする。お侍さんは、どちらのご出身で?」
「それがしは、相模の国の出身です。北条家に仕えておりましたが、わけあって、今は全国を旅する身となりました」
「それは、それは……。それがしは旅などしたことがござらぬゆえ、他国のことをまったくと言ってよいほど知りませぬ。なんぞ面白い話などございましたら、お聞かせいただけませぬか」
「さて、どのような話をお聞かせすればよろしいのか……。あなた様は、織田信長様が京で討たれたことはご存じであられまするか?」
「噂は耳に致しておりまする。なんでも、明智光秀殿が謀反を起こされたとか?」
「いかにも。して、その後のことは、存じておられまするか?」
「秀吉様がかたき討ちを成されたのだと聞いておりまするが、まことの話なのでありましょうか?」
「まことの話でございます。秀吉殿が、京の山崎という地にて、光秀殿を討ち果たしました」
ボクは、男に、毛利との和睦や山崎の戦いについてのあらましを語った。
「秀吉様は、人知に優れた武将にござりますれば……」男が、誇らしげな表情を浮かべる。尾張の国の出身であり、秀吉の出世を誇りに思っているのだろう。
そうであれば、秀吉のことを持ち上げれば、男の口が一層滑らかになるのかもしれない。ボクは、秀吉のことをほめる言葉を口にした。
「秀吉殿の御高名は東国にも伝わっております。たしか、農家の出であられたということで。それが、今や一国の主でござる。秀吉殿が人知に優れたお方であられるということの証でございまするな」
「ありがたきお言葉にございます。秀吉様は、郷土の誇りにござりますれば」
男が、嬉しげに言葉を返した。
ボクは、男にどのような質問をするべきか、素早く頭の中で整理した。
男は、明らかに秀吉のことを敬っている。秀吉について知っていることをしゃべってみたいという気持ちはあるだろう。異国の人間であるボクに対して、秀吉の優れている部分を口にしたいはずだ。
ボクが知りたいのは、最近の秀吉が取った行動だ。特に、どのような人物と交流があったのかということを知りたかった。尾張の国は彼の出身地であり、この地で何らかの動きを見せていたとしてもおかしくはない。
そう思ったボクは、男の職業が御師であることを思い返した。案内をした参詣客の中に秀吉と関係の深い人物がいた可能性もある。
ボクは、探りを入れた。
「秀吉殿は、大変信仰心の厚きお方であると伺っておりまするが」
「仰せの通りでございます。秀吉様は、武将となられましてからも信仰の心を忘れてはおられませぬ」
「あなた様の社寺に参られたこともあったのでしょうか?」
「秀吉様ご本人が参られるようなことはありませぬが、御家臣の方が参られたことはございます」
「どなたが参られたのでしょうか?」
「片桐且元(かつもと)殿が参られました」
「それは、いつごろのことでありまするか?」
「たしか、半年ほど前のことであったと記憶しておりまする」
半年前という言葉がボクの頭の中で引っかかった。半年前と言えば中国攻めの最中だ。そして、片桐且元も中国攻めに従軍していたはずだ。それが、なぜ尾張の国内で社寺詣でなどしていたのだろう。
「片桐殿は、大人数で参られたのでしょうか?」
「大人数ではございませぬ。何名かの伴周りの方をお連れしただけにございまする」
「何事かの所要の最中に立ち寄られたのでありましょうか?」
「それがしには、目的はわかりませぬ」
「どなたかにお会いになるために寄られたのやもしれませぬな。武家の世界では、社寺を詣でるついでに交渉事を行うこともありますれば。片桐殿が参られたのと同じ日に立ち寄られた武将殿は、どなたかおられませんでしたか?」
武家の世界で社寺を詣でるついでに交渉事を行うことがあるなどというのは、ボクの作り話だった。男は御師の仕事しかしたことがないということであり、話を引き出すための布石として口にした言葉である。
もくろみ通り、男は、疑うことなく言葉を返してきた。
「お一方居られたような気も致します」
「どちらのお方でしたか?」
「大和の国からまいられたというように聞いた覚えがありますれば……」
男が、自信なさげに答えた。
ボクは、大和という言葉に反応した。
大和の国と言えば筒井順慶の領国だ。そして、筒井順慶は、明智光秀が最も信頼を寄せていた人物である。
史実でも、本能寺の変の後、光秀は順慶に対して行動を伴にするように呼びかけている。その順慶が治める国からやってきたと思われる武将が片桐且元と同じ日に同じ社寺に投宿した可能性があるということだ。
ボクは、さらに質問を重ねた。
しかし、男の記憶は曖昧だった。二人が一緒に居たところを見た記憶はないという。
片桐且元が筒井順慶の家臣と思われる武将と接触したという証拠を入手することはできなかった。
6.
日が落ちるのと同時にその日の捜査を終えたボクは、宿へ戻った。捜査を続けようと思えば続けられたのだが、松井とその日の捜査結果を確認しあい明日の行動を決める時間も必要だったからだ。
朝から歩きまわり、体も疲れていた。
ボクが宿に戻ったとき、すでに松井は部屋の中にいた。
「ご苦労であった」ボクは、松井のことを労った。彼の顔にも、疲れがにじんでいる。
「かような調べを致すのは初めの経験ですゆえ、ちと疲れました」松井の口から、疲れたという言葉が飛び出した。
二人の腹の虫が鳴った。
ボクは、宿に夕飯の支度をお願いした。間がなく、宿の人間が夕飯の準備が整ったことを伝えに来た。
食事処に移動し料理の盛られた膳の前で胡坐をかいたボクたちは、黙々と料理を口に運んだ。
食事を終え部屋に戻ったボクたちは、今日の成果を報告しあうことにした。松井が、報告の先陣を切る。
松井も、ボクと同じように茶屋や酒場にいる客を相手に聞き込みを行ったということだ。目ぼしい成果を得ることはできなかったものの、織田信長が討たれたということは誰もが知っており、本能寺の変やその後のことに関する話についても誰もが興味を示したということを口にした。
ボクは、聞き込み相手から情報を引き出す上で、この話をネタとして使うことに間違いがないことを確信した。
「今日一日で、いかほどの店を回ることができたのじゃ?」報告を受けたボクは、松井の行動量を問うた。
「茶屋が三軒と酒場が二軒です」
(たったそれだけ?)ボクは、彼の答えに首をひねった。
現在投宿している宿は、宮宿のほぼ中央に位置している。宮宿は東海道一の宿場町と言われる通り、東西南北に町が広がっている。
今日は捜査の初日であり、近場から捜査を始めるのであれば捜査地までの移動時間はかからないため、朝からの時間をフルに使えたはずだ。それにしては、茶屋と酒場を合わせて五軒とは少なくはないだろうか。
松井は、ボクが戻る少し前に宿に戻ってきたということであり、そうなると捜査に十時間弱の時間が使えたはずだ。単純計算で、一軒当たり二時間近くも時間を費やしたことになる。
時間に余裕のありそうな客をつかまえて徹底的に話をしたのだとしても、この時代を生きる人間にとっては日が明るいときの時間は貴重であり、延々と話しこまれたら嫌がられるはずだ。
そもそも、一見の客が何時間も店に居座ると不審がられるのではないだろうか。実際に捜査をしてみて感じたことでもある。
「いかがなされましたか?」黙り込んだボクの顔を覗き込むように、松井が話しかけてきた。
「すまぬ。ちと、考え事をしておった」ボクは、視線を戻した。
根が真面目な松井のことだ。少しでも多くの情報を引き出そうとして、話しかけた相手と深く話し込んだのだろう。ボクは、そのように解釈した。
「兄者のほうは、いかがでしたので?」松井が、ボクの成果を聞いてきた。
ボクも、成果と呼べるものは、半年前に片桐且元が尾張国内の社寺に宿泊したということと、同じ日に大和の国から来た武将と思われる人物が宿泊していた可能性があるという情報だけだった。
ボクは、その話を松井に聞かせた。
「片桐殿と言えば、羽柴殿の家臣の中でも、押しも押されもせぬ人物ではござりませぬか」松井が、目を輝かせた。秀吉家臣の一員として、片桐且元の名は徳川領内にも聞こえていた。
「いかにも。さようなお方が、なにゆえこの時期に尾張の国にある社寺へまいったのか、気になるところではあるな」
「御意。半年ほど前と申せば、中国攻めの最中でございまする。片桐殿も、羽柴殿に連れ添って戦っておられたはず。いわくありげなことと思えまする」
「お主も、さように思うか?」
「はい」
「ことの詳細を調べねばなるまいな」
「いかにして調べまするか?」
「社寺の者に聞かねばなるまい」
「それがしが、社寺に参りましょうか?」
「すまぬが、そうしてくれぬか」
本当は自分で調べたかったのだが、話を聞いた御師と顔を合わせるのもまずい。今日も深く話を聞きだしており、この上さらに社寺にまで出向いて同じ話を聞いている姿を見られてしまうと、間違いなく怪しまれるだろう。ここは、面の割れていない松井を向かわせるのが無難だ。
「明後日、拙者が話を聞き申した御師に案内を乞うて、社寺に向こうてくれぬか」ボクは、松井に指示を与えた。
御師は、二日に一度の割合で宮宿へ来ているということだ。来るたびに、今日会った茶屋で一服するのだと語っていた。店に立ち寄る時間もいつも同じだということであり、ボクは松井に御師の風貌の特徴を詳しく伝えた。
「片桐殿が泊まられたのと同じ日に泊まった大和の国から来た武将らしき人物がいたのかどうかということと、いた場合は、そのお方のお名前を調べればよろしいので?」
「いた場合は、そのお方と片桐殿とが接触したのかどうかも調べてもらいたい」
「いかような聞き方をするのがよいのか、思案のしどころでございますね」
「いかにも」
ボクは、頭の中で思考を巡らせた。
ストレートな聞き方をすれば怪しまれる。社寺が秀吉に通じていたら、松井が狙われる可能性もある。自分も標的になるかもしれない。そのような事態にならないように自然な聞き方をする必要があった。
ボクは、唇を噛み、軽く唸り声をあげながら考え続けた。
「兄者。こういうのはいかがでしょうか?」
松井が、床を手でたたいた。妙案を思いついたようだ。
ボクは、考えを口にするよう促した。
松井は、次のような考えを口にした。
彼の兄が、旅の道中で片桐且元が宿泊した日と同じ日に社寺に宿泊したのだが、そのときに体調を崩してしまった。先を急ぐ用であったのだが体調がすぐれず窮地に陥っていたところを、当日宿泊していたどこかの国の武将が薬を分け与えてくれた。そのおかげで体も楽になり、用も無事済ませることができた。それ以来、兄はきちんとした礼を言いたいと思い続けていたのだが、行動に移すことなくこの世を去ってしまったので、弟である自分が兄に代わって礼を言いたいと考えている。そのために当日宿泊していた武将がどこの誰であるのかを知りたいという口実で、武将の名前などを聞き出すという考えであった。
「妙案でござるな」ボクは、松井の考えに賛同した。
「ありがたいお言葉にございます」
「その武将と片桐殿とが接触を図ったかどうかの調べを致すにあたって、兄殿から、お二方が知り合いのように思えたと聞いていると口にしてみたらどうじゃ?」
「それがしも、兄者の意見に賛成でござる。さように申せば、まことにお二方が接していたときは、社寺の人間もそのことを口に致すものと考えまする。お二方が接していたことが明らかなこととなった場合は、いかような話し合いがなされていたのかについても探ってみましょう」
「決して、無理を致すではないぞ」
「無理など致しませぬ。料理を給仕する女中などが、何ごとかを耳に致しておるやもしれませぬ。金子を与えれば、口も滑らかになりましょう」
「成しようはお主に任せる。なれど、無理なことは致すな。尾張国内の社寺なのじゃ。もしや、羽柴殿と通じておるやもしれぬ。そのことを考え、慎重に調べを進めてほしいのじゃ」
ボクは、勢い立つ松井に釘を刺した。
7.
捜査開始から三日目の朝、ボクは、松井を御師と出会った茶屋の近くに連れて行った。物陰から、遠目に店の中を伺う。
二日前のときと同じ長椅子に、御師は腰掛けていた。傍らに、茶碗と菓子を乗せた小皿が置かれていた。
「彼の者だ」ボクは、御師を指さした。
「それでは兄者、行ってまいります」松井の顔に気合がこもる。
「重ねて申すが、無理を致すではないぞ」ボクは、再び念押しをした。
松井が頷く。
松井が、茶屋の中に入った。茶と菓子を注文し、さりげなく御師の隣に腰掛ける。
やがて、御師に向かって話しかけた。御師も言葉を返している。
二人の顔から笑みがこぼれる様子を目にしたボクは、その場を離れた。彼なら、上手くやってくれるだろう。
そのことよりも、新たな情報を入手しなければならない。
昨日は、ボクも松井も空振りに終わっていた。捜査は始まったばかりなのだが、二人で二日間歩き回った末に関係がありそうな情報を一つしか入手できなかったことを不安に感じていた。はたしてこのようなペースで、正月が来るまでの間に捜査の区切りをつけ家に帰ることができるのだろうか。
ボクは、胸に芽生えた不安を振り払うために大きく深呼吸をした。不安が薄れ、気合がみなぎってくる。
そんなボクの視線の先に、茶屋らしき小屋が見えてきた。ボクは、小屋に向かって歩く速度を速めた。
日が西に傾き始めた。ボクは、つい先ほどまで聞き込みを行っていた茶屋を後にした。
今回の捜査は、思いのほか大変だった。茶屋や酒場での聞き込みを行うたびに茶や酒を口にしなければならなかったからだ。
特に大変なのが、酒場での聞き込みだった。毎回、酒を口にしなければならない。一合にも満たないほどの茶碗のような容器に注がれた濁り酒をゆっくりと飲みながら話をするのだが、必然的に一日に飲む酒の量が多くなってしまう。
(毎回酒を飲まなくてもいいのかもしれないな)ボクは、酒場での対応を考え直すことにした。
酒場とはいっても、必ずしも酒を注文しなければならないわけではない。水やお茶を飲んでいる客もいる。つい流れで酒を注文してしまっていたが、体のことを考えて、今後は臨機応変に対応することにした。
そんなボクの視線の先に、酒場が見えてきた。店に近づき、中を覗いてみる。
店内は賑わっていた。盛り上がるグループ客の片隅で、何人かの一人客が静かに酒を飲んでいる。
ボクは、酒場に足を踏み入れた。
何人かの一人客の中から、旅人然とした男を選び、近づく。
「今年は、長いこと夏が続いておりまするなあ」ボクは、気さくに話しかけた。
「この地は、特に暑さが厳しゅうござりまする」男が、ボクに顔を向ける。
「旅の人でございまするか?」
「はい。三年前に肥後の国を発ち、各地をゆるゆると巡っておりまする」
「それはまた、たいそうな御身分であられる」
「いやいや、しがない商家の二男坊でございますよ。商人は博識でなければならぬと申す父親から資銭を預かり、あてどなく放浪している身でございますゆえ」
「世の中のことを知らねば、出世はできませぬ。なれど、この三年で世の中は大きく変わり申した」
「いかにも。織田信長様のもと世の中がまとまりだし、そして信長様が討たれ、またしても群雄割拠な世に逆戻りでございまする」
「信長様に代わって、乱世の世をまとめてくれるお方が現れるのでしょうか?」
「どうなのでしょうか」
「それがしは、羽柴様にご期待致しておるのですが」
ボクは、さりげなく触手を伸ばした。男は三年もの間旅をしているということであり、旅先で秀吉に関する話を耳にしている可能性があったからだ。
「なにゆえ、羽柴様に」
「信長様が討たれた後の羽柴様の動きには、目を見張るものがありまするゆえ」
ボクは、中国大返しから山崎の戦までのことについて口にした。男が、興味深げに話に聞き入る。
「さようなことがござったのでありますか」
「それがしの旅の途中で、幾度となく耳に致しました」
ボクは、北条家を出奔し、次の士官先を求めて旅をしている浪人であるということを口にした。
「そなたも、なんぞ羽柴様に関する噂話などを耳にされたことはございませぬか?」
「羽柴様……。羽柴様と言えば、かような話を耳に致したことがございました」
「いかような話でございまするか?」
「去年の今ごろでありましたが、但馬の国を巡っておりましたときに、お侍さんたちが話をしておりますのを耳に致しまして……」
男によると、とある酒場に立ち寄ったときに、中で酒を飲んでいた武士たちが、「これからは秀吉の時代になる」というような話をしていたということだった。
去年の今ごろと言えば、秀吉の弟の羽柴秀長が但馬の国を統治しており、秀吉は隣国の因幡の国を攻めているときだった。言い方を変えれば、信長の領土が拡大の一途をたどっていたときである。
誰もが翌年信長が討たれるなどとは考えてもいないときだったのに、これからは秀吉の時代がやって来るなどという会話をしていたとは引っかかる。
「そのころの但馬の国のご領主様はというと……」
「たしか、羽柴様の弟の秀長様でございました」
知らないふりをして聞いたボクに向かって、男が答えた。
「さすれば、そのお侍さんとは、秀長様ご家臣の方々だったので?」
「さようにございました」
「まさに、そのとおりに世の中が動き出したのでございまするな。されど、彼の方々が、いかなる理由からさように思うておられたのかが気になるところでございます」
「どうなのでありましょう。羽柴様に対する信頼が厚かったからなのでございましょうか」
男の様子からは、秀吉の時代がやって来ると口にした根拠までは耳にしていないようだった。
これ以上の話を聞きだせないと判断したボクは、さりげなく話題を変えた。男が、旅した先のことをいろいろと語ってくる。しかし、ボクの頭の中は、秀長配下の武士たちが秀吉の時代がやって来るという言葉を口にしていたという情報で一杯になっていた。
男の話が真実だとすれば、その当時に、秀吉の周囲で今後の秀吉の躍進を予感させる何らかの動きがあったということが考えられる。羽柴秀長は秀吉の側近中の側近であり、秀長に仕える武士たちの耳にもそのことが伝わっていたのだろう。
秀吉による策略が巡らされていたことを疑わせる状況証拠となり得る話であった。
ボクは、旅商人から入手した情報の内容を頭に焼き付けた。
男が口にする旅の思い出話に対して適当に相槌を打ちながら耳を傾けていたボクは、男の話が一区切りついたのを機に、酒場を後にした。
酒場の外は夕暮れ時を迎えていた。もう一時間も経たないうちに日は完全に暮れるのだろう。
ボクは、一日の捜査活動を終えることにした。
宿に向かって歩きながら、松井のことを思い浮かべた。彼は、上手に話を聞きだせているだろうか。目をつけられてはいないだろうか。尾張の国は秀吉が生まれ育った地でもあり、秀吉の監視の目が張り巡らされている可能性が高い。
そのようなことを考えていたボクは、ふと背後に違和感を覚えた。誰かに見られているような感覚だった。歩く速度を緩め、そっと後ろを振り返ってみる。
見渡す限り、急に立ち止った人間やボクに視線を当てている人間はいなかった。旅人や町人たちで賑わう町の光景が広がっている。
(気のせいかな?)ボクは、視線を戻した。しかし、たしかに違和感を覚えた。
ボクは、浜松城下の酒場で足軽仲間を相手に秀吉陰謀説を口にしたことを家康から指摘されたときのことを思い返した。先ほどまで酒場で旅商人を相手に話をしていたことが、秀吉方の監視の目に留まってしまったのだろうか。
(油断は禁物だな)ボクは、気持ちを引き締めた。
8.
同じころ、浜松城内の広間に、徳川方の主だった武将たちが集まっていた。高座に着いた徳川家康と、下座に居並んだ家臣の武将たちが向き合っている。家康に近い位置には、旗本先手役の井伊直政、本多忠勝、榊原康政、家老職の酒井忠次、石川数正、重臣の大久保忠世らが配していた。
徳川家としての戦略を練るにあたって、家康は、定期的に家臣たちを集めて議論をさせていた。
家康は、全国に間者を放ち、常に世の中の最新の状況を把握していたる。
今日も、家康のもとに集まった全国諸大名の動向に関する情報を基に、今後徳川家がどのように行動していくべきなのかについて意見を戦わせていた。
清州会議で織田領の再配分がなされた後に、巧みに他大名に働きかけながら勢力を拡大しようとしている羽柴秀吉と、それに待ったをかけようとする柴田勝家との対立が激しくなっている。彼らの対立は、信長の二男信雄(のぶかつ)と三男信孝との対立をも巻き込んでいた。
秀吉と勝家は、互いに駆け引きを繰り返している状況だった。信長の旧臣たちも、秀吉の味方をする者と勝家の味方をする者とで二分されている。
そんな中、徳川家も、状況を見極めながら独自の戦略を打ち出していく必要があった。
家康の腹は決まっていた。
信長がこの世を去り、もはや遠慮をしなくてはならない相手はいない。このままいけば秀吉と勝家のいずれかが実権を握ることになるのは間違いないことだったが、いずれに対しても与するつもりはなかった。信長が成し得なかった天下統一を己が成し遂げる。家康の野心が燃え滾っていた。その思いは、家臣たちにも伝わっている。
「皆々方は、羽柴殿に対する弾劾状に対して、どのように対処するのがよいと考えておられるのでしょうか?」
末席のほうから声が飛んだ。掛川城主の石川家成だった。
柴田勝家と滝川一益、織田信孝が手を組んで、全国の諸大名に対して秀吉の横暴を訴えるための弾劾状を発することを画策しているという情報を家康は入手していた。そう遠くない時期に、家康のもとにも弾劾状が届けられることになるのは間違いない。
「ここのところの羽柴殿の行動は横暴に過ぎる。織田家中の諸大名たちに対する私的な働きかけには、目に余るものがござる。羽柴殿をけん制する意味でも、こたびの弾劾状に名を連ねることがよいのではあるまいか」酒井忠次が声を震わした。彼の意見に、何名かの武将たちが頷く。
「お待ち下され。今後の世がどのような情勢になるのかがわからぬまま何れかに与することは、得策とは思いませぬ。徳川家としては、こたびの動きには静観を貫くことが得策かと存ずるが」すかさず、石川数正が反対意見を口にした。
酒井忠次と石川数正は、徳川家の家老職としてそれぞれ西三河、東三河の運営を任されている重臣であり、何かにつけて反目しあう仲だった。重要な政策を決める会議の場でも、初めから二人の意見が一致することなどない。
「いかにも。柴田殿が失脚し羽柴殿が台頭した場合のことも考える必要がござる」大久保忠世が、石川数正の意見に同調した。その言葉に、何名かの武将たちが頷く。
酒井忠次が、大久保忠世に向かって、鋭い視線を投げつけた。
「実際のところ、羽柴殿と柴田殿のいずれが優位な状況であるのかのう?」
「事態が長期化すれば、京の地を手中に収めている羽柴殿が優位になられよう。事実、近畿の大名どもは、こぞって羽柴殿の味方をしておる。朝廷との関係も密接じゃ」
「柴田殿の領国である北陸は雪深く、冬の間は動けぬからのう」
「柴田殿も、焦っておられるのであろう」
「いずれにしても、羽柴殿が実権を握ったときに対抗するための材料を手にしておかねばなるまいな」
武将たちの間で議論が交わされた。
「羽柴殿に対抗する材料とやらですが、調べに向かった者どもから、殿のもとに何がしかの報告は届いておられるのでしょうか?」谷村城主の鳥居元忠が、家康に質問をした。吉原佐平次と松井作次が本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていたかどうかを調べる目的で旅に出たことは、集まった家臣たちの誰もが知っていた。
「何も届いてはおらぬ」家康が言葉を返す。
「殿、柴田殿と羽柴殿が雌雄を決するのは避けられぬ状況となっておりまする。おそらく、柴田殿が雪で足止めを食らう冬の間に、羽柴殿は事を起こすでありましょう。さすれば、春先に戦いが起こるのは必定。その者どもからの報告を急がせたほうがよろしいかと存じ上げまするが」
「おそれながら、もはやこの期において、長期間潜入する調べは必要ないのではないかと。正成配下の者どもを使って本格的に調べを進めながら逐一報告を得るやり方に切り替えたほうがよろしいのではないかと存じ上げます」
「両者のいずれかが実権を握る日も、そう遠くはないものと思われまする」
武将たちの間から、不安の声が上がった。
「皆々、焦るではない。今は、状況を見極めることが大事じゃ」家康が、毅然とした態度で言葉を返す。
それに対して、最も家康に近い位置に配していた井伊直政が「なれど、殿。羽柴殿が実力で柴田殿を倒し織田家中の家臣団をまとめ上げたと致しますと、我が方の発言力が弱くなるものと懸念致しますが」と意見を口にした。
「たとえ柴田殿と羽柴殿が雌雄を決したとしても、信雄様と信孝様の対立は残る。織田家中の家臣団を己の意のままに取り込むのは容易いことではない。織田の勢力が及んでいない外様大名もおる。その者たちと手を組んで対抗することも可能じゃ」
「すでに、なんらかの手を打っておられるのでしょうか?」
周辺諸大名との連携を示唆した家康に、榊原康政が問いかけた。
「内々に、長宗我部殿や紀伊雑賀党の者どもと話を進めてはおる」
家康が、外交政策について口にする。
「今は、信濃と甲斐の制定のほうが先でござろう」本多忠勝が、議論の矛先を変えた。
本能寺の変の後、信濃の領土を巡って、徳川家、北条家、上杉家が小競り合いを繰り広げていた。ほぼ手中に収めている甲斐の国も、信濃の情勢いかんによっては紛争に巻き込まれてしまう。
徳川家は、信濃制定に向けて、兵を繰り出す傍ら、外交と謀略にも精を出していた。
本多忠勝の一言で、その場の議論が信濃と甲斐の制定に移り変わった。軍事と外交の戦略が話しあわれ、徳川家としての方向性が定まる。
吉原佐平次と松井作次に命じた秀吉に関する捜査についても、時間をかけて継続していくという方向性で一致した。
9.
「手筈のほうはいかがじゃ?」
「殿の仰せの通りにございまする」
「余の申す通りとな……」
家康が、小さく頷いた。家臣たちとの話し合いを終えた後の広間に、本多忠勝と二人で向き合っていた。他の武将たちとともにその場を去ろうとした忠勝を、家康が呼び止めたのであった。
「もそっと近こう」家康が、忠勝を手招きした。忠勝が家康の方にすり寄る。
二人は、至近距離で向き合った。
「そちが余に仕えて、はや二十余年となるのか」
「おそれながら」
二人の脳裏に、二十二年前のときの記憶が甦っていた。
当時、家康は、今川義元配下の武将であった。大軍を率いて上洛を果たそうとした今川義元の前に、織田信長が立ちはだかった。僅かな手勢を率いて義元の本陣を奇襲し、義元の首を打ち取った。いわゆる桶狭間の戦いである。
その前哨戦となった大高城を巡る攻防戦で、忠勝は初陣を飾った。最前線の城である大高城に兵糧を届けた上で守備に就く任務が家康に課せられていた。信長の攻撃をかわしながらの兵糧運搬は至難の業であったが、忠勝を始めとした勇猛果敢な家臣たちの働きにより、家康は無事任務を成し遂げることができたのだ。
そのとき以来、忠勝は家康に忠誠を尽くし、今や徳川四天王の一人に数えられるまでになった。家康の忠勝に向けた信頼も厚い。
「平八郎。秘め事とは、心苦しいものよのお」家康が、薄ら笑いを浮かべた。平八郎とは、本多忠勝の通称名である。
「ははっ」忠勝が低頭する。
「余とそちとで決めたことではあるが、まことに良かったのであろうか?」
「良しと致しませぬか」
「……余は、彼のお方を敬っておった。生きる上での鏡でもあったのじゃ。なれど、今の余は、そちと初めて出会うたころの余とは違う。大勢の家臣や民に、夢と希望を与えねばならぬのじゃ。戦いに散った者どもの命を無駄にするわけにもまいらぬ。わかるか、平八郎」
「殿のお気持ち、しかと存じ上げておりまする」
「なれど、こたびのことは誤算であった」
「彼の者がさような優れ者であったとは、それがしも思うておりませんでした」
「知恵者であったようじゃな」
「なんぞ、殿の耳に届いておりまするか?」
「薄々とな……」
家康が、薄ら笑いを浮かべた。
「まあ、よい。優れたる者を積極的に登用し配することが大事なことであるということは、余も肝に銘じておる。我が徳川も、そちを始めとした優れた者どもを配したことで、ここまで領土を広げることができたのじゃ」
「ありがたきお言葉にございます」
「優れたる者を積極的に登用し配するという考えは、そちも同じなようであるな」
「仰せの通りにございます」
「彼の者も、さようであるというわけじゃな?」
「御意」
「なにゆえ、惚れたのじゃ?」
「彼の者には、物事の全体を大局的に見る能力、決断する能力が備わっておりまする。加えて、勇猛でございまする」
「勇猛さは、余の耳にも聞こえておる。物事の全体を大局的に見る能力、決断する能力が備わっておるとは、いかなる理由で、さように感じておるのじゃ?」
「信濃における武田との戦での折、かようなことがございました……」
家康からの問いかけに対して、忠勝が、ある男が戦場で活躍したときのことを話して聞かせた。
敵方に扇動された農民たちが家康の退路を塞ぐための行動に出たのだが、その男が機転を利かせて別の退路を確保し、徳川軍が事なきを得たことがあった。そのときの行動は、本多忠勝隊の一部の部隊が前面に立って行ったのだが、忠勝自身の指示によるものではなく、忠勝が惚れ込んでいるある男が周囲に働きかけてのものであった。
後にそのときのことを知った忠勝が恩賞を与えようとしたのだが、その男は、恩賞に値するようなことはなにもしていないと固辞した。忠勝は、その男の謙虚さにも好感を抱いていた。
そのこと以外にも、その男の大局観、決断力を感じ取れる行動はあった。忠勝は、家康に対して思いつくところを口にした。
「そちがさように申すのであれば、優れたる者なのであろう。余も、彼の者が、そちのまことの家臣となることを願ごうておる」
「ありがたきお言葉にございます」
「なれど、一年は長い。一年も経てば、世の情勢は大きく変化しておる」
「……」
「やはり、一年待つ必要があるのか?」
「薬師の見立てでは、一年待って変化がなければ、それより先変化することはまずないであろうとのことでございます。半年で構わぬと申した薬師もおりましたが、慎重を期す上でも、一年のほうがよろしいかと」
「致し方のないことであるのか。さりとて、余とそちが抱く疑念が的を射ておった場合は、いかように致すのじゃ?」
「さようなことが明らかになりました場合は、それがしも腹をくくりまする」
「腹をくくるとは、いかようなことなのじゃ?」
「問答無用、斬りまする」
忠勝が、鋭い視線を向けた。家康の眼光も鋭くなる。
「そこまで申すのであれば、このことについては、余は、もう何も申さぬ」
家康の言葉に、忠勝が深々と頭を下げた。
10.
壁を叩きつけるような音に、ボクは目を覚ました。雨の音だった。風の音も聞こえてくる。今は、何時なのだろうか。
ボクは、寝床を抜け出し、廊下に顔を出した。旅館の明り取りの窓が、うっすらと白ずんでいる。夜明けを迎えるころのようであった。
天気予報などない時代であり、朝目覚めてみないとその日の天気はわからない。
浜松城下を発ってからは、晴天に恵まれた日が続いていた。昨日も晴天であり、ボクは、なんの根拠もなく今日一日も晴天であると思い込んでいた。
「やんでくれないかなあ」ボクは呟いた。
この時代は、道路が舗装されていない。雨が降ると、路面がぬかるむ。レインブーツなどという洒落たものもなく、雨が降ろうが雪が降ろうが草履履きだった。むろん、足袋は履いているのだが。
ボクは、お玉のことを思い浮かべた。
身の回りの世話をしてくれていた彼女は、毎日のようにボクの足袋を洗濯してくれていた。夕飯の後片づけを終えた彼女が、寝床の枕元に乾いた足袋を畳んでおいてくれる姿がとても愛らしかった。
(旅が長くなるようなら手紙をくれって言っていたよな)ボクは、浜松城下を発つ前日の朝、お玉と交わした会話を思い返した。その言葉を聞いたボクは、胸の中で切なさを覚えていた。今回の旅は、確実に長くなる。
(一段落したら手紙を書こう)ボクは思った。
朝食を食べ終えた後も雨は降り続いていた。風は治まったが、雨足が衰える気配はない。宿の人間も、路面が相当ぬかるんでいるという言葉を口にした。
雨足が弱まるまで待つかどうか、ボクは悩んだ。
雨が降りしきる中、ぬかるんだ土の道を歩き回ることに気が引けていた。旅の荷物の中に傘はあったが、小ぶりな和傘である。このような強い雨をしのげるのだろうか。
時間が、刻一刻と過ぎていく。宿の中に居ても、やることはなにもない。なによりも、時間がもったいなかった。
ボクの計算では、宮宿界隈での捜査に費やせる時間は二週間が限度だった。すでに、その中の三日間を消化している。今日中に戻ってくるはずの松井が耳寄りな情報を手にしてくることを期待していたが、それ以外では、羽柴秀長の家臣たちがいわくありげな発言をしていたという状況証拠しか手にしていない。
(頑張らなければ)ボクは、己を奮い立たせた。
宿を出たボクは、まだ訪れていない茶屋や酒場を目指して町を歩いた。日が経つほどに、その日の捜査を開始する地点までの移動距離が長くなる。
ボクの視界に、いくつもの茶屋や酒場が入っては消えていった。いずれも、一度訪れた店だった。同じ店を何度も訪れてはいけないなどという決まりはなかったが、そんなことをすれば確実に目立ってしまう。
目立つことは避けなければならなかった。どこに秀吉の目が光っているかわからないからだ。現に、昨日も後をつけられていたような気がした。
ボクは、時々立ち止まっては、さりげなく後ろを振り返った。
今日の捜査開始地点に到着した。町の中心部よりは、店の数がまばらである。
ボクは、茶屋や酒場を見つけるたびに中を覗いた。天気が悪いせいか、どの店も客の姿はまばらであった。そんな中、話がしやすそうな客を選んでは話しかけてみる。しかし、これはという情報を入手することはできずにいた。
そんな中で足を踏み入れた何軒目かの茶屋でのことだった。
店内は、夫婦らしき客が一組いるだけだったが、お腹の空いたボクは、食事を摂る目的で店内に入った。お茶とおにぎりを注文し、長椅子で体を休める。雨は、小ぶりになっていた。
おにぎりとお茶が運ばれてきた。皿からおにぎりを一つ手でつかみ、口の中で頬張る。ほんのりと塩気のきいた白米が、空腹の腹に心地よかった。タイムスリップをした当初は一日二食が基本だったが、旅に出てからは昼食も摂るようになっていた。
おにぎりを食べ終えたボクは、茶を啜りながら、松井は何時くらいに戻ってくるのだろうかと考えた。早く彼の報告を聞きたいという気持ちが高まってくる。
時刻は、正午を過ぎたころだった。まだまだ町は続いている。あと三、四時間ほどは頑張ってみようか。
茶を味わいながら休憩していたボクの横に、一人の男が座った。男は帯刀していた。浪人のような風体でもない。
ボクは緊張した。尾張城主織田信雄(のぶかつ)配下の武士なのかもしれない。
ボクは、男を意識しながら、茶を一口啜った。
「わらべの顔を見に、戻ってまいられたのか?」突然、男が言葉を発した。
誰に向かって話しているのだろうか。ボクたちの周りに人影はない。独り言をつぶやいているのだろうか。
「もう、六つになったのではないのかのう」再び、男が言葉を発する。
ボクは、ゆっくりと男のほうを振り向いた。男の視線はボクに向けられていた。
ボクは戸惑った。見たことのない男だったからだ。それも、子どもがどうのこうのとかいう話である。答えに窮したボクは、曖昧な表情を浮かべた。
「元気な赤子であったのう」
「まあ」
「とかく大きな声で泣いておったことを記憶しておる。泣くときは、四肢を震わせておったな」
「さようでありましたかな」
「和子は、元気が一番じゃ」
「まことに」
ボクは、男の言葉に対して、無難な受け答えをした。何の話をしているのかがわからなかったからだ。
男が、傍らに置かれた茶碗を手に取った。ゆっくりと中身の茶を啜る。
ボクは、男の動作を見つめた。
美味そうに茶を飲み干した男が茶碗を置いた。懐中からハンカチのような布を取り出し、口元を拭う。
そして、おもむろに言葉を発した。
「小牧の山に咲く花といえば、なんであったかの?」
(小牧の山に咲く花?)ボクは首をひねった。小牧とは、今の愛知県小牧市と関係があるのだろうか。小牧市は、尾張の国の北部に位置している。
ボクの顔を見つめていた男が、笑みを浮かべた。
「実に美味い茶であった。渇いたのども潤うたわ。拙者は先を急ぐゆえ、これにて後免」
男は立ち上がり、店を後にした。街道を、美濃の国の方向へ向かって歩き出す。
ボクは、首をひねった。いったい、今のやり取りは何だったのだろうか。
男は、ボクに対して、旧知の知り合いであるかのような感じで話しかけてきた。格好からして武士であることには違いないが、ボクには見覚えがない。相手からは、敵意は感じられなかった。おそらく、佐平次と面識のある武士なのだろう。
ただ、気になることが二つあった。
一つは、ここが尾張の国だということだ。
現在、佐平次は浜松城下で暮らしている。三河の国で生まれ育ったということも聞いている。いずれにしても、生活圏は徳川家の領内だ。
だとすれば、佐平次と顔見知りだったと思われる先ほどの男も徳川家の人間であるはずだ。その者が、なぜ徳川家とは関係のない尾張の国にいるのだろうか。
もう一つの気になることとは、男が、六歳になるという子どもの話しを口にしたことだった。
男は、その子の生まれたてのころのことをボク自身も知っているかのように話しかけてきた。そのことが事実なのであれば、男と佐平次は六年前には出会っていることになる。
しかし、佐平次が徳川家に仕官したのは五年前だ。それ以前の経歴は曖昧であるが、先ほどの男と佐平次が知り合いであるのならば、徳川家に仕える以前からの知り合いということになる。
(しまった。なぜ、もっと早くこのことに気づかなかったのだろう)ボクは舌打ちをした。男と話をしているときにこのことに気づいていれば、徳川家に仕官する以前の佐平次のことを聞けた可能性があったからだ。
ボクは、男の去って行った方向に視線を向けた。いつの間にか雨は上がっており、薄日が射していた。街道の人の行き来も増えている。
しかし、男の姿を見つけることはできなかった。
ボクは、タイムスリップをする以前の佐平次のことは、人に聞いた限りのことしか知らない。これからも、見覚えのない知り合いが続々と現れるのだろうか。
どのような人間が現れるのだろうとワクワクする思いと、下手な対応をして面倒なことになるのが不安だという思いとが、ボクの胸の中で入り混じった。
11.
ボクがその日の捜査を終えて宿に戻ったとき、部屋に松井の姿があった。彼の表情からは、耳寄りな情報を手にしたことがうかがえた。
「なんぞ、良き情報を手に致したのか?」労いの言葉もそこそこに、ボクは、松井に報告を促した。良い報告があることを待ち望んでいたのだ。
「片桐殿と同じ日に宿泊した武将がおられました。そのお方の身元も判明致しましたぞ!」
「どこのどなた様じゃ?」
「筒井順慶さまが家臣、森高義秀殿にございます」
「森高義秀殿?」
ボクは、記憶を思い起こした。たしか、筒井家の武将に、そのような名前の人物がいたような気もする。
「して、森高殿と片桐殿は、接触を図っておったのか?」
「さようにございまする」
「なんぞ、確たる証拠を手に致したのであるか?」
「確たる証拠ではござりませぬが、森高殿の部屋に料理を運んだという女中から、部屋で片桐殿によく似たお方の姿を見かけたということを聞き入れました」
「その女中とやらは、片桐殿のお顔を知り申しておるのか?」
「それがしも気になりましたゆえ、そこのところはしかと確かめましたが、片桐殿の部屋にも食事を運んだとのことでして、本人は自信があるとのことでございまする」
「女中が森高殿の部屋に料理を運んだとき、部屋の中には、森高殿と片桐殿によく似たお方の二人だけが居られたのか?」
「お二方以外にも、数名の者が居たとのことでございます」
「その場の雰囲気がいかような感じであったのかは、聞いてはおるのか?」
「密やかに何ごとかを話し込んでいたように見えたとのことでござりまする」
「いかような話がなされていたのかについては、聞いてはおるのか?」
「聞き申しましたが、よくわからぬとのことでございます」
「致し方あるまい。秘め事を語るのであれば、人払いをするであろうからな。お二方がその日宿坊に泊まることは、事前に伝達されてあったのであろうか?」
「事前の伝達はないとのことでござりまする。お二方とも、当日参られたとのことでございます」
「御師に案内されてということであるか?」
「お二方も、御師の案内ではなく、各々で参られたということでした」
「お二方は、初めて参った客であったのか、何度か参ったことのある客であったのかということについてはどうじゃ?」
「社寺の者の話では、片桐殿は初めて参られたようだとのことでござりまする。森高殿は、過去にも参られたとのことで」
「勝又御子(かつまたみこ)神社という社寺は、この辺りでは名の知れた社寺であるのかの?」
「さようにございまする」
「とならば、偶然にお二方が遭遇し、時を共にしたということも考えられるわけであるな」
「いかにも」
「このこと以外に明らかになったことは、何ぞあるのか?」
「このことのみでございます。あまりにも深きことまで入り込むと怪しまれると思いましたゆえ」
「かまわぬ。よくぞ調べ致した」
ボクは、松井の労を労った。
「兄者のほうは、いかがでござりましたか? それがしが留守の間、なんぞ、良き情報でも手に致しましたか?」松井が、ボクの捜査の成果を問うてきた。
「気になることを一つばかり小耳に挟んだのじゃが……」
ボクは、羽柴秀長の家臣たちがいわくありげな発言をしていたという話を旅商人から耳にしたことを口にした。
「去年の今ごろという時期が気になりまするな」
「いかにも。そのころは、信長様が領土拡大の一途をたどっておる時期であった。羽柴殿の天下を予測できる理由など、どこにもござらぬ」
「においまするな」松井が、鼻をうごめかせた。
「この後の調べは、いかが致しまするか?」松井が、今回の結果を受けて、今後どのような捜査を展開するのかについての考えを求めてきた。
「片桐殿と森高殿との間につながりがあるのかどうか、さらには羽柴家と筒井家との間で何ごとかがなされておったのかどうかを探らねばなるまいな」
「この後の尾張、近江両国における調べを進めるときに、このことの探りを入れるということでありましょうか?」
「むろん、それは必要じゃ。なれど、そのことだけでは片手落ちじゃ。筒井家の方からも調べを進めねばならぬ」
「つまり?」
「大和の国へ潜り込む」
「それがしが参ればよろしいので?」
「いや、大和の国へは拙者が参ろう。羽柴殿とのつながりに的を絞った調べになるゆえ、危うい橋を渡らねばならぬこともある。こたびの調べの指揮を任された拙者が、この重責を担わねばならぬと思うておる」
「わかり申した。して、大和の国へは、いつごろより参られますか?」
「宮宿を拠点とした調べをあらかた終わらせてからのことじゃと思うておる。宿場町全域を、お主と手分けして当った後のことじゃ。一週から十日ほど後のことでござるな」
「それから後、それがしは引き続いて尾張の国での調べを進めればよろしいのでありますね。ちなみに、兄者が聞き申した但馬の国に関することは、いかが致しまするか?」
「そのことは、尾張と近江での調べを終えた後に考えようではないか」
「さように致しますか」
但馬の国での情報収集に関しては、尾張の国と近江の国での捜査を終えた後に考えることになった。
12.
宮宿を拠点とした捜査は順調に進んでいた。
とはいっても、着々と情報が集まったという意味ではない。その逆であった。さしたる情報も入手できないまま、着実に捜査を終えた範囲が増えていったという意味である。
毎晩、松井と二人で、実りのない結果を確かめあう日が続いた。松井も、ボクの姿勢に刺激を受けて一日にまわる店の数を増やすことを心掛けてくれていたが、思うように有力な情報を入手できない日が続くことに苛立ちを隠せずにいた。
このままのペースでいけば、予定していた二週間よりも早く宮宿を拠点とした範囲を調べきることになるのは間違いのないところだった。
有力な情報は入手できなかったものの、ボクは、またしても覚えのない人間から話しかけられた。とある酒場でのことだった。
何人かの客と話をし、この店での捜査を終えようと椀の底に残った酒を飲み干したボクに向って、一人の男が「作之進(さくのしん)様ではあられませぬか?」と声をかけてきた。商人風の男だった。
話しかけられたボクは、山根弥助だと名前を口にした。捜査期間中は、この偽名を使うと決めていたからだ。
ボクの言葉に、男は首を傾げた。「似た顔もあるものだ」という言葉も口にする。世の中には自分とそっくりな顔の人間が三人いると言われているが、作之進という人物は、佐平次と顔のそっくりな三人のうちの一人なのだろう。
ボクは、作之進という人物のことを聞いてみた。
男が言うには、宮宿界隈の酒場で何度か一緒に酒を飲んだ相手だということだった。
男は油商人であり、宮宿へは頻繁に足を運んでいた。作之進という男の身分は、武士であったという。誰に仕える武士なのかということは口にしなかったということだ。
男の話の中で、一つだけ気になることがあった。それは、男が最後に作之進の姿を見たのが五年前だということだ。以前ボクに声をかけてきた武士風の男も、六年ぶりに顔を合わせたというような言葉を口にしていた。
今回のことは名前が違うということもあり人違いだったのだと思われるが、異国の地で立て続けに見知らぬ人物から久々に顔を合わせたというような言葉をかけられたことに、ボクは不思議な思いを抱いた。
宮宿を拠点とした捜査も、終わりが近づいていた。調べ終えていないエリアも残り僅かとなり、あと二日もあれば全てのエリアを調べきる目途が立っていた。
その日の夜、一日の捜査結果を確認し終えたボクは、三日後に大和の国へ向けて旅立つことを松井に告げた。どの程度の時間を要するのか計算することはできなかったが、ボクのいない間、尾張の国での捜査を継続してくれるように彼に指示を与えた。
それに対して、松井が異論を口にする。
「大和の国へは、それがしが参りまする」松井の表情は、いつになく真剣だった。
ボクは首をひねった。この話は、ボクが潜入するということで決まっていたはずだったからだ。
「なにゆえ、今さら、かようなことを申すのじゃ?」ボクは、言葉を返した。
「森高殿のことは、それがしが調べ致しました。兄者に伝えきれておらぬこともあるやもしれませぬ。それがしが参ったほうが、調べをしやすいものと存じますが」
ボクは、思考を巡らせた。松井の言うことにも一理あった。
勝又御子(かつまたみこ)神社で捜査をしてきたのは松井である。どのようなことが明らかになったのかという情報に関しては二人の間で共有しているが、細かい部分に関しては彼が伝えきれていないことがあるという可能性も否定できない。間接的に話を聞いたボクよりも直接話を聞いた松井のほうが、捜査の確実性が増すことは間違いない。
(だけど……)ボクは、初志を貫こうと思った。大和の国での捜査は、今回家康から命じられたミッションを果たす上でのキーになりそうな気がしていたからだ。
史実でも明らかなように、筒井順慶と明智光秀は密接な関係にあった。言い方を変えれば、順慶は光秀に対して影響力があったということだ。順慶の言うことであれば、光秀も聞く耳を持ったに違いない。
そんな順慶と秀吉との間に以前から関係があったとなると、本能寺の変における秀吉陰謀説も現実味を帯びてくる。さらに言えば、秀吉と順慶との間に関係があったのではないかという発想は、今までのボクの中にもないことであった。
捜査の指揮を任された者としての使命感に加えて現代人であるボクとしての興味も重なり、大和の国での潜入捜査は自分自身で行うべきだという決意を新たにした。
「たしかに、お主の申すことにも一理ある。なれど、以前にも申した通り、調べの指揮を任された者の使命として、こたびのことは拙者自らが担おうと決意しておる」
「なれど、社寺の者どもから直接話を聞き申したそれがしのほうが、こたびの調べに相応しいのではござりませぬか?」
松井が食い下がってきた。強い視線を向けてくる。
「なぜ、それほどまでにこだわるのじゃ? お主が勝又御子神社より戻ってまいった日の夜にこたびの話をしておったときには、かようなことは申してはおらなんだが」
「あれより考えたのですが、ひとたび手を付けた調べを最後までやり遂げたいとの思いが、日に日に強くなりました。加えて、それがしのほうが、大和の国の地理に明るいと思いますゆえ」
「なにゆえ、お主が大和の国の地理に明るいのじゃ?」
「旅に出たことがございますゆえ」
「いつのことじゃ?」
「徳川家に仕える以前のことでございまする」
松井が、大和の国へ旅をしたという話は初耳だった。彼は、家康に仕える前は、実家の農業に精を出していたはずだ。農作業の合間に旅をしたとでもいうのであろうか。
「お主の思いもわかり申したが、大和の国へは拙者が参る。お主は、引き続いて、尾張の国での調べを進めてくれぬか?」
「なれど」
「ここで言い争いをしても始まらぬ。かようにしてはくれぬか」
松井が、割り切れないような表情を浮かべた。口元を噛みしめながら、何度か首を振る。
「わかり申しました。それがしは、尾張の国での調べを続けまする」
「よろしく頼み申す」
そのように言葉を返したボクだったが、今回の松井の態度に対して釈然としない思いが残った。
半開きにした小窓から涼風が家の中へ吹き込むのを肌で感じたボクは、目を覚ました。外は白々としていた。夜が明ける頃なのだろう。
旧暦の七月も、今日で終わりだった。現代の暦でいえば、お盆を過ぎたあたりだ。
ということは、今は寅の刻から卯の刻へと変わるころであろうか。お盆を過ぎた頃の日の出の時刻が午前五時ごろであるということを頭に思い浮かべたボクは、そのように今の時刻を推測した。
タイムスリップをしてから一カ月半が経ち、ようやくこの時代の生活にも慣れてきた。
始めのころは鍵のない家で寝るのが怖くて熟睡できなかったが、今は平気になっていた。暑さをしのぐために、小窓を開けて寝ていた。
時計のない生活にも付いて行けるようになっていた。もともと十二支で表す時刻のことは知っており、季節ごとの日の出や日の入りの大よその時刻も頭に入っていたため、この時代を生きる人間との時刻に関する言葉のやり取りにも対応することができた。
現世を生きるボクにとって物のないこの時代の生活は著しく不便であったが、人と人とのつながりは、この時代のほうが強固であると感じていた。決して干渉しあうことはないのだが、お互いのことを思いやる気持ちが強い。
ボクは、この時代の人間たちと触れあいながら、長らく忘れていた大切なモノを思い出したような気がしていた。
目を覚ましたボクは、体を起こした。もう少ししたら、お玉が朝食を作りに来てくれる。
彼女は、毎朝夜が明けてから一時間ほど過ぎた頃に朝食を作りに来てくれていた。現世では外が明るい暗いに関係なく毎朝同じ時刻に起床する生活を送っているが、この時代では夜明けとともに起きるのが習慣だった。
体を起こしたボクは、壁にもたれながら腕を組んだ。顔を上に向け、大きく息を吐く。
この家とも、しばらくの間はお別れになる。明日から、家康に命じられた秀吉に関する捜査を行うために、他国へ旅をしなければならなくなるからだ。
ボクは、本多忠勝から、松井と二人で本能寺の変に関して秀吉の関与が疑われる証拠を見つけるための捜査を行うようにという指示を受けた。秀吉の出身地である尾張の国と居城の長浜城がある近江の国を重点的に調べた上で、必要に応じて秀吉や光秀にゆかりのある地に捜査範囲を広げていくようにと言われた。
家康からの命を受けた後、ボクは、松井と二人で作戦を練った。
そして、旅立ちの前日を迎えた。
明日からの行動を整理していたボクの頭の中に、お玉の顔が浮かんできた。
彼女には、明日からしばらくの間旅に出ると伝えてあった。旅の目的は伝えていなかったが、彼女の表情からは、ボクに重要な任務が与えられたことを悟っていることが読み取れた。
お玉の表情を思い浮かべたボクは、切ない気持ちに包まれた。いつ現世に戻れるのかがわからずに不安に苛まれていたボクの心を癒してくれていたのは、他ならぬ彼女の存在だったからだ。毎朝、毎晩彼女が用意してくれる食事を食べ、食後にお茶を飲みながら彼女と話をすることが、今のボクにとって一番気持ちの安らぐ時間であった。
お玉の用意してくれた朝食を食べ終えたボクは、彼女と向き合い、お茶をすすった。いつ口にしても美味しいと感じられる味だ。目の前のお玉に「いつ飲んでも美味いお茶であるな」と言葉をかけた。
そんなボクに向かって、お玉が「いよいよ、明日でございますね」と寂しそうに呟いた。
「なに。長旅ではござらぬよ」ボクは、胸の中の思いを口にした。家康からは、努めて早く証拠を見つけるようにと厳命されており、その言葉を肝に銘じていたからだ。
「いずこまで旅をなされるのですか?」
「近隣の国を巡ってくる」
ボクは、言葉を濁した。正確な旅先を告げるわけにはいかなかったからだ。
「危険な旅なのでございますか?」お玉が、心配そうな表情を浮かべる。
「案ずることはない。殿からのお申しつけで、近隣諸国の視察をしてくるだけのことじゃ」ボクは、お玉を安心させるような言葉を口にした。
「さようでございますか……」
「しかし、しばしの間、そなたがこしらえてくれる料理を口にできなくなるのは辛いことじゃ」
「それだけにございますか?」
「むろん、そなたと過ごす時間が無くなることが、一番辛いことじゃ」
お玉の女心を悟ったボクは、本音を口にした。
「私も、佐平次さまと過ごす時間が無くなることは、辛ろうございます」
「いっときのことじゃ」
ボクは、そっとお玉の肩に手を置いた。
「長くなるのでしたら、文をください」お玉が、哀願するような表情を浮かべた。
「しかと心得た」ボクは頷いた。お玉の佐平次のことを想う気持ちが胸の奥まで伝わってきた。
2.
京の三条大橋へと続く東海道の道中に、肩を並べて歩く旅浪人姿のボクと松井の姿があった。この道は尾張の国や近江の国へと続いている。
路面に、八月の太陽がさんさんと照りつけていた。
道を歩きながら、ボクは、そっと懐に手を入れた。着物の生地と銭入れとの間に挟まれた小袋に指が触れる。それは、お玉から貰ったお守りだった。
朝、旅立つボクに、お玉が「お気をつけて」という言葉とともに、白い布袋を結った安全祈願のお守りを渡してくれた。
袋の中には、何かが入っていた。お玉は中身がなんであるのかを言わなかったが、彼女と別れた後に松井から冷やかされた言葉で、中身がなんであるかの想像がついた。
お玉は、心の底からボクのことを心配してくれていた。
彼女に対しては単なる近隣諸国の視察であるというように説明したが、ボクの内心は緊張で一杯だった。今や最大の権力者であると言っても過言ではない秀吉の勢力の及ぶ国へ乗り込むからだ。国中に秀吉の目が光っていることを覚悟しなければならない。そのような場所で秀吉にとって不利になるような情報を集めなければならないのだ。それはすなわち、死を覚悟した捜査であった。
(佐平次が戦場に赴くときに、お玉は、毎回お守りを渡したのだろうか?)ボクは、そのようなことを考えながら、東海道を西へと向かった。
国境を越え、三河の国に入った。
家を発ってから四時間以上は経過しているはずだ。このペースでいけば、夕方には吉田宿に到着する。
ボクは全身に疲れを感じていた。現世では、このようにひたすら歩くことなどない。夏場は特にだ。
何よりつらいのは、松井の歩く速度が速いことだった。松井だけではない。道行く人々はみな速い速度で歩いている。ボクは、ついて行くのに必死だった。
「少し休まぬか」視線の先に茶屋があるのを見つけたボクは、松井に声をかけた。
二人で茶屋に入ったボクは、木の長椅子に座り、温いお茶をすすった。
茶屋の中は、藁葺き(わらぶき)屋根で直射日光が遮られ、風も通り、快適だった。額の汗が、急速に引いていく。
「今宵は、吉田宿あたりで夜を明かすことになりそうじゃな」ボクは口を開いた。急げばもう少し先まで行けるのだろうが、先々のことを考えたボクは、無理をせずに吉田宿で一泊するつもりでいた。
「兄者、そのことなのですが、それがしの故郷(ふるさと)に寄っていきませぬか?」
「お主の故郷?」
「道を少々外れはしますが、さほど遠くはありませぬ。兄者も、己の故郷を見たくはありませぬか?」
「拙者の故郷?」
「隣の郷ではありませぬか。それがしの故郷が八名郡多木郷、兄者の故郷が八名郡美和郷、いずれもここからですと一歩きした先にありまする」
「さようであったな」
ボクは、話を合わせた。
佐平次の出身に関しては、なぜだか今まで一度も耳にしたことがなかった。今の松井の言葉で、初めて二人ともが三河の国の出身だったのだということを知った。
しかし、八名郡の多木郷や美和郷などと言われても、どのあたりの地名のことなのかがわからない。ましてや、徳川家に仕官する前の佐平次がどのような暮らしぶりをしていたのかもわからなかった。
(困ったことになったぞ)ボクは、内心焦った。
しかし、次の松井の一言でボクは救われた。
「されば、兄者は、幼少時に御両親様を亡くされたのでございましたね。その後、五年前に徳川家に仕官するまでの間、お一人で苦労なされながら過ごしておられたのでしたね」
「いかにも」
「兄者のお気持ちを考えずに軽々しく己の故郷を見たくはありませぬかなどと口に致して申し訳ございませぬ。それがしは、今も故郷に父上と母上、弟と妹が暮らしておりまする。たいしたもてなしはできぬのでしょうが、今宵は、それがしの生まれ育った家で過ごしませぬか?」
松井の実家で一泊しようという誘いだった。
ボクは、誘いに乗ることにした。彼の両親は農業を営んでいるということであり、この時代の農民の暮らしというものを見てみたいという気持ちもあったからだ。
加えて、佐平次のことを知りたいという気持ちも湧いていた。隣町であり、直接的な交流はなかったのかもしれないが、もしかしたら松井の両親が仕官前の佐平次のことを知っている可能性がある。
ボクは、懐かしそうに故郷のことを語る松井の話に、黙って耳を傾けた。
松井の実家は、藁葺き屋根に土壁の立派な家だった。入り口には馬小屋もある。米を収穫した後に麦と大豆を育てる二毛作を行っているということであった。
「せがれが大変お世話になっておりますようで、礼を申し上げまする」松井と一緒に現れたボクに向かって、父親が頭を下げた。その姿を見た母親と弟、妹も頭を下げてくる。
松井は、家族に対して、ボクのことを常日頃から目をかけてくれている先輩武士だというような言い方で説明をした。日頃の松井の態度から見ても、実際に佐平次は松井のことを可愛がっていたのだろうなとボクも感じていた。
ボクは、松井の家族からもてなしを受けた。用意された蒸し風呂で汗を流す。
蒸し風呂の後は、豪華な夕食が待っていた。野菜中心の料理だったが、品数が多い。酒も用意されていた。
食事の席で、松井が、足軽としての暮らしぶりを家族に語った。両親や弟、妹が松井の話に聞き入る。両親は満足げな表情を浮かべていた。武士という身分になったせがれのことが誇らしいのだろう。
やがて、話題が松井の少年時代のころの話に移り変わった。
「吉原様にとっても、美和のことは良き思い出なのでしょうなあ」父親が、ボクに問いかけてきた。
ボクは、父親から佐平次のことを聞きだすことにした。古くからこの地に住んでおり美和の郷へも行き来したことがあるという父親なら、昔の佐平次のことを知っている可能性がある。
タイムスリップをしてから一カ月半以上が経っていたが、いまだに佐平次に関しては曖昧な部分が多かった。
「それがしは、早くに親を失い、その後は苦労の連続でしたゆえ、正直申しまして美和には良き思い出が少ないのでございます」
「そうでございましたなあ。吉原様の生い立ちは、せがれから聞かされておりました」父親が、辛い過去を思い出させたことを詫びるような表情を浮かべた。
「御父上様は、美和時代のそれがしのことをご存知なのでしょうか?」
「申し訳ございませぬが、吉原様のことは存じ上げてはおりませんでした。しかし、なにゆえ存じ上げないのであろうか? 美和は、さして広い村でもありませぬのに……」父親が首を傾げた。
「あなた様は物覚えの悪いお方ですから、覚えておられぬだけなのではありませぬか?」
「そなたの申す通りかもしれぬ。それがしが覚えておらぬだけなのでありましょう。ご無礼をお許し下され」
母親から指摘された父親が、ボクに向かって頭を下げた。
「お顔をお上げください。きっと子一人でひっそりと暮らしていたそれがしのことなど、村人たちの話題にも上らなかったのでございましょう」ボクは、そのようにとりなした。
笑顔で口にしたのだが、ボクは自分の発言に不自然さを感じていた。子一人で暮らしていたのであれば、かえって人々の話題に上ったはずだった。人々が情に厚いこの時代であれば、親を失った子がいるのであれば、村人たちが率先して面倒を見たであろう。そのような話は、隣町にも聞こえていたはずだ。
ボクの中で、松井から聞かされた佐平次の生い立ちに対する疑問が芽生えていた。
3.
翌朝、松井の家族に別れを告げたボクは、松井とともに東海道を一路西へ向かった。
今日の目的地は、藤川宿だった。そして明日は、いよいよ尾張の国へ入ることになる。その後しばらくの間は、尾張の国最大の宿場町である宮宿に腰を据えて活動を行うつもりでいた。
ボクは、歩く速度を速めた。藤川宿までは十里ほどの距離があり、のんびり歩いていると日が暮れてしまう。
途中、松井の母親が持たせてくれた握り飯を食べるために休憩した以外は休むことなく歩き続けた。おかげで、藤川宿へは日が暮れる前に到着した。
藤川宿へ到着したボクたちは、宿を確保した。現在でいうところの旅館だ。一泊分の宿賃と今晩の夕食、明日朝の朝食の代金を支払った後に、部屋に案内される。
部屋は、畳敷きの八畳ほどの広さだった。入り口に鍵はない。
一息ついたボクたちは、宿の食事処へ向かった。出された夕食を食べ、部屋に戻る。
ボクは、気持ちが落ち着かなかった。本格的な活動を始めるのは明後日からになるが、ボクは、あることを心配していた。三河の国と尾張の国との国境に関所が設けられていないかということだった。
清州会議のときに話しあわれた信長領の分配結果により、尾張の国は信長の次男の織田信雄(のぶかつ)が相続したが、すでに尾張国内に秀吉の力が及んでいる可能性が高かったからだ。現に、後の賤ヶ岳の戦いで、秀吉は信雄を擁立し、三男の信孝を擁立した柴田勝家と戦っているのだ。
ボクは、松井に目をやった。彼の表情からも、落ち着かない様子がうかがえる。
「兄者。宿の者に酒を用意致すよう、申し付けてまいります」松井が腰を上げた。
しばらくして、宿の人間が、酒と摘まみの味噌を運んできた。ボクと松井は、それぞれ手酌で酒を注いだ。
「いよいよ、明日は尾張でございまするな」お猪口の酒を一息で飲み干した松井が、顔の表情を引き締めた。
「そうじゃな」
「尾張の国の様子は、いかがなものでありましょうか?」
「信長様がお亡くなりになって、領民たちも動揺していることであろう。さすれば、羽柴殿の力が及んでいることも考えねばなるまい」
ボクは、国境に関所が設けられている可能性があることを口にした。尾張の国は秀吉の出身地であることから、そのような懸念があったのだ。
「関所が設けられていた場合は、いかが申し立てるおつもりでありましょうか?」
「我らは北条家を出奔した浪人なのだということにして、見識を拡げるために諸国を練り歩いておるのだと申し立てるつもりじゃ」
「怪しまれぬでしょうか?」
「我らが徳川方の間者であるという証拠はどこにもない。案ずることはない。堂々としておればよいのじゃ」
ボクの言葉に、松井が頷いた。再び酒を口にする。
しかし、彼の表情が和らぐことはなかった。不安をぬぐえずにいるのだろう。
しばらくして、松井が口を開いた。
「兄者は、今でも信長様が討たれたことに羽柴殿が関係しているとお考えなのでありましょうか?」
「疑ってはおる」
「さようであるとしたならば、大変由々しきことでござりまするな」
「今は戦国の世。下剋上がまかり通っておる時代じゃ。どなたかが天下を手中に収めるまでは、さようなことが続くのであろう」
「徳川家にも、さようなことが起こり得るのでありましょうか?」
「なんとも申せぬが、起こったとしても不思議ではあるまい」
「もし、我が殿が反旗を翻したとしたならば、兄者は、いかが致すおつもりなのでしょうか?」
「滅多なことを申すではない。我が殿に限って、そのようなことはござらぬ」
「断言することができましょうや?」
そう問われたボクは、小さく頷いた。
歴史を研究したボクは、三河武士と呼ばれる徳川家臣団の中核メンバーたちの結束力が高いことを知っていた。中でも旗本先手役を担っている井伊直政、榊原康政、本多忠勝の忠誠心は、半端なく高いものがあった。戦国シミュレーションゲームの中でも、他大名による彼ら三将の引き抜きは、まずもってできないような設定になっている。
「お主は、我が殿が反旗を翻したとしたならば、いかがいたすつもりじゃ?」ボクは、逆に問いかけた。
松井が、考える表情を浮かべる。しばしの後、口を開いた。
「それがしは……、武士を捨てて、生家に戻るやもしれませぬ」
「もったいなくはあるまいか? お主の御両親様も、お主が武士として奉公していることを誇りに思うておるようであったが」
「それがしも、誇りには思うておりまする。なれど、お仕えする先は、生涯一つでありたいとも思うておりまする。それがしは、大殿にお仕え致す武士でありますゆえ」
「そうであったな。お主は、大殿に感謝しておるのであったな」
松井は、三年前に、鷹狩の帰り道に生家のある村に立ち寄った家康に仕官を申し出て、武士として取り立ててもらっていた。農業一筋で武芸も身に着けていなかった若者のことを、家康は快く迎い入れてくれたということだ。
「兄者は、五年前に、殿に申し出て徳川家の一員となられたのでありましたな。それまでの間は、いかような暮らしをなされていたのでありましょうか?」突然、松井が、徳川家に仕官する前の佐平次のことを聞いてきた。
その言葉を耳にしたボクの頭の中で、再び疑問が芽生えた。
佐平次は、徳川家に仕官するまでの間、どのようにして生きていたのだろう。
五年前といえば、佐平次は二十五歳だ。二十五歳になるまでの間、小さな村の片隅でその日暮らしを続けていたとでもいうのだろうか。
そのことに、不自然さを覚えた。
両親を失ったのであれば、一刻も早く身分を確立しようと考えるのが通常の感覚だ。妻子がいたのであればその地に腰を落ち着けて農民として精を出していたということも考えられるのだが、佐平次は独身だ。一人わびしく農地を耕していたというイメージは湧いてこない。早々に城下に出て、武士か商人として身を立てようとするのではないのだろうか。
ボクは、二十五歳になるまでの空白の期間のことを想像した。
もしかしたら、徳川家以外の大名に仕えていた時期があったのかもしれない。そうであった場合、生まれ育った三河の国を飛び出して他国の大名に仕え、その後徳川家家臣の本多忠勝に仕官を申し出たということになるのだろう。五年前といえば、徳川家は武田勝頼と戦っていたころだ。他国の大名とは、武田家のことなのだろうか。
想像を膨らましていたボクは、松井の視線を感じた。松井が、ボクの答えを待っている。
「気ままにその日暮らしをしておったのよ。諸国を巡り歩いていたころもあった……」ボクは、無難な言葉を口にした。
4.
藤川宿を発ち、東海道三十九番目の宿場である池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)に着いたボクは、緊張に見舞われた。次の宿場は鳴海宿だ。つまり、これから先、三河の国と尾張の国との国境を通過するのだ。
横を歩いている松井の顔も緊張に包まれていた。
途中で休憩した茶屋の人間に聞いた限りでは国境に関所は設けられていないということだったが、安心はできなかった。世の中の情勢は刻一刻と変化しており、いきなり関所が設けられたとしても不思議ではなかったからだ。
やがて、国境に到達した。前方に目を凝らしたが、関所らしきものは見えてこない。
そのまま道を進んだが、何ごとも起こらなかった。道ですれ違う人々の表情にも、特に変わったところはない。平和でのどかな光景が広がっていた。
胸を撫で下ろしたボクたちは、目的地である宮宿へ向かって歩みを速めた。
宮宿へは夕方に到着した。東海道最大の宿場町だと言われるだけあって、たくさんの宿が軒を連ねている。立派な構えの大宿もあれば、庶民の家に毛が生えたような小宿もあった。
その中で、ボクたちは目立たない小宿に投宿した。
小宿を選んだ理由は、監視の目を意識してのことだ。
この時代は尾張の国の領主織田信雄と秀吉との仲が良好であり、さらには秀吉の出身地でもあることより、国中に秀吉の監視の目が及んでいるものと考えて行動する必要があった。大宿は、大勢の人間が出入りする分、監視の目も強くなるはずだ。
宿に入り、早めの夕食を済ませたボクたちは、明日からの活動について確認を行った。声が外に漏れないように小声で話をする。
活動を行うにあたって、ボクたちは偽名を用意していた。ボクは山根弥助、松井は小野作之助であった。ともに北条家を出奔した浪人であり、次の士官先を探すために全国を旅しているという設定である。
人が集まるところへ足を運び、尾張国内の情勢や他国の状況に関する情報を収集しているように見せかけて、その場にいる人たちからさりげなく秀吉に関する情報を聞き出すというやり方を考えていた。
「話の糸口は、いかような内容にすればよいのでありましょうか?」松井が、不安げな表情を浮かべた。
「内容など、いかようなものであってもよい」
「なれど、世俗話をするのが目的ではありませぬ。羽柴殿に関する情報を集めることがまことの目的でありますゆえ」
「相手がお主からの話に乗ってくるような物言いをすればよいのじゃ」
「どのような物言いがよいのでありましょうか?」
「東国ではかような噂が広まっておると口にするのでもよい。あるいは、これからいかような世になるのかと問いかけてみるのでもよい。信長様が討たれたということは、すでに庶民の間にも知れ渡っておる。どの者たちも、他国の情勢やこれからの世のことは気になることであろう。さようなことを口にしても、不審に思う者などおらぬはずじゃ」
「いかにも。して、それがしと兄者は連れだって動くので?」
「そのことよのう。見知らぬ地であるがゆえ連れだって動きたくもあるのじゃが、時間も惜しい。手分けして動き、いずれかが良き情報に巡りおうた場合は協力して深く掘り下げてみてはどうかと考えておる」
「それがしも、兄者の考えに賛成致しまする。ちなみに、こたびの宿を拠点にした調べは、どの程度の範囲まで行いまするか?」
「せいぜい、宿から五里の範囲内であろうの」
五里を現在の距離に直すと二十キロメートルほどだ。早歩きをした場合の速度が時速五キロメートルほどであり、捜査の効率を考えた場合、五里が限度であった。
「いかように手分け致しまするか?」
「拙者は、宿の東方と南方を調べ致す。お主には、西方と北方を調べてもらいたい」
「わかり申した。ちなみに、信長様が討たれたときのことやその後のことについては、どの程度のことまで口にしてもよいのでありましょうか?」
松井からの質問に、ボクは思考を巡らせた。
捜査を行うにあたって、ボクと松井は、本多忠勝を通じて、本能寺の変やその後のことに関する情報を入手していた。現代人が歴史を勉強することで知り得ることとほぼ同じ程度の内容である。
しかし、一介の旅浪人があまりにも詳し過ぎる内容を語っていては、相手に不自然に思われるかもしれない。反面、上辺だけの話をしてしまうと相手も乗ってこないだろうし、そうなると有益な情報を引き出すこともできない。
相反する状況に、ボクは頭を悩ませた。そして、一つの結論へ行きついた。
「殿からお教え仕ったことを、ありのまま口に致せばよいのではあるまいか」
「東国の旅浪人が、そこまでのことを口にしてもよろしいのでしょうか?」
「我らは、北条家を出奔し、西へと旅をしている浪人じゃ。北条家の領国と尾張の国との間には、我が徳川家の領国がござる。徳川家の領内を巡っているときに知ったこととして口に致せば差支えないのではあるまいか?」
「さようなことであれば、話もしやすくなるというものでありまするな」
松井も、相手からそれなりのことを聞き出すためには、こちらもそれなりのことを口にする必要があると思っていたようだ。
作り話を口にすることもできるが、それでは相手の興味を引くような深い話をすることに限度が生じてしまう。話のつじつまが合わなくなってくるからだ。真実の話であれば、そのような心配をする必要もない。
「この界隈での調べに、いかほどの時間を費やされるおつもりでありましょうか?」
松井から、宮宿を拠点にした捜査を行う期間を問われたボクは、思考を巡らせた。
捜査期間の制限は設けられていなかったが、正月はお玉と一緒に過ごしたいと思っていた。そのためには、正月がやって来るまでの間に尾張の国と近江の国の捜査を終えてしまわなければならない。正月までは五カ月ほどだ。
ボクは、時間の計算をした。
国と国との移動にかかる時間を二週間ほどは見ておく必要がある。残りの時間で尾張の国と近江の国での捜査を行うことになるのだが、近江の国は尾張の国よりも国土が広いので時間は多めに取っておきたい。
そんなボクの頭の中で、尾張の国での捜査に費やせる時間が二カ月ほどだという計算が立った。もう一つの宿場町である鳴海宿の近辺とそれ以外のエリアに費やす時間を考えると、宮宿における捜査は二週間が限度だと判断した。
ボクは、その考えを松井に伝えた。
5.
捜査の初日、朝食後に宿を出て松井と別れたボクは、宿場町の中を練り歩いた。
町は活気に満ちあふれていた。随所に、旅人目当ての店が立ち並んでいる。見世物小屋もあった。
その中から、ボクは茶屋と酒場を探した。他人に対して自然に話しかけることができ、加えて腰を据えて話すこともできる場所だったからだ。そこで、時間に余裕のありそうな、さらには世の中のことも知っていそうな客を見つけて話しかけるつもりでいた。捜査に使える時間は限られており、効率的に行動しなければならない。
最初に見つけた茶屋には話しかけたくなるような客はいなかった。二人連れの客がいたが、若い女と小さな女の子だった。旅人のようであり、先を急いでいるようにも見える。
次に見つけた酒場は大勢の客で賑わっていたが、客たちは全員が知り合い同士のようであり、自然に話しかけられる雰囲気ではなかった。
その次に見つけた茶屋で、ボクは話しかけるべき相手と出会った。
一人の男が長椅子に腰を下ろし、のんびりと茶を啜っていた。茶に添えられた菓子には手を付けてない。男の脇には、麻の袋が置かれていた。
茶と菓子を注文したボクは、さりげなく男の横に腰を下ろした。ひと口茶を啜り、「まことに美味い茶でございまするな」と男に声をかけた。
男が顔を向けた。三十代半ばくらいに見える顔だった。ボクの身体を一瞥する。視線が、脇に差した刀に止まった。男は帯刀していない。
「西尾の茶葉を使っておりますゆえ、味に深みがございまする」男が、日に焼けた顔から白い歯を覗かせた。
西尾は、三河の国にある。西尾茶は、現世でもブランド茶として有名だ。
「宮宿へは二日に一度参っておるのですが、参るたびにこの茶を楽しんでおりまする」男が、この店の常連であることを口にした。
「なんぞ、商いでもされておられるのでしょうか?」ボクは、男の身分を訊ねた。
「御師(おし)でございます」
御師とは、特定の社寺に属して、その社寺に参詣者を導き祈祷や宿泊などを取り計らう者のことだ。この時代の人間は信仰心があつく、社寺への参詣を目的とした旅も日常的だった。男の脇に置かれた麻袋の中には、お札が詰まっていた。
「いずこからまいられたのですか?」
「春日井郡にある勝又御子(かつまたみこ)神社という社寺よりまいっておりまする」
春日井郡は、宮宿の北方にあった。その方面は、松井の担当だ。
「この国のお生まれなのでしょうか?」
「はい。愛智郡の出であります。もとは熱田神宮に近い社寺で父親とともに御師をしておりましたが、七年前に妻をめとったのを機に、春日井郡に移り住んでございます」
「尾張の国とは、良きお国のようでありまするな」
「それはもう。温暖でもあり人の集まる地でありますゆえ、作物を耕すのにも商いを行うのにも適した土地柄でありまする。お侍さんは、どちらのご出身で?」
「それがしは、相模の国の出身です。北条家に仕えておりましたが、わけあって、今は全国を旅する身となりました」
「それは、それは……。それがしは旅などしたことがござらぬゆえ、他国のことをまったくと言ってよいほど知りませぬ。なんぞ面白い話などございましたら、お聞かせいただけませぬか」
「さて、どのような話をお聞かせすればよろしいのか……。あなた様は、織田信長様が京で討たれたことはご存じであられまするか?」
「噂は耳に致しておりまする。なんでも、明智光秀殿が謀反を起こされたとか?」
「いかにも。して、その後のことは、存じておられまするか?」
「秀吉様がかたき討ちを成されたのだと聞いておりまするが、まことの話なのでありましょうか?」
「まことの話でございます。秀吉殿が、京の山崎という地にて、光秀殿を討ち果たしました」
ボクは、男に、毛利との和睦や山崎の戦いについてのあらましを語った。
「秀吉様は、人知に優れた武将にござりますれば……」男が、誇らしげな表情を浮かべる。尾張の国の出身であり、秀吉の出世を誇りに思っているのだろう。
そうであれば、秀吉のことを持ち上げれば、男の口が一層滑らかになるのかもしれない。ボクは、秀吉のことをほめる言葉を口にした。
「秀吉殿の御高名は東国にも伝わっております。たしか、農家の出であられたということで。それが、今や一国の主でござる。秀吉殿が人知に優れたお方であられるということの証でございまするな」
「ありがたきお言葉にございます。秀吉様は、郷土の誇りにござりますれば」
男が、嬉しげに言葉を返した。
ボクは、男にどのような質問をするべきか、素早く頭の中で整理した。
男は、明らかに秀吉のことを敬っている。秀吉について知っていることをしゃべってみたいという気持ちはあるだろう。異国の人間であるボクに対して、秀吉の優れている部分を口にしたいはずだ。
ボクが知りたいのは、最近の秀吉が取った行動だ。特に、どのような人物と交流があったのかということを知りたかった。尾張の国は彼の出身地であり、この地で何らかの動きを見せていたとしてもおかしくはない。
そう思ったボクは、男の職業が御師であることを思い返した。案内をした参詣客の中に秀吉と関係の深い人物がいた可能性もある。
ボクは、探りを入れた。
「秀吉殿は、大変信仰心の厚きお方であると伺っておりまするが」
「仰せの通りでございます。秀吉様は、武将となられましてからも信仰の心を忘れてはおられませぬ」
「あなた様の社寺に参られたこともあったのでしょうか?」
「秀吉様ご本人が参られるようなことはありませぬが、御家臣の方が参られたことはございます」
「どなたが参られたのでしょうか?」
「片桐且元(かつもと)殿が参られました」
「それは、いつごろのことでありまするか?」
「たしか、半年ほど前のことであったと記憶しておりまする」
半年前という言葉がボクの頭の中で引っかかった。半年前と言えば中国攻めの最中だ。そして、片桐且元も中国攻めに従軍していたはずだ。それが、なぜ尾張の国内で社寺詣でなどしていたのだろう。
「片桐殿は、大人数で参られたのでしょうか?」
「大人数ではございませぬ。何名かの伴周りの方をお連れしただけにございまする」
「何事かの所要の最中に立ち寄られたのでありましょうか?」
「それがしには、目的はわかりませぬ」
「どなたかにお会いになるために寄られたのやもしれませぬな。武家の世界では、社寺を詣でるついでに交渉事を行うこともありますれば。片桐殿が参られたのと同じ日に立ち寄られた武将殿は、どなたかおられませんでしたか?」
武家の世界で社寺を詣でるついでに交渉事を行うことがあるなどというのは、ボクの作り話だった。男は御師の仕事しかしたことがないということであり、話を引き出すための布石として口にした言葉である。
もくろみ通り、男は、疑うことなく言葉を返してきた。
「お一方居られたような気も致します」
「どちらのお方でしたか?」
「大和の国からまいられたというように聞いた覚えがありますれば……」
男が、自信なさげに答えた。
ボクは、大和という言葉に反応した。
大和の国と言えば筒井順慶の領国だ。そして、筒井順慶は、明智光秀が最も信頼を寄せていた人物である。
史実でも、本能寺の変の後、光秀は順慶に対して行動を伴にするように呼びかけている。その順慶が治める国からやってきたと思われる武将が片桐且元と同じ日に同じ社寺に投宿した可能性があるということだ。
ボクは、さらに質問を重ねた。
しかし、男の記憶は曖昧だった。二人が一緒に居たところを見た記憶はないという。
片桐且元が筒井順慶の家臣と思われる武将と接触したという証拠を入手することはできなかった。
6.
日が落ちるのと同時にその日の捜査を終えたボクは、宿へ戻った。捜査を続けようと思えば続けられたのだが、松井とその日の捜査結果を確認しあい明日の行動を決める時間も必要だったからだ。
朝から歩きまわり、体も疲れていた。
ボクが宿に戻ったとき、すでに松井は部屋の中にいた。
「ご苦労であった」ボクは、松井のことを労った。彼の顔にも、疲れがにじんでいる。
「かような調べを致すのは初めの経験ですゆえ、ちと疲れました」松井の口から、疲れたという言葉が飛び出した。
二人の腹の虫が鳴った。
ボクは、宿に夕飯の支度をお願いした。間がなく、宿の人間が夕飯の準備が整ったことを伝えに来た。
食事処に移動し料理の盛られた膳の前で胡坐をかいたボクたちは、黙々と料理を口に運んだ。
食事を終え部屋に戻ったボクたちは、今日の成果を報告しあうことにした。松井が、報告の先陣を切る。
松井も、ボクと同じように茶屋や酒場にいる客を相手に聞き込みを行ったということだ。目ぼしい成果を得ることはできなかったものの、織田信長が討たれたということは誰もが知っており、本能寺の変やその後のことに関する話についても誰もが興味を示したということを口にした。
ボクは、聞き込み相手から情報を引き出す上で、この話をネタとして使うことに間違いがないことを確信した。
「今日一日で、いかほどの店を回ることができたのじゃ?」報告を受けたボクは、松井の行動量を問うた。
「茶屋が三軒と酒場が二軒です」
(たったそれだけ?)ボクは、彼の答えに首をひねった。
現在投宿している宿は、宮宿のほぼ中央に位置している。宮宿は東海道一の宿場町と言われる通り、東西南北に町が広がっている。
今日は捜査の初日であり、近場から捜査を始めるのであれば捜査地までの移動時間はかからないため、朝からの時間をフルに使えたはずだ。それにしては、茶屋と酒場を合わせて五軒とは少なくはないだろうか。
松井は、ボクが戻る少し前に宿に戻ってきたということであり、そうなると捜査に十時間弱の時間が使えたはずだ。単純計算で、一軒当たり二時間近くも時間を費やしたことになる。
時間に余裕のありそうな客をつかまえて徹底的に話をしたのだとしても、この時代を生きる人間にとっては日が明るいときの時間は貴重であり、延々と話しこまれたら嫌がられるはずだ。
そもそも、一見の客が何時間も店に居座ると不審がられるのではないだろうか。実際に捜査をしてみて感じたことでもある。
「いかがなされましたか?」黙り込んだボクの顔を覗き込むように、松井が話しかけてきた。
「すまぬ。ちと、考え事をしておった」ボクは、視線を戻した。
根が真面目な松井のことだ。少しでも多くの情報を引き出そうとして、話しかけた相手と深く話し込んだのだろう。ボクは、そのように解釈した。
「兄者のほうは、いかがでしたので?」松井が、ボクの成果を聞いてきた。
ボクも、成果と呼べるものは、半年前に片桐且元が尾張国内の社寺に宿泊したということと、同じ日に大和の国から来た武将と思われる人物が宿泊していた可能性があるという情報だけだった。
ボクは、その話を松井に聞かせた。
「片桐殿と言えば、羽柴殿の家臣の中でも、押しも押されもせぬ人物ではござりませぬか」松井が、目を輝かせた。秀吉家臣の一員として、片桐且元の名は徳川領内にも聞こえていた。
「いかにも。さようなお方が、なにゆえこの時期に尾張の国にある社寺へまいったのか、気になるところではあるな」
「御意。半年ほど前と申せば、中国攻めの最中でございまする。片桐殿も、羽柴殿に連れ添って戦っておられたはず。いわくありげなことと思えまする」
「お主も、さように思うか?」
「はい」
「ことの詳細を調べねばなるまいな」
「いかにして調べまするか?」
「社寺の者に聞かねばなるまい」
「それがしが、社寺に参りましょうか?」
「すまぬが、そうしてくれぬか」
本当は自分で調べたかったのだが、話を聞いた御師と顔を合わせるのもまずい。今日も深く話を聞きだしており、この上さらに社寺にまで出向いて同じ話を聞いている姿を見られてしまうと、間違いなく怪しまれるだろう。ここは、面の割れていない松井を向かわせるのが無難だ。
「明後日、拙者が話を聞き申した御師に案内を乞うて、社寺に向こうてくれぬか」ボクは、松井に指示を与えた。
御師は、二日に一度の割合で宮宿へ来ているということだ。来るたびに、今日会った茶屋で一服するのだと語っていた。店に立ち寄る時間もいつも同じだということであり、ボクは松井に御師の風貌の特徴を詳しく伝えた。
「片桐殿が泊まられたのと同じ日に泊まった大和の国から来た武将らしき人物がいたのかどうかということと、いた場合は、そのお方のお名前を調べればよろしいので?」
「いた場合は、そのお方と片桐殿とが接触したのかどうかも調べてもらいたい」
「いかような聞き方をするのがよいのか、思案のしどころでございますね」
「いかにも」
ボクは、頭の中で思考を巡らせた。
ストレートな聞き方をすれば怪しまれる。社寺が秀吉に通じていたら、松井が狙われる可能性もある。自分も標的になるかもしれない。そのような事態にならないように自然な聞き方をする必要があった。
ボクは、唇を噛み、軽く唸り声をあげながら考え続けた。
「兄者。こういうのはいかがでしょうか?」
松井が、床を手でたたいた。妙案を思いついたようだ。
ボクは、考えを口にするよう促した。
松井は、次のような考えを口にした。
彼の兄が、旅の道中で片桐且元が宿泊した日と同じ日に社寺に宿泊したのだが、そのときに体調を崩してしまった。先を急ぐ用であったのだが体調がすぐれず窮地に陥っていたところを、当日宿泊していたどこかの国の武将が薬を分け与えてくれた。そのおかげで体も楽になり、用も無事済ませることができた。それ以来、兄はきちんとした礼を言いたいと思い続けていたのだが、行動に移すことなくこの世を去ってしまったので、弟である自分が兄に代わって礼を言いたいと考えている。そのために当日宿泊していた武将がどこの誰であるのかを知りたいという口実で、武将の名前などを聞き出すという考えであった。
「妙案でござるな」ボクは、松井の考えに賛同した。
「ありがたいお言葉にございます」
「その武将と片桐殿とが接触を図ったかどうかの調べを致すにあたって、兄殿から、お二方が知り合いのように思えたと聞いていると口にしてみたらどうじゃ?」
「それがしも、兄者の意見に賛成でござる。さように申せば、まことにお二方が接していたときは、社寺の人間もそのことを口に致すものと考えまする。お二方が接していたことが明らかなこととなった場合は、いかような話し合いがなされていたのかについても探ってみましょう」
「決して、無理を致すではないぞ」
「無理など致しませぬ。料理を給仕する女中などが、何ごとかを耳に致しておるやもしれませぬ。金子を与えれば、口も滑らかになりましょう」
「成しようはお主に任せる。なれど、無理なことは致すな。尾張国内の社寺なのじゃ。もしや、羽柴殿と通じておるやもしれぬ。そのことを考え、慎重に調べを進めてほしいのじゃ」
ボクは、勢い立つ松井に釘を刺した。
7.
捜査開始から三日目の朝、ボクは、松井を御師と出会った茶屋の近くに連れて行った。物陰から、遠目に店の中を伺う。
二日前のときと同じ長椅子に、御師は腰掛けていた。傍らに、茶碗と菓子を乗せた小皿が置かれていた。
「彼の者だ」ボクは、御師を指さした。
「それでは兄者、行ってまいります」松井の顔に気合がこもる。
「重ねて申すが、無理を致すではないぞ」ボクは、再び念押しをした。
松井が頷く。
松井が、茶屋の中に入った。茶と菓子を注文し、さりげなく御師の隣に腰掛ける。
やがて、御師に向かって話しかけた。御師も言葉を返している。
二人の顔から笑みがこぼれる様子を目にしたボクは、その場を離れた。彼なら、上手くやってくれるだろう。
そのことよりも、新たな情報を入手しなければならない。
昨日は、ボクも松井も空振りに終わっていた。捜査は始まったばかりなのだが、二人で二日間歩き回った末に関係がありそうな情報を一つしか入手できなかったことを不安に感じていた。はたしてこのようなペースで、正月が来るまでの間に捜査の区切りをつけ家に帰ることができるのだろうか。
ボクは、胸に芽生えた不安を振り払うために大きく深呼吸をした。不安が薄れ、気合がみなぎってくる。
そんなボクの視線の先に、茶屋らしき小屋が見えてきた。ボクは、小屋に向かって歩く速度を速めた。
日が西に傾き始めた。ボクは、つい先ほどまで聞き込みを行っていた茶屋を後にした。
今回の捜査は、思いのほか大変だった。茶屋や酒場での聞き込みを行うたびに茶や酒を口にしなければならなかったからだ。
特に大変なのが、酒場での聞き込みだった。毎回、酒を口にしなければならない。一合にも満たないほどの茶碗のような容器に注がれた濁り酒をゆっくりと飲みながら話をするのだが、必然的に一日に飲む酒の量が多くなってしまう。
(毎回酒を飲まなくてもいいのかもしれないな)ボクは、酒場での対応を考え直すことにした。
酒場とはいっても、必ずしも酒を注文しなければならないわけではない。水やお茶を飲んでいる客もいる。つい流れで酒を注文してしまっていたが、体のことを考えて、今後は臨機応変に対応することにした。
そんなボクの視線の先に、酒場が見えてきた。店に近づき、中を覗いてみる。
店内は賑わっていた。盛り上がるグループ客の片隅で、何人かの一人客が静かに酒を飲んでいる。
ボクは、酒場に足を踏み入れた。
何人かの一人客の中から、旅人然とした男を選び、近づく。
「今年は、長いこと夏が続いておりまするなあ」ボクは、気さくに話しかけた。
「この地は、特に暑さが厳しゅうござりまする」男が、ボクに顔を向ける。
「旅の人でございまするか?」
「はい。三年前に肥後の国を発ち、各地をゆるゆると巡っておりまする」
「それはまた、たいそうな御身分であられる」
「いやいや、しがない商家の二男坊でございますよ。商人は博識でなければならぬと申す父親から資銭を預かり、あてどなく放浪している身でございますゆえ」
「世の中のことを知らねば、出世はできませぬ。なれど、この三年で世の中は大きく変わり申した」
「いかにも。織田信長様のもと世の中がまとまりだし、そして信長様が討たれ、またしても群雄割拠な世に逆戻りでございまする」
「信長様に代わって、乱世の世をまとめてくれるお方が現れるのでしょうか?」
「どうなのでしょうか」
「それがしは、羽柴様にご期待致しておるのですが」
ボクは、さりげなく触手を伸ばした。男は三年もの間旅をしているということであり、旅先で秀吉に関する話を耳にしている可能性があったからだ。
「なにゆえ、羽柴様に」
「信長様が討たれた後の羽柴様の動きには、目を見張るものがありまするゆえ」
ボクは、中国大返しから山崎の戦までのことについて口にした。男が、興味深げに話に聞き入る。
「さようなことがござったのでありますか」
「それがしの旅の途中で、幾度となく耳に致しました」
ボクは、北条家を出奔し、次の士官先を求めて旅をしている浪人であるということを口にした。
「そなたも、なんぞ羽柴様に関する噂話などを耳にされたことはございませぬか?」
「羽柴様……。羽柴様と言えば、かような話を耳に致したことがございました」
「いかような話でございまするか?」
「去年の今ごろでありましたが、但馬の国を巡っておりましたときに、お侍さんたちが話をしておりますのを耳に致しまして……」
男によると、とある酒場に立ち寄ったときに、中で酒を飲んでいた武士たちが、「これからは秀吉の時代になる」というような話をしていたということだった。
去年の今ごろと言えば、秀吉の弟の羽柴秀長が但馬の国を統治しており、秀吉は隣国の因幡の国を攻めているときだった。言い方を変えれば、信長の領土が拡大の一途をたどっていたときである。
誰もが翌年信長が討たれるなどとは考えてもいないときだったのに、これからは秀吉の時代がやって来るなどという会話をしていたとは引っかかる。
「そのころの但馬の国のご領主様はというと……」
「たしか、羽柴様の弟の秀長様でございました」
知らないふりをして聞いたボクに向かって、男が答えた。
「さすれば、そのお侍さんとは、秀長様ご家臣の方々だったので?」
「さようにございました」
「まさに、そのとおりに世の中が動き出したのでございまするな。されど、彼の方々が、いかなる理由からさように思うておられたのかが気になるところでございます」
「どうなのでありましょう。羽柴様に対する信頼が厚かったからなのでございましょうか」
男の様子からは、秀吉の時代がやって来ると口にした根拠までは耳にしていないようだった。
これ以上の話を聞きだせないと判断したボクは、さりげなく話題を変えた。男が、旅した先のことをいろいろと語ってくる。しかし、ボクの頭の中は、秀長配下の武士たちが秀吉の時代がやって来るという言葉を口にしていたという情報で一杯になっていた。
男の話が真実だとすれば、その当時に、秀吉の周囲で今後の秀吉の躍進を予感させる何らかの動きがあったということが考えられる。羽柴秀長は秀吉の側近中の側近であり、秀長に仕える武士たちの耳にもそのことが伝わっていたのだろう。
秀吉による策略が巡らされていたことを疑わせる状況証拠となり得る話であった。
ボクは、旅商人から入手した情報の内容を頭に焼き付けた。
男が口にする旅の思い出話に対して適当に相槌を打ちながら耳を傾けていたボクは、男の話が一区切りついたのを機に、酒場を後にした。
酒場の外は夕暮れ時を迎えていた。もう一時間も経たないうちに日は完全に暮れるのだろう。
ボクは、一日の捜査活動を終えることにした。
宿に向かって歩きながら、松井のことを思い浮かべた。彼は、上手に話を聞きだせているだろうか。目をつけられてはいないだろうか。尾張の国は秀吉が生まれ育った地でもあり、秀吉の監視の目が張り巡らされている可能性が高い。
そのようなことを考えていたボクは、ふと背後に違和感を覚えた。誰かに見られているような感覚だった。歩く速度を緩め、そっと後ろを振り返ってみる。
見渡す限り、急に立ち止った人間やボクに視線を当てている人間はいなかった。旅人や町人たちで賑わう町の光景が広がっている。
(気のせいかな?)ボクは、視線を戻した。しかし、たしかに違和感を覚えた。
ボクは、浜松城下の酒場で足軽仲間を相手に秀吉陰謀説を口にしたことを家康から指摘されたときのことを思い返した。先ほどまで酒場で旅商人を相手に話をしていたことが、秀吉方の監視の目に留まってしまったのだろうか。
(油断は禁物だな)ボクは、気持ちを引き締めた。
8.
同じころ、浜松城内の広間に、徳川方の主だった武将たちが集まっていた。高座に着いた徳川家康と、下座に居並んだ家臣の武将たちが向き合っている。家康に近い位置には、旗本先手役の井伊直政、本多忠勝、榊原康政、家老職の酒井忠次、石川数正、重臣の大久保忠世らが配していた。
徳川家としての戦略を練るにあたって、家康は、定期的に家臣たちを集めて議論をさせていた。
家康は、全国に間者を放ち、常に世の中の最新の状況を把握していたる。
今日も、家康のもとに集まった全国諸大名の動向に関する情報を基に、今後徳川家がどのように行動していくべきなのかについて意見を戦わせていた。
清州会議で織田領の再配分がなされた後に、巧みに他大名に働きかけながら勢力を拡大しようとしている羽柴秀吉と、それに待ったをかけようとする柴田勝家との対立が激しくなっている。彼らの対立は、信長の二男信雄(のぶかつ)と三男信孝との対立をも巻き込んでいた。
秀吉と勝家は、互いに駆け引きを繰り返している状況だった。信長の旧臣たちも、秀吉の味方をする者と勝家の味方をする者とで二分されている。
そんな中、徳川家も、状況を見極めながら独自の戦略を打ち出していく必要があった。
家康の腹は決まっていた。
信長がこの世を去り、もはや遠慮をしなくてはならない相手はいない。このままいけば秀吉と勝家のいずれかが実権を握ることになるのは間違いないことだったが、いずれに対しても与するつもりはなかった。信長が成し得なかった天下統一を己が成し遂げる。家康の野心が燃え滾っていた。その思いは、家臣たちにも伝わっている。
「皆々方は、羽柴殿に対する弾劾状に対して、どのように対処するのがよいと考えておられるのでしょうか?」
末席のほうから声が飛んだ。掛川城主の石川家成だった。
柴田勝家と滝川一益、織田信孝が手を組んで、全国の諸大名に対して秀吉の横暴を訴えるための弾劾状を発することを画策しているという情報を家康は入手していた。そう遠くない時期に、家康のもとにも弾劾状が届けられることになるのは間違いない。
「ここのところの羽柴殿の行動は横暴に過ぎる。織田家中の諸大名たちに対する私的な働きかけには、目に余るものがござる。羽柴殿をけん制する意味でも、こたびの弾劾状に名を連ねることがよいのではあるまいか」酒井忠次が声を震わした。彼の意見に、何名かの武将たちが頷く。
「お待ち下され。今後の世がどのような情勢になるのかがわからぬまま何れかに与することは、得策とは思いませぬ。徳川家としては、こたびの動きには静観を貫くことが得策かと存ずるが」すかさず、石川数正が反対意見を口にした。
酒井忠次と石川数正は、徳川家の家老職としてそれぞれ西三河、東三河の運営を任されている重臣であり、何かにつけて反目しあう仲だった。重要な政策を決める会議の場でも、初めから二人の意見が一致することなどない。
「いかにも。柴田殿が失脚し羽柴殿が台頭した場合のことも考える必要がござる」大久保忠世が、石川数正の意見に同調した。その言葉に、何名かの武将たちが頷く。
酒井忠次が、大久保忠世に向かって、鋭い視線を投げつけた。
「実際のところ、羽柴殿と柴田殿のいずれが優位な状況であるのかのう?」
「事態が長期化すれば、京の地を手中に収めている羽柴殿が優位になられよう。事実、近畿の大名どもは、こぞって羽柴殿の味方をしておる。朝廷との関係も密接じゃ」
「柴田殿の領国である北陸は雪深く、冬の間は動けぬからのう」
「柴田殿も、焦っておられるのであろう」
「いずれにしても、羽柴殿が実権を握ったときに対抗するための材料を手にしておかねばなるまいな」
武将たちの間で議論が交わされた。
「羽柴殿に対抗する材料とやらですが、調べに向かった者どもから、殿のもとに何がしかの報告は届いておられるのでしょうか?」谷村城主の鳥居元忠が、家康に質問をした。吉原佐平次と松井作次が本能寺の変に秀吉の策略が巡らされていたかどうかを調べる目的で旅に出たことは、集まった家臣たちの誰もが知っていた。
「何も届いてはおらぬ」家康が言葉を返す。
「殿、柴田殿と羽柴殿が雌雄を決するのは避けられぬ状況となっておりまする。おそらく、柴田殿が雪で足止めを食らう冬の間に、羽柴殿は事を起こすでありましょう。さすれば、春先に戦いが起こるのは必定。その者どもからの報告を急がせたほうがよろしいかと存じ上げまするが」
「おそれながら、もはやこの期において、長期間潜入する調べは必要ないのではないかと。正成配下の者どもを使って本格的に調べを進めながら逐一報告を得るやり方に切り替えたほうがよろしいのではないかと存じ上げます」
「両者のいずれかが実権を握る日も、そう遠くはないものと思われまする」
武将たちの間から、不安の声が上がった。
「皆々、焦るではない。今は、状況を見極めることが大事じゃ」家康が、毅然とした態度で言葉を返す。
それに対して、最も家康に近い位置に配していた井伊直政が「なれど、殿。羽柴殿が実力で柴田殿を倒し織田家中の家臣団をまとめ上げたと致しますと、我が方の発言力が弱くなるものと懸念致しますが」と意見を口にした。
「たとえ柴田殿と羽柴殿が雌雄を決したとしても、信雄様と信孝様の対立は残る。織田家中の家臣団を己の意のままに取り込むのは容易いことではない。織田の勢力が及んでいない外様大名もおる。その者たちと手を組んで対抗することも可能じゃ」
「すでに、なんらかの手を打っておられるのでしょうか?」
周辺諸大名との連携を示唆した家康に、榊原康政が問いかけた。
「内々に、長宗我部殿や紀伊雑賀党の者どもと話を進めてはおる」
家康が、外交政策について口にする。
「今は、信濃と甲斐の制定のほうが先でござろう」本多忠勝が、議論の矛先を変えた。
本能寺の変の後、信濃の領土を巡って、徳川家、北条家、上杉家が小競り合いを繰り広げていた。ほぼ手中に収めている甲斐の国も、信濃の情勢いかんによっては紛争に巻き込まれてしまう。
徳川家は、信濃制定に向けて、兵を繰り出す傍ら、外交と謀略にも精を出していた。
本多忠勝の一言で、その場の議論が信濃と甲斐の制定に移り変わった。軍事と外交の戦略が話しあわれ、徳川家としての方向性が定まる。
吉原佐平次と松井作次に命じた秀吉に関する捜査についても、時間をかけて継続していくという方向性で一致した。
9.
「手筈のほうはいかがじゃ?」
「殿の仰せの通りにございまする」
「余の申す通りとな……」
家康が、小さく頷いた。家臣たちとの話し合いを終えた後の広間に、本多忠勝と二人で向き合っていた。他の武将たちとともにその場を去ろうとした忠勝を、家康が呼び止めたのであった。
「もそっと近こう」家康が、忠勝を手招きした。忠勝が家康の方にすり寄る。
二人は、至近距離で向き合った。
「そちが余に仕えて、はや二十余年となるのか」
「おそれながら」
二人の脳裏に、二十二年前のときの記憶が甦っていた。
当時、家康は、今川義元配下の武将であった。大軍を率いて上洛を果たそうとした今川義元の前に、織田信長が立ちはだかった。僅かな手勢を率いて義元の本陣を奇襲し、義元の首を打ち取った。いわゆる桶狭間の戦いである。
その前哨戦となった大高城を巡る攻防戦で、忠勝は初陣を飾った。最前線の城である大高城に兵糧を届けた上で守備に就く任務が家康に課せられていた。信長の攻撃をかわしながらの兵糧運搬は至難の業であったが、忠勝を始めとした勇猛果敢な家臣たちの働きにより、家康は無事任務を成し遂げることができたのだ。
そのとき以来、忠勝は家康に忠誠を尽くし、今や徳川四天王の一人に数えられるまでになった。家康の忠勝に向けた信頼も厚い。
「平八郎。秘め事とは、心苦しいものよのお」家康が、薄ら笑いを浮かべた。平八郎とは、本多忠勝の通称名である。
「ははっ」忠勝が低頭する。
「余とそちとで決めたことではあるが、まことに良かったのであろうか?」
「良しと致しませぬか」
「……余は、彼のお方を敬っておった。生きる上での鏡でもあったのじゃ。なれど、今の余は、そちと初めて出会うたころの余とは違う。大勢の家臣や民に、夢と希望を与えねばならぬのじゃ。戦いに散った者どもの命を無駄にするわけにもまいらぬ。わかるか、平八郎」
「殿のお気持ち、しかと存じ上げておりまする」
「なれど、こたびのことは誤算であった」
「彼の者がさような優れ者であったとは、それがしも思うておりませんでした」
「知恵者であったようじゃな」
「なんぞ、殿の耳に届いておりまするか?」
「薄々とな……」
家康が、薄ら笑いを浮かべた。
「まあ、よい。優れたる者を積極的に登用し配することが大事なことであるということは、余も肝に銘じておる。我が徳川も、そちを始めとした優れた者どもを配したことで、ここまで領土を広げることができたのじゃ」
「ありがたきお言葉にございます」
「優れたる者を積極的に登用し配するという考えは、そちも同じなようであるな」
「仰せの通りにございます」
「彼の者も、さようであるというわけじゃな?」
「御意」
「なにゆえ、惚れたのじゃ?」
「彼の者には、物事の全体を大局的に見る能力、決断する能力が備わっておりまする。加えて、勇猛でございまする」
「勇猛さは、余の耳にも聞こえておる。物事の全体を大局的に見る能力、決断する能力が備わっておるとは、いかなる理由で、さように感じておるのじゃ?」
「信濃における武田との戦での折、かようなことがございました……」
家康からの問いかけに対して、忠勝が、ある男が戦場で活躍したときのことを話して聞かせた。
敵方に扇動された農民たちが家康の退路を塞ぐための行動に出たのだが、その男が機転を利かせて別の退路を確保し、徳川軍が事なきを得たことがあった。そのときの行動は、本多忠勝隊の一部の部隊が前面に立って行ったのだが、忠勝自身の指示によるものではなく、忠勝が惚れ込んでいるある男が周囲に働きかけてのものであった。
後にそのときのことを知った忠勝が恩賞を与えようとしたのだが、その男は、恩賞に値するようなことはなにもしていないと固辞した。忠勝は、その男の謙虚さにも好感を抱いていた。
そのこと以外にも、その男の大局観、決断力を感じ取れる行動はあった。忠勝は、家康に対して思いつくところを口にした。
「そちがさように申すのであれば、優れたる者なのであろう。余も、彼の者が、そちのまことの家臣となることを願ごうておる」
「ありがたきお言葉にございます」
「なれど、一年は長い。一年も経てば、世の情勢は大きく変化しておる」
「……」
「やはり、一年待つ必要があるのか?」
「薬師の見立てでは、一年待って変化がなければ、それより先変化することはまずないであろうとのことでございます。半年で構わぬと申した薬師もおりましたが、慎重を期す上でも、一年のほうがよろしいかと」
「致し方のないことであるのか。さりとて、余とそちが抱く疑念が的を射ておった場合は、いかように致すのじゃ?」
「さようなことが明らかになりました場合は、それがしも腹をくくりまする」
「腹をくくるとは、いかようなことなのじゃ?」
「問答無用、斬りまする」
忠勝が、鋭い視線を向けた。家康の眼光も鋭くなる。
「そこまで申すのであれば、このことについては、余は、もう何も申さぬ」
家康の言葉に、忠勝が深々と頭を下げた。
10.
壁を叩きつけるような音に、ボクは目を覚ました。雨の音だった。風の音も聞こえてくる。今は、何時なのだろうか。
ボクは、寝床を抜け出し、廊下に顔を出した。旅館の明り取りの窓が、うっすらと白ずんでいる。夜明けを迎えるころのようであった。
天気予報などない時代であり、朝目覚めてみないとその日の天気はわからない。
浜松城下を発ってからは、晴天に恵まれた日が続いていた。昨日も晴天であり、ボクは、なんの根拠もなく今日一日も晴天であると思い込んでいた。
「やんでくれないかなあ」ボクは呟いた。
この時代は、道路が舗装されていない。雨が降ると、路面がぬかるむ。レインブーツなどという洒落たものもなく、雨が降ろうが雪が降ろうが草履履きだった。むろん、足袋は履いているのだが。
ボクは、お玉のことを思い浮かべた。
身の回りの世話をしてくれていた彼女は、毎日のようにボクの足袋を洗濯してくれていた。夕飯の後片づけを終えた彼女が、寝床の枕元に乾いた足袋を畳んでおいてくれる姿がとても愛らしかった。
(旅が長くなるようなら手紙をくれって言っていたよな)ボクは、浜松城下を発つ前日の朝、お玉と交わした会話を思い返した。その言葉を聞いたボクは、胸の中で切なさを覚えていた。今回の旅は、確実に長くなる。
(一段落したら手紙を書こう)ボクは思った。
朝食を食べ終えた後も雨は降り続いていた。風は治まったが、雨足が衰える気配はない。宿の人間も、路面が相当ぬかるんでいるという言葉を口にした。
雨足が弱まるまで待つかどうか、ボクは悩んだ。
雨が降りしきる中、ぬかるんだ土の道を歩き回ることに気が引けていた。旅の荷物の中に傘はあったが、小ぶりな和傘である。このような強い雨をしのげるのだろうか。
時間が、刻一刻と過ぎていく。宿の中に居ても、やることはなにもない。なによりも、時間がもったいなかった。
ボクの計算では、宮宿界隈での捜査に費やせる時間は二週間が限度だった。すでに、その中の三日間を消化している。今日中に戻ってくるはずの松井が耳寄りな情報を手にしてくることを期待していたが、それ以外では、羽柴秀長の家臣たちがいわくありげな発言をしていたという状況証拠しか手にしていない。
(頑張らなければ)ボクは、己を奮い立たせた。
宿を出たボクは、まだ訪れていない茶屋や酒場を目指して町を歩いた。日が経つほどに、その日の捜査を開始する地点までの移動距離が長くなる。
ボクの視界に、いくつもの茶屋や酒場が入っては消えていった。いずれも、一度訪れた店だった。同じ店を何度も訪れてはいけないなどという決まりはなかったが、そんなことをすれば確実に目立ってしまう。
目立つことは避けなければならなかった。どこに秀吉の目が光っているかわからないからだ。現に、昨日も後をつけられていたような気がした。
ボクは、時々立ち止まっては、さりげなく後ろを振り返った。
今日の捜査開始地点に到着した。町の中心部よりは、店の数がまばらである。
ボクは、茶屋や酒場を見つけるたびに中を覗いた。天気が悪いせいか、どの店も客の姿はまばらであった。そんな中、話がしやすそうな客を選んでは話しかけてみる。しかし、これはという情報を入手することはできずにいた。
そんな中で足を踏み入れた何軒目かの茶屋でのことだった。
店内は、夫婦らしき客が一組いるだけだったが、お腹の空いたボクは、食事を摂る目的で店内に入った。お茶とおにぎりを注文し、長椅子で体を休める。雨は、小ぶりになっていた。
おにぎりとお茶が運ばれてきた。皿からおにぎりを一つ手でつかみ、口の中で頬張る。ほんのりと塩気のきいた白米が、空腹の腹に心地よかった。タイムスリップをした当初は一日二食が基本だったが、旅に出てからは昼食も摂るようになっていた。
おにぎりを食べ終えたボクは、茶を啜りながら、松井は何時くらいに戻ってくるのだろうかと考えた。早く彼の報告を聞きたいという気持ちが高まってくる。
時刻は、正午を過ぎたころだった。まだまだ町は続いている。あと三、四時間ほどは頑張ってみようか。
茶を味わいながら休憩していたボクの横に、一人の男が座った。男は帯刀していた。浪人のような風体でもない。
ボクは緊張した。尾張城主織田信雄(のぶかつ)配下の武士なのかもしれない。
ボクは、男を意識しながら、茶を一口啜った。
「わらべの顔を見に、戻ってまいられたのか?」突然、男が言葉を発した。
誰に向かって話しているのだろうか。ボクたちの周りに人影はない。独り言をつぶやいているのだろうか。
「もう、六つになったのではないのかのう」再び、男が言葉を発する。
ボクは、ゆっくりと男のほうを振り向いた。男の視線はボクに向けられていた。
ボクは戸惑った。見たことのない男だったからだ。それも、子どもがどうのこうのとかいう話である。答えに窮したボクは、曖昧な表情を浮かべた。
「元気な赤子であったのう」
「まあ」
「とかく大きな声で泣いておったことを記憶しておる。泣くときは、四肢を震わせておったな」
「さようでありましたかな」
「和子は、元気が一番じゃ」
「まことに」
ボクは、男の言葉に対して、無難な受け答えをした。何の話をしているのかがわからなかったからだ。
男が、傍らに置かれた茶碗を手に取った。ゆっくりと中身の茶を啜る。
ボクは、男の動作を見つめた。
美味そうに茶を飲み干した男が茶碗を置いた。懐中からハンカチのような布を取り出し、口元を拭う。
そして、おもむろに言葉を発した。
「小牧の山に咲く花といえば、なんであったかの?」
(小牧の山に咲く花?)ボクは首をひねった。小牧とは、今の愛知県小牧市と関係があるのだろうか。小牧市は、尾張の国の北部に位置している。
ボクの顔を見つめていた男が、笑みを浮かべた。
「実に美味い茶であった。渇いたのども潤うたわ。拙者は先を急ぐゆえ、これにて後免」
男は立ち上がり、店を後にした。街道を、美濃の国の方向へ向かって歩き出す。
ボクは、首をひねった。いったい、今のやり取りは何だったのだろうか。
男は、ボクに対して、旧知の知り合いであるかのような感じで話しかけてきた。格好からして武士であることには違いないが、ボクには見覚えがない。相手からは、敵意は感じられなかった。おそらく、佐平次と面識のある武士なのだろう。
ただ、気になることが二つあった。
一つは、ここが尾張の国だということだ。
現在、佐平次は浜松城下で暮らしている。三河の国で生まれ育ったということも聞いている。いずれにしても、生活圏は徳川家の領内だ。
だとすれば、佐平次と顔見知りだったと思われる先ほどの男も徳川家の人間であるはずだ。その者が、なぜ徳川家とは関係のない尾張の国にいるのだろうか。
もう一つの気になることとは、男が、六歳になるという子どもの話しを口にしたことだった。
男は、その子の生まれたてのころのことをボク自身も知っているかのように話しかけてきた。そのことが事実なのであれば、男と佐平次は六年前には出会っていることになる。
しかし、佐平次が徳川家に仕官したのは五年前だ。それ以前の経歴は曖昧であるが、先ほどの男と佐平次が知り合いであるのならば、徳川家に仕える以前からの知り合いということになる。
(しまった。なぜ、もっと早くこのことに気づかなかったのだろう)ボクは舌打ちをした。男と話をしているときにこのことに気づいていれば、徳川家に仕官する以前の佐平次のことを聞けた可能性があったからだ。
ボクは、男の去って行った方向に視線を向けた。いつの間にか雨は上がっており、薄日が射していた。街道の人の行き来も増えている。
しかし、男の姿を見つけることはできなかった。
ボクは、タイムスリップをする以前の佐平次のことは、人に聞いた限りのことしか知らない。これからも、見覚えのない知り合いが続々と現れるのだろうか。
どのような人間が現れるのだろうとワクワクする思いと、下手な対応をして面倒なことになるのが不安だという思いとが、ボクの胸の中で入り混じった。
11.
ボクがその日の捜査を終えて宿に戻ったとき、部屋に松井の姿があった。彼の表情からは、耳寄りな情報を手にしたことがうかがえた。
「なんぞ、良き情報を手に致したのか?」労いの言葉もそこそこに、ボクは、松井に報告を促した。良い報告があることを待ち望んでいたのだ。
「片桐殿と同じ日に宿泊した武将がおられました。そのお方の身元も判明致しましたぞ!」
「どこのどなた様じゃ?」
「筒井順慶さまが家臣、森高義秀殿にございます」
「森高義秀殿?」
ボクは、記憶を思い起こした。たしか、筒井家の武将に、そのような名前の人物がいたような気もする。
「して、森高殿と片桐殿は、接触を図っておったのか?」
「さようにございまする」
「なんぞ、確たる証拠を手に致したのであるか?」
「確たる証拠ではござりませぬが、森高殿の部屋に料理を運んだという女中から、部屋で片桐殿によく似たお方の姿を見かけたということを聞き入れました」
「その女中とやらは、片桐殿のお顔を知り申しておるのか?」
「それがしも気になりましたゆえ、そこのところはしかと確かめましたが、片桐殿の部屋にも食事を運んだとのことでして、本人は自信があるとのことでございまする」
「女中が森高殿の部屋に料理を運んだとき、部屋の中には、森高殿と片桐殿によく似たお方の二人だけが居られたのか?」
「お二方以外にも、数名の者が居たとのことでございます」
「その場の雰囲気がいかような感じであったのかは、聞いてはおるのか?」
「密やかに何ごとかを話し込んでいたように見えたとのことでござりまする」
「いかような話がなされていたのかについては、聞いてはおるのか?」
「聞き申しましたが、よくわからぬとのことでございます」
「致し方あるまい。秘め事を語るのであれば、人払いをするであろうからな。お二方がその日宿坊に泊まることは、事前に伝達されてあったのであろうか?」
「事前の伝達はないとのことでござりまする。お二方とも、当日参られたとのことでございます」
「御師に案内されてということであるか?」
「お二方も、御師の案内ではなく、各々で参られたということでした」
「お二方は、初めて参った客であったのか、何度か参ったことのある客であったのかということについてはどうじゃ?」
「社寺の者の話では、片桐殿は初めて参られたようだとのことでござりまする。森高殿は、過去にも参られたとのことで」
「勝又御子(かつまたみこ)神社という社寺は、この辺りでは名の知れた社寺であるのかの?」
「さようにございまする」
「とならば、偶然にお二方が遭遇し、時を共にしたということも考えられるわけであるな」
「いかにも」
「このこと以外に明らかになったことは、何ぞあるのか?」
「このことのみでございます。あまりにも深きことまで入り込むと怪しまれると思いましたゆえ」
「かまわぬ。よくぞ調べ致した」
ボクは、松井の労を労った。
「兄者のほうは、いかがでござりましたか? それがしが留守の間、なんぞ、良き情報でも手に致しましたか?」松井が、ボクの捜査の成果を問うてきた。
「気になることを一つばかり小耳に挟んだのじゃが……」
ボクは、羽柴秀長の家臣たちがいわくありげな発言をしていたという話を旅商人から耳にしたことを口にした。
「去年の今ごろという時期が気になりまするな」
「いかにも。そのころは、信長様が領土拡大の一途をたどっておる時期であった。羽柴殿の天下を予測できる理由など、どこにもござらぬ」
「においまするな」松井が、鼻をうごめかせた。
「この後の調べは、いかが致しまするか?」松井が、今回の結果を受けて、今後どのような捜査を展開するのかについての考えを求めてきた。
「片桐殿と森高殿との間につながりがあるのかどうか、さらには羽柴家と筒井家との間で何ごとかがなされておったのかどうかを探らねばなるまいな」
「この後の尾張、近江両国における調べを進めるときに、このことの探りを入れるということでありましょうか?」
「むろん、それは必要じゃ。なれど、そのことだけでは片手落ちじゃ。筒井家の方からも調べを進めねばならぬ」
「つまり?」
「大和の国へ潜り込む」
「それがしが参ればよろしいので?」
「いや、大和の国へは拙者が参ろう。羽柴殿とのつながりに的を絞った調べになるゆえ、危うい橋を渡らねばならぬこともある。こたびの調べの指揮を任された拙者が、この重責を担わねばならぬと思うておる」
「わかり申した。して、大和の国へは、いつごろより参られますか?」
「宮宿を拠点とした調べをあらかた終わらせてからのことじゃと思うておる。宿場町全域を、お主と手分けして当った後のことじゃ。一週から十日ほど後のことでござるな」
「それから後、それがしは引き続いて尾張の国での調べを進めればよろしいのでありますね。ちなみに、兄者が聞き申した但馬の国に関することは、いかが致しまするか?」
「そのことは、尾張と近江での調べを終えた後に考えようではないか」
「さように致しますか」
但馬の国での情報収集に関しては、尾張の国と近江の国での捜査を終えた後に考えることになった。
12.
宮宿を拠点とした捜査は順調に進んでいた。
とはいっても、着々と情報が集まったという意味ではない。その逆であった。さしたる情報も入手できないまま、着実に捜査を終えた範囲が増えていったという意味である。
毎晩、松井と二人で、実りのない結果を確かめあう日が続いた。松井も、ボクの姿勢に刺激を受けて一日にまわる店の数を増やすことを心掛けてくれていたが、思うように有力な情報を入手できない日が続くことに苛立ちを隠せずにいた。
このままのペースでいけば、予定していた二週間よりも早く宮宿を拠点とした範囲を調べきることになるのは間違いのないところだった。
有力な情報は入手できなかったものの、ボクは、またしても覚えのない人間から話しかけられた。とある酒場でのことだった。
何人かの客と話をし、この店での捜査を終えようと椀の底に残った酒を飲み干したボクに向って、一人の男が「作之進(さくのしん)様ではあられませぬか?」と声をかけてきた。商人風の男だった。
話しかけられたボクは、山根弥助だと名前を口にした。捜査期間中は、この偽名を使うと決めていたからだ。
ボクの言葉に、男は首を傾げた。「似た顔もあるものだ」という言葉も口にする。世の中には自分とそっくりな顔の人間が三人いると言われているが、作之進という人物は、佐平次と顔のそっくりな三人のうちの一人なのだろう。
ボクは、作之進という人物のことを聞いてみた。
男が言うには、宮宿界隈の酒場で何度か一緒に酒を飲んだ相手だということだった。
男は油商人であり、宮宿へは頻繁に足を運んでいた。作之進という男の身分は、武士であったという。誰に仕える武士なのかということは口にしなかったということだ。
男の話の中で、一つだけ気になることがあった。それは、男が最後に作之進の姿を見たのが五年前だということだ。以前ボクに声をかけてきた武士風の男も、六年ぶりに顔を合わせたというような言葉を口にしていた。
今回のことは名前が違うということもあり人違いだったのだと思われるが、異国の地で立て続けに見知らぬ人物から久々に顔を合わせたというような言葉をかけられたことに、ボクは不思議な思いを抱いた。
宮宿を拠点とした捜査も、終わりが近づいていた。調べ終えていないエリアも残り僅かとなり、あと二日もあれば全てのエリアを調べきる目途が立っていた。
その日の夜、一日の捜査結果を確認し終えたボクは、三日後に大和の国へ向けて旅立つことを松井に告げた。どの程度の時間を要するのか計算することはできなかったが、ボクのいない間、尾張の国での捜査を継続してくれるように彼に指示を与えた。
それに対して、松井が異論を口にする。
「大和の国へは、それがしが参りまする」松井の表情は、いつになく真剣だった。
ボクは首をひねった。この話は、ボクが潜入するということで決まっていたはずだったからだ。
「なにゆえ、今さら、かようなことを申すのじゃ?」ボクは、言葉を返した。
「森高殿のことは、それがしが調べ致しました。兄者に伝えきれておらぬこともあるやもしれませぬ。それがしが参ったほうが、調べをしやすいものと存じますが」
ボクは、思考を巡らせた。松井の言うことにも一理あった。
勝又御子(かつまたみこ)神社で捜査をしてきたのは松井である。どのようなことが明らかになったのかという情報に関しては二人の間で共有しているが、細かい部分に関しては彼が伝えきれていないことがあるという可能性も否定できない。間接的に話を聞いたボクよりも直接話を聞いた松井のほうが、捜査の確実性が増すことは間違いない。
(だけど……)ボクは、初志を貫こうと思った。大和の国での捜査は、今回家康から命じられたミッションを果たす上でのキーになりそうな気がしていたからだ。
史実でも明らかなように、筒井順慶と明智光秀は密接な関係にあった。言い方を変えれば、順慶は光秀に対して影響力があったということだ。順慶の言うことであれば、光秀も聞く耳を持ったに違いない。
そんな順慶と秀吉との間に以前から関係があったとなると、本能寺の変における秀吉陰謀説も現実味を帯びてくる。さらに言えば、秀吉と順慶との間に関係があったのではないかという発想は、今までのボクの中にもないことであった。
捜査の指揮を任された者としての使命感に加えて現代人であるボクとしての興味も重なり、大和の国での潜入捜査は自分自身で行うべきだという決意を新たにした。
「たしかに、お主の申すことにも一理ある。なれど、以前にも申した通り、調べの指揮を任された者の使命として、こたびのことは拙者自らが担おうと決意しておる」
「なれど、社寺の者どもから直接話を聞き申したそれがしのほうが、こたびの調べに相応しいのではござりませぬか?」
松井が食い下がってきた。強い視線を向けてくる。
「なぜ、それほどまでにこだわるのじゃ? お主が勝又御子神社より戻ってまいった日の夜にこたびの話をしておったときには、かようなことは申してはおらなんだが」
「あれより考えたのですが、ひとたび手を付けた調べを最後までやり遂げたいとの思いが、日に日に強くなりました。加えて、それがしのほうが、大和の国の地理に明るいと思いますゆえ」
「なにゆえ、お主が大和の国の地理に明るいのじゃ?」
「旅に出たことがございますゆえ」
「いつのことじゃ?」
「徳川家に仕える以前のことでございまする」
松井が、大和の国へ旅をしたという話は初耳だった。彼は、家康に仕える前は、実家の農業に精を出していたはずだ。農作業の合間に旅をしたとでもいうのであろうか。
「お主の思いもわかり申したが、大和の国へは拙者が参る。お主は、引き続いて、尾張の国での調べを進めてくれぬか?」
「なれど」
「ここで言い争いをしても始まらぬ。かようにしてはくれぬか」
松井が、割り切れないような表情を浮かべた。口元を噛みしめながら、何度か首を振る。
「わかり申しました。それがしは、尾張の国での調べを続けまする」
「よろしく頼み申す」
そのように言葉を返したボクだったが、今回の松井の態度に対して釈然としない思いが残った。
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