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第11章 偽計業務妨害罪と妄想

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1.
 勤務する弁護士事務所が入る霞が関ビルディングの入り口を後にした結城彩菜は、最寄り駅の虎ノ門駅を通り抜け、桜田通りを皇居の方向へ向かって歩いていた。向かう先は日比谷公園である。
 時刻は、午後三時を回ったところだった。
 事務所の終業時刻は午後五時半なのだが、所長から「今日は、帰ってゆっくりと休んでください」と言われた彩菜は、その好意をありがたく受け入れることにした。
 正直疲れている。彩菜自身そう感じていた。
 熱しやすく生真面目な性格であり、何もかもに対して全力投球してしまう自分がいることを彩菜は認識していた。
 力を注ぐ部分は注ぎ、力を抜くところは抜く。そのようなメリハリのある仕事の進め方が理想なのだと常々思っているのだが、性格が邪魔をしてしまい、そのような進め方をすることができずにいる。
 彩菜は、そのような自分のことをもどかしく感じていた。
 (もう少し、器用に生きてみようよ)と自分に向って問いかけることが何度もあった。
 静かな場所で考え事をしてみたいと思った彩菜は、事務所近くの日比谷公園を目指して歩みを進めていた。

 彩菜は、資格を取得してから間がいない新人弁護士であった。
 大学卒業後、普通のOLとして就職した。その頃は、いい人がいれば結婚をして仕事を辞めてもいいというくらいの考えでいた。
 しかし、OLとしての仕事を続けていく中で、ある感情が彩菜の中にふつふつと湧いてきた。立場の弱い人間が泣き寝入りをしなければならない社会に対する憤りであった。
 子どもを育てながら頑張って働いている女性社員が退職へと追いやられる。同じような仕事をしているのに安い賃金しか得られず苦しい生活を余儀なくされている非正社員たちがいる。セクハラやパワハラに遭ってもクビになるのが嫌で声を上げられずにいる人たちもいた。
 そのどれもが、彩菜の目には理不尽に映った。
 なぜ、このような実態がまかり通っているのか。このような世の中を放置しておいてもよいのだろうか。
 自問自答を繰り返した彩菜は、自らが弁護士になって、声を上げられずにいる社会的な弱者の味方になることを決意した。OL生活二年目を終える頃のことだった。
 その後会社を退職した彩菜は、弁護士になるために法科大学院に入学した。学費や生活費は、娘の決意に共感した父親に助けてもらった。
 法律を本格的に勉強したことのなかった彩菜だったが、使命感と持ち前のガッツを表に出し、大学院を卒業後、司法試験に合格した。
 その後司法修習を経て晴れて弁護士として登録されたのだが、そのときの自分自身が弱者の立場にあったことを彩菜は思い知らされた。国が弁護士の数を増やそうと制度を変えたことにより弁護士の数が増え、弁護士としての働き口を見つけることが簡単ではない世の中になっていたからだ。
 彩菜は、開業弁護士として弱者の味方であり続けたいという使命感を抱いていた。そうするためには、すでに開業している弁護士事務所に就職して、実務経験を積まなければならない。
 しかし、社会経験そのものもほとんどなかった彩菜は、真っ先に敬遠された。女性であるということも理由の一つだと彩菜は感じていた。
 志を持って勉強し晴れて弁護士として登録されたのに、実務経験を積む場を与えられない。
 その不条理さに、彩菜は挫折をしかけた。
 そんな彩菜に救いの手を差し伸べてくれたのが、現在勤務する弁護士事務所だった。
 所長は弁護士生活三十年のベテランであり、社会の秩序を守るために弁護士がいるのだという使命感を持ち続けながら活動を続けていた。
 そんな所長の目に弁護士として弱者の味方であり続けたいという志が留まったようであり、彩菜は、弁護士としてのスタートを無事切ることができた。
 それから一年間、彩菜は、死に物狂いで弁護士としての仕事に立ち向かっていた。

2.
 日比谷公園での考え事を終えた彩菜は、一度食べに行ってみたいと思っていたイタリアンレストランがあったことを思い出した。
 ネット上で偶然その店のホームページを発見し、中身を見て気に入った。値段は少々高めではあったが、高級食材の味を引き立てる独創的な料理を売りにしているというPR文句が目に留まった。『お客様を幸せな気分にさせる食と空間の提供』というコンセプトを前面に打ち出していた。
 彩菜は、弁護士の仕事にやりがいを感じていた。天職だとも思っていた。
 その反面、ストレスも抱えていた。
 事務所からは徐々に仕事を任せてもらっていたが、クライアントとの間で意思の疎通を図ることに苦労していたからだ。
 ただでさえ、キャリアのない若い女性弁護士に対してクライアントは不安感を抱く。そのせいか、彩菜に対して心を開いてくれないクライアントが多くいた。
 彩菜自身は、クライアントが良い状況になれるように全力を発揮したいという気持ちで接しているのだが、その思いがなかなか伝わらない。
 事務所宛に、彩菜がクライアントの思いを理解せずに独善的に事を進めているという内容のクレームが入ることもあった。
 所長からは気にすることはないと言われていたが、割り切れない彩菜にとってはストレスになっていた。
 そんな彩菜は、おいしい料理と酒を楽しむことでストレスを発散していた。
 快適な空間で美味しいイタリア料理に舌鼓を打ちながらワインを堪能している己の姿を想像した彩菜は、そのイタリアンレストランで今晩の食事を摂ることにした。

 店は、渋谷駅と表参道駅の中間に位置する青山通りに面したビルの五階にあった。
 店を訪れた彩菜は、店の入り口に近いテーブル席に案内された。
 「あちらは、空いていないのですか?」彩菜は、店員に窓際のテーブル席を指示した。五つあるテーブル席のうちの一つが埋まっているだけであった。
 「空いていますけど」店員が返事をする。
 「私、できたら窓際のテーブルのほうがいいんですけど」
 「でも、これから混んでくるかもしれませんので」
 窓際のテーブル席をリクエストした彩菜に対して、店員が案内することを渋った。
 彩菜は、不愉快な気分になった。おそらく、窓際のテーブル席は、これからやってくるカップル客や常連客のために取っておこうという魂胆なのだろう。
 私も客なのだ。客が希望しているのだから、案内をしてくれてもいいじゃないの。
 憤りのようなものが湧いてきた彩菜だったが、今日はストレスを発散するためにやってきたのだと思い直し、店で二番目に高いディナーコースと赤のグラスワインを注文した。

 前菜の皿と赤ワインのグラスがテーブルに運ばれてきた。
 料理の説明をすることもなく、店員はそそくさとテーブルから離れていった。
 皿に視線を移した彩菜は、首を傾げた。コースの内容を紹介したメニュー表では前菜が皿いっぱいに盛られた写真が使われていたが、目の前の皿は隙間だらけだったからだ。しかも、メニューとは違う料理も交ざっている。
 さらに、赤ワインの量も、メニューに表示された写真でイメージする量と比べてはるかに少なく映った。
 料理の味も平凡だった。何が高級食材なのかもわからない。ありあわせの物を皿に並べただけのような感じであり、独創性も感じられない。
 彩菜は、期待外れな気分に包まれた。

 期待外れの極めつけはメイン料理だった。
 A5ランクの和牛を使用した肉料理ということだったが、高級肉の特徴である柔らかさがなく、脂もしつこく感じられた。
 さらに、店の奥から聞こえてくる怒号が料理の味を不味くした。店のオーナーがスタッフを叱っている声だった。接客をするスタッフに覇気が感じられなかったのもオーナーに怒鳴りつけられているせいなのではないかと彩菜は感じた。
 食事を楽しもうという気分の失せた彩菜は、メイン料理の後に出されたドルチェとコーヒーを残したまま、店を出た。

3.
 嫌な気分を引きずったまま家に帰り、風呂に入った彩菜は、シナモンティーを入れた。家に帰る途中で買った有名店のケーキを皿に盛り、シナモンティーのカップとともにテーブルの上に並べる。
 ドルチェを食べずに店を出てしまった反動からか、無性に甘いものが食べたくなった。
 「何なのだろう。あの店」誰もいない空間に向って愚痴を呟く。
 最後、ドルチェにもコーヒーにも手を付けずに席を立った彩菜に対して、店員は、訳を問うこともなく代金を請求した。
 クレームを言う気も失せていた彩菜は、黙って会計を済ませた。
 ここまで不愉快な思いをしたことは、過去に一度もなかった。仕事とは別の意味でのストレスがたまっていた。
 彩菜は、そのストレスを有名店のケーキとシナモンティーで発散するつもりでいた。
 「とりあえず食べようか」彩菜は、ケーキを一切れ口に入れた。
 夜遅い時間に甘いものを食べるのは体に良くないということはわかっており意識して控えていたのだが、今晩は特別だった。一秒でも早く嫌な思いを断ち切って、明日に備えたい。
 ケーキは、あっという間に彩菜の胃袋に消えていった。有名店のケーキだけあって、上品な甘さが口の中に余韻を残した。
 しかし、時間の経過とともに余韻は薄まり、やがて消えていった。
 そして再び、不愉快な思いが湧いてくる。
 彩菜は、知人からもらった高級ブランデーをブランデーグラスに注いだ。ちびちびと舐めるように、ブランデーの原液をのどに流し込んだ。
 「うそばっかじゃん!」彩菜は、店が掲げているコンセプトを思い返した。
 ホームページに堂々と『お客様を幸せな気分にさせる食と空間の提供』という言葉をうたっていた。何が『お客様を幸せな気分にさせる』だ。接客は最悪だし、料理も不味いし。
 特に、メインの肉料理はひどかった。過去に何度かA5ランクの牛肉を食べたことがあったが、食感や脂の質が全く異なっていた。
 前菜だって、メニューとは異なる料理が出てきた。
 さらに、従業員を怒鳴りつける声が料理の味を不味くした。接客をする従業員の顔も沈み切っていた。たぶん、あの店では日常的にパワハラが行われているのだろう。
 彩菜の頭の中で、店に対する悪いイメージが膨らみ続けた。
 「SNSに書いてやろうかな……」彩菜は、フェイスブックとツイッターを開設していた。フェイスブックの友人数やツイッターのフォロワー数も、それなりの人数がいる。
 あのような店に対しては、厳しい言葉で鉄槌を下さなければならない。誰かがそれをやらなければ、自分のように、偽りの情報で塗り固められたホームページを目にして、期待に胸を膨らませて、貴重な時間とお金を費やしたのに不愉快な思いをしなければならない犠牲者がこれからも現れることになる。
 これ以上の犠牲者を出さないためにも、世間に対して忠告をしておかなければならないのではないか。
 ブランデーの酔いも手伝った彩菜の気が大きくなった。
 彩菜は、スマートフォンのツイッターを立ち上げた。書き込む準備を整える。
 何を書くべきなのかを考えた。
 書くべきことは、未来の客にとって不利益になることについてだ。
 不利益になることとは、事実に反することを店がうたっていることだ。
 コンセプトとは真逆な心のこもっていない接客や、メニューに表示したイメージとギャップのありすぎる料理の中身、そしてワインの量。
 高級食材だとうたいながら安い食材を使っているのも、間違いないだろう。
 従業員に対するパワハラも、絶対に行われているはずだ。
 今日、自分がこの目で見て、この肌で感じたことを、洗いざらい書いてやろう。
 そうすることで、ストレスが発散できそうな気がした。
 彩菜の人差指がスマホの画面に触れた。脳が発する言葉を文字に変換しようとする。
 そのときであった。彩菜の体が、後ろに引っ張られた。人差指が、スマホから離れる。
 そんな彩菜の耳に、誰かがささやく声が聞こえた。
 「偽計業務妨害罪、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」
 (三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金……)彩菜は、我に返った。
体を後ろに引っ張る力は消えていた。

4.
 彩菜が行ったフェイスブックとツイッターへの書き込みは、思いのほか反響を呼んだ。
 書き込んだ翌日から、彩菜のアカウントページに、たくさんの共感メッセージが舞い込んできた。
 フェイスブック上の友達がページをシェアし、友達の友達からのメッセージも送られてきた。ツイッターも数多くのリツイートとダイレクトメッセージが寄せられ、フォロワー数が激増した。
コメントがコメントを呼び、たくさんの共感コメントが連なった。
 そんな中、共感者たちの矛先が店へと向った。
 中でも、高級食材だとうたいながら安い食材を使っていることや従業員に対してパワハラを行っていることが人々の反感を買った。
 店のホームページとフェイスブックページに、ものすごい数の苦情が舞い込んだ。
 驚いた店側は、WEB上で釈明を行った。
 接客に至らない点があったことやメニューに表示したイメージと実際に提供したモノとの間に多少のギャップがあったことを認めたうえで、食材に関して客を欺く行為や従業員に対するパワハラは断じて行っていないというコメントを発表した。
 しかし、人々の怒りは収まらなかった。
 そうなったことで、さらなる苦情が舞い込んだ。客を欺いたことを反省せずに都合の良い言い訳をしているという内容の苦情だった。
 加えて、以前にその店を利用したことのあるという人間からも、自分も彩菜と同じような不愉快さを味わい、同じような疑問を抱いたという苦情が寄せられた。
 殺到する苦情をさばききれず、店のホームページとフェイスブックページが炎上した。
 その結果、店は休業を余儀なくされた。
 さらに、その余波を受けて、ほかにもホームページやSNSが炎上し休業に追い込まれる店が現れた。
 そんな中、世の中全体に、消費者を欺く行為に対して鉄槌を下そうというムードが広がった。
 一消費者であっても、弱者の立場に甘んじるのではなく積極的に声を上げるべきだという風潮が世の中全体に広がっていった。

 妄想から覚めた彩菜は、スリープしていたスマートフォンの電源ボタンを押し、ツイッターのページを開いた。
 書き込みは、前回投稿した内容が最新のものであった。それに対して、いくつかのコメントが寄せられている。コメントの数以上にイイネが押されていた。
 彩菜は、すっきりとした気分になっていた。ストレスも感じなくなっていた。
 「確かに、偽計業務妨害罪に該当しちゃうわよね」司法試験の勉強をしていた時に解いた事例問題を思い浮かべた。
 『お客様を幸せな気分にさせる』とうたいながらも心のこもらない接客であったことやメニューに表示されたイメージと実際に提供されたモノとの間にギャップがあったのは事実であったが、食材をごまかしているということや従業員に対するパワハラがあるというのは、あくまでも彩菜の想像である。
 接客の至らなさやイメージと実際に提供されたモノとの間にギャップがあるということはどの店にでも大なり小なり存在することだが、食材のごまかしというのは根本的に客を欺く行為であり、店としての信用に関わってくる。
 加えて、パワハラも横行しているとなると、社会的な信用も失墜し、店が存続できなくなるという結果も起こりうる。
 そのような状態に陥らすことは、虚偽の噂を不特定多数の者に伝達することにより人の業務を妨害する結果となり、刑法で規定する偽計業務妨害罪に該当する。
 彩菜は、刑法の偽計業務妨害罪に関する条文をそらんじた。司法試験を受けるときに、懸命に覚えた条文だ。今でも、間違えることなく口にすることができた。

 彩菜は、ツイッターへの書き込みを行った。
 コース料理の内容を紹介し、料理の写真を投稿した後に、ソースが美味しかったなどの良い感想をコメントとして載せた。
 そのうえで、心がこもっていることを感じさせる接客と、メニューに表示されたイメージ通りの料理が提供されていれば完璧だったのにという感想を書き記した。
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