妄想のススメ

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第7章 強制わいせつ罪と妄想

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1.
 福本康夫は、長い渋滞の列に巻き込まれていた。江戸川区内から市川市の本八幡まで客を乗せての帰り道だった。
 福本は、時間を気にしながら舌打ちを繰り返した。平日は、これからの時間が稼ぎ時である。夕方から宵の口にかけて、買い物帰りの客や移動先から会社に戻るビジネス客の利用が期待できる。
 その勢いで夜の客も捕まえることで一日の売上目標が達成されるという算盤をはじいていた福本にとって、長い渋滞は想定外の出来事であった。
 (あの事件が影響しているのだろうか)事件とは、国会議事堂と防衛省に爆弾が仕掛けられていたことである。
 昨日の夕方に第一報が流れて以来、検問を行う道路が増え、車の流れも滞っていた。

 福本は、二年前に都内のタクシー会社に就職した。
 高校を卒業後社会に出たのだが、運悪く不況の真っただ中であり、安定した職に就くことができずにいた。転職も繰り返した。
 そうこうしているうちに景気は良くなったが、転職を繰り返した上に年齢も若くはない人間に安定した職は与えられず、福本は、いつしかフリーターとして生計を立てるようになっていた。
 そんな折、身分が正社員で入社支度金も有り、会社の費用で二種免許を取得できるという募集広告に惹かれてタクシードライバーになった。
 しかし、身分は正社員であっても収入は安定しなかった。出来高部分が多くを占める給与制度だったからだ。売上が少ない月の収入は、アルバイトをしていた頃とたいして変わらない状況だった。
 福本の目標の一つに結婚するということがあったが、それも当面叶いそうもない。そもそも、女性と出会う機会すら得られずにいた。
 今年で三十六歳となった福本は、長らく彼女のいない時間を過ごしていた。

 四キロほどの道のりを一時間近い時間をかけて、ようやく車は東京都内に入った。
 一刻も早く集客スポットにたどり着きたい福本は、幹線道路から脇道に入った。道は複雑だが、渋滞が緩和されるため、確実に早くたどり着ける。
 福本は、スピードを上げた。
 そんな福本の目に、前方で手を上げている女性の姿が映った。走行スピードを落とし、女性の脇に車を停車した。
 女性は、タクシーを拾う客だった。
 女性が、福本の車に乗り込んだ。行き先は武蔵小杉だった。
 千葉県との県境に近い今の位置から武蔵小杉までは、かなりの距離がある。タクシードライバーにとって、おいしい客であった。
 さらに、その客は違う意味でも歓迎すべき客だった。容姿が、とても優れていたからだ。
 年齢は二十代半ばから後半、やや細身の体に純和風的なルックスの清楚感漂う女性であった。くりっとした目が、やさしさと愁いを帯びている。
 福本にとって、ド真ん中の直球といっても過言ではないくらいの好みのタイプだった。
 福本は緊張した。バックミラー越しに、チラチラと女性客の顔を盗み見る。後部座席から、何とも言い表せないかぐわしい匂いが漂っていた。
 福本は、女性客に話しかけてみようと思った。このような狭い空間にこのような美しい女性と二人きりで無言で長時間いると、気が変になりそうな気がしたからだ。
 タクシードライバーは、客を安全に目的地まで運ぶことが最大の使命である。
 自らの精神状態を正常に保ち安全運転を行うという意味でも、彼女と会話をする必要があった。
 女性に対する免疫のない福本にとって、自分のほうから話しかけることは至難の業である。しかし、女性客のほうから話しかけてくることは考えられない。
 福本は、前方に注意を配りながら、話しかけるネタをあれこれと思案した。

2.
 幹線道路へ合流したところで車は再び渋滞に巻き込まれた。進んだり進まなかったりを繰り返す。
 福本は、バックミラー越しに後部座席の様子を窺った。
 女性客の視線は、窓の外と車内を行ったり来たりしていた。時折、時間を気にするような素振りを見せる。
 「お急ぎですか?」福本は、自然と話しかけた。
 「ええ。はい」女性客が、視線を前に向ける。
 バックミラー越しに二人の視線が交わった。福本の胸がときめく。
 どきどきしながら、福本は会話をつづけた。
 「例の事件があったせいだと思いますよ。爆弾が仕掛けられた事件。昨日から、あちらこちらで検問をやっていますから。犯人は、内閣総辞職を求めているみたいですね。犯人は、右翼関係者ですかね? 革新派の首相の政策に不満を抱いている連中が爆弾を仕掛けたのではないかという噂もあるみたいですよ……」
 現総理大臣の大村は、革新派として知られる人物であった。規制緩和による経済活性化策を次々と打ち出した。憲法第九条の拡大解釈による自衛隊の活動範囲の拡大も目玉政策の一つであり、野党から猛反発を浴びていた。
 とりわけ政治に詳しいわけではない福本だったが、魅力的な女性客を前にして、普段以上に饒舌になっていた。
 「はぁ……」女性客が、戸惑いの表情を浮かべながら言葉を返す。
 政治には、興味がない様子だった。
 そのことを悟った福本は、話題を変えた。時間の制約があるのかという趣旨の質問を口にした。
 女性客は、江戸川区内の実家から家に帰るところだった。病気の母親が実家で療養しており、母親の看病と父親の身の回りの世話をするために定期的に実家に帰っているということである。
 何時までに帰らなければならないというような事情はないが、できるだけ早く家に帰ってゆっくりしたいという言葉を女性客は口にした。
 福本は、カーナビを操作した。武蔵小杉にたどり着くまでの様々なルートを検索する。
 福本の車に装着されているカーナビは、最新の渋滞情報が反映されるタイプであった。
 女性客が、興味深げにカーナビの画面をのぞき込んだ。
 「ここで脇道にそれて、このルートをたどって、ここから中原街道に合流するのが一番早いのかもしれませんね」福本は、カーナビの画面を指でなぞりながら、最も時間のロスが少なくてすみそうな走行ルートを指示した。
 「それでしたら、そのルートでお願いします」女性客が、運転のプロである福本のことを全面的に信用していますとでも言いたげなまなざしを向けてきた。
 その視線を感じた福本の胸の鼓動が、再び高鳴った。
 女性客は、一刻も早く家に到着し体を休めたがっている。その願いをかなえてあげたい。
 福本の目の前に、脇道にそれる交差点が近づいてきた。信号の色が、青から黄色に変わる。
 前の車が交差点に進入した直後に信号は赤に変わったが、福本は迷わずにハンドルを左に切った。

3.
 脇道に入ってからは、渋滞は緩和された。幹線道路の渋滞を嫌って脇道へ迂回する車両もあったためスムーズな運転とはならなかったが、ノロノロ運転からは解放された。
 運転をしながら、福本は、女性客と会話を交わし続けた。
 福本は、自分がタクシードライバーになった経緯を語った。社会に出たときが就職氷河期であり、それ以来安定した仕事に恵まれなかったことも口にする。
 女性客は、福本の話に真剣に耳を傾けてくれた。その後、自分の身の上についても語り出した。
 女性客は、貿易会社に勤務するOLだった。勤務も不規則で、残業も多いということである。
 特技の語学を生かせる仕事に就きたいという思いがあり今の仕事を選んだのだが、実際は雑用のような仕事が多く、転職を考えているという思いを女性客は語った。
 「結局、なんやかんやと言いながら、男女差別があるのですかね」福本は口をはさんだ。
 「たぶん、そうだと思います。同期の男の人は相手先との交渉や海外出張などバンバンやっているのに、私たち女性は、そのような仕事をやらせてもらえませんから。会社の体質が古いんです」女性客が、寂しそうに笑った。
 「もったいないですよね。社員の能力を生かさないなんて。結局、会社が損をしているのですよ」
 「運転手さんも、そう思いますよね?」
 「大いに思います。でも、世の中、そのような会社ばかりではないですから、思い切って自分の能力を発揮できる会社に転職したほうがいいんじゃないですか?」
 福本は、過去の転職経験を振り返りながら意見を口にした。
 「ありがとうございます。なんだか、とても勇気づけられました」女性客は、うれしげな表情を浮かべた。
 女性客との会話が弾み、福本の気分も高揚していた。

 狭い車内に、若い女性の体臭が充満していた。
 そのような中、福本の中で邪悪な感情が湧き出てきた。女性客に対して欲情を覚えていたのだ。
 彼は、久しく女性の体に触れていなかった。
 女性に接する機会がないことで、若い体内に性欲が内攻していた。街中で若い女性の姿を目にして、ムラムラしたことが幾度となくあった。
 そして、目の前の客は自分好みの女性だ。
 会話を続けたことで距離が縮まった分、女性としての存在を強く意識するようになっていた。
 頭の中で、悪魔の声がささやいた。人気のない場所で車を止め、女性客を襲えという声だった。
 目撃者さえいなければ、自分の犯行であることを立証するのは難しい。乗務日誌に記入しなければ、女性客を乗せた記録は残らない。帰社してからの車両清掃を念入りに行えば、女性客が乗車した痕跡を消すこともできるのではないだろうか。
 女性客だって、訴え出ることに抵抗があるだろう。訴え出れば、自分の身に起きたことを洗いざらい話さなければならなくなるのだから。
 そもそも、乗務員の名前など覚えていないだろう。
 悪魔が、都合の良い理屈を並べ立てた。その声を、理性がかき消そうとする。
 しかし、悪魔の力が勝った。強烈な誘惑が吹きつけてきた。頭の中で、白い裸体が浮かんでは消えていく。
 やがて、裸体は消えなくなった。
 福本は、誘惑に負けた。
 そんな彼の視界に、とある光景が広がった。少し進んだ先に廃業した工場があることを福本は知っていた。昼間でも薄暗いところであり、道路からも死角になっている。人も立ち寄らない場所であった。
 車が、廃工場へ向かう曲がり角に差し掛かった。福本は、ハンドルを左に切ろうとした。
 そのときだった。誰かが、福本の耳にささやいた。福本の体が、後ろに引っ張られた。
 「強制わいせつ罪、六月以上十年以下の懲役」
 (六月以上十年以下の懲役……)福本は、我に返った。
体を後ろに引っ張る力は消えていた。

4.
 福本は、廃工場前で車を止めた。エンジンは、かけたままにしておいた。
 女性客が、怪訝な表情を浮かべる。
 運転席から降りた福本は、後部座席に乗り込んだ。ドアを閉め、いきなり女性客に抱きつく。
 「やめてください!」女性客が声を上げた。
 福本は、それ以上しゃべらさないように、女性客の口を片手でふさいだ。もう片方の手を女性客の背中にまわし、体を密着させた後に、ふさいだ口から手を離し、素早く唇を重ねる。
 福本の鼻腔が、女性客が発する甘い香りでむせかえった。
 福本は、激しく唇を吸った。唇を合わせたまま、女性客の胸に触れた。
 シャツのボタンの隙間に、右手を差しこむ。
 二人の唇が離れた。
 「お願いだから、乱暴はしないで」女性客が哀願した。目に涙を浮かべている。
 「もう、ここまでやっちゃったんだ。ここで止めたとしても、罪は同じだ。どうせ、あなたは訴え出るのだろうし」
 「訴えたりなんかしない」
 「えっ?」
 福本は、女性客の顔を見つめた。訴えないとはどういうことなのか。
 「安心して。あなたのことを訴えたりなんてしないから」
 「なぜ?」
 「あなたのことを嫌いじゃないから。時代が最悪な中でもめげずに頑張って、やっと正社員の職を手に入れたという話に感動しました。仕事で悩んでいる私のことを励ましてもくれたし……。私でよければ、あなたのことを励ましてあげたいです。だから、乱暴なんかしないで」
 福本の全身から力が抜けた。胸に触れた手をそっと放した。
 女性客が、福本の首筋に手を回し、体をもたれかけた。
 そのまま、二人は後部座席のシートで抱き合った。
 二人の唇が再び合わさった。舌と舌とが交わる。
 福本の下半身が熱くなった。
 女性客の手が、福本の微妙な部分に触れた。福本も、女性客の微妙な部分に手を伸ばす。
 二人は、狭い車内で抱擁を続けた。

 「大丈夫ですか?」女性客が呼びかけた。
 車は、廃工場へ向かう曲がり角を通り過ぎていた。目的地に向かう道が、まっすぐに伸びている。
 「運転手さんが後ろにのけぞったから、事故でも起こったのかなと思って」
 「申し訳ありません。猫の影が見えたので、轢いちゃいけないと思って、ハンドルを強く握ったのですよ」
 妄想から覚めた福本は、言い訳を口にした。女性客の顔をまともに見ることができずにいた。
 自分は、危うく人としての道を踏み外しそうになった。あのまま誘惑に負けていれば、会社を解雇され、犯罪者としてのレッテルをはられ、一生社会の底辺を彷徨い続けることになっていたのだろう。
 そうなれば、結婚をして家庭を持つことなど、夢のまた夢となる。
 (しかし、なぜ助かったのだろうか?)福本は、不思議な力が加わった感触をよみがえらせた。
 誘惑に負け廃工場へ向かおうという気持ちが固まったときの記憶は鮮明に残っている。全身が、自分はどうなってもいい、ただ目の前の女性をものにしたいという気持ちに支配されていた。
 しかし、現実はハンドルを切ることができなかった。そして今、何ごともなかったかのように目的地の武蔵小杉に向かって車を走らせている。
 福本は、前方に注意しながら、何度も頭の中で首をひねった。

 目的地に到着した。
 「どうもありがとうございました」女性客が、財布から出した二枚の一万円札を福本に差し出した。
 渋滞で走行時間が長くなった関係で、運賃は一万五千円を超えていた。通常ならば一万円前後の距離である。
 福本は、五千円多くお釣りを渡した。女性客が、釣銭の誤りを指摘する。
 「ものすごく時間が掛かってしまいましたから。お客様にご迷惑をおかけしましたので、五千円負けさせてもらいます」
 「でも、そんなことをしたら運転手さんが困るのではないですか?」
 「大丈夫ですよ。お客様第一が我が社の方針ですから。過去にも、このような対応をしたことは何度もありますし、気にせずにしまっておいてください」
 純粋な好意であると受け止めた女性客は、五千円札を財布の中にしまった。
 再び礼を口にし、車から降りる。風に乗って、運転席に甘い香りが運ばれてきた。
 軽く礼をした福本は、ゆっくりと車を走らせた。道は、スムーズに流れている。
 タクシーを拾う客の姿に目を配りながら、福本は、妄想の余韻に浸った。
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