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第1章 非現住建造物等放火罪と妄想
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1.
真島大斗は、むしゃくしゃしていた。自分だけが、世の中から取り残されているように感じていた。
勝ち組と負け組という言葉があるのならば、真島は、生まれてから二十五年間、負け組の世界から抜け出すことができずにいた。
真島は、二歳年上の兄とともに母子家庭で育った。真島が誕生してすぐに父親が他界したからだ。
その後の親子三人の生活は、絵に描いたような極貧生活であった。
もともと体が丈夫ではなかった母親だったが、生活保護に頼るのを良しとはせずに、幼い子どもたちを知人に預け、働きに出かけた。昼間の限られた時間での事務仕事だった。
当然のことながら、給料は安い。
加えて、死んだ父親が残した借金もあり、親子三人はギリギリの生活を強いられてきた。
真島は、今でも小学生のときの給食の時間に取った自分の行動を鮮明に記憶していた。
給食の主食はパンのときが多かった。透明の袋に入れられた三枚の食パンが各自にあてがわれた。
しかし、三枚も食べきれない生徒もおり、そんな生徒たちが食べ残した食パンを真島はもらい集め、家に持ち帰った。子ども心に家が貧しいことを感じており、家計の足しにしたいという思いからだった。
彼の家庭環境を知っている担任の教師も、その行為を見てみぬふりをしていた。
小学生の高学年になると、パンを残す生徒の数も減ってきた。給食のメニューも多様になり、主食がご飯や麺のときも増えてきた。
そんな中、真島の家庭環境を知っているクラスメイトの何人かが、わざとパンを食べ残し、真島のもとへ持ってきた。もらったパンを布で包み鞄の中にしまう真島のことを、周囲の生徒たちは奇異な目で見つめていた。
その中には、真島が密かに思いを寄せていた初恋の相手もいた。
中学を卒業した真島は、高校への進学をあきらめ、就職した。
家に、真島の教育費用を賄うだけの余裕がなかったからだ。若い頃からの苦労がたたった母親が病気がちになり、働けなくなったことが一番の原因だった。
真島は懸命に働き、兄とともに家計を助けた。
中卒者は、社会から冷遇された。驚くほど安い給料で、誰もが敬遠するような下働きをさせられた。
そんな中、真島が社会に出てから三年後に、母親が他界した。
時を同じくして、兄が結婚し、家を出ていった。
真島は、独りぼっちになった。支えてくれる人間がいないまま、社会の底辺でもがき続けた。
そのころから、真島は転職を繰り返すようになった。常に、自分は必要とされていない人間なのではないかと思っていたからだ。ただ、生きるために惰性で働いていた。
そして行きついた先が、今働いている引越し屋だった。
2.
「面白くねーな!」真島は、手にしていたグラスを勢いよくテーブルの上に置いた。中身の安いウィスキーが飛び跳ね、グラスの淵からあふれ出た。
真島の頭の中で、競馬場の着順掲示板の三着と四着の間に表示されたハナの文字が浮かび上がった。
写真判定が解けた瞬間、競馬場内にどっと歓声が沸き、そばでレースを観戦していた若者たちがはしゃぎ出した。その横で、真島が、がっくりと肩を落とす。全身の緊張が一瞬のうちにしぼみ、力が抜け落ちていった。
真島の目には、自分が買っている人気薄の逃げ馬が三着に残ったように映った。最後、猛烈な勢いで追いこんできた一番人気の馬と鼻面を合わせた地点がゴールだった。
(最悪、同着でもいいから)真島は馬券が的中していることを祈った。三着が同着であったとしても、真島の買っている三連単馬券は人気薄の馬同士の組み合わせであり、かなりの高配当が期待できる。
しかし、結果はハナ差負けだった。真島の馬券は、紙くずと化した。
(なんでなんだ?)なぜ自分は、こうも恵まれない人生なのだろうか。
今まで、極貧の世界で生きてきたのだ。たまには、ラッキーなことがあったっていいじゃないか。いったい、オレが何をしたというのだ……。
真島は、人間は生まれたときから運の強弱が決まっているのだと思っていた。幸運な星のもとに生まれた人間は、社会の表舞台で面白おかしく生き続けることができる。反面、自分のように不遇な星のもとに生まれた人間は、社会の底辺で生き続けなければならない。どうあがいても、金持ちなどにはなれない。
そのことを不公平に感じていた。
真島の頭の中が、職場での光景に切り替わった。
真島は、今の職場でも虐げられていた。引越しの仕事には本来学歴など関係ないはずなのだが、中卒者というだけで他の従業員たちよりも安く使われていた。
それだけではない。年下の高卒者たちに顎で使われていた。些細なミスを犯したことに対して、罵声が浴びせられる。小突かれることもあった。
明日は、会社に行く日だ。
みんなが希望する日曜日に休んだことへの風当たりがきつくなることが予想された。自分から希望したのではなくローテーションでたまたま日曜日が休みになっただけなのだが、そのような言い訳は通用しない。
真島は、憂鬱な気分にさいなまれた。
午前零時を回った。
引越し屋の朝は早い。肉体労働なので朝食を抜くわけにはいかず、午前五時半には起きなければならない。
真島は、敷きっぱなしにしてある万年床に目をやった。そろそろ寝なければ明日に響く。
歯を磨いた真島は布団に入った。目をつぶり、体を横にする。
しかし、気持ちとは裏腹に意識は寝ることを拒んでいた。頭の中で嫌な記憶が次々と浮かびあがり、全身がむしゃくしゃしてくる。
「寝られねー!」真島は、暗闇に向かって叫んだ。布団をはねのけ、起き上がり、部屋の明かりをつける。電気傘のスイッチの紐が、ゆらゆらと揺れていた。
真島は、寝間着替わりにしているインナーを脱ぎ、チノパンとポロシャツに着替えた。気持ちを落ち着かせるために夜道を散歩しようと考えたからだ。
財布とタバコ、ライターを手に取りチノパンのポケットにつめ込んだ真島は、家の鍵を手にした。
3.
真夜中の住宅街は静まり返っていた。歩く人の姿もない。街灯が、道路の中央を照らしている。
真島は、街灯の光を避けるように、道路の端をトボトボと歩いた。立ち並ぶ家の部屋の明かりが、ぽつぽつと消えていく。
部屋の主が、明日に備えて布団に入ったのだろう。真島が口にしたことのないような高い酒を晩酌代わりに飲み、ほろ酔い気分のまま快眠へと誘われ、楽しい夢の世界を彷徨い、目覚めと同時に希望へとつながる一日が始まる。
年下の人間から罵声を浴びせられ、小突かれることなどない、人並みのぜいたくを味わうことのできる一日である。
真島は、明かりが消えるたびに、安らかな寝顔を浮かべながら床に就く部屋の主の姿を想像した。想像を重ねるにつれて、自分自身がみじめに思えてきた。
自分は、なぜ眠れないのだろう。なぜ、快眠すら与えられないのだろう。夢の世界で幸せを満喫する権利すら与えられないのか。
真島に、イライラが込み上げてきた。自分は、これだけ苦しんでいるのだ。運悪く、不遇な星のもとに生まれてきたことが原因で。
ベッドの中で安らかに眠る住人たちに対して、怒りが込み上げてきた。
(こうやって苦しんでいる人間がいることを、わかろうとしろ!)胸の中で叫び声を上げる。
しかし、イライラは治まらない。
真島は、発狂しそうになった。暗闇に向かって大声で叫びたい衝動に駆られた。
あてもなく歩き続けた真島は、とあるマンションの敷地内に足を踏み入れた。駐輪場に自転車が並んでいた。
真島は、無意識のうちに駐輪場に近づいた。ママチャリや子ども用の自転車、スポーツタイプの自転車などが整然と並べられている。幸せな毎日を過ごす住人たちが愛用している自転車だ。
真島は、自転車の主の姿を想像した。一家だんらんを楽しんでいる家族、趣味にお金をかけている独身貴族、みな幸運な星のもとに生まれてきた人間たちだ。
真島は、彼らに憎しみを覚えた。彼らの幸せをつぶしてやりたいという衝動に駆られた。
目の前の自転車もろとも、幸せそうな表情を浮かべた彼らのことを燃やしつくしてやりたい。そうすることで、むしゃくしゃした気分も晴れるのではないかと感じた。
真島は、チノパンのポケットからライターを取り出した。点火ドラムに指を置き、回転させる。
カチッという音とともに炎が上がった。炎の先がゆらゆらと揺れている。
火のついたライターを手にした真島は、周囲を見回した。人の姿はない。物音も聞こえてこなかった。
真島は、一台の自転車の前にしゃがみ込み、後輪にライターの火を近づけた。タイヤの溝が、炎の明るさでくっきりと浮かび上がる。
炎とタイヤとの距離が近づいていく。
あと数センチの距離に近づいたときだった。
真島は、全身のバランスを崩した。強い力で体を後ろに引っ張られたような感覚を覚えた。
そのまま、地面にしりもちをつく。
起き上がろうとするのだが、なぜだか全身に力が入らない。
ライターの点火ドラムが熱を帯び、真島は指を離した。
そんな真島に向かって、誰かがささやいた。
「非現住建造物等放火罪、二年以上の懲役」
(二年以上の懲役……)真島は、我に返った。体を後ろに引っ張る力は消えていた。
腰を浮かした真島は、恐る恐る周囲を見回した。
しかし、周囲に人影はない。水を打ったときのように静まり返っていた。
真島は、首をひねった。たしかに、誰かが自分にささやいた。体を後ろに引っ張る力も働いていた。
4.
スポーツタイプの自転車の後輪に火が付いた。ゴムを焼く独特の臭いを発しながら炎が燃え広がる。サドルが火柱を上げ、炎が前輪に燃え移った。
車体を焼き尽くした炎は、隣に停めてあった自転車に燃え移った。電動アシスト付きの三人乗りの自転車だ。電動アシスト部分が、バチバチと音を立てる。
風に煽られ、炎は辺り一面に燃え広がった。
駐輪場に停めてある自転車を次々と焼き尽くしながら燃え広がる炎が、真島の目に幻想的に映る。大きな仕事を成し遂げたかのような錯覚に陥った。
「火事だぁ!」誰かが叫ぶ声が聞こえた。遠くから消防車のサイレンの音が近づいてくる。
真島は、急いで駐輪場から離れた。
マンションの敷地を出て数百メートルほど遠ざかった後に、再びマンションに引き返す。
駐輪場の前には人だかりができていた。自分の自転車が燃えているのを見ながら呆然と立ちつくしている人間がいた。
真島は、爽快な気分になった。幸運な星のもとに生まれてきた人間たちが不幸な目に遭っている。
胸の中で「ざまぁみろ!」と叫んだ。
消防車が到着し、消火作業が始まった。
火は、三十分間ほどで消し止められた。
駐輪場の半分ほどが焼け、焼けこげた自転車の残骸が折り重なるように横たわっていた。
鎮火後、警察と消防による現場検証が始められた。やじ馬たちが事情を聴かれている。
その姿をしり目に、真島は現場を離れた。アパートへと戻る道を軽やかに歩く。
真島は、防犯カメラに映らないように移動した。証拠になるようなものは何も残していない。まず、捕まることはないだろう。
真島のイライラは治まっていた。布団の中で、気持ちよく眠れそうな予感がしていた。
妄想から覚めた真島は、手に握っていたライターを見つめた。火をつけたいという気持ちは消えていた。今さらながら、大それたことをしようとしていたのだと気づいた。
ライターをチノパンのポケットに戻した真島は、立ち上がった。マンションの敷地を出て、自宅アパートへと戻る道を歩き出す。暗闇を、街灯の光を頼りに歩いた。
(自分は、救われたのかもしれない)真島は、自分は救われたのだと思った。あのまま自転車に火をつけていたら、自分は犯罪者になっていたのだ。いずれは警察に捕まり、裁かれることになる。そうなれば、ますます立ち直ることが難しくなる。
不遇な星のもとに生まれたことを呪い続けてきた真島だったが、今回のことに関しては幸運が働いたのだと感じていた。
そんな真島の頭の中に、とある光景が浮かび上がっていた。
新宿歌舞伎町で妄想保険のモニターになることを勧められたときの光景だった。
真島大斗は、むしゃくしゃしていた。自分だけが、世の中から取り残されているように感じていた。
勝ち組と負け組という言葉があるのならば、真島は、生まれてから二十五年間、負け組の世界から抜け出すことができずにいた。
真島は、二歳年上の兄とともに母子家庭で育った。真島が誕生してすぐに父親が他界したからだ。
その後の親子三人の生活は、絵に描いたような極貧生活であった。
もともと体が丈夫ではなかった母親だったが、生活保護に頼るのを良しとはせずに、幼い子どもたちを知人に預け、働きに出かけた。昼間の限られた時間での事務仕事だった。
当然のことながら、給料は安い。
加えて、死んだ父親が残した借金もあり、親子三人はギリギリの生活を強いられてきた。
真島は、今でも小学生のときの給食の時間に取った自分の行動を鮮明に記憶していた。
給食の主食はパンのときが多かった。透明の袋に入れられた三枚の食パンが各自にあてがわれた。
しかし、三枚も食べきれない生徒もおり、そんな生徒たちが食べ残した食パンを真島はもらい集め、家に持ち帰った。子ども心に家が貧しいことを感じており、家計の足しにしたいという思いからだった。
彼の家庭環境を知っている担任の教師も、その行為を見てみぬふりをしていた。
小学生の高学年になると、パンを残す生徒の数も減ってきた。給食のメニューも多様になり、主食がご飯や麺のときも増えてきた。
そんな中、真島の家庭環境を知っているクラスメイトの何人かが、わざとパンを食べ残し、真島のもとへ持ってきた。もらったパンを布で包み鞄の中にしまう真島のことを、周囲の生徒たちは奇異な目で見つめていた。
その中には、真島が密かに思いを寄せていた初恋の相手もいた。
中学を卒業した真島は、高校への進学をあきらめ、就職した。
家に、真島の教育費用を賄うだけの余裕がなかったからだ。若い頃からの苦労がたたった母親が病気がちになり、働けなくなったことが一番の原因だった。
真島は懸命に働き、兄とともに家計を助けた。
中卒者は、社会から冷遇された。驚くほど安い給料で、誰もが敬遠するような下働きをさせられた。
そんな中、真島が社会に出てから三年後に、母親が他界した。
時を同じくして、兄が結婚し、家を出ていった。
真島は、独りぼっちになった。支えてくれる人間がいないまま、社会の底辺でもがき続けた。
そのころから、真島は転職を繰り返すようになった。常に、自分は必要とされていない人間なのではないかと思っていたからだ。ただ、生きるために惰性で働いていた。
そして行きついた先が、今働いている引越し屋だった。
2.
「面白くねーな!」真島は、手にしていたグラスを勢いよくテーブルの上に置いた。中身の安いウィスキーが飛び跳ね、グラスの淵からあふれ出た。
真島の頭の中で、競馬場の着順掲示板の三着と四着の間に表示されたハナの文字が浮かび上がった。
写真判定が解けた瞬間、競馬場内にどっと歓声が沸き、そばでレースを観戦していた若者たちがはしゃぎ出した。その横で、真島が、がっくりと肩を落とす。全身の緊張が一瞬のうちにしぼみ、力が抜け落ちていった。
真島の目には、自分が買っている人気薄の逃げ馬が三着に残ったように映った。最後、猛烈な勢いで追いこんできた一番人気の馬と鼻面を合わせた地点がゴールだった。
(最悪、同着でもいいから)真島は馬券が的中していることを祈った。三着が同着であったとしても、真島の買っている三連単馬券は人気薄の馬同士の組み合わせであり、かなりの高配当が期待できる。
しかし、結果はハナ差負けだった。真島の馬券は、紙くずと化した。
(なんでなんだ?)なぜ自分は、こうも恵まれない人生なのだろうか。
今まで、極貧の世界で生きてきたのだ。たまには、ラッキーなことがあったっていいじゃないか。いったい、オレが何をしたというのだ……。
真島は、人間は生まれたときから運の強弱が決まっているのだと思っていた。幸運な星のもとに生まれた人間は、社会の表舞台で面白おかしく生き続けることができる。反面、自分のように不遇な星のもとに生まれた人間は、社会の底辺で生き続けなければならない。どうあがいても、金持ちなどにはなれない。
そのことを不公平に感じていた。
真島の頭の中が、職場での光景に切り替わった。
真島は、今の職場でも虐げられていた。引越しの仕事には本来学歴など関係ないはずなのだが、中卒者というだけで他の従業員たちよりも安く使われていた。
それだけではない。年下の高卒者たちに顎で使われていた。些細なミスを犯したことに対して、罵声が浴びせられる。小突かれることもあった。
明日は、会社に行く日だ。
みんなが希望する日曜日に休んだことへの風当たりがきつくなることが予想された。自分から希望したのではなくローテーションでたまたま日曜日が休みになっただけなのだが、そのような言い訳は通用しない。
真島は、憂鬱な気分にさいなまれた。
午前零時を回った。
引越し屋の朝は早い。肉体労働なので朝食を抜くわけにはいかず、午前五時半には起きなければならない。
真島は、敷きっぱなしにしてある万年床に目をやった。そろそろ寝なければ明日に響く。
歯を磨いた真島は布団に入った。目をつぶり、体を横にする。
しかし、気持ちとは裏腹に意識は寝ることを拒んでいた。頭の中で嫌な記憶が次々と浮かびあがり、全身がむしゃくしゃしてくる。
「寝られねー!」真島は、暗闇に向かって叫んだ。布団をはねのけ、起き上がり、部屋の明かりをつける。電気傘のスイッチの紐が、ゆらゆらと揺れていた。
真島は、寝間着替わりにしているインナーを脱ぎ、チノパンとポロシャツに着替えた。気持ちを落ち着かせるために夜道を散歩しようと考えたからだ。
財布とタバコ、ライターを手に取りチノパンのポケットにつめ込んだ真島は、家の鍵を手にした。
3.
真夜中の住宅街は静まり返っていた。歩く人の姿もない。街灯が、道路の中央を照らしている。
真島は、街灯の光を避けるように、道路の端をトボトボと歩いた。立ち並ぶ家の部屋の明かりが、ぽつぽつと消えていく。
部屋の主が、明日に備えて布団に入ったのだろう。真島が口にしたことのないような高い酒を晩酌代わりに飲み、ほろ酔い気分のまま快眠へと誘われ、楽しい夢の世界を彷徨い、目覚めと同時に希望へとつながる一日が始まる。
年下の人間から罵声を浴びせられ、小突かれることなどない、人並みのぜいたくを味わうことのできる一日である。
真島は、明かりが消えるたびに、安らかな寝顔を浮かべながら床に就く部屋の主の姿を想像した。想像を重ねるにつれて、自分自身がみじめに思えてきた。
自分は、なぜ眠れないのだろう。なぜ、快眠すら与えられないのだろう。夢の世界で幸せを満喫する権利すら与えられないのか。
真島に、イライラが込み上げてきた。自分は、これだけ苦しんでいるのだ。運悪く、不遇な星のもとに生まれてきたことが原因で。
ベッドの中で安らかに眠る住人たちに対して、怒りが込み上げてきた。
(こうやって苦しんでいる人間がいることを、わかろうとしろ!)胸の中で叫び声を上げる。
しかし、イライラは治まらない。
真島は、発狂しそうになった。暗闇に向かって大声で叫びたい衝動に駆られた。
あてもなく歩き続けた真島は、とあるマンションの敷地内に足を踏み入れた。駐輪場に自転車が並んでいた。
真島は、無意識のうちに駐輪場に近づいた。ママチャリや子ども用の自転車、スポーツタイプの自転車などが整然と並べられている。幸せな毎日を過ごす住人たちが愛用している自転車だ。
真島は、自転車の主の姿を想像した。一家だんらんを楽しんでいる家族、趣味にお金をかけている独身貴族、みな幸運な星のもとに生まれてきた人間たちだ。
真島は、彼らに憎しみを覚えた。彼らの幸せをつぶしてやりたいという衝動に駆られた。
目の前の自転車もろとも、幸せそうな表情を浮かべた彼らのことを燃やしつくしてやりたい。そうすることで、むしゃくしゃした気分も晴れるのではないかと感じた。
真島は、チノパンのポケットからライターを取り出した。点火ドラムに指を置き、回転させる。
カチッという音とともに炎が上がった。炎の先がゆらゆらと揺れている。
火のついたライターを手にした真島は、周囲を見回した。人の姿はない。物音も聞こえてこなかった。
真島は、一台の自転車の前にしゃがみ込み、後輪にライターの火を近づけた。タイヤの溝が、炎の明るさでくっきりと浮かび上がる。
炎とタイヤとの距離が近づいていく。
あと数センチの距離に近づいたときだった。
真島は、全身のバランスを崩した。強い力で体を後ろに引っ張られたような感覚を覚えた。
そのまま、地面にしりもちをつく。
起き上がろうとするのだが、なぜだか全身に力が入らない。
ライターの点火ドラムが熱を帯び、真島は指を離した。
そんな真島に向かって、誰かがささやいた。
「非現住建造物等放火罪、二年以上の懲役」
(二年以上の懲役……)真島は、我に返った。体を後ろに引っ張る力は消えていた。
腰を浮かした真島は、恐る恐る周囲を見回した。
しかし、周囲に人影はない。水を打ったときのように静まり返っていた。
真島は、首をひねった。たしかに、誰かが自分にささやいた。体を後ろに引っ張る力も働いていた。
4.
スポーツタイプの自転車の後輪に火が付いた。ゴムを焼く独特の臭いを発しながら炎が燃え広がる。サドルが火柱を上げ、炎が前輪に燃え移った。
車体を焼き尽くした炎は、隣に停めてあった自転車に燃え移った。電動アシスト付きの三人乗りの自転車だ。電動アシスト部分が、バチバチと音を立てる。
風に煽られ、炎は辺り一面に燃え広がった。
駐輪場に停めてある自転車を次々と焼き尽くしながら燃え広がる炎が、真島の目に幻想的に映る。大きな仕事を成し遂げたかのような錯覚に陥った。
「火事だぁ!」誰かが叫ぶ声が聞こえた。遠くから消防車のサイレンの音が近づいてくる。
真島は、急いで駐輪場から離れた。
マンションの敷地を出て数百メートルほど遠ざかった後に、再びマンションに引き返す。
駐輪場の前には人だかりができていた。自分の自転車が燃えているのを見ながら呆然と立ちつくしている人間がいた。
真島は、爽快な気分になった。幸運な星のもとに生まれてきた人間たちが不幸な目に遭っている。
胸の中で「ざまぁみろ!」と叫んだ。
消防車が到着し、消火作業が始まった。
火は、三十分間ほどで消し止められた。
駐輪場の半分ほどが焼け、焼けこげた自転車の残骸が折り重なるように横たわっていた。
鎮火後、警察と消防による現場検証が始められた。やじ馬たちが事情を聴かれている。
その姿をしり目に、真島は現場を離れた。アパートへと戻る道を軽やかに歩く。
真島は、防犯カメラに映らないように移動した。証拠になるようなものは何も残していない。まず、捕まることはないだろう。
真島のイライラは治まっていた。布団の中で、気持ちよく眠れそうな予感がしていた。
妄想から覚めた真島は、手に握っていたライターを見つめた。火をつけたいという気持ちは消えていた。今さらながら、大それたことをしようとしていたのだと気づいた。
ライターをチノパンのポケットに戻した真島は、立ち上がった。マンションの敷地を出て、自宅アパートへと戻る道を歩き出す。暗闇を、街灯の光を頼りに歩いた。
(自分は、救われたのかもしれない)真島は、自分は救われたのだと思った。あのまま自転車に火をつけていたら、自分は犯罪者になっていたのだ。いずれは警察に捕まり、裁かれることになる。そうなれば、ますます立ち直ることが難しくなる。
不遇な星のもとに生まれたことを呪い続けてきた真島だったが、今回のことに関しては幸運が働いたのだと感じていた。
そんな真島の頭の中に、とある光景が浮かび上がっていた。
新宿歌舞伎町で妄想保険のモニターになることを勧められたときの光景だった。
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