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春一番の吹く晩に
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ひとりきり、夜のふちを指でなぞる。
君を愛していた。
目を瞑る。
三、二、一。
頭の中でカウントして、立ち上がる。重い身体を起こすにも、いちいち力が必要になってしまった。つい数年前までは考えるよりも先に身体が動いたものなのに。
ガラス戸の棚を引き開ける。ハリオのコーヒーミルとカリタのキャニスター。どこかで衝動買いしてきた陶器のドリッパー。きちんと揃えるという概念を知らない彼女の面影がそこにはあった。そういうところが苦手で、そういうところに惹かれていた。
コーヒーを挽く時間が豊かなのだと、彼女は電動ミルを結局買わなかった。おれも買い換えようとは言い出さなかったのだから、豆を挽く音を包み込む沈黙も、夜に静かに流れる時間も愛していたのだろう。今もそうだ。コーヒーを淹れるための湯を沸かしながら、おれは君を愛している。
おれのかけた流行りのポップスにうるさいと顔を顰めて、メタルをかけるような女だった。それなのにコーヒーを淹れる時ばかりは音楽を止めて、じっとケトルから吹き上がる湯気を見つめていた。その横顔に触れてみたかった。触れてみればよかった。いっそ耳に痛いほどの音楽をかけてようやく安らいだ顔をした彼女があの時何を思っていたのか、おれは知らない。
マグカップを手にとって、突然かかってきた電話を思い出す。何色がいい? と開口一番聞いてきたのに面食らったものだ。わざわざ確認されたのは初めてだった。
戸惑いながら紺と答えた。じゃあおそろい、と笑って彼女はすぐさま電話を切ってしまった。
嵐のような、というのは少し乱暴だ。ひとところに留まることができず、変化を愛していたが、同時に情のある女だった。あえて例えるのなら、そう、春一番か。
帰ってきてから荷物もそのままにコーヒーを淹れた横顔を思い出す。常とは打って変わってしとやかな手つきだった。揃いのマグカップをふたつ机に置いて、滑り落ちた黒髪をかき上げて、あなたとコーヒーが飲みたかったと彼女は笑った。自由でうつくしい。気ままなくせ、時折妙に嫋やかに笑う女だった。
カップをふたつ並べる。挽きたての匂い立つ豆に、丁寧に、細く細く湯を注ぐ。ケトルも、ミルも、メジャースプーンも、どれも二杯分のために用意されている。だから、当然のように二杯淹れながら、おれは彼女を想う。
これよりほかには、もう彼女のものは残っていない。彼女もおれも、それを望んだ。このマグカップは唯一の裏切りで、断ち切ることのできなかった愛執だった。
「君だけだよ」
縛られることも、縛ることも嫌った彼女には叱られるのかもしれないと思いながら、コーヒーに口をつける。
この苦みを、どうしようもなく愛していた。
君を愛していた。
目を瞑る。
三、二、一。
頭の中でカウントして、立ち上がる。重い身体を起こすにも、いちいち力が必要になってしまった。つい数年前までは考えるよりも先に身体が動いたものなのに。
ガラス戸の棚を引き開ける。ハリオのコーヒーミルとカリタのキャニスター。どこかで衝動買いしてきた陶器のドリッパー。きちんと揃えるという概念を知らない彼女の面影がそこにはあった。そういうところが苦手で、そういうところに惹かれていた。
コーヒーを挽く時間が豊かなのだと、彼女は電動ミルを結局買わなかった。おれも買い換えようとは言い出さなかったのだから、豆を挽く音を包み込む沈黙も、夜に静かに流れる時間も愛していたのだろう。今もそうだ。コーヒーを淹れるための湯を沸かしながら、おれは君を愛している。
おれのかけた流行りのポップスにうるさいと顔を顰めて、メタルをかけるような女だった。それなのにコーヒーを淹れる時ばかりは音楽を止めて、じっとケトルから吹き上がる湯気を見つめていた。その横顔に触れてみたかった。触れてみればよかった。いっそ耳に痛いほどの音楽をかけてようやく安らいだ顔をした彼女があの時何を思っていたのか、おれは知らない。
マグカップを手にとって、突然かかってきた電話を思い出す。何色がいい? と開口一番聞いてきたのに面食らったものだ。わざわざ確認されたのは初めてだった。
戸惑いながら紺と答えた。じゃあおそろい、と笑って彼女はすぐさま電話を切ってしまった。
嵐のような、というのは少し乱暴だ。ひとところに留まることができず、変化を愛していたが、同時に情のある女だった。あえて例えるのなら、そう、春一番か。
帰ってきてから荷物もそのままにコーヒーを淹れた横顔を思い出す。常とは打って変わってしとやかな手つきだった。揃いのマグカップをふたつ机に置いて、滑り落ちた黒髪をかき上げて、あなたとコーヒーが飲みたかったと彼女は笑った。自由でうつくしい。気ままなくせ、時折妙に嫋やかに笑う女だった。
カップをふたつ並べる。挽きたての匂い立つ豆に、丁寧に、細く細く湯を注ぐ。ケトルも、ミルも、メジャースプーンも、どれも二杯分のために用意されている。だから、当然のように二杯淹れながら、おれは彼女を想う。
これよりほかには、もう彼女のものは残っていない。彼女もおれも、それを望んだ。このマグカップは唯一の裏切りで、断ち切ることのできなかった愛執だった。
「君だけだよ」
縛られることも、縛ることも嫌った彼女には叱られるのかもしれないと思いながら、コーヒーに口をつける。
この苦みを、どうしようもなく愛していた。
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