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ヒトコマ・シリーズ

崖に咲く、一輪の花を君に。

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「あ……」

 切り立った崖の中腹に生えるその花を見つけて、ティリスは呼び止められたように、足を止めた。
 芯に近付くにつれて白くなるタイプの、コバルトブルーの可憐な花だ。

「どうした?」
「あそこ。花が咲いてるだろ。イスファヴァネって言うんだ」
「ふうん」

 それが何か面白いか? と、レオンが気のない返事をする。

「母上が好きでさ。若い頃、母上のために、父上が崖登りして摘んできてやったんだって。それで、母上の心も動いたって聞いたな」

 レオンがふとティリスを見る。

「……おまえも好きなのか?」
「うん? 好きって言うか、同じ名前のよしみかなぁ。見つけると、気になっちゃってさ」
「同じ名前?」

 おまえティリスだろうと、一文字しか同じじゃないぞとレオンが抗議する。
 何だかなあ。
 改めて、こいつ、名前も知らずに人に手ぇ出してんだよな。

 ――て、オレもか。

 そういえば、オレもレオンのフルネーム言えないや。

「ティリス・トルエルイスファヴァネ・クルルイーゼル。オレ、ミドルネーム、イスファヴァネって言うんだ」
「……。似合わないぞ」

 カタリーナがいたら張り倒すところだが、自分でも似合わないと思うティリスは気にしない。

「父上もなあ。何を思って、イスファヴァネなんてつけたんだろうな。イスファヴァネって、高嶺の花の代名詞なんだぜ」
「誰が。」
「だから、似合わないのはわかってるってばっ」

 正装中のティリスは十分にイスファヴァネであり、父王はそれを願って命名したのであろうが、(いや、単に意中の人に振り向いてもらえたのがよほど嬉しかっただけなのかもしれない)ティリスに自覚は微塵もないのだった。
 ちなみに、本名とならずにミドルネームとなっているのは、母妃が長すぎる、と一蹴したからに他ならない。
 王はやっぱり泣かされていた。

「――摘んでやればいいんだな?」
「え? いいよ、おまえ、崖登りなんて無理だろ。怪我するからやめろよ」
「……? どうして崖を登らなければならないんだ」

 何かいやな予感を覚え、ティリスが止めようとした時だった。
 レオンが鮮やかに、瞳を真紅に光らせた。
 ……ボトリ。
 花が落ちてきた。

「てめえ……、てめえ、今どおゆう摘み方した!?」
「……? 何が気に入らないんだ。根元を腐らせて落としただけだぞ」

 哀れなイスファヴァネは、落ちてくる途中で汚れたり、痛んだり、そもそもしおれ気味だ。

「どあほう! それが女に贈る花の摘み方かっ!? だいたい、言っただろ、この花『イスファヴァネ』なんだぞ!?」
「……だから?」
「オレの根元を腐らせて落とすのかよっ! ――おまえなんか、おまえなんか、大っ嫌いだあーっ!!」

 ティリスは涙目になって、哀れなイスファヴァネを拾い上げた。
 くそう。あんなに綺麗に咲いていたのに、あんまりだ。
 嫌い嫌い嫌い。レオンなんて大嫌いだ。
 レオンは不満げにしていたが、落ちたイスファヴァネを一輪手に取ると、ふっと笑みを見せた。
 軽く土を払って綺麗にしたイスファヴァネを、ティリスを手招いて、その髪に挿す。
 ティリスが真っ赤になってうろたえるのを、おかしそうに見ていた。

「似合うぞ。綺麗だ」
「な、ななな何言って――」

 レオンが無造作に、絶壁側にティリスを追い詰め、口付ける。
 ん、と、小さな声を上げて、ティリスはただ苦しくて、レオンの黒衣の袖を握り締めた。
 興に乗ったレオンがその首筋へ、胸元へと、続けて口付けを落とそうとする。
 ――が。

「な、何する気だ! てか、おまえ、今の状況わかってるのか!?」
「……。」

 レオンは不機嫌そうにふいと目を逸らした。

「迷子なんだぞ!? だから右だって言ったのに、おまえが……」
「うるさいな、黙れ。おまえについて行ってやるから、さっさと案内しろ。僕は城に帰りたいぞ」
「……てめぇ。」



 ――迷い込んだ山は絶望的に広く、どこまでも険しいのだった。



【絵】蒼蓉菜都様
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