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第三章 永遠のまどろみ
3-3. 皇子様はお姫様をとなりに座らせたい
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ああもう、わかんないったら!
ティリスはむっつりと口元を引き結び、何だと馬車の床を蹴った。
レオンは絶対、皇帝が言ったくらいのことで、彼女を殺したりしないと思うのに。
あれだけ何度も殺されかけて、そう思う彼女がおかしいのだろうか。
いずれにしても、だったら、レオンにどう接しろって――
「ティリス」
レオンがふいに声をかけてきた。
ぽんぽんと、自分の隣の席を示す。
「……何?」
「こっちに座れ」
なにーっ!?
「いいよ、オレこっちで。それより、カタリーナも一緒がいい」
そうなのだ。
てっきり同じ馬車に乗れるものだと思っていたのに、バラバラにされてしまった。
ロズさえいない。(さすがにゾンビと同じ馬車、というのはかんべんだけれど)
「僕がこっちと言うんだ、こっちに座れ」
「やだ」
「何でだ」
「何でって――!」
ティリスはかーっと赤くなり、レオンからあわてて顔を背けた。
悪かったな、どうせ異性だと思って意識してるよ、オレは!
「やだって言ったらやなの! ほっとけよっ」
レオンはムっとしたようだ。
「おまえ、カムラにいる間は僕の従者なんだろう? どうして言うことを聞かないんだ」
「そういう意味じゃないだろ!? 王子として扱え、王子として! つーか、従者として適切な命令だったら聞くけど、隣に座れなんて変だろ!」
どこが? と、レオンが怪訝そうな顔でティリスを見る。
ティリスはめまいを覚えた。
――ロズ、これ、オレにどう教育し直せって言うんだよ~っ!
教育し直す必要はおおいに感じるが、こんなのとても、彼女には教育し直せない。
「座れ」
レオンの声に、ついに怒気がはらまれた。
次、死霊術、来る――
ティリスは冷や汗をかいて、聖笛をぎゅっと握り締めた。
どうしよう。
聖笛はあるけど、こんなところで切り札、使っていいのだろうか。
状況が状況だけに、下手をしたら取り上げられる恐れがある。
「……わ……かったよ。……変なことするなよ……?」
ティリスは仕方なしに立ち上がり、レオンの隣に移動すると、口をへの字に曲げてそっぽを向いた。
「ティリス」
「……なに」
ティリスは心底不機嫌に、レオンを見もせずに返事した。
それをいきなり抱き寄せられて、心臓が止まるかと思った。
「な、何す……!」
レオンは悪びれもせず、彼の肩に寄りかかって休むようにと、指示した。
何だそれーっ!?
「やだ! ぜってーやだ! 死んでもやだ!」
「何でだ」
てか、このパターンやめろよ!
――カタリーナっ!
「い、言う通りにしたら……じゃあ、オレの言うことも聞くか……?」
わらにもすがる思いで、ティリスはいつかロズが言った、『レオンはあなたの言うことなら聞くよ』という言葉を試していた。
すっごく、やだとか言いそうだよ~。
「何だ?」
「オレ、カタリーナと一緒がいいんだ」
レオンはいやそうに顔をしかめた。
ほら。
ティリスが肩を落としてうなだれた時だ。
沈黙していたレオンが、しまいに了解した。
「わかった」
ティリスはびっくりして、レオンの正気を疑うように彼を見直した。
「ほ、ほんとに……?」
「? おまえ、そうしたいんだろう?」
ティリスは小さくうなずくと、逆に、後に引けなくなったことに気付いた。
おとなしく待っているレオンの黒衣をつかみ、男性標準の――ティリスにとっては広い肩を見て、う~と唸った。
「ティリス?」
「あ……あのさ、どうしても……? やっぱり、やだとか言ったら……」
レオンがむっとして、強引に彼女をとらえようとする気配を感じ、ティリスはあわてて押しとどめた。
「わかった、わかったよ!」
ティリスはこくりと喉を鳴らすと、目をわずかにあらぬ方へと逸らしながら、仕方なしにレオンに寄り添った。
手が震える。
――だって、レオンのやつ、すまして座ってる時、かっこいいんだよ!
こんなの、意識するなというのが無理だ。
やっとのことで頭をレオンにもたせたティリスを、レオンの腕が軽くとらえた。
「……っ……」
その髪に遊ぶように指を絡めて、レオンが口付けてきて――
「ひゃあっ」
たまらず立ち上がり、ティリスは逃げ込むように向かいの席に戻った。
その間、およそ8秒くらいだろうか。
「ティリス?」
「も、もういいだろ。カタリーナ……」
ダン! と、レオンがティリスの肩をつかんで馬車に押し付けた。
「なに……」
やばい、怒ってる、やばい!
8秒やばい!
「や、やだ……」
怒りのあまりか、レオンは言葉さえ、発さなかった。
だけれど、これ以上ああしていたら、ずっとああしていたくなりそうだったのだ。
射抜くような瞳がティリスを射すくめ、レオンの指が、ティリスの上衣にかけられた。
「なに……」
「動くな。――従え」
怒りに満ちた声で言い渡し、ティリスの首筋を覆う上衣をどけると、レオンは容赦なくそこに口付けを落とした。ティリスの鎖骨の辺りに、痛みにも似た、熱。
「――は…くっ……!」
苦しい――!!
何をされているのかもわからないのに、ただ、痛くてひどく苦しかった。
やっと解放された時には、ティリスは腰くだけになって、座席に座り込んだ。口付けられた部分がまだ熱を帯び、苦しくて、無意識に利き手で押さえた。
「……本当に、角女を呼ぶ気か? 僕は気に入らないぞ。あいつは嫌いだ。いつも邪魔ばかりする」
レオンが言った。
邪魔してほしいから呼ぶんだろ!?
そう切ろうとする啖呵が、出なかった。声そのものが出ない。
泣きそうになりながら、それでも呼ぶんだと、ティリスが身ぶりで訴えると、ため息をついてレオンが立ち上がった。
馬車を止め、カタリーナを呼びに出て行く。
「あ……」
レオンが出て行くと、ひどい苦しさとも、痛みともつかないものがティリスを襲った。
何で――!
**――*――**
「まったく、迎えが遅いんですわ」
馬車の外から、聞き慣れたカタリーナの声。
ほっとしたのに、ティリスは動けなかった。
「ティリス様……!?」
両手で顔を覆ったまま、ティリスは動かない。
それを見たカタリーナが真っ青になって、憎しみを込めてレオンを睨んだ。
「ティリス様に何をっ!」
レオンはくすりと笑うと、その手をすっとティリスへと差し伸べた。
「ティリス」
わずかに身を震わせて、ティリスが顔を上げる。
「おいで」
「ふざけないで! あなた――!!」
怒るカタリーナの横で、ティリスはじっとレオンの手を凝視して、魅入られたようにその手を伸ばした。
触れたい。取りたい。抱いて欲――
しくないっ!!
ティリスはきゅっと伸ばしかけた手を握り締めると、引いた。
レオンが途端に不機嫌な顔をして、つまらなさそうに二人の向かいに腰かける。
ああ――
差し伸べられた手を失うと、ひどく胸が痛んで、どうにもならなくなって、ティリスはとうとう、耐え切れずに泣いた。顔を覆った指の隙間から、涙が幾筋もこぼれ落ちた。
痛いのだ。胸が苦しくて、たまらない。気が狂いそう――!!
「ティリス様! レオン皇子、あなた、ティリス様に何をしたんです!」
血相を変えたカタリーナの詰問に、しかし、レオンはわかっていない答えを返した。
「石榴の烙印――蠱惑の術だと聞いたが、ちっとも効かないな」
ティリスは愕然としてレオンを見た。
何だって――!?
「……!! 愚か者! どういう了見なのです、解きなさい、今、すぐ!!」
レオンはなお、わかっていなかった。
「効いていないのにか?」
効いてる。
マジ効いてる。
どうにかしてくれ!!
ティリスの心の叫びなんて、知るよしもないレオンだ。てゆーか気付け。見て気付け。おかしいだろ!?
なのにレオンは「だって手を取らない」とぶーぶー抗議するばかりだ。
ティリスはもう、ぼろぼろに泣いていた。何もかもが悲しくて、悔しくて、絶望的だった。
「いいから解きなさい! ティリス様が苦しまれているのがわからないのですか!」
レオンは納得いかなげに、それでも仕方なさげにティリスを呼んで、もう一度手を差し出した。
「ティリス様、立てますか――?」
カタリーナにつかまって立ち上がったが、体の震えがひどい。
差し出されたレオンの手に、抗うのが――
抑え――効かないっ!
飛び込むようにレオンの胸にすがりついて、たまらず、ティリスはそこに顔を埋めた。
「ティリス――? どうしたんだ」
レオンは本気で『蠱惑』=『手を取らせること』だと限定的に考えていた。
だから、少し驚きながら、それでもティリスが震えているから抱き締めた。
「馬鹿皇子!! いいから解きなさいイぃいィっ!!!」
カタリーナの怒髪天を衝き、この世の地獄のような光景が具現した。これに恐れをなさないレオン、ただ者ではない。
「うるさいな、ティリスがおかしいんだ」
「何言ってんだ、おまえがおかしくしたんじゃないか!」
これはティリス。
レオンの腕の中だと落ち着けて、おかげで離れられずに、しがみついたまま抗議するハメに陥っていた。
「……効いているのか?」
「効いてるよ!」
「……なら、どうして手を取らないんだ」
馬鹿だ。
こいつマジ馬鹿だ。
「~」
レオンが答えられないティリスの手を取ると、ティリスもきゅっと握り返した。
「なんだ……取りたかったのか」
ティリスは真っ赤になってそっぽを向いた。
「おだまり! いいからさっさと解きなさいっ!!」
レオンはわずらわしそうにカタリーナを見て、仕方なさげにティリスの上衣に手をかけた。
「何を――!」
「解くんだ、邪魔するな」
レオンは再度、烙印を押した位置に口付けた。
「――うっ…やっ………!」
ティリスが苦しげな声を漏らすのに、カタリーナは気が狂いそうになりながら、耐えて待たざるを得なかった。
「解いたぞ」
ティリスの中にあった、言葉にできないほどの苦しさが、潮が引くように消えていった。
彼女は震えながら上衣を直すと、真っ向からレオンを見据え、そして。
パンっ!
渾身の力を込めて、その頬を張った。
「おまえ、最低だ!! 降りる! オレもう、降りる!!」
レオンがびっくりして、何事かとティリスを見た。
「どうして最低なんだ、わかるように説明しろ!」
「わかるように……!?」
ティリスは強張った笑みを浮かべて、溢れる涙を拭おうともせずに、言い募った。
「人の心まで勝手にしといて、わからないのか! 誰に教わったんだよ! こんな――」
どうせ皇帝だろうと、皇帝から最悪なんだと言い放とうとしていたティリスに、レオンが思わぬ答えを返した。
「母上だ。よく、父上にかけていらした」
――えっ?
……かけていらした、……って……。
「そ、それって」
ちょっと待て。恋愛結婚じゃなかったのか!? それ、夢もロマンもない。マジない。死霊術師と方術師なんて、ちょっと見ない組み合わせなのに、父君、術に負けただけ……!?
「良い術だから、機会があったら使いなさいと勧められた。ただ、手を取るくらいが関の山の、子供だましの術だと言われたが」
――今、何て?
「うそ……だ……」
レオンの術に、負けるのは知っていた。
だけど、そんなに弱いはず――
「嘘だ!!」
**――*――**
その後、ティリスは一言も口をきかなかった。
レオンへの怒りより、彼女自身への疑念でいっぱいで、何をどう考えたらいいのか、まるでわからなかったのだ。ただ、混乱した。
カタリーナがずっと手を握ってくれていて、それだけが、支えだった。
カムラに到着し、馬車がついに止まると、ティリスはすぐに馬車を飛び出した。
「――ロズ!」
レオンに聞いた馬車まで駆けて、とにかく呼吸を整え、ロズが下りてくるなり呼び止めた。
「……姫?」
「あの……あのさ、ロズ、『石榴の烙印』って……」
どう、聞いたらいいのだ。こんなこと――
しかし、ロズははや察したようだった。
「レオンにかけられたんだね。――効いたのかい?」
ティリスは唇をかんでうつむいた。
すると、ロズが穏やかに言った。
「姫には、随分効いたかもしれないね」
ティリスはますます愕然とした。
「どうして……! オレ、そんなに精神力、ないのかよ!」
ロズは答えなかった。代わりに問う。
「どのくらい?」
それはロズらしからぬ、残酷な問い。
「……最悪――」
「抵抗したんだね」
ティリスが暗い瞳でうなずくと、苦しかっただろうねと、ロズが語り始めた。
「姫、あれは蠱惑の術ではないんだ」
え、と。じゃあ何なのかと、ティリスがロズを見る。
「『石榴の烙印』は死霊術――死霊術に蠱惑の術はないんだよ。あの術は、最初で最後の秘術と呼ばれる、最も美しく、最も死霊術の粋に根ざした、簡単で抵抗できない術なんだ」
「でも、レオンは子供だましの術だって……!」
ロズはあくまで穏やかだった。
「それはね、あれが、引き止めないと術者を失うような不安に駆られる――本来、術者が死の衝動に駆られた時に、審判代わりに使う術だから。貴女が感じた痛みは、レオンを亡くした時に覚える痛み――姫は優しい。そして、レオンが好きなんだね。抵抗したなら、レオンを殺したほどの痛みを覚えたはずだ。――さぞ、つらかっただろう」
殺したほどの痛み……?
「しかし、残念ながら、そこまでの効果が出るのは極めて稀でね。蠱惑の術だと思っていないと、死霊術師にとって、致命的な心の傷になることがある。効果が出ないということは、死んでもいいと思われている、ということだから――だから、あの術は『蠱惑の術』として伝えられているんだよ」
何だか急に、心が軽くなった気がしていた。
「……じゃあ、オレの心が弱いってわけじゃ――」
「姫の心が真っ直ぐだという証に他ならない。大切なものを失った時に、心を痛められるということは、むしろ、強さだから――大切にするといい。貴方の心の美しさだよ」
ロズの話は難しかったが、肝心なのは、『心が弱くて効果が出たわけではない』ということだ。
ティリスは心底ほっとして、礼を言って、ロズをレオンの許まで案内した。
ティリスはむっつりと口元を引き結び、何だと馬車の床を蹴った。
レオンは絶対、皇帝が言ったくらいのことで、彼女を殺したりしないと思うのに。
あれだけ何度も殺されかけて、そう思う彼女がおかしいのだろうか。
いずれにしても、だったら、レオンにどう接しろって――
「ティリス」
レオンがふいに声をかけてきた。
ぽんぽんと、自分の隣の席を示す。
「……何?」
「こっちに座れ」
なにーっ!?
「いいよ、オレこっちで。それより、カタリーナも一緒がいい」
そうなのだ。
てっきり同じ馬車に乗れるものだと思っていたのに、バラバラにされてしまった。
ロズさえいない。(さすがにゾンビと同じ馬車、というのはかんべんだけれど)
「僕がこっちと言うんだ、こっちに座れ」
「やだ」
「何でだ」
「何でって――!」
ティリスはかーっと赤くなり、レオンからあわてて顔を背けた。
悪かったな、どうせ異性だと思って意識してるよ、オレは!
「やだって言ったらやなの! ほっとけよっ」
レオンはムっとしたようだ。
「おまえ、カムラにいる間は僕の従者なんだろう? どうして言うことを聞かないんだ」
「そういう意味じゃないだろ!? 王子として扱え、王子として! つーか、従者として適切な命令だったら聞くけど、隣に座れなんて変だろ!」
どこが? と、レオンが怪訝そうな顔でティリスを見る。
ティリスはめまいを覚えた。
――ロズ、これ、オレにどう教育し直せって言うんだよ~っ!
教育し直す必要はおおいに感じるが、こんなのとても、彼女には教育し直せない。
「座れ」
レオンの声に、ついに怒気がはらまれた。
次、死霊術、来る――
ティリスは冷や汗をかいて、聖笛をぎゅっと握り締めた。
どうしよう。
聖笛はあるけど、こんなところで切り札、使っていいのだろうか。
状況が状況だけに、下手をしたら取り上げられる恐れがある。
「……わ……かったよ。……変なことするなよ……?」
ティリスは仕方なしに立ち上がり、レオンの隣に移動すると、口をへの字に曲げてそっぽを向いた。
「ティリス」
「……なに」
ティリスは心底不機嫌に、レオンを見もせずに返事した。
それをいきなり抱き寄せられて、心臓が止まるかと思った。
「な、何す……!」
レオンは悪びれもせず、彼の肩に寄りかかって休むようにと、指示した。
何だそれーっ!?
「やだ! ぜってーやだ! 死んでもやだ!」
「何でだ」
てか、このパターンやめろよ!
――カタリーナっ!
「い、言う通りにしたら……じゃあ、オレの言うことも聞くか……?」
わらにもすがる思いで、ティリスはいつかロズが言った、『レオンはあなたの言うことなら聞くよ』という言葉を試していた。
すっごく、やだとか言いそうだよ~。
「何だ?」
「オレ、カタリーナと一緒がいいんだ」
レオンはいやそうに顔をしかめた。
ほら。
ティリスが肩を落としてうなだれた時だ。
沈黙していたレオンが、しまいに了解した。
「わかった」
ティリスはびっくりして、レオンの正気を疑うように彼を見直した。
「ほ、ほんとに……?」
「? おまえ、そうしたいんだろう?」
ティリスは小さくうなずくと、逆に、後に引けなくなったことに気付いた。
おとなしく待っているレオンの黒衣をつかみ、男性標準の――ティリスにとっては広い肩を見て、う~と唸った。
「ティリス?」
「あ……あのさ、どうしても……? やっぱり、やだとか言ったら……」
レオンがむっとして、強引に彼女をとらえようとする気配を感じ、ティリスはあわてて押しとどめた。
「わかった、わかったよ!」
ティリスはこくりと喉を鳴らすと、目をわずかにあらぬ方へと逸らしながら、仕方なしにレオンに寄り添った。
手が震える。
――だって、レオンのやつ、すまして座ってる時、かっこいいんだよ!
こんなの、意識するなというのが無理だ。
やっとのことで頭をレオンにもたせたティリスを、レオンの腕が軽くとらえた。
「……っ……」
その髪に遊ぶように指を絡めて、レオンが口付けてきて――
「ひゃあっ」
たまらず立ち上がり、ティリスは逃げ込むように向かいの席に戻った。
その間、およそ8秒くらいだろうか。
「ティリス?」
「も、もういいだろ。カタリーナ……」
ダン! と、レオンがティリスの肩をつかんで馬車に押し付けた。
「なに……」
やばい、怒ってる、やばい!
8秒やばい!
「や、やだ……」
怒りのあまりか、レオンは言葉さえ、発さなかった。
だけれど、これ以上ああしていたら、ずっとああしていたくなりそうだったのだ。
射抜くような瞳がティリスを射すくめ、レオンの指が、ティリスの上衣にかけられた。
「なに……」
「動くな。――従え」
怒りに満ちた声で言い渡し、ティリスの首筋を覆う上衣をどけると、レオンは容赦なくそこに口付けを落とした。ティリスの鎖骨の辺りに、痛みにも似た、熱。
「――は…くっ……!」
苦しい――!!
何をされているのかもわからないのに、ただ、痛くてひどく苦しかった。
やっと解放された時には、ティリスは腰くだけになって、座席に座り込んだ。口付けられた部分がまだ熱を帯び、苦しくて、無意識に利き手で押さえた。
「……本当に、角女を呼ぶ気か? 僕は気に入らないぞ。あいつは嫌いだ。いつも邪魔ばかりする」
レオンが言った。
邪魔してほしいから呼ぶんだろ!?
そう切ろうとする啖呵が、出なかった。声そのものが出ない。
泣きそうになりながら、それでも呼ぶんだと、ティリスが身ぶりで訴えると、ため息をついてレオンが立ち上がった。
馬車を止め、カタリーナを呼びに出て行く。
「あ……」
レオンが出て行くと、ひどい苦しさとも、痛みともつかないものがティリスを襲った。
何で――!
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「まったく、迎えが遅いんですわ」
馬車の外から、聞き慣れたカタリーナの声。
ほっとしたのに、ティリスは動けなかった。
「ティリス様……!?」
両手で顔を覆ったまま、ティリスは動かない。
それを見たカタリーナが真っ青になって、憎しみを込めてレオンを睨んだ。
「ティリス様に何をっ!」
レオンはくすりと笑うと、その手をすっとティリスへと差し伸べた。
「ティリス」
わずかに身を震わせて、ティリスが顔を上げる。
「おいで」
「ふざけないで! あなた――!!」
怒るカタリーナの横で、ティリスはじっとレオンの手を凝視して、魅入られたようにその手を伸ばした。
触れたい。取りたい。抱いて欲――
しくないっ!!
ティリスはきゅっと伸ばしかけた手を握り締めると、引いた。
レオンが途端に不機嫌な顔をして、つまらなさそうに二人の向かいに腰かける。
ああ――
差し伸べられた手を失うと、ひどく胸が痛んで、どうにもならなくなって、ティリスはとうとう、耐え切れずに泣いた。顔を覆った指の隙間から、涙が幾筋もこぼれ落ちた。
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「ティリス様! レオン皇子、あなた、ティリス様に何をしたんです!」
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「石榴の烙印――蠱惑の術だと聞いたが、ちっとも効かないな」
ティリスは愕然としてレオンを見た。
何だって――!?
「……!! 愚か者! どういう了見なのです、解きなさい、今、すぐ!!」
レオンはなお、わかっていなかった。
「効いていないのにか?」
効いてる。
マジ効いてる。
どうにかしてくれ!!
ティリスの心の叫びなんて、知るよしもないレオンだ。てゆーか気付け。見て気付け。おかしいだろ!?
なのにレオンは「だって手を取らない」とぶーぶー抗議するばかりだ。
ティリスはもう、ぼろぼろに泣いていた。何もかもが悲しくて、悔しくて、絶望的だった。
「いいから解きなさい! ティリス様が苦しまれているのがわからないのですか!」
レオンは納得いかなげに、それでも仕方なさげにティリスを呼んで、もう一度手を差し出した。
「ティリス様、立てますか――?」
カタリーナにつかまって立ち上がったが、体の震えがひどい。
差し出されたレオンの手に、抗うのが――
抑え――効かないっ!
飛び込むようにレオンの胸にすがりついて、たまらず、ティリスはそこに顔を埋めた。
「ティリス――? どうしたんだ」
レオンは本気で『蠱惑』=『手を取らせること』だと限定的に考えていた。
だから、少し驚きながら、それでもティリスが震えているから抱き締めた。
「馬鹿皇子!! いいから解きなさいイぃいィっ!!!」
カタリーナの怒髪天を衝き、この世の地獄のような光景が具現した。これに恐れをなさないレオン、ただ者ではない。
「うるさいな、ティリスがおかしいんだ」
「何言ってんだ、おまえがおかしくしたんじゃないか!」
これはティリス。
レオンの腕の中だと落ち着けて、おかげで離れられずに、しがみついたまま抗議するハメに陥っていた。
「……効いているのか?」
「効いてるよ!」
「……なら、どうして手を取らないんだ」
馬鹿だ。
こいつマジ馬鹿だ。
「~」
レオンが答えられないティリスの手を取ると、ティリスもきゅっと握り返した。
「なんだ……取りたかったのか」
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「おだまり! いいからさっさと解きなさいっ!!」
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「何を――!」
「解くんだ、邪魔するな」
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「――うっ…やっ………!」
ティリスが苦しげな声を漏らすのに、カタリーナは気が狂いそうになりながら、耐えて待たざるを得なかった。
「解いたぞ」
ティリスの中にあった、言葉にできないほどの苦しさが、潮が引くように消えていった。
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パンっ!
渾身の力を込めて、その頬を張った。
「おまえ、最低だ!! 降りる! オレもう、降りる!!」
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「どうして最低なんだ、わかるように説明しろ!」
「わかるように……!?」
ティリスは強張った笑みを浮かべて、溢れる涙を拭おうともせずに、言い募った。
「人の心まで勝手にしといて、わからないのか! 誰に教わったんだよ! こんな――」
どうせ皇帝だろうと、皇帝から最悪なんだと言い放とうとしていたティリスに、レオンが思わぬ答えを返した。
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――えっ?
……かけていらした、……って……。
「そ、それって」
ちょっと待て。恋愛結婚じゃなかったのか!? それ、夢もロマンもない。マジない。死霊術師と方術師なんて、ちょっと見ない組み合わせなのに、父君、術に負けただけ……!?
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「うそ……だ……」
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「――ロズ!」
レオンに聞いた馬車まで駆けて、とにかく呼吸を整え、ロズが下りてくるなり呼び止めた。
「……姫?」
「あの……あのさ、ロズ、『石榴の烙印』って……」
どう、聞いたらいいのだ。こんなこと――
しかし、ロズははや察したようだった。
「レオンにかけられたんだね。――効いたのかい?」
ティリスは唇をかんでうつむいた。
すると、ロズが穏やかに言った。
「姫には、随分効いたかもしれないね」
ティリスはますます愕然とした。
「どうして……! オレ、そんなに精神力、ないのかよ!」
ロズは答えなかった。代わりに問う。
「どのくらい?」
それはロズらしからぬ、残酷な問い。
「……最悪――」
「抵抗したんだね」
ティリスが暗い瞳でうなずくと、苦しかっただろうねと、ロズが語り始めた。
「姫、あれは蠱惑の術ではないんだ」
え、と。じゃあ何なのかと、ティリスがロズを見る。
「『石榴の烙印』は死霊術――死霊術に蠱惑の術はないんだよ。あの術は、最初で最後の秘術と呼ばれる、最も美しく、最も死霊術の粋に根ざした、簡単で抵抗できない術なんだ」
「でも、レオンは子供だましの術だって……!」
ロズはあくまで穏やかだった。
「それはね、あれが、引き止めないと術者を失うような不安に駆られる――本来、術者が死の衝動に駆られた時に、審判代わりに使う術だから。貴女が感じた痛みは、レオンを亡くした時に覚える痛み――姫は優しい。そして、レオンが好きなんだね。抵抗したなら、レオンを殺したほどの痛みを覚えたはずだ。――さぞ、つらかっただろう」
殺したほどの痛み……?
「しかし、残念ながら、そこまでの効果が出るのは極めて稀でね。蠱惑の術だと思っていないと、死霊術師にとって、致命的な心の傷になることがある。効果が出ないということは、死んでもいいと思われている、ということだから――だから、あの術は『蠱惑の術』として伝えられているんだよ」
何だか急に、心が軽くなった気がしていた。
「……じゃあ、オレの心が弱いってわけじゃ――」
「姫の心が真っ直ぐだという証に他ならない。大切なものを失った時に、心を痛められるということは、むしろ、強さだから――大切にするといい。貴方の心の美しさだよ」
ロズの話は難しかったが、肝心なのは、『心が弱くて効果が出たわけではない』ということだ。
ティリスは心底ほっとして、礼を言って、ロズをレオンの許まで案内した。
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