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第一章 舞い降りた天使

第1話 舞い降りた天使 ~たとえ、明日が見えなくても~

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 八歳の時に、母さんが病気になって、その翌月、父さんが家に帰ってこなくなった。
 母さんは言った。
 父さんは、僕と母さんのことがいらなくなって逃げたんだって。
 家にお金はなくて、病気の母さんは働けない。

 僕が休学して、働くようになった。

 だけど、八歳の子供にもできる仕事はなかなかなくて、僕ができないからなんだけど、銅貨の一枚ももらえずに、殴られたり蹴られたりするだけのことも多かった。
 食事は野原や川原で野草を摘んで、川で獲れたら魚を獲ったけど、そんなだから、家賃と母さんの薬代が払えなくて。

 ――こうりがしに、お金を借りた。

 ほかには、子供に貸してくれる人なんていなかったから。
 借りたのは、半年で金貨三十枚くらい。

 半年後には、母さんが起きられるようになって、働き始めたんだけど。
 母さんが働いただけじゃ足りないから、結局、丸一年休学して、僕も働いた。

 借金は金貨百枚に増えてしまっていた。
 どうして増えるのか、僕にはわからなかった。
 僕も母さんも一生懸命に働いて、贅沢ぜいたくだってしていなくて、借りたのは金貨で三十枚だけなのに。

 漠然とした不安を抱えたまま、僕は翌年からまた、小学校に通うようになったんだけど。
 去年まで同じクラスだった友達はみんな四年生になっていて。
 廊下や昇降口ですれ違った時に、「どうしてサイファはまだ三年生なの?」って聞かれると、どうしてだろう、僕は、とても悲しい気持ちになったんだ。
 なんて、答えたらいいのかわからなかった。

 新しい三年生のクラスメイトとも、僕はうまく友達になれなかった。
 僕が通っていた小学校は2クラスだけで、他の子はみんな、去年までの友達が何人も同じクラスにいるのに、僕だけいない。
 それに、学校には戻ったけど、働かなくてよくなったわけじゃないから、せっかく、一緒に遊ぼうって誘ってもらえても、断らないといけなかった。

 そんな、ある日のこと。

 クラスメイトのスニールっていう子を、クラスで一番大柄で力のあるジャイロっていう子が、ひどく殴ったり蹴ったりしていて、僕はびっくりして止めに入ったんだ。
 そうしたら、ジャイロの怒りの矛先が僕に向いて。
 いやな笑い方をしたジャイロが、スニールに言ったんだ。
 サイファを押さえてろって。
 サイファを五、六発殴ったら、おまえは許してやるよって。
 スニールが泣きながら僕に組みついてきて、でも、スニールは小柄で力の弱い子だから、ふり払おうと思えばふり払えたと思う。
 思うけど――
 そうしたら、こんなに泣いてるスニールがまた、ジャイロに殴られたり蹴られたりすることになる。
 スニールの顔はアザとコブと涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、――僕には、そんなスニールをふり払えなかった。

 五、六発って言ったのに、ジャイロはもっと、僕を殴ったと思う。
 スニールを一発殴ったら許してやるって言われたけど、できないよ、そんなこと。

 僕は気絶するまで殴られたみたいで、気がついたら、教室には誰もいなかった。

「痛っ……」

 体のあちこちが痛くて、何か所かすりむけて血がにじんでいた。
 僕は一人で、学校の手洗い場で傷を洗った。

 傷口に水が染みて、痛かった。

 薬も包帯も買えないから、せめて、ドクダミを摘もうと思って、闇神殿の近くの公園に行って、摘んでいたら、涙がぱたぱた、手の上に落ちた。
 学校では、泣かなかったのに。

 父さんは、本当に僕がいらなくなったのかな。
 ジャイロに殴られてる僕を、誰も助けてくれなかったのは、ジャイロが怖かったから?
 それとも、みんなも、僕がいらないから?

 このまま借金が増えたら、どうなるんだろう。

 怖くて、痛くて、不安で――
 ――寂しくて、悲しかった。

 公園の片隅にうずくまって、眠ってしまいたかった。
 もう、目を覚まさなくて、いいんだ。

 ――だめだよね。

 僕がいなくなったら、母さんが一人になる。
 僕と母さんの夕飯、僕が支度したくしてあげなくちゃ――

 家には、笑顔で帰ってあげなくちゃ、母さんが心配する。
 笑おうとしたら、もっと、つらくなって、涙が止まらなかった。
 
「どうしたの?」

 いつからいたのか、鈴をふるような女の子の声が聞こえて、僕はどきっとして、涙を手のこうぬぐった。

「けが、いたい?」

 六つか七つくらいの女の子が僕をのぞき込んでいて、その子があんまり綺麗で、僕は息をのんだんだ。
 生きてるつもりだったけど、殴られすぎて、死んじゃったんだっけ?
 だって、月の光が零れたような銀の髪も、澄んだ蒼の瞳も、絵本の天使そのものみたいで。

 女の子が透きとおる声で祝詞を紡ぐと、優しい空色の光が僕を包んで、体中にあった青あざが消えていった。

「なおった?」

 女の子があどけなく、花がほころぶように笑った。

 わぁ。

 すごく、可愛い。
 胸がとくんと跳ねた。
 こんなに可愛い子を見たのは、初めて。
 なんて、綺麗なんだろう。

「うん、すごいね。もう、痛くない」
「ねぇ、なにしてるの? デゼルとあそんで」
「えっと……」

 野草を採って、魚を獲って、夕飯の支度したくをするんだよって教えてみたら、女の子が嬉しそうに笑った。

「デゼルにもとれるかなっ」
「これ、同じのわかる?」

 魚は無理だと思うけど、野草なら採れるかな?

「これっ?」

 女の子が似たのをんで、僕にそう聞いた。
 そんな仕種しぐさのひとつひとつまで、すごく、可愛い。

「うん、それ」

 僕が笑いかけてあげると、すごいものを見た顔で、女の子が僕をじっと見た。

「えと、なに?」
「おなまえは?」

 あ、そうか。

「サイファ」
「さいふぁ、きれいなおなまえ! デゼル、さいふぁがすき」
「えっ……」

 わ、わ、胸がとくとく、とくとく、忙しく打って、すごく不思議な高揚感。

「あの、ありがとう。僕も――」

 わ。

“ デゼルが好きだよ ”

 どうしてなのか、そんな、かんたんな言葉が言えなくて。
 デゼルはあっさり、言ってくれたのに。

「さいふぁも?」
「あ、その……デゼルのこと、僕も――」

 どうして、言えないんだろう。

 ――なんで!?

「これ?」

 僕がもたもたしていたら、デゼルが僕が集めていた野草をもう一つ見つけて、得意そうにそう聞いてきた。
 ふふ、ドヤ顔も可愛いなぁ。

「うん、それ」
「デゼル、さいふぁがすき」

 わぁ。

 えっと、どうしよう。
 どう、答えたらいいんだろう。

 ううん、答えはわかってるんだ。
 僕もデゼルが好きだよって、答えたらいいのに。
 すごく可愛くて、嬉しくて、好きに決まってるのに、好きって言えない。
 なんだろう、こんなことはじめて。

 遊んでって言われたのに、夕飯のための野草集めにつき合わせていていいのかな。
 でも、日が暮れる前に集めないと今夜の僕と母さんの夕飯がないから、集めないといけなくて。

「これ?」
「えっと、それは似てるけど違うんだよ。毒があって食べられないんだ」
「どく……」

 さっき、摘んだ野草としきりに見比べて、ほっぺを軽くふくらませたデゼルが言った。

「デゼル、さいふぁがきらい」

 えっ、理不尽。
 おかしくて、笑っちゃった。

「えぇー、デゼル、僕のこときらいになったの?」
「うん、なったの。デゼル、さいふぁがきらい。さいふぁかなしい? さいふぁなく?」

 なに、この子可愛い。おかしい。

「やだな、僕、デゼルに嫌われたら悲しいよ? 泣くよ?」

 わぁいと、デゼルがごきげんに笑った。

「じゃあ、すき」
「よかった」

 こんなに楽しいのって、初めて。
 道が悪いところはだっこしてあげたりして、デゼルの手を引いて夕飯の食材を集めるうちに、あっという間に夕方になってしまって。

「楽しかったね」
「うん! またあそぼうね、デゼルかえるね」
「送るよ、デゼルのおうちはどこ?」
「ええとね、やみのかみさまのしんでん」

 僕は軽く目を見張った。
 この子、やっぱり、天使だったんだ。
 すごく身なりがいいし、最初に、僕の怪我けがを治してくれた時から、闇神殿の巫女みこ様かなとは思ってたから、驚きはしなかったけど。

「ねぇ、デゼル。僕のこと、好き?」
「うん、すき」

 すごく、幸せな気持ち。
 うれしいな。

 僕、どうしてデゼルに好きって言えないのかわかったんだ。
 僕のこの気持ちは『好き』じゃない。

 だって、僕はみんな好きなんだ。
 母さんも、クラスのみんなも、僕を殴ったジャイロだってスニールだって、僕はそれでも好きなんだ。

 その『好き』と、デゼルを『好き』な気持ちは同じじゃない。
 デゼルを特別に好きだと思う、この気持ちの名前を、僕は知らなくて。

 それにね。
 僕、家族じゃない人から好きって言ってもらうのは初めてで、なんだか、すごく嬉しかった。
 デゼルが僕にあっさり好きって言えるのは、きっと、僕がみんなを『好き』なのと同じ『好き』だから。
 特別な『好き』じゃないからなんだ。

 それでも、すごく嬉しかった。

「さいふぁ、またあそんでね!」

 神殿まで送ると、心配していた様子の大人の人が、デゼルを抱き上げて奥に連れて行った。
 お互いの姿が見えなくなるまで、デゼルが可愛い笑顔で手をふってくれた。

 僕もふり返したら、デゼルがすごく嬉しそうに笑ってくれたことが、なによりも、嬉しかったんだ。



 この気持ちを『初恋』って呼ぶんだと僕が知るのは、ずっと、後のこと。
 この時はただ、父さんがいなくなった後、灰色に感じていた世界が優しいいろどりを取り戻して、甘くて幸せな気持ちが胸を占めて、心地好かった。



 たとえ、明日が見えなくても。
 生きていこうと思った。
 だって、生きていれば、もう一度、君に会えるかもしれないから――
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