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第二章
13、隠れた月は
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※※※
バチンっと音がして、結んでいた靴紐が切れてしまった。
それほど長く使ってはいなかったが、新しいものに変える必要がある。
どっと体が重くなったセイブリアンは、息を吐いて長椅子にドカリと横たわった。
やっと城に戻ってきて解放されたのだが、体の疲れというより、完全に気疲れで、軽くめまいまでしてしまった。
「お疲れ様でした。昇進試験を控えて、みんな気合が入っていましたね」
トレーを持って部屋に入って来たルーセントが、お茶をテーブルの上に置いて、声をかけてきた。
「おや、本当にお疲れですね。靴紐まで切れて……新しいものを持って来ましょうか?」
「部屋に予備があったからいい。それより、ただの合同訓練だけと聞いていたのに……」
「ああ、そちらのせいでお疲れだったのですね。どうでしたか? お気に召した方は? どのご令嬢も美しかったですね」
したり顔で椅子に座って、優雅にお茶を飲み始めたルーセントを、苛立ちを覚えたセイブリアンは、ギロリと睨みつけた。
「そんな目で見ないでください。これはユリウス様のお気遣いです。いつまでも独り身のセイブリアン様を心配して、若くて美しい令嬢を集めたそうですよ。ここは男ばかりですから、たまには美しい花を堪能しないと」
「余計な気遣いを……。おかげで一日、興味のない話に付き合うことになった。もう勘弁してくれ」
毎年恒例、昇進試験前の、地方軍隊を中心とした合同訓練には今年、珍客がいた。
兵士達の士気を高めるため、という名目で、首都に住む貴族の女性達が集団で見学に来ていた。
ただの見物客ならいいが、中には高位貴族の令嬢もいたため、セイブリアンが対応しないわけにいかなくなった。
兄の即位が決まったとはいえ、まだまだ貴族達は一枚岩ではない。
特に高位貴族は、一国の行方を左右するような資金力があり、蔑ろにすると火種になりかねない。
とにかく、穏便に即位式を迎えたいセイブリアンとしては、何事もなく乗り切りたかった。
おかげでここ数日、城に戻ることもできず、令嬢達に町を案内して、訓練を見学させて、夜は貴族の邸でパーティーに出て、長い話に付き合わなくてはいけなかった。
とても気が休まる状況ではなく、何日も振り回されて、すっかり疲れ切っていた。
セイブリアンは、女性が嫌いというわけではないが、苦手としていた。
それは今まで散々、寝室に女性を送り込まれてきたからだ。
政治的に取り入るために、誘惑しようとする者、命を狙おうとする者、誰が何を思って近づいて来るのか、その区別などつかない。
優しい顔をして近づいて来て、心を許した時に、毒を飲まされたこともあった。
か弱く見えるが、何を考えているか分からない。
女性は警戒すべき存在として、頭に塗り込まれてしまった。
一人だけ、それに当たらない人物が思い浮かんだが、また別の話だ。
とにかく、全てを断ち切るように、武の中で生きてきたセイブリアンは、華やかな社交界とは遠いところにいた。
ドレスを着て着飾り、人形のように笑う令嬢達は、美しいと思うが、恐いとも思ってしまう。
兄弟も多く、子孫を残す必要もない。
周りは余計な気を回してくるが、このまま独り身で生きていきたいと思っていた。
「困ったものですねぇ。無理にとは言いませんが……」
「俺のことはいいんだ。もう、誰かを大切に想うことなど……」
傷ついた顔で遠い目をしたセイブリアンを見て、ルーセントは無言でカップからお茶を飲み干した。
「リカルドを呼んでくれ。湯を浴びて寝ることにする」
このまま長椅子で眠りそうになったセイブリアンは、体を起こして首元のボタンを外した。
「ああ、お伝えしてませんでした。アルジェンに山岳地帯の村へ輸送を頼んだのですが、人手が足りなかったのでリカルドを連れて行かせました」
「……なんだって!?」
「何か問題でも? リカルドはこちらの生活に慣れましたし、城の人事はいつもお任せいただいていると思っていましたが……」
「いや、まぁ……それはそうだが……。地形が複雑だから慣れた者でなければ……。まさか、近道を教えたのか?」
「崖上りの道ですか? まさか、最短ですがあれは無理ですよ。通常のルートです。アルジェンは何度も行っていますし、遠回りですが、安全な道を使うはずです」
「それなら……いいが……」
山岳地帯の村への輸送任務は、毎年部隊が編成されて、ひと月ほどかけて行われる。
村と村の距離があるだけで、ただ荷物を運ぶだけなので、それほど大変な任務ではなかった。
しかし、今年は天候の影響で一つだけ運べずに残ってしまった村があった。
雪が多くなるこの時期に向かうのは、あまりないことなので、心配になってしまった。
慣れたと言ってもリカルドは他国の人間なので、完全にこちらの気候に慣れたわけではない。
雪の中、震えているリカルドを想像してしまった。
考え出すと、どんどん不安が募っていき、セイブリアンは椅子から立ち上がった。
「出発はいつだ?」
「五日前です。後二、三日もあれば戻るかと」
「山は? 雪の状況は?」
「先日お伝えした通り、今年は暖かく、雪は少ないようです」
腕を組んで机の周りを歩き始めたセイブリアンを、ルーセントは初めて見るような目でじっと見ていた。
「移動は楽だが、雪が少なければいいわけじゃない。万が一、ということもある……。様子を見に行く」
「はい? セイブリアン様がですか?」
「残っているのは、ケルか? あれは俺となら走るから、準備をしてくれ」
慌てて雪山用の服に着替えるセイブリアンを見て、ルーセントは仕方なく、準備をしますと言って部屋を出た。
急遽、城の玄関口には、山に慣れた者が集められた。
セイブリアンの心配だからという気持ちだけで、人を動かすわけにいかないので、天候変化のため雪山の状況確認ということになった。
セイブリアンは残っていた犬のケルに乗り、他の者は馬で向かうことになった。
と言っても、確認だけということなので、荷物は最小限で、すぐに出発準備が整った。
今出ようかというところで、ケルがピクッと鼻をひくつかせて、ウォォンと大きく鳴いた。
何が起きたのかと、緊張が走った時、山から城へ戻る大きな坂を、駆け上がってくる影が見えた。
それが一匹の犬だと分かり、背中に乗っているアルジェンの姿が見えて、一同からおおっという声が上がった。
心配は杞憂だったかと、セイブリアンはホッとしかけたが、アルジェンの後ろを走ってくるはずのリカルドの姿が見えなくて、思わず息を鼻から吸い込んだ。
待てなかったセイブリアンは、先にケルに乗ってアルジェンの元まで向かった。
近づいていくと、ロスがハァハァと息をしている姿が見えて、かなり急いで帰ってきたのだと直感した。
「アルジェン! どうした? リカルドは?」
「も……申しわけ……ませ……、リカルドは……ベルが……」
アルジェンは混乱した様子で取り乱していて、最初は何を言っているのか分からなかった。
いったん水を飲ませると少し落ち着いて、大変なことになったと言った。
「任務は完了しましたが、帰還途中で……山賊に襲われて……」
「何だって!?」
「それは倒したのですが、その後に雪崩が起きて、ベルが雪に流されました。リカルドは無事です……ただ、助けを呼ぶために置き去りに……」
「場所は分かるか?」
「一本杉に向かう道で、二手に分かれる前の、狭い崖を通る場所です」
「……分かった。よく戻ってきたな、アルジェン。無事でよかった。俺は先に行く、城に戻って救助隊を集めるんだ。詳細はルーセントに」
「えっ、……あ……」
アルジェンの答えを聞かないうちに、セイブリアンは手綱を持ってケルを走らせた。
いつもは臆病なケルも、事態を察したのか、セイブリアンの勢いに負けないくらいのスピードで走り出した。
セイブリアンは、リカルドが犬達をとても可愛がっていたのを見ていた。
長年一緒にいたわけではないが、剣を通して、リカルドのことはよく分かってきた。
リカルドは不利な状況でも、持っている力を上手く使って、大きな実力を発揮するタイプだ。
体格には恵まれなかったが、伸び代があり、剣士として理想的な精神を持っている。
だが、時にそれは、実力を過信することに繋がる。
ベルが雪に流されて、じっとしていられるやつではない。
おそらく、自分が何とかしようと動いているはずだ。
それが裏目に出て、リカルドまで危険な目に遭っていたら…………
胸が締め付けられる思いになって、セイブリアンはぐっと歯を噛み締めた。
「……今、助けに行く」
手綱を強く持ったセイブリアンは、息を止めた。
一分、一秒でも早くと願う、セイブリアンの味方をするように、吹いてきた風が背中を押した。
※※※
ぴゅうと音を立てて冷たい風が吹き抜けて、くしゃみをしたリカルドはぶるっと震えてしまった。
体は丈夫な方だが、さすがにこの寒さの中で風邪をひいてしまったのかもしれない。
夜はまだ深くて眠気もあるが、寒すぎて眠ることができない。
このまま朝を迎えそうだなと思って、リカルドは真っ暗な空を見つめた。
崖に毛玉を発見したリカルドは、ベルだと思い込み、ロープを使って救出に向かった。
足場が悪く危険な行為だったが、居ても立っても居られなかったし、自分ならできると思ってしまった。
しかし、助け出したのはベルではなく、山に住む野生動物だった。
崖の上に戻ろうと思った時、無理をしたことで、ロープが途中で切れてしまった。
リカルドは、崩れた雪が溜まった急斜面に転がって、そのまま滑り落ちた。
崖の下まで転落すると思われたが、運良く体に巻き付けていた薄毛布が、崖に生えていた木の枝に引っ掛かって、途中で止まることができた。
木の枝をつたっていくと、斜面に座れそうな広い空間があった。
そこに腰を下ろして、やっと落ち着いたところだった。
先ほどいた場所より、もっと下に落ちてしまったので、崖の上の状況を確認することができない。
助けが来てくれたとしても、気づかれない可能性があると思うと、不安が重くのしかかってきた。
「はぁ……俺、何やってんだろう……」
勘違いして崖を降りて戻れなくなり、迷惑をかけることになってしまった。
結局ベルの行方も分からないまま、自らも遭難してしまったことに後悔が押し寄せてきた。
体に巻いていた薄毛布を頭からかぶったが、冷たい風が入ってきてガタガタと震えが止まらない。
寒さと暗さは、リカルドの精神力をゴッソリと削っていった。
大丈夫、大丈夫という気持ちは、いつしか、もうダメかもしれないと変わった。
空に浮かぶ月が隠れてしまい、代わりに頭に浮かんでくるのは、悲しくて悔しい日々の記憶ばかり。
違います、何かの間違いです。
そう必死に訴えたリカルドの顔を、ミケーレ団長は冷たく見下ろした。
目撃者がいる、証拠もある。
お前をここに置いてやるのは、俺の温情からだ。
それでなければ、今すぐにでも出て行けと追い出している。
騎士になりたければ、どんな仕事でも文句を言わずにやるんだな。
リカルドは、泣きながらお願いしますと言ったことを思い出して、痛んだ胸を押さえた。
何でもやりますと言って、地面に額を押しつけた。
何を命令されても、歯を食いしばって頑張ってきたが、それでも結局、騎士にはなれなかった。
騎士の夢はもう叶えることはできないけれど、ここで頑張っていこうと思っていたのに、それも今、終わってしまうかもしれない。
戦場でセイブリアンに助けられた命、剣を教えてもらって夢みたいな日々だった。
盗賊と対峙した時も、セイブリアンに教えてもらったことを忠実に守ったら、傷一つ負わずに倒すことができた。
あの優しい笑顔にもう一度会いたくなった。
体も心も寒くて、思考すら凍りついてしまいそうだった。
「……セイブリアン様」
ポロリと涙がこぼれ落ちた。
リカルドが小さく名前を呼んだ時、さっきまで雲に隠れていた月が姿を現して、辺りが明るくなった。
そして、カチカチという音が聞こえてきた。
鳥の声にしてはやけに硬そうだなと思っていたら、次の瞬間、バサバサと音がして目の前に羽を広げた大きな鳥が現れた。
「わっ……う……嘘……」
それは城で飼っている伝書鳥で、リカルドの肩に乗って、餌を食べたこともある鳥だった。
一羽だと思ったが、その後ろから次々と鳥が飛んできて、あっという間にリカルドの周りに集まってきた。
「お前達……探しに来てくれたのか?」
鳥達はリカルドの手の上に、木の実や小さな虫を乗せてきた。
お腹が空いているなら、食べろということなのかもしれない。
餌まで持ってきてくれた鳥達に、リカルドはプッと噴き出して、思わず笑ってしまった。
「ありがとう、嬉し……みんなありがとう」
その時、一斉に鳥達が鳴き出したので、森に響き渡る大きな音になった。
今度は寂しさを紛らわせるために、歌を披露してくれるのかとリカルドが笑顔になった時、先ほどから聞こえていたカチカチという音がもっと大きくなって、こちらに迫ってきているように思えた。
まさかと思った瞬間、リカルドが休んでいる場所に、大きな手が出てきて、近くにあった岩をガッシリと掴んだ。
「うわぁっっ!」
バチンっと音がして、結んでいた靴紐が切れてしまった。
それほど長く使ってはいなかったが、新しいものに変える必要がある。
どっと体が重くなったセイブリアンは、息を吐いて長椅子にドカリと横たわった。
やっと城に戻ってきて解放されたのだが、体の疲れというより、完全に気疲れで、軽くめまいまでしてしまった。
「お疲れ様でした。昇進試験を控えて、みんな気合が入っていましたね」
トレーを持って部屋に入って来たルーセントが、お茶をテーブルの上に置いて、声をかけてきた。
「おや、本当にお疲れですね。靴紐まで切れて……新しいものを持って来ましょうか?」
「部屋に予備があったからいい。それより、ただの合同訓練だけと聞いていたのに……」
「ああ、そちらのせいでお疲れだったのですね。どうでしたか? お気に召した方は? どのご令嬢も美しかったですね」
したり顔で椅子に座って、優雅にお茶を飲み始めたルーセントを、苛立ちを覚えたセイブリアンは、ギロリと睨みつけた。
「そんな目で見ないでください。これはユリウス様のお気遣いです。いつまでも独り身のセイブリアン様を心配して、若くて美しい令嬢を集めたそうですよ。ここは男ばかりですから、たまには美しい花を堪能しないと」
「余計な気遣いを……。おかげで一日、興味のない話に付き合うことになった。もう勘弁してくれ」
毎年恒例、昇進試験前の、地方軍隊を中心とした合同訓練には今年、珍客がいた。
兵士達の士気を高めるため、という名目で、首都に住む貴族の女性達が集団で見学に来ていた。
ただの見物客ならいいが、中には高位貴族の令嬢もいたため、セイブリアンが対応しないわけにいかなくなった。
兄の即位が決まったとはいえ、まだまだ貴族達は一枚岩ではない。
特に高位貴族は、一国の行方を左右するような資金力があり、蔑ろにすると火種になりかねない。
とにかく、穏便に即位式を迎えたいセイブリアンとしては、何事もなく乗り切りたかった。
おかげでここ数日、城に戻ることもできず、令嬢達に町を案内して、訓練を見学させて、夜は貴族の邸でパーティーに出て、長い話に付き合わなくてはいけなかった。
とても気が休まる状況ではなく、何日も振り回されて、すっかり疲れ切っていた。
セイブリアンは、女性が嫌いというわけではないが、苦手としていた。
それは今まで散々、寝室に女性を送り込まれてきたからだ。
政治的に取り入るために、誘惑しようとする者、命を狙おうとする者、誰が何を思って近づいて来るのか、その区別などつかない。
優しい顔をして近づいて来て、心を許した時に、毒を飲まされたこともあった。
か弱く見えるが、何を考えているか分からない。
女性は警戒すべき存在として、頭に塗り込まれてしまった。
一人だけ、それに当たらない人物が思い浮かんだが、また別の話だ。
とにかく、全てを断ち切るように、武の中で生きてきたセイブリアンは、華やかな社交界とは遠いところにいた。
ドレスを着て着飾り、人形のように笑う令嬢達は、美しいと思うが、恐いとも思ってしまう。
兄弟も多く、子孫を残す必要もない。
周りは余計な気を回してくるが、このまま独り身で生きていきたいと思っていた。
「困ったものですねぇ。無理にとは言いませんが……」
「俺のことはいいんだ。もう、誰かを大切に想うことなど……」
傷ついた顔で遠い目をしたセイブリアンを見て、ルーセントは無言でカップからお茶を飲み干した。
「リカルドを呼んでくれ。湯を浴びて寝ることにする」
このまま長椅子で眠りそうになったセイブリアンは、体を起こして首元のボタンを外した。
「ああ、お伝えしてませんでした。アルジェンに山岳地帯の村へ輸送を頼んだのですが、人手が足りなかったのでリカルドを連れて行かせました」
「……なんだって!?」
「何か問題でも? リカルドはこちらの生活に慣れましたし、城の人事はいつもお任せいただいていると思っていましたが……」
「いや、まぁ……それはそうだが……。地形が複雑だから慣れた者でなければ……。まさか、近道を教えたのか?」
「崖上りの道ですか? まさか、最短ですがあれは無理ですよ。通常のルートです。アルジェンは何度も行っていますし、遠回りですが、安全な道を使うはずです」
「それなら……いいが……」
山岳地帯の村への輸送任務は、毎年部隊が編成されて、ひと月ほどかけて行われる。
村と村の距離があるだけで、ただ荷物を運ぶだけなので、それほど大変な任務ではなかった。
しかし、今年は天候の影響で一つだけ運べずに残ってしまった村があった。
雪が多くなるこの時期に向かうのは、あまりないことなので、心配になってしまった。
慣れたと言ってもリカルドは他国の人間なので、完全にこちらの気候に慣れたわけではない。
雪の中、震えているリカルドを想像してしまった。
考え出すと、どんどん不安が募っていき、セイブリアンは椅子から立ち上がった。
「出発はいつだ?」
「五日前です。後二、三日もあれば戻るかと」
「山は? 雪の状況は?」
「先日お伝えした通り、今年は暖かく、雪は少ないようです」
腕を組んで机の周りを歩き始めたセイブリアンを、ルーセントは初めて見るような目でじっと見ていた。
「移動は楽だが、雪が少なければいいわけじゃない。万が一、ということもある……。様子を見に行く」
「はい? セイブリアン様がですか?」
「残っているのは、ケルか? あれは俺となら走るから、準備をしてくれ」
慌てて雪山用の服に着替えるセイブリアンを見て、ルーセントは仕方なく、準備をしますと言って部屋を出た。
急遽、城の玄関口には、山に慣れた者が集められた。
セイブリアンの心配だからという気持ちだけで、人を動かすわけにいかないので、天候変化のため雪山の状況確認ということになった。
セイブリアンは残っていた犬のケルに乗り、他の者は馬で向かうことになった。
と言っても、確認だけということなので、荷物は最小限で、すぐに出発準備が整った。
今出ようかというところで、ケルがピクッと鼻をひくつかせて、ウォォンと大きく鳴いた。
何が起きたのかと、緊張が走った時、山から城へ戻る大きな坂を、駆け上がってくる影が見えた。
それが一匹の犬だと分かり、背中に乗っているアルジェンの姿が見えて、一同からおおっという声が上がった。
心配は杞憂だったかと、セイブリアンはホッとしかけたが、アルジェンの後ろを走ってくるはずのリカルドの姿が見えなくて、思わず息を鼻から吸い込んだ。
待てなかったセイブリアンは、先にケルに乗ってアルジェンの元まで向かった。
近づいていくと、ロスがハァハァと息をしている姿が見えて、かなり急いで帰ってきたのだと直感した。
「アルジェン! どうした? リカルドは?」
「も……申しわけ……ませ……、リカルドは……ベルが……」
アルジェンは混乱した様子で取り乱していて、最初は何を言っているのか分からなかった。
いったん水を飲ませると少し落ち着いて、大変なことになったと言った。
「任務は完了しましたが、帰還途中で……山賊に襲われて……」
「何だって!?」
「それは倒したのですが、その後に雪崩が起きて、ベルが雪に流されました。リカルドは無事です……ただ、助けを呼ぶために置き去りに……」
「場所は分かるか?」
「一本杉に向かう道で、二手に分かれる前の、狭い崖を通る場所です」
「……分かった。よく戻ってきたな、アルジェン。無事でよかった。俺は先に行く、城に戻って救助隊を集めるんだ。詳細はルーセントに」
「えっ、……あ……」
アルジェンの答えを聞かないうちに、セイブリアンは手綱を持ってケルを走らせた。
いつもは臆病なケルも、事態を察したのか、セイブリアンの勢いに負けないくらいのスピードで走り出した。
セイブリアンは、リカルドが犬達をとても可愛がっていたのを見ていた。
長年一緒にいたわけではないが、剣を通して、リカルドのことはよく分かってきた。
リカルドは不利な状況でも、持っている力を上手く使って、大きな実力を発揮するタイプだ。
体格には恵まれなかったが、伸び代があり、剣士として理想的な精神を持っている。
だが、時にそれは、実力を過信することに繋がる。
ベルが雪に流されて、じっとしていられるやつではない。
おそらく、自分が何とかしようと動いているはずだ。
それが裏目に出て、リカルドまで危険な目に遭っていたら…………
胸が締め付けられる思いになって、セイブリアンはぐっと歯を噛み締めた。
「……今、助けに行く」
手綱を強く持ったセイブリアンは、息を止めた。
一分、一秒でも早くと願う、セイブリアンの味方をするように、吹いてきた風が背中を押した。
※※※
ぴゅうと音を立てて冷たい風が吹き抜けて、くしゃみをしたリカルドはぶるっと震えてしまった。
体は丈夫な方だが、さすがにこの寒さの中で風邪をひいてしまったのかもしれない。
夜はまだ深くて眠気もあるが、寒すぎて眠ることができない。
このまま朝を迎えそうだなと思って、リカルドは真っ暗な空を見つめた。
崖に毛玉を発見したリカルドは、ベルだと思い込み、ロープを使って救出に向かった。
足場が悪く危険な行為だったが、居ても立っても居られなかったし、自分ならできると思ってしまった。
しかし、助け出したのはベルではなく、山に住む野生動物だった。
崖の上に戻ろうと思った時、無理をしたことで、ロープが途中で切れてしまった。
リカルドは、崩れた雪が溜まった急斜面に転がって、そのまま滑り落ちた。
崖の下まで転落すると思われたが、運良く体に巻き付けていた薄毛布が、崖に生えていた木の枝に引っ掛かって、途中で止まることができた。
木の枝をつたっていくと、斜面に座れそうな広い空間があった。
そこに腰を下ろして、やっと落ち着いたところだった。
先ほどいた場所より、もっと下に落ちてしまったので、崖の上の状況を確認することができない。
助けが来てくれたとしても、気づかれない可能性があると思うと、不安が重くのしかかってきた。
「はぁ……俺、何やってんだろう……」
勘違いして崖を降りて戻れなくなり、迷惑をかけることになってしまった。
結局ベルの行方も分からないまま、自らも遭難してしまったことに後悔が押し寄せてきた。
体に巻いていた薄毛布を頭からかぶったが、冷たい風が入ってきてガタガタと震えが止まらない。
寒さと暗さは、リカルドの精神力をゴッソリと削っていった。
大丈夫、大丈夫という気持ちは、いつしか、もうダメかもしれないと変わった。
空に浮かぶ月が隠れてしまい、代わりに頭に浮かんでくるのは、悲しくて悔しい日々の記憶ばかり。
違います、何かの間違いです。
そう必死に訴えたリカルドの顔を、ミケーレ団長は冷たく見下ろした。
目撃者がいる、証拠もある。
お前をここに置いてやるのは、俺の温情からだ。
それでなければ、今すぐにでも出て行けと追い出している。
騎士になりたければ、どんな仕事でも文句を言わずにやるんだな。
リカルドは、泣きながらお願いしますと言ったことを思い出して、痛んだ胸を押さえた。
何でもやりますと言って、地面に額を押しつけた。
何を命令されても、歯を食いしばって頑張ってきたが、それでも結局、騎士にはなれなかった。
騎士の夢はもう叶えることはできないけれど、ここで頑張っていこうと思っていたのに、それも今、終わってしまうかもしれない。
戦場でセイブリアンに助けられた命、剣を教えてもらって夢みたいな日々だった。
盗賊と対峙した時も、セイブリアンに教えてもらったことを忠実に守ったら、傷一つ負わずに倒すことができた。
あの優しい笑顔にもう一度会いたくなった。
体も心も寒くて、思考すら凍りついてしまいそうだった。
「……セイブリアン様」
ポロリと涙がこぼれ落ちた。
リカルドが小さく名前を呼んだ時、さっきまで雲に隠れていた月が姿を現して、辺りが明るくなった。
そして、カチカチという音が聞こえてきた。
鳥の声にしてはやけに硬そうだなと思っていたら、次の瞬間、バサバサと音がして目の前に羽を広げた大きな鳥が現れた。
「わっ……う……嘘……」
それは城で飼っている伝書鳥で、リカルドの肩に乗って、餌を食べたこともある鳥だった。
一羽だと思ったが、その後ろから次々と鳥が飛んできて、あっという間にリカルドの周りに集まってきた。
「お前達……探しに来てくれたのか?」
鳥達はリカルドの手の上に、木の実や小さな虫を乗せてきた。
お腹が空いているなら、食べろということなのかもしれない。
餌まで持ってきてくれた鳥達に、リカルドはプッと噴き出して、思わず笑ってしまった。
「ありがとう、嬉し……みんなありがとう」
その時、一斉に鳥達が鳴き出したので、森に響き渡る大きな音になった。
今度は寂しさを紛らわせるために、歌を披露してくれるのかとリカルドが笑顔になった時、先ほどから聞こえていたカチカチという音がもっと大きくなって、こちらに迫ってきているように思えた。
まさかと思った瞬間、リカルドが休んでいる場所に、大きな手が出てきて、近くにあった岩をガッシリと掴んだ。
「うわぁっっ!」
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