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本編
⑮ 違うんです!違うのにー!
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「アレクさんが倒れたって本当ですか?」
朝、異世界部に出勤すると、すぐにアズマが話しかけてきた。大嵐が来ても一人で立っている男と言われているので、何があったのだと噂が広がっているようだ。
「体調が悪い時は誰でもあるだろう。幸い少し眠ったら回復されて、すぐに元通り活動されているよ」
「それはよかったねぇ。カガミくんもびっくりしたんじゃない?」
フジタまで心配顔になり近寄って来たので、カガミはお騒がせしましたと言い、事情を話した。
みんな納得して大変だったねと言ってくれた。
「そういえば、浴場でアレクサンドル様がぐったりしていた時、かわ、と言ったんだ。何だか気になって……」
「鶏皮じゃないですか? 弱っている時って、食べたい物思い浮かんだりしません?」
「なるほど……、マスターに言って、今夜は鳥料理を用意してもらうか」
元気にはなったが、隠して頑張っているのかもしれない。カガミは腕を組み、昨日のことを思い出していた。
トリスタンとお茶を飲んだ後、指輪探しで服も体も汚れてしまったので、なんとお風呂を用意してもらえた。しかも、国内には珍しい、王族専用の浴場ということで、カガミは心の中で飛び上がって喜んだ。
こちらの世界では、湯船に入る習慣がない。貴族の邸には一応猫足のバスタブが用意されているが、ほとんど使用された形跡がない。
だいたいみんな、体を石鹸で洗い、お湯で簡単に流して終わりなのだ。
前の世界では、近所にある銭湯の常連だった。どこの誰かも分からないオジさん達が集まっていたが、大きなお風呂のお湯に浸かり、芯まで温まると幸せな気分になれた。
湯船が恋しかったし、しかも、アレクサンドルと一緒に入れるなんて、夢見たいな体験であった。
アレクサンドルは体調不良であったらしく、慣れないお湯にあたり、のぼせてしまった。
つい嬉しくて話し込んでしまったので、早く上がってもらえばよかったと反省している。
「そういえば、カガミさん。事務長の依頼って何だったんですか?」
「ああ、恋人からもらった指輪をなくしたんだとさ」
「また指輪ですか?」
「カガミくん、見つけたの?」
「ええ、もちろん」
カガミはポケットの中から、ハンカチに包んでいた指輪を取り出した。二人から同時にさすがーと声が上がる。
「これから渡しに行こうかと思うんだけど、少し抜けてもいいかな?」
「大丈夫ッスよ。今日は依頼もないし、みんなで書類整理しようかと言っていたところです」
「よかった。それじゃ行ってくる」
カガミは指輪をポケットに戻し、異世界部の部屋を後にした。
バスチンにはまだ見つけたと連絡をしていない。
きっと喜んでくれるだろうと思い、カガミは演習場に向けて足を早める。
いつも通り、王宮の端にある通路に出て、本通りに向け曲がろうとしていた時、前に突然人が出て来た。
「わっ!」
「きゃっ」
ぶつかる寸前になんとか避けたのだが、相手の方がバランスを崩して地面に膝をついた。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
ぶつかりそうになったのは、若草色のドレスを着た女性だった。カガミが手を差し出すと、女性は手に掴まりゆっくり起き上がる。
「大丈夫です。よそ見をしていた私が悪いのです」
レースの手袋の上品な手袋、体に沿った美しいドレスが見えて、次に見えたのは柔らかそうな栗色の巻毛、そして長い睫毛と大きな薄茶の瞳、人形のように可愛らしい顔。そこまで見たカガミは、ハッとしてしまう。
「モ、モモナ……」
「え?」
「い、いえ、失礼しました」
目の前に現れたのは、ニホンにいた頃の推し、モモナにそっくりな女性だった。しかし、モモナがこんなところにいるはずがない。慌てて違うと頭を切り替える。
「あの、私、道に迷ってしまいましたの。聞いてもいいかしら? 騎士団の本部の場所をご存じない?」
「あ……し、知っています。私もちょうど今から行くところなので、よかったら一緒に……」
「助かるわ。ありがとう。私の名は、エリス・ボルーナ。父が……、と言っても母が再婚したので、継父ね。継父が騎士団に務めているので、会いに行くところなの。貴方は……?」
エリスと名乗った女性は、着ているものからして、明らかに貴族の女性だ。カガミを上から下までじっと見て来たので、緊張しながら答える。
「異世界人のカガミと言います。宮殿にある異世界部で働いております」
「あら、異世界人なのね。私、初めて会いますわ。優しそうな方でよかった。案内、よろしくお願いします」
優雅にドレスの裾を掴み、微笑んだエリスは、誰もが恋をしそうなくらい可愛い女性に見える。華のある笑顔は、モモナと雰囲気が少し違う。
似ていることは確かだが、よく見れば別人だ。突然のことで驚いてしまったが、ようやく冷静になる。
「お父様はどちらの所属ですか?」
「近衛騎士団です」
「騎士の最高峰だ。すごい方なんですね」
「ええ、立派な方よ。連れ子の私にも優しくしてくれるの。幼い頃から母と二人、苦労したけれど、やっといい方に出会えた。次は私だって、母はずっと言っているの。王都には素敵な男性が多くて、困ってしまうわ」
話を聞くと、エリスは別の町で育ち、母子家庭で苦労してきた子のようだ。それにしても、完璧と言える容姿なので、これはモテないはずがない。成人はしているようなので、その気になればいくらでも声がかかるだろう。
「きっと、良い人に巡り逢えますよ」
「ありがとう、カガミさん。素敵な男性と恋がしたいの。良い方がいたら紹介してね」
「はい、喜んで」
楽しく話しながら歩いていると、あっという間に騎士団本部まで来てしまった。入口付近まで歩いたところで、エリスは継父を見つけたらしい。カガミに礼を言い、手を振ってから演習場の方に走って行った。
エリスが行った先に、こちらに背中を向けて立っている大柄な男性がいた。どこかで見たような気がして、カガミが首を傾げていると、今度は本部の入口が開き、中からバスチンが出て来た。
「カガミ! 今、異世界部に行こうと思っていたんだ。あの件は……あれはどうなった!?」
カガミの姿を見たバスチンは、走って近づいて来た後、肩を掴みグラグラと揺らした。
「ま、待って、待ってください。これを……」
カガミはポケットから、ハンカチに包んでいた指輪を取り出した。それをバスチンの手の上に置くと、指輪を確認した彼は、間違いないと言い、ボロボロ泣き出した。
「ちょ、こんなところで……」
「カガミ、ありがとう! 君のおかげだ……命の恩人、本当にありがとう!」
「うわっ!」
喜んでくれてよかったが、感激したバスチンは、泣きながら抱きついてきた。
苦しいし重いし離れてほしい。
だが、ありがとうと連呼して泣いているので、突き放すこともできず、落ち着かせるため、ぽんぽんと背中を叩く。
そこに、ガシャンという音が響いた。
見ると、見習い騎士のコモンが近くに立っており、彼の前に剣が転がっている。
「あ……あ……あの、僕は……何も見ていません」
「へ?」
「し、失礼します!」
コモンは落とした剣を慌てて拾った後、逃げるように走って行ってしまった。
明らかに態度がおかしいと感じる。
そこでやっとカガミを解放したバスチンは、指輪を陽にかざし満足そうな顔になる。今度はちゃんとケースを取り出して、そこに指輪をしまった。
「あのー、さっき見習いのコモンがそこいて驚いていました。何か勘違いしているような……」
「コモンが? ああ、後で上手く言っておくよ。それより、報酬だ。事務室に来てくれ、書類と一緒に渡そう」
「あ、はい」
仕事をしたので、きっちり報酬はもらわなければいけない。カガミは頭を切り替えて、バスチンとともに、事務室へ向かった。
◇◇◇
冷たい水は、精神を統一するのに最適だ。
井戸水で頭と顔を濡らし、アレクサンドルはブルっと身を震わせる。
最近の自分はどうもおかしい。
家の問題と、剣のことで頭がいっぱいだったのに、そこに訳の分からない感情が入ってきて、正常な判断ができない。
これはきっと、訓練不足で頭が鈍ってしまったのだと考えた。
だからいつも以上にハードな訓練を終え、最後に水を被り、精神を整える。
これでもう、理解のできないモヤモヤで、胸が苦しくなることなどない。
心と体が整ったことを感じ、水場から出て歩き出す。そこで前から人が走ってくるのが見えた。自主訓練をするように言っていたコモンだった。
「ご苦労様です。素振り百回が終わりました」
濡れた髪を拭うことなく歩いていると、それに気づいたコモンが布を差し出してきた。ありがたく受け取り濡れた髪を拭いた。
「聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「俺を可愛いと思うか?」
「………………」
無言の返答にコモンを見ると、口元を引き攣らせ、見たこともない表情をしていた。壮絶に引いている部下を見て、アレクサンドルはゴホンと咳払いをする。
「忘れてくれ」
「……ええと、人によると思いますが、僕が可愛いと思うのは猫だけです」
「ああ、確か何匹か飼っていたな」
「そうです。うちの猫達が世界で一番可愛いです」
なるほどと、アレクサンドルは腕を組む。小動物を可愛いと思う気持ち、それなら自分にも当てはまりそうだ。
カガミがよく動き、頑張っている姿を見ると、微笑ましい気持ちになる。小さな動物を見守るようなそんな気持ちに似ているかもしれない。
不鮮明だったものがようやく見えた気がして、アレクサンドルは頷いた後、歩き出した。
「この後、どちらへ行かれるのですか?」
「気が重いが、魔法剣術大会の出場者顔合わせだ」
「いよいよ、来週ですからね」
「ああ、婚約者の問題といい、早く解決させて静かになりたい」
話しながら歩いていると、兵舎に向かう分かれ道まで来たが、コモンはそちらに向かわず、何か言いたそうな顔でアレクサンドルを見てきた。
行動の早い男が躊躇っている様子を見て、悩みがあるのかもしれないと思った。
「どうした? 何か言いたいことがあれば聞くぞ」
「あの……黙っていようかと思いましたが……。やはりお伝えしておきます。異世界人のカガミのことです」
部下の悩み相談のつもりで耳を傾けたが、カガミの名前が出て心臓が揺れる。
「先ほど、カガミがバスチン上隊長と抱き合っているところを見ました」
「なっ……!?」
「抱き合う前に、大事そうに指輪を渡していました。紋章が入っていたのでマジックリングに見えました! 恋人同士が愛を誓い合うものです」
「……なぜカガミがマジックリングを渡すんだ? あれは、魔力をこめるものだろう?」
「分からないです。上隊長は些か強引に見えましたが……。とにかくあの二人が付き合っているなら、金銭目的で婚約者選びに参加したのかもしれません。おかしな同居生活など終わらせた方がいいです」
「俺を安心させて、金を奪うために邸を綺麗にしたというのか? そんな男ではない。何か事情がるはずだ」
「小隊長……」
上に立つ者は広い視点で見る必要がある。
昔上官から教わった言葉だ。
だから、いつもと違うことが起きたとしても、一歩引いて物事を見るようにしている。
本人達に聞いてみて、判断してからでも遅くない。
焦る必要などない。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
「小隊長?」
すっかり整ったはずが、再びあのモヤモヤが胸を刺し、鋭い痛みとなり襲ってくる。
「ダメだ……もう一度水をかぶってくる。お前は戻れ」
「は……はい。あの大丈夫ですか?」
コモンの問いには答えずに、アレクサンドルは元来た道を戻るため踵を返す。
男女からモテて、遊び人だと言われるバスチン。
カガミは彼を好きなのだろうかと考えると、モヤモヤがムカムカに変わり、手を強く握り込む。
「修練だ! 修練が足りない!」
空は晴れていて、平和な空気が流れているが、アレクサンドルは大荒れの嵐の中を突き進むような思いで足を進めた。
朝、異世界部に出勤すると、すぐにアズマが話しかけてきた。大嵐が来ても一人で立っている男と言われているので、何があったのだと噂が広がっているようだ。
「体調が悪い時は誰でもあるだろう。幸い少し眠ったら回復されて、すぐに元通り活動されているよ」
「それはよかったねぇ。カガミくんもびっくりしたんじゃない?」
フジタまで心配顔になり近寄って来たので、カガミはお騒がせしましたと言い、事情を話した。
みんな納得して大変だったねと言ってくれた。
「そういえば、浴場でアレクサンドル様がぐったりしていた時、かわ、と言ったんだ。何だか気になって……」
「鶏皮じゃないですか? 弱っている時って、食べたい物思い浮かんだりしません?」
「なるほど……、マスターに言って、今夜は鳥料理を用意してもらうか」
元気にはなったが、隠して頑張っているのかもしれない。カガミは腕を組み、昨日のことを思い出していた。
トリスタンとお茶を飲んだ後、指輪探しで服も体も汚れてしまったので、なんとお風呂を用意してもらえた。しかも、国内には珍しい、王族専用の浴場ということで、カガミは心の中で飛び上がって喜んだ。
こちらの世界では、湯船に入る習慣がない。貴族の邸には一応猫足のバスタブが用意されているが、ほとんど使用された形跡がない。
だいたいみんな、体を石鹸で洗い、お湯で簡単に流して終わりなのだ。
前の世界では、近所にある銭湯の常連だった。どこの誰かも分からないオジさん達が集まっていたが、大きなお風呂のお湯に浸かり、芯まで温まると幸せな気分になれた。
湯船が恋しかったし、しかも、アレクサンドルと一緒に入れるなんて、夢見たいな体験であった。
アレクサンドルは体調不良であったらしく、慣れないお湯にあたり、のぼせてしまった。
つい嬉しくて話し込んでしまったので、早く上がってもらえばよかったと反省している。
「そういえば、カガミさん。事務長の依頼って何だったんですか?」
「ああ、恋人からもらった指輪をなくしたんだとさ」
「また指輪ですか?」
「カガミくん、見つけたの?」
「ええ、もちろん」
カガミはポケットの中から、ハンカチに包んでいた指輪を取り出した。二人から同時にさすがーと声が上がる。
「これから渡しに行こうかと思うんだけど、少し抜けてもいいかな?」
「大丈夫ッスよ。今日は依頼もないし、みんなで書類整理しようかと言っていたところです」
「よかった。それじゃ行ってくる」
カガミは指輪をポケットに戻し、異世界部の部屋を後にした。
バスチンにはまだ見つけたと連絡をしていない。
きっと喜んでくれるだろうと思い、カガミは演習場に向けて足を早める。
いつも通り、王宮の端にある通路に出て、本通りに向け曲がろうとしていた時、前に突然人が出て来た。
「わっ!」
「きゃっ」
ぶつかる寸前になんとか避けたのだが、相手の方がバランスを崩して地面に膝をついた。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
ぶつかりそうになったのは、若草色のドレスを着た女性だった。カガミが手を差し出すと、女性は手に掴まりゆっくり起き上がる。
「大丈夫です。よそ見をしていた私が悪いのです」
レースの手袋の上品な手袋、体に沿った美しいドレスが見えて、次に見えたのは柔らかそうな栗色の巻毛、そして長い睫毛と大きな薄茶の瞳、人形のように可愛らしい顔。そこまで見たカガミは、ハッとしてしまう。
「モ、モモナ……」
「え?」
「い、いえ、失礼しました」
目の前に現れたのは、ニホンにいた頃の推し、モモナにそっくりな女性だった。しかし、モモナがこんなところにいるはずがない。慌てて違うと頭を切り替える。
「あの、私、道に迷ってしまいましたの。聞いてもいいかしら? 騎士団の本部の場所をご存じない?」
「あ……し、知っています。私もちょうど今から行くところなので、よかったら一緒に……」
「助かるわ。ありがとう。私の名は、エリス・ボルーナ。父が……、と言っても母が再婚したので、継父ね。継父が騎士団に務めているので、会いに行くところなの。貴方は……?」
エリスと名乗った女性は、着ているものからして、明らかに貴族の女性だ。カガミを上から下までじっと見て来たので、緊張しながら答える。
「異世界人のカガミと言います。宮殿にある異世界部で働いております」
「あら、異世界人なのね。私、初めて会いますわ。優しそうな方でよかった。案内、よろしくお願いします」
優雅にドレスの裾を掴み、微笑んだエリスは、誰もが恋をしそうなくらい可愛い女性に見える。華のある笑顔は、モモナと雰囲気が少し違う。
似ていることは確かだが、よく見れば別人だ。突然のことで驚いてしまったが、ようやく冷静になる。
「お父様はどちらの所属ですか?」
「近衛騎士団です」
「騎士の最高峰だ。すごい方なんですね」
「ええ、立派な方よ。連れ子の私にも優しくしてくれるの。幼い頃から母と二人、苦労したけれど、やっといい方に出会えた。次は私だって、母はずっと言っているの。王都には素敵な男性が多くて、困ってしまうわ」
話を聞くと、エリスは別の町で育ち、母子家庭で苦労してきた子のようだ。それにしても、完璧と言える容姿なので、これはモテないはずがない。成人はしているようなので、その気になればいくらでも声がかかるだろう。
「きっと、良い人に巡り逢えますよ」
「ありがとう、カガミさん。素敵な男性と恋がしたいの。良い方がいたら紹介してね」
「はい、喜んで」
楽しく話しながら歩いていると、あっという間に騎士団本部まで来てしまった。入口付近まで歩いたところで、エリスは継父を見つけたらしい。カガミに礼を言い、手を振ってから演習場の方に走って行った。
エリスが行った先に、こちらに背中を向けて立っている大柄な男性がいた。どこかで見たような気がして、カガミが首を傾げていると、今度は本部の入口が開き、中からバスチンが出て来た。
「カガミ! 今、異世界部に行こうと思っていたんだ。あの件は……あれはどうなった!?」
カガミの姿を見たバスチンは、走って近づいて来た後、肩を掴みグラグラと揺らした。
「ま、待って、待ってください。これを……」
カガミはポケットから、ハンカチに包んでいた指輪を取り出した。それをバスチンの手の上に置くと、指輪を確認した彼は、間違いないと言い、ボロボロ泣き出した。
「ちょ、こんなところで……」
「カガミ、ありがとう! 君のおかげだ……命の恩人、本当にありがとう!」
「うわっ!」
喜んでくれてよかったが、感激したバスチンは、泣きながら抱きついてきた。
苦しいし重いし離れてほしい。
だが、ありがとうと連呼して泣いているので、突き放すこともできず、落ち着かせるため、ぽんぽんと背中を叩く。
そこに、ガシャンという音が響いた。
見ると、見習い騎士のコモンが近くに立っており、彼の前に剣が転がっている。
「あ……あ……あの、僕は……何も見ていません」
「へ?」
「し、失礼します!」
コモンは落とした剣を慌てて拾った後、逃げるように走って行ってしまった。
明らかに態度がおかしいと感じる。
そこでやっとカガミを解放したバスチンは、指輪を陽にかざし満足そうな顔になる。今度はちゃんとケースを取り出して、そこに指輪をしまった。
「あのー、さっき見習いのコモンがそこいて驚いていました。何か勘違いしているような……」
「コモンが? ああ、後で上手く言っておくよ。それより、報酬だ。事務室に来てくれ、書類と一緒に渡そう」
「あ、はい」
仕事をしたので、きっちり報酬はもらわなければいけない。カガミは頭を切り替えて、バスチンとともに、事務室へ向かった。
◇◇◇
冷たい水は、精神を統一するのに最適だ。
井戸水で頭と顔を濡らし、アレクサンドルはブルっと身を震わせる。
最近の自分はどうもおかしい。
家の問題と、剣のことで頭がいっぱいだったのに、そこに訳の分からない感情が入ってきて、正常な判断ができない。
これはきっと、訓練不足で頭が鈍ってしまったのだと考えた。
だからいつも以上にハードな訓練を終え、最後に水を被り、精神を整える。
これでもう、理解のできないモヤモヤで、胸が苦しくなることなどない。
心と体が整ったことを感じ、水場から出て歩き出す。そこで前から人が走ってくるのが見えた。自主訓練をするように言っていたコモンだった。
「ご苦労様です。素振り百回が終わりました」
濡れた髪を拭うことなく歩いていると、それに気づいたコモンが布を差し出してきた。ありがたく受け取り濡れた髪を拭いた。
「聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「俺を可愛いと思うか?」
「………………」
無言の返答にコモンを見ると、口元を引き攣らせ、見たこともない表情をしていた。壮絶に引いている部下を見て、アレクサンドルはゴホンと咳払いをする。
「忘れてくれ」
「……ええと、人によると思いますが、僕が可愛いと思うのは猫だけです」
「ああ、確か何匹か飼っていたな」
「そうです。うちの猫達が世界で一番可愛いです」
なるほどと、アレクサンドルは腕を組む。小動物を可愛いと思う気持ち、それなら自分にも当てはまりそうだ。
カガミがよく動き、頑張っている姿を見ると、微笑ましい気持ちになる。小さな動物を見守るようなそんな気持ちに似ているかもしれない。
不鮮明だったものがようやく見えた気がして、アレクサンドルは頷いた後、歩き出した。
「この後、どちらへ行かれるのですか?」
「気が重いが、魔法剣術大会の出場者顔合わせだ」
「いよいよ、来週ですからね」
「ああ、婚約者の問題といい、早く解決させて静かになりたい」
話しながら歩いていると、兵舎に向かう分かれ道まで来たが、コモンはそちらに向かわず、何か言いたそうな顔でアレクサンドルを見てきた。
行動の早い男が躊躇っている様子を見て、悩みがあるのかもしれないと思った。
「どうした? 何か言いたいことがあれば聞くぞ」
「あの……黙っていようかと思いましたが……。やはりお伝えしておきます。異世界人のカガミのことです」
部下の悩み相談のつもりで耳を傾けたが、カガミの名前が出て心臓が揺れる。
「先ほど、カガミがバスチン上隊長と抱き合っているところを見ました」
「なっ……!?」
「抱き合う前に、大事そうに指輪を渡していました。紋章が入っていたのでマジックリングに見えました! 恋人同士が愛を誓い合うものです」
「……なぜカガミがマジックリングを渡すんだ? あれは、魔力をこめるものだろう?」
「分からないです。上隊長は些か強引に見えましたが……。とにかくあの二人が付き合っているなら、金銭目的で婚約者選びに参加したのかもしれません。おかしな同居生活など終わらせた方がいいです」
「俺を安心させて、金を奪うために邸を綺麗にしたというのか? そんな男ではない。何か事情がるはずだ」
「小隊長……」
上に立つ者は広い視点で見る必要がある。
昔上官から教わった言葉だ。
だから、いつもと違うことが起きたとしても、一歩引いて物事を見るようにしている。
本人達に聞いてみて、判断してからでも遅くない。
焦る必要などない。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
「小隊長?」
すっかり整ったはずが、再びあのモヤモヤが胸を刺し、鋭い痛みとなり襲ってくる。
「ダメだ……もう一度水をかぶってくる。お前は戻れ」
「は……はい。あの大丈夫ですか?」
コモンの問いには答えずに、アレクサンドルは元来た道を戻るため踵を返す。
男女からモテて、遊び人だと言われるバスチン。
カガミは彼を好きなのだろうかと考えると、モヤモヤがムカムカに変わり、手を強く握り込む。
「修練だ! 修練が足りない!」
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