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本編
⑨ 主人のいない間に……
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窓磨きの仕上げワックスは、異世界部カミムラの特製だ。長い異世界生活で、この世界の植物をほぼ理解しているカミムラが厳選した素材で作られている。
窓全体に丁寧に塗ると、視界が見違えるようにクリアになった。雨汚れにも強く、一度塗れば半年はこの状態をキープできる。
外壁と窓の掃除が終わったので、今度は邸内に移動する。玄関から中に入ると、陽が入るようになり、廊下は眩しいくらい輝いて見えた。
「おおっ、すげー! お化け屋敷みたいだったのに、変わるもんですね。ちゃんと床を磨いたら、王宮にも負けないですよ」
「どれだけ長い間、あの状態で放置されていたか……。家は人が住まなくなると朽ちるが、ギリギリ保っていたんだろうなぁ」
アズマと二人で廊下を歩くと、ギシギシと軋む音がする。これは床板も修理が必要だなと、カガミは考えながら歩く。
「……でも、これだけ綺麗にしちゃうと、アレクさんにバレちゃいますね。頑張ってステルス推し活してきたのに」
「綺麗好きで、どうしても我慢できなかったとでも言うさ。何をしてもいいし、好きに過ごしてくれと言われているんだから大丈夫だろう」
「あくまでも、ファンだとは言わないつもりですか?」
「当たり前だ。こんなヒョロっとした暗そうな男が、ファンですーなんて言ったら不快になるだろう。負担をかけたくない」
そうやって口にしながら、カガミは心の中で笑った。アレクサンドルのためだと言いつつ、本当は嫌われるのが怖いのだ。ファンを名乗れるほどの自信がなく、憧れの人に、ゴミを見るような目で見られることが恐ろしかった。
やはりここにいる間、憧れている素振りは見せてはいけないと心に誓う。
二人で廊下の突き当たりまで歩き、厨房へ続くドアを開けた。今まで謎の腐臭が漂っていたが、風が通り抜けて爽やかな香りが鼻に入ってくる。
「カガミさん! アズマくん、お疲れさまー!」
モップ片手にくるくる回りながら、元気に声をかけてきたのは、酒場の看板娘ハンナだ。
「おう、こっちはだいぶ片付いたぞ。異世界部から届いたやつを入れたらピッタリハマった! これ、俺の店にも作ってくれないか?」
「おっ、いい感じですねぇ。さすが、小物作りの匠フジタさん。マスターの店用も頼んでおきますよ」
清掃前、アズマに厨房を見せた時は悲鳴を上げていたが、今はあまりの変わりように言葉をなくしている。カガミは、満足げに厨房の中を見渡した。
長年の調理汚れが溜まり、ネズミの王国だった厨房は、まずネズミ達に退去いただくところから始めた。
ネズミは魔力喰いと呼ばれており、魔物に変化しやすい動物のため、捕まえるとすぐに国の鳥獣局に引き渡すことになっている。
異世界部で使っている罠を仕掛け、無事ご一同を捕獲し引き渡した。
その後は溜まりに溜まったゴミの片付け、全体の汚れ落とし、加えて、もうネズミが入らないように穴という穴を徹底的に塞いだ。
執事のギャザーに頼み、調理器具を一新し、小物作りが得意なフジタにおしゃれな収納小物を頼んだ。
乱雑に積まれていた調理器具は、壁に吊るしてあるフックにかけた。フジタにスパイス棚を作ってもらい、そこに様々なスパイスの瓶を入れると、これまたおしゃれに変わった。
「ほら、ここだ。塩の袋がピッタリ入って使いやすい。ここを開けたらすぐ取り出せて、片付けも簡単、フジタ氏は天才だな」
マスターが通販番組の解説者のように褒めまくるのを見て嬉しくなり、カガミはアズマと顔を見合わせて笑う。
「マスターもハンナも、こんな頼み事を引き受けてくれてありがとうございます」
「何言っているんだ。一時期、客が来なくなって大変な状態になった時、カガミさんが宣伝して歩いてくれたおかげで、何とか持ち直したんだ。店は夜からだし、人もいるから、こっちが必要な時は俺を使ってくれ。ギャザーさんにもそう伝えてある」
「私も、そろそろ他に働き口を探していたから、こんな大きなお邸の下働きなんて最高よ! 紹介してくれて、ありがとう!」
人手不足のピンチを救うために、カガミが頼ったのは、馴染みの酒場のマスターとハンナだった。もともと王宮の調理場で働いていたマスターは、何でも作れるし、ハンナも外の仕事を探してたいので、二人とも快く引き受けてくれた。
邸を綺麗にして、幽霊が出るなどの噂が消えれば、人が居着いてくれるようになる。それまで二人にはコックとメイドとして、手伝ってもらうことになった。
「これは……見違えましたな……」
厨房のドアを開きっぱなしにしていたので、いつの間にか入口にギャザーが立っていることに気づく。
これまたフジタ特製の杖を片手に、ギャザーは目を潤ませて辺りを見渡している。
「カガミさん……本当に……なんとお礼を言っていいのか……」
「ギャザーさん! 頭を下げないでください。掃除とか綺麗するのが趣味なんです。それに、まだまだ手を付けないといけないところはたくさんあるので、うるさくすると思いますが……」
「それは全然構いません。ここまでしてもらって、もう好きなように変えていただいて問題ありません。きっと旦那様もお喜びになられると思います」
「よかった……。喜んでくれる人がいると、力が湧いてきます」
床に頭を押し付けてお辞儀をしようとしたギャザーを、カガミは何とか止めた。ギャザーの足は昔、魔物に攻撃されて怪我をしたらしい。それを助けたのが、アレクサンドルだと聞き、不思議な縁を感じた。
自分も同じように彼から助けてもらったので、少しでも恩返しがしたいという気持ちがある。ギャザーは後遺症で痛めた足を庇いながら、主人のために必死に働いてきた。自然と彼のことも助けたいと思うようになっていた。
「せめて私も少しでもお手伝いを……おっ、わっ、ああー!」
ギャザーはバケツに入っていた水をひっくり返し、辺り一面を水浸しにしてしまった。いい人なのは間違いないが、手を出そうとすると汚してしまう癖がある。
「怪我はありませんか? ここはいいのでギャザーさん、休んでいてください」
「カガミさん、すみません余計なことを……」
「あのー、一ついいですか? アレクサンドル様はいつお帰りなんです? もう二週間もお留守ですけど」
ギャザーを部屋で休ませようとすると、アズマがのんきに声をかけてきた。
「それが……おそらく宿舎の方が居心地がいいのでしょう。ロナパルム家は色々と問題があり、家に関してあまりいい思いがないというか……。すみません、せっかくの機会に顔を合わせることもないなんて……」
「問題というと……?」
カガミの問いに、ギャザーは気まずそうな表情になり顔を下に向ける。
「当家の内情をお話しするのは気が引けるのですが、カガミさんはここまでやってくださいましたし、主人からも、聞かれたことは何でも話すように言われているので、私の知るところをお答えします」
ギャザーは真剣な顔でカガミを仰ぎ見た後、丸まっていた背筋を伸ばした。強い視線を受けたカガミは、静かに頷く。そして、落ち着いて話せるように、場所を移すことにした。
カガミとギャザーは、邸に来て最初に通された応接室に移動した。ハンナが持ってきたお茶をテーブルに置き、部屋を出て行った後、ギャザーは神妙な面持ちで口を開いた。
「争いの多い家だったのです」
「カガミさんは異世界から来たので、馴染みがないかも知れませんが、この国で貴族は複数妻を持つことができるのです。ロナパルム家はまさにそれで、三夫人と三兄弟が同居しているという状態でした」
「それは……何というか、複雑ですね」
三人の女性が上手くやっていけるならいいが、どう考えても難しい。想像するだけで息が詰まりそうになった。
カガミの困惑した表情を見て、ギャザーは苦い顔になり鼻から息を吐く。
「大旦那様は何というか……不思議な魅力のある方です。失敗ばかりで運に見放され、順風満帆とはいえない暮らしでしたが、独特な悲哀のある雰囲気が妙に女性の心を誘う、というか……捉えて離さないのです。だから三方とも、同居生活を続けてこられました。力を持っていたのは、第一夫人。第二夫人は言いなりで、第三夫人のアレクサンドル様のお母様は、一番立場が弱く、辛い思いをされたと思います。当然、その子供であるアレクサンドル様は風当たりが強く、幼少期は上のお二人に殴られてばかり……抵抗することなく、ずっと耐えていらっしゃいました」
「そんな……、お母様は守ってくれなかったのですか?」
「第三夫人は、強く大旦那様を愛していらっしゃって……この生活を維持することに必死に見えました。まるで女の競争に負けることが死だというかのように……子の声に耳を貸すような状態ではなかった」
「ひどい……」
カガミは騎士として華やかに活躍するアレクサンドルの姿しか知らない。彼が辛い環境で生きてきたことを思うと胸が痛んだ。
「とうとう耐えきれず、アレクサンドル様は騎士になるために家を離れます。ただ、ロナパルム家の息子が市井に家を買うなどありえない。別邸を使うように言われました。それが、この邸です。私はアレクサンドル様に助けられた恩もあり、生涯お世話をしたいと同行を願い出た次第です。長年放置していた邸を当てがわれて、ここにいい思いなどないのでしょう」
「……なるほど」
ギャザーの話を聞いたカガミは腕を組み、深く息を吐く。家を出る時の条件がこの家に住むこと。嫌がらせのように、ボロ屋を指定され、アレクサンドルは傷ついたに違いない。
やはりここは一つ、自分ができることをして、アレクサンドルの環境を少しでも良くしたいと思う。
それと……、彼がここに良い思い出ができればきっと……。
「ギャザーさん。私にとってもこれは、恩返しのようなものなのです」
「……カガミさんがですか?」
「ええ、アレクサンドル様のおかげで、とても楽しく暮らしています。だから、恩返しです」
カガミが胸を叩いて声を上げると、ギャザーは不思議そうに首を傾げた。
「そ、そういえば、アレクサンドル様から。近々いったん戻ると連絡が来ておりました」
「よし! ではそれまでに綺麗にして、この邸の主人をビックリさせましょう」
カガミが元気よく立ち上がると、ギャザーもゆっくり立ち上がり、嬉しそうに笑った。
◇◇◇
週末やイベントシーズンになると、多くの騎士は宿舎から自宅へ戻る。アレクサンドルはできることなら、宿舎泊まりを続けたかったのだが、大きな個室を使っていることもあり、そろそろ戻られてはと言われてしまった。
小隊長クラスが泊まっていると、宿舎担当の使用人達も休めなくなるので、申し訳なくなりいったん帰ることになった。
「あの……やっぱり、僕……悪いので帰ってもいいですか?」
「……何を言っているんだ。ぜひ、泊まって行ってくれと言っているだろう」
アレクサンドルの横で馬を並走させているのは、見習いのコモンだ。部下を労い自宅に泊まらせる。そんな上官の顔をしてみたが、コモンは訝しんだ視線を送ってくる。
「気まずいからって僕を誘うのは結構ですけど、正直、小隊長の邸が苦手なんです」
そう言われて、今度は小動物のような弱々しい視線を送られるが、気づかないフリをしてアレクサンドルは前を向いて馬を走らせた。
そう、気まずいのだ。
相手は貴族の令嬢ではないが、さすがにせっかく来てもらったのに、何週間も放置したまま音沙汰なしというのはどうかと自分でも思う。
好きに過ごせと言っても、あのボロ邸でできることなど限られているので、帰っただろうと思っていた。
しかし、ギャザーからの便りでは、みんな首を長くしてお待ちですと書かれていたので、アレクサンドルはますます動揺した。
トリスタンからは、真面目そうな男だと聞いていたが、何を考えているのか分からない。
姿形は似ていても、異世界人であるから考え方が違うのかとも思ってしまう。
いくら形だけとはいえ、相手は客だ。勝手にしろというのはさすがに不味かったと苦い思いになる。文面からギャザーとはすっかり親しくなったように思えた。これはもう、何をしていたんだと、二人から冷たい視線を浴びるのを覚悟しなくてはいけない。
「ひぃぃ、僕、本当にお化けとか無理なんです」
「そんなものはいない」
「絶対いますよー。やっぱり帰ります」
首を振り、馬を止めようとしたコモンが、邸のある方角を見て目を丸くし、道を間違えましたと言った。
「そんなわけはない。大通りから一本道じゃないか。間違えるはずがない。この角から見える丘の上にある…………ん?」
コモンが変なことを言い出すので、バカなことを言うなと笑ったアレクサンドルは、邸の方角を指差した。
しかし、自らの指の先に、見たこともない邸が聳え立っており、頭の中が真っ白になる。
「道を……間違えた……のか?」
動揺する二人の目線の先に、外門を開けるギャザーの姿が見える。二人の到着に気がついたギャザーは、にっこりと笑って頭を下げた。
「これは……いったい……」
馬の方は自宅の匂いが分かっているのか、アレクサンドルが指示する前に勝手に走り出してしまった。
いつも鬱蒼と生い茂っている門周りの草が消え、真っ白な壁に覆われた立派な邸宅が視界に広がってくる。
夢でも見ているのかと思いながら、アレクサンドルはピカピカに磨かれた門をくぐった。
窓全体に丁寧に塗ると、視界が見違えるようにクリアになった。雨汚れにも強く、一度塗れば半年はこの状態をキープできる。
外壁と窓の掃除が終わったので、今度は邸内に移動する。玄関から中に入ると、陽が入るようになり、廊下は眩しいくらい輝いて見えた。
「おおっ、すげー! お化け屋敷みたいだったのに、変わるもんですね。ちゃんと床を磨いたら、王宮にも負けないですよ」
「どれだけ長い間、あの状態で放置されていたか……。家は人が住まなくなると朽ちるが、ギリギリ保っていたんだろうなぁ」
アズマと二人で廊下を歩くと、ギシギシと軋む音がする。これは床板も修理が必要だなと、カガミは考えながら歩く。
「……でも、これだけ綺麗にしちゃうと、アレクさんにバレちゃいますね。頑張ってステルス推し活してきたのに」
「綺麗好きで、どうしても我慢できなかったとでも言うさ。何をしてもいいし、好きに過ごしてくれと言われているんだから大丈夫だろう」
「あくまでも、ファンだとは言わないつもりですか?」
「当たり前だ。こんなヒョロっとした暗そうな男が、ファンですーなんて言ったら不快になるだろう。負担をかけたくない」
そうやって口にしながら、カガミは心の中で笑った。アレクサンドルのためだと言いつつ、本当は嫌われるのが怖いのだ。ファンを名乗れるほどの自信がなく、憧れの人に、ゴミを見るような目で見られることが恐ろしかった。
やはりここにいる間、憧れている素振りは見せてはいけないと心に誓う。
二人で廊下の突き当たりまで歩き、厨房へ続くドアを開けた。今まで謎の腐臭が漂っていたが、風が通り抜けて爽やかな香りが鼻に入ってくる。
「カガミさん! アズマくん、お疲れさまー!」
モップ片手にくるくる回りながら、元気に声をかけてきたのは、酒場の看板娘ハンナだ。
「おう、こっちはだいぶ片付いたぞ。異世界部から届いたやつを入れたらピッタリハマった! これ、俺の店にも作ってくれないか?」
「おっ、いい感じですねぇ。さすが、小物作りの匠フジタさん。マスターの店用も頼んでおきますよ」
清掃前、アズマに厨房を見せた時は悲鳴を上げていたが、今はあまりの変わりように言葉をなくしている。カガミは、満足げに厨房の中を見渡した。
長年の調理汚れが溜まり、ネズミの王国だった厨房は、まずネズミ達に退去いただくところから始めた。
ネズミは魔力喰いと呼ばれており、魔物に変化しやすい動物のため、捕まえるとすぐに国の鳥獣局に引き渡すことになっている。
異世界部で使っている罠を仕掛け、無事ご一同を捕獲し引き渡した。
その後は溜まりに溜まったゴミの片付け、全体の汚れ落とし、加えて、もうネズミが入らないように穴という穴を徹底的に塞いだ。
執事のギャザーに頼み、調理器具を一新し、小物作りが得意なフジタにおしゃれな収納小物を頼んだ。
乱雑に積まれていた調理器具は、壁に吊るしてあるフックにかけた。フジタにスパイス棚を作ってもらい、そこに様々なスパイスの瓶を入れると、これまたおしゃれに変わった。
「ほら、ここだ。塩の袋がピッタリ入って使いやすい。ここを開けたらすぐ取り出せて、片付けも簡単、フジタ氏は天才だな」
マスターが通販番組の解説者のように褒めまくるのを見て嬉しくなり、カガミはアズマと顔を見合わせて笑う。
「マスターもハンナも、こんな頼み事を引き受けてくれてありがとうございます」
「何言っているんだ。一時期、客が来なくなって大変な状態になった時、カガミさんが宣伝して歩いてくれたおかげで、何とか持ち直したんだ。店は夜からだし、人もいるから、こっちが必要な時は俺を使ってくれ。ギャザーさんにもそう伝えてある」
「私も、そろそろ他に働き口を探していたから、こんな大きなお邸の下働きなんて最高よ! 紹介してくれて、ありがとう!」
人手不足のピンチを救うために、カガミが頼ったのは、馴染みの酒場のマスターとハンナだった。もともと王宮の調理場で働いていたマスターは、何でも作れるし、ハンナも外の仕事を探してたいので、二人とも快く引き受けてくれた。
邸を綺麗にして、幽霊が出るなどの噂が消えれば、人が居着いてくれるようになる。それまで二人にはコックとメイドとして、手伝ってもらうことになった。
「これは……見違えましたな……」
厨房のドアを開きっぱなしにしていたので、いつの間にか入口にギャザーが立っていることに気づく。
これまたフジタ特製の杖を片手に、ギャザーは目を潤ませて辺りを見渡している。
「カガミさん……本当に……なんとお礼を言っていいのか……」
「ギャザーさん! 頭を下げないでください。掃除とか綺麗するのが趣味なんです。それに、まだまだ手を付けないといけないところはたくさんあるので、うるさくすると思いますが……」
「それは全然構いません。ここまでしてもらって、もう好きなように変えていただいて問題ありません。きっと旦那様もお喜びになられると思います」
「よかった……。喜んでくれる人がいると、力が湧いてきます」
床に頭を押し付けてお辞儀をしようとしたギャザーを、カガミは何とか止めた。ギャザーの足は昔、魔物に攻撃されて怪我をしたらしい。それを助けたのが、アレクサンドルだと聞き、不思議な縁を感じた。
自分も同じように彼から助けてもらったので、少しでも恩返しがしたいという気持ちがある。ギャザーは後遺症で痛めた足を庇いながら、主人のために必死に働いてきた。自然と彼のことも助けたいと思うようになっていた。
「せめて私も少しでもお手伝いを……おっ、わっ、ああー!」
ギャザーはバケツに入っていた水をひっくり返し、辺り一面を水浸しにしてしまった。いい人なのは間違いないが、手を出そうとすると汚してしまう癖がある。
「怪我はありませんか? ここはいいのでギャザーさん、休んでいてください」
「カガミさん、すみません余計なことを……」
「あのー、一ついいですか? アレクサンドル様はいつお帰りなんです? もう二週間もお留守ですけど」
ギャザーを部屋で休ませようとすると、アズマがのんきに声をかけてきた。
「それが……おそらく宿舎の方が居心地がいいのでしょう。ロナパルム家は色々と問題があり、家に関してあまりいい思いがないというか……。すみません、せっかくの機会に顔を合わせることもないなんて……」
「問題というと……?」
カガミの問いに、ギャザーは気まずそうな表情になり顔を下に向ける。
「当家の内情をお話しするのは気が引けるのですが、カガミさんはここまでやってくださいましたし、主人からも、聞かれたことは何でも話すように言われているので、私の知るところをお答えします」
ギャザーは真剣な顔でカガミを仰ぎ見た後、丸まっていた背筋を伸ばした。強い視線を受けたカガミは、静かに頷く。そして、落ち着いて話せるように、場所を移すことにした。
カガミとギャザーは、邸に来て最初に通された応接室に移動した。ハンナが持ってきたお茶をテーブルに置き、部屋を出て行った後、ギャザーは神妙な面持ちで口を開いた。
「争いの多い家だったのです」
「カガミさんは異世界から来たので、馴染みがないかも知れませんが、この国で貴族は複数妻を持つことができるのです。ロナパルム家はまさにそれで、三夫人と三兄弟が同居しているという状態でした」
「それは……何というか、複雑ですね」
三人の女性が上手くやっていけるならいいが、どう考えても難しい。想像するだけで息が詰まりそうになった。
カガミの困惑した表情を見て、ギャザーは苦い顔になり鼻から息を吐く。
「大旦那様は何というか……不思議な魅力のある方です。失敗ばかりで運に見放され、順風満帆とはいえない暮らしでしたが、独特な悲哀のある雰囲気が妙に女性の心を誘う、というか……捉えて離さないのです。だから三方とも、同居生活を続けてこられました。力を持っていたのは、第一夫人。第二夫人は言いなりで、第三夫人のアレクサンドル様のお母様は、一番立場が弱く、辛い思いをされたと思います。当然、その子供であるアレクサンドル様は風当たりが強く、幼少期は上のお二人に殴られてばかり……抵抗することなく、ずっと耐えていらっしゃいました」
「そんな……、お母様は守ってくれなかったのですか?」
「第三夫人は、強く大旦那様を愛していらっしゃって……この生活を維持することに必死に見えました。まるで女の競争に負けることが死だというかのように……子の声に耳を貸すような状態ではなかった」
「ひどい……」
カガミは騎士として華やかに活躍するアレクサンドルの姿しか知らない。彼が辛い環境で生きてきたことを思うと胸が痛んだ。
「とうとう耐えきれず、アレクサンドル様は騎士になるために家を離れます。ただ、ロナパルム家の息子が市井に家を買うなどありえない。別邸を使うように言われました。それが、この邸です。私はアレクサンドル様に助けられた恩もあり、生涯お世話をしたいと同行を願い出た次第です。長年放置していた邸を当てがわれて、ここにいい思いなどないのでしょう」
「……なるほど」
ギャザーの話を聞いたカガミは腕を組み、深く息を吐く。家を出る時の条件がこの家に住むこと。嫌がらせのように、ボロ屋を指定され、アレクサンドルは傷ついたに違いない。
やはりここは一つ、自分ができることをして、アレクサンドルの環境を少しでも良くしたいと思う。
それと……、彼がここに良い思い出ができればきっと……。
「ギャザーさん。私にとってもこれは、恩返しのようなものなのです」
「……カガミさんがですか?」
「ええ、アレクサンドル様のおかげで、とても楽しく暮らしています。だから、恩返しです」
カガミが胸を叩いて声を上げると、ギャザーは不思議そうに首を傾げた。
「そ、そういえば、アレクサンドル様から。近々いったん戻ると連絡が来ておりました」
「よし! ではそれまでに綺麗にして、この邸の主人をビックリさせましょう」
カガミが元気よく立ち上がると、ギャザーもゆっくり立ち上がり、嬉しそうに笑った。
◇◇◇
週末やイベントシーズンになると、多くの騎士は宿舎から自宅へ戻る。アレクサンドルはできることなら、宿舎泊まりを続けたかったのだが、大きな個室を使っていることもあり、そろそろ戻られてはと言われてしまった。
小隊長クラスが泊まっていると、宿舎担当の使用人達も休めなくなるので、申し訳なくなりいったん帰ることになった。
「あの……やっぱり、僕……悪いので帰ってもいいですか?」
「……何を言っているんだ。ぜひ、泊まって行ってくれと言っているだろう」
アレクサンドルの横で馬を並走させているのは、見習いのコモンだ。部下を労い自宅に泊まらせる。そんな上官の顔をしてみたが、コモンは訝しんだ視線を送ってくる。
「気まずいからって僕を誘うのは結構ですけど、正直、小隊長の邸が苦手なんです」
そう言われて、今度は小動物のような弱々しい視線を送られるが、気づかないフリをしてアレクサンドルは前を向いて馬を走らせた。
そう、気まずいのだ。
相手は貴族の令嬢ではないが、さすがにせっかく来てもらったのに、何週間も放置したまま音沙汰なしというのはどうかと自分でも思う。
好きに過ごせと言っても、あのボロ邸でできることなど限られているので、帰っただろうと思っていた。
しかし、ギャザーからの便りでは、みんな首を長くしてお待ちですと書かれていたので、アレクサンドルはますます動揺した。
トリスタンからは、真面目そうな男だと聞いていたが、何を考えているのか分からない。
姿形は似ていても、異世界人であるから考え方が違うのかとも思ってしまう。
いくら形だけとはいえ、相手は客だ。勝手にしろというのはさすがに不味かったと苦い思いになる。文面からギャザーとはすっかり親しくなったように思えた。これはもう、何をしていたんだと、二人から冷たい視線を浴びるのを覚悟しなくてはいけない。
「ひぃぃ、僕、本当にお化けとか無理なんです」
「そんなものはいない」
「絶対いますよー。やっぱり帰ります」
首を振り、馬を止めようとしたコモンが、邸のある方角を見て目を丸くし、道を間違えましたと言った。
「そんなわけはない。大通りから一本道じゃないか。間違えるはずがない。この角から見える丘の上にある…………ん?」
コモンが変なことを言い出すので、バカなことを言うなと笑ったアレクサンドルは、邸の方角を指差した。
しかし、自らの指の先に、見たこともない邸が聳え立っており、頭の中が真っ白になる。
「道を……間違えた……のか?」
動揺する二人の目線の先に、外門を開けるギャザーの姿が見える。二人の到着に気がついたギャザーは、にっこりと笑って頭を下げた。
「これは……いったい……」
馬の方は自宅の匂いが分かっているのか、アレクサンドルが指示する前に勝手に走り出してしまった。
いつも鬱蒼と生い茂っている門周りの草が消え、真っ白な壁に覆われた立派な邸宅が視界に広がってくる。
夢でも見ているのかと思いながら、アレクサンドルはピカピカに磨かれた門をくぐった。
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