四角い世界に赤を塗る

朝顔

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① 路地裏の花

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 ポケットの中に残ったわずかな金で、飲めるだけ酒を飲んだ。
 その程度では中途半端にしか酔えなくて、胸を掻きむしりたくなる悔しさが、よけいに増しただけだ。
 大して酔えなかったのに、ぼこぼこと腹が鳴って、ロランは胃に入っていたものを全部吐き出した。

「ゔっ、くっ……クソっ……」

 吐き過ぎて眩暈がする。
 壁に手をついて、吐瀉物を眺めたロランは笑い出した。
 何のために有り金を全部使ったのかと、虚しさを通り越して、笑うしかなかった。

「はははっ……最低だ……俺も、俺の人生も……」

 なぜ自分はまだ死なずに生きているのか、毎日そんなことしか頭に思い浮かんでこない。
 ぼんやり顔を上げると、薄暗い路地裏には他にも人影があった。
 酔っ払って吐き散らかしているロランのことを気にする者など誰もいない。
 ここにいる誰もが自分と同じようなことを考えて、道端に転がっている。
 ここでロランが胸を押さえて倒れ込んだとしても、誰も助けてなどくれない。
 きっと腐って骨になったとしても、そのまま放置されているだろう。
 自分にはそれがお似合いだと思いながら、ロランは息を吐いて歩き出した。






 ロランは小さな村で、貧しい農家の子として生まれた。
 子供の頃から絵を描くことが好きで、小枝を使って地面に絵を描いて遊んでいた。
 ある時、地元の教会の手伝いで壁画を描いていたら、王都から来た旅の人がその絵を見て素晴らしいと言ってくれた。
 旅の人は、地方を回って、古い時代の美術品鑑定をしている美術商の人だった。
 君には才能がある、ぜひ王都に行かないかと言われて、ロランは胸を輝かせた。
 王都では芸術家の卵を支援していて、才能があれば有名な芸術家の工房を紹介してくれると教えてくれた。
 ロランの父親は酒飲みで、気に食わなければ暴力を振るう男だったので、早く家を出たかった。
 芸術など食っていけるものではないと言われたが、反対を押し切って、ロランは家を出た。
 この時、ロランは十五歳だった。

 大陸一の大国であるパステル王国は、長く続いた戦いが終わり、平和な世を謳歌していた。
 王都は別名芸術の都と言われていて、人々は芸術に多くの関心を抱いていて、たくさんの芸術家が集まっていた。
 芸術を学ぶことは、貴族にとって社会的地位があると見せる象徴であり、若い芸術家を早くから支援して、人気が出た芸術家を専属とすることが理想とされていた。
 そう、たとえ貧乏な農家の息子であっても、芸術家として認められれば、貴族になれる可能性もあり、遊んで暮らせるような大金を手にすることができる。
 王都へ向かう間に、ロランの期待はどんどんと膨れ上がっていった。

 王都にたどり着いたロランは、美術商の紹介で、若い芸術家を支援するために建てられた、王立美術学校に入学した。
 誰でも才能があれば無償で入学することができた。
 もちろん入学のための試験があったが、ロランは審査をした講師がうなるほどの作品を描き、ぜひうちに来てほしいと言われての入学だった。
 そこで三年間、絵画の技法を学び、この時点でロランは、将来が期待できる若手画家として名前を知られていた。
 複数のコンクールで最優秀として選ばれて、ロランの描いた作品は、貴族達が奪い合うように買い漁り、高額で取引された。
 ロランは神童と呼ばれていた。
 そう呼ぶには少し歳が行きすぎているとも言われたが、まさに神が与えた才能だと、ロランの作品を見た誰もが感嘆のため息を漏らした。
 こうして、神の子の再来とまで言われたロランが師事することになったのは、王室専属画家を務めたこともあるガッシュの工房だった。
 ガッシュは、王都で知らない人はいないと言われている巨匠だった。
 専門は絵画だが、彫刻も多くの有名な作品を残して、手がけた作品のほとんどが、大貴族に買われるか、美術館に所蔵されていた。
 いくら神童、神の子の再来と呼ばれても、美術の世界で生きていくには、名のある芸術家に師事することが必要不可欠だった。
 まずどの工房に所属しているかを聞かれて、未所属の人間は誰にも相手にしてもらえない。
 学生向けのコンクールは、学校を卒業したら参加はできない。
 一般のコンクールにでるには、師の推薦が必要で、大きな仕事を任せてもらうのもまた同じだった。
 単純な実力社会ではない、学生時代から多くの噂を聞いていたが、ロランは工房に入ってすぐにその洗礼を受けた。

 ガッシュは、齢六十を超えていたが、やけにギラついた目をした男だった。
 白髪頭に皺の刻まれた顔をしていたが、年齢にしてはしっかりとした体つきで、健康そうに見えた。
 初めて会った時の印象は、恐い顔をした老人だった。
 美術館で何度もガッシュの作品を鑑賞して、素晴らしい才能だと尊敬はしていたが、とにかく恐い印象で近寄れなかった。
 しかし他の者達は、みんな必死の顔でガッシュに近づいて行った。
 何度も話しかけて、身の回りの世話をして、彼の要望にハイ喜んでと言って応えていた。
 まるで下僕のように、地面を這ってガッシュの足置きになった者さえいた。
 自分にはとても無理だと、ロランは心の中で必死な連中を見て苦笑いしていたが、彼らが必死になる理由がやっと分かった。
 ロランに与えられた仕事は、絵とは全く関係のない雑用だった。
 来る日も来る日も、工房の雑用ばかりやらされて、筆を持つことさえ許されなかった。
 どうして、なぜ神童と呼ばれた自分がと、悔しさに唇を噛み締めていたら、近づいてきた兄弟子に、ここではガッシュに気に入られないと死んだも同然だと言われた。
 どんなに絵が上手くとも、一度も筆を持つことを許されずに、消えていった弟子達がたくさんいると聞いた。
 名声のあるガッシュの工房を辞めることは、芸術家として二度と日が当たらないことを意味している。
 他の工房で雇ってなどもらえない。
 どこまで行っても、ガッシュの工房をクビになった者だと言われて、話すら聞いてもらえないと教えてもらった。

 一体どうしたら、この世界で生きていけるのか。
 兄弟子はロランに耳打ちして教えてくれた。

 それを聞いたロランは、目を見開いてゴクリと唾を飲み込んだ。
 美術学校時代、噂には聞いていた。
 まさか自分がその舞台に立たされるとは思っていなかった。

 嫌で嫌でたまらなかった。
 それでも、筆を持つためにはやらなくてはいけない。
 大きな仕事をもらって成功すれば独立できる。
 たくさんの人々に賞賛を浴びる才能が、自分にはあるはずだ。
 だから、そのためにはやるしかないと腹をくくった。

 それが、地獄の扉を開くことになるとも知らずに……

 

 フラフラと壁に手をつきながら、ロランは路地裏の一角にある小さな家の扉を開いた。
 木材が腐食して、天井に穴が空き、建っているのも不思議なくらいの、今にも倒壊しそうな家にロランは住んでいた。
 鍵なんてとっくに壊れているが、誰一人として訪ねてくる者などいない。
 適当に閉じた木のドアは、ピッタリと閉まることはなく、薄く開いたまま動きを止めた。
 盗賊が入って来たとしても、この家に盗むものなど何もない。
 金になりそうな物は、画材道具以外みんな売ってしまった。
 服だって一枚を適当に雨で洗って、また乾いたら着ているくらいだ。
 このまま横になって死ぬのが、幸せかもしれないと思いながら、ロランはボロボロのベッドに転がった。
 吐き損ねた酔いが、ロランの瞼を重くさせた時、ギィィっと扉が軋む音が聞こえた。
 誰かが家に入って来たと思ったロランは、パッと目を開けて体を起こした。
 玄関扉は開いていて、そこに黒い大きな人影があった。

「……こりゃひどいな。おい、ここに画家のロランが住んでいると聞いたが、お前で間違いないか?」

「誰だ、お前は?」

「否定しないってことは、アンタで間違いないな」

「………金はない。帰ってくれ」

「金貸しの取り立てじゃない。良い話を持って来た。アンタならきっと上手くやれる話だ」

 どこに借金をしたかなんて、たくさんあり過ぎて覚えていない。
 その内のどこかの金貸しが送り込んだ、取り立て屋かと思ったが、どうやら違うらしい。
 よく分からないやつが、突然入ってくることはあった。
 まともに相手をしていたら、頭がおかしくなる。
 これ以上おかしくなったら、もう終わりだとロランは思った。

「………必要ない。帰ってくれ」

「そう言うなって。うっぷ、酒臭いな……、ちょっと座らせてもらうぜ。話だけでも聞いてくれよ」

 男が部屋の中に入ってくると、わずかに入る陽の光が男の姿を晒した。
 髭の生えた目つきの悪い中年男、どう見ても怪しい風体の人間だった。

「おい、勝手に座るな!」

 ロランが声を上げたのと、男がボロ机にドンっと重さのありそうな袋を置いたのは同じだった。
 男は袋の口を開けて、中身をロランに見せるように開いた。

「なっ………!!」

 袋の中身はギッシリと詰まった金貨だった。
 今まで見たことがない大金を目にして、ロランはゴクリと唾を飲み込んだ。

「話だけでも聞かないか?」

「…………」

「俺は知っているんだよ。ロラン、アンタが、あの巨匠と呼ばれるガッシュの工房で、何をしていたかを……」

 ロランは息を吸い込んで、ベットから飛び降りた。
 酔いのかけらなど、もうどこかへ消えてしまった。
 ロランは歯を食いしばって、男を睨みつけた。


 

 
(続)
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