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第一章

(21)愛の記憶

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 前の世界にいた時の私は、忙しくて慌ただしい毎日で、自分のことを気にかけることもできないまま日々を駆け抜けるように生きていた。
 それが他人の目から見たら可哀想だと思えたのか、それとも恋愛はさっぱりで、ときめきを感じることもない私に同情したのか。
 そして私の願いが叶えられた……。
 いくら考えても、よく分からなかった。

 とにかく、女神の慈悲深いお心が私を選んだ、ということになったらしい。

「なんじゃそりゃ……」

 つい心の声が漏れてしまったら、私にお湯をかけてくれているミルがえっ?と驚いた声を出した。

「ごめんごめん、ちょっと考えごとをしていて……、それよりその小瓶に入っているのいい匂いだね」

「これは薔薇の香油です。今首都で貴族の女性達に好かれているものです。アリサ様にと姉から送ってもらいました」

 皇宮でわずかな間、世話になった関係だったが、リルがその後も気にかけてくれていたことが嬉しかった。

 白魔法で体の汚れを綺麗にすることは可能だが、この世界の人は好んで入浴をする。やはり、お湯に浸かることでリラックスするのはこちらも同じらしい。
 たっぷりお湯が張ったバスタブに全身が浸かって一息つけば、不安や悩みも一緒に洗い流されたような気持ちになる。
 私の髪はついに床に付くくらいに長くなってしまった。ミルがしっかり洗ってくれて、仕上げに香油を垂らして櫛でとかしてくれた。

「少し、お切りしましょうか。これでは歩く時に踏んでしまうかもしれません。……でも、とてもお綺麗ですから…うーん、悩みますね」

「バッサリ切ってくれていいのに。なんなら肩上くらいまで……」

「まぁ! だめです!! この世界では美しい髪は美の象徴です。そんなことをしたら、聖下に何と言われるか。お気に入りでいらっしゃるのに」

「え? 私の髪が?」

「髪も、アリサ様もですよ」

 お気に入りと言われたが、どこをどう見たらそんな風に見えるのか不思議だった。
 見た目も同じ人間とは思えないし、普段は聖下様様の態度なのにプライベートだとやけに丁寧になるのも不思議で全然掴めない人だ。

「アリサ様の力のことは聞いております。どうかご心配なさらずに、聖下にお任せしたらよろしいのですよ」

 ミルは元気付けてくれようとしているのか、とびきり明るい笑顔で話しかけてきてくれた。自分ではない、別の誰かの明るい話のように感じたが、心配をかけないように私も笑顔を返した。

 結婚した花嫁が磨き上げられるみたいに綺麗にされて、いつもの白い服ではなく、透ける素材のような布が重ねられたドレスを着せられた。

 今朝、ヨハネスからいよいよ黒魔力と同じくらい私の白魔力も体に満たされたと聞いた。ヨハネスもよく見える目を持っているらしい。
 ベルトランは相変わらず眠ったまま、私は次のステップに移ることになった。
 それはずいぶん前から説明されていたが、俄かに信じがたい方法に踏み出すことになる。
 相手が誰であってもそうだが、戸惑いの気持ちしかない。だが、やらなければ生きていけない。
 この状況のせいにして流されることで、なんとか自分を保つのが精一杯だった。

 何かの儀式のように朝から準備されて、ようやく夜の帳が下りるころになって、こちらの準備もあちらの準備も整ったらしい。

 ヨハネスは忙しく、部屋を移ってもほとんど顔を合わせることもなかった。自分用のベッドを用意してもらったのでそこで寝起きしているし、ヨハネスは不在がちでいつ寝ているのか分からないくらいだ。そんな相手にこれから全てを…というのはどうも現実感がない。
 まずはじっくり話し合える時間が欲しかった。

 鏡の前で静かに座っていると、コンコンとノックの音がして、ヨハネスの侍従であるランドがやってきた。
 いよいよ呼ばれたのだと、意を決して私は立ち上がった。






 こんなに時間がかかったのだから、部屋が飾り付けられてムーディーなBGMでも流れてくるかもと変な想像をしていたが、ヨハネスの部屋は特に変わりはなかった。
 広い部屋と机とベッドだけというシンプルな造りで、色気も何もない。
 せめて花でも飾ってあるかと思ったが、それすらなかった。

 ちょこんとベッドに座って緊張しながら待っていたら、ノックの音が聞こえて間もなくヨハネスが入ってきた。

「ああ…アリサ、やっと解放されました。もう一生分仕事をしました」

 シャキシャキ歩いて入って来たが、私と目が合うと頭を急に押さえて、ヨロヨロとよろめいてやっと歩いてきたヨハネスは、崩れるようにベッドにダイブした。

「お…お疲れ様です」

 聖下仕事は多岐にわたるらしい。日々の祈り系の儀式に、会議会議、各地から助けを求める声があれば案件によっては自ら出かけることもあり、また神殿内での予算の制定や人事や人材育成についてと、とにかく朝から晩まで動き回っている。

「しばらく北部の神殿に行っていたので、雑務が溜まっていたのです…。それも気合で終わらせました。アリサ、お待たせして申し訳ありません」

「い…いえ、私は……全然」

「今日は朝から準備していたと聞きました。そのドレス、とても似合っていて綺麗です。きっと女神のイシスが世界に降りてきたらアリサと似ているかもしれませんね。いや、それでもアリサには敵わないかもしれない」

「そ…そんな事を言っていいのですか?」

「ええ。イシスの教えには素直であれとありますので、今私はとても素直な意見を言いました。何も問題はありません」

 まさか信仰の対象にそんな態度でいいのだろうかと驚いた。ヘラヘラと笑う顔は本当に会議の場で周りを凍りつかせた男と同じなのかとますます分からなくなってきた。

 少し気が抜けてしまったが、ベッドの上に二人という状況が頭に入ってくると、私は緊張でごくりと唾を飲み込んだ。
 スルリと衣擦れの音がして、ヨハネスが近づいて来たのが分かると、ぐっと緊張が高まった。
 何をされるのかと思っていたら、ふわりと体に布をかけられた。

「えっ……」

 ヨハネスがかけてくれたのは自分が着ていた上着で、光沢のあるシルクで美しく、なめらかで柔らかい肌触りだった。

「震えていますよ。私も怯えている人に無理なことはできません。落ち着くまでゆっくり話しましょう」

 こんな状況なのに優しい気遣いをしてくれるヨハネスが嬉しかった。
 ヨハネスはうつ伏せになって私の方を見ながら、アリサの話を聞かせてくださいと言って微笑んだ。

 私は強張っていた体の力を抜いて、深く息を吐いた。自分の話をするのは苦手だったけれど、ヨハネスに聞いてもらいたいと思い口を開いた。






「ふふふっ…はははははっ…」

「……そんなに、おかしいですか?」

 枕に顔を埋めながら、笑い転げる男を見ながら私はムッとした顔で膝を抱えた。

「ええ……その、……アリサがサンタという男に扮して窓から家に入ったら全員起きてしまい、弟達に捕まったという話が可笑しくて……はははっ……目に浮かびますね」

「そっ…! わっ…私だって演出のつもりで……。まさかプロレス技をかけられるなんて…。と言うか、途中から絶対分かってたと思うんですよ。くすぐりだしたから……」

 私は前の世界でどう生きてきたのか、ぽつりぽつりと話し始めた。家族や特に弟達の話になるとつい熱が入ってしまって、細かいエピソードまで話してしまった。
 サンタというプレゼントを配る妖精の話をした後、あるクリスマスにサンタの格好をしてプレゼントを配ろうとハリきって登場の演出をしたら泥棒と間違えられたという話をしたら、ヨハネスはツボに入ったのか、お腹を抱えて笑い続けていた。
 やっと笑いが収まったのか、ヨハネスは手を伸ばして私の頬に触れてきた。長い指で壊れものにでも触れるみたいに優しく撫でられた。

「それにしても四人の兄弟ですか……。きっと弟君達は最初からアリサだって分かっていたと思いますよ。自分達のために一生懸命になってくれる姉に、彼らなりに感謝して照れ隠しのつもりだったんじゃないかな。ちょっと手荒だけど、アリサはとても愛されていたんですね」

「………っっ」

 不意打ちのようにそんなことを言われて、私の心臓はぐっと掴まれたようになった。
 こちらの世界に来て、時々思い出すことはあっても、無意識に考えないようにしていた。
 寂しくて辛くなってしまうから。
 帰れないという現実から目を背けて、逃げ出したくてたまらなくなってしまう。
 だから、こんな風に心を揺さぶられたら、堪えていたものがぼろぼろと涙になって溢れてきてしまった。

「アリサ、君が望むなら、いつか元の世界に帰してあげられるかもしれない。かつてミルドレッドが世界を越えたように、今は難しいですが、私ならその橋を作れるかもしれないです。いや、アリサのために必ず見つけます。今はこの方法でしか、助けることができないですが、必ず……」

「……ヨハネス様。ありがとうございます」

 ヨハネスが言ったことが本当に叶うのかどうか分からない。だが希望を見せてくれたことで、先に進む勇気を持つことができた。

 ゆっくり起き上がったヨハネスと向かい合うように座った。
 バクバクと心臓の音が聞こえてしまうのではないかと言うくらいうるさく鳴っていた。

 部屋の中には月明かりが差し込んできた。眩しいくらい明るい光に照らされて、ヨハネスの白銀の髪はキラキラと輝いていた。

 まるで小さな宝石が散りばれられているようで思わず見惚れて、綺麗と小さく呟いてしまった。
 それを聞いたヨハネスは目を細めて妖艶に微笑んだ。
 やはりずっと夢の中のようで現実感はなく、頬に触れられて目を閉じると、すぐにヨハネスの唇が重なってきた。
 しっとりと冷たく濡れていたが、その奥には燃えるような熱さを感じて胸が大きく揺れた。
 徐々に深くなる予感を感じながら、その熱に身を委ねた。





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