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⑫ 記憶の向こうに光を。
しおりを挟む僕は……
僕は盗んでいない
どうして、誰も信じてくれないの?
違うのに、何もしていないのに……
誰か
誰か助けて
香坂の脳裏にかつての悲しい記憶がよみがえってきた。
迫ってくる床が視界いっぱいに広がっていたが、突然何かがそれを覆いつくした。
浮遊感が消えて体に痛みが襲ってくる事もなかった。
代わりに、ガッチリと力強く受け止められて、柔らかなものに包まれた感覚がした。
「仁、遅くなってごめん」
耳元で自分の名を呼ぶ優しい声が聞こえてきて、ぼんやりした頭から一気に元の世界に戻った。
無意識に止めていたのか、喉が解放されて香坂はぴゅうっと音を立てて息を吸い込んだ。
足がもつれて倒れそうになった香坂を、いつの間にか職員室に戻ってきた納見が、力強く抱き止めてくれたのだった。
「なんですか、納見先生。部外者は大人しくしていてくれませんか? それとも、怒りが抑えられませんか?」
「あまりにひどいものを見せられて、唖然としているんです。お得意の勘違いもここまでくると正気を疑います」
納見のありえない発言に、職員室がしんと静まり返った。
それはそうだろう。
いつも他人と視線を合わすことができずに、オドオドして下を向いていた男が、教頭相手に一歩を引かず、そらすことなくしっかり目を合わせているのだから。
「本人が違うと言っているのに、なぜ話を聞かずに一方的に決めつけるのですか? ああ、そのスマホですね、見せてください」
「あっ、おいっ!」
納見は机の上に載せられていたスマホを手に取って、画面を確認した後、息を吐いて悪質ですねと言って顔を上げた。
「酒井先生、二年前の七月号、学園広報誌アザミを持ってきてください」
「えっ……あ、は、はい」
退室していた酒井がいつの間にか戻ってきていて、急に話しかけられたので驚いていた。
酒井は納見の指示通りに、広報誌の過去のものが保管されている棚から、言われた月のものを探し出して納見に手渡した。
広報誌は全生徒に配られるもので、その月の特集ページはカラー印刷で作られていた。
手渡された広報誌をペラペラとめくった納見は、水泳の授業開始という特集ページを開いて頭の上に掲げた。
「ここに教員が指導する写真が載っています。水着姿ですけど、この香坂先生をよく見てください」
そう言ってスマホの画面を横に重ねた香坂はもう一度みんなが見えるように掲げた。
「あっ、お、同じ写真だ!」
「やだっ、これって……切り抜いて貼り合わせたみたい」
「そうです。いわゆるコラ画像、合成写真ですね。おそらくこの生徒は香坂先生のことが好きで、個人的に見て楽しむために、広報誌から画像を持ってきて、切り貼りして作ったのでしょう。ネット上では昔からよくある手法で、今の小学生でも簡単に作れてしまいますよ」
香坂を守りながら、ペラペラと喋る納見はまるで有能な弁護士のようだった。
誰もが信じられないと驚いている中、教頭はパクパクと口を動かしながら唖然とした顔をしていた。
「生徒と連絡が取れました。体調不良もあったみたいですが、やはり写真を無断で使用して過激な画像を作ったことを怒られるのが恐くて休んでいたみたいです。スマホの返却もあるので保護者と一緒に、来てもらうことにしました」
ここで該当の生徒の担任教師がずっと電話をしていたらしく、ようやく繋がったと声を上げてくれた。
勝手な思い込みと憶測でろくに調べることもなく、香坂を責めた教頭に、一気に視線が集中した。
「なっ……なっ……、そんなっ」
「前々から思っていましたが、教頭先生は思い込みで人の意見も聞かず話を進めるクセがあるみたいですね。私は自分のミスではなくとも責められても我慢をすればいいと思っていましたが、間違っていました。これからは自分ではないミスを押し付けられたらハッキリと反論されてもらいます。無意味に傷つけられることを受け入れたら、私を大切に思ってくれる人も傷つけてしまう。それに私は、自分が大切な人を傷つけられたら、容赦はしません」
納見の視線にわずかに威嚇のオーラが混じって、本能的な恐怖を感じたのか教頭が後ろに下がった。
そこに話を聞きつけたのか校長と副校長が入ってきて、話を聞くために教頭を別室に連れて行った。
「大丈夫ですか? 香坂先生」
校長達が出て行ってパタンとドアが閉まると、酒井が心配そうに駆け寄ってきた。
「ええ、だいぶ落ち着きました。情けないことに足に力が入らなくなってしまって。……あっ、納見先生、補習クラスは大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょうど終わったところに、酒井先生が呼びに来てくれました。香坂先生の顔色が悪いので、今日はいったん私が付き添って帰ります」
「分かりました。事情は私から校長先生に伝えておきます。タクシーを呼ぶので、それで帰ってください」
香坂は落ち着きを取り戻していたが、周りからも早く帰ったほうがいいと言われて大人しく甘えることにした。
(分かっている。あの状況でみんなおかしいと思っていても混乱して意見を言えなかったんだろう。納見が俺の味方をしてくれて、助けてくれた。それだけで十分だ)
少し気まずい空気の中、先に帰りますと声をかけて、香坂は納見の肩を借りるようにして職員室から出た。
まだ残っていた生徒から大丈夫かと声をかけられたが、手を上げて平気だと笑って見せて、校門に横付けされていたタクシーに乗り込んだ。
後部座席に座ると息を吐いた香坂は、張り詰めていた力が萎んで、納見に寄りかかって肩に頭を乗せた。
「よ…うた……陽太、助けてくれてありがとう」
「仁、遅くなってごめん。まさか、あんなことになっていると思わなかった。今まで仁にはそこまでキツく当たらなかったのに」
「最近、仕事が適当だと校長に言われたらしくて、苛立ってたみたいだよ。それであの写真を見て憂さ晴らしみたいにいいものを見つけたと思ったのかもしれない。……今時、画像なんて大した証拠にならないし、もしかしたら教頭もそこまで分かっていて俺に精神的なショックを与えようとしたのかも。上手く言い返せばよかったのに、あんなに言われっぱなしになって……パニックになるなんて」
冷静になれと思えば思うほど言葉が詰まって出てこなくなってしまった。
もうとっくに揺るぎない自分を築き上げてきたと思っていたのに、いざ恐怖を目の前にしたら足がすくんで動かなかった。
今も思い出して手が震えてしまったら、納見の手が上から重なってきてその指先にぎゅっと力が入った。
「教えて。仁の胸の中にあるもの。この震えの意味も……全部俺に……」
疑惑を向けられて解放された状態だが、明らかにおかしい怯え方に納見が心配しているのは理解できた。
人に話したことなどない。
今まで親にも言えなかった。
だけど納見になら、初めて心から一緒にいたいと思えた人だから、自分の中の暗さを見せても受け止めてくれるかもしれない。
心を決めた香坂は、ゆっくりと頭を縦に振って、納見が掴んでくれている手に力を込めた。
「中学の時、いじめられていたんだ。よくあるグループ内のいざこざで、リーダー格の男子生徒に睨まれちゃってさ。先生にも相談したけど、気のせいだって言われて相手にしてもらえなかった」
すでに何度も来ているが、その日の香坂の部屋はいつもより薄暗く感じた。
タクシーを降りて、すっかり精神的に疲労している香坂を支えて部屋に入った。
その日、朝から教頭に話があると言われた香坂は一日不安な顔をしていた。
近くにいてあげたかったが、運悪く補習授業が入っていて、大丈夫だからと言われて送り出されてしまった。
酒井が青い顔をして飛んできたのは、ちょうど補習が終わった頃だった。
教頭がひどい言いがかりをつけて香坂を責めていると聞かされて急いで職員室へ向かった。
もともと部下には気分で適当なことを言って絡む人で、長い間自分がそのターゲットになっていた。
波風を立てたくなくて、目をつぶる道を選んだが、それは間違っていると香坂に言われてしまった。
言われのないことで責められて、納見が傷ついて欲しくないと目を潤ませて訴えてくる香坂を見て、これからはちゃんと立ち向かおうと思っていた矢先だった。
急に矛先が香坂に向けられたのは驚いたが、可愛がっていた丸川が飛ばされたことを、少なからず香坂のせいだと思って気分が悪い顔をしているのは勘付いていた。
自分が大切な人が傷つけられることの痛みは、自分が受けるよりももっと苦しかった。
これはただの勘違いではないかもしれない。
納見はすぐにそう察知した。
考えればタイミングよく補習授業が入り、納見が不在の時に教頭は香坂を責めた。
居酒屋の件もあるので、二人の仲に特別なものがあると分かっていたはずだ。
言いがかりでも何でもいい。
大勢の前で徹底的に香坂の精神を揺さぶって孤立させて、そこに補習を終えた納見が戻ってくる。
ボロボロになっている香坂を見たら、Domである納見がどう出るか。
職員室内で再びグレアを放って暴れる。
いくらダイナミクスだからといっても、二度目になったら理由はどうであれ完全な危険人物だ。
どうやら不安定なDom性の納見を、目障りだった香坂を使って揺さぶり、結果を問題視して、二人ともクビに追い込もうとしているのが見えてしまった。
ここで前のようにグレアを放ってしまっては、教頭の思うつぼだと思った納見は、怒りを堪えて冷静に戦うことにした。
恐怖など微塵も感じなかった。
香坂を守りたいと思ったら、冷たく燃える火が体を覆い尽くして、力が湧き上がってきた。
怒りを堪えて冷静に言葉を重ねて、教頭を黙らせることに成功した。
やっと終わったと思い、疲弊している様子の香坂を連れて出たが、その場を出ても震えが止まらない香坂の様子は明らかにおかしかった。
タクシーから降りて、部屋に入ってもまともに座れない状態だったので、ベッドで着替えさせてから横になってもらった。
まだ夕日の残る空は明るかったが、香坂の横顔を照らす赤はひどく悲しい色に見えた。
「もうとっくに忘れたと思っていたのに、教室でみんなに問い詰められた時のことを思い出しちゃって……ごめん、こんなに取り乱して」
香坂は中学生時代の辛かった記憶を語ってくれた。
派手なグループのリーダーに睨まれて、クラス中から泥棒だと責められることになったこと。
結局、盗難事件はうやむやになったが、その後もリーダーの男は事あるごとに香坂に絡んできた。
「そいつ……、Domだったんだよ。まだ中学だと性は出始めで効力は少なかったけど、どこで覚えたのか、俺に勝手にCommandを使ってきたりして……」
「なっ……まさか!?」
「大丈夫、性的なのはないよ。パシリみたいに使われて、たまに殴られたり……。だからさ、よけいに乱暴なDomが嫌いになったっていうか……」
「なんて……許せない……っっ」
みんなが憧れる爽やかな王子様。
それが香坂のイメージで、その通り、誰にでも人当たりが良くて好かれる人だ。
しかし、どこか一線引いていて、自分の胸の内は決して見せず、浅い付き合いだけで、深いところを知る人間は誰もいなかった。
生徒の話を聞いて、ちゃんと向き合える教師になりたいと、トラウマを逆に乗り越えるように道を選ぶという強い人。
だけど、きっと心のどこかで、人を心から信じることができず、ずっともがいていたのではないか。
そのキッカケを作ったやつが憎くて許せなくて、納見はギリギリと手を握り込んで怒りを堪えた。
血が滲みそうなくらい強く握っていたら、それに気がついた香坂がそっと手を重ねてきた。
「大丈夫、もう……大丈夫だから」
「だっ……だって! 仁は今もこうして、苦しんでいるのに……悔しい……悔しいよ」
「陽太……ありがとう、俺のことで怒ってくれて」
「どうして……俺はそこにいなかったんだろう。クソっ……許せない、悔しい、悔しい」
枕元に座り込んだ納見が怒りに震えていたら、それを見た香坂はやっと落ち着いたように穏やかに笑って、納見のおでこに唇を寄せた。
「陽太は来てくれたじゃないか。俺の味方になって守ってくれた。震えてたのはさ、過去を思い出して怖かったのもあるけど、嬉しかったんだ」
「えっ……」
「陽太が俺を連れ出してくれた時、まるであの頃、教室で一人震えていた俺のところに来てくれたみたいに思えた。そこにいなかったんじゃない。陽太は来てくれた。時を超えて、ようやく……ようやく俺は、あの苦しい記憶しかない教室から出ることができた……だから、嬉しくて……、陽太、本当に……ありがとう」
香坂の声は途中から掠れて、大きな目からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
泣きながら、香坂は嬉しそうに笑うから、その顔があまりにも悲しくて美しくて、納見は胸がいっぱいになった。
ベッドに入った納見は香坂の隣に寝転んで、香坂の頭を胸に包み込んで優しく抱きしめた。
「もういいって言うまで、ずっとこうしてるから、好きなだけ泣いていいよ。そのまま寝ちゃっても側にいるから」
「ありがとう……大好き」
夕日が沈んで空が暗くなっても、二人は抱き合ったまま離れなかった。
涙を流して目が赤くなった香坂は、まるでウサギのように可愛く見えてしまった。
納見は頭を撫でるだけでは我慢できなくなって、目の周りにキスをしまくっていたら、香坂は急に思い出したようにそういえばと言い出した。
「あの写真、チラッと見ただけで、よく昔の広報誌の写真だと……しかも、発行年月や特集までピタリと当てて……」
「えっっ!? ええと……それは……」
家に全部スクラップしてまとめてあることを知られたら、絶対気持ち悪いと言われると思って納見は慌てた。
そんな納見を見て香坂はクスクスと笑った。
「なんだよ、もしかして俺のファンだったの? 早く言ってくれればよかったのに」
「それは……どういう……」
「もっと早く、こうしたかったってこと」
「えっ………んんっ」
悪戯っぽく笑った香坂は、納見の顔を掴んで唇を重ねてきた。
香坂の唇は涙で少し濡れていて、いつもより温かかった。
甘く重ねられた唇から、もっと甘い声が漏れるまで時間はかからなかった。
その日、香坂の内に触れた納見は、やっと、本当の意味で結ばれたように思えた。
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