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⑤ 淡い想いはすれ違う。

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「おめでとうー! 我らのジンちゃんについに春がきましたぁぁ! みんな乾杯ー」

 そっと報告するはずだったのに、興奮したマスターが手を叩いて喜んでしまったので、結局店内の客全員からパラパラと拍手をもらうことになってしまった。
 頭をかきながらペコペコとお辞儀をして香坂はバーカウンターの赤いのスツールに座り直した。

 恥ずかし過ぎて死にそうだったが、今日の客はみんな気心が知れた Sub友達だったので少しだけ救われた。

 バーリワードは、マスターが趣味でやっている小さな店だ。
 趣味なので不定期に開かれて、集まるのはマスターと同じSubが多い。情報交換や相談目的でみんなフラリと入ってくるので、アットホームな雰囲気もあり、あっという間にみんな仲良くなってしまう。
 お互い本名や何をしているのかも分からない人の集まりだが、ダイナミクスをオープンにして本音で語り合える場所だ。今日は開きますと情報がアップされたら、毎回すぐに満員になるくらい人が集まってくる。

 大学入学を機に上京して、家族仲は悪くないが、家族には話せないこともある。香坂にとってもここは本音で話せる唯一の場所だった。
 これお祝いと言いながら、酒の入ったグラスを目の前に置いてくれたのは、おそらく一回りくらい年上の男性のSub友達であるアオイだ。
 派手な金髪で垂れた目が印象的なクセのある美人であるが、冷たい印象とは違い面倒見が良くて今まで散々悩みを聞いてもらってきた。
 agehaの配信を勧めてくれたのもアオイだった。
 先週末、納見とお付き合いを始めた香坂は、翌週に入って店が開かれると知って、仕事終わりにすぐに足を運んだ。
 今まで相談してきたので、ちゃんと報告しなければと考えたのだ。

「あー良かった。これで毎回、ジンちゃんのもうダメだー、俺は一生一人だーって愚痴から解放されたわ」

「えっ……俺、毎回そんなんでした?」

「そうだよ。だいたいジンちゃんが選ぶ男っていつも顔の渋めの遊んでそうなイケメンでしょ。好みはあるにしても、オラオラ系のオーラ出まくりだったじゃない。見る目なさすぎだよ。で、今度はどんな人? 写真見せてよ」

「ないよ。まだそんなに仲良しとかじゃないし……。たまたまソッチの相性が合ったというか」

「へぇー、まぁいいんじゃない。綺麗事言っても結局そこは大事なわけだし。良かったじゃん、どんな系の人?」

 アオイにぐいぐいと詰められて、香坂は真っ赤になりながら納見の顔を思い出した。
 普段はモサッとした暗い印象なのに、本人曰く視力は悪くないが面倒だからと言ってそのままらしいが、髪を上げて眼鏡を外したら美少年。
 我ながらとんでもない男を見つけてしまったと嬉しいというより、どう扱っていいのか分からない状態だった。

「……可愛い、系かな」

「へぇ、意外! ソッチ系好みだったの?」

「そ……そういうわけじゃ……、内面に惹かれたんだ……」

「最高じゃない! 内面好みで相性もバッチリって! ちょっとー大切にしなさいよ。これなら、agehaからやっと卒業できるね」

 その言葉にドキッと心臓が脈打ってしまい、ガタンとスツールを揺らした。
 香坂の動揺っぷりを見たアオイは、あれぇと言いながら目を細めた。

「もしかして、アンタまだ、agehaの配信見てるわけ? それって浮気じゃないの?」

「ええ!? だっ……その、習慣になってて、見ないと眠れなくて……」

「アオイちゃん、浮気は言い過ぎ。パートナーがいても、推しの芸能人とかいるわけでしょ。今まで好きで見ていたんだから、いいじゃない別に。私だったら、全然オッケー。アイドルのポスターとか貼りまくりだけど、文句言われたことはないわ」

 マスターが入ってきてその場を軽く流してくれたが、内心香坂は胸がチクリと痛んでいた。

 一時期agehaに向けていた感情はただの推しというものではなかった。本気でagehaの支配下に入りたいとプレイを妄想して自慰までしていたからだ。
 やっとパートナーができたはずなのに、昨日もagehaの生配信を見てしまった。
 もちろん、プレイには参加せずにただ流し見ただけだが、あの声を聞くだけで安眠できるのだ。
 ただ、納見の顔を思い出して、ほんの少し後ろめたい気持ちが背中に残っていた。

(浮気……、そうだよな。かげでそんなものを見ているなんて分かったらいい気分じゃないよな……もうやめないと……)

「今度、そのDomくん連れてきてよ。一緒に飲みたいー」

 香坂が分かったと頷くと、テンションが上がったアオイは奢りだと言って、周りのみんなの分もどんどん酒を注文し始めた。
 頼みすぎだからと言って笑いながら、香坂は小さくため息をついた。
 この歳になって初めてのお付き合いというのが分からなくて、心の中では迷路に入っていたのだ。
 おめでとうと言ってお祝いしてくれるみんなに、どう聞いたらいいのか、盛り上がった店内の様子にすっかりタイミングを逃してしまった。







「おはようございます」

 いつものバスに乗り遅れて、朝ちゃんと挨拶できなかったので、化学準備室から出てきた背中を見つけた香坂は走って声をかけた。

「あ……おはようございます」

 気持ち明るめに声をかけたが、帰ってきたのはテンションの低い静かな挨拶だった。
 モジャ髪は通常営業、背を丸くして自信なさげに歩いているのももう慣れたが、香坂が話しかけてもまったく嬉しそうな反応をしてくれなかった。

「バスに乗り遅れて遅刻寸前でした。今日は教頭が休みでよかったです」

「は……はい」

「あっ、そうだ。今日お昼、一緒にどうですか? 近くの食堂のランチが今週半額なんですよ」

「お弁当があるので……」

「そ、そうですか……あの、それじゃ」

 香坂の健闘も虚しく、ペコリと頭を下げた納見は静かに背中を向けて歩いて行ってしまった。
 今日はキャラもののTシャツにジーパン、白衣を着ていたが、クソダサい格好だった。
 そういうところを少しくらい、ツッコんでもいい関係になりたいと思うのだが、全く会話が盛り上がらず話が終わってしまった。

(これが……付き合いたての恋人同士……?)

 確かに学校では普段通りと言ったのは香坂だった。しかし、別に手を繋いだりするわけじゃなくても、一緒に過ごしてお互い気持ちを通じ合わせるという時間はあってもいいかなと思っていた。

 香坂は小さくなっていく納見の背中を見ながら、手をぎゅっと握り込んだ。
 胸に感じている痛みの意味がなんなのか、言葉にしたらもっと痛くなってしまいそうで目をつぶって感じないフリをした。

 翌日もその翌日も、納見の態度は相変わらずだった。
 必要以上に関わってこないし、メッセージを送っても返してはくれるが、事務的な返信だった。
 そして土日は、顧問になっているクラブの遠征に行っていたので、ついに付き合おうと握手をしてからなんの進展もなく一週間が過ぎてしまった。



「はぁぁぁーーー」

 過去一大きなため息をついてしまい、慌てて口に手を当てると、前の席の酒井とバッチリ目が合ってしまった。
 また寝不足ですかと揶揄われるかなと身構えたが、酒井は茶化すというより心配そうな顔になって香坂を見てきた。

「大丈夫ですか? 目の下のクマ、ひどいですよ。寝不足ってレベルじゃないです」

「え? そんなにひどいですか?」

「病人レベルですって。鏡を見てきた方が……」

 ここのところ悩んでばかりでろくに鏡を見る暇もなかった。
 そんなにひどいかなと思いながら席を立って、香坂は職員用のトイレに向かった。

 ドアを開けて、いつも適当に手を洗っている手洗い場の前に立つと、目の前の鏡に目の下が真っ黒になった病人のような顔が浮かび上がっていて、思わずヒィッと声を上げてしまった。

「これって……もしかして、欲求不満……」

 抑制剤は効く方で体調を崩すことなど最近はずっとなかった。
 話には聞いていたが、こんなにハッキリと体調に出るとは驚きだった。

 抑制剤は飲んでいるが、日課になっていたagehaの配信は見ないようにアカウントごと消してしまった。
 納見は冷たいというか全然構ってくれないし、完全な禁欲生活ではあったが、たかが一週間程度でここまで響いてくるとは思わなかった。
 パートナーができると精神的な安定につながるが、一度その安定を受けてしまうと、それがなくなった時に禁断症状に陥ると聞いたことがある。
 まさか、これはその始まりなのではと心臓がバクバクと揺れ出してしまった。
 違う違うと思えば思うほど、今度は目眩までしてきてフラついて壁に手をついた。
 冷たい汗が流れて背中を落ちていくのを感じた。

「っっ……陽太」

 香坂はそのままトイレの壁に背を預けて座り込んでしまった。
 頭痛と吐き気に襲われながら、納見の名前を呼んだが、来てくれるはずもなく、頭を抱えて痛みを堪えるしかなかった。








 放課後を知らせるチャイムが鳴って、納見はペンを置いた。
 明日の実験用の準備に手順書をメモしていて、いつのまにか時間が経ってしまった。
 仕事に集中していないと、とてもじゃないが気持ちが抑えきれなくてたまらなかった。

 目の前にはお弁当の包みが二つ。
 一つは手をつけたが、もう一つは手付かずでそのまま綺麗に布が結ばれていた。

 もう一週間以上、毎日二人分作っているが、今日も言い出すことができなくて一日が終わってしまった。

 香坂と夢のようなプレイをして、付き合うことになった。
 嬉しくてたまらない気持ちでいたが、香坂から学校ではいつも通りにしようと一線を引かれてしまった。
 強引に来られるのが苦手だと聞いていたし、香坂から自分を求めてくれるまで待って、少しずつ自分を出していこうと思っていた。だが、最初にそう言われてしまったので、どう動いていいのか完全に迷子になってしまった。

 香坂に触れたくて、可愛がりたくてたまらないのに、それを必死に抑えて我慢してきた。
 話したり目を合わしたりすると、それだけで好きな気持ちが溢れて止められなくなってしまうので、何とか通常通りの自分を作って耐え続けた。

 せめてお弁当を一緒に食べて、一緒の空気を吸いたいと思って二人分作っていた。
 だが、前に女子生徒が作ってきたお弁当を、手作りは苦手だと言って断っていたシーンを見てしまい、それを思い出して何度も言おうとしたのに、一緒にどうですかが言えなかった。

(せめて、食堂に誘ってくれた時に行くべきだった。次の日から他の先生方と行ってしまって、声がかけられなくなってしまった……)

 ならば通常から解放される週末に全てを託そうと思っていたが、運悪く先週末の香坂は忙しくしていて会えなかった。

「はぁ……なんだかよく眠れないし」

 香坂とのプレイは想像を超える快感だった。
 これ以上ないくらい、体も心も満たされたが、そのことがキッカケなのか抑制剤の効きが悪くなった気がする。
 とにかく何をしていても香坂の顔を思い出してしまい、胸が苦しくなった。

(仁が気に入ってくれているのは、プレイの時の俺だけだ……。普段の俺には近づいて欲しくないって思っているのかもしれない)

 後ろ向きな考えばかりが浮かんできて、自分でも嫌になって書いていたメモをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱へ投げた。

「はぁ……帰ろ」

 そういえばずっとスマホをマナーモードにしていて、見ていなかったのに気がついた。
 香坂はまめにメッセージを送ってくれるタイプのようだが、文字を見ただけで切ない声を上げる香坂を想像してしまい、ダメだとまともに見ることができなかった。
 ハイとイイエだけのつまらない返信に、最近は全然メッセージが来なくなってしまった。
 それでも画面をチェックするのだけはやめられなくて、ポケットから取り出したら珍しく香坂から着信が入っていた。

 仕事中に電話をくれるなんてどうしたんだろうと思いながら、理科室から出ると廊下を歩いていた同僚教師とちょうどタイミングが合ってしまった。

「お……お疲れ様です」

「あ、納見先生。いやぁ、さっきまでバタバタして大変だったんですよ。香坂先生が倒れちゃって」

「え………」

「職員用のトイレでうずくまっていたみたいです。寝不足で貧血らしいので、大したことはないみたいですけど、今保健室で休んでいらっしゃ……」

 同僚の言葉を最後まで聞かずに納見は走り出した。
 なんてことだと悔しくて悔しくてたまらなくなった。パートナーの体調管理はDomとして基本的な愛情表現だ。
 いくら目覚めたばかりだと言っても許されない。
 自分のことで頭がいっぱいで、何一つ分かっていなかった。

 思えば、香坂から物言いたげな視線を感じたのは一度や二度ではなかった。
 一線を引かれたわけではなく、まだお互い手探りだったということなら、香坂は自分に歩み寄ってくれていたのかもしれない。
 考えれば考えるほど、どうしようもなく浅はかで、傷つきたくないと逃げ続けていた自分が嫌で嫌でたまらなくなった。

 こんなに走ったのは学生以来かもしれないくらい、息を切らしながら保健室にたどり着いた納見は、ノックも忘れてドアを破壊する勢いで開けて中へ飛び込んだ。

「仁!!」

 混乱して思わず名前で呼んでしまったら、あらまぁと言って驚いた顔の保健医の先生と目が合った。

「納見……先生?」

 カーテンが開けられているベッドに横たわっていた香坂が、驚いた様子で上半身を起こしたところが見えた。

「倒れたって聞いて……ごめんなさい、俺のせいです。いっぱいいっぱいで、全然気が付かなくて……」

 ベッドの側に近寄った納見は、躊躇うことなく香坂を抱きしめた。
 香坂の目の下に浮かんだクマをみたら、全身の血が冷えてしまった。
 なんてことをしていたのかと、自分の頭を殴りたかった。

 気を遣ってくれた保健医の先生は、先に帰るから鍵を返しておいてくれと言って出て行ってくれた。

 クスリと笑った香坂が、そっと優しく納見の頭を撫でてくれた。

「私達、ちゃんと腹を割って話し合う必要があると思うんですが、どうでしょう?」

 香坂の言葉に納見は大きく頷いて、はいと答えた。
 もう、恥ずかしいとか傷つきたくないなんて気持ちは投げ捨てた。
 全て曝け出そうと、納見は息を吐いて話し始めた。







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