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⑨ 神社【境内】
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夕暮れ前に少し降った雨で地面は湿っていて、その上を履き慣れない下駄で歩くのはなかなか難しかった。
ついついゆっくりになってしまう俺の歩調に合わせて、佳純は手を繋いだまま一緒に歩いてくれた。
お祭り用に用意してもらったのは紺色の浴衣だった。
佳純に着付けてもらったので、すごくカッコよく見えるかもしれない。
少しくらい自惚れてもいいだろうか。
佳純もまた大人っぽいグレーの浴衣を着ていて、こちらはチラリと覗く首元が色っぽすぎて目に入る度にドキッとしてしまう。
もし俺が椎崎のように青春をここで過ごしていたら、毎年夏に浴衣を着て佳純とお祭りに行っていたかもしれない。
すれ違う高校生と思わしきグループが楽しそうに戯れて盛り上がっている姿を見たら、そんな風に思ってしまった。
人生は限られているのに、もっと前から佳純に出会っていたら、一緒にいられる時間がたくさんになったはずだ。
そんなバカな妄想をするくらい、俺の心は佳純に夢中になっていた。
知らない相手と結婚なんてと、憂鬱になっていた行きのタクシーに乗っていた自分に言いたい。
本当に素敵な人に出会うことになるからと。
「見えましたよ。あそこの階段を上ると神社があって、そこに続く道にたくさん出店が出ています」
「わっ………すごいっっ!!」
鳥居から階段の上と、そのずっと奥まで提灯が並んでいるのが見えて、幻想的な光景だった。
笛や太鼓の音も聞こえてきて、なんだか胸がワクワクしてきてしまう。祭りの経験はないのにこんなに胸が高鳴るのは、DNAにでも刻まれているのかもしれない。
階段を上がると、両端に出店が並んでいて、同じように浴衣を着た人達の姿があった。
闇の中にぼんやりと夜店が浮かぶ光景は、まるで別の世界に来たみたいな感じがして、ぼぅっと見入ってしまった。
「かき氷に、チョコバナナ、水飴、綿飴、たこ焼きに……お面、くじ…ヨーヨー…色んなお店がありますね。あ、あれは? あの赤いのはりんごですか??」
「ああ、りんご飴ですよ。食べてみますか?」
自分でも思った以上に興奮していて、目についたものが気になって仕方がない。気がついたら佳純の浴衣を掴んで引いていて、クスリと笑われてしまった。
ちょうどお客さんが引いたところだったので、佳純はすぐにお店の人に声をかけてくれてりんご飴を買ってくれた。
「すごい……りんごってこんなに小さいものが食べれるんですね。周りの飴は赤くて可愛いです」
「………いい……ですね。諒さんがりんご飴を持っている姿、写真に撮っていいですか?」
「え? 写真ですか? ちょっと恥ずかし……」
「いいじゃないですか、記念ですから、ね、ね?」
どうせなら一緒に撮りたいと思ったのに、スマホを取り出した佳純は、カシャカシャ撮り始めてしまった。
しかも注文が細かくて、髪をかき上げて胸の辺りで持って欲しいとか、ちょっと口を開けて食べる感じにしてなど、何枚何十枚と撮っているので周りからジロジロ見られてしまった。
「あの、もう……佳純さん。恥ずかしいですから、やめ……」
「おい何してんだ、バカップル! 通行の邪魔だからやめろー」
そこに割り込んできた声は、頭に手拭いを巻いて祭りと書かれた法被を着た椎崎だった。
俺と佳純の間に入ってきたので、写真が取れなくなった佳純はムッとした顔になった。
「りんご飴と諒さんですよ。最強の組み合わせじゃないですか!」
「はいはいはい、そりゃ最強だ。分かったから、とりあえず、こっちに来いよ。飯も酒も用意してるから」
「お酒って……すぐ帰りますよ」
「いーって、いーって、まず来いよ。盛り上がってんだから」
椎崎は佳純の肩に腕を乗せて、いかにも仲良し幼馴染といった感じで戯れながら歩き出した。
そこに俺が立ち入ることのできない年月を感じて、足が重くなってしまった。
それに、せっかくだから一緒に写真を撮って欲しかったのに、ついにそれを言うことができず、歩き出した二人の背中を見つめた。
勇気があれば、今すぐ駆けていけるのに。
どんどん置いていかれそうな気がして、苦い気持ちになった。
「諒さん? どうしました?」
気がついたら足が止まっていて、佳純の声でハッと現実に戻ってきた。
夜店の赤い光を浴びながら、佳純はどこまでも果てしなく美しく見えた。
「少し、集まりに顔を出してもいいですか?」
「……はい、もちろん」
「よかった。じゃあ、行きましょう」
ふわりと微笑んだ佳純が白くて長い手を伸ばしてくれた。
そうだ。
今までだってずっとそうだった。
誰かの、何かのせいにして、歩き出さなかったのは俺自身だった。
しっかりと前を向いた俺は佳純に向かって走り出した。
履き慣れていなかった下駄は、もうすっかり足に馴染んで痛みも感じなかった。
走って佳純の隣に並んで手を握ったら、子供の時からずっとそこにいたみたいに安心した気持ちになった。
過ぎた日々には戻れないけど、これからはこうして佳純と歩いていきたい。
好きだよという気持ちを込めて佳純の手を握った。
「うわぁ、そこの二人、目の保養過ぎてむしろ毒なんだけど」
「そーそー、猛毒。オレらには、眩し過ぎて毒だ」
椎崎が所属する地元の青年団は、祭りの会場で宴席を開いていた。
そこに連れていかれた俺は緊張していたが、同じ歳くらいの人達は温かく迎えてくれた。
もちろん佳純は顔見知りなのだが、普段こういう場には出ないレアキャラらしくて、みんな口を開けて驚いていた。
そして俺と佳純が婚約中だということを知ったら、大盛り上がりになって、さんざん揶揄われながら、次々とコップにお酒を注がれてしまった。
あまり飲めない俺としては、これはこれで困った事態ではあるが、みんなと話しながら楽しい時間を過ごした。
「白奥って、あの、食品メーカーHAKUOKUですか? そこの一族の人? スーパーもやってますよね?」
「ええ、そうです」
「この辺りにはないけど、前は都会に住んでたからよくお世話になりました。あっ、でも、最近色々と問題起こしてニュースになってましたよね?」
飲み始めてからしばらくすると、隣に座っている毛先だけ金色に染めている変わった髪の女の子が話しかけてきた。
自己紹介した時に名前を出しているので、ニュースに詳しい人なら目にしているのだろうと思った。
「お騒がせしておりますが、一丸となって解決に取り組んでおりますので……」
「あー、分かった。それで君塚さんの力を頼りにきたってやつですか? 突然婚約なんて、そんなことだろうと思った。大変ですね、家のためになんて」
「えっ………」
こんな席だし、酔っているのは当然だろうと思った。
けれど女の子の目線にジリジリと焦げるようなものを感じて言葉が出なくなってしまった。
彼女はきっと佳純のことが好きなのだ。
ここで育ったのだから、同じ学校だったという子もいるだろう。
もしかしたらその頃から憧れていて、浮いた話がないと思っていたのに、突然現れた俺と婚約すると聞いて驚いたのかもしれない。
同じ男に、同じ恋心を抱く者として、すぐにその匂いを感じてしまった。
大変ですね、という言葉に、愛情もないのにという意味が込められているような気がして、心臓が冷えてしまった。
佳純はどこにいるんだと目を泳がせると、つい今し方、椎崎と他数人の男達と酒や食べ物の調達に行ってしまったのを思い出した。
気まずい空間に、しばらく席を外すことにして立ち上がった。
「ちょっと飲み過ぎたみたいです。トイレに行ってきますね」
女の子は酒を口にしたまま何も答えてこなかった。
都会の希薄な人間関係と違って、小さな町というのは住んでいる人間同士の深い付き合いが必要になってくる。
温かく迎えてくれたが、俺はまだここにいる人達にしたら余所者のお客様なのだ。
佳純はアイドル的な人気があったと聞いていた。
そんな人の側に現れた謎の男、しかも婚約者だと出しゃばっている。
一部の人達からしたら歓迎されないのは理解できた。
もう帰った方がいいかもしれない。
そう思いながら、とぼとぼと歩いて祭り用に備えられている仮設のトイレの近くまで来た。
「くくっっ………ううっ」
どこからか苦しそうな声が聞こえてきて、パタリと足を止めた。
神社の雑木林の奥で人影のようなものが動いているのが見えた。
「どうかしましたか?」
飲み過ぎて気分が悪くなった人かもしれないと、林の中に入った俺は、木の根元で一人うずくまっている女性の姿を見つけた。
「大丈夫ですか?」
「あっ…くっ……たすけ……」
絞り出した声が聞こえたが、その後にブワッと大量のフェロモンの匂いを感じて思わず鼻を押さえた。
「あな……もしかして、発情ですか?」
「ひっ、やめっ、やめて……助けて」
人の、他のオメガのフェロモンを嗅いだことはなかったが、すぐにそうだと理解できた。
とにかく甘くて頭がクラクラしてしまう。同じオメガの俺でもこうなのだから、アルファが嗅いだら大変なことになる。
「大丈夫です、落ち着いてください。俺もオメガです」
「……本当?」
「ええ、そうです。急に発情してしまったのですか? 薬は? 緊急抑制剤は?、」
「……すみません、体調……悪かった……どうしてもお祭り行きたく……て。薬……飲んだはず……なのに、バック……置いてきちゃ……いま、……何もない」
見ればまだあどけない幼い顔をしている。
中学生か高校生くらいだろう。
このぐらいの頃に発情が始まり、まだ周期が安定しなくて薬によっては上手く効かないこともある。
俺のポケットには普段用の効果が軽いものしか入っていない。当然、これが本格的な発情の始まりならこんなものじゃなんの効果もない。
「……助けを呼ぶにしても、置いてはいけない。俺の肩に掴まって! 確か救護用のテントがあるって聞いたからそこへ行こう」
祭りの会場を抜けなければいけないのが心配だ。
特にアルファの佳純と椎崎、二人に会ってしまうのはマズい事態だった。
大丈夫そうな人に手伝ってもらってと考えたら、会場の方から人が歩いてくるのが見えた。
「諒さん、トイレに行かれたと聞いて、心配になって来ました」
「諒ちゃぁんーー、俺も漏れそうなんだ。連れションしようぜ」
なんと、今会ってはいけない二人が手を振ってこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「待って! 二人はこっちに来ちゃダメだ!!」
咄嗟に叫んだ言葉に二人は足を止めた。
まず反応したのは嗅覚が犬並みの椎崎だった。
目がギラリと光ってビクビクと全身を揺らしたように見えた。
完全にマズい状態だ。
本格的な発情のフェロモンをまともに受けて、誘発されてしまった。
涎を垂らした椎崎が飛びかかって来そうな気配を感じた。
すると隣にいた佳純が動いて、目にも留まらぬ速さで椎崎の懐に飛び込んで肘打ちをくらわせた。
クリーンヒットした椎崎は後ろに吹っ飛んで地面の上に倒れた。
あっという間の早技に唖然としてしまった。
椎崎の方に向いていた体をぐるりと回転させて、佳純は足を俺の方へ向けた。
「か……佳純さん、だめっ、ダメだよ。この子、発情していて、匂いを嗅いだら……来ちゃダメ、お願い、佳純さん! 来ないで!」
フェロモンに反応してしまうのは本能だ。
そもそもアルファは番がいても他のオメガに反応するくらい匂いには敏感だ。
番関係があればある程度理性が保てるかもしれないが、俺と佳純は番ではない。
だから、こんな状態で佳純が来たら、誘発されて女の子を襲ってしまうかもしれない。
そんなこと。
そんなことになったら嫌だし、絶対にだめだ。
来たらダメだと言っているのに、佳純はすぐ近くまで来てしまった。
恐くて佳純のことがまともに見られない。
だけどいざとなったら、何としてでも俺が止めないといけない。
ガタガタと震える俺の前に、佳純の手が伸びて来た。
□□□
ついついゆっくりになってしまう俺の歩調に合わせて、佳純は手を繋いだまま一緒に歩いてくれた。
お祭り用に用意してもらったのは紺色の浴衣だった。
佳純に着付けてもらったので、すごくカッコよく見えるかもしれない。
少しくらい自惚れてもいいだろうか。
佳純もまた大人っぽいグレーの浴衣を着ていて、こちらはチラリと覗く首元が色っぽすぎて目に入る度にドキッとしてしまう。
もし俺が椎崎のように青春をここで過ごしていたら、毎年夏に浴衣を着て佳純とお祭りに行っていたかもしれない。
すれ違う高校生と思わしきグループが楽しそうに戯れて盛り上がっている姿を見たら、そんな風に思ってしまった。
人生は限られているのに、もっと前から佳純に出会っていたら、一緒にいられる時間がたくさんになったはずだ。
そんなバカな妄想をするくらい、俺の心は佳純に夢中になっていた。
知らない相手と結婚なんてと、憂鬱になっていた行きのタクシーに乗っていた自分に言いたい。
本当に素敵な人に出会うことになるからと。
「見えましたよ。あそこの階段を上ると神社があって、そこに続く道にたくさん出店が出ています」
「わっ………すごいっっ!!」
鳥居から階段の上と、そのずっと奥まで提灯が並んでいるのが見えて、幻想的な光景だった。
笛や太鼓の音も聞こえてきて、なんだか胸がワクワクしてきてしまう。祭りの経験はないのにこんなに胸が高鳴るのは、DNAにでも刻まれているのかもしれない。
階段を上がると、両端に出店が並んでいて、同じように浴衣を着た人達の姿があった。
闇の中にぼんやりと夜店が浮かぶ光景は、まるで別の世界に来たみたいな感じがして、ぼぅっと見入ってしまった。
「かき氷に、チョコバナナ、水飴、綿飴、たこ焼きに……お面、くじ…ヨーヨー…色んなお店がありますね。あ、あれは? あの赤いのはりんごですか??」
「ああ、りんご飴ですよ。食べてみますか?」
自分でも思った以上に興奮していて、目についたものが気になって仕方がない。気がついたら佳純の浴衣を掴んで引いていて、クスリと笑われてしまった。
ちょうどお客さんが引いたところだったので、佳純はすぐにお店の人に声をかけてくれてりんご飴を買ってくれた。
「すごい……りんごってこんなに小さいものが食べれるんですね。周りの飴は赤くて可愛いです」
「………いい……ですね。諒さんがりんご飴を持っている姿、写真に撮っていいですか?」
「え? 写真ですか? ちょっと恥ずかし……」
「いいじゃないですか、記念ですから、ね、ね?」
どうせなら一緒に撮りたいと思ったのに、スマホを取り出した佳純は、カシャカシャ撮り始めてしまった。
しかも注文が細かくて、髪をかき上げて胸の辺りで持って欲しいとか、ちょっと口を開けて食べる感じにしてなど、何枚何十枚と撮っているので周りからジロジロ見られてしまった。
「あの、もう……佳純さん。恥ずかしいですから、やめ……」
「おい何してんだ、バカップル! 通行の邪魔だからやめろー」
そこに割り込んできた声は、頭に手拭いを巻いて祭りと書かれた法被を着た椎崎だった。
俺と佳純の間に入ってきたので、写真が取れなくなった佳純はムッとした顔になった。
「りんご飴と諒さんですよ。最強の組み合わせじゃないですか!」
「はいはいはい、そりゃ最強だ。分かったから、とりあえず、こっちに来いよ。飯も酒も用意してるから」
「お酒って……すぐ帰りますよ」
「いーって、いーって、まず来いよ。盛り上がってんだから」
椎崎は佳純の肩に腕を乗せて、いかにも仲良し幼馴染といった感じで戯れながら歩き出した。
そこに俺が立ち入ることのできない年月を感じて、足が重くなってしまった。
それに、せっかくだから一緒に写真を撮って欲しかったのに、ついにそれを言うことができず、歩き出した二人の背中を見つめた。
勇気があれば、今すぐ駆けていけるのに。
どんどん置いていかれそうな気がして、苦い気持ちになった。
「諒さん? どうしました?」
気がついたら足が止まっていて、佳純の声でハッと現実に戻ってきた。
夜店の赤い光を浴びながら、佳純はどこまでも果てしなく美しく見えた。
「少し、集まりに顔を出してもいいですか?」
「……はい、もちろん」
「よかった。じゃあ、行きましょう」
ふわりと微笑んだ佳純が白くて長い手を伸ばしてくれた。
そうだ。
今までだってずっとそうだった。
誰かの、何かのせいにして、歩き出さなかったのは俺自身だった。
しっかりと前を向いた俺は佳純に向かって走り出した。
履き慣れていなかった下駄は、もうすっかり足に馴染んで痛みも感じなかった。
走って佳純の隣に並んで手を握ったら、子供の時からずっとそこにいたみたいに安心した気持ちになった。
過ぎた日々には戻れないけど、これからはこうして佳純と歩いていきたい。
好きだよという気持ちを込めて佳純の手を握った。
「うわぁ、そこの二人、目の保養過ぎてむしろ毒なんだけど」
「そーそー、猛毒。オレらには、眩し過ぎて毒だ」
椎崎が所属する地元の青年団は、祭りの会場で宴席を開いていた。
そこに連れていかれた俺は緊張していたが、同じ歳くらいの人達は温かく迎えてくれた。
もちろん佳純は顔見知りなのだが、普段こういう場には出ないレアキャラらしくて、みんな口を開けて驚いていた。
そして俺と佳純が婚約中だということを知ったら、大盛り上がりになって、さんざん揶揄われながら、次々とコップにお酒を注がれてしまった。
あまり飲めない俺としては、これはこれで困った事態ではあるが、みんなと話しながら楽しい時間を過ごした。
「白奥って、あの、食品メーカーHAKUOKUですか? そこの一族の人? スーパーもやってますよね?」
「ええ、そうです」
「この辺りにはないけど、前は都会に住んでたからよくお世話になりました。あっ、でも、最近色々と問題起こしてニュースになってましたよね?」
飲み始めてからしばらくすると、隣に座っている毛先だけ金色に染めている変わった髪の女の子が話しかけてきた。
自己紹介した時に名前を出しているので、ニュースに詳しい人なら目にしているのだろうと思った。
「お騒がせしておりますが、一丸となって解決に取り組んでおりますので……」
「あー、分かった。それで君塚さんの力を頼りにきたってやつですか? 突然婚約なんて、そんなことだろうと思った。大変ですね、家のためになんて」
「えっ………」
こんな席だし、酔っているのは当然だろうと思った。
けれど女の子の目線にジリジリと焦げるようなものを感じて言葉が出なくなってしまった。
彼女はきっと佳純のことが好きなのだ。
ここで育ったのだから、同じ学校だったという子もいるだろう。
もしかしたらその頃から憧れていて、浮いた話がないと思っていたのに、突然現れた俺と婚約すると聞いて驚いたのかもしれない。
同じ男に、同じ恋心を抱く者として、すぐにその匂いを感じてしまった。
大変ですね、という言葉に、愛情もないのにという意味が込められているような気がして、心臓が冷えてしまった。
佳純はどこにいるんだと目を泳がせると、つい今し方、椎崎と他数人の男達と酒や食べ物の調達に行ってしまったのを思い出した。
気まずい空間に、しばらく席を外すことにして立ち上がった。
「ちょっと飲み過ぎたみたいです。トイレに行ってきますね」
女の子は酒を口にしたまま何も答えてこなかった。
都会の希薄な人間関係と違って、小さな町というのは住んでいる人間同士の深い付き合いが必要になってくる。
温かく迎えてくれたが、俺はまだここにいる人達にしたら余所者のお客様なのだ。
佳純はアイドル的な人気があったと聞いていた。
そんな人の側に現れた謎の男、しかも婚約者だと出しゃばっている。
一部の人達からしたら歓迎されないのは理解できた。
もう帰った方がいいかもしれない。
そう思いながら、とぼとぼと歩いて祭り用に備えられている仮設のトイレの近くまで来た。
「くくっっ………ううっ」
どこからか苦しそうな声が聞こえてきて、パタリと足を止めた。
神社の雑木林の奥で人影のようなものが動いているのが見えた。
「どうかしましたか?」
飲み過ぎて気分が悪くなった人かもしれないと、林の中に入った俺は、木の根元で一人うずくまっている女性の姿を見つけた。
「大丈夫ですか?」
「あっ…くっ……たすけ……」
絞り出した声が聞こえたが、その後にブワッと大量のフェロモンの匂いを感じて思わず鼻を押さえた。
「あな……もしかして、発情ですか?」
「ひっ、やめっ、やめて……助けて」
人の、他のオメガのフェロモンを嗅いだことはなかったが、すぐにそうだと理解できた。
とにかく甘くて頭がクラクラしてしまう。同じオメガの俺でもこうなのだから、アルファが嗅いだら大変なことになる。
「大丈夫です、落ち着いてください。俺もオメガです」
「……本当?」
「ええ、そうです。急に発情してしまったのですか? 薬は? 緊急抑制剤は?、」
「……すみません、体調……悪かった……どうしてもお祭り行きたく……て。薬……飲んだはず……なのに、バック……置いてきちゃ……いま、……何もない」
見ればまだあどけない幼い顔をしている。
中学生か高校生くらいだろう。
このぐらいの頃に発情が始まり、まだ周期が安定しなくて薬によっては上手く効かないこともある。
俺のポケットには普段用の効果が軽いものしか入っていない。当然、これが本格的な発情の始まりならこんなものじゃなんの効果もない。
「……助けを呼ぶにしても、置いてはいけない。俺の肩に掴まって! 確か救護用のテントがあるって聞いたからそこへ行こう」
祭りの会場を抜けなければいけないのが心配だ。
特にアルファの佳純と椎崎、二人に会ってしまうのはマズい事態だった。
大丈夫そうな人に手伝ってもらってと考えたら、会場の方から人が歩いてくるのが見えた。
「諒さん、トイレに行かれたと聞いて、心配になって来ました」
「諒ちゃぁんーー、俺も漏れそうなんだ。連れションしようぜ」
なんと、今会ってはいけない二人が手を振ってこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「待って! 二人はこっちに来ちゃダメだ!!」
咄嗟に叫んだ言葉に二人は足を止めた。
まず反応したのは嗅覚が犬並みの椎崎だった。
目がギラリと光ってビクビクと全身を揺らしたように見えた。
完全にマズい状態だ。
本格的な発情のフェロモンをまともに受けて、誘発されてしまった。
涎を垂らした椎崎が飛びかかって来そうな気配を感じた。
すると隣にいた佳純が動いて、目にも留まらぬ速さで椎崎の懐に飛び込んで肘打ちをくらわせた。
クリーンヒットした椎崎は後ろに吹っ飛んで地面の上に倒れた。
あっという間の早技に唖然としてしまった。
椎崎の方に向いていた体をぐるりと回転させて、佳純は足を俺の方へ向けた。
「か……佳純さん、だめっ、ダメだよ。この子、発情していて、匂いを嗅いだら……来ちゃダメ、お願い、佳純さん! 来ないで!」
フェロモンに反応してしまうのは本能だ。
そもそもアルファは番がいても他のオメガに反応するくらい匂いには敏感だ。
番関係があればある程度理性が保てるかもしれないが、俺と佳純は番ではない。
だから、こんな状態で佳純が来たら、誘発されて女の子を襲ってしまうかもしれない。
そんなこと。
そんなことになったら嫌だし、絶対にだめだ。
来たらダメだと言っているのに、佳純はすぐ近くまで来てしまった。
恐くて佳純のことがまともに見られない。
だけどいざとなったら、何としてでも俺が止めないといけない。
ガタガタと震える俺の前に、佳純の手が伸びて来た。
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