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④ 君塚家【食堂】
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「よく眠れましたか?」
案内された食堂の席に着いたら、目の前に座っていた佳純が優しげな笑顔を浮かべて声をかけてきた。
「え………あ、はい」
やはり涎が付いていたのかと口元を手で覆ったら、クスリと笑われてしまった。
カタンと椅子が引かれた音がして、顔を上げると佳純が真横に立っていた。
「何でしょうかねぇ……。諒さんは想像していた方とずいぶん違って……驚かされてばかりです」
「えっ………」
気がつくと細くて白い手が伸びてきて、俺の頭をぽすっと撫でていた。
「お顔はとてもお綺麗ですよ。頭にはちょこんと立った可愛い寝癖がありますが」
「ええ!?」
口元の涎ばかり気にして頭の方を考えていなかった。
俺の髪は普段クセのない直毛だが、一度寝癖がつくと盛大に立ち上がってしまう。
「あ……あの……」
「手櫛では直りませんね。私は気にしないので、このままにしておきましょう。後で洗った時によく乾かしてください」
「はい………」
もう散々だった。
佳純の前ではダサい失敗ばかりで、少しもアピールできなかった。
これではやはり玲香がいいと言われてしまうと、気分がドンと重くなった。
そんな俺の様子に気がつくはずもなく、佳純は静かに対面の席に戻ると、運ばれてきた料理を慣れた様子で取り分けてくれた。
いかにもお洒落な人が食べそうな、鶏むね肉のサラダや、野菜スープなどヘルシーな料理がテーブルに並んだ。
俺は取り分けてもらったお皿を丁重に取り扱いながら、ムシャムシャと草食動物のようにサラダを食べた。
ここに俺ではなくて玲香がいたらどうだったのだろうとぼんやり思った。
佳純は本当に喜んで、二人で和やかに会話をしたんだろうなと想像してしまった。
「お二人は顔も似ていて、性格まで似ていらっしゃるのですか?」
「え? 二人って……玲香とですか?」
玲香のことを考えていたら、ちょうど名前が出てきたので体がビクッと揺れた。
昔遊んだ仲だったという二人が、どこまで仲が良かったのか分からないが、変なことを聞くんだなと思ってしまった。
「玲香と私とは正反対です。玲香は幼い頃からきっとアルファだろうってみんなに言われるくらいなんでも良くできて、太陽みたいに明るい性格で誰とでもすぐに仲良くなれて、頭の回転が早くてオシャレだし、色んな流行にも詳しくて、性格もすごく優しいし、人に気を遣えて、それでいて何をしていても可愛いし、それでそれで……」
指を折りながら、玲香のことを考えて熱くなってしまった。二人とも女優をしていた母によく似てはいるが、顔の作り以前に醸し出される雰囲気が全然違った。
いつだって、昔も今も玲香は生命力に溢れて輝いてる。俺と似ている、なんて言うのはありえない話だった。
「分かりました。もう大丈夫です。諒さんが、玲香さんをすごく好きなんだなというのはよく伝わってきました」
まだまだ言い足りないと机に乗り出そうとしたところで、苦笑いした佳純に軽く止められてしまった。
これではシスコンなのがモロバレである。
また恥ずかしくなって、真っ赤になった。
「そんなお人柄なのですね……。私と会った時は器用に生きている人というより、一生懸命なところが可愛かったのですが……」
何でも器用にこなしてしまう玲香に一生懸命、というイメージはあまりなかった。
本人も適当にやっても出来ちゃうからと手を抜いていることが珍しくなかった。
それでも、玲香なりに葛藤や苦労することがあって、家族には見せなかったが、親しい友人、佳純にはそう言った一面を見せていたのかもしれない。
兄として、もっとちゃんと見てあげるべきだったなと腕を組んで考えてしまった。
そこで地元の特産品だというライスワインが出てきた。お酒はあまり得意ではないが、ここで断ったらまた印象を悪くしてしまうと思って、少しだけと言ってグラスに注いでもらった。
「………今回の結婚の件ですが、正直なところ迷っています。子供同士の約束を真に受けていた私が悪いのですが、自分の中で玲香さんを勝手に理想として作り上げていたので、まだ気持ちが追いつかないのです。でも、祖母のことは先延ばしにできなくて………」
佳純の困った様子を見て、援助を目的に自分を売り込みに来た立場としては胸が痛いものがあった。
心情として先に進めずにいるのだとしたら、ここは俺が提案してみるのも手ではないかと考えた。
「白奥家の会社が傾いていることは、すでにご存知でいらっしゃると思います。今回の婚姻について援助を申し出てくれたのはそういう意味合いも含んでいらっしゃいますよね?」
「ええ……、縁続きになるのでしたら、当然すべきことかと……」
「今回、この話を私から提案したのは、そういった面でのメリットを、会社として期待されているからです。私自身、今まで家族のお荷物状態で役に立たなかったことを悔やんでおりまして、力になれるならぜひ協力したいと……」
「ええと、それは……つまり?」
「私との関係はビジネスだと考えてください。お祖母様へきちんと結婚を報告して、まずは安心してもらいましょう。その後は、この関係を君塚さんの方でいいように使って頂いて結構です。つまり、他に結婚すべき相手が現れたり、気持ちがどうしても向かないと言うのなら、離縁を申し出ていただければ、私はすぐ身を引きます。私個人として何か見返りを要求するようなこともありません。その代わり、会社の方の業務提携などの協力体制はそのまま継続していただけたらと思うのですが、いかがでしょうか」
「どうして……そこまで………」
「………一度、人生に挫折した身なんです。家族は温かい囲いを作って守ってくれた。ずっと、何の恩も返せないでいる自分がもどかしかった。……それだけです」
自分の気持ちは霧の中に。
もうこれ以上沈むことはない。
それに、自ら試みた大冒険は悪くなかった。
佳純がいいと言ってくれるなら、なんでもやろうと言う気持ちになっていた。
「そこまで仰っていただけたら、こちらとしてはありがたい事です。ただ、やはりもう少しだけ考えさせてください」
あくまでビジネスと言った口調だったが、佳純は目を細めてニコリと笑ってくれた。
その美しさに魅入られて、食い入るよう佳純の瞳を見つめてしまった。
顔が熱くて頭までふわふわしてきてしまったのは、ライスワインが効いてきたからだろう。
「良かった……。よろしくお願いします」
ろくに良いところを見せることはできなかったが、誠心誠意気持ちを伝えたら、どうやら分かってもらえたようだ。後は、少し時間を置いて考えてもらえたらそれで十分だと思った。
「この後、オンラインで話さないといけないので、先に戻りますね。お食事が終わったら、温泉の方もぜひ楽しんでください」
「はい、ありがとうございます」
少し前に進めたからか、気分も軽くなった。温泉と言われたらどんどん楽しみになってしまった。
先に退室した佳純が手をつけなかったものまでペロリと平らげてしまった。
温泉は大浴場というより、家族風呂というくらいの大きさだったが、それでも温泉だ。
乳白色のいい香りのするお湯に、心も体も溶けてしまいそうになるくらい、気持ちよく堪能させてもらった。
自宅にも欲しいし、毎日でも入りたい気分だ。
さすがにそんな贅沢はできないので、夢を見るだけにしておく。
温泉から出てポカポカする体と、高揚した気分で廊下を歩いていたら、向こうから佳純が歩いて来るのが見えた。
着替えまで用意してもらって、湯上がりには温泉旅館みたいな浴衣を着ている。
至れり尽くせりで最高の気分だった。
お礼を言わなくてはと、俺は小走りで近づいて行き笑顔で佳純に向かって頭を下げた。
「すごくいいお湯でした。温泉は久しぶりで、とっても気持ちよかったです」
「それは良かったです。喜んでいただけて私も………、あっ、諒さん、髪の毛が……」
洗い上がりの髪を適当にゴシゴシ拭いて、タオルを引っ掛けて出てきたつもりだったが、佳純が不思議そうな顔で見てきたので、何かマズかったかなと思ってしまった。
「水滴が垂れてますけど、ドライヤーが中にあったと思うのですが」
「ドライヤー? あ、いつも適当に拭くだけなんです。たまに乾かしてもらうことはありますけど、自分ではあんまり……」
髪の毛は短いし、大したことじゃないと思っていたのに、慌てた様子になった佳純に背中を押されて、客室まで一緒に向かうことになってしまった。
「暖かくなってきたとはいえ、夜は冷えます。風邪でもひいたらどうされるんですか」
「えっ、あ、はい」
背もたれのない鏡台の椅子に座らされた俺は、なぜかちょっと怒られながら、首にかけていたタオルで佳純に頭をゴシゴシ拭かれてしまった。
そして佳純は備え付けのドライヤーを使って俺の頭を乾かし始めた。
「わっ……すみません、君塚さんにこんなことまで……」
「じっとしていてください。ブラシがないので手櫛で我慢してくださいね」
まさか君塚グループの実質トップのお方に、髪の毛を乾かされるなんて、社員が聞いたら卒倒しそうだ。
わざわざ他人にこんなことをするなんて、世話好きな人なのだろうか。
しかし俺も俺で自分のことは無頓着で、今まで周りが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人ばかりだったので、佳純がお世話してくれるのを違和感なく受け入れてしまった。
「真っ黒なストレートなので、髪質は硬そうに見えましたけど、触れてみると柔らかいんですね。艶のある黒髪が羨ましいです」
「黒髪なんて日本人ならだいたい同じですよ。それより、君塚さんの茶色い髪の方が豪華で綺麗に見えます」
「私のは、祖父譲りなんです。お気づきになられたでしょう、瞳の色も日本人とは違うと。祖母は欧州にいた頃に祖父と結婚したので、外国の血が入っているんです」
やはりそうだったのかと納得してしまった。
どう考えても日本人には見えないが、完全な外国人にも見えない。そのアンバランスなところが、佳純の美しさをより際立たせているのだろう。
「初めてお会いした時、まるで妖精かと思いました。庭の紫陽花から飛び出してきたような……」
おかしなことを言ってしまったからか、佳純がドライヤーを持つ手がブレて首にあたってしまった。
熱くはなかったが、また子供のような発言をしてしまったと思った。
「失礼しました。ちょっとびっくりしてしまいまして……」
「大丈夫です。すみません、変なことを言って……」
その後はお互い沈黙が流れて、佳純は俺の髪を乾かすことに専念したようだ。
気まずいなと思っていた俺も、ちょうどいい温かさと、髪に触れてもらう心地よさでだんだんウトウトと眠気を感じ始めてしまった。
「もう……終わりますか?」
「ええ、あと毛先を少しだけ」
「………ありがとうございます」
さっき寝たはずなのに眠気は簡単に戻ってきた。
というか俺は、髪に触れられるとすぐ眠くなってしまうところがあって、美容院に行くと爆睡してしまう。
佳純の前で失礼だと思いながら、重力に負けて頭をガクンと後ろに倒してしまった。
ぽすっと柔らかいものにあたって支えられている気がした。
「ふふっ、眠くなっちゃったんですか? もたれていいですよ」
「すみま……せ……」
佳純は乾かしついでにマッサージまでしてくれている。耳の後ろを柔らかく押されたら、もっと気持ちよくなってきてしまった。
「んっ……くすぐっ……た……」
頭を振ったつもりだったが、おそらく佳純の腰の辺りに頭を擦り付けている感じになってしまった。
佳純の声がどこか遠く、水の中にいるみたいにぼんやりと聞こえてきて現実感が薄れてきた。
「可愛がられることに慣れている……か。………参ったな……私も魔法にかかってしまいそうです」
魔法使いがこの世にいるのなら、それは佳純や玲香のことだろう。
周りにいる誰もを魅了してしまう。
きっともうすでに俺も………。
「お休みなさい、諒さん」
とろんとした甘い眠りに落ちて、そこですっかり意識はなくなってしまった。
朝方、ごうごうという風の音と、ドカドカと地面を叩きつける水の音で目が覚めた。
客室に置かれていたテレビを付けると、ちょうど天気のニュースが流れてきた。
いつも癒し系の気象予報士さんも今日は真剣な顔つきで、急速に発達する低気圧の影響と、台風が連続で発生していてしばらく荒天が続くので最大級の警戒をしてくださいと言っていた。
コンコンとノックの音がして返事をすると、佳純が申し訳なさそうな顔をして部屋に入ってきた。
「おはようございます。朝からすみません。送迎に車を出そうと思ったのですが、この天気でして……、この辺りは道が悪くて倒木で通行止めになることが多いのです。駅までたどり着けても鉄道もおそらく……申し訳ございません」
「そんなっ、謝らないでください。勝手に押しかけたのは私の方です。天気なんてどうしようもないことですから」
「お仕事の方は大丈夫ですか?」
「私は白奥のシステム系の子会社でプログラミングをしているので普段から在宅なんです。パソコンがあればどこでも仕事はできますから大丈夫です。それより、ここにいるとお世話をおかけしてしまうので、どこか宿を紹介していただけるとありがたいのですが……」
「宿なんて……とんでもない。こんな荒れた天気で外に出てもらうわけに行きません。こちらは全く迷惑などないので、何日でも滞在していただいて結構です。どうかお気になさらずに、こちらにいてください」
「あ……ありがとうございます。助かります」
思いがけず、この自然に囲まれた屋敷に逗留することになってしまった。
嫌な顔をされたらと心配だったが、佳純の態度は始終穏やかだったのでホッとした。
仕事の方は、大きな案件も入っていないし大丈夫だ。
少し気掛かりなのは、薬の方だった。
オメガとして生きるには薬が欠かせない。
しばらくは大丈夫なようにいつも多めに持ち歩いているので、足りないことはないと思うが少し心配だった。
昨日は佳純にこの関係がビジネスなものであればどうかと提案した。
それがどこまで含むかはまだ先の話になると思うので、もしものことがあったら佳純に申し訳ない。
バース性が人間の本能に強く基づいていることはお互いよく分かっているだろう。
だが、オメガについてはその身になってみないと分からないことの方が多い。
俺がしっかりしないとと思いながら、薬の入っている鞄を見つめて小さく息を吐いた。
□□□
案内された食堂の席に着いたら、目の前に座っていた佳純が優しげな笑顔を浮かべて声をかけてきた。
「え………あ、はい」
やはり涎が付いていたのかと口元を手で覆ったら、クスリと笑われてしまった。
カタンと椅子が引かれた音がして、顔を上げると佳純が真横に立っていた。
「何でしょうかねぇ……。諒さんは想像していた方とずいぶん違って……驚かされてばかりです」
「えっ………」
気がつくと細くて白い手が伸びてきて、俺の頭をぽすっと撫でていた。
「お顔はとてもお綺麗ですよ。頭にはちょこんと立った可愛い寝癖がありますが」
「ええ!?」
口元の涎ばかり気にして頭の方を考えていなかった。
俺の髪は普段クセのない直毛だが、一度寝癖がつくと盛大に立ち上がってしまう。
「あ……あの……」
「手櫛では直りませんね。私は気にしないので、このままにしておきましょう。後で洗った時によく乾かしてください」
「はい………」
もう散々だった。
佳純の前ではダサい失敗ばかりで、少しもアピールできなかった。
これではやはり玲香がいいと言われてしまうと、気分がドンと重くなった。
そんな俺の様子に気がつくはずもなく、佳純は静かに対面の席に戻ると、運ばれてきた料理を慣れた様子で取り分けてくれた。
いかにもお洒落な人が食べそうな、鶏むね肉のサラダや、野菜スープなどヘルシーな料理がテーブルに並んだ。
俺は取り分けてもらったお皿を丁重に取り扱いながら、ムシャムシャと草食動物のようにサラダを食べた。
ここに俺ではなくて玲香がいたらどうだったのだろうとぼんやり思った。
佳純は本当に喜んで、二人で和やかに会話をしたんだろうなと想像してしまった。
「お二人は顔も似ていて、性格まで似ていらっしゃるのですか?」
「え? 二人って……玲香とですか?」
玲香のことを考えていたら、ちょうど名前が出てきたので体がビクッと揺れた。
昔遊んだ仲だったという二人が、どこまで仲が良かったのか分からないが、変なことを聞くんだなと思ってしまった。
「玲香と私とは正反対です。玲香は幼い頃からきっとアルファだろうってみんなに言われるくらいなんでも良くできて、太陽みたいに明るい性格で誰とでもすぐに仲良くなれて、頭の回転が早くてオシャレだし、色んな流行にも詳しくて、性格もすごく優しいし、人に気を遣えて、それでいて何をしていても可愛いし、それでそれで……」
指を折りながら、玲香のことを考えて熱くなってしまった。二人とも女優をしていた母によく似てはいるが、顔の作り以前に醸し出される雰囲気が全然違った。
いつだって、昔も今も玲香は生命力に溢れて輝いてる。俺と似ている、なんて言うのはありえない話だった。
「分かりました。もう大丈夫です。諒さんが、玲香さんをすごく好きなんだなというのはよく伝わってきました」
まだまだ言い足りないと机に乗り出そうとしたところで、苦笑いした佳純に軽く止められてしまった。
これではシスコンなのがモロバレである。
また恥ずかしくなって、真っ赤になった。
「そんなお人柄なのですね……。私と会った時は器用に生きている人というより、一生懸命なところが可愛かったのですが……」
何でも器用にこなしてしまう玲香に一生懸命、というイメージはあまりなかった。
本人も適当にやっても出来ちゃうからと手を抜いていることが珍しくなかった。
それでも、玲香なりに葛藤や苦労することがあって、家族には見せなかったが、親しい友人、佳純にはそう言った一面を見せていたのかもしれない。
兄として、もっとちゃんと見てあげるべきだったなと腕を組んで考えてしまった。
そこで地元の特産品だというライスワインが出てきた。お酒はあまり得意ではないが、ここで断ったらまた印象を悪くしてしまうと思って、少しだけと言ってグラスに注いでもらった。
「………今回の結婚の件ですが、正直なところ迷っています。子供同士の約束を真に受けていた私が悪いのですが、自分の中で玲香さんを勝手に理想として作り上げていたので、まだ気持ちが追いつかないのです。でも、祖母のことは先延ばしにできなくて………」
佳純の困った様子を見て、援助を目的に自分を売り込みに来た立場としては胸が痛いものがあった。
心情として先に進めずにいるのだとしたら、ここは俺が提案してみるのも手ではないかと考えた。
「白奥家の会社が傾いていることは、すでにご存知でいらっしゃると思います。今回の婚姻について援助を申し出てくれたのはそういう意味合いも含んでいらっしゃいますよね?」
「ええ……、縁続きになるのでしたら、当然すべきことかと……」
「今回、この話を私から提案したのは、そういった面でのメリットを、会社として期待されているからです。私自身、今まで家族のお荷物状態で役に立たなかったことを悔やんでおりまして、力になれるならぜひ協力したいと……」
「ええと、それは……つまり?」
「私との関係はビジネスだと考えてください。お祖母様へきちんと結婚を報告して、まずは安心してもらいましょう。その後は、この関係を君塚さんの方でいいように使って頂いて結構です。つまり、他に結婚すべき相手が現れたり、気持ちがどうしても向かないと言うのなら、離縁を申し出ていただければ、私はすぐ身を引きます。私個人として何か見返りを要求するようなこともありません。その代わり、会社の方の業務提携などの協力体制はそのまま継続していただけたらと思うのですが、いかがでしょうか」
「どうして……そこまで………」
「………一度、人生に挫折した身なんです。家族は温かい囲いを作って守ってくれた。ずっと、何の恩も返せないでいる自分がもどかしかった。……それだけです」
自分の気持ちは霧の中に。
もうこれ以上沈むことはない。
それに、自ら試みた大冒険は悪くなかった。
佳純がいいと言ってくれるなら、なんでもやろうと言う気持ちになっていた。
「そこまで仰っていただけたら、こちらとしてはありがたい事です。ただ、やはりもう少しだけ考えさせてください」
あくまでビジネスと言った口調だったが、佳純は目を細めてニコリと笑ってくれた。
その美しさに魅入られて、食い入るよう佳純の瞳を見つめてしまった。
顔が熱くて頭までふわふわしてきてしまったのは、ライスワインが効いてきたからだろう。
「良かった……。よろしくお願いします」
ろくに良いところを見せることはできなかったが、誠心誠意気持ちを伝えたら、どうやら分かってもらえたようだ。後は、少し時間を置いて考えてもらえたらそれで十分だと思った。
「この後、オンラインで話さないといけないので、先に戻りますね。お食事が終わったら、温泉の方もぜひ楽しんでください」
「はい、ありがとうございます」
少し前に進めたからか、気分も軽くなった。温泉と言われたらどんどん楽しみになってしまった。
先に退室した佳純が手をつけなかったものまでペロリと平らげてしまった。
温泉は大浴場というより、家族風呂というくらいの大きさだったが、それでも温泉だ。
乳白色のいい香りのするお湯に、心も体も溶けてしまいそうになるくらい、気持ちよく堪能させてもらった。
自宅にも欲しいし、毎日でも入りたい気分だ。
さすがにそんな贅沢はできないので、夢を見るだけにしておく。
温泉から出てポカポカする体と、高揚した気分で廊下を歩いていたら、向こうから佳純が歩いて来るのが見えた。
着替えまで用意してもらって、湯上がりには温泉旅館みたいな浴衣を着ている。
至れり尽くせりで最高の気分だった。
お礼を言わなくてはと、俺は小走りで近づいて行き笑顔で佳純に向かって頭を下げた。
「すごくいいお湯でした。温泉は久しぶりで、とっても気持ちよかったです」
「それは良かったです。喜んでいただけて私も………、あっ、諒さん、髪の毛が……」
洗い上がりの髪を適当にゴシゴシ拭いて、タオルを引っ掛けて出てきたつもりだったが、佳純が不思議そうな顔で見てきたので、何かマズかったかなと思ってしまった。
「水滴が垂れてますけど、ドライヤーが中にあったと思うのですが」
「ドライヤー? あ、いつも適当に拭くだけなんです。たまに乾かしてもらうことはありますけど、自分ではあんまり……」
髪の毛は短いし、大したことじゃないと思っていたのに、慌てた様子になった佳純に背中を押されて、客室まで一緒に向かうことになってしまった。
「暖かくなってきたとはいえ、夜は冷えます。風邪でもひいたらどうされるんですか」
「えっ、あ、はい」
背もたれのない鏡台の椅子に座らされた俺は、なぜかちょっと怒られながら、首にかけていたタオルで佳純に頭をゴシゴシ拭かれてしまった。
そして佳純は備え付けのドライヤーを使って俺の頭を乾かし始めた。
「わっ……すみません、君塚さんにこんなことまで……」
「じっとしていてください。ブラシがないので手櫛で我慢してくださいね」
まさか君塚グループの実質トップのお方に、髪の毛を乾かされるなんて、社員が聞いたら卒倒しそうだ。
わざわざ他人にこんなことをするなんて、世話好きな人なのだろうか。
しかし俺も俺で自分のことは無頓着で、今まで周りが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人ばかりだったので、佳純がお世話してくれるのを違和感なく受け入れてしまった。
「真っ黒なストレートなので、髪質は硬そうに見えましたけど、触れてみると柔らかいんですね。艶のある黒髪が羨ましいです」
「黒髪なんて日本人ならだいたい同じですよ。それより、君塚さんの茶色い髪の方が豪華で綺麗に見えます」
「私のは、祖父譲りなんです。お気づきになられたでしょう、瞳の色も日本人とは違うと。祖母は欧州にいた頃に祖父と結婚したので、外国の血が入っているんです」
やはりそうだったのかと納得してしまった。
どう考えても日本人には見えないが、完全な外国人にも見えない。そのアンバランスなところが、佳純の美しさをより際立たせているのだろう。
「初めてお会いした時、まるで妖精かと思いました。庭の紫陽花から飛び出してきたような……」
おかしなことを言ってしまったからか、佳純がドライヤーを持つ手がブレて首にあたってしまった。
熱くはなかったが、また子供のような発言をしてしまったと思った。
「失礼しました。ちょっとびっくりしてしまいまして……」
「大丈夫です。すみません、変なことを言って……」
その後はお互い沈黙が流れて、佳純は俺の髪を乾かすことに専念したようだ。
気まずいなと思っていた俺も、ちょうどいい温かさと、髪に触れてもらう心地よさでだんだんウトウトと眠気を感じ始めてしまった。
「もう……終わりますか?」
「ええ、あと毛先を少しだけ」
「………ありがとうございます」
さっき寝たはずなのに眠気は簡単に戻ってきた。
というか俺は、髪に触れられるとすぐ眠くなってしまうところがあって、美容院に行くと爆睡してしまう。
佳純の前で失礼だと思いながら、重力に負けて頭をガクンと後ろに倒してしまった。
ぽすっと柔らかいものにあたって支えられている気がした。
「ふふっ、眠くなっちゃったんですか? もたれていいですよ」
「すみま……せ……」
佳純は乾かしついでにマッサージまでしてくれている。耳の後ろを柔らかく押されたら、もっと気持ちよくなってきてしまった。
「んっ……くすぐっ……た……」
頭を振ったつもりだったが、おそらく佳純の腰の辺りに頭を擦り付けている感じになってしまった。
佳純の声がどこか遠く、水の中にいるみたいにぼんやりと聞こえてきて現実感が薄れてきた。
「可愛がられることに慣れている……か。………参ったな……私も魔法にかかってしまいそうです」
魔法使いがこの世にいるのなら、それは佳純や玲香のことだろう。
周りにいる誰もを魅了してしまう。
きっともうすでに俺も………。
「お休みなさい、諒さん」
とろんとした甘い眠りに落ちて、そこですっかり意識はなくなってしまった。
朝方、ごうごうという風の音と、ドカドカと地面を叩きつける水の音で目が覚めた。
客室に置かれていたテレビを付けると、ちょうど天気のニュースが流れてきた。
いつも癒し系の気象予報士さんも今日は真剣な顔つきで、急速に発達する低気圧の影響と、台風が連続で発生していてしばらく荒天が続くので最大級の警戒をしてくださいと言っていた。
コンコンとノックの音がして返事をすると、佳純が申し訳なさそうな顔をして部屋に入ってきた。
「おはようございます。朝からすみません。送迎に車を出そうと思ったのですが、この天気でして……、この辺りは道が悪くて倒木で通行止めになることが多いのです。駅までたどり着けても鉄道もおそらく……申し訳ございません」
「そんなっ、謝らないでください。勝手に押しかけたのは私の方です。天気なんてどうしようもないことですから」
「お仕事の方は大丈夫ですか?」
「私は白奥のシステム系の子会社でプログラミングをしているので普段から在宅なんです。パソコンがあればどこでも仕事はできますから大丈夫です。それより、ここにいるとお世話をおかけしてしまうので、どこか宿を紹介していただけるとありがたいのですが……」
「宿なんて……とんでもない。こんな荒れた天気で外に出てもらうわけに行きません。こちらは全く迷惑などないので、何日でも滞在していただいて結構です。どうかお気になさらずに、こちらにいてください」
「あ……ありがとうございます。助かります」
思いがけず、この自然に囲まれた屋敷に逗留することになってしまった。
嫌な顔をされたらと心配だったが、佳純の態度は始終穏やかだったのでホッとした。
仕事の方は、大きな案件も入っていないし大丈夫だ。
少し気掛かりなのは、薬の方だった。
オメガとして生きるには薬が欠かせない。
しばらくは大丈夫なようにいつも多めに持ち歩いているので、足りないことはないと思うが少し心配だった。
昨日は佳純にこの関係がビジネスなものであればどうかと提案した。
それがどこまで含むかはまだ先の話になると思うので、もしものことがあったら佳純に申し訳ない。
バース性が人間の本能に強く基づいていることはお互いよく分かっているだろう。
だが、オメガについてはその身になってみないと分からないことの方が多い。
俺がしっかりしないとと思いながら、薬の入っている鞄を見つめて小さく息を吐いた。
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