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第一部
③ 傷
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「やめろ! 嫌だ、触るなぁ! 離せよ!」
外に出たレアンが見たのは、間もなく暗くなる空の下、男に担がれたシエルが草むらに落とされたところだった。
抵抗して男を殴るシエルの細い腕が見えたが、体格のいい男は少しも痛がる様子はなかった。
男は獲物を前にした獣のように目をギラつかせて、シエルに覆い被さって、小さな手を草の上に縫い付けた。
二人の側に駆け寄ったレアンだったが、どうやって止めたらいいか分からずに、足が止まってしまった。
周囲を確認すると、日が落ちた草原の向こうに、小さな家が見えて、屋根からは煙が出ていた。
助けを呼びに行く。
そう考えたが、レアンがドアを叩いたとして、どう説明したらいいのか、それも分からなかった。
夜更け前に薄汚れた子供が訪ねてきて、何も言わずに手を引いて、それで付いて来てくれる人が果たしているのだろうか……。
それに人買いとは関わりを持ちたくないという人がほとんどだ。
見て見ぬふりをされたら、それ以上何もできなくなってしまう。
諦めかけて、いやダメだとレアンは首を振った。
こんな時、上手い作戦が思いつくほど頭は回らないし、力もないけれど、自分には動く手足がある。
周りを見ても草ばかりで武器になるようなものはない。
それなら
身ひとつで行くしかない。
レアンはもう迷わなかった。
勢いをつけて突進して、男の腕にしがみ付いた。
男はシエルを大人しくさせることに夢中で、レアンの気配に気がついていなかったのか、驚いた声を上げて、レアンを振り払うようにして起き上がった。
「なっ、なんだぁ! お前っ、いつの間に外へ!? 殺されたいのか!!」
今しかないと、レアンは男とシエルの間に入って、両手を広げた。
いくら頭にくることがあったとしても、こんなことは許されない。
レアンは歯を食いしばって、必死に男を睨みつけた。
「お前……、生意気な目をしているな……お前みたいなクソガキが俺をバカにするなんて……」
男の怒りは頂点に達したらしい。
こめかみに血管を浮き上がらせながら、腰に巻いていた鞭を手に取った。
一瞬だった。
ビュンと音を立ててしなった鞭が、風を切って通り抜けた時、レアンの顔面に痛みが走った。
「ぐっ…………っっ!」
声にならない声を上げて、息を吸い込もうとすると、今度は顔に生温かい何かを感じた。
「おい!! 何をやっているんだ!?」
そこに別の声がして、男はハッとした顔になってその方向に顔を向けた。
「おいっ、サム! 逃げているヤツがいるぞ! さっさと捕まえ……おっ、お前!?」
どうやら足枷をロープで固定されていなかった子が、レアンと同じように外へ出て逃げたようだ。
どこかで鉢合わせたのか、もう一人の腹の出た男が戻ってきた。
サムと呼ばれた顎の出た男に声をかけたが、レアンの顔を見て男は口を開けて驚いた。
「馬鹿野郎!! 商品を傷つけるなんて、親分に知られたら殺されるぞ!」
「だ……だってよぉ、兄貴、俺が何もできない役立たずの弱虫だって……」
「そんなモン知るか! 商品には逃げられるし、こっちのは顔を傷つけるなんて、もう売り物にならないじゃねーか! このアホ!!」
腹の出た男は怒り狂って、サムを押し倒して馬乗りになって殴り始めた。
その様子を呆然として見ながら、レアンは自分の顔に手を当てた。
「…………っぅ!」
鼻から頬にかけて一本の線になった傷ができている。
肉が深くえぐられていることから考えると、これはもう治ったとしても、傷が残ってしまうだろう。
指で触ったことで、血がポタポタと流れ落ちてきた。
同時に忘れていたようにドクドクと痛みが押し寄せてきて、レアンは息を吸い込むように小さく悲鳴を上げた。
「待って、触らないで。傷口に触れたらだめだ」
後ろから声がしたと思ったら、気がつくとシエルが横に移動してきていた。
シエルは自分の服の裾を噛んで傷つけた後、ビリビリと引きちぎって長細い布のようにした。
「俺の母さんはなんでもできたけど、怪我の手当をするのが得意だった。本当は水で洗いたいんだけど……とりあえずこれで押さえて、血を止めるんだ」
ありがとうの気持ちをこめて、レアンが頭を下げると、シエルは苦いものでも食べたような顔をした。
そんな顔をしても、少しも美しさが崩れないので、すごいなと感心してしまった。
「……助けてもらってこんなことを言うのはあれだけど、素手で戦おうとしたの? あいつは鞭を持っているのに? 恐くなかったの? それに……外へ出られたのに、なんで逃げないんだよ」
まるで、堰を切ったように質問が飛んできて、レアンは面食らってしまった。
その質問全てに、答えることができない。
レアンは自分の口を指さした後、ブンブンと首を振って見せた。そうすれば、話せないということを、だいたいの人が理解してくれた。
シエルもすぐに、あっと言う顔になって、ごめんと謝ってきた。
「とにかくお前は逃げたヤツらを捕まえて来い! 森へ入るのは危険だから、村の方に向かっただろう。遠くへは逃げられないはずだ」
ボコボコに殴られたサムの顔はひどいことになっていたが、ハイとこもった声で返事をして、サムは言われた通りに暗い草原の中へ走って行った。
「お前達は馬車の中に戻れ! 大人しく寝ていろ!」
レアンとシエルは、もう一人の男に立たされて、背中を押されて馬車の中に連れ戻された。
今度はしっかりと足にロープを巻いて固定した後、男は逃げた子供を追いにいくためか外に出て行った。
「ひどい……、顔を傷つけるなんて……」
事態をこっそり見ていたのか、男が出て行った後、リタが起き上がってレアンの顔を見て悲鳴を上げた。
「誰か、水が残っていないか? 少しでもいい、傷口を綺麗にしてあげたい……頼む」
シエルが声をかけると、ひとりの子供がコップに残っていた水を持ってきてくれた。
リタもこれを使ってと布を切ったものを差し出してくれた。裁縫が好きなリタは、売られる時にこれだけはと、集めていた端切れを持ってきたと言っていたのを思い出した。
床に寝かされたレアンは、傷口を水で洗われた後、押さえるようにして顔に布を巻かれた。
「これが精一杯ね。残念だけど……かなり深かったから、傷が癒えても痕は残ってしまうわね」
顔は痛いし、痕が残ると言われて、ズンと胸が重くなった。
声が出ない上に、顔に傷があったら、間違いなく買い叩かれて、強制労働行きになるだろう。
気分はどん底で、希望も何もなくなってしまったが、シエルの方を見たら、傷ひとつない元気な様子なのでホッとしてしまった。
あのままだったらあの獣の餌食になっていただろう。
登場人物の生い立ちにあたる、辛い経験にしては過酷すぎると思ってしまった。
この後のことを思い出そうとしたが、今は興奮で頭が回らなくて、とにかく止めることできたと安堵した。
これで弟や妹に、顔向けできないような人間にはならずにすんだ。
そう思った時、心配そうに自分を覗き込むシエルの顔を見たら、弟や妹の顔が浮かんできたので、レアンは思わず微笑んだ。
「え……」
シエルは驚いたように目を開いたが、レアンは手を伸ばして、シエルの体が無事なことを確認して、鼻から息を吐いて、よかったとまた笑った。
「なんで…………」
シエルからしたら、怪我をしたくせにのん気に笑っているレアンが信じられないのだろう。
絶望的な状況であるのに、シエルの顔を見たら、揺れていた心が落ち着いてしまった。
こんなに穏やかな気持ちでいられるのが、自分でも不思議だった。
「顔が熱いわ。熱が出るかもしれない……」
「……俺が付いているから、みんな休んでいいよ」
リタが言った通り、顔の傷がズキズキと痛んで、体が熱くなってきたような感じがしてきた。
レアンははぁはぁと胸で息をしながら、痛みをこらえて目を閉じた。
それから三日ほど、熱が上がったり下がったりを繰り返して、三日目の朝にようやく落ち着いて起き上がることができた。
その間、シエルがずっと側について看病してくれた。
夜中に悪夢を見て目が覚めた時、横で寝ていたシエルが起きて、安心させるように手を繋いでくれた。
夢うつつで朦朧としていたが、それでまた眠りにつけたことを覚えている。
レアンが起き上がって周りの状況を確認すると、馬車は何事もなかったように都に向かって進んでいた。
逃げた子は三人だったそうだが、結局一人は逃げて、二人は見つかって連れ戻されていた。
サムと呼ばれていたあの暴力男は、顔中腫れて青くなっていて、レアンよりひどい顔をしていた。
もう一人の男からよほど強く言われたのか、無言で淡々と仕事をこなしていた。
「熱は下がったみたいだね。これ、食べて。クッキーを水でふやかしたから、喉を通りやすいよ」
「ん……」
シエルが慣れた手つきで、濡らしたクッキーをレアンの口に入れてきたので、レアンは舌で軽くつぶしてごくりと飲み込んだ。
すぐに水を飲ませてくれるあたりも慣れていて、ずっとこんな風に世話をしてくれたのだと分かった。
人を寄せ付けず、誰とも関わろうとしなかったシエルだが、さすがに目の前で怪我をされたら、申し訳なく思って世話をしてくれたのだろうかと思った。
「なぁ、お前の……その、名前さ。なんて呼べばいい? 文字は書ける?」
シエルがそう言って手を出してきたので、レアンは指でシエルの手のひらに名前を書いた。
「……ん? レ……ア? レアっていうのか? ずいぶん可愛い名前だな……」
一文字足りなくて、何度か書いてみたが、どうしても、ンが上手く書けなくて、レアンの名前はレアで伝わってしまった。
レアだと女の子に多い呼び方なので、違うと言いたかったのに、話を聞いていた周りの子達も、レアって名前なの? と声をかけてきたので否定するのが大変になってしまった。
病み上がりでそんな気力もなく、レアンはもうそれでいいと思って、うんうんと頷いた。
「俺の名前はシエル。お礼が遅くなってごめん。レア、助けてくれてありがとう」
レアンは微笑んだ後、軽く首を振った。
助けたと言っていいのか分からない。胸を張って誇れるほどのことをしていないからだ。
自分の作戦は無謀すぎた。
他に逃げた子がいて、もう一人の男が帰ってこなかったら、どうなっていたか分からない。
そんなレアンの様子を見て、思いが伝わったようにシエルはレアンの手を握ってきた。
「レアは俺の前に出て、庇ってくれた。それだけで十分だよ。レアは俺の恩人だ」
心臓がトクンと音を立てて強く揺れた。
何もできないと思っていた自分でも、誰かの役に立つことができた。
顔に怪我は負ってしまったが、そのことがレアンには素直に嬉しかった。
トクトクという心臓の音は、何かが変わる始まりの音に聞こえた。
(続)
外に出たレアンが見たのは、間もなく暗くなる空の下、男に担がれたシエルが草むらに落とされたところだった。
抵抗して男を殴るシエルの細い腕が見えたが、体格のいい男は少しも痛がる様子はなかった。
男は獲物を前にした獣のように目をギラつかせて、シエルに覆い被さって、小さな手を草の上に縫い付けた。
二人の側に駆け寄ったレアンだったが、どうやって止めたらいいか分からずに、足が止まってしまった。
周囲を確認すると、日が落ちた草原の向こうに、小さな家が見えて、屋根からは煙が出ていた。
助けを呼びに行く。
そう考えたが、レアンがドアを叩いたとして、どう説明したらいいのか、それも分からなかった。
夜更け前に薄汚れた子供が訪ねてきて、何も言わずに手を引いて、それで付いて来てくれる人が果たしているのだろうか……。
それに人買いとは関わりを持ちたくないという人がほとんどだ。
見て見ぬふりをされたら、それ以上何もできなくなってしまう。
諦めかけて、いやダメだとレアンは首を振った。
こんな時、上手い作戦が思いつくほど頭は回らないし、力もないけれど、自分には動く手足がある。
周りを見ても草ばかりで武器になるようなものはない。
それなら
身ひとつで行くしかない。
レアンはもう迷わなかった。
勢いをつけて突進して、男の腕にしがみ付いた。
男はシエルを大人しくさせることに夢中で、レアンの気配に気がついていなかったのか、驚いた声を上げて、レアンを振り払うようにして起き上がった。
「なっ、なんだぁ! お前っ、いつの間に外へ!? 殺されたいのか!!」
今しかないと、レアンは男とシエルの間に入って、両手を広げた。
いくら頭にくることがあったとしても、こんなことは許されない。
レアンは歯を食いしばって、必死に男を睨みつけた。
「お前……、生意気な目をしているな……お前みたいなクソガキが俺をバカにするなんて……」
男の怒りは頂点に達したらしい。
こめかみに血管を浮き上がらせながら、腰に巻いていた鞭を手に取った。
一瞬だった。
ビュンと音を立ててしなった鞭が、風を切って通り抜けた時、レアンの顔面に痛みが走った。
「ぐっ…………っっ!」
声にならない声を上げて、息を吸い込もうとすると、今度は顔に生温かい何かを感じた。
「おい!! 何をやっているんだ!?」
そこに別の声がして、男はハッとした顔になってその方向に顔を向けた。
「おいっ、サム! 逃げているヤツがいるぞ! さっさと捕まえ……おっ、お前!?」
どうやら足枷をロープで固定されていなかった子が、レアンと同じように外へ出て逃げたようだ。
どこかで鉢合わせたのか、もう一人の腹の出た男が戻ってきた。
サムと呼ばれた顎の出た男に声をかけたが、レアンの顔を見て男は口を開けて驚いた。
「馬鹿野郎!! 商品を傷つけるなんて、親分に知られたら殺されるぞ!」
「だ……だってよぉ、兄貴、俺が何もできない役立たずの弱虫だって……」
「そんなモン知るか! 商品には逃げられるし、こっちのは顔を傷つけるなんて、もう売り物にならないじゃねーか! このアホ!!」
腹の出た男は怒り狂って、サムを押し倒して馬乗りになって殴り始めた。
その様子を呆然として見ながら、レアンは自分の顔に手を当てた。
「…………っぅ!」
鼻から頬にかけて一本の線になった傷ができている。
肉が深くえぐられていることから考えると、これはもう治ったとしても、傷が残ってしまうだろう。
指で触ったことで、血がポタポタと流れ落ちてきた。
同時に忘れていたようにドクドクと痛みが押し寄せてきて、レアンは息を吸い込むように小さく悲鳴を上げた。
「待って、触らないで。傷口に触れたらだめだ」
後ろから声がしたと思ったら、気がつくとシエルが横に移動してきていた。
シエルは自分の服の裾を噛んで傷つけた後、ビリビリと引きちぎって長細い布のようにした。
「俺の母さんはなんでもできたけど、怪我の手当をするのが得意だった。本当は水で洗いたいんだけど……とりあえずこれで押さえて、血を止めるんだ」
ありがとうの気持ちをこめて、レアンが頭を下げると、シエルは苦いものでも食べたような顔をした。
そんな顔をしても、少しも美しさが崩れないので、すごいなと感心してしまった。
「……助けてもらってこんなことを言うのはあれだけど、素手で戦おうとしたの? あいつは鞭を持っているのに? 恐くなかったの? それに……外へ出られたのに、なんで逃げないんだよ」
まるで、堰を切ったように質問が飛んできて、レアンは面食らってしまった。
その質問全てに、答えることができない。
レアンは自分の口を指さした後、ブンブンと首を振って見せた。そうすれば、話せないということを、だいたいの人が理解してくれた。
シエルもすぐに、あっと言う顔になって、ごめんと謝ってきた。
「とにかくお前は逃げたヤツらを捕まえて来い! 森へ入るのは危険だから、村の方に向かっただろう。遠くへは逃げられないはずだ」
ボコボコに殴られたサムの顔はひどいことになっていたが、ハイとこもった声で返事をして、サムは言われた通りに暗い草原の中へ走って行った。
「お前達は馬車の中に戻れ! 大人しく寝ていろ!」
レアンとシエルは、もう一人の男に立たされて、背中を押されて馬車の中に連れ戻された。
今度はしっかりと足にロープを巻いて固定した後、男は逃げた子供を追いにいくためか外に出て行った。
「ひどい……、顔を傷つけるなんて……」
事態をこっそり見ていたのか、男が出て行った後、リタが起き上がってレアンの顔を見て悲鳴を上げた。
「誰か、水が残っていないか? 少しでもいい、傷口を綺麗にしてあげたい……頼む」
シエルが声をかけると、ひとりの子供がコップに残っていた水を持ってきてくれた。
リタもこれを使ってと布を切ったものを差し出してくれた。裁縫が好きなリタは、売られる時にこれだけはと、集めていた端切れを持ってきたと言っていたのを思い出した。
床に寝かされたレアンは、傷口を水で洗われた後、押さえるようにして顔に布を巻かれた。
「これが精一杯ね。残念だけど……かなり深かったから、傷が癒えても痕は残ってしまうわね」
顔は痛いし、痕が残ると言われて、ズンと胸が重くなった。
声が出ない上に、顔に傷があったら、間違いなく買い叩かれて、強制労働行きになるだろう。
気分はどん底で、希望も何もなくなってしまったが、シエルの方を見たら、傷ひとつない元気な様子なのでホッとしてしまった。
あのままだったらあの獣の餌食になっていただろう。
登場人物の生い立ちにあたる、辛い経験にしては過酷すぎると思ってしまった。
この後のことを思い出そうとしたが、今は興奮で頭が回らなくて、とにかく止めることできたと安堵した。
これで弟や妹に、顔向けできないような人間にはならずにすんだ。
そう思った時、心配そうに自分を覗き込むシエルの顔を見たら、弟や妹の顔が浮かんできたので、レアンは思わず微笑んだ。
「え……」
シエルは驚いたように目を開いたが、レアンは手を伸ばして、シエルの体が無事なことを確認して、鼻から息を吐いて、よかったとまた笑った。
「なんで…………」
シエルからしたら、怪我をしたくせにのん気に笑っているレアンが信じられないのだろう。
絶望的な状況であるのに、シエルの顔を見たら、揺れていた心が落ち着いてしまった。
こんなに穏やかな気持ちでいられるのが、自分でも不思議だった。
「顔が熱いわ。熱が出るかもしれない……」
「……俺が付いているから、みんな休んでいいよ」
リタが言った通り、顔の傷がズキズキと痛んで、体が熱くなってきたような感じがしてきた。
レアンははぁはぁと胸で息をしながら、痛みをこらえて目を閉じた。
それから三日ほど、熱が上がったり下がったりを繰り返して、三日目の朝にようやく落ち着いて起き上がることができた。
その間、シエルがずっと側について看病してくれた。
夜中に悪夢を見て目が覚めた時、横で寝ていたシエルが起きて、安心させるように手を繋いでくれた。
夢うつつで朦朧としていたが、それでまた眠りにつけたことを覚えている。
レアンが起き上がって周りの状況を確認すると、馬車は何事もなかったように都に向かって進んでいた。
逃げた子は三人だったそうだが、結局一人は逃げて、二人は見つかって連れ戻されていた。
サムと呼ばれていたあの暴力男は、顔中腫れて青くなっていて、レアンよりひどい顔をしていた。
もう一人の男からよほど強く言われたのか、無言で淡々と仕事をこなしていた。
「熱は下がったみたいだね。これ、食べて。クッキーを水でふやかしたから、喉を通りやすいよ」
「ん……」
シエルが慣れた手つきで、濡らしたクッキーをレアンの口に入れてきたので、レアンは舌で軽くつぶしてごくりと飲み込んだ。
すぐに水を飲ませてくれるあたりも慣れていて、ずっとこんな風に世話をしてくれたのだと分かった。
人を寄せ付けず、誰とも関わろうとしなかったシエルだが、さすがに目の前で怪我をされたら、申し訳なく思って世話をしてくれたのだろうかと思った。
「なぁ、お前の……その、名前さ。なんて呼べばいい? 文字は書ける?」
シエルがそう言って手を出してきたので、レアンは指でシエルの手のひらに名前を書いた。
「……ん? レ……ア? レアっていうのか? ずいぶん可愛い名前だな……」
一文字足りなくて、何度か書いてみたが、どうしても、ンが上手く書けなくて、レアンの名前はレアで伝わってしまった。
レアだと女の子に多い呼び方なので、違うと言いたかったのに、話を聞いていた周りの子達も、レアって名前なの? と声をかけてきたので否定するのが大変になってしまった。
病み上がりでそんな気力もなく、レアンはもうそれでいいと思って、うんうんと頷いた。
「俺の名前はシエル。お礼が遅くなってごめん。レア、助けてくれてありがとう」
レアンは微笑んだ後、軽く首を振った。
助けたと言っていいのか分からない。胸を張って誇れるほどのことをしていないからだ。
自分の作戦は無謀すぎた。
他に逃げた子がいて、もう一人の男が帰ってこなかったら、どうなっていたか分からない。
そんなレアンの様子を見て、思いが伝わったようにシエルはレアンの手を握ってきた。
「レアは俺の前に出て、庇ってくれた。それだけで十分だよ。レアは俺の恩人だ」
心臓がトクンと音を立てて強く揺れた。
何もできないと思っていた自分でも、誰かの役に立つことができた。
顔に怪我は負ってしまったが、そのことがレアンには素直に嬉しかった。
トクトクという心臓の音は、何かが変わる始まりの音に聞こえた。
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