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本編
22、人質
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じっとしていられない。
気ばかり焦って、クリスは一人で小屋の中をぐるぐると歩き回る。
緊急避難用の家は普段人が立ち入らないので、埃っぽい空気に包まれている。とりあえず窓を開けて空気の入れ替えをしたが、静かすぎるので気味が悪く感じてしまった。
ジャックに案内され、王都から少し離れた場所にあるセーフハウスへ来たことはあったが、中へ入ったのは初めてだ。
ジャックが先に来ているのではと考えていたが、預かっていた鍵を使い中へ入ると、彼の姿はなかった。
ジャックはいつも現場に証拠を残すことはないし、完璧な仕事をする。こんな事態になったのは、彼も想定外だったのだろう。
ゴードルは自分の身辺を探らせないように、相当な大金を投じたのかもしれない。ジャックを追撃している連中は、かなりの手練れのようだ。
ジャックが何かミスをして、捕まってしまったとしても、彼が組織について話すことはない。
死ぬまで口を割らずに耐えるように密約が交わされている。青の薔薇の密命が公になれば、貴族達が黙ってはいないからだ。
ジャックの家族は無事避難できただろうかと思いを巡らせていたら、ガチャガチャとドアを開ける音が響き、クリスはハッとして息を呑む。
急いでランプの上に布を被せ、机の下に身を隠したクリスだったが、部屋に入ってきた者の姿が見えたので、小さく声を上げ立ち上がった。
「ジャック!」
月明かりでぼんやりとしか見えなかったが、大柄な体格と独特に丸まった背中は、よく見慣れたものだった。ジャックは静かにドアを閉めた後、部屋の中を歩いて壁際にある椅子へ腰を下ろした。荒く息を吐く音とともに肩が揺れていて、かなり疲れているように見える。
「——こんなことになってすまない。俺の責任だ」
「何があったのですか? カルバイン男爵の故郷へ行き、当時の仲間に話を聞きに行かれたのですよね?」
「……いなかった」
「え……?」
「首都へ仕事を求めに行った若者達で、生活苦から村へ戻った連中がいたと聞いていたが、もういなかったんだよ。誰一人帰らず便りもなく、ほぼ全員が失踪か行方不明。地方局に訴えたが取り合ってもらえなかったそうだ。だから、当時結成された青年団で残っているのは、ゴードルだけだ」
理解できない事態に、クリスは言葉を失い、ジャックが深く息を吐く音だけが室内に響いた。じっくり話を聞くためにクリスが近くの椅子に座ると、額に手を当てたジャックが重そうに口を開いた。
「村にいた頃の男爵については、年寄り連中が覚えていたから、少し話を聞くことはできた。と言っても、村長だった彼の父親はすでに他界していて、母親はまだ彼が幼い頃に浮気相手と駆け落ちしたそうだ。親戚にあたる者もいなかった」
「首都に行き貴族になり、事業は大成功していて、村の人は誇り高いと思っているのではないですか?」
「……それが、なんとも……。村にいた頃から寡黙で、陰気な子供だったと言われていた。いつも気味の悪い目をしていて、できれば関わりたくないと思われていたそうだ。唯一面倒を見ていたのが、エルヴィンの父親ライルだ。ライルはアルファだが、大人しくて目立つのが嫌いで、家に閉じこもりがちだった。同じような立場だからか、年上のライルがよくゴードルの世話をして、二人で遊んでいたそうだ。ライルについては、年寄り連中も大人しいが優秀な子だったと言っていた。彼が有名になったなら誇らしいことだが、ゴードルについてはいい印象がなく、名前が聞こえてきても苦い気持ちしかなかったそうだ」
故郷の人々から歓迎されていない様子に、クリスは腕を組んで顎に手を当てる。確かにあれほど有名になっても、男爵が故郷についてや、子供の頃の話を語るような記事を見たことがない。まるで、その話題に触れたくないかのように思えた。
「……なにか、悪い印象につながるような出来事でもあったのですか?」
「近所に住んでいた母親と同じ世代の女性に乱暴したそうだ。馬乗りになって殴ったとか。その女性が嫌味を言ったからという話になって咎められることはなかった。だが、女性は嫌味を言うような人でもなく、村長の力でもみ消した、というのが大方の考えだ。ライルは、味方になってくれたようだが、村からはますます孤立したらしい」
「なるほど……確かに成功者なら、あまり知られたくない過去ではありますね」
「俺はゴードルの半生を伝記にするための取材だと言って話を聞いて回っていたが、一通り話を聞いた辺りで、付けられていることに気づいた。慌てて身を隠して探ってみると、灰色の連中だと分かった」
「灰色!? あの、金さえもらえば何でもやるっていう……」
「そうだ、もともと凄腕の傭兵が集まって作られた組織だと聞いている。今は大きな戦いもないし、血に飢えているらしい。金を積まれれば、どこにでも行って何でもやる連中だ。ゴードルはそいつらと手を組んで、邸の侵入者を捕まえようと躍起になっている。別の町まで逃げたが、そこに連中と共に、本人が現れた。どうしても捕まえたいらしい」
邸に侵入した際、クリスは何も盗らなかったが、ジャックは帳簿を持ち帰っていた。その帳簿がかなり重要なものかもしれない。クリスの視線を受けて、ジャックは察したのか首を振った。
「例の帳簿は、反政府と言われる議員への献金の記録があったが、あの程度の額なら問題になるほどじゃない。個人的に交流があり、支持したいからとかなんとでも言って言い逃れることができる。追いかけて回収するほどのものではない」
「だったらなぜ……」
「あの時、俺達が見たものがマズかったんだ……」
ジャックの声がやけに掠れて、暗く沈んでいるように聞こえる。クリスは男爵邸に侵入した日の記憶を思い起こした。
あの場で一番目を引いたのは、女性の似姿絵だろう。愛してはいけない相手、高貴な女性や人妻といったところが想像できる。それ以外では、やはり金庫の中の物が考えられる。
事業計画書は会社の命と言える。持ち出したわけではないが、見られたら大変なことになると思われた可能性が高い。
クリスは計画書に描かれた子供の落書きを思い出した。自分が子供の頃、父の本に描いた落書きのようだと思った。クリスの父とは違いゴートルは、子供の悪戯とはいえ、それを許すような人には思えない。そのことがずっと頭に引っかかっていた。
「ヤツらは二人組の侵入者を探している。地の果てまで追ってくる勢いだ」
「……ここは、安全ですか?」
ジャックはゆっくり首を横に振る。その時に、横腹に手を当てて前屈みになったのをクリスは見逃さなかった。
「ジャック!? もしかして、怪我を!?」
「すまない……、すまない、クリス」
「な、なぜ……謝るなんて……、何があったのですか!?」
クリスの腹部に血が滲み、赤いシミが広がったところが見えて、クリスは立ち上がった。
「どういうことですか!? とにかく、手当てを……」
クリスは近くにあった布巾を丸めて、クリスの腹部に当てて圧迫する。傷の深さが分からないが、とにかく止血して、医術院に連れて行かなくてはいけない。
「すまない……俺を心配して、一人戻ってきたスザンナが……ヤツらに……」
「え?」
「人質になった……。侵入したもう一人と一緒に捕まるなら、解放してもらえるんだ」
息を呑んだクリスが顔を上げると、青白い顔をしたジャックと目が合う。いつものおどけた彼ではなく、ひどく悲しげな目をしていた。
「こんな……こんな判断は間違っている……。二人で捕まっても……ダメかもしれない。冷静になれない……頭がおかしくなって……」
「ジャック。灰色の連中はどこに……?」
「……この家の周りをすでに取り囲んでいる」
ジャックの言葉で、一気に辺りの空気が冷えたように感じた。外はしんと静まり返っているが、迫り来る無数の足音を感じて、クリスの背中に冷たい汗が流れた。
◇◇◇
「これだ、これ」
エルヴィンの前に置かれたのは、ミニスタン王国内で起こった事件や事故を記した記録紙だ。首都には王国所有の書庫が多数あり、通常記録紙は一年毎に纏められて本にされ、書庫に並べられる。クリスの父親が亡くなった日の記録を探したが、国内の主要な書庫には見つからなかった。
その日の記録紙だけがどこを回っても、まるで抜き取られたように消えていたのだ。
目立った出来事がなければ記録を省くことはあるので、おかしいことではないと言われて、相手にしてもらえなかった。
しかし、エルヴィンは諦めない。
クリスが大変なことになっている今、自分にできることをして、少しでも助けになりたかった。
つまり、二人の共通点である、あの日の出来事について調べるために、首都の書庫を回っていた。
ほとんど回って最後に辿り着いたのは、町外れにある古書店だった。個人店でも記録紙を扱っていると聞いたことがあり、一か八か声をかけてみると、店主は驚いた顔になり記録帳を持ってきてくれた。
「十年前、うちの書庫が火事に遭ってね。大半は焼けたが、ちょうどこの記録が入った棚を清掃していて、棚の分だけ床下に置いていたんだよ。混乱ですっかり忘れてしまったが、去年手付かずだった焼け跡の整理をして、やっと発見された。君は運がいいね。それで……ディナイト子爵が亡くなった記録だね。ほら、このページだ。日付はここ」
店主に十三年前の記録だと伝えると、記録帳の中から探し出してくれて、該当のページを見せてくれた。
「馬車の前に飛び出したと書かれているね。事故だからか、詳細は書かれてはいないな」
「同じ日に近くで強盗殺人があったのですが、それは書かれていませんか?」
「被害者は平民? それだと、言っちゃ悪いがこの辺りは日常茶飯事というか……。有名人でもなければ、わざわざ記録に残さない」
「そうですか……」
ゴードルが悲劇の息子を養子にした話は有名だが、実際いつ起きて、どんな事件だったのかを詳しく知る者は少ない。美談だけが独り歩きしてしまい、そこに注目が集まってしまったからだ。
周囲の人間も事件のことは、みんな可哀想なことだからと口をつぐんで教えてくれなかった。
エルヴィン自身も記憶が曖昧で、悲しくなるので考えないようにしていた。具体的な日付など、気にしたこともなかった。
記録はないが、記憶の中にある窓から出ていく人物の特徴から考えて、やはりあの男はクリスの父親に間違いないだろう。しかし、クリスの父親が突然家に押し入り、父を殺した後に逃走、街中で馬車に撥ねられ亡くなるというのは、さすがにおかしいとエルヴィンは考える。
となると考えられるのは、偶然居合わせてしまい、慌てて逃げ出したということだ。
何もなく人の家に入るとは考えられない。クリスの言う通り、人の言い争う声を聞き、様子を見るために二階に入り死亡した父を発見。そこに子供がやって来て、悲鳴を上げられて思わず逃げたというのが、状況として理解できる。
殺人自体は盗賊の仕業だと考えたが、果たして本当に物取りが理由の犯行なのか。
そこまで考えたエルヴィンは、ハッと息を呑む。
真犯人はあの部屋から逃走することなく隠れていた。クリスの父が窓から逃げた後、エルヴィンは現場で倒れてしまい、そこを発見された。
室内は多少荒らされていたが、財布には金が残っていたそうだ。
物取りにしては抜けている。
盗賊ではなく、身近な人物ならどうだろう。
真犯人はエルヴィンが気を失った後、堂々と部屋を出て、今来ましたという顔をすればいい。つまり、エルヴィンを発見し、治安隊や調査員を呼んだ怪しまれない人物……。
「……そう。そういうことか」
ゴードルだ。
彼ならば、当時青の薔薇に目を付けられていたこともあり、偶然見かけたクリスの父親が、気になって後を追っても不思議ではない。ある家に入ったところを、近くで様子を伺っていたクリスの父は、言い争う声を聞き、様子を見に二階の窓へ向かった。
そこで何か様子がおかしいと部屋へ入ったところまで想像できた。
エルヴィンは古書店の店主にお礼を言って店を出た。
店を出たエルヴィンは、外を歩きながら考えを巡らせる。
動機を考えてみれば非常に分かりやすく線が見えてきた。それは、あの似姿絵だ。
エルヴィンはあれが恐らく母親だろうと思っている。あんな絵を飾っておくということは、つまり、特別な感情を抱いていたということだ。
それがいつからかは分からないが、人妻への横恋慕は、十分動機になり得る。
当時母は既に失踪して何年も経っていた。エルヴィンの父のせいで、母と会うことができなくなったと恨みを抱いてもおかしくない。
その恨みが積もり積もって、あの日口論となり、殺害してしまった。
「……ゴードル」
友を殺し、何食わぬ顔で現場に立ち、悲劇の息子を養子にして面倒を見ていた。いや、見るというのはおかしい。ゴードルの目を思い出したエルヴィンは、ぶるっと震えた。
ゴードルは監視していたのかもしれない。
本当はあの時、エルヴィンが何かを見ていて、真犯人がゴードルだと思い出してしまうかもしれない。それならばと手元に置いて、その兆候が見えたらすぐにでも手を下せるようにしていた。
人嫌いで冷たい男のゴードルが、なぜ自分を引き取ったのか、エルヴィンは長年理解できなくて苦しんできた。養子として可愛がることもなく、閉じ込めるように育てられたのは、つまり彼の犯行が発覚するのを恐れたため。
混乱と怒りが頭を埋め尽くして、エルヴィンは歩みを止める。
胸に手を当てて、どうにか冷静になれと自分に繰り返した。
「クリスに伝えないと……」
エルヴィンが真実を掴んだと知ったら、ゴードルはどんな手を使ってくるか分からない。
クリスを助けるためには、力を使い上手く立ち回る必要がある。
自分にできるだろうかと思案していると、頭の中で自分を呼ぶ声に気づく。
久々の感覚に息を吸い込んだエルヴィンは顔を上げた。
気ばかり焦って、クリスは一人で小屋の中をぐるぐると歩き回る。
緊急避難用の家は普段人が立ち入らないので、埃っぽい空気に包まれている。とりあえず窓を開けて空気の入れ替えをしたが、静かすぎるので気味が悪く感じてしまった。
ジャックに案内され、王都から少し離れた場所にあるセーフハウスへ来たことはあったが、中へ入ったのは初めてだ。
ジャックが先に来ているのではと考えていたが、預かっていた鍵を使い中へ入ると、彼の姿はなかった。
ジャックはいつも現場に証拠を残すことはないし、完璧な仕事をする。こんな事態になったのは、彼も想定外だったのだろう。
ゴードルは自分の身辺を探らせないように、相当な大金を投じたのかもしれない。ジャックを追撃している連中は、かなりの手練れのようだ。
ジャックが何かミスをして、捕まってしまったとしても、彼が組織について話すことはない。
死ぬまで口を割らずに耐えるように密約が交わされている。青の薔薇の密命が公になれば、貴族達が黙ってはいないからだ。
ジャックの家族は無事避難できただろうかと思いを巡らせていたら、ガチャガチャとドアを開ける音が響き、クリスはハッとして息を呑む。
急いでランプの上に布を被せ、机の下に身を隠したクリスだったが、部屋に入ってきた者の姿が見えたので、小さく声を上げ立ち上がった。
「ジャック!」
月明かりでぼんやりとしか見えなかったが、大柄な体格と独特に丸まった背中は、よく見慣れたものだった。ジャックは静かにドアを閉めた後、部屋の中を歩いて壁際にある椅子へ腰を下ろした。荒く息を吐く音とともに肩が揺れていて、かなり疲れているように見える。
「——こんなことになってすまない。俺の責任だ」
「何があったのですか? カルバイン男爵の故郷へ行き、当時の仲間に話を聞きに行かれたのですよね?」
「……いなかった」
「え……?」
「首都へ仕事を求めに行った若者達で、生活苦から村へ戻った連中がいたと聞いていたが、もういなかったんだよ。誰一人帰らず便りもなく、ほぼ全員が失踪か行方不明。地方局に訴えたが取り合ってもらえなかったそうだ。だから、当時結成された青年団で残っているのは、ゴードルだけだ」
理解できない事態に、クリスは言葉を失い、ジャックが深く息を吐く音だけが室内に響いた。じっくり話を聞くためにクリスが近くの椅子に座ると、額に手を当てたジャックが重そうに口を開いた。
「村にいた頃の男爵については、年寄り連中が覚えていたから、少し話を聞くことはできた。と言っても、村長だった彼の父親はすでに他界していて、母親はまだ彼が幼い頃に浮気相手と駆け落ちしたそうだ。親戚にあたる者もいなかった」
「首都に行き貴族になり、事業は大成功していて、村の人は誇り高いと思っているのではないですか?」
「……それが、なんとも……。村にいた頃から寡黙で、陰気な子供だったと言われていた。いつも気味の悪い目をしていて、できれば関わりたくないと思われていたそうだ。唯一面倒を見ていたのが、エルヴィンの父親ライルだ。ライルはアルファだが、大人しくて目立つのが嫌いで、家に閉じこもりがちだった。同じような立場だからか、年上のライルがよくゴードルの世話をして、二人で遊んでいたそうだ。ライルについては、年寄り連中も大人しいが優秀な子だったと言っていた。彼が有名になったなら誇らしいことだが、ゴードルについてはいい印象がなく、名前が聞こえてきても苦い気持ちしかなかったそうだ」
故郷の人々から歓迎されていない様子に、クリスは腕を組んで顎に手を当てる。確かにあれほど有名になっても、男爵が故郷についてや、子供の頃の話を語るような記事を見たことがない。まるで、その話題に触れたくないかのように思えた。
「……なにか、悪い印象につながるような出来事でもあったのですか?」
「近所に住んでいた母親と同じ世代の女性に乱暴したそうだ。馬乗りになって殴ったとか。その女性が嫌味を言ったからという話になって咎められることはなかった。だが、女性は嫌味を言うような人でもなく、村長の力でもみ消した、というのが大方の考えだ。ライルは、味方になってくれたようだが、村からはますます孤立したらしい」
「なるほど……確かに成功者なら、あまり知られたくない過去ではありますね」
「俺はゴードルの半生を伝記にするための取材だと言って話を聞いて回っていたが、一通り話を聞いた辺りで、付けられていることに気づいた。慌てて身を隠して探ってみると、灰色の連中だと分かった」
「灰色!? あの、金さえもらえば何でもやるっていう……」
「そうだ、もともと凄腕の傭兵が集まって作られた組織だと聞いている。今は大きな戦いもないし、血に飢えているらしい。金を積まれれば、どこにでも行って何でもやる連中だ。ゴードルはそいつらと手を組んで、邸の侵入者を捕まえようと躍起になっている。別の町まで逃げたが、そこに連中と共に、本人が現れた。どうしても捕まえたいらしい」
邸に侵入した際、クリスは何も盗らなかったが、ジャックは帳簿を持ち帰っていた。その帳簿がかなり重要なものかもしれない。クリスの視線を受けて、ジャックは察したのか首を振った。
「例の帳簿は、反政府と言われる議員への献金の記録があったが、あの程度の額なら問題になるほどじゃない。個人的に交流があり、支持したいからとかなんとでも言って言い逃れることができる。追いかけて回収するほどのものではない」
「だったらなぜ……」
「あの時、俺達が見たものがマズかったんだ……」
ジャックの声がやけに掠れて、暗く沈んでいるように聞こえる。クリスは男爵邸に侵入した日の記憶を思い起こした。
あの場で一番目を引いたのは、女性の似姿絵だろう。愛してはいけない相手、高貴な女性や人妻といったところが想像できる。それ以外では、やはり金庫の中の物が考えられる。
事業計画書は会社の命と言える。持ち出したわけではないが、見られたら大変なことになると思われた可能性が高い。
クリスは計画書に描かれた子供の落書きを思い出した。自分が子供の頃、父の本に描いた落書きのようだと思った。クリスの父とは違いゴートルは、子供の悪戯とはいえ、それを許すような人には思えない。そのことがずっと頭に引っかかっていた。
「ヤツらは二人組の侵入者を探している。地の果てまで追ってくる勢いだ」
「……ここは、安全ですか?」
ジャックはゆっくり首を横に振る。その時に、横腹に手を当てて前屈みになったのをクリスは見逃さなかった。
「ジャック!? もしかして、怪我を!?」
「すまない……、すまない、クリス」
「な、なぜ……謝るなんて……、何があったのですか!?」
クリスの腹部に血が滲み、赤いシミが広がったところが見えて、クリスは立ち上がった。
「どういうことですか!? とにかく、手当てを……」
クリスは近くにあった布巾を丸めて、クリスの腹部に当てて圧迫する。傷の深さが分からないが、とにかく止血して、医術院に連れて行かなくてはいけない。
「すまない……俺を心配して、一人戻ってきたスザンナが……ヤツらに……」
「え?」
「人質になった……。侵入したもう一人と一緒に捕まるなら、解放してもらえるんだ」
息を呑んだクリスが顔を上げると、青白い顔をしたジャックと目が合う。いつものおどけた彼ではなく、ひどく悲しげな目をしていた。
「こんな……こんな判断は間違っている……。二人で捕まっても……ダメかもしれない。冷静になれない……頭がおかしくなって……」
「ジャック。灰色の連中はどこに……?」
「……この家の周りをすでに取り囲んでいる」
ジャックの言葉で、一気に辺りの空気が冷えたように感じた。外はしんと静まり返っているが、迫り来る無数の足音を感じて、クリスの背中に冷たい汗が流れた。
◇◇◇
「これだ、これ」
エルヴィンの前に置かれたのは、ミニスタン王国内で起こった事件や事故を記した記録紙だ。首都には王国所有の書庫が多数あり、通常記録紙は一年毎に纏められて本にされ、書庫に並べられる。クリスの父親が亡くなった日の記録を探したが、国内の主要な書庫には見つからなかった。
その日の記録紙だけがどこを回っても、まるで抜き取られたように消えていたのだ。
目立った出来事がなければ記録を省くことはあるので、おかしいことではないと言われて、相手にしてもらえなかった。
しかし、エルヴィンは諦めない。
クリスが大変なことになっている今、自分にできることをして、少しでも助けになりたかった。
つまり、二人の共通点である、あの日の出来事について調べるために、首都の書庫を回っていた。
ほとんど回って最後に辿り着いたのは、町外れにある古書店だった。個人店でも記録紙を扱っていると聞いたことがあり、一か八か声をかけてみると、店主は驚いた顔になり記録帳を持ってきてくれた。
「十年前、うちの書庫が火事に遭ってね。大半は焼けたが、ちょうどこの記録が入った棚を清掃していて、棚の分だけ床下に置いていたんだよ。混乱ですっかり忘れてしまったが、去年手付かずだった焼け跡の整理をして、やっと発見された。君は運がいいね。それで……ディナイト子爵が亡くなった記録だね。ほら、このページだ。日付はここ」
店主に十三年前の記録だと伝えると、記録帳の中から探し出してくれて、該当のページを見せてくれた。
「馬車の前に飛び出したと書かれているね。事故だからか、詳細は書かれてはいないな」
「同じ日に近くで強盗殺人があったのですが、それは書かれていませんか?」
「被害者は平民? それだと、言っちゃ悪いがこの辺りは日常茶飯事というか……。有名人でもなければ、わざわざ記録に残さない」
「そうですか……」
ゴードルが悲劇の息子を養子にした話は有名だが、実際いつ起きて、どんな事件だったのかを詳しく知る者は少ない。美談だけが独り歩きしてしまい、そこに注目が集まってしまったからだ。
周囲の人間も事件のことは、みんな可哀想なことだからと口をつぐんで教えてくれなかった。
エルヴィン自身も記憶が曖昧で、悲しくなるので考えないようにしていた。具体的な日付など、気にしたこともなかった。
記録はないが、記憶の中にある窓から出ていく人物の特徴から考えて、やはりあの男はクリスの父親に間違いないだろう。しかし、クリスの父親が突然家に押し入り、父を殺した後に逃走、街中で馬車に撥ねられ亡くなるというのは、さすがにおかしいとエルヴィンは考える。
となると考えられるのは、偶然居合わせてしまい、慌てて逃げ出したということだ。
何もなく人の家に入るとは考えられない。クリスの言う通り、人の言い争う声を聞き、様子を見るために二階に入り死亡した父を発見。そこに子供がやって来て、悲鳴を上げられて思わず逃げたというのが、状況として理解できる。
殺人自体は盗賊の仕業だと考えたが、果たして本当に物取りが理由の犯行なのか。
そこまで考えたエルヴィンは、ハッと息を呑む。
真犯人はあの部屋から逃走することなく隠れていた。クリスの父が窓から逃げた後、エルヴィンは現場で倒れてしまい、そこを発見された。
室内は多少荒らされていたが、財布には金が残っていたそうだ。
物取りにしては抜けている。
盗賊ではなく、身近な人物ならどうだろう。
真犯人はエルヴィンが気を失った後、堂々と部屋を出て、今来ましたという顔をすればいい。つまり、エルヴィンを発見し、治安隊や調査員を呼んだ怪しまれない人物……。
「……そう。そういうことか」
ゴードルだ。
彼ならば、当時青の薔薇に目を付けられていたこともあり、偶然見かけたクリスの父親が、気になって後を追っても不思議ではない。ある家に入ったところを、近くで様子を伺っていたクリスの父は、言い争う声を聞き、様子を見に二階の窓へ向かった。
そこで何か様子がおかしいと部屋へ入ったところまで想像できた。
エルヴィンは古書店の店主にお礼を言って店を出た。
店を出たエルヴィンは、外を歩きながら考えを巡らせる。
動機を考えてみれば非常に分かりやすく線が見えてきた。それは、あの似姿絵だ。
エルヴィンはあれが恐らく母親だろうと思っている。あんな絵を飾っておくということは、つまり、特別な感情を抱いていたということだ。
それがいつからかは分からないが、人妻への横恋慕は、十分動機になり得る。
当時母は既に失踪して何年も経っていた。エルヴィンの父のせいで、母と会うことができなくなったと恨みを抱いてもおかしくない。
その恨みが積もり積もって、あの日口論となり、殺害してしまった。
「……ゴードル」
友を殺し、何食わぬ顔で現場に立ち、悲劇の息子を養子にして面倒を見ていた。いや、見るというのはおかしい。ゴードルの目を思い出したエルヴィンは、ぶるっと震えた。
ゴードルは監視していたのかもしれない。
本当はあの時、エルヴィンが何かを見ていて、真犯人がゴードルだと思い出してしまうかもしれない。それならばと手元に置いて、その兆候が見えたらすぐにでも手を下せるようにしていた。
人嫌いで冷たい男のゴードルが、なぜ自分を引き取ったのか、エルヴィンは長年理解できなくて苦しんできた。養子として可愛がることもなく、閉じ込めるように育てられたのは、つまり彼の犯行が発覚するのを恐れたため。
混乱と怒りが頭を埋め尽くして、エルヴィンは歩みを止める。
胸に手を当てて、どうにか冷静になれと自分に繰り返した。
「クリスに伝えないと……」
エルヴィンが真実を掴んだと知ったら、ゴードルはどんな手を使ってくるか分からない。
クリスを助けるためには、力を使い上手く立ち回る必要がある。
自分にできるだろうかと思案していると、頭の中で自分を呼ぶ声に気づく。
久々の感覚に息を吸い込んだエルヴィンは顔を上げた。
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小説家になろうにも投稿
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扉絵は写真ACより、チョコラテさまの作品(ID25481643)をお借りしています。
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