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本編
20、薔薇の危機
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「……どういう事?」
エルヴィンの目が細められ、クリスを掴んでいた手に力が込められる。
腰を据えて、じっくり話さなければいけないと思ったクリスは、ソファーに場所を移し、お茶を用意した。
頭が少し冷えた頃、エルヴィンの隣に座ったクリスは、静かに口を開いた。
「俺は依頼を受けて調べものをする仕事をしていると説明したが、これはただの仕事ではなく、王家が関わっている。王からの命令を受けて、貴族の内情を調べる秘密組織、青の薔薇と呼ばれている」
「青の薔薇……」
「王が直々に任命するが、元々は俺の父がこの任務を受けていた。父が亡くなったことにより、俺が受け継ぐことになった」
「その組織と、父に何の関係が? うちの父親は田舎から出てきたただの平民なのに……」
「エルヴィンの父親、というより、当時目をつけられていたのはゴードルだ。田舎から出てきた若者が、魔法のように次々と投資を成功させていて、着々と富を築いていたからな。王政に批判的な組織を調べている過程で、彼の名前が上がったようだ。父は金の流れを調べていて、ゴードルの下で働いていた人間を見張っていたのかもしれない」
「それで父を……、確かに首都で暮らし始めてから、ずっとおじさんの仕事を手伝ってきたみたいだけど……」
組織のことや、関係があったところまで簡単に説明したが、本題はここからだ。
嫌われたくないという気持ちが焦りとなって体を震わせる。しっかりしろと自分を鼓舞させて、クリスは息を吸い込んだ。
「俺も信じたくはない……だが、お前の話を聞いて、ノアールが探していた人物の特徴が父と合致すると気づいた。今は空席だが、父は貴族議員だった。バッジを着けたまま出かけたところを見た。それと腕にあった蝶の形の痣……あの日、犯行現場にいたのは、俺の父で間違いない」
クリスの話を聞いて、エルヴィンは何も言わなかった。ショックを受け黙っているのかと思ったが、エルヴィンは静かに一点を見つめている。
「すまない……言おうとして言えなくて……。俺だって信じたくはないが、父がエルヴィンの父を殺したのなら、親の仇だ。顔を合わせるどころか、二度と口を聞いてもらうことも……」
「クリス、待って」
クリスが一人で焦り出し感情的になると、そこでエルヴィンが話を止める。今まで子供のようにクリスを求めていたものではなく、エルヴィンの声は力強く感じた。
「ノアールの記憶では犯行を直接見たわけではない。男が窓から出て行くのを見ただけなんだ。確かに、何か関係があるのは間違いない。だけど、偶然現場に居合わせてしまい、子供が入って来たから逃げたとも考えられる。特に、秘密裏に動いているような立場の人間なら、目立つのは困るだろう?」
「ということは、犯人はエルヴィンが来る前に逃走していたってことか? そこに俺の父親が……」
「物音を聞いて二階に上がったことは覚えている。犯人は誰か来ると思って、とっさに隠れていたのかもしれない。そこにクリスのお父さんが窓から入ってきて現場を発見したところに、俺が部屋に入って叫んだから、慌てて窓から逃げた」
想像でしかないが、今までぼんやりとしていたものに、やっと色が付いたように思えた。
クリスがハッとして顔を上げると、エルヴィンは大丈夫だという目をして頷く。
「俺だっていつまでも逃げているわけじゃない。クリスを守るって決めたんだ。色々話を聞いて驚いたけど、こんなことで、揺らいではいられないよ。大丈夫、一緒に考えて解決していこう」
「エルヴィン……」
クリスは父親が関わっていると思い、冷静さを欠いていた自分を恥じた。
ノアールもまた、犯人を見つけようと体当たりで走り回っていたので、ここにきて、一番冷静に物事を見ているのがエルヴィンだった。
「それにしても、クリスのお父さんは、組織に属しているのに、誰かにこの事を報告しなかったのかな?」
「そうだな、そんな事態を目撃したなら、必ずジャックに報告するはず……、ん? もしかして言えなかった? 父が事故に遭ったのは……同じ日だったんじゃ……!?」
「え?」
「そうだ……そうか! 犯行が行われた日、父は馬車の事故に逢った。子供を助けるために、道に飛び出したと聞いたけど、それは、現場から出てきてすぐのことだったんじゃ……。だから、相方であるジャックにも報告できずに、この話が誰にも伝わらなかった」
「同じ日?……ほ、本当に……?」
事件の捜査資料は未解決のまま、ほとんどが処分されており、細かい日付すら残されていなかった。十三年前、犯行現場にいたのがクリスの父親だとすると、その後に、もう1つの悲劇が起こってしまったと考えられる。ついにバラバラだった線が繋がったように思えた。
「父はひどく言い争う声を聞いたのかもしれない。それで様子を見ようと外から建物の二階に上った。窓から中に入ると先ほどとは違い辺りは静かに……。そこで部屋に入ってきたのがエルヴィンだった。やはり真犯人はどこかに隠れていたに違いない」
「当時、父はおじさんの手伝いをしていたけれど、母さんの失踪以来、外に出るのが苦手になって、家に閉じ篭りがちだった。金銭目的で忍び込んだ泥棒と鉢合わせたとか……」
「盗賊か……。当時その線で捜査されたらしいが、改めて洗い出したら何か見えるかもしれない。俺に任せてくれ」
そう言ってクリスが隣に座ったエルヴィンの肩に触れると、エルヴィンはありがとうと言って微笑んだ。
「でも、一人じゃダメだよ。犯人が逃げたままなら、再び調べられたら困るはずだ。俺の方は仕事が落ち着いたから休みも取れる。危ないから一緒に調べよう」
あれこれ調べるのはクリスの得意とするところなので、一人でやった方が気楽でいいのだが、エルヴィンの視線を受けて、断ることができなかった。
何より、二人の父親の死が関わっているという特殊な状況だ。エルヴィンだけ黙って待っていろと言うのも酷なことだろう。
「分かった。だけど、単独行動は禁止だ。何か気づいたことがあればすぐに知らせること」
「クリス……ありがとう。お父さんのことや、組織のこと話してくれてよかった。クリスに何かあれば、俺はどこへでも助けに行く。クリスを守るから」
「……エルヴィン。分かった……俺の方こそ礼を言うよ」
エルヴィンの熱い想いを受けて、クリスは微笑んでから、もう一度肩に触れた。
話し合って安心したのか、エルヴィンは目を擦って眠そうな顔になった。
クリスは休んでくれと言って食器を片付けに席を立ったが、終わってから戻ると、エルヴィンはソファーの上で横になって気持ちよさそうに寝息を立てていた。
熟睡したエルヴィンを寝室まで運ぶのは大変なので、そのまま寝てもらうことにする。毛布を持ってきたクリスは、エルヴィンを起こさないようにそっと体の上にかけて、彼の寝顔を眺める。
今夜もエルヴィンはノアールに変わらなかった。
ノアールは消えてしまったのだろうか。
エルヴィンの寝顔を見ながら、クリスは鼻から小さく息を吐く。
番である相手が近くにいることで、クリスの体調は安定している。朝までぐっすり眠ることができるので、体の方はすっかり健康になった気さえする。
体は元気でも、心は複雑だ。
エルヴィンを大切に思う気持ち、そしてノアールのことも……
「……何を考えているんだ、俺は……」
額に手をあてたクリスは立ち上がり、エルヴィンが寝ているソファーから離れた。
少し頭を冷やすべきかもしれない。近くにあった椅子に座ったら睡魔が襲ってきて、クリスはウトウトとし始めた。
エルヴィンの側にいると、眠くなってしまう。
クリスはあくびをした後に目を閉じた。
どれくらい時間が経ったのか、ガクンと体勢が崩れて椅子から落ちそうになって、クリスは目を覚ました。
水でも飲もうと立ち上がった時、玄関扉を叩く音が聞こえた。
窓の外を見るとまだ外は薄暗く、朝までは少し時間があると思われた。こんな時間に誰が来たのだろうかと思いながら、クリスは玄関まで向かった。
玄関扉の近くまで行くとノックの後に、クリス坊ちゃんと声が聞こえた。ハッとしたクリスは、急いで玄関の鍵を開けた。
「ミンス夫人!」
クリスがドアを開けると神妙な顔で立っていたのは、ミンス夫人だった。
「ずいぶんと早いね……何か……」
「クリス坊ちゃん、大変なことになりました。ジャック坊ちゃんから、薔薇の散る連絡が……」
「何だって!?」
「すでに奥様とお嬢様は、上のお嬢様の嫁ぎ先である隣国の別邸に避難しております。ここまで手が及ぶかは分かりませんが、クリス様も安全な場所へ」
ミンス夫人はクリスに紐で厳重に結ばれた封筒を手渡してきた。それを受け取ったクリスは、緊張で体が冷えていくのを感じる。
薔薇が散る、という意味は、緊急事態を表している。つまり、ジャックの身に危険が迫っている時、家族や仲間であるクリスの避難を即すものである。
ジャックは男爵の過去を調べるため、彼の出身地である地方の村へ行き、関係者と接触しているはずだ。
エルヴィンが、最近の男爵の動きはおかしいと言っていたことを思い出した。
邸への侵入がバレたことで、男爵は人を雇い、執拗に侵入者を追っていた。よほど探られたくない過去があるらしい。慌てて封筒の紐を切って、ジャックからの手紙を確認したクリスは、そこに書かれていた内容を見て、やはりと声を漏らした。
手紙には、田舎の村で調査中のジャックの元に、男爵の雇った連中が襲撃に来たと書かれていた。間一髪、難を逃れたが、そのまま追跡されているらしく、自分の身元が知られるのも、時間の問題かもしれないと書かれていた。どうも凄腕の殺し屋を雇ったようで、見つかったら命はないとも。
謎に包まれていた男爵がいよいよ動き出したということで、これで事態が大きく変わっていく予感がする。
クリスには、追跡の危険や安全を考えて、セーフハウスへ行くように指示があった。予め有事の際、隠れられるような場所を用意してあるので、そこでジャックの到着を待つことになっている。
「薔薇につながるものは、その都度焼却している。すぐにでも出られるが……」
「ではお急ぎを。手紙が届くより早く、ジャック坊ちゃんが戻られているかもしれません。エルヴィンさんのことですね。今は起きていらっしゃいますか?」
「食堂のソファーで寝ているよ。それと……、彼には薔薇のことを少し話していて……」
「それなら話が早いですね。まだ寝てらっしゃるなら、私から説明しておきます。私はあの方に急ぎ連絡を繋ぐ必要もございますので」
薔薇のことを他人に話したので、何か言われると思ったが、ミンス夫人は驚いた様子がなく、冷静に言葉を返してきた。
ジャックの命に係わる事態だ。エルヴィンに説明したかったが、時間がないと判断したクリスは、ペンと紙を手に取った。
指示があり移動するが、心配しないでくれと書いてミンス夫人に渡した。
セーフハウスには必要な物は揃っているので、クリスは手紙を託した後、すぐに玄関から外へ出た。
クリスは足早に歩きだしたが、一度歩みを止め振り返って邸の方角を見つめる。
一緒に調べようと約束したはずなのに、早速離れてしまうことが申し訳なかった。何より、エルヴィンと離れていく一歩一歩で心臓が重くなり、不安を覚えてしまう。
ミンス夫人に起こされて、自分がいなくなったことを知ったら、クリスはどう思うのかと考えると、ツキンと胸が痛んだ。
「今俺といたら、エルヴィンにまで危険が及ぶかもしれない。それは避けないと。真実を明らかにしたら……」
今までばんやりとしていた自分の未来が少し色づいてきたような気がする。
この胸にある、複雑な感情に決着をつけて、エルヴィンにちゃんと向き合いたい。
運命に導かれ重なったように見える二人の過去。
あの日、本当は何が起きたのか……それはまだ霧の中。
深く息を吐いたクリスは、エルヴィンのいる踵を返し邸に背を向ける。わずかに明るくなった空を見ながら歩みを速めた。
エルヴィンの目が細められ、クリスを掴んでいた手に力が込められる。
腰を据えて、じっくり話さなければいけないと思ったクリスは、ソファーに場所を移し、お茶を用意した。
頭が少し冷えた頃、エルヴィンの隣に座ったクリスは、静かに口を開いた。
「俺は依頼を受けて調べものをする仕事をしていると説明したが、これはただの仕事ではなく、王家が関わっている。王からの命令を受けて、貴族の内情を調べる秘密組織、青の薔薇と呼ばれている」
「青の薔薇……」
「王が直々に任命するが、元々は俺の父がこの任務を受けていた。父が亡くなったことにより、俺が受け継ぐことになった」
「その組織と、父に何の関係が? うちの父親は田舎から出てきたただの平民なのに……」
「エルヴィンの父親、というより、当時目をつけられていたのはゴードルだ。田舎から出てきた若者が、魔法のように次々と投資を成功させていて、着々と富を築いていたからな。王政に批判的な組織を調べている過程で、彼の名前が上がったようだ。父は金の流れを調べていて、ゴードルの下で働いていた人間を見張っていたのかもしれない」
「それで父を……、確かに首都で暮らし始めてから、ずっとおじさんの仕事を手伝ってきたみたいだけど……」
組織のことや、関係があったところまで簡単に説明したが、本題はここからだ。
嫌われたくないという気持ちが焦りとなって体を震わせる。しっかりしろと自分を鼓舞させて、クリスは息を吸い込んだ。
「俺も信じたくはない……だが、お前の話を聞いて、ノアールが探していた人物の特徴が父と合致すると気づいた。今は空席だが、父は貴族議員だった。バッジを着けたまま出かけたところを見た。それと腕にあった蝶の形の痣……あの日、犯行現場にいたのは、俺の父で間違いない」
クリスの話を聞いて、エルヴィンは何も言わなかった。ショックを受け黙っているのかと思ったが、エルヴィンは静かに一点を見つめている。
「すまない……言おうとして言えなくて……。俺だって信じたくはないが、父がエルヴィンの父を殺したのなら、親の仇だ。顔を合わせるどころか、二度と口を聞いてもらうことも……」
「クリス、待って」
クリスが一人で焦り出し感情的になると、そこでエルヴィンが話を止める。今まで子供のようにクリスを求めていたものではなく、エルヴィンの声は力強く感じた。
「ノアールの記憶では犯行を直接見たわけではない。男が窓から出て行くのを見ただけなんだ。確かに、何か関係があるのは間違いない。だけど、偶然現場に居合わせてしまい、子供が入って来たから逃げたとも考えられる。特に、秘密裏に動いているような立場の人間なら、目立つのは困るだろう?」
「ということは、犯人はエルヴィンが来る前に逃走していたってことか? そこに俺の父親が……」
「物音を聞いて二階に上がったことは覚えている。犯人は誰か来ると思って、とっさに隠れていたのかもしれない。そこにクリスのお父さんが窓から入ってきて現場を発見したところに、俺が部屋に入って叫んだから、慌てて窓から逃げた」
想像でしかないが、今までぼんやりとしていたものに、やっと色が付いたように思えた。
クリスがハッとして顔を上げると、エルヴィンは大丈夫だという目をして頷く。
「俺だっていつまでも逃げているわけじゃない。クリスを守るって決めたんだ。色々話を聞いて驚いたけど、こんなことで、揺らいではいられないよ。大丈夫、一緒に考えて解決していこう」
「エルヴィン……」
クリスは父親が関わっていると思い、冷静さを欠いていた自分を恥じた。
ノアールもまた、犯人を見つけようと体当たりで走り回っていたので、ここにきて、一番冷静に物事を見ているのがエルヴィンだった。
「それにしても、クリスのお父さんは、組織に属しているのに、誰かにこの事を報告しなかったのかな?」
「そうだな、そんな事態を目撃したなら、必ずジャックに報告するはず……、ん? もしかして言えなかった? 父が事故に遭ったのは……同じ日だったんじゃ……!?」
「え?」
「そうだ……そうか! 犯行が行われた日、父は馬車の事故に逢った。子供を助けるために、道に飛び出したと聞いたけど、それは、現場から出てきてすぐのことだったんじゃ……。だから、相方であるジャックにも報告できずに、この話が誰にも伝わらなかった」
「同じ日?……ほ、本当に……?」
事件の捜査資料は未解決のまま、ほとんどが処分されており、細かい日付すら残されていなかった。十三年前、犯行現場にいたのがクリスの父親だとすると、その後に、もう1つの悲劇が起こってしまったと考えられる。ついにバラバラだった線が繋がったように思えた。
「父はひどく言い争う声を聞いたのかもしれない。それで様子を見ようと外から建物の二階に上った。窓から中に入ると先ほどとは違い辺りは静かに……。そこで部屋に入ってきたのがエルヴィンだった。やはり真犯人はどこかに隠れていたに違いない」
「当時、父はおじさんの手伝いをしていたけれど、母さんの失踪以来、外に出るのが苦手になって、家に閉じ篭りがちだった。金銭目的で忍び込んだ泥棒と鉢合わせたとか……」
「盗賊か……。当時その線で捜査されたらしいが、改めて洗い出したら何か見えるかもしれない。俺に任せてくれ」
そう言ってクリスが隣に座ったエルヴィンの肩に触れると、エルヴィンはありがとうと言って微笑んだ。
「でも、一人じゃダメだよ。犯人が逃げたままなら、再び調べられたら困るはずだ。俺の方は仕事が落ち着いたから休みも取れる。危ないから一緒に調べよう」
あれこれ調べるのはクリスの得意とするところなので、一人でやった方が気楽でいいのだが、エルヴィンの視線を受けて、断ることができなかった。
何より、二人の父親の死が関わっているという特殊な状況だ。エルヴィンだけ黙って待っていろと言うのも酷なことだろう。
「分かった。だけど、単独行動は禁止だ。何か気づいたことがあればすぐに知らせること」
「クリス……ありがとう。お父さんのことや、組織のこと話してくれてよかった。クリスに何かあれば、俺はどこへでも助けに行く。クリスを守るから」
「……エルヴィン。分かった……俺の方こそ礼を言うよ」
エルヴィンの熱い想いを受けて、クリスは微笑んでから、もう一度肩に触れた。
話し合って安心したのか、エルヴィンは目を擦って眠そうな顔になった。
クリスは休んでくれと言って食器を片付けに席を立ったが、終わってから戻ると、エルヴィンはソファーの上で横になって気持ちよさそうに寝息を立てていた。
熟睡したエルヴィンを寝室まで運ぶのは大変なので、そのまま寝てもらうことにする。毛布を持ってきたクリスは、エルヴィンを起こさないようにそっと体の上にかけて、彼の寝顔を眺める。
今夜もエルヴィンはノアールに変わらなかった。
ノアールは消えてしまったのだろうか。
エルヴィンの寝顔を見ながら、クリスは鼻から小さく息を吐く。
番である相手が近くにいることで、クリスの体調は安定している。朝までぐっすり眠ることができるので、体の方はすっかり健康になった気さえする。
体は元気でも、心は複雑だ。
エルヴィンを大切に思う気持ち、そしてノアールのことも……
「……何を考えているんだ、俺は……」
額に手をあてたクリスは立ち上がり、エルヴィンが寝ているソファーから離れた。
少し頭を冷やすべきかもしれない。近くにあった椅子に座ったら睡魔が襲ってきて、クリスはウトウトとし始めた。
エルヴィンの側にいると、眠くなってしまう。
クリスはあくびをした後に目を閉じた。
どれくらい時間が経ったのか、ガクンと体勢が崩れて椅子から落ちそうになって、クリスは目を覚ました。
水でも飲もうと立ち上がった時、玄関扉を叩く音が聞こえた。
窓の外を見るとまだ外は薄暗く、朝までは少し時間があると思われた。こんな時間に誰が来たのだろうかと思いながら、クリスは玄関まで向かった。
玄関扉の近くまで行くとノックの後に、クリス坊ちゃんと声が聞こえた。ハッとしたクリスは、急いで玄関の鍵を開けた。
「ミンス夫人!」
クリスがドアを開けると神妙な顔で立っていたのは、ミンス夫人だった。
「ずいぶんと早いね……何か……」
「クリス坊ちゃん、大変なことになりました。ジャック坊ちゃんから、薔薇の散る連絡が……」
「何だって!?」
「すでに奥様とお嬢様は、上のお嬢様の嫁ぎ先である隣国の別邸に避難しております。ここまで手が及ぶかは分かりませんが、クリス様も安全な場所へ」
ミンス夫人はクリスに紐で厳重に結ばれた封筒を手渡してきた。それを受け取ったクリスは、緊張で体が冷えていくのを感じる。
薔薇が散る、という意味は、緊急事態を表している。つまり、ジャックの身に危険が迫っている時、家族や仲間であるクリスの避難を即すものである。
ジャックは男爵の過去を調べるため、彼の出身地である地方の村へ行き、関係者と接触しているはずだ。
エルヴィンが、最近の男爵の動きはおかしいと言っていたことを思い出した。
邸への侵入がバレたことで、男爵は人を雇い、執拗に侵入者を追っていた。よほど探られたくない過去があるらしい。慌てて封筒の紐を切って、ジャックからの手紙を確認したクリスは、そこに書かれていた内容を見て、やはりと声を漏らした。
手紙には、田舎の村で調査中のジャックの元に、男爵の雇った連中が襲撃に来たと書かれていた。間一髪、難を逃れたが、そのまま追跡されているらしく、自分の身元が知られるのも、時間の問題かもしれないと書かれていた。どうも凄腕の殺し屋を雇ったようで、見つかったら命はないとも。
謎に包まれていた男爵がいよいよ動き出したということで、これで事態が大きく変わっていく予感がする。
クリスには、追跡の危険や安全を考えて、セーフハウスへ行くように指示があった。予め有事の際、隠れられるような場所を用意してあるので、そこでジャックの到着を待つことになっている。
「薔薇につながるものは、その都度焼却している。すぐにでも出られるが……」
「ではお急ぎを。手紙が届くより早く、ジャック坊ちゃんが戻られているかもしれません。エルヴィンさんのことですね。今は起きていらっしゃいますか?」
「食堂のソファーで寝ているよ。それと……、彼には薔薇のことを少し話していて……」
「それなら話が早いですね。まだ寝てらっしゃるなら、私から説明しておきます。私はあの方に急ぎ連絡を繋ぐ必要もございますので」
薔薇のことを他人に話したので、何か言われると思ったが、ミンス夫人は驚いた様子がなく、冷静に言葉を返してきた。
ジャックの命に係わる事態だ。エルヴィンに説明したかったが、時間がないと判断したクリスは、ペンと紙を手に取った。
指示があり移動するが、心配しないでくれと書いてミンス夫人に渡した。
セーフハウスには必要な物は揃っているので、クリスは手紙を託した後、すぐに玄関から外へ出た。
クリスは足早に歩きだしたが、一度歩みを止め振り返って邸の方角を見つめる。
一緒に調べようと約束したはずなのに、早速離れてしまうことが申し訳なかった。何より、エルヴィンと離れていく一歩一歩で心臓が重くなり、不安を覚えてしまう。
ミンス夫人に起こされて、自分がいなくなったことを知ったら、クリスはどう思うのかと考えると、ツキンと胸が痛んだ。
「今俺といたら、エルヴィンにまで危険が及ぶかもしれない。それは避けないと。真実を明らかにしたら……」
今までばんやりとしていた自分の未来が少し色づいてきたような気がする。
この胸にある、複雑な感情に決着をつけて、エルヴィンにちゃんと向き合いたい。
運命に導かれ重なったように見える二人の過去。
あの日、本当は何が起きたのか……それはまだ霧の中。
深く息を吐いたクリスは、エルヴィンのいる踵を返し邸に背を向ける。わずかに明るくなった空を見ながら歩みを速めた。
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