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本編
16、もう一人の
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自分が生まれたのはいつだろう。
あの強烈な瞬間、突然色付いた世界が目の前に広がったが、それよりももっと前から自分は存在していた気がする。
暗くて静かな場所。
エルヴィンの心の奥底で、いつも膝を抱えていた。
時々周囲が冷たくなると、エルヴィンが悲しんでいるのだとわかる。そんな時は、彼の悲しみに寄り添って、頑張れと励ましてきた。
それが自分。
ノアールにとって、エルヴィンが全てだった。
彼の心の中で生きて、そっと寄り添い続けることは、ノアールにとって、温かな幸せであった。
エルヴィンの喜びや幸せを願い、悲しみに触れて、それを自分の体の中に取り込む。
そうしてエルヴィンの気持ちが晴れて、また元気に朝を迎えるのを見守る。
それがノアールの全てだった。
エルヴィンが父親に怒られた時、母の失踪を近所の子に揶揄われた時、母が残していった髪留めを抱いて眠る時。
悲しみに暮れる小さなエルヴィンの中で、ノアールも一緒に生きてきた。
ノアールの声はエルヴィンには届かない。
エルヴィンの傷ついた心に、大丈夫だと言って励ますことで、なんとか支えてきた。
悲劇は突然訪れた。
ある時、エルヴィンの心が真っ黒な色になり、激しく揺れて壊れそうになった。
ノアールはエルヴィンの名を呼んだが、心を閉ざしたエルヴィンは自ら檻の中に入ってしまった。
意識を手放した。
そう思った瞬間、今度は代わりにノアールが光に吸い込まれた。
気づいた時、全てが変わった。
息をする感覚、肌に空気があたる感触、そして目を開けると、いつもエルヴィンの頭の中で見ていた、眩しい世界が目の前に広がっていた。
その時、ガタンと音がして、何かが窓から出ていく光景が目に入った。
息を吸い込んだノアールは、窓に向かって走った。
窓の外には、屋根伝いに走っていく男の姿が見えた。
その時の光景が、ノアールの目に焼き付いている。
男は家々の屋根の上を、地面を走るように軽々と駆け抜けて行った。軽々と二階の窓から飛び出たのもそうだし、とても普通の人間には見えない。
男が消えていくところまで眺めてしまったが、そこでノアールは気がついた。
なぜ、男はこの部屋から逃げるように出て行ったのだろうかと……。
そうして全身に悪寒が走り、鼻をつく湿った嫌な匂いを感じた。
ゆっくりと恐る恐る、後ろに向かって体を向けたノアールは、衝撃の光景を目にする。
その時、突然エルヴィンの視界が歪み、心が激しく揺れて真っ暗になってしまった理由がわかった。
部屋のドア横に、胸を刺されて倒れている父親の姿が見えた。
床に広がった赤いものが、血だとわかった時、ノアールは息を吸い込んでその場に崩れ落ちた。
ドクドクと揺れる心臓の音、身体中が冷たいのに、汗がダラダラとこぼれ落ちる。
エルヴィンを守らなければ、今までずっとそうしてきたように、ノアールはこの時も、そう思った。
その日を境に、ノアールは度々前に出るようになった。それは、エルヴィン自身が不安定で、自分を保つことができずに、すぐに檻の奥に消えてしまうからだ。その度に、ノアールに光が当たり、嫌でも前に出ることになった。
エルヴィンはノアールが出ている時のことを知らない。完全に心を閉ざして見えなくなる。
だが、ノアールは違う。
エルヴィンが出ている時の光景を、一緒に見ていたので、記憶を頼りに動くことができた。
周囲は親を殺されたエルヴィンのことを同情的に見てくれるので、多少言動がおかしくとも、疑われるようなことはなかった。
エルヴィン自身は、自分の状態を保つのがやっとで、まともに考えられる状態ではない。
そんな状態でしばらく入院生活を送り、父親の友人であるゴードルに引き取られることになったが、ノアールはこの男は信用ならないと思っていた。
エルヴィンの入院中、一度だけ様子を見にきたが、医術師に状況だけ確認して、エルヴィンの顔を見ることなく帰って行った。
そんな男が子供を引き取ると聞いて、ノアールは警戒した。
エルヴィンを引き取ることで、彼は人格者だと言われ名声を得た。悲劇の友人の忘れ形見を大切にする男となったが、それはただの見せかけだった。実際のところ、使用人に任せきりで、彼自身はろくに世話などしなかった。
自分が有名になるためには、友人の死も、その子供も利用する男、それがゴードルなのだと分かった時、自分の存在は隠そうと思った。
弱みを見せたら、また、何に使われるかわからない。
とくにエルヴィンは不安定で、少し動揺するだけで、すぐに檻に入ってしまうくらいだ。
ノアールは、エルヴィンが出ている時に話しかけてみた。今なら声が聞こえるかもしれないと思ったからだ。
思った通り、エルヴィンは応えてくれた。
エルヴィンは孤独で、話し相手に飢えていたので、少しずつ彼の緊張を解いていくことにした。
エルヴィンの孤独に寄り添う友人として、悩みを聞き、アドバイスをして関係を深めた。
もちろん、エルヴィンを動揺させないために、自分が見ていることは秘密にした。
一方で自分が出ている時は、ゴードルの前では従順に過ごし、二人の入れ替わりがバレないように自然に立ち回った。多少、連携が上手くいかず、おかしな言動になっても、精神的なショックのせいだという顔をして、やり過ごしてきた。
こうしてノアールは、エルヴィンを上手く誘導して、落ち着かせることに成功した。
ただ、不定期だった入れ替わりは、朝から夜、夜から朝という周期に固定された。
エルヴィン自身の中で、その状態が一番自分を保つことができると、無意識のうちに決まったのかもしれない。
エルヴィンの精神を安定させれば、この入れ替わりはなくなる。ノアールはそう考えていたが、当てが外れてしまった。
どうすればエルヴィンは、元のエルヴィンに戻るのか。
エルヴィンは本来アルファであったが、父親の時間を境に、アルファ性を自分の中に押さえつけて、まるでベータのようになった。
それはアルファ特有の防御反応らしい。
しかし、ノアールが出ている時は、元のアルファ性が解放された。閉じ込められていた鬱憤を晴らすように、濃いフェロモンが無意識に出てしまうので、抑制剤を飲みながらコントロールすることを覚えた。
ノアールは、エルヴィンのアルファ性を解放させるのが、彼を元に戻すための鍵になると考えた。
そしてもう一つ、彼の心の中で、いつも響いている言葉。
どうして、なんで。
自分なんて、必要ない。
消えてしまいたい。
絶えず流れ続けるこの言葉は、父親がなぜ殺されたのか、それを知りたいと求め続けるものだと思った。
エルヴィンは父の死の真相を知りたがっている。犯人を見つけること、真相を聞き出して、罪を償わせること。
それができるのは自分しかいない。
なぜなら、犯人である男を見ているからだ。
そこまで考えて、ノアールの気持ちは固まった。
必ず、エルヴィンを元に戻す。
過去に決着をつけ、生きる希望を与える。
自分はそのために、彼の中で生まれたのだと……。
そして……
エルヴィンの意識を通して、クリスに出会った。
出会った時からすぐにわかった。
この男は、他の人間とは違う。
高鳴る鼓動、上気していく体。
魅惑的な藍色の髪、吸い込まれそうになる金色の瞳を見た時、自分はただの意識の一つで、心なんてないと思っていたノアールだったが、初めて自らの心臓の音を感じた気がした。
◇◇◇
夕闇の中を、一台の馬車が進んでいく。
今夜は夜祭りが行われており、所々に灯された明かりで、街は彩られていた。
「本当に付いてくるの?」
馬車の中で、赤い髪をふわりと靡かせたのは、ジャックの娘、スザンナだ。花柄のドレスが目に眩しいくらい華やかである。
裾にあしらわれたたくさんのリボンが、可愛らしく揺れるのを見て、対面に座っているクリスは目を細めた。
「未婚の令嬢が、こんな時間から男性と出掛けるなんて、心配だと護衛を頼まれたんだ」
「まぁ、同じ方向に行くから一緒になんて言って、お父様の差し金だったのね。クリスはいつもお父様の言うことをなんでも聞くんだから。こういう依頼は断ってよ」
「ジャックにはお世話になっているし、それに、スザンナのことが、心配だからさ」
「嫌だわ、本当に。もう子供じゃないのに」
ジャックの邸で世話になっていた数年間、本宅にいたスザンナと頻繁に顔を合わせることはなかったが、一緒に暮らした仲である。
クリスの目から見ると、あの頃の赤毛とそばかすが可愛らしいスザンナの印象が強いが、豊かな胸元にくびれた腰、丸みを帯びた体つきは、すっかり大人の女性だと思わせた。
妹のように思っていたスザンナも、色恋に身を染める歳になったのかと思うと考え深い。
すっかり親戚のおじさんの気持ちで眺めていたら、スザンナはぷくっと頬を膨らませた。
「今日、私が誰と会うかも知っているの?」
「カルバイン家のエルヴィン」
あぁと声を漏らしてスザンナは両手で顔を覆った。
「彼とはちょっとした知り合いなんだ。スザンナは社交会デビューしたばかりだから、知らないと思うけど、エルヴィンは……」
「かなりの女好きで、女性関係が派手、でしょう? 知っているわよ。そんなの」
クリスの言葉に顔を上げたスザンナは、口を尖らせて不服そうな顔をする。危険だと知っていて飛び込むとは、若さかなと思うと、スザンナは片眉を上げた。
「まさかクリスまで、私がエルヴィンの顔に惚れて、騙されているなんて思っていないでしょうね」
驚いた顔になったクリスの反応が遅れたことに気づいたスザンナは、眉間に皺を寄せて顔を顰める。
「信じられない! とんだお子様扱いよ」
「ええと……」
「私だって自分の身の程は分かっているわ。お姉様のように美人で気立てがいいわけでもない。そんな私に社交界の薔薇が声をかけるなんて、何かあると思ったのよ。案の定、お父様の情報を探ろうとしてきたわ」
初恋に浮かれているとばかり思っていたが、さすがジャックの娘だと驚いてしまった。しかし、ジャックについて調べようとしているという言葉に、背筋が痺れた。
それは即ち、青の薔薇について、情報を得ようとしているということだろうか。まさか、ノアールの目的は……。
ノアールの様子に、反政府的な動きはなかったか、そこまで考えを巡らせた時、スザンナはゴホンと咳払いをした。
「貴族院に興味があるのかしら。もしかしたら、コネが欲しいのかも」
「えっ……?」
また話が違う方向に飛んでしまう。
ノアールは政治に興味があり、議員の座を欲している。今まで全くなかった考えに、クリスの方が戸惑ってしまった。
「ええと、具体的には何を言われたのかな?」
「いやよ、クリスには教えない。私が突き止めるんだから」
困ったことに、スザンナを子供扱いしたことで、怒らせてしまったらしい。
何を聞いても知らないというばかりで、頭を悩ませることになった。
仕方ない、こうなったら、二人の会話や様子を見ながら、ノアールが何を欲しているのか探るしかない。
エルヴィンが暴走してノアールに変わった後、病院で別れてから一週間ほど会っていない。
今日、自分がスザンナに付いて行ったら、ノアールはどんな顔をするだろう。
クリスの乗った馬車は、目的地であるボート乗り場に向かい、祭りの喧騒の中を進んでいった。
あの強烈な瞬間、突然色付いた世界が目の前に広がったが、それよりももっと前から自分は存在していた気がする。
暗くて静かな場所。
エルヴィンの心の奥底で、いつも膝を抱えていた。
時々周囲が冷たくなると、エルヴィンが悲しんでいるのだとわかる。そんな時は、彼の悲しみに寄り添って、頑張れと励ましてきた。
それが自分。
ノアールにとって、エルヴィンが全てだった。
彼の心の中で生きて、そっと寄り添い続けることは、ノアールにとって、温かな幸せであった。
エルヴィンの喜びや幸せを願い、悲しみに触れて、それを自分の体の中に取り込む。
そうしてエルヴィンの気持ちが晴れて、また元気に朝を迎えるのを見守る。
それがノアールの全てだった。
エルヴィンが父親に怒られた時、母の失踪を近所の子に揶揄われた時、母が残していった髪留めを抱いて眠る時。
悲しみに暮れる小さなエルヴィンの中で、ノアールも一緒に生きてきた。
ノアールの声はエルヴィンには届かない。
エルヴィンの傷ついた心に、大丈夫だと言って励ますことで、なんとか支えてきた。
悲劇は突然訪れた。
ある時、エルヴィンの心が真っ黒な色になり、激しく揺れて壊れそうになった。
ノアールはエルヴィンの名を呼んだが、心を閉ざしたエルヴィンは自ら檻の中に入ってしまった。
意識を手放した。
そう思った瞬間、今度は代わりにノアールが光に吸い込まれた。
気づいた時、全てが変わった。
息をする感覚、肌に空気があたる感触、そして目を開けると、いつもエルヴィンの頭の中で見ていた、眩しい世界が目の前に広がっていた。
その時、ガタンと音がして、何かが窓から出ていく光景が目に入った。
息を吸い込んだノアールは、窓に向かって走った。
窓の外には、屋根伝いに走っていく男の姿が見えた。
その時の光景が、ノアールの目に焼き付いている。
男は家々の屋根の上を、地面を走るように軽々と駆け抜けて行った。軽々と二階の窓から飛び出たのもそうだし、とても普通の人間には見えない。
男が消えていくところまで眺めてしまったが、そこでノアールは気がついた。
なぜ、男はこの部屋から逃げるように出て行ったのだろうかと……。
そうして全身に悪寒が走り、鼻をつく湿った嫌な匂いを感じた。
ゆっくりと恐る恐る、後ろに向かって体を向けたノアールは、衝撃の光景を目にする。
その時、突然エルヴィンの視界が歪み、心が激しく揺れて真っ暗になってしまった理由がわかった。
部屋のドア横に、胸を刺されて倒れている父親の姿が見えた。
床に広がった赤いものが、血だとわかった時、ノアールは息を吸い込んでその場に崩れ落ちた。
ドクドクと揺れる心臓の音、身体中が冷たいのに、汗がダラダラとこぼれ落ちる。
エルヴィンを守らなければ、今までずっとそうしてきたように、ノアールはこの時も、そう思った。
その日を境に、ノアールは度々前に出るようになった。それは、エルヴィン自身が不安定で、自分を保つことができずに、すぐに檻の奥に消えてしまうからだ。その度に、ノアールに光が当たり、嫌でも前に出ることになった。
エルヴィンはノアールが出ている時のことを知らない。完全に心を閉ざして見えなくなる。
だが、ノアールは違う。
エルヴィンが出ている時の光景を、一緒に見ていたので、記憶を頼りに動くことができた。
周囲は親を殺されたエルヴィンのことを同情的に見てくれるので、多少言動がおかしくとも、疑われるようなことはなかった。
エルヴィン自身は、自分の状態を保つのがやっとで、まともに考えられる状態ではない。
そんな状態でしばらく入院生活を送り、父親の友人であるゴードルに引き取られることになったが、ノアールはこの男は信用ならないと思っていた。
エルヴィンの入院中、一度だけ様子を見にきたが、医術師に状況だけ確認して、エルヴィンの顔を見ることなく帰って行った。
そんな男が子供を引き取ると聞いて、ノアールは警戒した。
エルヴィンを引き取ることで、彼は人格者だと言われ名声を得た。悲劇の友人の忘れ形見を大切にする男となったが、それはただの見せかけだった。実際のところ、使用人に任せきりで、彼自身はろくに世話などしなかった。
自分が有名になるためには、友人の死も、その子供も利用する男、それがゴードルなのだと分かった時、自分の存在は隠そうと思った。
弱みを見せたら、また、何に使われるかわからない。
とくにエルヴィンは不安定で、少し動揺するだけで、すぐに檻に入ってしまうくらいだ。
ノアールは、エルヴィンが出ている時に話しかけてみた。今なら声が聞こえるかもしれないと思ったからだ。
思った通り、エルヴィンは応えてくれた。
エルヴィンは孤独で、話し相手に飢えていたので、少しずつ彼の緊張を解いていくことにした。
エルヴィンの孤独に寄り添う友人として、悩みを聞き、アドバイスをして関係を深めた。
もちろん、エルヴィンを動揺させないために、自分が見ていることは秘密にした。
一方で自分が出ている時は、ゴードルの前では従順に過ごし、二人の入れ替わりがバレないように自然に立ち回った。多少、連携が上手くいかず、おかしな言動になっても、精神的なショックのせいだという顔をして、やり過ごしてきた。
こうしてノアールは、エルヴィンを上手く誘導して、落ち着かせることに成功した。
ただ、不定期だった入れ替わりは、朝から夜、夜から朝という周期に固定された。
エルヴィン自身の中で、その状態が一番自分を保つことができると、無意識のうちに決まったのかもしれない。
エルヴィンの精神を安定させれば、この入れ替わりはなくなる。ノアールはそう考えていたが、当てが外れてしまった。
どうすればエルヴィンは、元のエルヴィンに戻るのか。
エルヴィンは本来アルファであったが、父親の時間を境に、アルファ性を自分の中に押さえつけて、まるでベータのようになった。
それはアルファ特有の防御反応らしい。
しかし、ノアールが出ている時は、元のアルファ性が解放された。閉じ込められていた鬱憤を晴らすように、濃いフェロモンが無意識に出てしまうので、抑制剤を飲みながらコントロールすることを覚えた。
ノアールは、エルヴィンのアルファ性を解放させるのが、彼を元に戻すための鍵になると考えた。
そしてもう一つ、彼の心の中で、いつも響いている言葉。
どうして、なんで。
自分なんて、必要ない。
消えてしまいたい。
絶えず流れ続けるこの言葉は、父親がなぜ殺されたのか、それを知りたいと求め続けるものだと思った。
エルヴィンは父の死の真相を知りたがっている。犯人を見つけること、真相を聞き出して、罪を償わせること。
それができるのは自分しかいない。
なぜなら、犯人である男を見ているからだ。
そこまで考えて、ノアールの気持ちは固まった。
必ず、エルヴィンを元に戻す。
過去に決着をつけ、生きる希望を与える。
自分はそのために、彼の中で生まれたのだと……。
そして……
エルヴィンの意識を通して、クリスに出会った。
出会った時からすぐにわかった。
この男は、他の人間とは違う。
高鳴る鼓動、上気していく体。
魅惑的な藍色の髪、吸い込まれそうになる金色の瞳を見た時、自分はただの意識の一つで、心なんてないと思っていたノアールだったが、初めて自らの心臓の音を感じた気がした。
◇◇◇
夕闇の中を、一台の馬車が進んでいく。
今夜は夜祭りが行われており、所々に灯された明かりで、街は彩られていた。
「本当に付いてくるの?」
馬車の中で、赤い髪をふわりと靡かせたのは、ジャックの娘、スザンナだ。花柄のドレスが目に眩しいくらい華やかである。
裾にあしらわれたたくさんのリボンが、可愛らしく揺れるのを見て、対面に座っているクリスは目を細めた。
「未婚の令嬢が、こんな時間から男性と出掛けるなんて、心配だと護衛を頼まれたんだ」
「まぁ、同じ方向に行くから一緒になんて言って、お父様の差し金だったのね。クリスはいつもお父様の言うことをなんでも聞くんだから。こういう依頼は断ってよ」
「ジャックにはお世話になっているし、それに、スザンナのことが、心配だからさ」
「嫌だわ、本当に。もう子供じゃないのに」
ジャックの邸で世話になっていた数年間、本宅にいたスザンナと頻繁に顔を合わせることはなかったが、一緒に暮らした仲である。
クリスの目から見ると、あの頃の赤毛とそばかすが可愛らしいスザンナの印象が強いが、豊かな胸元にくびれた腰、丸みを帯びた体つきは、すっかり大人の女性だと思わせた。
妹のように思っていたスザンナも、色恋に身を染める歳になったのかと思うと考え深い。
すっかり親戚のおじさんの気持ちで眺めていたら、スザンナはぷくっと頬を膨らませた。
「今日、私が誰と会うかも知っているの?」
「カルバイン家のエルヴィン」
あぁと声を漏らしてスザンナは両手で顔を覆った。
「彼とはちょっとした知り合いなんだ。スザンナは社交会デビューしたばかりだから、知らないと思うけど、エルヴィンは……」
「かなりの女好きで、女性関係が派手、でしょう? 知っているわよ。そんなの」
クリスの言葉に顔を上げたスザンナは、口を尖らせて不服そうな顔をする。危険だと知っていて飛び込むとは、若さかなと思うと、スザンナは片眉を上げた。
「まさかクリスまで、私がエルヴィンの顔に惚れて、騙されているなんて思っていないでしょうね」
驚いた顔になったクリスの反応が遅れたことに気づいたスザンナは、眉間に皺を寄せて顔を顰める。
「信じられない! とんだお子様扱いよ」
「ええと……」
「私だって自分の身の程は分かっているわ。お姉様のように美人で気立てがいいわけでもない。そんな私に社交界の薔薇が声をかけるなんて、何かあると思ったのよ。案の定、お父様の情報を探ろうとしてきたわ」
初恋に浮かれているとばかり思っていたが、さすがジャックの娘だと驚いてしまった。しかし、ジャックについて調べようとしているという言葉に、背筋が痺れた。
それは即ち、青の薔薇について、情報を得ようとしているということだろうか。まさか、ノアールの目的は……。
ノアールの様子に、反政府的な動きはなかったか、そこまで考えを巡らせた時、スザンナはゴホンと咳払いをした。
「貴族院に興味があるのかしら。もしかしたら、コネが欲しいのかも」
「えっ……?」
また話が違う方向に飛んでしまう。
ノアールは政治に興味があり、議員の座を欲している。今まで全くなかった考えに、クリスの方が戸惑ってしまった。
「ええと、具体的には何を言われたのかな?」
「いやよ、クリスには教えない。私が突き止めるんだから」
困ったことに、スザンナを子供扱いしたことで、怒らせてしまったらしい。
何を聞いても知らないというばかりで、頭を悩ませることになった。
仕方ない、こうなったら、二人の会話や様子を見ながら、ノアールが何を欲しているのか探るしかない。
エルヴィンが暴走してノアールに変わった後、病院で別れてから一週間ほど会っていない。
今日、自分がスザンナに付いて行ったら、ノアールはどんな顔をするだろう。
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