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本編
12、告白
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「アルノー!」
朝の光を浴びながら、手を上げて現れたのは、エルヴィンだ。
クリスが手を振り返すと、エルヴィンはキラキラとした笑顔を見せてくれる。
爽やかな微笑みに、夜の彼が見せる妖艶さはカケラもなくて、本当に同じ人物なのか疑ってしまう。
「朝から悪いな。予約が取れなくてさ」
そう言ってクリスが謝ると、エルヴィンは首を擦ってからクリスの横に立った。
「何言っているんだよ。俺が頼んだんじゃないか。紹介してくれって」
「仕事の方は大丈夫なのか? 俺は休みだからいいけど……」
「うん。こっちも休みだから気にしないで。忙しさを言い訳にして、足が遠のいていたけど、一度、ちゃんと診てもらいたかったんだ」
話しながら二人の足が止まったのは、医術院の前だ。クリスは今日、エルヴィンをエリゼ医術師に紹介することにしたのだ。
エリゼには事情を話しているので、隠していることがバレる心配はない。
エルヴィンから、医術師を紹介してほしいという話を聞いて、早速予約をとった。
別人格の存在とバース性について、エルヴィンは思い悩んでいるように見えたが、しっかり診てもらうことにしたようだ。
医術院の中に入ると、エルヴィンは思い詰めた顔で長い廊下の先を見ている。
その横顔からいつもの明るさが消えているように思えて、クリスは口を開いた。
「何かあったのか?」
「え?」
「元気がないからさ」
足を止めたクリスに向かって、エルヴィンは力なく微笑む。
「おじさんから、見合いを勧められているんだ」
トクンと心臓の音が響く。
何を動揺しているんだ、クリスは頭の中でしっかりしろと自分に言い聞かせた。
「そうか……。エルはカルバイン家の人間だからな」
「貴族の結婚が家同士のものだってことは、よく分かっているけど。俺の意見なんてひとつも聞いてくれない」
「会ってみれば、気が合うかもしれないぞ」
クリスがそう言うと、顔を上げたエルヴィンは、傷ついたような目をしていた。
「会いたくない。今日ここへ来たのは、自分のバース性をハッキリさせるつもりだ。どう考えても、俺はアルファじゃない。相手の令嬢はオメガで、アルファとの結婚を希望しているらしい。だから、医術師に証明書を書き換えてもらう。そうすればこの話はなしだ」
「えっ……」
男爵が話を進めているオメガの令嬢は、シソニア伯爵の令嬢に間違いないだろう。
彼女とノアールが番になれば、自分は解放されるはず。養父の言いなりだったエルヴィンが、拒否するとは思わなかったので、クリスの思考は止まってしまう。
「俺は……俺は……」
エルヴィンの目に力がこもり、何か言いかけた時に、近くの部屋のドアが開いた。
「あら、ちょうどよかった。準備できたわよ。さぁ、入って」
エリゼ医師の登場で、エルヴィンは言葉を詰まらせてしまい、そのまま口を閉じた。
言いかけたことが気になったが、エリゼを待たせるわけにいかないので、クリスは診察室の中に入る。エルヴィンも大人しく、クリスの後に続いた。
「さてと、まずはバース性のチェックだけど、エルくんは、出生時の検査はアルファで間違いないのね」
「そうです。ただ、今は抑制剤も飲んでいませんし、フェロモンもないので、ベータになったのだと……」
診察室に入ってすぐに、エリゼは資料に目を通しながら、エルヴィンに確認をとった。
エルヴィンが勢いよく話し始めたところで、エリゼは手を前にして、待ってという合図をする。
「変異したと思っているのね。血液の検査と、フェロモン測定器の検査を確認したわ。貴方がアルファであることは間違いないわね」
「えっ!?」
想定していた答えが返ってこなかったからか、エルヴィンは口を開けて驚いた声を上げる。
「さっき、ベータに変わったと言ったけど、そう簡単にバース性が変異することはないわ。あるとしたら、無意識にベータを装うくらいかしら」
「装う、というのは?」
エルヴィンの後ろからクリスが声をかけると、エリゼは視線を上げた。
「ある特異な状況下において、アルファにだけ現れる防御反応とでもいうのかしらね。事前に貴方から聞いていた、朝と夜で別の人格になるって話がこれに関係あると思うわ」
ノアールの話になり、エルヴィンから息を呑む音が聞こえてくる。クリスにも緊張が伝わってきた。
「アルファ特有の防御反応が働くのは稀なことだけど、その原因として、幼い頃に他者から攻撃を受けるとか、強いショックを受けた時に身を守るためといわれているわ。成年期には見られないから、思春期特有の症状だといえる。無意識に本人が自分の人格を分けて、作り出したもう一人の自分という表現が近いかもしれない。人は様々な顔を持っているものよ。例えば、消極的で真面目な部分、開放的で明るい部分がそれぞれ独立してしまうとか……」
「つまり、ノアールの人格は元々エルヴィンの中にあった、ということですか?」
「そうね。そして主人格がエルヴィンなら、負の記憶はノアールが継いでいると考えるべきかも。測定器がわずかに反応したのは、残り香みたいなもの。おそらく、アルファとしての性は、全部ノアールが引き受けているのね」
「……先生、どう考えても、ノアールの方が強い存在になっている気がするのです。俺はこのまま、消えてしまうのでしょうか?」
「人格が統合されることはあるわ。例えば、ノアールの存在が増して、すべての時間に彼が現れるようになるとか……。そうすると、エルくんは永遠に眠った状態か、そのままノアールに吸収されるか。いずれにしても、まだ解明されていないことの方が多いから、そうなると断定はできない。とにかく気を強く持って、本来のアルファとしての自分を取り戻すことが大事よ」
もっと詳しく知りたいなら、精神の専門医を紹介すると言われて、エルヴィンは首を振った。
バース性はアルファだと言われ、ノアールの存在が増していることに、エルヴィンは強くショックを受けたように見える。ガックリと肩を落として項垂れていた。
エリザに落ち着くまで隣室で休んで行くように言われて、エルヴィンは先に部屋を出た。
エリゼから話があると言われたのでクリスは残ったが、エルヴィンが出て行ったのを確認した後、すぐに物言いたげな視線を感じた。
「ええと、すみません。急にこんな話を受けてもらって……」
「まったくよ。彼、私じゃ手に負えないわ。上級の先生方が、喜んで研究したがるような症例よ。ジャックの頼みじゃなかったら、引き受けなかったわ」
額に手を当てたエリゼは、指の隙間から鋭い視線をクリスに向けた。何もかも見透かされているようで居心地が悪い。
「これ、頼まれていたオメガ用の避妊薬よ。週に一度、水に混ぜて飲むように」
「ああ、ありがとうございます」
エリゼが机の中から取り出した小袋を、クリスが受け取ろうとすると、エリゼはスッと袋を自分の方に引いた。
「測定器から微弱だけどオメガのフェロモンも出たの。オメガのフェロモンが混じるのは、番がいる証拠よ。貴方の頸を噛んだのは彼ね? 正確にはノアールの方かしら」
「…………」
さすがエリゼだ。鋭い彼女はきっと、相談を持ちかけてきたところから、そう考えていたのだろう。
「まぁ、考える必要がないくらい、貴方達、お似合いに見えるわ。相性がいいっていうのも納得できる。十五で父親を亡くした貴方、一方彼も十二で父親を……。二人の人生は繋がっているみたい」
また変なことを言い出したエリゼの言葉を流して、クリスは避妊薬が入った袋に手を伸ばす。
今度は、ちゃんと受け取ることができた。
「気をつけなさい。ノアールだけど、たぶん、全部知っているわ」
「え……?」
「エルくんは頭の中でノアールと会話するそうね。それで、向こうから一方的に話しかけてきて、ノアールが出ている時に、自分は話しかけることができないのよね?」
「そう、みたいですけど……」
「似たような症例を聞いたわ。主人格から離れた別人格の方は、主人格が出ている時のことを見ているらしいわ。つまり、クリスは二人と別々に会って、分けて考えているみたいだけど、ノアールはエルくんと会っている時の貴方も知っている……。そう考えられるわ」
心臓がドクッと鳴って跳ね上がる。
ノアールが自分を知っていた、初めて会った時に、そんな素振りは全くなかった。
まさかという想いが駆け巡り、クリスの体を染めていく。
嘘だ、間違いだと思うほど、それは濃くなる。
「別人格は悪意を持って、貴方へ近づいたのかもしれない。例えば、エルくんを消し去るようなショックを与えるため、貴方を利用している。全て自分のものにしようと……」
「そんな……」
頸を噛んで、簡単に切れない関係を持つこと。
それすらも、ノアールの手中にあったものだとしたら……。
「俺の計画を知っていて、自分に近づくと察知したノアールが、わざとパーティーに潜入するために、情報を流した。そこに近づいて……関係を持って……。それがエルヴィンにショックを与えるため? 確かにアイツには何も言っていないけど、それくらいで……」
混乱して頭を抱えたクリスは、考えながらブツブツと話していたが、そんな様子を見て、エリゼはクスリと笑った。
「クリス、貴方は何も気づいていないの? それとも、気づいていて、知らないフリをしているのかしら?」
「え? 何ですか?」
「傷つくことから逃げていたら、何も得ることはできないわ。貴方がそんな人生でいいのなら、何も言わないけど、自分の心の内に聞いてみなさい。本当にそれでいいのかを……」
「あの……」
相変わらずエリゼの視線は強くて緊張してしまう。けれど、その中に少しだけ温かいものを感じた。
「それと、エルくんにも気を付けた方がいいわ。彼のアルファ性だけど、かなり強いものよ。王族のような支配階級……、それに匹敵するかも。薬である程度抑えることはできるけど、もし暴走でもしたら、周囲の人間はもちろん、自分自身も壊してしまうもしれない」
「そんな……いったいどうしたら……?」
「あまり刺激しないように、自然に少しずつ性を取り戻すのが一番だけど……それに本来は番が……」
エリゼがそこまで口にした時、助手が診察室に飛び込んできて、急患だと知らせてきた。すでに予定していた時間は過ぎていたので、クリスは頭を下げた後、ポケットに薬を入れてから立ち上がり、診察室を後にした。
色々なことが混じり過ぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
隣室で休んでいたエルヴィンに声をかけて、医術院から出ると、午後の暑い日差しが二人を照らした。
適当に食事をとった後、少し歩かないかとエルヴィンに言われて二人で公園を歩くことにする。
公園では子連れの親子が楽しそうに遊んでいる姿が見えた。子供の手に、木で作られた列車の玩具が握られていて、あれもカルバイン製品なんだろうなと、クリスはぼんやりと見つめた。
「アルファじゃないって認めてもらうつもりだったのに、逆になってしまったよ」
隣を歩いていたエルヴィンが立ち止まり、苦い顔で語り出したので、クリスも足を止める。
「……そう、気を落とすなよ。結婚のことは、今は複雑な気持ちだと思うけど――」
「おじさんと話すことにする。アルファではあったけど無理だ。やっぱり、結婚の話は断ってほしいって」
「えっ……」
エルヴィンの決意を聞いて、クリスの背中に冷たい汗が流れる。エルヴィンが結婚して、令嬢と番になることで、同じ体のノアールとクリスの番を解消することに繋がるのだ。
ここは考え直してほしいと言って説得するべきだと思ったが、クリスの喉は張り付くように乾いて、声が出てこない。
絶句してしまったクリスを、エルヴィンは真っ直ぐに見つめてくる。
その視線の強さに気づいたクリスは、心臓が高鳴っていくのを感じた。
「エルヴィン?」
「初めてなんだ。こんなに誰かと一緒にいたいと思えたのは……。カッコ良く助けてくれたと思ったら、明るく笑って、俺のくだらない話も何でも聞いてくれた。居心地がよくて、それがもっと一緒にいたいと思うまで、時間はかからなかった。毎日、今日は会えるかなって考えると、辛い仕事も楽しくて……」
エルヴィンの真剣な目、熱のこもった言葉や息遣い。すべてがクリスの全身を震わせる。
肌を伝うように、湧き上がっていく感情。
だめだ、だめだ。
止めなくてはいけない。
この先に進んでしまったら、もう戻れない。
やめろと言って、早く逃げるんだ!
頭の中でもう一人の自分が叫んでいる。もう一人の自分なんて、まるでノアールみたいだ。もしかしたら、誰にでもノアールのような存在がいるのかもしれない。
ただ、表に出ていないというだけで……。
「……アルノが好きなんだ。だから、他の人とは結婚できない。俺が一緒になりたいのは、アルノだけだ」
すべての音が消えて、世界に二人だけになったような感覚になる。
トクトクと心臓の音だけが頭に響く。
エルヴィンの後ろで、小さな蝶がひらひらと楽しそうに舞っている姿が見える。
いつか綺麗な心を持ち、真っ直ぐな目で一途に愛してくれる人が……。
前に、ミンス夫人に言われた言葉が、じんわりと肌に染み込んでくる。
孤独な人生を選んできたクリスは、もう二度と傷つくことはないと思っていた。
だけど、心の中で、エルヴィンという存在が大きくなっていく。
自分に向かって注がれる、真っ直ぐな愛に触れてみたい。手を伸ばしたい衝動に駆られたが、クリスはぎゅっと手を強く握ってそれに耐え続ける。
こんな自分が、エルヴィンの気持ちに答えることなどできない。
幻だったのか。
気がつくと、エルヴィンの周りを舞っていた蝶は消えていた。
朝の光を浴びながら、手を上げて現れたのは、エルヴィンだ。
クリスが手を振り返すと、エルヴィンはキラキラとした笑顔を見せてくれる。
爽やかな微笑みに、夜の彼が見せる妖艶さはカケラもなくて、本当に同じ人物なのか疑ってしまう。
「朝から悪いな。予約が取れなくてさ」
そう言ってクリスが謝ると、エルヴィンは首を擦ってからクリスの横に立った。
「何言っているんだよ。俺が頼んだんじゃないか。紹介してくれって」
「仕事の方は大丈夫なのか? 俺は休みだからいいけど……」
「うん。こっちも休みだから気にしないで。忙しさを言い訳にして、足が遠のいていたけど、一度、ちゃんと診てもらいたかったんだ」
話しながら二人の足が止まったのは、医術院の前だ。クリスは今日、エルヴィンをエリゼ医術師に紹介することにしたのだ。
エリゼには事情を話しているので、隠していることがバレる心配はない。
エルヴィンから、医術師を紹介してほしいという話を聞いて、早速予約をとった。
別人格の存在とバース性について、エルヴィンは思い悩んでいるように見えたが、しっかり診てもらうことにしたようだ。
医術院の中に入ると、エルヴィンは思い詰めた顔で長い廊下の先を見ている。
その横顔からいつもの明るさが消えているように思えて、クリスは口を開いた。
「何かあったのか?」
「え?」
「元気がないからさ」
足を止めたクリスに向かって、エルヴィンは力なく微笑む。
「おじさんから、見合いを勧められているんだ」
トクンと心臓の音が響く。
何を動揺しているんだ、クリスは頭の中でしっかりしろと自分に言い聞かせた。
「そうか……。エルはカルバイン家の人間だからな」
「貴族の結婚が家同士のものだってことは、よく分かっているけど。俺の意見なんてひとつも聞いてくれない」
「会ってみれば、気が合うかもしれないぞ」
クリスがそう言うと、顔を上げたエルヴィンは、傷ついたような目をしていた。
「会いたくない。今日ここへ来たのは、自分のバース性をハッキリさせるつもりだ。どう考えても、俺はアルファじゃない。相手の令嬢はオメガで、アルファとの結婚を希望しているらしい。だから、医術師に証明書を書き換えてもらう。そうすればこの話はなしだ」
「えっ……」
男爵が話を進めているオメガの令嬢は、シソニア伯爵の令嬢に間違いないだろう。
彼女とノアールが番になれば、自分は解放されるはず。養父の言いなりだったエルヴィンが、拒否するとは思わなかったので、クリスの思考は止まってしまう。
「俺は……俺は……」
エルヴィンの目に力がこもり、何か言いかけた時に、近くの部屋のドアが開いた。
「あら、ちょうどよかった。準備できたわよ。さぁ、入って」
エリゼ医師の登場で、エルヴィンは言葉を詰まらせてしまい、そのまま口を閉じた。
言いかけたことが気になったが、エリゼを待たせるわけにいかないので、クリスは診察室の中に入る。エルヴィンも大人しく、クリスの後に続いた。
「さてと、まずはバース性のチェックだけど、エルくんは、出生時の検査はアルファで間違いないのね」
「そうです。ただ、今は抑制剤も飲んでいませんし、フェロモンもないので、ベータになったのだと……」
診察室に入ってすぐに、エリゼは資料に目を通しながら、エルヴィンに確認をとった。
エルヴィンが勢いよく話し始めたところで、エリゼは手を前にして、待ってという合図をする。
「変異したと思っているのね。血液の検査と、フェロモン測定器の検査を確認したわ。貴方がアルファであることは間違いないわね」
「えっ!?」
想定していた答えが返ってこなかったからか、エルヴィンは口を開けて驚いた声を上げる。
「さっき、ベータに変わったと言ったけど、そう簡単にバース性が変異することはないわ。あるとしたら、無意識にベータを装うくらいかしら」
「装う、というのは?」
エルヴィンの後ろからクリスが声をかけると、エリゼは視線を上げた。
「ある特異な状況下において、アルファにだけ現れる防御反応とでもいうのかしらね。事前に貴方から聞いていた、朝と夜で別の人格になるって話がこれに関係あると思うわ」
ノアールの話になり、エルヴィンから息を呑む音が聞こえてくる。クリスにも緊張が伝わってきた。
「アルファ特有の防御反応が働くのは稀なことだけど、その原因として、幼い頃に他者から攻撃を受けるとか、強いショックを受けた時に身を守るためといわれているわ。成年期には見られないから、思春期特有の症状だといえる。無意識に本人が自分の人格を分けて、作り出したもう一人の自分という表現が近いかもしれない。人は様々な顔を持っているものよ。例えば、消極的で真面目な部分、開放的で明るい部分がそれぞれ独立してしまうとか……」
「つまり、ノアールの人格は元々エルヴィンの中にあった、ということですか?」
「そうね。そして主人格がエルヴィンなら、負の記憶はノアールが継いでいると考えるべきかも。測定器がわずかに反応したのは、残り香みたいなもの。おそらく、アルファとしての性は、全部ノアールが引き受けているのね」
「……先生、どう考えても、ノアールの方が強い存在になっている気がするのです。俺はこのまま、消えてしまうのでしょうか?」
「人格が統合されることはあるわ。例えば、ノアールの存在が増して、すべての時間に彼が現れるようになるとか……。そうすると、エルくんは永遠に眠った状態か、そのままノアールに吸収されるか。いずれにしても、まだ解明されていないことの方が多いから、そうなると断定はできない。とにかく気を強く持って、本来のアルファとしての自分を取り戻すことが大事よ」
もっと詳しく知りたいなら、精神の専門医を紹介すると言われて、エルヴィンは首を振った。
バース性はアルファだと言われ、ノアールの存在が増していることに、エルヴィンは強くショックを受けたように見える。ガックリと肩を落として項垂れていた。
エリザに落ち着くまで隣室で休んで行くように言われて、エルヴィンは先に部屋を出た。
エリゼから話があると言われたのでクリスは残ったが、エルヴィンが出て行ったのを確認した後、すぐに物言いたげな視線を感じた。
「ええと、すみません。急にこんな話を受けてもらって……」
「まったくよ。彼、私じゃ手に負えないわ。上級の先生方が、喜んで研究したがるような症例よ。ジャックの頼みじゃなかったら、引き受けなかったわ」
額に手を当てたエリゼは、指の隙間から鋭い視線をクリスに向けた。何もかも見透かされているようで居心地が悪い。
「これ、頼まれていたオメガ用の避妊薬よ。週に一度、水に混ぜて飲むように」
「ああ、ありがとうございます」
エリゼが机の中から取り出した小袋を、クリスが受け取ろうとすると、エリゼはスッと袋を自分の方に引いた。
「測定器から微弱だけどオメガのフェロモンも出たの。オメガのフェロモンが混じるのは、番がいる証拠よ。貴方の頸を噛んだのは彼ね? 正確にはノアールの方かしら」
「…………」
さすがエリゼだ。鋭い彼女はきっと、相談を持ちかけてきたところから、そう考えていたのだろう。
「まぁ、考える必要がないくらい、貴方達、お似合いに見えるわ。相性がいいっていうのも納得できる。十五で父親を亡くした貴方、一方彼も十二で父親を……。二人の人生は繋がっているみたい」
また変なことを言い出したエリゼの言葉を流して、クリスは避妊薬が入った袋に手を伸ばす。
今度は、ちゃんと受け取ることができた。
「気をつけなさい。ノアールだけど、たぶん、全部知っているわ」
「え……?」
「エルくんは頭の中でノアールと会話するそうね。それで、向こうから一方的に話しかけてきて、ノアールが出ている時に、自分は話しかけることができないのよね?」
「そう、みたいですけど……」
「似たような症例を聞いたわ。主人格から離れた別人格の方は、主人格が出ている時のことを見ているらしいわ。つまり、クリスは二人と別々に会って、分けて考えているみたいだけど、ノアールはエルくんと会っている時の貴方も知っている……。そう考えられるわ」
心臓がドクッと鳴って跳ね上がる。
ノアールが自分を知っていた、初めて会った時に、そんな素振りは全くなかった。
まさかという想いが駆け巡り、クリスの体を染めていく。
嘘だ、間違いだと思うほど、それは濃くなる。
「別人格は悪意を持って、貴方へ近づいたのかもしれない。例えば、エルくんを消し去るようなショックを与えるため、貴方を利用している。全て自分のものにしようと……」
「そんな……」
頸を噛んで、簡単に切れない関係を持つこと。
それすらも、ノアールの手中にあったものだとしたら……。
「俺の計画を知っていて、自分に近づくと察知したノアールが、わざとパーティーに潜入するために、情報を流した。そこに近づいて……関係を持って……。それがエルヴィンにショックを与えるため? 確かにアイツには何も言っていないけど、それくらいで……」
混乱して頭を抱えたクリスは、考えながらブツブツと話していたが、そんな様子を見て、エリゼはクスリと笑った。
「クリス、貴方は何も気づいていないの? それとも、気づいていて、知らないフリをしているのかしら?」
「え? 何ですか?」
「傷つくことから逃げていたら、何も得ることはできないわ。貴方がそんな人生でいいのなら、何も言わないけど、自分の心の内に聞いてみなさい。本当にそれでいいのかを……」
「あの……」
相変わらずエリゼの視線は強くて緊張してしまう。けれど、その中に少しだけ温かいものを感じた。
「それと、エルくんにも気を付けた方がいいわ。彼のアルファ性だけど、かなり強いものよ。王族のような支配階級……、それに匹敵するかも。薬である程度抑えることはできるけど、もし暴走でもしたら、周囲の人間はもちろん、自分自身も壊してしまうもしれない」
「そんな……いったいどうしたら……?」
「あまり刺激しないように、自然に少しずつ性を取り戻すのが一番だけど……それに本来は番が……」
エリゼがそこまで口にした時、助手が診察室に飛び込んできて、急患だと知らせてきた。すでに予定していた時間は過ぎていたので、クリスは頭を下げた後、ポケットに薬を入れてから立ち上がり、診察室を後にした。
色々なことが混じり過ぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
隣室で休んでいたエルヴィンに声をかけて、医術院から出ると、午後の暑い日差しが二人を照らした。
適当に食事をとった後、少し歩かないかとエルヴィンに言われて二人で公園を歩くことにする。
公園では子連れの親子が楽しそうに遊んでいる姿が見えた。子供の手に、木で作られた列車の玩具が握られていて、あれもカルバイン製品なんだろうなと、クリスはぼんやりと見つめた。
「アルファじゃないって認めてもらうつもりだったのに、逆になってしまったよ」
隣を歩いていたエルヴィンが立ち止まり、苦い顔で語り出したので、クリスも足を止める。
「……そう、気を落とすなよ。結婚のことは、今は複雑な気持ちだと思うけど――」
「おじさんと話すことにする。アルファではあったけど無理だ。やっぱり、結婚の話は断ってほしいって」
「えっ……」
エルヴィンの決意を聞いて、クリスの背中に冷たい汗が流れる。エルヴィンが結婚して、令嬢と番になることで、同じ体のノアールとクリスの番を解消することに繋がるのだ。
ここは考え直してほしいと言って説得するべきだと思ったが、クリスの喉は張り付くように乾いて、声が出てこない。
絶句してしまったクリスを、エルヴィンは真っ直ぐに見つめてくる。
その視線の強さに気づいたクリスは、心臓が高鳴っていくのを感じた。
「エルヴィン?」
「初めてなんだ。こんなに誰かと一緒にいたいと思えたのは……。カッコ良く助けてくれたと思ったら、明るく笑って、俺のくだらない話も何でも聞いてくれた。居心地がよくて、それがもっと一緒にいたいと思うまで、時間はかからなかった。毎日、今日は会えるかなって考えると、辛い仕事も楽しくて……」
エルヴィンの真剣な目、熱のこもった言葉や息遣い。すべてがクリスの全身を震わせる。
肌を伝うように、湧き上がっていく感情。
だめだ、だめだ。
止めなくてはいけない。
この先に進んでしまったら、もう戻れない。
やめろと言って、早く逃げるんだ!
頭の中でもう一人の自分が叫んでいる。もう一人の自分なんて、まるでノアールみたいだ。もしかしたら、誰にでもノアールのような存在がいるのかもしれない。
ただ、表に出ていないというだけで……。
「……アルノが好きなんだ。だから、他の人とは結婚できない。俺が一緒になりたいのは、アルノだけだ」
すべての音が消えて、世界に二人だけになったような感覚になる。
トクトクと心臓の音だけが頭に響く。
エルヴィンの後ろで、小さな蝶がひらひらと楽しそうに舞っている姿が見える。
いつか綺麗な心を持ち、真っ直ぐな目で一途に愛してくれる人が……。
前に、ミンス夫人に言われた言葉が、じんわりと肌に染み込んでくる。
孤独な人生を選んできたクリスは、もう二度と傷つくことはないと思っていた。
だけど、心の中で、エルヴィンという存在が大きくなっていく。
自分に向かって注がれる、真っ直ぐな愛に触れてみたい。手を伸ばしたい衝動に駆られたが、クリスはぎゅっと手を強く握ってそれに耐え続ける。
こんな自分が、エルヴィンの気持ちに答えることなどできない。
幻だったのか。
気がつくと、エルヴィンの周りを舞っていた蝶は消えていた。
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扉絵は写真ACより、チョコラテさまの作品(ID25481643)をお借りしています。
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