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本編

7、もう一人の男

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「だから、定期的に来なさいって言っていたのに……」
 氷のような視線を向けられて、クリスは苦い顔をした。
 白い壁で作られた診察室。目の前に座っているのは、この医術院の医術師である、エリゼだ。
 ダークブロンドの長い髪をキッチリと後ろで結んで、魅惑的な緑の目を、銀フレームの眼鏡で覆っている。
 人形のように整った外見は、彼女がアルファであると物語っていて、発せられる威圧的な空気はクリスが苦手とするものだった。
 つまり、優秀だが美人で冷たい医術師が怖くて、仕事を言い訳に足が遠のいていたのだ。
「あの、やはりこれは……」
「間違いないわね。相手と番関係になった証よ。ずいぶん独占欲が強そうなアルファだけど」
「独占欲って……彼とは、会って間もないくらいで……」
「それなら、運命の番かもね。抑制剤を飲んでいて効かないなんてことは、それしか考えられないわ」
「はぁ? それは、子供向けのお伽話じゃ……」
「この世に一人だけいる運命の相手。ロマンティックでいいじゃない。私は信じているのよ。まぁそれだけ、相性がいい相手だってことね」
 ロマンティックなんて、足で蹴ってやるわという強気な顔をしているのに、蠱惑的に微笑んだエリゼを見て、クリスは間の抜けた返事しかできない。
「とにかく、貴方が取れる道は二つ。その方と番として添い遂げるか、番関係を解消してもらうかね」
「嘘だろう……なんでこんなことに……。無視したらだめなんですか? 離れて会わないようにするとか……?」
「それは無理よ。番になるこということを、甘く考えてはダメ」
 こうなったら、今わかっていることだけを報告して、エルヴィンには近づかないようにしようと思っていたが、そうもいかないらしい。
 エリゼの真剣な雰囲気から、ただ事ではないと悟る。
「もともと不眠気味だったわね。もっと、眠れなくなったでしょう?」
「え?」
「番の側にいないことで、満たされないからよ。これは精神的な安定と、あらゆる欲求の充足に繋がる。逃げるくらいなら、ちゃんと解消するべきよ。そうでないと、……死ぬかも」
「…………え」
 エリゼの話を聞いて、クリスは言葉を失った。
 自分には関係のない話だと思っていたのに、その渦の中に突き落とされた気分だ。
「具体的にはどうやって解消するんですか?」
「アルファは番を何人も持つことができると言われているけど、それは妻と愛人みたいなものよ。つまり、アルファが他のオメガを噛めば、本命から外れる。そのまま近寄らなければ自然解消する。もしくは、単純にどちらかが死ねば解消」
 医院に行けばバース性について学ぶ機会なんていくらでもあったが、クリスは何となく避けてきた。
 改めて知った現実に、なんて厄介な繋がりなんだとクリスは額に手を当てた。
「貴方のバース性は安定していなかったけど、こういった失敗はよくあることよ。まだバース性についても研究が進んでいないから、わからないことも多い。落ち着いて相手のアルファと話し合ってみなさい」
 エリザに諭されて、クリスは素直に頭を下げた。
 自分だけは大丈夫だと考えてきたが、それがいかに傲慢であったかを思い知る。
 自分が本格的なヒートを起こして、エルヴィンを煽ってしまったことで、こうなったのだ。
 ヒート中何があったのか、クリスも途切れた記憶しかないし、相手もそうだろう。
 恋愛関係でもないのだから、頼めば解消してもらえるはずだ。
 クリスはそう考えた。


 医術院からの帰り道、クリスは酒場に寄って行くかと考えたが、さすがに今日は気まずいなと思って家に帰ることにする。
 帽子を深くかぶり、歩き出したところで肩を叩かれた。
「アルノ」
 その名前と声に思わず息を吸い込んで顔を上げる。
 隣に立っていたのは、エルヴィンだ。
「仕事で役場に来ていたんだ。こんなところで会えるなんて。アルノは?」
「俺は……医術院に……」
「え? 大丈夫? どこか悪いの?」
 本気で言っているのかと、耳を疑ってしまった。
 昨夜のことを覚えていないのか、忘れたフリをしているのか、まるで知らない顔をしているエルヴィンに、呆れてしまう。
「あのさ、昨日のことだけど……」
「ああ、昼飯を奢る話だろう? もう食べたか?」
「いや、まだ」
「じゃあ、これから行こうよ。近くにいい店があるんだ」
 おかしい。
 どう考えてもおかしい。
 この穏やかな笑顔を見せているエルヴィンが、本当に昨夜、自分を抱いて、朝になったら先に帰ってしまった男なのか。
 どういうつもりなのか知らないが、話に乗ってやろうとクリスは頷いた。

 エルヴィンに連れて来られたのは、町の中心にあるお洒落なカフェだ。
 平民から貴族まで、誰でも入れる雰囲気の静かな店だった。
 エルヴィンのおすすめ料理を食べて、食後のお茶が運ばれてきたところで、クリスは話を切り出すことにする。
 食事中は、まったく関係ない話題で話が進み、昨夜の件について、お互いに触れなかった。
「エルはさ、昨日の夜は何をしていたんだ?」
「え……昨日の夜?」
 エルヴィンは明らかに動揺した顔になった。
 いつも夕刻近くになると、慌てるようにして帰って行くので、パーティー三昧の日々をどう言い訳するのか聞いてみたかった。
 そしてもちろん、昨夜の醜態についても……。
「昨日は仕事で……、工場で夜勤をすることが多いんだ。昨日もずっと工場の中で作業をしていた」
 なぜ、嘘をつくのだろうか。
 会いに来いと言ったのは自分のくせに……。
 そこまで考えてクリスはハッと気がついた。会いに来いと言ったくせに、自分から話しかけて昼食に誘う人間がいるだろうか。
 こうなったらいよいよ、昼のエルヴィンと夜のエルヴィンが別人であるとしか思えない。
 考えたクリスは、仕掛けてみることにする。
「夜、町を歩いているときに、エルを見かけたんだ。女性と一緒で、話しかけたけど俺のことを知らないみたいで……」
 そこまで言った時、ガシャンとカップが皿にぶつかる音がした。
 顔を上げて見ると、カップはエルヴィンの手から落ちたようで、こぼれたお茶でクロスが濡れていた。そして、エルヴィンは手を震わせて青い顔をしている。
「ごめ……ごめんなさい」
「いや、謝ることは……聞こえなかったのかもしれないし」
「違うんだ。事情があって……、どうしても言えなくて……」
 きた、とクリスは頭の中で身を乗り出した。
 エルヴィンには生き別れの双子の兄弟がいて、今はお互い首都で暮らしながら、一緒に生活をしているとかだろうか。
 クリスの番になったアルファは、目の前のエルヴィンではなく、もう一人の……。
「何か困ったことか? 俺は別に何を言われても驚かないよ。むしろ、力になってやりたいと思う。エルは大事な友人だからな」
 そう言って笑うと、エルヴィンは口を手で押さえて、感動したような様子だった。
「だ……誰にも言ったことがないんだ。言わない方がいいって彼にも言われていて……でも、クリスなら……」
「彼? もしかして俺が見たのはエルじゃなくて、兄弟か?」
 元々双子の兄弟だったが、カルバイン男爵が引き取る時、二人も育てられないと一人を孤児院へ、そんな想像をしていたが、返ってきたのは予想外の答えだった。
「違う……。アルノが夜に見た俺は、俺だけど、俺じゃない」
「え? 何だよそれ」
「だから……上手く説明しづらいんだけど、俺の中にはもう一人の俺がいて、切り替わっているんだ」
「は? 体は一つだけど、人格? 意識が二つあるってことか?」
 自分で口にしながらも、クリスは夢物語でも話しているかのような感覚でいる。まさか、そんなことがあるわけない、変な冗談を言うなと喉まで出かかったところで、エルヴィンを見ると、ひどく怯えて悲しそうな顔をしていた。
 バカなことを言うなと笑うのは簡単だが、なぜだかそうすると、もう二度とエルヴィンに会えない気がした。
 小刻みに震える手をそっと見たクリスは、どうしたものかと思いながら、とりあえず話を聞くことにした。



「それじゃあ、毎日朝から夕方、夕方から朝にかけて、エルヴィンの中で、別々の人間が交代しているってことか?」
 簡潔にまとめてみると、エルヴィンはそうだと言って頷いた。
 荒唐無稽でとても信じられない話なのだが、昨夜会った男の態度や、小指につけたインクの件も、同じ人間だが、人格が違うと考えたら説明がついてしまう。
 信じかけている自分にしっかりしろと思いながら、クリスは首を振って息を吐いた。
「いつからかは覚えていない。気がついたら記憶がなくなることがあって、それが夜だと気づいた頃、彼が話しかけてきたんだ」
「彼、というのはもう一人の自分だな」
「そう、彼はノアールと名乗っている」
 心臓がドキッと揺れて、クリスは必死に動揺を隠した。昨夜聞いた名前で間違いない。
「入れ替わりは決まった時間じゃない、だいたい朝と夕方くらい。俺はノアールが起きている時、寝ているみたいな状態に近いと思う。だけど、少しだけ頭の中で会話することができる。ノアールから話しかけてきて、その日何があったとか、誰と会ったとか、簡単な内容だけ教えている」
「なるほど、ノアールは俺のことは知っているのか?」
 そう言うと、エルヴィンは苦い顔をして首を振った。
「ノアールは秘密が多いんだ。俺はいつも彼の指示に従って生きてきた。何でもノアールに話してきた。だけど、アルノのことは話したくなかった。ずっと俺ばかり何でも話しているのに、ノアールはちゃんと話してくれない。だから、アルノと会っていることは秘密にしているんだ」
 ノアールが秘密主義であることは、昨夜の出来事をエルヴィンに伝えていないことから本当だとわかる。
 エルヴィンの様子から、彼の中には二つの人格があり、エルヴィンはノアールにコントロールされて生きてきたと考えるのが近いだろう。
「ノアールは何でも知っていて、いつも的確なアドバイスをくれた。だから、ずっと頼りにしてきたけど、気づいたら、周りには誰もいなくて、人と上手く関わることができないし、もしかしたらこんな思いをするのはノアールのせいじゃないかって、思い始めて……それで……酒場に通うようになった」
 鬱屈した思いを晴らすように酒に逃げる。
 その構図は理解できたが、まだ本当に二つの人格があるなんてことが受け入れなれない。
「信じ……られないよね。俺だってこんな話、自分のことじゃなければ、夢でも見たんだろうって話していたと思う」
 悲しそうに笑ったエルヴィンを見て、とても簡単に否定することができない。
「その……病院とかは行ったのか?」
「行っていない。ノアールがダメだって言うから。誰かに相談したことはない。もちろん、おじさんにも。おじさんは俺と関わるのが嫌そうだから、こんな面倒なこと、とても言えない」
 ますます迷路に入ってしまった。
 これはいったいどういう報告をすればいいのか、見当もつかない。
「アルノにお願いがあるんだ。もし、夜の俺を見つけても近寄らないでほしい」
「え? どうして……?」
「ノアールのことが怖いんだ……。少しずつ支配されて、自分が消してしまいそうな気がして……危険なやつなのかもしれない」
「エル……」
 身を縮こませて震えているエルヴィンは、とても嘘をついているように見えなかった。
「ところで、エルヴィンのバース性を聞いてもいいか?」
「え? 俺? 生まれた時にアルファだって言われたけど、今はベータの間違いじゃないかって思っている。オメガとかの匂いも分からないし、ヒートを起こすとか、そういう感覚も全然分からないから……」
「薬も飲んでいないのか?」
「う……うん、一度もない」
「わかった。とにかく、一度検査に行こう。口が固くて、優秀な先生を知っている」
 気づいたら、クリスはそう口にしてた。
 どんどん迷路は深くなり、とてもじゃないが、自分で出口を探すのは不可能だと思った。
 クリスの言葉に、エルヴィンは少し考えた後、決意がこもった目になって、うんと頷いた。
 

 エルヴィンの話を信じるには、彼を訪ねるしかない。
 寝不足でフラつく体を無理やり動かして、夜を待って、クリスが向かったのは、エルヴィンの家だ。
 パーティーシーズンは終わったので、デートに行っていなければ、家にいてくれるはずだと思った。
 エルヴィンの家は、首都郊外の静かな邸宅地にあった。
 エルヴィンは、カルバイン家本宅からはすでに独立して、一人で暮らしている。
 白壁と黒い柱で造られた邸宅は、いかにもエルヴィンが住んでいそうなお洒落な造りをしていた。
 クリスの住むディナイト家の邸も改装しているが、見た目よりも住みやすさを重視しているので、統一感がない。
 きっちりと整えられた庭を抜けて、玄関までたどり着くと深呼吸してから、ドアノッカー使い、訪問を知らせた。
 外門を通ってから、庭園に植えられた花の匂いがやけに強いなと思っていた。
 しかし、ドアを叩いた時、その香りが強くなって、クリスは気づいてしまった。
 これは花の香りではない。
 あの男の匂いだ。
 ガチャリと音がして、ドアが開けられた。
 薄暗い室内に浮かび上がったのは、金色の髪をした美しい男の顔だ。
「待っていたよ」
 その言葉を聞いた瞬間、クリスの心に張り巡らされていた防御柵が崩れていく。
 おかしい。
 こんな感覚はおかしい。
 今まで乾いていたものが、大量の水で満たされていく。
 妖しげな微笑みに吸い寄せられるように、クリスは部屋の中に足を踏み入れた。
 パタンとドアが閉まる音が、頭の奥底に響いた。
 

 
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