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本編

6、情事の痕

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「お前……アルファ!?」
「あれ? 知っていて近づいてきたんじゃないの? わりと知られていると思っていた」
「お、俺が……オメガだとなぜ分かった!?」
「……だからさっきから言ってるけど。オメガの匂いだよ。君さ、抑制剤飲んでないの?」
「抑制剤? 飲んでいるに決まって……」
 そこまで考えて、クリスは口に手を当てた。
 抑制剤は家を出る前に、ミンス夫人が用意してくれた。
 抑制剤は紙に包まれた粉末状のもので、いつも通り飲んだはずだ。しかし、若者の集まるパーティーに行くと言った特、ミンス夫人が嬉しそうな顔をしたのを思い出す。
 早く相手を見つけろと言っていた夫人が、クリスに変な気を利かせて、効果のない薬を飲ませたとしたら……。
 いくら何でもそこまでするかと考えて、クリスは首を振る。
 抑制剤なんて、飲んでも飲まなくても同じだ。
 フェロモンを嗅ぐことはできるが、アルファのジャックにさえ、立派な無臭だと言われていた。
 クリスはチラリとエルヴィンの手を見て、印がはっきりと付いているのを確認した。
 エルヴィンがどうしてこんなことをしているのか知らないが、クリスは自分がアルノだと明かして、事態をおさめようと考える。
 クリスはそこで、エルヴィンと話していたら、体がおかしくなっていることに気がついた。
 ドクドクと心臓が激しく揺れ出して、息をするのが苦しい。
 なぜかよく分からないが、酒を口に含んだ時みたいに目の前が歪んで、思わずメガネを外したクリスは眉間を指で掴んだ。
「へぇ……眼鏡の趣味は悪いけど、中身は悪くないじゃないか。……むしろ、オメガらしくなくていいね……。その目の色……すごく唆る」
 どうしてだ?
 素顔を見られたというのに、エルヴィンはアルノだと気づかない。
 俺だ、正気に戻れと言いたいのに、目眩がしてしまい、クリスは机にもたれかかった。
「今日は収穫がなかったから、帰ろうと思っていたんだけど……気が変わった。少し、遊んでいかない? 僕達、相性が良さそうだよ」
「く……くっ、くるなぁ!」
 エルヴィンが近づいてきたので、クリスは後ろに下がったが、背中に壁が当たって逃げられなくなった。
 荒い息をしながら心臓に手を当てる。
 これはなんだと、初めての感覚が恐怖でしかない。
 答えを求めて、すがるようにエルヴィンを見上げると、エルヴィンはクスリと妖しく笑った。
「なんだ……、こうやって見ると、やっぱりオメガちゃんだ。しかも君の匂い、凄くいい……僕も興奮してきちゃった」
「あ……っ、ひっっ」
 エルヴィンの手が伸びてきて、スルリと下半身を撫でられた。
 信じられないことに、クリスのソコは反応して、ガチガチに硬くなっていた。
 発情期でないオメガがアルファのフェロモンを嗅ぐと、擬似ヒートと呼ばれる軽い発情状態になるが、もちろんクリスは擬似ヒートすら未経験だ。
 ズボンを押し上げているところを、エルヴィンが撫でてくるので、快感にぶるりと震えた。
 カチャカチャと音がして、クリスのズボンは足元に落ちてしまった。
「すご……、後ろも前もびしょびしょだ。期待していたの?」
「し……知らな……、なっ、なんでこんな……!?」
「知らない? もしかしてアルファは初めて? こんなエッチな体して、今まで抱かれたことがないの?」
 矢継ぎに質問されても、熱でぼんやりした頭では考えられない。
 エルヴィンを見上げると、彼は口元をペロリと舐めた。まるで獣が餌を前にして涎を垂らしているように見えてしまった。
「あ……あ……あつ……熱い……」
 近くでエルヴィンのフェロモンを吸い込んだら、体の熱が急上昇した。
 内部が爆発するような熱さになって、耐えきれずに息を吐き出すと、体中から何かが溢れたのを感じた。
「んっ……んんっ、これは……!? 急性のヒート!?」
 その瞬間、エルヴィンは少し体を離したが、大きく開いた目の瞳孔が縦に伸びたのが見えた。
 ギラリと光った得体の知れない目、そして、エルヴィンの口元から牙のような鋭い歯が見えて、クリスはゾクゾクとしてしまった。
「あ……あ……ああ……」
 絶対的な捕食者を前にして、食べられてしまいたいという欲求が、身体中から湧いてくる。
 なんとクリスは、エルヴィンのフェロモンを嗅いで、牙を見た瞬間に、触れることなく達してしまった。
 勢いよく飛んだ白濁が、エルヴィンの手の上に飛び散った。
 エルヴィンはそれを眺めた後、長い舌を出して、ペロリと舐めとった。
「ハァハァ……お前は、僕の……オメガ……逃がさない」
 目の前にいる男は、もうエルヴィンではなかった。
 理性を失った獣が、早く喰らい尽くしたいとクリスに襲いかかってきた。
 そして、獣は一人ではない。
 クリスもまた、とっくに理性を失っていた。
「食べ……食べて……私、食べてくださ……あ、んっ、ふぅんんっ」
 壁に押し付けられて、噛み付くように口付けされた。
 それが気持ちよくて、たまらない。
 もっともっと。
 腹の奥まで食べられたい。
 そんな思いで頭の中が真っ赤に染まり、クリスはただエルヴィンの背中にしがみついて、食べてくれと言い続けた。
 
 
 
 
 カタンと音を立てて、テーブルの上に小さな小瓶が置かれた。
 ベッドに座ったまま、呆然としていたクリスは、これを飲めと言われて目を見開いた。
 外は明るくなってきたが、まだ辺りは薄暗い。
 自分が置かれた事態が飲み込めなくて、震えた手で小瓶を手に取ったので、中の液体がカタカタと揺れた。
「毒じゃない。お互いヒート状態でこれだけシタんだ。飲んでおいた方がいい。ここには、そういった薬が用意されている」
 男の淡々とした説明に身を動かすと、後ろからドロっとしたものが大量に漏れる感覚がして、クリスはウッと声を漏らした。
「気になるなら、僕が少し飲んで……」
「いい」
 クリスは男の言葉を遮って、瓶の蓋を開けた後、ぐっと中の液体を飲み干した。
 甘くも苦くもない。喉をぬるりと滑り落ちていく液体の冷たさが、ひどく不快だ。
「……ヒート、だって?」
「ああ、周期的なものなら、一週間は続くけど、行為で落ち着いたから、急性の一時的なものだろう。僕も抑制剤は飲んでいたんだけどね。よほど相性が良かったのかな」
 そう言って微笑みながら、近づいてきた男はエルヴィンだ。
 クリスが座っているベッドに上がり、体を寄せてきた。
「相性は確かに良かったよね。最高のセックスだった。お互い我を忘れて、楽しんだじゃないか」
 耳元に息をかけられたクリスは、バッと腕を振ってエルヴィンから距離をとった。
 金色の瞳を細めて、エルヴィンを睨みつけると、彼はフッと笑って両手を挙げた。
「冷たいなぁ。あんなに愛し合ったのに」
「ばっ……、愛なわけがあるか! これは事故だ! こんなっ……こんなことになるなんて……」
 あまりに狼狽したクリスの様子を見て、エルヴィンは片眉を上げて首を傾げる。
「え……もしかして……ヒートが初めて?」
「そうだよ、俺のオメガ性は薄くて、時々ヒートもどきみたいな熱が出るくらいだった。抑制剤だって念のため飲んでいるだけで、こんな……こんなっっ」
 震えながら口元を押さえたクリスを見て、ふぅと息を吐いたエルヴィンは、自分の着ていたシャツを脱いで、クリスの肩にかけた。
「君の名前は教えてくれないの?」
「…………」
「まぁ、いいや。会いたくなったら邸に来て。ただし、昼間は都合が悪いから、必ず夜にね。それと、僕のことを呼ぶ時は、ノアールと呼んで」
 そう言ってエルヴィンは、クローゼットから新しい服を取り出し、手早く身支度を済ませた。
「え……ノアール?」
「そう、僕の名前」
 耳元でエルヴィンが囁く。
 頭の中で反芻して、どういうことだとクリスが顔を上げた時、すでにエルヴィンの姿は部屋から消えていた。
 ベッドの上の乱れた光景を前にして、何も考えられなくなり、クリスは自分の肩を抱いた。
 クリスはベッドにうずくまったが、頭が混乱し過ぎて痛くなってしまう。無意識にエルヴィンがかけてくれたシャツを掴んで息を吐いた。
 


 何度目かわからないため息をついた時、目の前のテーブルにお茶の入ったカップを置かれた。
「顔色が悪いですよ。少し休憩されてはいかがですか?」
「ああ、ありがとう。ミンス夫人」
 手伝いに来てくれたミンス夫人にお礼を言って、カップを口に運んだ。
 温かいお茶が体に染み込んでくると、呼吸が楽になった気がする。
 昨夜は大変なことになってしまった。どこもかしこも体が痛くて悲鳴を上げいる。
 対象者と寝るなんてことは今まで一度もない。
 しかも相手は男で、自分がオメガとして抱かれたのだ。
 オメガの発情期は周期的にあるが、相性のいい相手に出会うと、周期の枠を飛び越えて、急性ヒートを起こすと聞いたことがある。
 しかし、それはかなり稀なことで、しかもクリスは他人に発情することが初めてだったのだ。
 何もかもが信じられない。
 体を使って
「ああ、ジャックになんで言えば……」
 報告書に男もイケるらしいと記入するところを想像して、クリスは頭を抱える。
 今まで体を使って、周囲の女性から話を聞き出したことはあった。しかし、素行調査の対象者と関係を待つなんて、バレたら契約どころの話ではない。
 考えてもまだよくわからないことだらけだ。
 エルヴィンとは昼間に飲み仲間となり、友人として関係を築いていた。
 素顔を見せているから、あの場でアルノと呼ばれてもいいはずだ。
 それなのに、エルヴィンは最後までアルノと呼ばなかった。しかも、名前を教えてくれとまで言ってきた。
 平民アルノとの友人関係を周囲に知られたくなかったとしても、二人きりのあの状態でまだ、知らないという小芝居を続ける必要があったのだろうか。
 小指についたインクの染みの形まで、クリスはしっかり記憶していて、間違いなく本人であると確信した。
 クリスは、手元にあるエルヴィンについての資料をペラペラとめくってみたが、やはり彼に兄弟や血縁者は存在しないと書かれている。
 念のため調べてみたが、ノアールという名前も関係者にはいなかった。

 エルヴィンの父親は彼が子供の頃に亡くなっているが、それは他殺だった。そして、その発見者がエルヴィンとなっている。
 エルヴィンは犯人を見た可能性もあるが、当時の精神状態はひどいもので、明瞭な証言を得ることができずに捜査は難航し、結局犯人は捕まっていない。
 子供時代に壮絶な経験をし、養父に育てられた。
 そういう意味では自分と似たようなところがあると思っていた。
 だからと言ってあんなことに……。
「今のお仕事、上手くいっていないのですか?」
 首を振って唸っていたら、ミンス夫人が心配そうな顔で話しかけてくる。
 クリスは大丈夫と言って笑って見せたが、ミンス夫人の表情は曇ったままだ。
「そうだ、薬院から抑制剤をもらってきましたよ。そろそろ少なくなってきたので」
 そう言ってミンス夫人は、薬棚に抑制剤の入った紙袋を入れる。その様子を見ながら、クリスはまさかなと思って頭を下に向けた。
 いくら気にかけてくれていても、勝手に薬を変えるなんてことはしないだろう。
 そう考えると、あのヒートは、本能的に起こったもので、止められなかった。まさに事故だと思うしかない。
 考えていても仕方がない。
 とにかく出かけようとクリスが立ち上がると、仕事を終えたミンス夫人が帰るところだった。
「お出かけですか? 着替えは手伝いますか?」
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから。今日はありがとう」
「いえ、少しでもいいので寝てくださいね」
「分かった。それじゃ」
 ミンス夫人を見送ったクリスはドアに向かって息を吐いた。体はボロボロで疲れ切っているのに、少しも眠れない。
 こうなったら、無理矢理でも体を動かして、気絶するように眠るしかない。
 鏡の前に立ったクリスは、いつものように寝巻きを脱いで外出用のシャツを手に取った。
 体中ヒリヒリするが、やけに背中の方が痛くて触ってみると、ぼこぼこと皮膚が割れているような感触がした。
「こ……これは……ひどいな」
 嫌な予感がして、慌てて背中を鏡に映すと、噛み痕だらけだった。そして、一番目立つのが、うなじにハッキリと残った歯の痕だ。
「あいつ……なんてことをしてくれたんだ。……獣かよ」
 人前で脱ぐことなどないが、痕が残ってしまいそうだと思った時、重要なことに気がついて体がぶるりと震えた。
「うなじ……? うなじに噛み痕だって!? これってまさか!!」
 ありえない事実に呆然としたクリスは、うなじに手を当てたまま膝から崩れ落ちた。
 ヒートのない自分には関係ないことだと思っていた。アルファのフェロモンにあてられることもなく、そもそもオメガだと気付かれない。
 だから一生関係ないものだと思って、防衛策など施してはいなかった。
 多くのオメガは、ヒートで不特定多数を誘惑してしまうので、首を保護するものを巻いている。
 見境なく相手を刺激してしまうため、望まない番契約を結ばないためだ。
 番とは、オメガがアルファとの間に結ばれるもので、夫婦の関係になることをを示す。
 かつて獣の頃、アルファは群れのリーダーとしてたくさんのメスを従えていが、その名残りだ。
 オメガはうなじを噛むことで番となり、お互い性衝動に悩まされることなく、番同士の間でのみヒートを起こすことになる。
 アルファだけは、番を複数持ち、番関係を解消することができるという、オメガとしてはなんともひどい契約だと思う。
 しかしこれで、見境なく誰でも誘惑するフェロモンを撒き散らすことがなくなるので、アルファを探して番関係を結ぶことを求めるオメガもいると聞いた。
 大変だなと他人事のように考えていたのに、まさか自分が当事者になるとは思わなかった。
 ヒートの行為中に頸を噛まれたので、エルヴィンと番になってしまった。
 体は痛いが他に変化はなく、本当にそうなったのかよくわからず、クリスにあるのは中途半端な知識だけで、まったく使い物にならない。
「くそっ、診てもらうしかないか……」
 重い体に鞭を打ち、なんとか着替えたクリスは、馴染みの医師の元へ向かうことにした。
 

 
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