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本編
5、パーティー潜入
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エルヴィンはしばらく無言で歩いていたが、人の少ない川沿いの公園までたどり着くと、近くのベンチに座った。
何かあるのかと少しだけ警戒したが、クリスもその隣に座ることにする。
腰を下ろすとすぐに、エルヴィンは口を開いた。
「アルノと飲み友達になって、しばらく経つけど、俺はもともと人と話すのが苦手で、こんな風に話せるような相手は、いなかったんだ。だから、すごく嬉しいんだ。ありがとう」
エルヴィンの口からお礼の言葉が出てきて、身構えていたクリスは面食らってしまった。
どう反応したらいいのか、戸惑っていると、エルヴィンはおもむろにずっとかぶっていた帽子を脱いで、クリスの前に素顔をさらした。
一本一本が輝く金糸のような美しい髪に、恐ろしいほど整った顔、目が覚めるようなほど青い瞳。
エルヴィンはどこからどう見ても、完璧なアルファに見えた。
匂いがない。
それが謎だ。
「自分だけ、顔を隠しているみたいで嫌だったんだ。アルノの前では、ちゃんとした自分でいたい。俺の名前はエルヴィン・カルバイン。カルバイン鉄道で働いていて、父の影響で色んな人が近づいてくるから、ちゃんと言えなかった……ごめん」
嘘だろうとクリスは目を瞬かせた。
驚いた様子のクリスを見て、カルバインの名を知ったからだろうとエルヴィンは受け取ったようだ。
家名だけ一人歩きしているけど、俺自身は大した人間じゃないと付け加えた。
「騙していてごめん……。友人として、嫌いになってほしくなくて……傲慢だよな」
「何を言っているんだ。お前は最初からエルだ。俺のくだらない話にも、笑ってくれる気のいいやつ。そっちの気取った名前を聞いても変わらない」
「アルノ……」
「ただ、そうだな。今度はちょっとお高い店で、ディナーでも奢ってもらうかな」
「わ、わかった。もちろんだよ。仕事の関係で夜は難しいから、ランチでよければ。こういう所のお店も美味しいけど、アルノを連れて行きたい店があったんだ。次は一緒に行こう!」
素性を明かせてスッキリしたのか、エルヴィンは今まで以上に明るい笑顔を見せてくれる。
どこか漂っていた暗さが晴れて、楽しそうに笑うエルヴィンを見て、クリスは心の中でため息をついていた。
これでは本当に、ただの臆病で純粋、真面目な男にしか見えない。
夜の彼はいったいどういうことなんだと、混乱で眩暈がしそうだ。
こうなったら、パーティーに潜入して探るしかない。
クリスはそちらの手配に動くことにした。
夜の帳が下りて、華やかな装いの男女がパーティー会場に集まってきた。
若い貴族達が親しげに肩を寄せて語らい合う中、クリスはトレーを持ちながら、会場内をくるくると動き回っている。
クリスは地味な給仕服に、いつもは後ろに撫で付けている前髪をたらし、大きな眼鏡をかけて目元を目立たないようにしていた。
貴族のパーティー会場に給仕として潜入した目的は、もちろん羽目を外したエルヴィンを近くで確認することだ。
近々王都で開かれるパーティーの招待客リストを、ジャックに頼んで取り寄せてもらった。
そこにエルヴィンの名前が載っているパーティーを見つけて、ジャックの紹介を使って潜り込んだ。
平和な世を謳歌する貴族達は、毎晩のようにパーティーを開いているので、どこの家でも臨時で給仕を募集している。
本来なら面倒が起こらないように、バース性の証明書が必要なのだが、忙しいのかチェックされることもなかった。
もちろん、偽造した証明書を持参していたが、使わずに処分した。
クリスはグラスを回収しながら、会場を見渡す。
対象者はまだ来ていないようだ。
今夜は若い貴族の交流を目的としたパーティーのようだが、かなり人が集まっている。
今までパーティーの類には、ジャックの付き合いで数回参加した程度だ。
わざわざ参加費を払ってまで、知らない連中と話すなんて、クリスにはとても楽しいとは思えない。
美しい女性に男達が群がって、必死に話しかけている光景を見て、くだらないと頭の中で悪態をついた。
クリスは仕事のためなら、女性と寝ることもある。
誰かに強要されたわけではない。
ただ単に、その方が効率がいいと思う時はそうする。
愛だの恋だのと、そんな感情を抱いたことはないし、これからも知ることはないだろう。
面倒な感情に振り回されて、失敗してきたやつを何人も知っている。
あんなやつらのようにはなりたくない。
その気持ちの中に苦い思いを感じたが、クリスは気づかないようにして目を閉じた。
その時、会場の入口が開いて、女性達の歓声が響いた。
両手に花を添え、大注目の中、入場してきたのはエルヴィンだ。
両隣の女性の頬にキスをして、さっそく悲鳴のような声が湧き上がる。
その光景を見たクリスは、おいおい人と話すのが苦手だと言っていたあの口はなんだったのかと、力が抜けそうになる。
エルヴィンの周りだけ、光が当たって輝いているように見えて、あれが本当に同じ男かと、本人の肩を叩いてやりたくなった。
しかしまだ、昼間のエルヴィンとは別人で、隠された双子説もあり得る。
そのためにクリスは、昼にエルヴィンに会った時、気づかれないように小指にインクをつけておいた。
本人は仕事中についたものだと思うだろうが、洗ってもなかなか取れないので、まだついているはずだ。
人波をかき分けて、クリスは慎重にエルヴィンに近づいた。
到着して早々、女に囲まれているので、鼻の下を伸ばしてデレデレしているのかと思ったが、近づいて見ると意外にも表情は無に近い。
むしろどこか冷めていて、ウンザリしているようにも見えた。
モテ過ぎる男も苦労するってやつかと思いながら目線を下に向けると、エルヴィンの手には黒い手袋が着けられていた。
クリスはしまったと目をつぶった。
最近の流行ではないが、パーティーの装いで手袋を着けている男は多い。
昼間のエルヴィンのイメージが強くて、お洒落になど無関心かと勘違いしていた。
これでは、同一人物なのか確認する方法がなくなってしまった。
仕方なくここは、エルヴィンのパーティーでの振る舞いについて監視するしかない。
この場で女性にモテることを楽しむだけの男なら、独身時代のお遊びとして伯爵夫妻も黙認するだろう。
婚約した後は、控えればいいだけだからだ。
しかし、複数の相手と享楽に耽ることや、怪しげな薬に手を出したり、犯罪に手を染めたりしたら話は別だ。
いくらカルバイン家の令息だとしても、名声が地に落ちてしまう。
由緒正しい貴族の家なら、プライドに傷がつくことを最も嫌うはずだ。
さて、どう出るかなと思いながら、クリスは真面目に仕事をするフリをしつつ、エルヴィンを監視し続けた。
夜も深い時間になったが、パーティーは続いている。
さすがに人が帰り始めているが、エルヴィンは令嬢達とダンスを踊り、運ばれてくるワインを水のように飲み干している。
底なしの体力を見せつけられて、アイツは化け物かと頭の中で叫んだ。
そろそろ動く頃かもしれない。
ここは貴族が自由に使えるパーティー会場で、宿泊用の部屋が備えられている。
つまり、手早くお持ち帰りすることができるという、遊び人にはぴったりの施設である。
貴族同士の繋がりもあるので、遊び相手の令嬢の名前を、依頼人は知りたがるはずだ。
今夜のお相手は誰だと目を光らせていたら、背中に声をかけられた。
「君、ワインをもらえるかな」
声をかけてきたのは、エルヴィンだ。令嬢と踊り終えたばかりだが、喉が渇いたのかもしれない。
「はい、こちらを……」
クリスはトレーに載せていたワインのグラスを取って、エルヴィンに手渡した。
エルヴィンは当然、使用人のことなど背景のようにしか見ていない。
そう思っていたのに、グラスを渡した時、わずかに目が合った気がした。
気づかれたかと思ったが、それは一瞬で、エルヴィンの視線はすぐにワイングラスに注がれて、エルヴィンは躊躇いなくそれを一気に飲み干した。
空になったグラスを差し出されたので、無言で受け取ったクリスは、すぐに頭を下げてエルヴィンから離れる。
近くで観察するつもりだが、近過ぎてもいけない。
空気のように対象の周囲を漂う。
決して匂わせてはいけない。
これが、鉄則だとジャックからも教わってきた。
エルヴィンの方は、また別の令嬢と踊り始めた。踊りながら耳に口を寄せて、何か熱心に視線を向けている。
口説こうとしているのかもしれないが、意外なことに令嬢は首を振って、エルヴィンは残念そうな顔をした。
おいおい、フラれたのかよと思って、心の中でほくそ笑んだら、視線を感じてクリスはわずかに身を揺らした。
見られている。
誰かに……
「君、少しばかり背がデカいけど、可愛い顔をしているね」
緊張で体を強張らせた時、前に人が立った気配がした。
顔を上げると、目の前に招待客の男が立っていた。
真っ赤な顔をして、ひどく酔っているように見える。
「しかし趣味の悪い眼鏡だ。これはいけないな。まぁ今夜はお前でいい、相手をしろよ」
「仕事中なので」
声をかけてきた男の友人なのか、周りの連中がクスクスと笑っているところからして、男はフラれてヤケになっているように見える。
男にもフラれたぞと、周囲の連中が笑ってきたので、勘弁してくれと怒りが湧いてくる。
こんな男に構っている暇はないので、クリスは逃げようとしたが、前をふさがれた。
「チッ、使用人のくせに! 生意気だぞ!」
クリスが無視して通り過ぎようとしたので気に障ったようだ。男が拳を掲げたのが見えた。
こんな場所でなければ、こっちだって殴ってやりたくなる相手だが、今は使用人の立場なので手を出すことはできない。
クリスは目立ちたくないが、一発くらいくらっておくかと目をつぶる。
その時……。
「失礼、何かありましたか?」
優美な声色が聞こえてきて、薄く目を開けると、男とクリスの間に立っていたのは、エルヴィンだった。
にっこりと作ったような笑みを張り付けて、話しかけてきた。
「おまっ……カルバインの……」
「何か揉めていたようだったので」
「っっ! お前には関係……」
「あちらの女性達が、家まで送ってくれる男性を探しているみたいですよ。手配した馬車が来られなくなったそうです。よければどうですか?」
険悪な空気になりかけたが、エルヴィンが指差した方向には、美しい女性達が集まっていた。
それを見た男から、一気に威嚇の気配が消えて、これはチャンスだという顔になり、周りの仲間を引き連れて女性達の元へ急いで歩いて行った。
エルヴィンの機転で助かったと思った時、男達の方を向いていたエルヴィンが、くるりと振り向いた。
お礼を言おうとクリスも一歩前に出たので、エルヴィンの手がトレーに当たってしまった。
「あ……っっ!」
トレーにはワイングラスが一つ載っていた。バシャっと中身が溢れて、それがエルヴィンの手袋にかかった。
「申し訳ございません!」
「いや、いいよ。急に振り向いた、こちらの不注意だ」
グラスは床に落ちることなく、トレーの上で留まったが、溢れたワインはエルヴィンの服にまで飛んでいた。
「失礼しました。今拭くものを……」
「うーん、ベタベタしているから、着替えたいな」
クリスが慌てていたら、給仕長が出てきて着替えのある部屋に案内しますと声をかけてきた。
こういった場では、客の要望に応えるために、様々な準備がされている。
ホッとしていたら、エルヴィンはクリスの方を向いて、手招きしてきた。
「君も、汚れただろう。一緒においで」
そう言われて見れば、クリスの服にもワインが飛んでいた。しかし、これ以上近づきたくないので、自分は結構ですと言おうとしたら、給仕長に早くしなさいと促された。
使用人は客の要望に応えること。
そんな目で見られて、仕方なく後について歩いた。
会場の二階まで来たら、一番奥の部屋で給仕長は足を止めた。
「こちらは宿泊用の部屋になっております。服はクローゼットの中に、他に必要なものがあればいつでもお呼びください。ほら、お前、自分のミスなのだから、しっかり手伝いなさい」
大きなベッドが置かれた広い部屋を、クリスはぼけっと見ていたが、給仕長の声で我に返った。
置いていかないでくださいと言いたかったのに、給仕長は説明だけしてさっさと出て行ってしまった。
パタンとドアが閉まったので、もしかしたら気づかれたかとクリスは息を呑んだ。
その時、バサっと音がして、エルヴィンが近くのテーブルに、手袋を置いたところが見えた。
クリスは小指に残ったインクのしみを見逃さなかった。
やはり、この男は、クリスが昼間も会っているエルヴィンに間違いない。
何か言われたら、金が必要になって紹介されたといえばいい。
そう頭の中で繰り返していたが、エルヴィンはいっこうに話しかけてこなかった。
しかも、いつの間にかシャツを脱いで下着姿になっていたので、驚いてしまった。
「よかった、下着までは濡れていなかったよ。君も着替えたら?」
「はい……」
ここまで来て断るのはおかしいので、クリスも着替えることにして、まずはベストを脱いだ。
次にシャツのボタンに手をかけて、襟元から外していくと、呼吸が楽になって一息ついた。
「やっぱり……」
一人で着替えている気になっていたが、この男がいたのを忘れていた。
何か知っていたような物言いに、ついにアルノと呼ばれると思った。
こんなところで会うなんて奇遇だな、と言おうとしたら、エルヴィンの口から出たのは予想外の言葉だった。
「君、オメガだったんだね」
耳のすぐ横で響いた声に、クリスはビクッと肩を揺らした。
今、この男は何と……。
「珍しいね。給仕は、トラブルを避けるために、ベータであるのが一般的なのに。それとも、わざと誰かを誘惑するために、入り込んだのかな?」
「なっ……!」
「どこからか、甘い匂いがプンプンするから、アルファは気にしていたよ。誰か気がついたのは僕だけだったみたいだけど、僕は鼻がいいから」
「匂い……だって? そんなバカな……」
「大人しく付いてきたってことは、狙いはウチかな? 悪いけど、社の取引きとか僕は権限がないし、他を当たった方がいいよ」
今まで優男といった感じだったのに、耳元で話している声は、ゾッとするくらい冷たく感じた。
そして、近くに寄ったことで、クリスも気がついてしまった。
鼻をくすぐるような匂いが漂ってくる。
香水とは違う、鼻の奥、体の中心まで響いてくる匂い。
これは……間違いなく、アルファのフェロモンだ。
頭の中を突き抜け、肌が痺れるほどの匂いに、クリスは思わず鼻をふさいだ。
何かあるのかと少しだけ警戒したが、クリスもその隣に座ることにする。
腰を下ろすとすぐに、エルヴィンは口を開いた。
「アルノと飲み友達になって、しばらく経つけど、俺はもともと人と話すのが苦手で、こんな風に話せるような相手は、いなかったんだ。だから、すごく嬉しいんだ。ありがとう」
エルヴィンの口からお礼の言葉が出てきて、身構えていたクリスは面食らってしまった。
どう反応したらいいのか、戸惑っていると、エルヴィンはおもむろにずっとかぶっていた帽子を脱いで、クリスの前に素顔をさらした。
一本一本が輝く金糸のような美しい髪に、恐ろしいほど整った顔、目が覚めるようなほど青い瞳。
エルヴィンはどこからどう見ても、完璧なアルファに見えた。
匂いがない。
それが謎だ。
「自分だけ、顔を隠しているみたいで嫌だったんだ。アルノの前では、ちゃんとした自分でいたい。俺の名前はエルヴィン・カルバイン。カルバイン鉄道で働いていて、父の影響で色んな人が近づいてくるから、ちゃんと言えなかった……ごめん」
嘘だろうとクリスは目を瞬かせた。
驚いた様子のクリスを見て、カルバインの名を知ったからだろうとエルヴィンは受け取ったようだ。
家名だけ一人歩きしているけど、俺自身は大した人間じゃないと付け加えた。
「騙していてごめん……。友人として、嫌いになってほしくなくて……傲慢だよな」
「何を言っているんだ。お前は最初からエルだ。俺のくだらない話にも、笑ってくれる気のいいやつ。そっちの気取った名前を聞いても変わらない」
「アルノ……」
「ただ、そうだな。今度はちょっとお高い店で、ディナーでも奢ってもらうかな」
「わ、わかった。もちろんだよ。仕事の関係で夜は難しいから、ランチでよければ。こういう所のお店も美味しいけど、アルノを連れて行きたい店があったんだ。次は一緒に行こう!」
素性を明かせてスッキリしたのか、エルヴィンは今まで以上に明るい笑顔を見せてくれる。
どこか漂っていた暗さが晴れて、楽しそうに笑うエルヴィンを見て、クリスは心の中でため息をついていた。
これでは本当に、ただの臆病で純粋、真面目な男にしか見えない。
夜の彼はいったいどういうことなんだと、混乱で眩暈がしそうだ。
こうなったら、パーティーに潜入して探るしかない。
クリスはそちらの手配に動くことにした。
夜の帳が下りて、華やかな装いの男女がパーティー会場に集まってきた。
若い貴族達が親しげに肩を寄せて語らい合う中、クリスはトレーを持ちながら、会場内をくるくると動き回っている。
クリスは地味な給仕服に、いつもは後ろに撫で付けている前髪をたらし、大きな眼鏡をかけて目元を目立たないようにしていた。
貴族のパーティー会場に給仕として潜入した目的は、もちろん羽目を外したエルヴィンを近くで確認することだ。
近々王都で開かれるパーティーの招待客リストを、ジャックに頼んで取り寄せてもらった。
そこにエルヴィンの名前が載っているパーティーを見つけて、ジャックの紹介を使って潜り込んだ。
平和な世を謳歌する貴族達は、毎晩のようにパーティーを開いているので、どこの家でも臨時で給仕を募集している。
本来なら面倒が起こらないように、バース性の証明書が必要なのだが、忙しいのかチェックされることもなかった。
もちろん、偽造した証明書を持参していたが、使わずに処分した。
クリスはグラスを回収しながら、会場を見渡す。
対象者はまだ来ていないようだ。
今夜は若い貴族の交流を目的としたパーティーのようだが、かなり人が集まっている。
今までパーティーの類には、ジャックの付き合いで数回参加した程度だ。
わざわざ参加費を払ってまで、知らない連中と話すなんて、クリスにはとても楽しいとは思えない。
美しい女性に男達が群がって、必死に話しかけている光景を見て、くだらないと頭の中で悪態をついた。
クリスは仕事のためなら、女性と寝ることもある。
誰かに強要されたわけではない。
ただ単に、その方が効率がいいと思う時はそうする。
愛だの恋だのと、そんな感情を抱いたことはないし、これからも知ることはないだろう。
面倒な感情に振り回されて、失敗してきたやつを何人も知っている。
あんなやつらのようにはなりたくない。
その気持ちの中に苦い思いを感じたが、クリスは気づかないようにして目を閉じた。
その時、会場の入口が開いて、女性達の歓声が響いた。
両手に花を添え、大注目の中、入場してきたのはエルヴィンだ。
両隣の女性の頬にキスをして、さっそく悲鳴のような声が湧き上がる。
その光景を見たクリスは、おいおい人と話すのが苦手だと言っていたあの口はなんだったのかと、力が抜けそうになる。
エルヴィンの周りだけ、光が当たって輝いているように見えて、あれが本当に同じ男かと、本人の肩を叩いてやりたくなった。
しかしまだ、昼間のエルヴィンとは別人で、隠された双子説もあり得る。
そのためにクリスは、昼にエルヴィンに会った時、気づかれないように小指にインクをつけておいた。
本人は仕事中についたものだと思うだろうが、洗ってもなかなか取れないので、まだついているはずだ。
人波をかき分けて、クリスは慎重にエルヴィンに近づいた。
到着して早々、女に囲まれているので、鼻の下を伸ばしてデレデレしているのかと思ったが、近づいて見ると意外にも表情は無に近い。
むしろどこか冷めていて、ウンザリしているようにも見えた。
モテ過ぎる男も苦労するってやつかと思いながら目線を下に向けると、エルヴィンの手には黒い手袋が着けられていた。
クリスはしまったと目をつぶった。
最近の流行ではないが、パーティーの装いで手袋を着けている男は多い。
昼間のエルヴィンのイメージが強くて、お洒落になど無関心かと勘違いしていた。
これでは、同一人物なのか確認する方法がなくなってしまった。
仕方なくここは、エルヴィンのパーティーでの振る舞いについて監視するしかない。
この場で女性にモテることを楽しむだけの男なら、独身時代のお遊びとして伯爵夫妻も黙認するだろう。
婚約した後は、控えればいいだけだからだ。
しかし、複数の相手と享楽に耽ることや、怪しげな薬に手を出したり、犯罪に手を染めたりしたら話は別だ。
いくらカルバイン家の令息だとしても、名声が地に落ちてしまう。
由緒正しい貴族の家なら、プライドに傷がつくことを最も嫌うはずだ。
さて、どう出るかなと思いながら、クリスは真面目に仕事をするフリをしつつ、エルヴィンを監視し続けた。
夜も深い時間になったが、パーティーは続いている。
さすがに人が帰り始めているが、エルヴィンは令嬢達とダンスを踊り、運ばれてくるワインを水のように飲み干している。
底なしの体力を見せつけられて、アイツは化け物かと頭の中で叫んだ。
そろそろ動く頃かもしれない。
ここは貴族が自由に使えるパーティー会場で、宿泊用の部屋が備えられている。
つまり、手早くお持ち帰りすることができるという、遊び人にはぴったりの施設である。
貴族同士の繋がりもあるので、遊び相手の令嬢の名前を、依頼人は知りたがるはずだ。
今夜のお相手は誰だと目を光らせていたら、背中に声をかけられた。
「君、ワインをもらえるかな」
声をかけてきたのは、エルヴィンだ。令嬢と踊り終えたばかりだが、喉が渇いたのかもしれない。
「はい、こちらを……」
クリスはトレーに載せていたワインのグラスを取って、エルヴィンに手渡した。
エルヴィンは当然、使用人のことなど背景のようにしか見ていない。
そう思っていたのに、グラスを渡した時、わずかに目が合った気がした。
気づかれたかと思ったが、それは一瞬で、エルヴィンの視線はすぐにワイングラスに注がれて、エルヴィンは躊躇いなくそれを一気に飲み干した。
空になったグラスを差し出されたので、無言で受け取ったクリスは、すぐに頭を下げてエルヴィンから離れる。
近くで観察するつもりだが、近過ぎてもいけない。
空気のように対象の周囲を漂う。
決して匂わせてはいけない。
これが、鉄則だとジャックからも教わってきた。
エルヴィンの方は、また別の令嬢と踊り始めた。踊りながら耳に口を寄せて、何か熱心に視線を向けている。
口説こうとしているのかもしれないが、意外なことに令嬢は首を振って、エルヴィンは残念そうな顔をした。
おいおい、フラれたのかよと思って、心の中でほくそ笑んだら、視線を感じてクリスはわずかに身を揺らした。
見られている。
誰かに……
「君、少しばかり背がデカいけど、可愛い顔をしているね」
緊張で体を強張らせた時、前に人が立った気配がした。
顔を上げると、目の前に招待客の男が立っていた。
真っ赤な顔をして、ひどく酔っているように見える。
「しかし趣味の悪い眼鏡だ。これはいけないな。まぁ今夜はお前でいい、相手をしろよ」
「仕事中なので」
声をかけてきた男の友人なのか、周りの連中がクスクスと笑っているところからして、男はフラれてヤケになっているように見える。
男にもフラれたぞと、周囲の連中が笑ってきたので、勘弁してくれと怒りが湧いてくる。
こんな男に構っている暇はないので、クリスは逃げようとしたが、前をふさがれた。
「チッ、使用人のくせに! 生意気だぞ!」
クリスが無視して通り過ぎようとしたので気に障ったようだ。男が拳を掲げたのが見えた。
こんな場所でなければ、こっちだって殴ってやりたくなる相手だが、今は使用人の立場なので手を出すことはできない。
クリスは目立ちたくないが、一発くらいくらっておくかと目をつぶる。
その時……。
「失礼、何かありましたか?」
優美な声色が聞こえてきて、薄く目を開けると、男とクリスの間に立っていたのは、エルヴィンだった。
にっこりと作ったような笑みを張り付けて、話しかけてきた。
「おまっ……カルバインの……」
「何か揉めていたようだったので」
「っっ! お前には関係……」
「あちらの女性達が、家まで送ってくれる男性を探しているみたいですよ。手配した馬車が来られなくなったそうです。よければどうですか?」
険悪な空気になりかけたが、エルヴィンが指差した方向には、美しい女性達が集まっていた。
それを見た男から、一気に威嚇の気配が消えて、これはチャンスだという顔になり、周りの仲間を引き連れて女性達の元へ急いで歩いて行った。
エルヴィンの機転で助かったと思った時、男達の方を向いていたエルヴィンが、くるりと振り向いた。
お礼を言おうとクリスも一歩前に出たので、エルヴィンの手がトレーに当たってしまった。
「あ……っっ!」
トレーにはワイングラスが一つ載っていた。バシャっと中身が溢れて、それがエルヴィンの手袋にかかった。
「申し訳ございません!」
「いや、いいよ。急に振り向いた、こちらの不注意だ」
グラスは床に落ちることなく、トレーの上で留まったが、溢れたワインはエルヴィンの服にまで飛んでいた。
「失礼しました。今拭くものを……」
「うーん、ベタベタしているから、着替えたいな」
クリスが慌てていたら、給仕長が出てきて着替えのある部屋に案内しますと声をかけてきた。
こういった場では、客の要望に応えるために、様々な準備がされている。
ホッとしていたら、エルヴィンはクリスの方を向いて、手招きしてきた。
「君も、汚れただろう。一緒においで」
そう言われて見れば、クリスの服にもワインが飛んでいた。しかし、これ以上近づきたくないので、自分は結構ですと言おうとしたら、給仕長に早くしなさいと促された。
使用人は客の要望に応えること。
そんな目で見られて、仕方なく後について歩いた。
会場の二階まで来たら、一番奥の部屋で給仕長は足を止めた。
「こちらは宿泊用の部屋になっております。服はクローゼットの中に、他に必要なものがあればいつでもお呼びください。ほら、お前、自分のミスなのだから、しっかり手伝いなさい」
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置いていかないでくださいと言いたかったのに、給仕長は説明だけしてさっさと出て行ってしまった。
パタンとドアが閉まったので、もしかしたら気づかれたかとクリスは息を呑んだ。
その時、バサっと音がして、エルヴィンが近くのテーブルに、手袋を置いたところが見えた。
クリスは小指に残ったインクのしみを見逃さなかった。
やはり、この男は、クリスが昼間も会っているエルヴィンに間違いない。
何か言われたら、金が必要になって紹介されたといえばいい。
そう頭の中で繰り返していたが、エルヴィンはいっこうに話しかけてこなかった。
しかも、いつの間にかシャツを脱いで下着姿になっていたので、驚いてしまった。
「よかった、下着までは濡れていなかったよ。君も着替えたら?」
「はい……」
ここまで来て断るのはおかしいので、クリスも着替えることにして、まずはベストを脱いだ。
次にシャツのボタンに手をかけて、襟元から外していくと、呼吸が楽になって一息ついた。
「やっぱり……」
一人で着替えている気になっていたが、この男がいたのを忘れていた。
何か知っていたような物言いに、ついにアルノと呼ばれると思った。
こんなところで会うなんて奇遇だな、と言おうとしたら、エルヴィンの口から出たのは予想外の言葉だった。
「君、オメガだったんだね」
耳のすぐ横で響いた声に、クリスはビクッと肩を揺らした。
今、この男は何と……。
「珍しいね。給仕は、トラブルを避けるために、ベータであるのが一般的なのに。それとも、わざと誰かを誘惑するために、入り込んだのかな?」
「なっ……!」
「どこからか、甘い匂いがプンプンするから、アルファは気にしていたよ。誰か気がついたのは僕だけだったみたいだけど、僕は鼻がいいから」
「匂い……だって? そんなバカな……」
「大人しく付いてきたってことは、狙いはウチかな? 悪いけど、社の取引きとか僕は権限がないし、他を当たった方がいいよ」
今まで優男といった感じだったのに、耳元で話している声は、ゾッとするくらい冷たく感じた。
そして、近くに寄ったことで、クリスも気がついてしまった。
鼻をくすぐるような匂いが漂ってくる。
香水とは違う、鼻の奥、体の中心まで響いてくる匂い。
これは……間違いなく、アルファのフェロモンだ。
頭の中を突き抜け、肌が痺れるほどの匂いに、クリスは思わず鼻をふさいだ。
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それからルカは、孤独な発情期を耐えて過ごすことになる。
ルカは十九歳でオメガモデルにスカウトされる。順調にモデルとして活動する中、仕事で出会った俳優の男性アルファ「神宮寺蓮」がルカの番相手と判明する。
ルカは蓮が許せないがオメガの本能は蓮を欲する。そんな相反する思いに悩むルカ。そのルカの苦しみを理解してくれていた周囲の裏切りが発覚し、ルカは誰を信じていいのか混乱してーー。
★バース性に苦しみながら前を向くルカと、ルカに惹かれることで変わっていく蓮のオメガバースBL★
性描写のある話には※印をつけます。第12回BL大賞に参加作品です。読んでいただけたら嬉しいです。応援よろしくお願いします(^^♪
11月27日完結しました✨✨
ありがとうございました☆
メランコリック・ハートビート
おしゃべりマドレーヌ
BL
【幼い頃から一途に受けを好きな騎士団団長】×【頭が良すぎて周りに嫌われてる第二王子】
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『王様、それでは、褒章として、我が伴侶にエレノア様をください!』
あの男が、アベルが、そんな事を言わなければ、エレノアは生涯ひとりで過ごすつもりだったのだ。誰にも迷惑をかけずに、ちゃんとわきまえて暮らすつもりだったのに。
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第二王子のエレノアは、アベルという騎士団団長と結婚する。そもそもアベルが戦で武功をあげた褒賞として、エレノアが欲しいと言ったせいなのだが、結婚してから一年。二人の間に身体の関係は無い。
幼いころからお互いを知っている二人がゆっくりと、両想いになる話。
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