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本編
1、偽りの身
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激しくナカを突き動かされて、堪えきれずに声が漏れる。
目の前のシーツに、涙なのかよくわからないものが、ポタポタと落ちていく。
「ああ、もっと」
湿っていてだらしなく、女のような嬌声を上げているのは誰だ?
「もっと、奥にください」
懇願してその通りに深く打たれると、快感で満たされて頭が真っ白になる。
嬉しい、嬉しい、気持ちいい。
やっと捕まえたという声が頭に響く。
それは本能を剥き出して、後ろから自分に楔を打ち込む男の声か、それとも……。
熱い息を吐きながら振り返ると、そこには自分を見下ろす紫色の目があった。
人と関わるのが苦手だと言っていた男の控えめな笑顔が頭に浮かぶ。
この男は、こんな目の色をしていただろうか……。
男の口元にある牙がギラリと光ったのが見えた。
あぁ喰われる。
そう思った時、うなじに強烈な痛みと熱を感じた。次の瞬間に痛みは消えて、代わりに今まで感じたことのない快感が体を貫いた。
どこもかしこも、真っ白になった。
ありったけの熱を吐き出して、そのまま意識を手放した。
◇◇◇
長閑な牧草地帯を、薄曇りの空の下、馬車がゆっくりと進んでいく。
年老いた馬の蹄の音と、軋んで壊れそうな車輪の音を聞きながら、クリスはぼんやりと空を見上げた。
旅の終わりの空は、いつも曇っている。
何とも言えない寂しげな色は、自分の人生によく似合っていた。
おそらくこのまま、晴れることはなく、沈んだ空気を纏いながら生きていくのだろうと思うと、片方の口の端が上がった。
一人で自嘲気味に笑った時、かすかに聞こえた音に、クリスは耳を澄ませた。
それは遠くからでも分かる。
長閑な空気を切り裂くような、耳に馴染まないあの音だ。
「汽笛だ……。機関車が来ましたぜ。お客さん」
今まであくびをしていた御者が、興奮気味に話しかけてきた。
もうすでに気づいていたが、そうですねと言って、クリスは音のする方向に目を向けた。
すぐにガタガタと地面が揺れ出して、耳をつんざくような汽笛の音が聞こえてきた。
轟音を立てながら、黒い獣のような大きな車両が、線路の上を走り抜けていった。
信じられないくらい、あっという間の速さだ。
蒸気機関車が走り抜けて行った後は、真っ黒な煙だけが残されていて、クリスは御者と顔を見合わせ、すごかったですねと同じ感想を述べた。
「まさか、あんな鉄のかたまりが走るようになるとは、この世はどうなってしまうんですかね。今は石炭の輸送用だって聞きましたが、今後は客を乗せるって話ですよ。そうなったら、こっちの商売は上がったりですわ」
「線路があるところは限られていますし、客車ができても長距離移動が目的でしょう。それに、誰でも乗れるようなものではないと思います。庶民の足は馬に頼ることになります。まだまだ商売は安泰だと思いますよ」
クリスの意見に初老の御者は、そうだといいですがねぇと言って頭をかいた。
新しいものは時代の変化とともに、絶えず生まれていくものだ。
そうでなければ文明は発達しない。
下手に拒むよりは、受け入れていく方が、上手く生きていける。
そう、たとえばこの蒸気機関車に目を付けて、いち早く投資した者が、これからの時代の勝者となるだろう。
「今、町では、カルバインの話で持ちきりですよ。みんなどうにかして、雇われたいって……」
「カルバイン……、カルバイン鉄道。実現不可能だと言われた頃から、蒸気機関車に投資をして、一代で成功した会社ですね」
「ええ、社長のカルバイン男爵は、もともと平民でしたが、大成功して貴族になったそうです。先見の明があると言われて、今じゃ経済界から引っ張りだこだとか……。ああ、すいません、他のお客さんから色々話をされて、すっかり頭に入ってしまって、こんな話ばかり……」
「構いません。私も客商売ですから、こういった話は興味があります」
「客商売ですか? でも、身なりもいいし、上品だし、お客さん、貴族のように見えますけど」
「貴族と言っても名ばかり……、実際は領地もなく、借金を返すのがやっとで、各地を回り、小金を稼いで汗をかいています。雇われの身ですから」
そりゃ大変ですねと言って、御者は笑った。
親しみやすい笑顔に変わったので、クリスも笑顔を返した。
「やっぱり、こんな突拍子もないことにお金を使うとは、カルバイン男爵はきっとアルファですよね。頭の構造が違うんだ。私もアルファに生まれていたら、こんな仕事はしていなかっただろうな、羨ましい」
「そうですね、私も羨ましいです」
「ん? ということは、お客さんは貴族だけど、ベータなんですね?」
「ええ、そうです」
クリスが笑顔を崩さずにそう答えると、なんだ一緒ですかと言って、御者はまた表情を緩めた。
本当のことを言ったら、この男の顔はどう変わるだろうか。
気味の悪いものでも見るような目になるか、可哀想だという哀れみの目になるか……。
どうでもいいことだと、クリスは頭の中で笑った。
誰に何と思われようが、何も変わることはない。
晴れることのない、曇った空のままだと思って、クリスは背もたれに体を預けて目を閉じた。
この世には、男女の性の他に、バース性と呼ばれる、もう一つの性が存在する。
人間が昔、獣だった時の本能が残っていて、それぞれの特徴として現れたものだ。
ほとんどの人間は、ベータと呼ばれている。
特別秀でたところはないが、努力して実力をつけることができる。
自らフェロモンを放つことはないが、アルファのフェロモンを感じ取ることはできるので、アルファに対して憧れや恐れを抱いている。
ごく少数しか生まれないが、何をしても優秀、時代を先導していくような、強い才能に溢れた者、それがアルファだ。
強者のフェロモンと呼ばれる、アルファ独特の匂いを纏っていて、どの性も本能的に強く惹かれてしまう。
オメガの催淫フェロモンによって、ラットと呼ばれる発情状態に陥る。
発情状態になった時、犬歯が急速に変化する。
同じくヒート、発情状態のオメガのうなじを噛むことにより、オメガを番にできる。
その数に限りはなく、複数のオメガを番にすることが可能だと言われている。
そして、アルファより少ない数で生まれてくるのが、オメガだ。
女性はもともと妊娠可能だが、オメガであれば男も妊娠できる。
周期的に発情期がやってきて、無自覚に催淫フェロモンを撒き散らし、アルファを誘惑してしまう。
番関係になると、オメガは優秀なアルファの子を産むことができる。
特異な体質から、長年、厄介な存在だとされて、閉じ込められるような生活を強いられてきたが、現在は抑制剤の開発によって、まともな社会生活を送ることができるまでになった。
しかし、根付いた考えは深く、時代が変わっても、制約があり、地位が低く見られることが多い。
九つの国が一つとなり、大国となったミニスタン王国。
この国では、本当かどうか知らないが、王族はアルファしか生まれないと聞く。
時を重ね、治める者が変わっても、アルファが強者と呼ばれ、オメガが意識的に虐げられることは変わらない。
だが、オメガだってバカではない。
そんな中でどうやってうまく生きるか探ってきた。
オメガであることを最大限に利用するか、またはオメガであることを隠して生きていくかだ。
工業の発展とともに、新たな輸送手段が生まれ、時代が動いていく中、全てのことが大きく変わっていく風を、誰もが感じていた。
「…………ですね」
「え?」
目を閉じて考えごとをしていたので、御者の声が耳に入らなかった。
クリスが聞き返すと、御者は照れたように鼻の下を指で擦ってから口を開いた。
「いや、その……お客さん、ベータって仰いましたけど、すごくきれ……と、整っていらっしゃるから……まるでアルファのようですねと」
「ああ、それはどうも」
「まだ、私も見たことはないんですが、オメガは、そうとうな美人が多いって聞いて……。死ぬ前に、一度は見てみたいですねぇ」
「男女共に、庇護欲を誘うような可愛らしい外見をしているようですね」
「お客さんも負けていないですよ。一瞬オメガかとも思いましたから」
「まさか……お上手ですね」
クリスが笑うと、御者もアハハと笑っていたが、細い道に入ったので、急いで手綱を握り直して前を向いた。
御者の様子を目を細めてみた後、クリスは息を吐いて再び目を閉じた。
アルファの男は、強く逞しい体つきで、顔は作り物のように整っている。女も魅力的な体型で、威圧を感じるほどの美人が多い。
対してオメガの男は、背が低くて体つきが細く、顔は童顔で、女性と見間違うほど可愛らしい。
女も同じく細身で弱々しく、歳をとっても子供のような可愛さを持ち続ける。
アルファのようにも見えて、オメガらしくないことを喜ぶべきなのか。
他人の目に自分がどう映っているのか、考えるのも面倒だった。
外見など、ただ利用するだけの道具でしかないと、クリスはそう思って生きてきた。
クリスはオメガだ。
黒髪に見えるが、光に透けると青く見える変わった髪に、特徴的な金色の瞳を持っている。
出来損ないのオメガなのか、顔はどちらかというとアルファに近いと言われていて、背も高く、体つきも細身だがしっかりと筋肉がついている。
オメガらしくない外見と、抑制剤のおかげで、社会に溶け込んで、問題なく暮らしてきた。
抑制剤は飲んでいるが、フェロモンも薄く、発情期自体も数日熱が出るくらいの軽いものなので、性的な発情を経験したことがない。
バース性は、生まれてすぐに教会で調べられて、結果は両親に知らされる。
両親はベータだったので、自分達の子供がオメガと判定が出た時、どう扱っていいのか困ってしまったのだろう。
両親からは、ベータだと言われて育てられた。
だから成長して、自分がオメガだと聞かされた時には、クリスは嘘だと言って驚いてしまった。
時々高い熱が出て、体が弱いと思っていたぐらいで、話に聞くような、自制を失う発情期などなかった。
父親は戸惑うクリスに、大丈夫、問題があれば一緒に考えて解決していこうと言ってくれた。
そばにいるから……
そう言ってくれた人はもういない。
ガチャリと鍵を開けて、家の中に入ると、キッチンからお帰りなさいませと声がかかった。
クリスはコートを脱いで帽子を壁にかけた後、キッチンに顔を出した。
「ミンス夫人、来ていたんだね」
「出迎えに出られずにすみません。今日、お帰りになると聞きましたから。今、スープを作っていたところです」
大きな鍋を混ぜながら、顔だけをこちらに向けた女性を見て、クリスは微笑んだ。
母が生きていたら、同じ光景を見たかもしれない。
ミンス夫人の白髪混じりの髪を見ると、見ることができないものを、いつも思い浮かべてしまう。
「いつも悪いね。後でいただくよ」
「あら、お疲れのようですね。目にクマが……。馬車で眠って来られたのでは?」
「ああ、それがね。話好きの御者で、ずっと話しかけられて寝る暇がなかった」
「まぁ、それはお可哀想に」
布で手を拭いたミンス夫人は、水桶からコップに水を汲んで、クリスに向かって差し出した。
クリスはありがとうと言って受け取り、近くの椅子に座った。
「お仕事は? どうでしたか?」
「いや、散々だったよ。せっかくローウッドの田舎町まで行ったのに、夫人は庭師とよろしくやっていた。旦那は誘拐だ、失踪だと大騒ぎしていたのに」
「事件にならずによかったじゃないですか。坊ちゃんのことだから、上手く報告されるのでしょう?」
「この歳で坊ちゃんはやめてくれ。それに俺は、そこまでお人好しではない。旦那にはありのままを報告するよ」
そう言ってクリスは、コップの水を飲み干した。
喉を通る冷たさに、生きている実感が湧いたが、それはひどく虚しいものだった。
「それでは、クリスさん。私はこれで帰りますが、召し上がる時は温めてください。それと、青い薔薇が届いております」
「はぁー、戻ったばかりだぞ、あの方は、俺を過労死させたいらしい」
クリスが額に手を上げて天を仰ぐと、ミンス夫人はご苦労様ですと言って、部屋を出て行った。
「薔薇か……、一番嫌いな花になりそうだ」
クリスが呟いた時、静かな家の中には、もう誰の気配もなかった。
クリスは大陸一大きいとされる、ミニスタン王国の貴族である。
かつては戦いの歴史が繰り返されたが、今は近隣国と友好関係を結び、人々は平和な時代を謳歌していた。
芸術をこよなく愛する人が多いこの国で、クリスは美術品鑑定士として働いている。
美術品の真偽を見分けることができる人間は少なく、それなりに需要がある。
十五歳でディナイト子爵家の爵位を継いでから、両親の遺産を使って鑑定士の資格を取り、細々と生きてきた。
周囲にはベータであると公表し、貴族相手に商売をしているが、仕事は丁寧だと評判だ。
ベータであるのに、アルファのようだと称される容姿、二十八になっても、いまだ独身を貫いているのは、女遊びがやめられない、プレイボーイであるから。
とまぁ、ここまでが、世間から見たクリスの表の顔だ。
本当もあれば嘘もある。
それは人間なら誰しもがそうだと思いながら、クリスが寝室のドアを開けると、ベッドの上に置かれた封筒を見つけた。
ここに置くのは必ず目に入るからだ。
見つけられなかったという言い訳ができないように。
そう頼むのもあの人らしいなと思いながら、封筒を手に取ると、そこには青い薔薇が描かれていた。
何度見ても毒々しい。
息を吐いたクリスは封を開けて、中から手紙を取り出した。
「……いったい今度は何の依頼だか」
三日後のニノ刻、カフェブロンドと書かれた文字を見て、クリスはベッドに転がった。
「このまま三日間、寝てやる」
クリスは自分のベッド以外では、ろくに眠ることができない。
旅の疲れがどっと押し寄せて来て、潰されるようにクリスは目を閉じた。
目の前のシーツに、涙なのかよくわからないものが、ポタポタと落ちていく。
「ああ、もっと」
湿っていてだらしなく、女のような嬌声を上げているのは誰だ?
「もっと、奥にください」
懇願してその通りに深く打たれると、快感で満たされて頭が真っ白になる。
嬉しい、嬉しい、気持ちいい。
やっと捕まえたという声が頭に響く。
それは本能を剥き出して、後ろから自分に楔を打ち込む男の声か、それとも……。
熱い息を吐きながら振り返ると、そこには自分を見下ろす紫色の目があった。
人と関わるのが苦手だと言っていた男の控えめな笑顔が頭に浮かぶ。
この男は、こんな目の色をしていただろうか……。
男の口元にある牙がギラリと光ったのが見えた。
あぁ喰われる。
そう思った時、うなじに強烈な痛みと熱を感じた。次の瞬間に痛みは消えて、代わりに今まで感じたことのない快感が体を貫いた。
どこもかしこも、真っ白になった。
ありったけの熱を吐き出して、そのまま意識を手放した。
◇◇◇
長閑な牧草地帯を、薄曇りの空の下、馬車がゆっくりと進んでいく。
年老いた馬の蹄の音と、軋んで壊れそうな車輪の音を聞きながら、クリスはぼんやりと空を見上げた。
旅の終わりの空は、いつも曇っている。
何とも言えない寂しげな色は、自分の人生によく似合っていた。
おそらくこのまま、晴れることはなく、沈んだ空気を纏いながら生きていくのだろうと思うと、片方の口の端が上がった。
一人で自嘲気味に笑った時、かすかに聞こえた音に、クリスは耳を澄ませた。
それは遠くからでも分かる。
長閑な空気を切り裂くような、耳に馴染まないあの音だ。
「汽笛だ……。機関車が来ましたぜ。お客さん」
今まであくびをしていた御者が、興奮気味に話しかけてきた。
もうすでに気づいていたが、そうですねと言って、クリスは音のする方向に目を向けた。
すぐにガタガタと地面が揺れ出して、耳をつんざくような汽笛の音が聞こえてきた。
轟音を立てながら、黒い獣のような大きな車両が、線路の上を走り抜けていった。
信じられないくらい、あっという間の速さだ。
蒸気機関車が走り抜けて行った後は、真っ黒な煙だけが残されていて、クリスは御者と顔を見合わせ、すごかったですねと同じ感想を述べた。
「まさか、あんな鉄のかたまりが走るようになるとは、この世はどうなってしまうんですかね。今は石炭の輸送用だって聞きましたが、今後は客を乗せるって話ですよ。そうなったら、こっちの商売は上がったりですわ」
「線路があるところは限られていますし、客車ができても長距離移動が目的でしょう。それに、誰でも乗れるようなものではないと思います。庶民の足は馬に頼ることになります。まだまだ商売は安泰だと思いますよ」
クリスの意見に初老の御者は、そうだといいですがねぇと言って頭をかいた。
新しいものは時代の変化とともに、絶えず生まれていくものだ。
そうでなければ文明は発達しない。
下手に拒むよりは、受け入れていく方が、上手く生きていける。
そう、たとえばこの蒸気機関車に目を付けて、いち早く投資した者が、これからの時代の勝者となるだろう。
「今、町では、カルバインの話で持ちきりですよ。みんなどうにかして、雇われたいって……」
「カルバイン……、カルバイン鉄道。実現不可能だと言われた頃から、蒸気機関車に投資をして、一代で成功した会社ですね」
「ええ、社長のカルバイン男爵は、もともと平民でしたが、大成功して貴族になったそうです。先見の明があると言われて、今じゃ経済界から引っ張りだこだとか……。ああ、すいません、他のお客さんから色々話をされて、すっかり頭に入ってしまって、こんな話ばかり……」
「構いません。私も客商売ですから、こういった話は興味があります」
「客商売ですか? でも、身なりもいいし、上品だし、お客さん、貴族のように見えますけど」
「貴族と言っても名ばかり……、実際は領地もなく、借金を返すのがやっとで、各地を回り、小金を稼いで汗をかいています。雇われの身ですから」
そりゃ大変ですねと言って、御者は笑った。
親しみやすい笑顔に変わったので、クリスも笑顔を返した。
「やっぱり、こんな突拍子もないことにお金を使うとは、カルバイン男爵はきっとアルファですよね。頭の構造が違うんだ。私もアルファに生まれていたら、こんな仕事はしていなかっただろうな、羨ましい」
「そうですね、私も羨ましいです」
「ん? ということは、お客さんは貴族だけど、ベータなんですね?」
「ええ、そうです」
クリスが笑顔を崩さずにそう答えると、なんだ一緒ですかと言って、御者はまた表情を緩めた。
本当のことを言ったら、この男の顔はどう変わるだろうか。
気味の悪いものでも見るような目になるか、可哀想だという哀れみの目になるか……。
どうでもいいことだと、クリスは頭の中で笑った。
誰に何と思われようが、何も変わることはない。
晴れることのない、曇った空のままだと思って、クリスは背もたれに体を預けて目を閉じた。
この世には、男女の性の他に、バース性と呼ばれる、もう一つの性が存在する。
人間が昔、獣だった時の本能が残っていて、それぞれの特徴として現れたものだ。
ほとんどの人間は、ベータと呼ばれている。
特別秀でたところはないが、努力して実力をつけることができる。
自らフェロモンを放つことはないが、アルファのフェロモンを感じ取ることはできるので、アルファに対して憧れや恐れを抱いている。
ごく少数しか生まれないが、何をしても優秀、時代を先導していくような、強い才能に溢れた者、それがアルファだ。
強者のフェロモンと呼ばれる、アルファ独特の匂いを纏っていて、どの性も本能的に強く惹かれてしまう。
オメガの催淫フェロモンによって、ラットと呼ばれる発情状態に陥る。
発情状態になった時、犬歯が急速に変化する。
同じくヒート、発情状態のオメガのうなじを噛むことにより、オメガを番にできる。
その数に限りはなく、複数のオメガを番にすることが可能だと言われている。
そして、アルファより少ない数で生まれてくるのが、オメガだ。
女性はもともと妊娠可能だが、オメガであれば男も妊娠できる。
周期的に発情期がやってきて、無自覚に催淫フェロモンを撒き散らし、アルファを誘惑してしまう。
番関係になると、オメガは優秀なアルファの子を産むことができる。
特異な体質から、長年、厄介な存在だとされて、閉じ込められるような生活を強いられてきたが、現在は抑制剤の開発によって、まともな社会生活を送ることができるまでになった。
しかし、根付いた考えは深く、時代が変わっても、制約があり、地位が低く見られることが多い。
九つの国が一つとなり、大国となったミニスタン王国。
この国では、本当かどうか知らないが、王族はアルファしか生まれないと聞く。
時を重ね、治める者が変わっても、アルファが強者と呼ばれ、オメガが意識的に虐げられることは変わらない。
だが、オメガだってバカではない。
そんな中でどうやってうまく生きるか探ってきた。
オメガであることを最大限に利用するか、またはオメガであることを隠して生きていくかだ。
工業の発展とともに、新たな輸送手段が生まれ、時代が動いていく中、全てのことが大きく変わっていく風を、誰もが感じていた。
「…………ですね」
「え?」
目を閉じて考えごとをしていたので、御者の声が耳に入らなかった。
クリスが聞き返すと、御者は照れたように鼻の下を指で擦ってから口を開いた。
「いや、その……お客さん、ベータって仰いましたけど、すごくきれ……と、整っていらっしゃるから……まるでアルファのようですねと」
「ああ、それはどうも」
「まだ、私も見たことはないんですが、オメガは、そうとうな美人が多いって聞いて……。死ぬ前に、一度は見てみたいですねぇ」
「男女共に、庇護欲を誘うような可愛らしい外見をしているようですね」
「お客さんも負けていないですよ。一瞬オメガかとも思いましたから」
「まさか……お上手ですね」
クリスが笑うと、御者もアハハと笑っていたが、細い道に入ったので、急いで手綱を握り直して前を向いた。
御者の様子を目を細めてみた後、クリスは息を吐いて再び目を閉じた。
アルファの男は、強く逞しい体つきで、顔は作り物のように整っている。女も魅力的な体型で、威圧を感じるほどの美人が多い。
対してオメガの男は、背が低くて体つきが細く、顔は童顔で、女性と見間違うほど可愛らしい。
女も同じく細身で弱々しく、歳をとっても子供のような可愛さを持ち続ける。
アルファのようにも見えて、オメガらしくないことを喜ぶべきなのか。
他人の目に自分がどう映っているのか、考えるのも面倒だった。
外見など、ただ利用するだけの道具でしかないと、クリスはそう思って生きてきた。
クリスはオメガだ。
黒髪に見えるが、光に透けると青く見える変わった髪に、特徴的な金色の瞳を持っている。
出来損ないのオメガなのか、顔はどちらかというとアルファに近いと言われていて、背も高く、体つきも細身だがしっかりと筋肉がついている。
オメガらしくない外見と、抑制剤のおかげで、社会に溶け込んで、問題なく暮らしてきた。
抑制剤は飲んでいるが、フェロモンも薄く、発情期自体も数日熱が出るくらいの軽いものなので、性的な発情を経験したことがない。
バース性は、生まれてすぐに教会で調べられて、結果は両親に知らされる。
両親はベータだったので、自分達の子供がオメガと判定が出た時、どう扱っていいのか困ってしまったのだろう。
両親からは、ベータだと言われて育てられた。
だから成長して、自分がオメガだと聞かされた時には、クリスは嘘だと言って驚いてしまった。
時々高い熱が出て、体が弱いと思っていたぐらいで、話に聞くような、自制を失う発情期などなかった。
父親は戸惑うクリスに、大丈夫、問題があれば一緒に考えて解決していこうと言ってくれた。
そばにいるから……
そう言ってくれた人はもういない。
ガチャリと鍵を開けて、家の中に入ると、キッチンからお帰りなさいませと声がかかった。
クリスはコートを脱いで帽子を壁にかけた後、キッチンに顔を出した。
「ミンス夫人、来ていたんだね」
「出迎えに出られずにすみません。今日、お帰りになると聞きましたから。今、スープを作っていたところです」
大きな鍋を混ぜながら、顔だけをこちらに向けた女性を見て、クリスは微笑んだ。
母が生きていたら、同じ光景を見たかもしれない。
ミンス夫人の白髪混じりの髪を見ると、見ることができないものを、いつも思い浮かべてしまう。
「いつも悪いね。後でいただくよ」
「あら、お疲れのようですね。目にクマが……。馬車で眠って来られたのでは?」
「ああ、それがね。話好きの御者で、ずっと話しかけられて寝る暇がなかった」
「まぁ、それはお可哀想に」
布で手を拭いたミンス夫人は、水桶からコップに水を汲んで、クリスに向かって差し出した。
クリスはありがとうと言って受け取り、近くの椅子に座った。
「お仕事は? どうでしたか?」
「いや、散々だったよ。せっかくローウッドの田舎町まで行ったのに、夫人は庭師とよろしくやっていた。旦那は誘拐だ、失踪だと大騒ぎしていたのに」
「事件にならずによかったじゃないですか。坊ちゃんのことだから、上手く報告されるのでしょう?」
「この歳で坊ちゃんはやめてくれ。それに俺は、そこまでお人好しではない。旦那にはありのままを報告するよ」
そう言ってクリスは、コップの水を飲み干した。
喉を通る冷たさに、生きている実感が湧いたが、それはひどく虚しいものだった。
「それでは、クリスさん。私はこれで帰りますが、召し上がる時は温めてください。それと、青い薔薇が届いております」
「はぁー、戻ったばかりだぞ、あの方は、俺を過労死させたいらしい」
クリスが額に手を上げて天を仰ぐと、ミンス夫人はご苦労様ですと言って、部屋を出て行った。
「薔薇か……、一番嫌いな花になりそうだ」
クリスが呟いた時、静かな家の中には、もう誰の気配もなかった。
クリスは大陸一大きいとされる、ミニスタン王国の貴族である。
かつては戦いの歴史が繰り返されたが、今は近隣国と友好関係を結び、人々は平和な時代を謳歌していた。
芸術をこよなく愛する人が多いこの国で、クリスは美術品鑑定士として働いている。
美術品の真偽を見分けることができる人間は少なく、それなりに需要がある。
十五歳でディナイト子爵家の爵位を継いでから、両親の遺産を使って鑑定士の資格を取り、細々と生きてきた。
周囲にはベータであると公表し、貴族相手に商売をしているが、仕事は丁寧だと評判だ。
ベータであるのに、アルファのようだと称される容姿、二十八になっても、いまだ独身を貫いているのは、女遊びがやめられない、プレイボーイであるから。
とまぁ、ここまでが、世間から見たクリスの表の顔だ。
本当もあれば嘘もある。
それは人間なら誰しもがそうだと思いながら、クリスが寝室のドアを開けると、ベッドの上に置かれた封筒を見つけた。
ここに置くのは必ず目に入るからだ。
見つけられなかったという言い訳ができないように。
そう頼むのもあの人らしいなと思いながら、封筒を手に取ると、そこには青い薔薇が描かれていた。
何度見ても毒々しい。
息を吐いたクリスは封を開けて、中から手紙を取り出した。
「……いったい今度は何の依頼だか」
三日後のニノ刻、カフェブロンドと書かれた文字を見て、クリスはベッドに転がった。
「このまま三日間、寝てやる」
クリスは自分のベッド以外では、ろくに眠ることができない。
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そこは魔力持ちも世界であり、私を番いと呼ぶ物に囲われた。
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