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前編
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いつもと違う自分になるために。
必要なのはほんの少しの勇気。
髪型やリップの色を変える。
それだけでこんなにも気分が変わるなんて思わなかった。
ずっと変わりたいと苦しんでいた。
一歩踏み出せば世界は全く違うものに見えた。
今日だけ。
今夜だけでとけてしまう魔法だとしても。
私には十分に大きな一歩だった。
この先にもしかしたら、私が探していた答えがあるのかもしれない。
着飾ったことで、自分が解放されたような気分だった。
もがきながら生きてきた私の、自分の中に秘めていた願望が芽を出したような気がした。
そう、花が咲くまではあともう少し……
「別れよう」
その言葉を聞いた時、ああやっぱりきてしまったと思った。
「俺が言いたいこと、分かってるだろう?」
そんな言い方をするなんてずるい。
だけど、言い返すことなんてできなかった。
「結婚するんだ」
息を呑んで顔を上げると、二年付き合った男の顔がぼんやりと浮かんでいた。
「……悪い、先週見合いをしたんだ。ほら、うちは母が早く孫の顔が見たいってうるさかっただろう。勝手に引き合わされてさ。そしたら向こうが気に入ってくれて、すぐにでもって……それで俺も決心がついた。お前には悪いけど、俺達、もう無理だっただろう」
努力はした。
仕事が忙しくてなかなか会えなかったけど、必死に良い彼女でいたいと頑張った。
それがいつしか空回りして、一緒にいても一人だなと思うことばかりが増えていった。
「……ひとりで決めちゃうんだね。いつだってそうだった」
「だから、悪いって言ってるだろう。俺だって努力はしたさ、でも限界だったんだ」
分かってる。
最初は色々と頑張ってくれていたことは……。
思うところはたくさんあるが、その頃の気持ちがあるから全てを責めることができない。
「じゃあ……な、部屋の鍵は交換するから返さなくていい」
「なにそれ……」
まるで私が合鍵でも作っているみたいな言い方をされてしまった。
返事も聞かず、逃げるように去っていく後ろ姿を見ながら、涙ひとつでない自分はやはりおかしいのだなと思った。
私、紀野美宏の両親は教師だった。
一人っ子だったこともあり、二人の先生から厳格に育てられた。
幼い頃から様々な習い事をさせられて、自分の好きなものというより、親が好きなものを与えられてきた。
言う通りにしなさいと言われて、親の顔色を伺ってどうしたら怒られないか、そればかり考えていた。
過保護でもあったので、高校生になっても洋服すら自分で選んだことがなかった。
それが変わったのは大学に入ってから。
両親が壮絶な喧嘩の果てに離婚したことがきっかけで、二人とも家を出てしまい、突然一人だけ野に放たれたようになった。
ある程度のお金は貰えたが、生活能力ゼロの状態で、友人を頼りながらなんとか踏ん張って生きてきた。
そんな私の前に現れたのがか祐介だった。
大学時代の先輩で、祐介が社会人になってから集まった時の飲み会で、連絡先を交換して付き合い始めた。
私はとにかく性的なものとは縁遠かった。
母はそういったものは一切排除して、見聞きしないようにしてきて、派手な友人とは付き合わないようにと友人関係にも口を出してきた。
箱入り娘といえば聞こえはいいが、男は全部痴漢だと思えくらいの教えを受けた。
ずっと女子校だったので、男子ともまともに話したことがなく、大学に入ってやっと話せるようにはなったが、友人レベルまではとても無理だった。
私がガチガチに緊張して築いていた壁を、いとも簡単に飛び越えてきたのが祐介だった。
遊び出すようになってからすぐに告白されて、なかば強引ではあったが付き合うようになった。
しかし、野に放たれて自由になった私ではあったが、その足には足枷がついたままで、完全に解放されたわけではなかった。
意識の中ではまだ両親の支配下にあって、祐介との付き合いでは、どんどん綻びが出てきてしまった。
男慣れしていない。
初めはそのことを珍しがって喜んでくれた祐介だったが、自分の意見が言えず、すぐに落ち込んだり暗くなったりする私が面倒になっていったようだった。
お前は繊細すぎると言われて、まめにくれた連絡も少なくなり、扱いはどんどん雑になっていった。
決定的だったのは、体の相性だろう。
初めてだった私は何もかも下手くそで、祐介も初めは頑張ろうと言って色々と教えてくれたが、痛がって全然いい反応ができずにいるとイライラを募らせていくのが分かった。
お前はマグロだ。
そう言われた時は喧嘩になった。
私だってネットを見て研究して、色々試してみたいと誘ったが、そのころには祐介の態度はもうすっかり冷めていた。
祐介はプライドの高い男だった。
付き合った女性は皆満足していたと言われて、私は自分が悪いのだと思い、それから何でも謝るようになってしまった。
愛の行為は私が一方的に動くだけとなり、彼は本当のマグロになってしまったが、それは楽しめないからだと言われてしまい、ただ傷ついてなにも言い返せなかった。
当然気持ちのいいものではなく、虚しさの残るだけの行為に、もう気持ちは向かなくなってしまった。
こうして私達はレスとなり、月日だけが過ぎていった。
祐介の実家は地方の名家であるらしく、度々母親から早く結婚しろという連絡を受けているのを見てきた。
まだそのつもりはないから、そんな相手はいないから、祐介はそう言って電話を切っていた。
横でそんな話を聞いていた私のことを、祐介はどう思っていたのだろう。
一緒にいても一人だ。
その時から私の心も離れてしまった。
そして付き合って二年目の記念日。
ついに別れを切り出されてしまった。
「別れて正解、あんな男、全然美宏に合ってなかったわよ。ちゃっかり次を見つけてから別れを切り出すところも本当最低」
バーのカウンターをドンっと叩いて壊しそうな勢いで、友人の瑠奈は怒っていた。
「ごめんね。色々相談に乗ってくれたのに、こんな結果になっちゃって」
「何言ってんのよ。私と美宏の仲でしょう。もう、今日は飲んで、全部奢るから」
飲んで忘れようと瑠奈は置いてある私のグラスと勝手に乾杯して、自らぐっとカクテルを飲み干した。
瑠奈とは大学時代からの友人だ。
ともに社会に出て二年目、私は一般職の事務員、瑠奈は化粧品メーカーで働いていて、歩んだ道は違っても仕事帰りよく待ち合わせて飲みに行く関係は続いている。
両親が離婚して、右も左も分からずに野に出た私に、生活について色々と教えてくれたのが瑠奈だった。
小中高と親の干渉があってまともに友人付き合いができなかった。
初めて自分の意思でちゃんと仲良くなった友人で、勝手に親友だと思っている。
祐介のことも散々相談して、やめておきなと言われていたのに結局こんなことになってしまった。
心が空っぽになってしまって寒く感じたが、瑠奈が側にいてくれるので、なんとか笑っていられる気がした。
「気持ちは……お互い離れていたから。私だって別れようと思ったけど、その度に付き合ったばかりの頃を思い出して……言えなかっただけ。ショックが少ないのはそのせいかな。でも、当分引きずりそう」
「美宏……」
言葉にすると簡単だ。
複雑だと思っていた胸の内は、自分から言えなかっただけ、そんな単純な言葉で終わってしまった。
もっと足掻いて泣き叫んで、そんなことができたらよかった。
苦い思いだけがいつまでも体に染み付いて離れてくれそうになかった。
「じゃあ、これでいいね。今、申し込んだから」
溶けていく氷を見ながら、ふわふわとした気持ちで夢と現実を彷徨っていたら、瑠奈の声で我に返った。
「……え? 何のこと?」
「ちょっと、美宏。聞いてなかったの? アフターパーティーの話だよ」
「あふたー? なに?」
「来月、うちの会社が主催する新作の発表会のアフターパーティー、紹介制で参加できるんだけど、目玉は芸能人がわんさかくるの。アンタ、そこでワンナイトキメるってさっきまで拳突き上げて燃えたじゃない」
「……えっ、私が!?」
ハイペースで飲んでいたらすっかり酔いが回ってしまったらしい。何を話したのか全く覚えていない。
「もう、美宏の名前で予約入れちゃったから、これ秘密厳守だからキャンセルできないのよ。私が紹介者だから怒られちゃう」
「はい!? え!? 嘘、何? 芸能人が来るパーティーに出るの?」
「芸能人って言っても、これから売り出す予定の卵ちゃんが多いかな。その点、スレてなくて可愛いー男の子がたっくさん。この際だからさ、未来のスター君達を食いまくっちゃいなよ」
「……瑠奈、ちょっ……何を……」
瑠奈は友人としては最高に良い子なのだが、男に関しては来るもの拒まず去るもの追わずのカジュアルな精神を持っている。
誰にも文句を言われないような可愛いルックスの持ち主だが、そこで意見が合致しないことは多々あった。
食いまくるなんて、両親が聞いたら卒倒しそうなワードだ。
しかし、そこまで考えて、おかしくなってしまった。
私はいつまで誰かの顔色を気にしないといけないのだろう。
もう、私を見てくれる人などいないのに……。
今までの自分から変わりたい。
そう思ったら、これはチャンスなのかもしれないと希望が湧いてきてしまった。
「祐介さんのほとんどは理解できないけど、一理あることはある! 美宏、アンタ最近いつ美容院に行った?」
「え!? ……半年…前? あれ去年だった…かな」
「メイクも私があげたもの全然付けないし、眉くらいしか描いてないよね? 洋服だってそれ、五年前の流行のトップスにパンツスタイルじゃん。前にワンピースとかスカート履いたのいつ?」
「えっ……………」
思い出せなくて悩む私に、瑠奈は大きなため息をついてきた。
「なにもパンツスタイルだからダメってわけじゃないの。似合ってたら問題ないし、好きな格好をすればいい。だけど、せっかく女の子なのに、プライベートでも新米の教師みたいな格好をするのはもったいないのよ」
そう言われるとまた悩んでしまった。
両親の教えでは、肌は隠すのが常識、髪はひっつめてメイクは薄く、これが立派な社会人だと言われて育った。
知らず知らずのうちに、その教え通りに何もかも生きてきてしまった自分に気がついた。
「好きな人の前で可愛くありたいとか、綺麗だって言われたいのなんて、自然な感情よ。それを否定したら、いい恋愛なんてできない。お互い裸を晒して、着飾って、そういう楽しさを美宏にも感じてもらいたい」
「瑠奈…………」
そんな風に思ってくれていたなんて感動してしまった。確かに自然体と言えば聞こえはいいが、完全に自分磨きを忘れていたことは確かだ。
もともと、メイクやおしゃれには興味がなかった。祐介がたまには明るい色の服を着たら? なんて言っていたのを今さら思い出してしまった。
「何のためにここに瑠奈サンがいると思ってるわけ? 持つべきものは便利な友人だよ」
キスをしそうなくらい顔を近づけてきた瑠奈は、軽くそう言ってウィンクしてきた。
私はまた夢の続きを見ているみたいな、ふんわりした気持ちになって、にっこりと楽しそうに笑う瑠奈の口元を見ていた。
「ねえ、やっぱり。このスカート短すぎない?」
「それ、スカートじゃないの。中はショートパンツだよ。上のトップスとセットアップになっててワンピースみたいにも見えるし可愛いでしょう!」
瑠奈行きつけのサロンで、上から下まで徹底的に磨かれて、パーティー用のドレスまで用意してもらった。
トップスの胸元は隠れているが、肩がばっくり空いていて、二の腕の位置に申し訳なさそうにフリルが付いている。
ベースは濃い青色だが、金色のラメが散りばめられていてまるで夜空のようなドレスだ。
「思った通り、美宏は胸がデカいから絶対このタイプ似合うと思ったんだよね。変に谷間を出すよりセクシーだと思わない?」
「え……、それ、なんて答えればいいの?」
「いーからいーから、鏡を見てみなさい~」
大きな姿見の所まで連れて行かれて、その前に立たされた。
俯いていたが、恐る恐る顔を上げるとそこには、今まで自分だと思っていた自分は映っていなかった。
さすがにそれは大げさな言い方だが、それくらい良い意味でショックを受けた。
いつも後ろで引っ詰めていた髪は下されていて、ウェーブがかけられて、空気たっぷりにふわりと揺れていた。
厚い前髪も横に流されて、苦手だったおでこが丸見えになっていた。
プロのメイクはさすがで、小ぶりな目も鼻も口も、しっかり存在感が出ている。
「わっ、魔法みたい!」
「いーね、その小学生みたいな驚き方」
横で瑠奈がニヤニヤと笑っているが、そんなことも気にならないくらい夢中で鏡の中の自分を見つめてしまった。
「美宏は化粧映えする顔だと思ったんだよね。この仕上がりなら……時間的に考えて、三往復して三ナイトくらいはできるよ」
瑠奈が私では思いつかないありがたい計算をしてくれて鏡に頭から突っ込みそうになった。
「瑠奈……あのね。ここまでしてもらって感謝してるけど、私……」
「固いこと言わないの! 楽しめばいいんだから、ほら、行くよ!」
エメラルドグリーンの地中海みたいなラグジュアリードレスを纏った瑠奈が腕を組んできて、そのままぐいぐい引っ張ってきた。
私は苦笑しながらも、この雰囲気に気分は上がっていき、瑠奈に連れられて未知の世界に飛び出した。
瑠奈の会社が主催する商品の発表会は、都心の大きなホテルで開かれた。
そして、そのホテルのいかにもセレブなプール付きの会場でアフターパーティーは始まった。
セクシーでノリのいい音楽、ピンクとブルーにライトアップされた会場。
水着のセクシービキニの女の子達までいて、私にはまさに異世界だった。
テーブルに並んだ色とりどりのカクテルから、好きなものを一つ取って、ゆっくり口に運んで喉を潤した。
酒の勢いでも借りないと乗り切れない空間だ。
「いい? 美宏。設定を思い出してね。ここは別世界だよ、なりきって楽しんじゃいな」
「……うん」
いつもと違う、メイクに洋服。
それだけで、こんなに生まれ変わったような気持ちになれるなんて思わなかった。
ライトアップされた階段を一段降りる度に、違う自分に変わっていく気がする。
これはきっと魔法のせい。
一夜だけの特別な魔法。
今ならどんなダンスでも踊れそうな気分だ。
ここに来るまではまだ葛藤があった。
ワンナイトなんて話は、ただの冗談で雰囲気だけ楽しむつもりだった。
でも、一歩進むごとに私の気持ちは、パーティーの色に染まっていった。
私の探していた答え。
それはつまりセックスだ。
元カレとのセックスは、辛くて悲しい思い出しかない。そのせいでフラれたというのも大いにある。
そもそも、セックスとはそんなに苦しいのか。
それならなぜ愛し合う恋人達は求め合うのだろう。
ワンナイトなら……
いつもは絶対聞かないことも、偽りの自分であれば、上手く聞き出せるかもしれない。
そして、実際に体験することができたら……
「グラス、空だよー」
「はいはーい、飲んでる?」
突然ノリのいいお兄さん達に話しかけられた。
緊張してガチガチになった私の背中を、瑠奈がポンと撫でて前に出てくれた。
「飲んでまーす。お兄さん達は? 一緒に飲もうよ」
さすがの社交スキルだ。
一言で二人との距離をぐっと詰めてしまう。瑠奈の笑顔にお兄さん達は完全に心を奪われたようだった。
二人のお兄さんは、俳優の養成所に通っているらしく、瑠奈の言っていた通り俳優の卵で、見た目もカッコ良かった。
「ええと、ミヒロちゃんは? 何してる人?」
「わ……私は、下着のモデルしてます」
商社の事務員じゃ気分がアガらないと言われて、瑠奈から事前に色々と設定を組まれていた。
今夜の私は、下着モデルのミヒロ、好みの子がいたらガンガル攻めちゃう女豹、という設定だった。
「うひょー、ヤバくない? マジで、そういう目で見ちゃう」
「エロー、お姉さん、イイ体してるもんね」
明らかにイヤらしい目つきに、下品な返しをされた。いつもだったら、睨みつけて靴を踏んでしまいそうなくらいだが、今日は全然怒りが湧いてこない。
むしろエロいなんて言われたら、ゾクゾクして嬉しくなってしまった。ドレスアップ効果はとことん効いているらしい。
いつの間にか気を利かせたのか、瑠奈がどこかへ行ってしまった。
お兄さん達とのお喋りは続いていて、二人は私に体を密着させてきた。
初めての人と本当にできるのか、勢いでここまできたが、だんだん冷静になってきた時、ワァァーーと女性達の黄色い歓声が聞こえてきた。
「あー、いよいよお出ましか」
「今日も始まるのかねー、よくやるよなぁ」
二人のお兄さん達が、奥のスペースを見ながら何やら話していたので、私も一緒にそちらを覗き込んだ。
「誰が来たの? 何かのイベント?」
「あれ? ミヒロちゃん知らない? キングだよ」
「業界の人なら有名人だろ? 夜王鋼さんだよ」
「はい? 俳優さん?」
テレビはあまり見ないので芸能人にはほとんど詳しくない。
最近のドラマに出ていたなんて言われても付いていけそうになかった。
それにしても変なホストか、厨二病の考えそうな名前に笑いそうになった。
「え? キングってほら、芸能事務所の、社長だよ。若くして業界最大手になって、バリバリ稼いでいるって」
「キングに所属できたら絶対売れるって言われててさ。みんな群がってるだろう、あそこにいるヤツらは夜王さんの靴ぐらいなら喜んで舐めるよ」
キングという芸能事務所の名前は確かに聞いたことがあった。瑠奈から、あそこのタレントやモデルを使えば間違いなく商品はヒットすると熱く語られたような記憶があった。
「女性がたくさんいるけど、何か始まるの?」
「キングが出るパーティーでは、定番なんだよ。誰がキングのアフターパーティーの相手をするかってね」
「女性がこぞってアピールするくらいだぞ。噂だと、ベッドの上でもキングらしいって……」
「どんな女性でも昇天させて、本当にそのまま天国行きだって噂、あれ、笑えないよな」
すごい情報を聞いてしまったと、私の耳は倍に大きくなった。
どんな女性でも。
これは私にとっても天国行きの切符のようにしか聞こえなかった。
「でも選ばれる子なんて、実際にはいないって……あれ? ミヒロちゃん? あれー?」
私はウェイターが通る隙に、人混みに入り込んで二人から離れた。
ターゲットを変えるなんて頭がおかしくなったとしか思えないが、私の体は動いてしまった。
どんな女性でも天国へ送れる男。
この人以外に私のワンナイトにぴったりの相手はいないのではないか。
セレブな男性といえば女性を五、六人侍らせてイチャイチャしてそうなイメージだ。
その一人にでも加わることができたなら、願わくば最高の経験ができるかもしれない。
それができたら、この先の恋愛もきっと自信がついて上手くいけるような気がした。
キングがいるという奥のスペースまでやって来ると、同じようにキング目当ての女性達がわらわらと集まっていた。
キングはソファー席で楽しくやっているらしいが、人が集まりすぎていてよく見えなかった。
しかも鎖で区切られていて、勝手に奥まで入れないようになっている。
これではアイドルのコンサート状態だ。
ファンとして眺めるだけで終わってしまいそうだった。
やはりダメかと思っていた時、何やらマイクを持った司会みたいな男が歩いてきて女性達の前に立った。
「ではでは、パーティー恒例のキングへの愛の告白タイムでーす。選ばれた女の子はマイクを渡すからその場で夜王さんに告白してアピールしちゃってー! 今日こそ夜王さんのハートを射止める子は出てくるのか!?」
なんじゃそりゃという変なイベントが始まってしまった。みんな我先にと手を挙げて、右も左も押してくるので揉みくちゃになった。
「夜王さんー! キング、愛してるー!」
「鋼様、私は鋼様の下僕です。なんでもします」
「好きです! 愛人の一人でもいいです。可愛がってください」
次々と選ばれた女の子が告白していくが、奥の席はよく見たらカーテンが引かれていて、そのカーテンが少しも波打つことがなかった。
本当にいるのかさえ怪しいと思ってしまった。
「じゃあ、次は君!」
あまりの事態に付いていけなくて、ボケっとしていたら、司会の男に指をさされてしまった。
そこでようやく呆けていたのだと気がついた。
自分が選ばれることを想定していなくて、何も考えていなかった。
ここはキングが好みそうなことを言うしかないのだが、当たり前だが何も知らない。名前をさっき知ったばかりの相手なのだ。
マイクを渡されて、喉から言葉が出てこなくて固まってしまった。
仕事も女も金も、何もかも手に入れた男だ。
そんな男が何が楽しくてパーティーでこんな余興をやっているのか知らないが、男が求めるものなど分かるはずもない。
緊張で目眩がしたが、頭に思い浮かんできたのは元彼との日々だった。
プライドの高い元彼のために、ひたすらご機嫌を取って言う通りにしていたが、私にだって理想のお付き合いがあった。
一人っ子だった私は、兄弟のいる子が羨ましかった。
道で転んだ弟のお世話をするお姉ちゃん。
泣いている弟の頭をヨシヨシと撫でている姿。
子供の頃、それを見た私は羨ましくてたまらなかった。
私もあんな風に絶対的に甘えられたい。
あんな風に私も……
「ヨシヨシしたいです」
私の言葉にさっきまで盛り上がっていたのに、会場中がシーンと静まり返った。
「いっぱい甘やかして、いい子いい子して……ぎゅっと抱きしめてあげたいです」
鼻息荒く熱弁してしまったが、あまりの静けさに一気に酔いも冷めて青ざめた。
まさかこんなことを言うつもりはなかった。
つい調子に乗って自分の願望を口にしてしまった。
これは酷すぎる。
王様と崇められる人を侮辱してしまった。
パーティーをつまみ出される可能性があるなと思い、足がガタガタと震え出した。
司会の男の人もマズイものでも食べたような顔をしていたが、次の瞬間カーテンがわずかに揺れたのが見えた。
「おおおおっと、これは……!! もしかして、そちらのレディーにチャンスが! どうぞ、こちらに!」
風でも吹いたんじゃないのかというくらいの変化だったが、司会の男は私の腕を掴んで奥のスペースに引っ張ってきた。
「あの、なんですか? チャンスって?」
「夜王様が興味を示したんですよ。作戦成功ですね、レディー、お名前は?」
「ミヒロ……です」
会場からは悲鳴のような女性達の声が聞こえてきた。
それを背中に司会の男に逃がさないぞという力強さで腕を引かれて、奥のスペースに連れて来られてしまった。
「ボス、ミヒロさんです」
「……入れ」
お腹に響くような低い声が聞こえてきて、私はビクリと肩を揺らした。
よく分からないが、彼の喜ばせ係の一人に選んでもらえそうなところまできた、ということだろうか。
こういう世界の人は一般人とは違う。
世間的にはクリーンに見えても、裏社会とかと繋がりがあって、ヤバい人であることはなんとなく想像できる。
ごくりと唾を飲み込んでから、失礼しますと言ってカーテンをくぐった。
怖くて顔が上げられない。
もじもじとしながら、自分の足元を見ながら中を進んだ。視界の上の方に上等そうなピカピカと光る革靴が見えて足を止めた。
「顔を上げろ」
獣の檻にでも入ったような気持ちだったが、しっかりしろと自分に言い聞かせた。
今日の私には魔法がかかっている。
失敗したってもとのカボチャに戻るだけだ。こんな世界の人達とはなんの繋がりもない。
好みに合わなければ、出ていけと言われるだけだろう。
息を吸い込んでから、私は顔を上げた。
目に飛び込んできたのは、想像とは違いやけに甘い顔をした男だった。
栗色の髪に同じ栗色の瞳、高い鼻梁で整った相貌だが、整い過ぎてキツすぎる印象はない。
少し垂れた目元が強さを和らげているらしい。
戦い抜いてきたライオンのような人だと思っていたが、椅子に座っている男は絵本から出てきた王子様のような外見をしていた。
しかし柔和な外見とは違い、やはり目線は冷たくて上から下まで見られたら、凍りつきそうになった。
「……さっき言った言葉は本当か?」
「え………?」
氷の国の王子様から何を聞かれたのかと一瞬戸惑ってしまったが、先程の告白のことだと気がついた。
興味を示してくれたということは、何か触れるものがあったはずだ。
上手くいくとは思えないが、ここはやってみるしかないと腹をくくった。
「ハイ、そうです」
まただ。
夜王は無言で私のことをじっと見てきた。
気を引くための嘘だと思われたのかもしれない。
そこは嘘ではないのだが、ここは駆け引きが必要だと思った。
「あの、わ…私、以前より、夜王さんに憧れていまして、どうか……今夜は私と……」
考えてみたら初対面の男を自分から誘うなんて、今までの私ではありえないことだ。
ここはファムファタールになりきって、誘惑したいものだが、さすがにそれは無理だった。
ミスをして叱責を受ける社員のように立ち尽くしていたら、ガタンと椅子から立ち上がった音がした。
見ると目の前に夜王が立っていて、私を見下ろしていた。
すらりと背が高く、近くで見ると存在感が凄すぎて、色気にむせてしまいそうだった。
夜王は私の顎を指で持ち上げて品定めするみたいに近くで見てきた。
「……気に入った。行くぞ」
今のひどい誘い方で正解だったのかよく分からないが、どうやら気に入ってくれたらしい。
ホッとする暇もなく、夜王は部屋の隅にあるドアをくぐって出て行ってしまった。
私は後ろ姿を魅入られたように眺めてしまったが、慌ててその背中を追いかけて走った。
ドキドキと心臓の音が激しく鳴って少しも収まらない。
私はすでに天国に連れて来られてしまった。
パーティーが行われていたホテルの最上階。
当然一般人は立ち入り禁止で空気すら触れることができない場所だ。
ブラックの大理石の壁、床は汚したら二度と綺麗にならなそうな白い絨毯。
まるで雲の上のようなそこを、今にも下界に落ちそうな私は恐る恐る歩いていた。
冗談ではなくふわふわとして、誰も見ていなかったら飛び跳ねてしまいそうだ。
プライベート用の特別な出入口から、最上階行きのエレベーターに乗った私は、この天国みたいな空間に連れて来られた。
エレベーターの中で私は夜王から、身上調査のような質問を受けた。
当然敵が多い人なのだろう。
すぐに真偽は見分けられないだろうが、一応聞いておく必要があるのだろうなと思った。
簡単に住んでいる地域や仕事について聞かれた。
私は設定通り、架空の事務所の名前を出して、下着モデルとして働いていることを伝えた。
いくら業界人でも、小さなモデル事務所までは把握していないのだろう、それ以上具体的に話を聞かれることなく終わったのでホッと胸を撫で下ろした。
雲の上を進んで、真っ白な両開きのドアが開けられたら、私はいよいよエンパイアスイートと呼ばれる完全な異空間へと足を踏み入れた。
心の中で絶叫してしまった。
まるでお城の中のような空間だ。
白で統一された室内はどこを見ても絢爛豪華な作りになっていて、金箔が塗られた家具や調度品はそれ一つが芸術品のように煌めいていた。
そして入ってすぐの部屋は、全面が窓になっていて、宝石みたいな夜景が一望できた。
高鳴る心臓を押さえながら、私は窓に近づいて夜景をうっとりと眺めてしまった。
一方、夜王はそんな景色など日常だという様子で全く興味がなく、バサリと上着を脱いで他の部屋に行ってしまった。
さて、どうしたものかと私は腕を組んだ。
これから夜王の喜ばせ隊と合流して、ナイトパーティーが始まるのかもしれない。
何しろベッドの上ではマグロだと罵られた女だ。
どうやって何をすればいいのか、ここしばらくそういうことは遠のいていたから、頭が真っ白になってしまった。
すっかり頭から抜けていたが、ハードなプレイでも求められたらどこまでできるのだろうか。
頭の中で妄想が膨らんでパンクしそうになっていたら、他の部屋に行っていた夜王が戻ってきた。
「こっちだ」
呼ばれて慌てて夜景を背中にしてくるりと振り返ると、なんと夜王はもうバスローブ姿で準備万端だった。
「あ、あの、私もシャワーを……」
「必要ない」
そう言われてもこっちは気になると思ったが、そういうプレイなのかもしれないと思った。
この人のことが何も分からない。
もう始まっているのかすらも分からなかった。
寝室のドアが開けられると、そこには部屋の真ん中にやはりキングサイズのベッドがドカーンと置かれていた。
飛び跳ねたら空の上まで飛んでいきそうだなと思っていると、夜王にベッド上に座るように促された。
「他の皆さんは?」
「いるわけがないだろう。それとも複数プレイが希望なのか?」
「い…いえ、まさか。夜王さんがご希望なのかと……」
そう言うと夜王はムッとした顔をしながら、私の膝の上に頭を乗せてきた。
これは……膝枕?
「あの……」
「やらないのか?」
それはこっちの台詞だ。
てっきり狼に襲われるくらいの覚悟でいたのだが、まさかの膝枕の状態に唖然としてしまった。
「俺が好きなんだろう? やりたいと言っていたじゃないか」
それはそのつもりで来たのだが、まさかここは私から襲わないといけないのかと混乱してしまった。
しかし、私の太ももに当たる夜王の髪の毛が思った以上にふわふわしていて、私は思わずそこに手を伸ばした。
どんないいシャンプーを使ったらこんな髪になるのか……。
触り心地は極上のシルクのようだ。
ツヤツヤでふわふわで、指に絡めたらスッと抜けていく。
私は我を忘れて夢中で夜王の頭を……撫でてしまった。
「んっ…………」
ドキッとした。
夜王の口からなぜか艶っぽい声が聞こえてきて、一瞬で我に返って手を止めた。
マズイ……、マズすぎる、また私の願望が勝手に暴走して手が……。
「どうした? 今いいところなんだ。もっと……やってくれ……」
怒っているのかと思いきや、私は目に入ってきた光景に心臓が飛び跳ねるように揺れてしまった。
私に撫でられている夜王は、頬を赤く染めて、トロンと茹でられたような甘い目になっていた。
まさか……まさか、これは……
「ああ、やっぱり、思った通りだ……」
まさかまさかと思いながら、夜王の頭を撫で続けると、夜王は目を細めて顔を赤くして、ハァハァと息を漏らし始めた。
…………この人。
あの私の告白の通り、ナデナデされたかったんだ。
そういう、性癖ってやつだ。
「今夜……こんなに……理想の手に会えるとは思わなかった。ずっと……反応しなかったのに、もう、痛いくらいだ」
夜王がもぞもぞと下半身を動かしているので目を向けると、バスローブで隠れているが下半身の部分が明らかに膨らんでいた。
まさか……あれは。
もう、アレしかないだろう。
「……そこも、触った方がいいですか?」
「いい……、もっと……もっと撫でて……」
いちおう聞いてみたが、それよりこっちだと頭に集中するように言われてしまった。
仕方なく頭を撫で続けたが、そこで私の気持ちもどんどん熱くなってきてしまった。
思い出したのはお姉ちゃん痛いよと言って泣いている男の子。
痛かったね、お姉ちゃんのところにおいで。
そう言われて抱きついた弟の頭を、優しく撫でていた女の子。
羨ましかった。
一人ぼっちが多かったから、あんな風に全てを預けるように愛情を求められて、撫でて返してあげるなんて関係が羨ましくてたまらなかった。
夜王のふんわりとした髪が、私の眠っていた欲求を呼び覚まして満たしていく。
私に撫でられて、興奮している様子も、まるで絶対的な愛情を求められているようでたまらない快感だった。
気がつけば頭から顔から首筋から、無茶苦茶に可愛がりながら撫で続けていた。
「……はぁ……ハァハァ……」
男の人がこんなに喘ぐのなんて知らなかった。元彼は行為の最中はひたすら無言だった。
感じてくれているのか分からなくて悲しく思っていたくらいだったのに、この人は撫でるだけでこんなに声を上げるなんて……
「……くっ…ああっっ」
腰を揺らしていた夜王は、ひときわ大きく息を漏らした後、詰めた声を上げて体をビクビクと揺らした。
それが何を意味しているのか、シーツの上に飛び散った白濁を見たらすぐに理解できた。
しかしこれが現実とはとても思えなかった。
絢爛豪華な天国で私は呆然としていた。
満足そうに私の太ももに頭を擦り付ける男を見ながら、この状況はなんだろうと途方に暮れてしまった。
「もうーー、あの後連絡がつかなくて心配だったんだからぁ。それで天国へ連れて行ってもらえた?」
瑠奈がバーのカウンターにグラスを勢いよく置いたので、中に入ったお酒がこぼれそうになった。
「うー……ん。まあ、天国と言えば……天国だったけど」
「ひぁぁ、羨ましい! あの夜王さんだよ。誰が近づけるかって女優やらモデルやらが列を作って競っているのに、それを……突然現れた謎の新星が攫っていくなんて……。気持ち良すぎて見ていた私も昇天しちゃったぁ」
あのパーティーがあった週末、瑠奈に呼び出されていつものバーに集まった。
瑠奈は天国の詳細を聞こうとしてきたが、私は恥ずかしいからと曖昧にごまかした。
言えない。
絶対ヤバそうな人の、あんな性癖なんて言えるはずがない。
もしかしてどこかで聞かれていて、口を滑らせたら謎の組織に消されてしまいそうだ。
あの後、キングはぐっすり寝てしまい、仕方なく荷物を持って部屋を出た。
するとドアの前で部下だという黒スーツの男が仁王立ちしていて、このことは他言無用だと釘を刺された。
タクシー代を渡されて連絡先を聞かれたので、咄嗟に思いついたいつも注文している近所のピザ屋の番号を教えて逃げるようにホテルから出たのだった。
極上のセックスを享受させてもらうはずが、なぜか特殊な性癖を披露されて終わってしまった。
そして、余計なものまでもらってしまった。
「な……何? どうしたの?」
「え? ……あっ、あごめん!」
無意識のうちに手を伸ばしてしまい、またやってしまったと、私は慌てて手を引っ込めた。
瑠奈の髪に手を伸ばして撫でてしまい、慌てて謝った。
あの日から無意識に触り心地の良さそうな髪の毛を見ると手が伸びてしまう。
困ったことに私の潜んでいた願望に火がついてしまった。
何人か触ったが、やはり夜王の触り心地が一番で恋しくてたまらない。
あのふわふわの髪に指を入れて、地肌から優しくぐりぐりと触りたい。
ありえない感情が生まれるようになってしまい、手を自分の服に擦り付けて、違うことを考えようと意識を散らした。
「そういえば、うちの会社に変な問い合わせが来たのよ。パーティーに出ていたアンスリウムって事務所のモデルは知っているかって……」
「え? それって……、あの設定で使った架空の事務所の名前じゃない」
「もしかして……夜王さんが美宏のこと探してるんじゃないの?」
「まさか、私のことなんてもう覚えてもないって……」
カランとバーのドアが開く音がした。
いつもなら、いらっしゃいませとオーナーの明るい声が響くはずがそれが聞こえて来なかった。
「嘘……美宏、ねぇ……見て」
代わりに瑠奈の驚いた声が聞こえてきて、のんびりグラスの酒を見つめていた私は、何が起きたのかと顔を入り口のドアの方へ向けた。
入り口からガタイのいい黒いスーツの男達がトガドカと店内に入ってきて、最後にラスボス登場のようにあの夜王がゆっくりと入ってきた。
狭い店内は男達で溢れてしまい、他の客達も何事かと唖然としていた。
夜王は今日も高そうな黒のスーツに紫のタイという一般人にはとても見えない格好で、迷うことなく私の前まで歩いてきた。
「ああ、やっと見つけた。そこのピザ屋のお姉さんに用があるんだが……」
いつも狂犬みたいに男に立ち向かってくれる瑠奈も、夜王相手では尻尾をくるりと巻いて、どうぞと言って私の背中を押してきた。
「ちょっ、こんなところまで来て何ですか!?」
「この俺をヤリ逃げするとはいい度胸だな」
「ヤリ!? あ、あの夜はヤってなんか……」
「俺のことが好きだと言ったくせに、弄んで捨てるのか?」
「はい!?」
ちょっと待ってくれと大声で違うと言おうとしたが、店内中の注目の的になっていて、瑠奈の興味津々の目線を感じて言葉をぐっと飲み込んだ。
「お店の迷惑になるので場所を移しましょう」
私の提案に、夜王は満足そうにニヤリと笑った。
「どういう事ですか? どうしてあのお店を……、なんで私にまた会いになんて……」
「この前とはずいぶん違うな。服装も地味だしメイクも薄い……、そうか普段はこちらなのか」
「話聞いてますか? ……あの夜のことなら誰にも言ってませんよ。誰にだって趣味趣向はありますし……」
バーを出て、横付けされていた黒塗りの高級車に乗せられた。
もちろん運転手付きなので、広い後部座席に二人で並んで座ることになってしまった。
喋ると迫力がありすぎて怖いが、黙っていたらトロけるようなイケメンだ。
そんな男と二人並んで、という状況に余計に緊張してきてしまう。
「……褒めてくれないのか?」
「は?」
聞き間違いなのかと思い、夜王の顔をマジマジと見てみたが、どうも眉が垂れてまるで捨てられた子犬のような目で私を見てきた。
「紀野美宏、S商社で働く二十五歳。パーティーの主催者だったレオン化粧品に勤める及川瑠奈とは大学の同級生。前回俺に語った、アンスリウムという事務所は存在しないし、下着モデルでもない。そして、連絡先のピザ屋は家の近所にあってよく利用しているだけで働いたことはない」
「よく……まあ、そこまで……」
「ここまで調べたんだ。少しは褒めてくれてもいいだろう!」
意味が分からず動揺するしかない私を不憫に思ったのか、運転手をしている男がゴホンと咳払いをした。
よく見たらあのホテルの部屋のドアの前にいた人だったと気がついた。
「鋼様は、幼少期より後継者として厳しい環境に身を置かれ、できて当たり前、できなければ叱責を受けるという中でご成長されました。それでも一度だけ、今は亡き祖父の黒鉄様に頭を撫でられて褒められた経験がありまして、それ以来、褒められることを求めていらっしゃいます」
「えっ……」
いきなり重い話題をぶち込まれて、ますます身動きが取れなくなってしまった。
「誰でもいい、わけではないのです。理想の声、匂い、体温、触感、もちろん見た目もですが、一番重要なのは相手を癒したいと思う気持ちを持っている方。鋼様はずっと探しておられたのです」
「え? もしかして……それが、私……ですか?」
夜王を見ると、さっきまでラスボスのような存在感を放っていたのに、今はどう見ても待てをしている犬のような顔をしていた。
こんなの嘘だと思いながら、そのウルウルしている目に私の中に潜んでいる庇護欲がめきめき刺激され始めてしまった。
「でも、それは……何かの間違いでは……? 女性なんてたくさんいますし……たまたまとか」
「それはない。なぜなら俺はずっと勃たなかったからだ」
「なっっ…!」
それを言われたら女の身としては、仕組みが分からないので何も言い返すことができない。
大変なんだろうなという想像だけしかできなかった。
「五年前、お前と同じ二十五歳の時。祖父が死んでからだ。何もしてもダメになってしまった。思えばまた褒められたいという思いでずっとやってきた。それを失って何もかも虚しく……」
そんな話を聞かされて、しょんぼりした顔を見せられたら、否定しようと意地を張っていたものが崩れていってしまった。
大変そうな事情もありそうだし、私の可愛がりたいという欲求も満たすことができる。
何を躊躇うことがあるのだろう。
こんなのは別に恋愛ではない。
治療みたいなものだ、お互いにとっての……。
「……ほら、これでいいですか?」
手を伸ばした私は、夜王の頭に触れて、そのまま軽く撫でてから手を離してみた。
夜王の顔は、あの夜みたいに真っ赤に染まって、トロンと溶けそうな目になった。
なんて顔をするんだと心臓が鷲掴みされたみたいに、どくどくと揺れてうるさくなってしまった。
「分かりました。その、夜王さんの下半身の治療には協力します。その代わり、私にも協力してくれませんか?」
この際だから話してみるかと、私はまた一歩踏み出すことにした。
一度自分の囲いを壊してから、色々と抵抗がなくなってしまった。いい傾向だと思いながら、夜王に自分の話をすることにした。
「なるほど、そのクソみたいな男を忘れるためにパーティーに繰り出したということか。それで一夜の相手を求めて、俺に嘘をついて近づいたと……」
食事をしながらの話ではないなと思いながら、私は夜王行きつけのレストランで自分の話を聞いてもらった。
まだ、個室だったので話しやすい雰囲気ではあった。
夜王はさすが経営者だけあって、所々で的確な質問を入れてくれたので、私の下手な説明でも上手いこと伝わってくれたらしい。
「忘れたいというのは確かにそうです。ただ、恋愛感情とかは冷めた部分もあったので気持ちの面では吹っ切れています。私が悩んでいたのは……その、愛を交わす行為のことで……」
「ああ、セックスのことか」
こんな明るい場所でハッキリ言われてしまうと、恥ずかしくなってしまう。
私は耳が熱くなるのを感じながら、コクンと頷いた。
「フラれた原因はそれが大きいと思います。私はそれが上手くできなくて……彼が冷めてしまったのが分かりましたから。努力はしたんですが、全然上手くできなくて……」
「ちょっと待て、ソイツは不能なのか? 行為が上手くできないのは向こうの原因もあるだろう?」
「そ…それは、勃つ問題は大丈夫だと思います。ただ、私の技術的な部分と受け入れる部分が未熟だった……と言いますか」
カンと音を鳴らしてフォークを皿に置いた夜王は明らかにイラついている様子だった。
まただ、また私の後ろ向きな性格は男の人をイラつかせてしまう。
元彼にも散々言われてきたことだ。
お前の言うことはいつもジメジメしていて気分が悪いと……。
「気に入らない」
やはりまた、と私は背中に嫌な汗が流れていくのを感じた。
出会ってから日も浅いのに色々と打ち明けてしまった。この人にまでキツく言われたらと体にぎゅっと力が入った。
「その男の名前を言え。必要なら俺が社会的に抹殺してやる」
「ええ!?」
「なぜ上手くできない原因を全てお前に押し付けるんだ。本来二人で解決すべきことなのに、結果としてお前ばかりが悩んで傷ついているように見える。そんなことはおかしい、同じ男として我慢ならない!」
冗談だと思ったのに、名前と電話番号を教えろと迫られて、これは本気だと焦ってしまった。
とりあえず、今はもう関わりたくないと言って何とか落ち着いてもらった。
「美宏がそう言うなら仕方がない。それなら、俺が教えてやる。と言っても俺もずっとご無沙汰だったワケだから上手くできるか分からない。それでもいいか?」
「……はい、それが私の望みです」
さりげなく夜王が私の名前を呼んだ。
そういえば、前回は名前を呼ばれることもなく、駆け足のようにあんなことをしてしまったなと、今更思い出してまた恥ずかしくなった。
□
必要なのはほんの少しの勇気。
髪型やリップの色を変える。
それだけでこんなにも気分が変わるなんて思わなかった。
ずっと変わりたいと苦しんでいた。
一歩踏み出せば世界は全く違うものに見えた。
今日だけ。
今夜だけでとけてしまう魔法だとしても。
私には十分に大きな一歩だった。
この先にもしかしたら、私が探していた答えがあるのかもしれない。
着飾ったことで、自分が解放されたような気分だった。
もがきながら生きてきた私の、自分の中に秘めていた願望が芽を出したような気がした。
そう、花が咲くまではあともう少し……
「別れよう」
その言葉を聞いた時、ああやっぱりきてしまったと思った。
「俺が言いたいこと、分かってるだろう?」
そんな言い方をするなんてずるい。
だけど、言い返すことなんてできなかった。
「結婚するんだ」
息を呑んで顔を上げると、二年付き合った男の顔がぼんやりと浮かんでいた。
「……悪い、先週見合いをしたんだ。ほら、うちは母が早く孫の顔が見たいってうるさかっただろう。勝手に引き合わされてさ。そしたら向こうが気に入ってくれて、すぐにでもって……それで俺も決心がついた。お前には悪いけど、俺達、もう無理だっただろう」
努力はした。
仕事が忙しくてなかなか会えなかったけど、必死に良い彼女でいたいと頑張った。
それがいつしか空回りして、一緒にいても一人だなと思うことばかりが増えていった。
「……ひとりで決めちゃうんだね。いつだってそうだった」
「だから、悪いって言ってるだろう。俺だって努力はしたさ、でも限界だったんだ」
分かってる。
最初は色々と頑張ってくれていたことは……。
思うところはたくさんあるが、その頃の気持ちがあるから全てを責めることができない。
「じゃあ……な、部屋の鍵は交換するから返さなくていい」
「なにそれ……」
まるで私が合鍵でも作っているみたいな言い方をされてしまった。
返事も聞かず、逃げるように去っていく後ろ姿を見ながら、涙ひとつでない自分はやはりおかしいのだなと思った。
私、紀野美宏の両親は教師だった。
一人っ子だったこともあり、二人の先生から厳格に育てられた。
幼い頃から様々な習い事をさせられて、自分の好きなものというより、親が好きなものを与えられてきた。
言う通りにしなさいと言われて、親の顔色を伺ってどうしたら怒られないか、そればかり考えていた。
過保護でもあったので、高校生になっても洋服すら自分で選んだことがなかった。
それが変わったのは大学に入ってから。
両親が壮絶な喧嘩の果てに離婚したことがきっかけで、二人とも家を出てしまい、突然一人だけ野に放たれたようになった。
ある程度のお金は貰えたが、生活能力ゼロの状態で、友人を頼りながらなんとか踏ん張って生きてきた。
そんな私の前に現れたのがか祐介だった。
大学時代の先輩で、祐介が社会人になってから集まった時の飲み会で、連絡先を交換して付き合い始めた。
私はとにかく性的なものとは縁遠かった。
母はそういったものは一切排除して、見聞きしないようにしてきて、派手な友人とは付き合わないようにと友人関係にも口を出してきた。
箱入り娘といえば聞こえはいいが、男は全部痴漢だと思えくらいの教えを受けた。
ずっと女子校だったので、男子ともまともに話したことがなく、大学に入ってやっと話せるようにはなったが、友人レベルまではとても無理だった。
私がガチガチに緊張して築いていた壁を、いとも簡単に飛び越えてきたのが祐介だった。
遊び出すようになってからすぐに告白されて、なかば強引ではあったが付き合うようになった。
しかし、野に放たれて自由になった私ではあったが、その足には足枷がついたままで、完全に解放されたわけではなかった。
意識の中ではまだ両親の支配下にあって、祐介との付き合いでは、どんどん綻びが出てきてしまった。
男慣れしていない。
初めはそのことを珍しがって喜んでくれた祐介だったが、自分の意見が言えず、すぐに落ち込んだり暗くなったりする私が面倒になっていったようだった。
お前は繊細すぎると言われて、まめにくれた連絡も少なくなり、扱いはどんどん雑になっていった。
決定的だったのは、体の相性だろう。
初めてだった私は何もかも下手くそで、祐介も初めは頑張ろうと言って色々と教えてくれたが、痛がって全然いい反応ができずにいるとイライラを募らせていくのが分かった。
お前はマグロだ。
そう言われた時は喧嘩になった。
私だってネットを見て研究して、色々試してみたいと誘ったが、そのころには祐介の態度はもうすっかり冷めていた。
祐介はプライドの高い男だった。
付き合った女性は皆満足していたと言われて、私は自分が悪いのだと思い、それから何でも謝るようになってしまった。
愛の行為は私が一方的に動くだけとなり、彼は本当のマグロになってしまったが、それは楽しめないからだと言われてしまい、ただ傷ついてなにも言い返せなかった。
当然気持ちのいいものではなく、虚しさの残るだけの行為に、もう気持ちは向かなくなってしまった。
こうして私達はレスとなり、月日だけが過ぎていった。
祐介の実家は地方の名家であるらしく、度々母親から早く結婚しろという連絡を受けているのを見てきた。
まだそのつもりはないから、そんな相手はいないから、祐介はそう言って電話を切っていた。
横でそんな話を聞いていた私のことを、祐介はどう思っていたのだろう。
一緒にいても一人だ。
その時から私の心も離れてしまった。
そして付き合って二年目の記念日。
ついに別れを切り出されてしまった。
「別れて正解、あんな男、全然美宏に合ってなかったわよ。ちゃっかり次を見つけてから別れを切り出すところも本当最低」
バーのカウンターをドンっと叩いて壊しそうな勢いで、友人の瑠奈は怒っていた。
「ごめんね。色々相談に乗ってくれたのに、こんな結果になっちゃって」
「何言ってんのよ。私と美宏の仲でしょう。もう、今日は飲んで、全部奢るから」
飲んで忘れようと瑠奈は置いてある私のグラスと勝手に乾杯して、自らぐっとカクテルを飲み干した。
瑠奈とは大学時代からの友人だ。
ともに社会に出て二年目、私は一般職の事務員、瑠奈は化粧品メーカーで働いていて、歩んだ道は違っても仕事帰りよく待ち合わせて飲みに行く関係は続いている。
両親が離婚して、右も左も分からずに野に出た私に、生活について色々と教えてくれたのが瑠奈だった。
小中高と親の干渉があってまともに友人付き合いができなかった。
初めて自分の意思でちゃんと仲良くなった友人で、勝手に親友だと思っている。
祐介のことも散々相談して、やめておきなと言われていたのに結局こんなことになってしまった。
心が空っぽになってしまって寒く感じたが、瑠奈が側にいてくれるので、なんとか笑っていられる気がした。
「気持ちは……お互い離れていたから。私だって別れようと思ったけど、その度に付き合ったばかりの頃を思い出して……言えなかっただけ。ショックが少ないのはそのせいかな。でも、当分引きずりそう」
「美宏……」
言葉にすると簡単だ。
複雑だと思っていた胸の内は、自分から言えなかっただけ、そんな単純な言葉で終わってしまった。
もっと足掻いて泣き叫んで、そんなことができたらよかった。
苦い思いだけがいつまでも体に染み付いて離れてくれそうになかった。
「じゃあ、これでいいね。今、申し込んだから」
溶けていく氷を見ながら、ふわふわとした気持ちで夢と現実を彷徨っていたら、瑠奈の声で我に返った。
「……え? 何のこと?」
「ちょっと、美宏。聞いてなかったの? アフターパーティーの話だよ」
「あふたー? なに?」
「来月、うちの会社が主催する新作の発表会のアフターパーティー、紹介制で参加できるんだけど、目玉は芸能人がわんさかくるの。アンタ、そこでワンナイトキメるってさっきまで拳突き上げて燃えたじゃない」
「……えっ、私が!?」
ハイペースで飲んでいたらすっかり酔いが回ってしまったらしい。何を話したのか全く覚えていない。
「もう、美宏の名前で予約入れちゃったから、これ秘密厳守だからキャンセルできないのよ。私が紹介者だから怒られちゃう」
「はい!? え!? 嘘、何? 芸能人が来るパーティーに出るの?」
「芸能人って言っても、これから売り出す予定の卵ちゃんが多いかな。その点、スレてなくて可愛いー男の子がたっくさん。この際だからさ、未来のスター君達を食いまくっちゃいなよ」
「……瑠奈、ちょっ……何を……」
瑠奈は友人としては最高に良い子なのだが、男に関しては来るもの拒まず去るもの追わずのカジュアルな精神を持っている。
誰にも文句を言われないような可愛いルックスの持ち主だが、そこで意見が合致しないことは多々あった。
食いまくるなんて、両親が聞いたら卒倒しそうなワードだ。
しかし、そこまで考えて、おかしくなってしまった。
私はいつまで誰かの顔色を気にしないといけないのだろう。
もう、私を見てくれる人などいないのに……。
今までの自分から変わりたい。
そう思ったら、これはチャンスなのかもしれないと希望が湧いてきてしまった。
「祐介さんのほとんどは理解できないけど、一理あることはある! 美宏、アンタ最近いつ美容院に行った?」
「え!? ……半年…前? あれ去年だった…かな」
「メイクも私があげたもの全然付けないし、眉くらいしか描いてないよね? 洋服だってそれ、五年前の流行のトップスにパンツスタイルじゃん。前にワンピースとかスカート履いたのいつ?」
「えっ……………」
思い出せなくて悩む私に、瑠奈は大きなため息をついてきた。
「なにもパンツスタイルだからダメってわけじゃないの。似合ってたら問題ないし、好きな格好をすればいい。だけど、せっかく女の子なのに、プライベートでも新米の教師みたいな格好をするのはもったいないのよ」
そう言われるとまた悩んでしまった。
両親の教えでは、肌は隠すのが常識、髪はひっつめてメイクは薄く、これが立派な社会人だと言われて育った。
知らず知らずのうちに、その教え通りに何もかも生きてきてしまった自分に気がついた。
「好きな人の前で可愛くありたいとか、綺麗だって言われたいのなんて、自然な感情よ。それを否定したら、いい恋愛なんてできない。お互い裸を晒して、着飾って、そういう楽しさを美宏にも感じてもらいたい」
「瑠奈…………」
そんな風に思ってくれていたなんて感動してしまった。確かに自然体と言えば聞こえはいいが、完全に自分磨きを忘れていたことは確かだ。
もともと、メイクやおしゃれには興味がなかった。祐介がたまには明るい色の服を着たら? なんて言っていたのを今さら思い出してしまった。
「何のためにここに瑠奈サンがいると思ってるわけ? 持つべきものは便利な友人だよ」
キスをしそうなくらい顔を近づけてきた瑠奈は、軽くそう言ってウィンクしてきた。
私はまた夢の続きを見ているみたいな、ふんわりした気持ちになって、にっこりと楽しそうに笑う瑠奈の口元を見ていた。
「ねえ、やっぱり。このスカート短すぎない?」
「それ、スカートじゃないの。中はショートパンツだよ。上のトップスとセットアップになっててワンピースみたいにも見えるし可愛いでしょう!」
瑠奈行きつけのサロンで、上から下まで徹底的に磨かれて、パーティー用のドレスまで用意してもらった。
トップスの胸元は隠れているが、肩がばっくり空いていて、二の腕の位置に申し訳なさそうにフリルが付いている。
ベースは濃い青色だが、金色のラメが散りばめられていてまるで夜空のようなドレスだ。
「思った通り、美宏は胸がデカいから絶対このタイプ似合うと思ったんだよね。変に谷間を出すよりセクシーだと思わない?」
「え……、それ、なんて答えればいいの?」
「いーからいーから、鏡を見てみなさい~」
大きな姿見の所まで連れて行かれて、その前に立たされた。
俯いていたが、恐る恐る顔を上げるとそこには、今まで自分だと思っていた自分は映っていなかった。
さすがにそれは大げさな言い方だが、それくらい良い意味でショックを受けた。
いつも後ろで引っ詰めていた髪は下されていて、ウェーブがかけられて、空気たっぷりにふわりと揺れていた。
厚い前髪も横に流されて、苦手だったおでこが丸見えになっていた。
プロのメイクはさすがで、小ぶりな目も鼻も口も、しっかり存在感が出ている。
「わっ、魔法みたい!」
「いーね、その小学生みたいな驚き方」
横で瑠奈がニヤニヤと笑っているが、そんなことも気にならないくらい夢中で鏡の中の自分を見つめてしまった。
「美宏は化粧映えする顔だと思ったんだよね。この仕上がりなら……時間的に考えて、三往復して三ナイトくらいはできるよ」
瑠奈が私では思いつかないありがたい計算をしてくれて鏡に頭から突っ込みそうになった。
「瑠奈……あのね。ここまでしてもらって感謝してるけど、私……」
「固いこと言わないの! 楽しめばいいんだから、ほら、行くよ!」
エメラルドグリーンの地中海みたいなラグジュアリードレスを纏った瑠奈が腕を組んできて、そのままぐいぐい引っ張ってきた。
私は苦笑しながらも、この雰囲気に気分は上がっていき、瑠奈に連れられて未知の世界に飛び出した。
瑠奈の会社が主催する商品の発表会は、都心の大きなホテルで開かれた。
そして、そのホテルのいかにもセレブなプール付きの会場でアフターパーティーは始まった。
セクシーでノリのいい音楽、ピンクとブルーにライトアップされた会場。
水着のセクシービキニの女の子達までいて、私にはまさに異世界だった。
テーブルに並んだ色とりどりのカクテルから、好きなものを一つ取って、ゆっくり口に運んで喉を潤した。
酒の勢いでも借りないと乗り切れない空間だ。
「いい? 美宏。設定を思い出してね。ここは別世界だよ、なりきって楽しんじゃいな」
「……うん」
いつもと違う、メイクに洋服。
それだけで、こんなに生まれ変わったような気持ちになれるなんて思わなかった。
ライトアップされた階段を一段降りる度に、違う自分に変わっていく気がする。
これはきっと魔法のせい。
一夜だけの特別な魔法。
今ならどんなダンスでも踊れそうな気分だ。
ここに来るまではまだ葛藤があった。
ワンナイトなんて話は、ただの冗談で雰囲気だけ楽しむつもりだった。
でも、一歩進むごとに私の気持ちは、パーティーの色に染まっていった。
私の探していた答え。
それはつまりセックスだ。
元カレとのセックスは、辛くて悲しい思い出しかない。そのせいでフラれたというのも大いにある。
そもそも、セックスとはそんなに苦しいのか。
それならなぜ愛し合う恋人達は求め合うのだろう。
ワンナイトなら……
いつもは絶対聞かないことも、偽りの自分であれば、上手く聞き出せるかもしれない。
そして、実際に体験することができたら……
「グラス、空だよー」
「はいはーい、飲んでる?」
突然ノリのいいお兄さん達に話しかけられた。
緊張してガチガチになった私の背中を、瑠奈がポンと撫でて前に出てくれた。
「飲んでまーす。お兄さん達は? 一緒に飲もうよ」
さすがの社交スキルだ。
一言で二人との距離をぐっと詰めてしまう。瑠奈の笑顔にお兄さん達は完全に心を奪われたようだった。
二人のお兄さんは、俳優の養成所に通っているらしく、瑠奈の言っていた通り俳優の卵で、見た目もカッコ良かった。
「ええと、ミヒロちゃんは? 何してる人?」
「わ……私は、下着のモデルしてます」
商社の事務員じゃ気分がアガらないと言われて、瑠奈から事前に色々と設定を組まれていた。
今夜の私は、下着モデルのミヒロ、好みの子がいたらガンガル攻めちゃう女豹、という設定だった。
「うひょー、ヤバくない? マジで、そういう目で見ちゃう」
「エロー、お姉さん、イイ体してるもんね」
明らかにイヤらしい目つきに、下品な返しをされた。いつもだったら、睨みつけて靴を踏んでしまいそうなくらいだが、今日は全然怒りが湧いてこない。
むしろエロいなんて言われたら、ゾクゾクして嬉しくなってしまった。ドレスアップ効果はとことん効いているらしい。
いつの間にか気を利かせたのか、瑠奈がどこかへ行ってしまった。
お兄さん達とのお喋りは続いていて、二人は私に体を密着させてきた。
初めての人と本当にできるのか、勢いでここまできたが、だんだん冷静になってきた時、ワァァーーと女性達の黄色い歓声が聞こえてきた。
「あー、いよいよお出ましか」
「今日も始まるのかねー、よくやるよなぁ」
二人のお兄さん達が、奥のスペースを見ながら何やら話していたので、私も一緒にそちらを覗き込んだ。
「誰が来たの? 何かのイベント?」
「あれ? ミヒロちゃん知らない? キングだよ」
「業界の人なら有名人だろ? 夜王鋼さんだよ」
「はい? 俳優さん?」
テレビはあまり見ないので芸能人にはほとんど詳しくない。
最近のドラマに出ていたなんて言われても付いていけそうになかった。
それにしても変なホストか、厨二病の考えそうな名前に笑いそうになった。
「え? キングってほら、芸能事務所の、社長だよ。若くして業界最大手になって、バリバリ稼いでいるって」
「キングに所属できたら絶対売れるって言われててさ。みんな群がってるだろう、あそこにいるヤツらは夜王さんの靴ぐらいなら喜んで舐めるよ」
キングという芸能事務所の名前は確かに聞いたことがあった。瑠奈から、あそこのタレントやモデルを使えば間違いなく商品はヒットすると熱く語られたような記憶があった。
「女性がたくさんいるけど、何か始まるの?」
「キングが出るパーティーでは、定番なんだよ。誰がキングのアフターパーティーの相手をするかってね」
「女性がこぞってアピールするくらいだぞ。噂だと、ベッドの上でもキングらしいって……」
「どんな女性でも昇天させて、本当にそのまま天国行きだって噂、あれ、笑えないよな」
すごい情報を聞いてしまったと、私の耳は倍に大きくなった。
どんな女性でも。
これは私にとっても天国行きの切符のようにしか聞こえなかった。
「でも選ばれる子なんて、実際にはいないって……あれ? ミヒロちゃん? あれー?」
私はウェイターが通る隙に、人混みに入り込んで二人から離れた。
ターゲットを変えるなんて頭がおかしくなったとしか思えないが、私の体は動いてしまった。
どんな女性でも天国へ送れる男。
この人以外に私のワンナイトにぴったりの相手はいないのではないか。
セレブな男性といえば女性を五、六人侍らせてイチャイチャしてそうなイメージだ。
その一人にでも加わることができたなら、願わくば最高の経験ができるかもしれない。
それができたら、この先の恋愛もきっと自信がついて上手くいけるような気がした。
キングがいるという奥のスペースまでやって来ると、同じようにキング目当ての女性達がわらわらと集まっていた。
キングはソファー席で楽しくやっているらしいが、人が集まりすぎていてよく見えなかった。
しかも鎖で区切られていて、勝手に奥まで入れないようになっている。
これではアイドルのコンサート状態だ。
ファンとして眺めるだけで終わってしまいそうだった。
やはりダメかと思っていた時、何やらマイクを持った司会みたいな男が歩いてきて女性達の前に立った。
「ではでは、パーティー恒例のキングへの愛の告白タイムでーす。選ばれた女の子はマイクを渡すからその場で夜王さんに告白してアピールしちゃってー! 今日こそ夜王さんのハートを射止める子は出てくるのか!?」
なんじゃそりゃという変なイベントが始まってしまった。みんな我先にと手を挙げて、右も左も押してくるので揉みくちゃになった。
「夜王さんー! キング、愛してるー!」
「鋼様、私は鋼様の下僕です。なんでもします」
「好きです! 愛人の一人でもいいです。可愛がってください」
次々と選ばれた女の子が告白していくが、奥の席はよく見たらカーテンが引かれていて、そのカーテンが少しも波打つことがなかった。
本当にいるのかさえ怪しいと思ってしまった。
「じゃあ、次は君!」
あまりの事態に付いていけなくて、ボケっとしていたら、司会の男に指をさされてしまった。
そこでようやく呆けていたのだと気がついた。
自分が選ばれることを想定していなくて、何も考えていなかった。
ここはキングが好みそうなことを言うしかないのだが、当たり前だが何も知らない。名前をさっき知ったばかりの相手なのだ。
マイクを渡されて、喉から言葉が出てこなくて固まってしまった。
仕事も女も金も、何もかも手に入れた男だ。
そんな男が何が楽しくてパーティーでこんな余興をやっているのか知らないが、男が求めるものなど分かるはずもない。
緊張で目眩がしたが、頭に思い浮かんできたのは元彼との日々だった。
プライドの高い元彼のために、ひたすらご機嫌を取って言う通りにしていたが、私にだって理想のお付き合いがあった。
一人っ子だった私は、兄弟のいる子が羨ましかった。
道で転んだ弟のお世話をするお姉ちゃん。
泣いている弟の頭をヨシヨシと撫でている姿。
子供の頃、それを見た私は羨ましくてたまらなかった。
私もあんな風に絶対的に甘えられたい。
あんな風に私も……
「ヨシヨシしたいです」
私の言葉にさっきまで盛り上がっていたのに、会場中がシーンと静まり返った。
「いっぱい甘やかして、いい子いい子して……ぎゅっと抱きしめてあげたいです」
鼻息荒く熱弁してしまったが、あまりの静けさに一気に酔いも冷めて青ざめた。
まさかこんなことを言うつもりはなかった。
つい調子に乗って自分の願望を口にしてしまった。
これは酷すぎる。
王様と崇められる人を侮辱してしまった。
パーティーをつまみ出される可能性があるなと思い、足がガタガタと震え出した。
司会の男の人もマズイものでも食べたような顔をしていたが、次の瞬間カーテンがわずかに揺れたのが見えた。
「おおおおっと、これは……!! もしかして、そちらのレディーにチャンスが! どうぞ、こちらに!」
風でも吹いたんじゃないのかというくらいの変化だったが、司会の男は私の腕を掴んで奥のスペースに引っ張ってきた。
「あの、なんですか? チャンスって?」
「夜王様が興味を示したんですよ。作戦成功ですね、レディー、お名前は?」
「ミヒロ……です」
会場からは悲鳴のような女性達の声が聞こえてきた。
それを背中に司会の男に逃がさないぞという力強さで腕を引かれて、奥のスペースに連れて来られてしまった。
「ボス、ミヒロさんです」
「……入れ」
お腹に響くような低い声が聞こえてきて、私はビクリと肩を揺らした。
よく分からないが、彼の喜ばせ係の一人に選んでもらえそうなところまできた、ということだろうか。
こういう世界の人は一般人とは違う。
世間的にはクリーンに見えても、裏社会とかと繋がりがあって、ヤバい人であることはなんとなく想像できる。
ごくりと唾を飲み込んでから、失礼しますと言ってカーテンをくぐった。
怖くて顔が上げられない。
もじもじとしながら、自分の足元を見ながら中を進んだ。視界の上の方に上等そうなピカピカと光る革靴が見えて足を止めた。
「顔を上げろ」
獣の檻にでも入ったような気持ちだったが、しっかりしろと自分に言い聞かせた。
今日の私には魔法がかかっている。
失敗したってもとのカボチャに戻るだけだ。こんな世界の人達とはなんの繋がりもない。
好みに合わなければ、出ていけと言われるだけだろう。
息を吸い込んでから、私は顔を上げた。
目に飛び込んできたのは、想像とは違いやけに甘い顔をした男だった。
栗色の髪に同じ栗色の瞳、高い鼻梁で整った相貌だが、整い過ぎてキツすぎる印象はない。
少し垂れた目元が強さを和らげているらしい。
戦い抜いてきたライオンのような人だと思っていたが、椅子に座っている男は絵本から出てきた王子様のような外見をしていた。
しかし柔和な外見とは違い、やはり目線は冷たくて上から下まで見られたら、凍りつきそうになった。
「……さっき言った言葉は本当か?」
「え………?」
氷の国の王子様から何を聞かれたのかと一瞬戸惑ってしまったが、先程の告白のことだと気がついた。
興味を示してくれたということは、何か触れるものがあったはずだ。
上手くいくとは思えないが、ここはやってみるしかないと腹をくくった。
「ハイ、そうです」
まただ。
夜王は無言で私のことをじっと見てきた。
気を引くための嘘だと思われたのかもしれない。
そこは嘘ではないのだが、ここは駆け引きが必要だと思った。
「あの、わ…私、以前より、夜王さんに憧れていまして、どうか……今夜は私と……」
考えてみたら初対面の男を自分から誘うなんて、今までの私ではありえないことだ。
ここはファムファタールになりきって、誘惑したいものだが、さすがにそれは無理だった。
ミスをして叱責を受ける社員のように立ち尽くしていたら、ガタンと椅子から立ち上がった音がした。
見ると目の前に夜王が立っていて、私を見下ろしていた。
すらりと背が高く、近くで見ると存在感が凄すぎて、色気にむせてしまいそうだった。
夜王は私の顎を指で持ち上げて品定めするみたいに近くで見てきた。
「……気に入った。行くぞ」
今のひどい誘い方で正解だったのかよく分からないが、どうやら気に入ってくれたらしい。
ホッとする暇もなく、夜王は部屋の隅にあるドアをくぐって出て行ってしまった。
私は後ろ姿を魅入られたように眺めてしまったが、慌ててその背中を追いかけて走った。
ドキドキと心臓の音が激しく鳴って少しも収まらない。
私はすでに天国に連れて来られてしまった。
パーティーが行われていたホテルの最上階。
当然一般人は立ち入り禁止で空気すら触れることができない場所だ。
ブラックの大理石の壁、床は汚したら二度と綺麗にならなそうな白い絨毯。
まるで雲の上のようなそこを、今にも下界に落ちそうな私は恐る恐る歩いていた。
冗談ではなくふわふわとして、誰も見ていなかったら飛び跳ねてしまいそうだ。
プライベート用の特別な出入口から、最上階行きのエレベーターに乗った私は、この天国みたいな空間に連れて来られた。
エレベーターの中で私は夜王から、身上調査のような質問を受けた。
当然敵が多い人なのだろう。
すぐに真偽は見分けられないだろうが、一応聞いておく必要があるのだろうなと思った。
簡単に住んでいる地域や仕事について聞かれた。
私は設定通り、架空の事務所の名前を出して、下着モデルとして働いていることを伝えた。
いくら業界人でも、小さなモデル事務所までは把握していないのだろう、それ以上具体的に話を聞かれることなく終わったのでホッと胸を撫で下ろした。
雲の上を進んで、真っ白な両開きのドアが開けられたら、私はいよいよエンパイアスイートと呼ばれる完全な異空間へと足を踏み入れた。
心の中で絶叫してしまった。
まるでお城の中のような空間だ。
白で統一された室内はどこを見ても絢爛豪華な作りになっていて、金箔が塗られた家具や調度品はそれ一つが芸術品のように煌めいていた。
そして入ってすぐの部屋は、全面が窓になっていて、宝石みたいな夜景が一望できた。
高鳴る心臓を押さえながら、私は窓に近づいて夜景をうっとりと眺めてしまった。
一方、夜王はそんな景色など日常だという様子で全く興味がなく、バサリと上着を脱いで他の部屋に行ってしまった。
さて、どうしたものかと私は腕を組んだ。
これから夜王の喜ばせ隊と合流して、ナイトパーティーが始まるのかもしれない。
何しろベッドの上ではマグロだと罵られた女だ。
どうやって何をすればいいのか、ここしばらくそういうことは遠のいていたから、頭が真っ白になってしまった。
すっかり頭から抜けていたが、ハードなプレイでも求められたらどこまでできるのだろうか。
頭の中で妄想が膨らんでパンクしそうになっていたら、他の部屋に行っていた夜王が戻ってきた。
「こっちだ」
呼ばれて慌てて夜景を背中にしてくるりと振り返ると、なんと夜王はもうバスローブ姿で準備万端だった。
「あ、あの、私もシャワーを……」
「必要ない」
そう言われてもこっちは気になると思ったが、そういうプレイなのかもしれないと思った。
この人のことが何も分からない。
もう始まっているのかすらも分からなかった。
寝室のドアが開けられると、そこには部屋の真ん中にやはりキングサイズのベッドがドカーンと置かれていた。
飛び跳ねたら空の上まで飛んでいきそうだなと思っていると、夜王にベッド上に座るように促された。
「他の皆さんは?」
「いるわけがないだろう。それとも複数プレイが希望なのか?」
「い…いえ、まさか。夜王さんがご希望なのかと……」
そう言うと夜王はムッとした顔をしながら、私の膝の上に頭を乗せてきた。
これは……膝枕?
「あの……」
「やらないのか?」
それはこっちの台詞だ。
てっきり狼に襲われるくらいの覚悟でいたのだが、まさかの膝枕の状態に唖然としてしまった。
「俺が好きなんだろう? やりたいと言っていたじゃないか」
それはそのつもりで来たのだが、まさかここは私から襲わないといけないのかと混乱してしまった。
しかし、私の太ももに当たる夜王の髪の毛が思った以上にふわふわしていて、私は思わずそこに手を伸ばした。
どんないいシャンプーを使ったらこんな髪になるのか……。
触り心地は極上のシルクのようだ。
ツヤツヤでふわふわで、指に絡めたらスッと抜けていく。
私は我を忘れて夢中で夜王の頭を……撫でてしまった。
「んっ…………」
ドキッとした。
夜王の口からなぜか艶っぽい声が聞こえてきて、一瞬で我に返って手を止めた。
マズイ……、マズすぎる、また私の願望が勝手に暴走して手が……。
「どうした? 今いいところなんだ。もっと……やってくれ……」
怒っているのかと思いきや、私は目に入ってきた光景に心臓が飛び跳ねるように揺れてしまった。
私に撫でられている夜王は、頬を赤く染めて、トロンと茹でられたような甘い目になっていた。
まさか……まさか、これは……
「ああ、やっぱり、思った通りだ……」
まさかまさかと思いながら、夜王の頭を撫で続けると、夜王は目を細めて顔を赤くして、ハァハァと息を漏らし始めた。
…………この人。
あの私の告白の通り、ナデナデされたかったんだ。
そういう、性癖ってやつだ。
「今夜……こんなに……理想の手に会えるとは思わなかった。ずっと……反応しなかったのに、もう、痛いくらいだ」
夜王がもぞもぞと下半身を動かしているので目を向けると、バスローブで隠れているが下半身の部分が明らかに膨らんでいた。
まさか……あれは。
もう、アレしかないだろう。
「……そこも、触った方がいいですか?」
「いい……、もっと……もっと撫でて……」
いちおう聞いてみたが、それよりこっちだと頭に集中するように言われてしまった。
仕方なく頭を撫で続けたが、そこで私の気持ちもどんどん熱くなってきてしまった。
思い出したのはお姉ちゃん痛いよと言って泣いている男の子。
痛かったね、お姉ちゃんのところにおいで。
そう言われて抱きついた弟の頭を、優しく撫でていた女の子。
羨ましかった。
一人ぼっちが多かったから、あんな風に全てを預けるように愛情を求められて、撫でて返してあげるなんて関係が羨ましくてたまらなかった。
夜王のふんわりとした髪が、私の眠っていた欲求を呼び覚まして満たしていく。
私に撫でられて、興奮している様子も、まるで絶対的な愛情を求められているようでたまらない快感だった。
気がつけば頭から顔から首筋から、無茶苦茶に可愛がりながら撫で続けていた。
「……はぁ……ハァハァ……」
男の人がこんなに喘ぐのなんて知らなかった。元彼は行為の最中はひたすら無言だった。
感じてくれているのか分からなくて悲しく思っていたくらいだったのに、この人は撫でるだけでこんなに声を上げるなんて……
「……くっ…ああっっ」
腰を揺らしていた夜王は、ひときわ大きく息を漏らした後、詰めた声を上げて体をビクビクと揺らした。
それが何を意味しているのか、シーツの上に飛び散った白濁を見たらすぐに理解できた。
しかしこれが現実とはとても思えなかった。
絢爛豪華な天国で私は呆然としていた。
満足そうに私の太ももに頭を擦り付ける男を見ながら、この状況はなんだろうと途方に暮れてしまった。
「もうーー、あの後連絡がつかなくて心配だったんだからぁ。それで天国へ連れて行ってもらえた?」
瑠奈がバーのカウンターにグラスを勢いよく置いたので、中に入ったお酒がこぼれそうになった。
「うー……ん。まあ、天国と言えば……天国だったけど」
「ひぁぁ、羨ましい! あの夜王さんだよ。誰が近づけるかって女優やらモデルやらが列を作って競っているのに、それを……突然現れた謎の新星が攫っていくなんて……。気持ち良すぎて見ていた私も昇天しちゃったぁ」
あのパーティーがあった週末、瑠奈に呼び出されていつものバーに集まった。
瑠奈は天国の詳細を聞こうとしてきたが、私は恥ずかしいからと曖昧にごまかした。
言えない。
絶対ヤバそうな人の、あんな性癖なんて言えるはずがない。
もしかしてどこかで聞かれていて、口を滑らせたら謎の組織に消されてしまいそうだ。
あの後、キングはぐっすり寝てしまい、仕方なく荷物を持って部屋を出た。
するとドアの前で部下だという黒スーツの男が仁王立ちしていて、このことは他言無用だと釘を刺された。
タクシー代を渡されて連絡先を聞かれたので、咄嗟に思いついたいつも注文している近所のピザ屋の番号を教えて逃げるようにホテルから出たのだった。
極上のセックスを享受させてもらうはずが、なぜか特殊な性癖を披露されて終わってしまった。
そして、余計なものまでもらってしまった。
「な……何? どうしたの?」
「え? ……あっ、あごめん!」
無意識のうちに手を伸ばしてしまい、またやってしまったと、私は慌てて手を引っ込めた。
瑠奈の髪に手を伸ばして撫でてしまい、慌てて謝った。
あの日から無意識に触り心地の良さそうな髪の毛を見ると手が伸びてしまう。
困ったことに私の潜んでいた願望に火がついてしまった。
何人か触ったが、やはり夜王の触り心地が一番で恋しくてたまらない。
あのふわふわの髪に指を入れて、地肌から優しくぐりぐりと触りたい。
ありえない感情が生まれるようになってしまい、手を自分の服に擦り付けて、違うことを考えようと意識を散らした。
「そういえば、うちの会社に変な問い合わせが来たのよ。パーティーに出ていたアンスリウムって事務所のモデルは知っているかって……」
「え? それって……、あの設定で使った架空の事務所の名前じゃない」
「もしかして……夜王さんが美宏のこと探してるんじゃないの?」
「まさか、私のことなんてもう覚えてもないって……」
カランとバーのドアが開く音がした。
いつもなら、いらっしゃいませとオーナーの明るい声が響くはずがそれが聞こえて来なかった。
「嘘……美宏、ねぇ……見て」
代わりに瑠奈の驚いた声が聞こえてきて、のんびりグラスの酒を見つめていた私は、何が起きたのかと顔を入り口のドアの方へ向けた。
入り口からガタイのいい黒いスーツの男達がトガドカと店内に入ってきて、最後にラスボス登場のようにあの夜王がゆっくりと入ってきた。
狭い店内は男達で溢れてしまい、他の客達も何事かと唖然としていた。
夜王は今日も高そうな黒のスーツに紫のタイという一般人にはとても見えない格好で、迷うことなく私の前まで歩いてきた。
「ああ、やっと見つけた。そこのピザ屋のお姉さんに用があるんだが……」
いつも狂犬みたいに男に立ち向かってくれる瑠奈も、夜王相手では尻尾をくるりと巻いて、どうぞと言って私の背中を押してきた。
「ちょっ、こんなところまで来て何ですか!?」
「この俺をヤリ逃げするとはいい度胸だな」
「ヤリ!? あ、あの夜はヤってなんか……」
「俺のことが好きだと言ったくせに、弄んで捨てるのか?」
「はい!?」
ちょっと待ってくれと大声で違うと言おうとしたが、店内中の注目の的になっていて、瑠奈の興味津々の目線を感じて言葉をぐっと飲み込んだ。
「お店の迷惑になるので場所を移しましょう」
私の提案に、夜王は満足そうにニヤリと笑った。
「どういう事ですか? どうしてあのお店を……、なんで私にまた会いになんて……」
「この前とはずいぶん違うな。服装も地味だしメイクも薄い……、そうか普段はこちらなのか」
「話聞いてますか? ……あの夜のことなら誰にも言ってませんよ。誰にだって趣味趣向はありますし……」
バーを出て、横付けされていた黒塗りの高級車に乗せられた。
もちろん運転手付きなので、広い後部座席に二人で並んで座ることになってしまった。
喋ると迫力がありすぎて怖いが、黙っていたらトロけるようなイケメンだ。
そんな男と二人並んで、という状況に余計に緊張してきてしまう。
「……褒めてくれないのか?」
「は?」
聞き間違いなのかと思い、夜王の顔をマジマジと見てみたが、どうも眉が垂れてまるで捨てられた子犬のような目で私を見てきた。
「紀野美宏、S商社で働く二十五歳。パーティーの主催者だったレオン化粧品に勤める及川瑠奈とは大学の同級生。前回俺に語った、アンスリウムという事務所は存在しないし、下着モデルでもない。そして、連絡先のピザ屋は家の近所にあってよく利用しているだけで働いたことはない」
「よく……まあ、そこまで……」
「ここまで調べたんだ。少しは褒めてくれてもいいだろう!」
意味が分からず動揺するしかない私を不憫に思ったのか、運転手をしている男がゴホンと咳払いをした。
よく見たらあのホテルの部屋のドアの前にいた人だったと気がついた。
「鋼様は、幼少期より後継者として厳しい環境に身を置かれ、できて当たり前、できなければ叱責を受けるという中でご成長されました。それでも一度だけ、今は亡き祖父の黒鉄様に頭を撫でられて褒められた経験がありまして、それ以来、褒められることを求めていらっしゃいます」
「えっ……」
いきなり重い話題をぶち込まれて、ますます身動きが取れなくなってしまった。
「誰でもいい、わけではないのです。理想の声、匂い、体温、触感、もちろん見た目もですが、一番重要なのは相手を癒したいと思う気持ちを持っている方。鋼様はずっと探しておられたのです」
「え? もしかして……それが、私……ですか?」
夜王を見ると、さっきまでラスボスのような存在感を放っていたのに、今はどう見ても待てをしている犬のような顔をしていた。
こんなの嘘だと思いながら、そのウルウルしている目に私の中に潜んでいる庇護欲がめきめき刺激され始めてしまった。
「でも、それは……何かの間違いでは……? 女性なんてたくさんいますし……たまたまとか」
「それはない。なぜなら俺はずっと勃たなかったからだ」
「なっっ…!」
それを言われたら女の身としては、仕組みが分からないので何も言い返すことができない。
大変なんだろうなという想像だけしかできなかった。
「五年前、お前と同じ二十五歳の時。祖父が死んでからだ。何もしてもダメになってしまった。思えばまた褒められたいという思いでずっとやってきた。それを失って何もかも虚しく……」
そんな話を聞かされて、しょんぼりした顔を見せられたら、否定しようと意地を張っていたものが崩れていってしまった。
大変そうな事情もありそうだし、私の可愛がりたいという欲求も満たすことができる。
何を躊躇うことがあるのだろう。
こんなのは別に恋愛ではない。
治療みたいなものだ、お互いにとっての……。
「……ほら、これでいいですか?」
手を伸ばした私は、夜王の頭に触れて、そのまま軽く撫でてから手を離してみた。
夜王の顔は、あの夜みたいに真っ赤に染まって、トロンと溶けそうな目になった。
なんて顔をするんだと心臓が鷲掴みされたみたいに、どくどくと揺れてうるさくなってしまった。
「分かりました。その、夜王さんの下半身の治療には協力します。その代わり、私にも協力してくれませんか?」
この際だから話してみるかと、私はまた一歩踏み出すことにした。
一度自分の囲いを壊してから、色々と抵抗がなくなってしまった。いい傾向だと思いながら、夜王に自分の話をすることにした。
「なるほど、そのクソみたいな男を忘れるためにパーティーに繰り出したということか。それで一夜の相手を求めて、俺に嘘をついて近づいたと……」
食事をしながらの話ではないなと思いながら、私は夜王行きつけのレストランで自分の話を聞いてもらった。
まだ、個室だったので話しやすい雰囲気ではあった。
夜王はさすが経営者だけあって、所々で的確な質問を入れてくれたので、私の下手な説明でも上手いこと伝わってくれたらしい。
「忘れたいというのは確かにそうです。ただ、恋愛感情とかは冷めた部分もあったので気持ちの面では吹っ切れています。私が悩んでいたのは……その、愛を交わす行為のことで……」
「ああ、セックスのことか」
こんな明るい場所でハッキリ言われてしまうと、恥ずかしくなってしまう。
私は耳が熱くなるのを感じながら、コクンと頷いた。
「フラれた原因はそれが大きいと思います。私はそれが上手くできなくて……彼が冷めてしまったのが分かりましたから。努力はしたんですが、全然上手くできなくて……」
「ちょっと待て、ソイツは不能なのか? 行為が上手くできないのは向こうの原因もあるだろう?」
「そ…それは、勃つ問題は大丈夫だと思います。ただ、私の技術的な部分と受け入れる部分が未熟だった……と言いますか」
カンと音を鳴らしてフォークを皿に置いた夜王は明らかにイラついている様子だった。
まただ、また私の後ろ向きな性格は男の人をイラつかせてしまう。
元彼にも散々言われてきたことだ。
お前の言うことはいつもジメジメしていて気分が悪いと……。
「気に入らない」
やはりまた、と私は背中に嫌な汗が流れていくのを感じた。
出会ってから日も浅いのに色々と打ち明けてしまった。この人にまでキツく言われたらと体にぎゅっと力が入った。
「その男の名前を言え。必要なら俺が社会的に抹殺してやる」
「ええ!?」
「なぜ上手くできない原因を全てお前に押し付けるんだ。本来二人で解決すべきことなのに、結果としてお前ばかりが悩んで傷ついているように見える。そんなことはおかしい、同じ男として我慢ならない!」
冗談だと思ったのに、名前と電話番号を教えろと迫られて、これは本気だと焦ってしまった。
とりあえず、今はもう関わりたくないと言って何とか落ち着いてもらった。
「美宏がそう言うなら仕方がない。それなら、俺が教えてやる。と言っても俺もずっとご無沙汰だったワケだから上手くできるか分からない。それでもいいか?」
「……はい、それが私の望みです」
さりげなく夜王が私の名前を呼んだ。
そういえば、前回は名前を呼ばれることもなく、駆け足のようにあんなことをしてしまったなと、今更思い出してまた恥ずかしくなった。
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