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終章 モブのエンディング
⑧真夜中に揺らして。
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コツコツと靴音を鳴らして、石造りの長い回廊を進む。
初めてここを通った時、あまりの長さに疲れるとこぼした俺に、彼は抱っこしてやろうかと言ってきた。
本気とも冗談とも取れるニヤけた笑顔だった。
それがまるで幻のようだ。
淡い思い出は長く続く冷たい床に、靴音とともに吸い込まれていった。
回廊の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。顔を上げると三人の男に囲まれながら、花が咲いたように微笑んでいるアピスの姿が見えた。
むせそうなくらい甘い匂いがこちらにも漂ってきた。
三人の男達の視線はずっとアピスにあった。
すれ違う時、アピスだけはさりげなく俺に視線を送って微笑んだように見えた。
名前を呼びたかった。
しかし名前を呼んだとしても、彼はもう立ち止まってはくれない。
どんなに小さな声でも、いつもすぐに聞き取ってくれたのに……。
賑やかな笑い声がいつのまにか消えて、俺一人静かな回廊に残されて佇んでいた。
アピスの言った通り、俺がいた場所はすっかり奪われてしまった。
いや、この光景が元々のゲームの世界なのだ。
俺だけが異質な存在だった。
元のモブの位置に戻っただけ、それがこんなに悔しくて悲しいなんて……。
胸に大きな穴が空いたまま、苦しくて呼吸ができなかった。
「イグニス……」
誰もいなくなった後で、愛しい人の名前が喉から溢れるように落ちた。
それを拾って微笑んでくれる人はいない。
テラ
頭の中に響くイグニスの声は優しく俺を呼んでいた。
その声に応えるように俺は冷たい石の床に崩れ落ちて泣き続けた。
「ほら、少し飲んで落ち着け……」
目の前にカップが置かれてた。
カップの中には真っ黒な液体があって、香ばしい匂いがした。
ファビアン先生は自分のお気に入りのコーヒーをいれてくれた。
俺はぼんやりと黒い液体が揺れるのを見つめていた。
「テラ、その……大丈夫なのか? いったい何があったんだ? どうしてイグニス様が…学院中の人間が混乱しているよ」
横に座っているブランソンが心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできたけれど、いつものように笑顔を返す元気がなかった。
ついに三兄弟が全員アピスと仲良くなった。誰が恋人なのか、三人とも恋人になったのではないか。
アピスにぴったりと寄り添って歩くイグニスを誰もが困惑の目で眺めていた。
俺が公認の恋人だということはみんな知っていた。それなのに、アピスとまるで恋人のように寄り添っている。
ついにテラは飽きられたのだ、捨てられたのだと、そんな話がどこからともなく聞こえてきた。
「アピスに操られているんだ。禁具と呼ばれる古代の魔法具を使って三人を魅了して虜にしている」
項垂れて口元を押さえている俺の代わりに、ファビアン先生がブランソンに説明してくれた。
「クソっ…何でだよ。どうしてあんなヤツに……。三人とも強いくせして、なんで簡単に……」
「三兄弟は今まで死の危険を感じたことがない。戦場ですら、すぐに再生してしまう体で死とは離れたところにあったからな。だから無謀にも突っ込んでいくことしか知らないんだ。強いからこそ出てしまった隙に、アピスは上手いこと入り込んだ、そしてテラを利用して、最後にイグニスまで……」
「俺のせいだよ……。ディセルやノーベンはいないからチャンスだなんて、簡単に思い込んでしまった。向こうだってそこまで考えているはずなのに、勢いだけで何とかなると思って……俺のせいで……イグニスが……」
唇が震えてしまって最後まで言葉が言えなかった。そんな俺の背中をブランソンが慰めるように撫でてくれた。
「はぁ、ガキの揉め事で喧嘩の延長だと思って様子を見ていたが、そろそろ大人の出番かもしれないな」
ファビアン先生は軽くため息をついて、長い前髪をかきあげて後ろに流した。
先生から飛び出した何だか風向きが変わるような台詞に、俺とブランソンの視線が集中した。
「禁具は所持しているだけで罪になる場合がある。特に人を操る道具なんて危険すぎて確実だ。禁具を作り出したことが分れば、フローラル家諸共追い詰めることができる」
「さっ…さすが、ファビアン先生!」
ブランソンが手を叩いて椅子から立ち上がったが、ファビアン先生は手を挙げてまぁ待てと言って落ち着かせた。
「テラの証言だけでは弱い。古代の本なんて知らない、ただのネックレスだと言って、認めないだろう。三人の発言は操作できるし、ペアとして惹かれ合ったと言い逃れができる」
「じゃ…じゃあ、どうすれば……」
「三人は無理でも、誰か一人だけでも正気に戻すんだ。それで操られていたことを立証できる」
ファビアン先生の神提案に痺れたが、それをどうにかできるならすぐにでもやっている話だ。
俺もブランソンも唸り声を上げて、それだとは言えなかった。
「しっかりしろ、テラ。それができるのはお前だけだ」
「…………」
「魔法具ってのは絶対の力があるように思えるが、所詮人間が作り出したものだ。人間が作ったものに完璧なものなどない。特に他人の精神を無理やり支配するようなものは、常に本人の意思との戦いになる。本人の意思が勝てば効果を超えることができる」
「そ…そんな、説得でもしろってことですか?」
「そうだな、それも一つの手だ。テラ、お前は諦めて項垂れているだけの男か? イグニスだったらどうすると思う?」
「イグニスだったら……」
イグニスが俺を助けるためにアピスの虜になってしまってから、正常な思考などできなかった。
悲しくて辛くて、それしか考えられなかった。アピスと仲良くしている姿など見たくなくて、顔を覆って閉じこもってしまいたかった。
しかしファビアン先生の言葉に、イグニスの言葉が頭に浮かんできた。
イグニスは……
諦めないで足掻くと言っていた。
¨ テラ ¨
イグニスが俺を呼ぶ声が頭に響いた。
「だめだ……、俺、こんなんじゃダメだ。諦めない…絶対に諦めたくない……」
「そうだ、テラ。偽りの力に勝てるのは、真実の愛だけ。……うわっ……あー、俺今カッコいいこと言ってんな。背中が痒いわ」
俺はカップを手に取って、ファビアン先生がいれてくれたコーヒーをごくごくと飲み干した。すっかり冷めていたが、体が一気に熱くなった気がした。
「俺、行きます!」
「おう、こっちも動くつもりだから、お前もやれるだけやってみろ!」
俺はファビアン先生にお願いしますと言って走って保健室を出た。
そうだ、一人で打ちひしがれて殻に閉じこもっていても何も変わらない。
俺はモブだし元に戻ったとか、何もできないなんてそんな言葉ばかり並べていても、イグニスは戻ってこない。
苦しんでいるのは俺だけじゃない。
みんなアピスの精神的な支配に苦しみながら戦っているんだ。
これは前世の時に通じるものがある。
俺はいつも諦めていた。
どうせ姉さん達が、どうせ俺にはとそればかり。
欲しいものが手に入らなくても、どうせ俺なんかに……
「俺なんかじゃない。俺にしかできない…。イグニス…俺諦めないよ」
イグニスはアピスの側についているが、さすがに一年の教室にずっといるわけにもいかないのだろう。
二年の教室には帰らずに、校舎の外をうろついている姿を目撃していた。
走って校舎の外へ出ると、中庭にイグニスが一人で立っている姿を発見した。
「イグニス!」
ゲームの世界が何だ!
ここまで必死に変えてきたものを、すべて奪われるなんて嫌だ。
「はぁはぁ…イグニス、話を……」
全速力で走ったので息を切らしている俺をチラリと見たあと、イグニスは何も言わずに別の方向を見てしまった。
しかし、そんなことで傷ついてなんていられない。
「イグニス、この中庭でよく一緒にお昼を食べたよね。イグニスは嫌いなおかずを俺のご飯の上に載せるから、俺はいつもお腹いっぱいになって、昼食後は眠くなってさ……」
「うるさいな。話しかけてくるなよ。もうお前のことなんて知らない」
「……本当に忘れちゃった? 俺は…全部覚えているよ。初めて会った時、イグニスがカッコ良く俺を助けてくれたことも……、初めて触れ合った時のことも……」
イグニスは冷たい目をして俺を見た後、背を向けてしまった。
しかし離れていくわけでもなく、だらりと下げられた手はわずかに震えていた。
それを見た俺は気がついた。
イグニスは自分の中で戦っている。
俺を…俺を呼んでいる。
イグニスの全身が叫んでいるように見えた。
「イグニス! 俺を見て!」
思わず駆け寄った俺はイグニスの腕を掴んだ。今しかない、そう思って必死に名前を呼んだ。
腕を掴まれたイグニスはビクリと体を揺らした後、強い力で俺を振り払った。
俺の手は離れてしまい、地面に尻をついて転がった。
「い……つっ……」
土で汚れてしまった体を起こしたら、もうそこにイグニスの姿はなかった。
虚しくて寂しい気持ちが胸をついたが、明らかな反応を感じて俺の気持ちは奮い立った。
イグニスは戦っている。
俺だって足掻く、どれだけ土に汚れたっていい、何度でも何度でも……諦めない。
この日から俺のイグニスへの接触は毎日続いた。
姿を見かければ声をかけた。しつこいと押されて壁に背を打ちつけたり、床に転がったりと情けない姿ばかり晒しているが、ちっとも怖くなんてなかった。
周囲は俺を憐みの目で見てきた。
見ていられないと、そろそろやめたらと声をかけてくる者もいた。
アピスは必死な俺を見かけると、可哀想にと言って笑っていた。
どうでもよかった。
どんな風に見られても思われても、イグニスが戻ってくれるなら、笑われたって蔑まれたって構わなかった。
俺がしつこくまとわりつくと、イグニスは明らかに苛立っていて、苦しそうにすら見えた。
そしてそんな日が続いた週末の夜。
自宅の自室で寝ていると、ガタガタと窓が揺れる音がした。続いてガタンと大きな音が鳴った。
俺の部屋は二階なので、風の音にしては大きいと思いながら目を開けて起き上がると、目の前に黒い影が立っていた。
「いっ…………」
黒い影の瞳は赤く光っていた。
月明かりに浮かぶその姿を見間違うことなどない。
ずっと考えていたから、夢から出てきてくれたのかと心が震えた。
「お…まえ、なんだよ……イライラする、お前見ると……頭が……痛い」
支配と内にある意思との戦いで消耗しきったように、胸を押さえているのはイグニスだった。
ついに耐えきれなくなって、俺の部屋に忍び込んできたらしい。
「殺して…やる、消えてくれ……」
イグニスの手には赤黒い剣、ブラッドソードが握られていた。
その剣を真っ直ぐベッドに座る俺に向かって向けてきた。
刃を向けられた俺は、何も言わずにイグニスの目をじっと見つめた。
月明かりに照らされた部屋には、イグニスが苦しそうに息を吐く音が響いていた。
□□□
初めてここを通った時、あまりの長さに疲れるとこぼした俺に、彼は抱っこしてやろうかと言ってきた。
本気とも冗談とも取れるニヤけた笑顔だった。
それがまるで幻のようだ。
淡い思い出は長く続く冷たい床に、靴音とともに吸い込まれていった。
回廊の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。顔を上げると三人の男に囲まれながら、花が咲いたように微笑んでいるアピスの姿が見えた。
むせそうなくらい甘い匂いがこちらにも漂ってきた。
三人の男達の視線はずっとアピスにあった。
すれ違う時、アピスだけはさりげなく俺に視線を送って微笑んだように見えた。
名前を呼びたかった。
しかし名前を呼んだとしても、彼はもう立ち止まってはくれない。
どんなに小さな声でも、いつもすぐに聞き取ってくれたのに……。
賑やかな笑い声がいつのまにか消えて、俺一人静かな回廊に残されて佇んでいた。
アピスの言った通り、俺がいた場所はすっかり奪われてしまった。
いや、この光景が元々のゲームの世界なのだ。
俺だけが異質な存在だった。
元のモブの位置に戻っただけ、それがこんなに悔しくて悲しいなんて……。
胸に大きな穴が空いたまま、苦しくて呼吸ができなかった。
「イグニス……」
誰もいなくなった後で、愛しい人の名前が喉から溢れるように落ちた。
それを拾って微笑んでくれる人はいない。
テラ
頭の中に響くイグニスの声は優しく俺を呼んでいた。
その声に応えるように俺は冷たい石の床に崩れ落ちて泣き続けた。
「ほら、少し飲んで落ち着け……」
目の前にカップが置かれてた。
カップの中には真っ黒な液体があって、香ばしい匂いがした。
ファビアン先生は自分のお気に入りのコーヒーをいれてくれた。
俺はぼんやりと黒い液体が揺れるのを見つめていた。
「テラ、その……大丈夫なのか? いったい何があったんだ? どうしてイグニス様が…学院中の人間が混乱しているよ」
横に座っているブランソンが心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできたけれど、いつものように笑顔を返す元気がなかった。
ついに三兄弟が全員アピスと仲良くなった。誰が恋人なのか、三人とも恋人になったのではないか。
アピスにぴったりと寄り添って歩くイグニスを誰もが困惑の目で眺めていた。
俺が公認の恋人だということはみんな知っていた。それなのに、アピスとまるで恋人のように寄り添っている。
ついにテラは飽きられたのだ、捨てられたのだと、そんな話がどこからともなく聞こえてきた。
「アピスに操られているんだ。禁具と呼ばれる古代の魔法具を使って三人を魅了して虜にしている」
項垂れて口元を押さえている俺の代わりに、ファビアン先生がブランソンに説明してくれた。
「クソっ…何でだよ。どうしてあんなヤツに……。三人とも強いくせして、なんで簡単に……」
「三兄弟は今まで死の危険を感じたことがない。戦場ですら、すぐに再生してしまう体で死とは離れたところにあったからな。だから無謀にも突っ込んでいくことしか知らないんだ。強いからこそ出てしまった隙に、アピスは上手いこと入り込んだ、そしてテラを利用して、最後にイグニスまで……」
「俺のせいだよ……。ディセルやノーベンはいないからチャンスだなんて、簡単に思い込んでしまった。向こうだってそこまで考えているはずなのに、勢いだけで何とかなると思って……俺のせいで……イグニスが……」
唇が震えてしまって最後まで言葉が言えなかった。そんな俺の背中をブランソンが慰めるように撫でてくれた。
「はぁ、ガキの揉め事で喧嘩の延長だと思って様子を見ていたが、そろそろ大人の出番かもしれないな」
ファビアン先生は軽くため息をついて、長い前髪をかきあげて後ろに流した。
先生から飛び出した何だか風向きが変わるような台詞に、俺とブランソンの視線が集中した。
「禁具は所持しているだけで罪になる場合がある。特に人を操る道具なんて危険すぎて確実だ。禁具を作り出したことが分れば、フローラル家諸共追い詰めることができる」
「さっ…さすが、ファビアン先生!」
ブランソンが手を叩いて椅子から立ち上がったが、ファビアン先生は手を挙げてまぁ待てと言って落ち着かせた。
「テラの証言だけでは弱い。古代の本なんて知らない、ただのネックレスだと言って、認めないだろう。三人の発言は操作できるし、ペアとして惹かれ合ったと言い逃れができる」
「じゃ…じゃあ、どうすれば……」
「三人は無理でも、誰か一人だけでも正気に戻すんだ。それで操られていたことを立証できる」
ファビアン先生の神提案に痺れたが、それをどうにかできるならすぐにでもやっている話だ。
俺もブランソンも唸り声を上げて、それだとは言えなかった。
「しっかりしろ、テラ。それができるのはお前だけだ」
「…………」
「魔法具ってのは絶対の力があるように思えるが、所詮人間が作り出したものだ。人間が作ったものに完璧なものなどない。特に他人の精神を無理やり支配するようなものは、常に本人の意思との戦いになる。本人の意思が勝てば効果を超えることができる」
「そ…そんな、説得でもしろってことですか?」
「そうだな、それも一つの手だ。テラ、お前は諦めて項垂れているだけの男か? イグニスだったらどうすると思う?」
「イグニスだったら……」
イグニスが俺を助けるためにアピスの虜になってしまってから、正常な思考などできなかった。
悲しくて辛くて、それしか考えられなかった。アピスと仲良くしている姿など見たくなくて、顔を覆って閉じこもってしまいたかった。
しかしファビアン先生の言葉に、イグニスの言葉が頭に浮かんできた。
イグニスは……
諦めないで足掻くと言っていた。
¨ テラ ¨
イグニスが俺を呼ぶ声が頭に響いた。
「だめだ……、俺、こんなんじゃダメだ。諦めない…絶対に諦めたくない……」
「そうだ、テラ。偽りの力に勝てるのは、真実の愛だけ。……うわっ……あー、俺今カッコいいこと言ってんな。背中が痒いわ」
俺はカップを手に取って、ファビアン先生がいれてくれたコーヒーをごくごくと飲み干した。すっかり冷めていたが、体が一気に熱くなった気がした。
「俺、行きます!」
「おう、こっちも動くつもりだから、お前もやれるだけやってみろ!」
俺はファビアン先生にお願いしますと言って走って保健室を出た。
そうだ、一人で打ちひしがれて殻に閉じこもっていても何も変わらない。
俺はモブだし元に戻ったとか、何もできないなんてそんな言葉ばかり並べていても、イグニスは戻ってこない。
苦しんでいるのは俺だけじゃない。
みんなアピスの精神的な支配に苦しみながら戦っているんだ。
これは前世の時に通じるものがある。
俺はいつも諦めていた。
どうせ姉さん達が、どうせ俺にはとそればかり。
欲しいものが手に入らなくても、どうせ俺なんかに……
「俺なんかじゃない。俺にしかできない…。イグニス…俺諦めないよ」
イグニスはアピスの側についているが、さすがに一年の教室にずっといるわけにもいかないのだろう。
二年の教室には帰らずに、校舎の外をうろついている姿を目撃していた。
走って校舎の外へ出ると、中庭にイグニスが一人で立っている姿を発見した。
「イグニス!」
ゲームの世界が何だ!
ここまで必死に変えてきたものを、すべて奪われるなんて嫌だ。
「はぁはぁ…イグニス、話を……」
全速力で走ったので息を切らしている俺をチラリと見たあと、イグニスは何も言わずに別の方向を見てしまった。
しかし、そんなことで傷ついてなんていられない。
「イグニス、この中庭でよく一緒にお昼を食べたよね。イグニスは嫌いなおかずを俺のご飯の上に載せるから、俺はいつもお腹いっぱいになって、昼食後は眠くなってさ……」
「うるさいな。話しかけてくるなよ。もうお前のことなんて知らない」
「……本当に忘れちゃった? 俺は…全部覚えているよ。初めて会った時、イグニスがカッコ良く俺を助けてくれたことも……、初めて触れ合った時のことも……」
イグニスは冷たい目をして俺を見た後、背を向けてしまった。
しかし離れていくわけでもなく、だらりと下げられた手はわずかに震えていた。
それを見た俺は気がついた。
イグニスは自分の中で戦っている。
俺を…俺を呼んでいる。
イグニスの全身が叫んでいるように見えた。
「イグニス! 俺を見て!」
思わず駆け寄った俺はイグニスの腕を掴んだ。今しかない、そう思って必死に名前を呼んだ。
腕を掴まれたイグニスはビクリと体を揺らした後、強い力で俺を振り払った。
俺の手は離れてしまい、地面に尻をついて転がった。
「い……つっ……」
土で汚れてしまった体を起こしたら、もうそこにイグニスの姿はなかった。
虚しくて寂しい気持ちが胸をついたが、明らかな反応を感じて俺の気持ちは奮い立った。
イグニスは戦っている。
俺だって足掻く、どれだけ土に汚れたっていい、何度でも何度でも……諦めない。
この日から俺のイグニスへの接触は毎日続いた。
姿を見かければ声をかけた。しつこいと押されて壁に背を打ちつけたり、床に転がったりと情けない姿ばかり晒しているが、ちっとも怖くなんてなかった。
周囲は俺を憐みの目で見てきた。
見ていられないと、そろそろやめたらと声をかけてくる者もいた。
アピスは必死な俺を見かけると、可哀想にと言って笑っていた。
どうでもよかった。
どんな風に見られても思われても、イグニスが戻ってくれるなら、笑われたって蔑まれたって構わなかった。
俺がしつこくまとわりつくと、イグニスは明らかに苛立っていて、苦しそうにすら見えた。
そしてそんな日が続いた週末の夜。
自宅の自室で寝ていると、ガタガタと窓が揺れる音がした。続いてガタンと大きな音が鳴った。
俺の部屋は二階なので、風の音にしては大きいと思いながら目を開けて起き上がると、目の前に黒い影が立っていた。
「いっ…………」
黒い影の瞳は赤く光っていた。
月明かりに浮かぶその姿を見間違うことなどない。
ずっと考えていたから、夢から出てきてくれたのかと心が震えた。
「お…まえ、なんだよ……イライラする、お前見ると……頭が……痛い」
支配と内にある意思との戦いで消耗しきったように、胸を押さえているのはイグニスだった。
ついに耐えきれなくなって、俺の部屋に忍び込んできたらしい。
「殺して…やる、消えてくれ……」
イグニスの手には赤黒い剣、ブラッドソードが握られていた。
その剣を真っ直ぐベッドに座る俺に向かって向けてきた。
刃を向けられた俺は、何も言わずにイグニスの目をじっと見つめた。
月明かりに照らされた部屋には、イグニスが苦しそうに息を吐く音が響いていた。
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