ふたりに吹く、幸せの風

朝顔

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 好きですと言った彼女の空色の瞳からは、大粒の涙がぽろりと落ちてきた。
 こんなに美しいものは見たことがないと思った。
 彼女を愛し、二人で仲睦まじく生きていけたら。
 そんな未来を想像したら、悲しいくらい幸せに思えた。
 けれど、彼女を愛することはできない。
 ひどい男として記憶から早く消し去ってくれと彼女にキスをした。

 驚いて固まる彼女に背を向けた。
 ここにいる間は普通の男として生きていく夢を見ることができた。だが、もう戻ることはない。
 振り返ることなく俺は歩き出したのだった。



 □□




「おい、何やってんだよ!サム!お前は何をやらせても使い物にならないな!」

「はあ……すみません」

 先輩であるビブレに怒鳴られてポリポリと頭をかいた。ここで勤め始めてから毎日怒鳴られている。とは言え、ビブレは悪い人ではない。教育係として立派に務めを果たしているのだ。問題は俺が何をやっても不器用すぎるということなのだ。

「靴を磨けと言ったが、身体中真っ黒にするやつがいるか!あーあー、手も顔も黒くして……、ちょっと洗ってこい!汚なすぎる!」

「あーはい。ではちょっと行ってきます」

 フットマンとして伯爵家に雇われて半年経った。細くて小さい体では力仕事もろくにできないし、細かい仕事では何かしら壊してばかりいるので、迷惑しかかけていないような気持ちになってくる。自分で思うのもおかしいが、なぜクビにならないか疑問なくらいだ。
 ここに来たのはただ働くだけでなく、ある目的があった。
 日々の仕事に追われて本来の目的にたどり着くまで後どれくらいかかるのか、それを考えると絶望的な気持ちになった。
 これでは主人の足元どころか、小さな背中を眺めるだけ精一杯だ。
 使用人からの距離が遠すぎて、軽く泣きそうになりながら俺は桶に溜まった水で顔を洗った。
 もしかしたらここに来たのは失敗だったかもしれないと思い始めてた。
 わずかな可能性にすがり付いたが、検討違いの場所にいるのではないかと焦る気持ちだけが強まっていた。

「ずいぶんと真っ黒になったね。洗って落ちるの?」

 水をかぶる勢いで洗っていたら、頭の上から声をかけられた。屋敷の水場は建物の端にある。こんなところでのんきに声をかけてくるのは同じ使用人の誰がだと思うが、声に聞き覚えはなかった。

「多少落ちますが限界がありますね。まぁそのうち消えるでしょう。俺の顔を見て喜ぶ女もいませんし…………」

 いつものように適当に答えながら上を向いたら、屋敷の窓から顔を出しているその人とパっと目が合った。
 陽の光に透き通る銀色の髪に陶器のように白い肌、ブルーの瞳は奥底に吸い込まれそうな深い色をしている。俺はその人を知っていた。

「わっ……!カー……じゃなくて!旦那様!失礼しました!」

 最近家督を継いでこの屋敷の主になった男、人間離れした美貌の持ち主であるカーティス・レイヴン伯爵だ。
 近づきたいと思っていたが、まさか本人が近づいてくるとは思っていなかったので、水桶をひっくり返しそうな勢いで俺は驚いて尻餅をついた。

 カーティスの方もなぜだか目を見開いて驚いた顔をしていた。
 ある可能性が小さく頭によぎったが、大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。知らないで通せばいい話だ。

「…………君、名前は?」

「サム・グリーンです」

 カーティスの瞳が俺を上から下まで眺めてくるので、心臓がばくばくと鳴り止まなかった。

「あっ……、あの……なにか……?」

「ああ、知っている人に似ているような気がしたから……。いや、俺の気のせいだったみたいだ。サム、仕事を邪魔して悪かったね。よろしく頼むよ」

「い……いえ、声をかけていただき、ありがとうございます」

 ふわりと微笑んだカーティスは窓から離れて廊下を進んでいってしまった。
 いつ見ても浮き世離れした色気を放ち、人間のように見えない、まるで妖精のような男だと思った。

 俺は彼のことをずっと前から一方的に知っていた。

 彼はかつて、妹の婚約者だった男だからだ。



 俺の名前は本当はサム・グリーンではない。エリオット・クロボーサという名前で一応名ばかりであるが、子爵の爵位を持つ貴族だ。

 もともと俺は貴族の子息としては、何をやらせてもだめで、心配になった父に早くから隣国の寄宿学校に入れられた。
 そのまま、卒業後もだらだらと友人達の家で遊んだり旅をしたり、フラフラとしていたが、父親から早く帰ってきてくれという連絡を受けて、四年前自国へ戻った。
 ところが、自国へ戻るとなかなかの大変な状況に俺は振り回されてぼろぼろになる。
 俺を呼んだはずの父親は、国の輸入に関わる仕事をしていたが、不正を働いたとして捕まっていた。
 母は早くに亡くなっているので、家に残された家族は妹のクリスティーナだったが、彼女はなにも知らずただ怯えていた。
 間もなく始まった裁判では、父が不正をしたとされる証拠が次々と提出され、証言者も何人も現れた。
 俺も傍観しているだけでなく自分でも調べようとしたが、なんとここで父が作ったとされる借金が次々と判明。
 金作に追われて父のことを調べるどころの話ではなくなってしまった。そして、父の裁判は最悪の結果となる。裁判官は集められた証拠をもとに、有罪だと宣言したのだ。

 父は投獄され、俺と妹は王都の屋敷を追われ、王都から離れた貴族の別荘地に移動した。別荘として使っていた家に一度は落ち着いたが、そこも結局借金のために手放すことになった。
 貴族としてなに不自由なく暮らしていた俺と妹はすっかり落ちぶれて、小さな家を借りてそこに住むことになった。
 妹は婚約していたが父のことを理由に破棄されてしまった。
 すっかり落ち込んで元気のない妹を見ながら、ここは俺が金を稼ぐしかないと立ち上がった。あの町にはろくな仕事がなかったので、俺だけ再び王都に戻って店をやっている友人に頼み込んで、店の物置に住ませてもらい働き始めることにしたのだ。

 何をやっても不器用な俺は、店の商品を壊すわ間違えて売るわで、友人から縁を切られそうになったが、なんとか仕事を覚えてそれなりに収入が入ってくるようになった。そんなとき、配達に行ったお屋敷で、俺はある現場に遭遇してしまう。

 配達は終えたがそこで急にもよおした俺は、そのお屋敷でトイレを借りた。
 スッキリしたーなんて言いながら出てきたら、一室から明かりが漏れていて人の話し声がした。

 何気なく通りすぎようとしたところ、クロボーサ子爵という名前が聞こえて、俺の体は凍ったように動かなくなった。

 中にいるのは声の感じから数人の男達だと思われた。
 あの時は上手くいきましたねという声の後、ケラケラと笑う声が聞こえてきた。

 話はそのうち国王陛下がいかに無能かとバカにする内容移り、いつか自分達の目的が叶う日がくるということ、まだその時ではなく慎重に機会を待つという話になった。

 その時俺は少し開いたドアの隙間から中を覗いてしまった。
 そこに見えたのが、カーティスだった。
 銀色の髪を優雅にかき上げながら椅子にもたれていた。

 私はあなたに付いていきます、というカーティス言葉を俺は信じられない気持ちで聞いていた。

 彼の姿を見たことがあった。妹と町へ出掛けた先で、あの方がカーティス様よと教えてもらったのが初めてだった。
 すぐに馬車に乗ってしまったので妹は声をかけることが出来なかったが、その一瞬見ただけでも、存在感のある印象的な容姿の男だった。

 妹はカーティスに夢中だった。俺は外国をフラフラとしていたのでたまにしか家には帰らなかったが、帰宅の度にお兄様聞いてと後を追いかけられながら、カーティスがいかに優しくて素敵な男性かというのを嫌というほど聞かされた。

 そして父が捕まってしまった後、屋敷の庭園で俺は見てしまった。
 あの大混乱だった状況で、屋敷にカーティスが訪ねてきたと聞いたとき、妹はカーティスの元へ走っていった。
 きっと妹の力になってくれるだろうと思っていたが、ふと覗いた庭園で二人が抱き合っているところを見てしまった。
 妹は悲しそうな顔でカーティスを見つめていた。
 何か話していたが、とても甘い雰囲気ではない。恋する者達に似合わない空気につい目がいってしまったら、その次の瞬間、カーティスは妹に口づけをした。
 わずかな時間で離れてしまい、カーティスは妹に背を向けて歩いていってしまった。
 呆然と立ち尽くす妹は恋人とのキスに浮かれている令嬢の姿ではなかった。

 深く心が傷ついて現実を受け入れられないような顔だった。それを見た瞬間二人の間に何が起きたのか俺は悟った。
 俺の浅い恋愛経験でも、それが別れであるということが目に見えて分かった。

 妹はあまり語らなかったが、だいたいのことは予想できた。貴族にありがちなプライド、つまり罪人を父に持つような女を一族にすること。自分の子の母親にはできないと判断したのだろう。
 そしてそれは、カーティスが妹との婚約を破棄してからあっさりと別の女性と結婚してしまったことで、また新たな意味が加わった。
 カーティスが結婚した令嬢は王家とも縁が深い、高位の貴族であるパンドレア侯爵家の娘、ハティーだった。
 それによって彼が野心家であるということがよく分かった。実際にカーティスは結婚後、もともと手掛けていた事業が侯爵家の後ろ楯て急成長し、かなりの利益を得ているということだった。

 他の者より少し高い声の調子から父の名前を口にしたのは、カーティスだと思われた。妹の元婚約者、父の不正での婚約破棄、それによって利益を得ている。ここまで揃えばカーティスが父の件に確実になにか関わっているとしか思えなかった。

 店に戻った俺は、すぐ雇い主であり学友からの親友、男爵家の息子のフレデリックを物陰に引っ張り込んだ。
 雇われの身としてありえない行為だが、大っぴらに話せる話ではなかった。

「なんだって……カーティスが……!?というか、その集まり……もしかして……陛下の反対派の会合じゃないのか!?」

「大丈夫だ。学園でも俺はよく空気だって言われてただろう。神出鬼没のエリオット」

「おっ……おま……!?学園の悪戯とはレベルが違いすぎる!!下手したら殺させていたぞ!」

 悪友で一緒に色々悪さをしてきたが、フレデリックは本当に青くて厳しい顔をしていた。

「俺は真面目だよ。父の無実がかかっているんだ。もうやるしかないと思っている」

「えええ……やるって……何を……?」

「頼む!フレデリック!俺をレイヴン家に紹介してくれ!使用人としてヤツの家に入り込んで周辺を探る。必ず何かあるはずだ!」

「おおお……エリオット………出たなお前の走り出したら止まらないやつ……今回はマジでヤバいぞ」

「俺にもし何かあったら少しだけ溜まった金は妹に送ってくれ。俺は本気だ……、必ず証拠をつかんでみせる」

 言い出したら聞かない。頑固で突っ走る性格、それが俺だ。何をやっても不器用で上手くいかないが、その勢いだけで今まで生きてきた。

 フレデリックは観念したようにため息をついて協力してくれることになった。

 こうして俺はサム・グリーンという記憶に残らなそうな地味な名前になって、フレデリックの店でずっと働いていた平民の男としてレイヴン家に紹介してもらった。ちょうど欠員が出ていたのが幸いしてフットマンとして、無事採用され働き始めることができた。

 それが半年前、仕事を覚えつつカーティスに近づく機会を狙っていたが、何しろカーティスは警戒心が強いのか決めた人間しか側に置かない。
 働いている使用人は多いし、いつも端の方で小さい背中を拝むくらいしかできなかった。それがついに、というかいきなり話しかけられたのだ。まさか屋外にいて窓から顔を出されるなんて思わなかった。とにかくこれは好機だ。ちらっと話しただけだが、俺の長所は相手に警戒心を持たれないことだ。弱そうな顔といかにもダメっぽい雰囲気が敵ではないと分かりやすいのだろう。これを利用してそっと近づいていこうと思っていた。

「そう言えば、奥様はいつ頃お帰りになるんですかね?確か実家に戻られている……とか?でしたっけ?」

 斧が振り上げられて、パカンと薪が割れる気持ちが良い音がした。もちろん俺ではなく先輩のビブレの担当だ。俺は横で切り株に座って適当に話していた。

「……なんだサム、採用の時にそう聞いたのか?奥様はここで暮らしたことはないよ」

「ええ!?いっ……いくら政略結婚でも、ずっと実家ですか?」

 俺が大きな声を上げたら、ビブレは慌てて周りを見渡して、声を抑えろと言ってきた。
 屋敷の敷地内の木材置き場はそう人が来るところではないのだが、ビブレは気にしているらしかった。

「いいか?どこでもかんでもペラペラ喋んなよ。奥様は結婚前から家庭教師だった平民の男と恋人関係にあって、そいつと別宅で暮らしている」

「はあ!?う……嘘だろう!?なんだそりゃ……そんなのありなのかよ……」

「それが結婚の時の条件らしい。大旦那様はその頃には体調が優れなくて田舎に静養に行っていたし、独断でカーティス様は決められたんだ……。よほど、パンドレア侯爵家との繋がりが欲しかったんだろう」

 なんとも野心家らしい話だが、俺には理解できなくて疑問しかなかった。

「利益のために、わざわざそんな不利な条件の結婚したのか……。まぁ既婚者でも旦那様なら遊び相手に困る必要はないからなー。俺には理解できない世界ですね」

「そうだよ。お貴族様の考えることなんて、平民の俺達には理解できるはずがないだろう。ほら、お前こんなところで油売ってていいのか?今日は厨房の手伝いに呼ばれていただろう?」

「あーそうだった!よく、俺指名されましたよね。さて……皿何枚割るかな」

「バカなこと言ってないでさっさと行け!まったく……全然使えないのに憎めないのはお前の才能だよ」

「あー、それよく言われます」

 ビブレのアホという怒鳴り声を背中に浴びながら、俺は屋敷の中へ向かった。
 普段は外で使われることが多いので、屋敷の中は少し緊張する。間違えたふりをして部屋を開けてみたりして探る必要もあるからだ。
 とりあえず今は言われた仕事をするために厨房へ向かった。

 てっきり洗い物でもさせられるのかと思っていたら、与えられた仕事は給仕の手伝いだった。どうやらお客様が来るらしく、昼食の用意でみんなバタバタしていた。
 俺は白いシャツに黒いズボンという、給仕用の小綺麗な格好をさせられた。
 鏡に映った自分を久々に見た。適当に切り揃えたアッシュグレーの髪に、白い肌と青い瞳、大きめの目に鼻と唇は小ぶりで、あまり男らしい顔立ちではない。
 学生時代は軟弱そうだとさんざんバカにされたものだ。
 見る人が見れば妹と俺はよく似ていると気づいてしまうだろう。
 基本的なパーツは似ていて、瞳の色だけ妹は水色に近い青色で、俺は緑に近い青色だ。
 しかし、双子というほど似ているわけではないし、そもそも男女の違いはもちろんある。
 妹は俺から見ても可愛いし、守ってあげたくなるタイプだ。
 それに対して俺は、周りの連中には無害で空気みたいなやつと言われてきた。
 婚約者だったカーティスも、初対面では驚いているような気配があったが、すぐにどうでもよさそうな顔になった。
 そう、それでいいのだ。変に興味を持たれたり、注目されてしまってはいけない。あくまで、使用人として近づき、さりげなく周辺を探る。そして、父の件にカーティスが関わったような証拠があればそれを盗み出すつもりだ。

「今日のお客様って誰なのかな?」

 鏡を見ながら気持ちを整えていたら、すぐ隣に荷物を取りに来た女の子がいたので声をかけた。

「え……私?」

「あーそうですけど。マリーちゃんだよね。今日手伝いで入るから、よろしくね」

「はっ……はい!よろしくお願いします!まさか……サムさんと一緒なんて……」

 茶色のふわふわとした前髪のメイドのマリーちゃんは、小動物みたいな可愛い女の子だった。頬を赤らめて目を合わせてくれないが、真面目で優しそうな子とみた。

「あれ?俺じゃ頼りない?いつも失敗ばかりのところ見られてたかなぁ……」

「いえ……そんなっ!サムさんはいつも素敵です……。他の子も話したいって言ってて……あっ!すみません、私、なんでこんなことを……」

「ありゃ、嬉しいよ。誉められるの大好きだし。こっちの仕事よく分からないからさ、色々教えてよ」

 はい、と言いながらマリーちゃんは赤くなった顔で頷いた。
 ニコニコしながらこれはマズかったかなと頭の中で考えていた。
 男からは弱そうとか空気扱いだが、昔から女の子にはよくモテた。何人か付き合ったこともあるが、寄宿学校時代、男の先輩と興味本位で付き合ってみたら妙にしっくりきて、それ以来女の子に興味がなくなってしまった。今の恋愛対象は完全に男だ。
 恋愛なんてしている場合じゃないので、しばらくずっと一人だが、潜入先で女の子に変に気を持たれたら仕事がやりにくくなってしまう。

「今日のお客様はお仕事の関係の方々と聞いていますけど、パンドレア侯爵がいらっしゃるので、バタバタしているのです。特別なゲストですから……」

 ちょっと引こうかなと思っていたところを、その名前を聞いて俺は身を乗り出した。

「パンドレア侯爵!?義理のお父様だよね?ここへはよく来るの?どんな人なの?」

 ぐいぐいと聞いてしまったら、マリーちゃんの方が引いてしまった。すかさず人好きのする笑顔に切り替えて、初めての仕事だから失敗したくないんだと言うと、マリーちゃんは分かりましたと言って丁寧に教えてくれた。
 女子限定フェロモンは使いどころが難しいが、この際手段は選べない。

 パンドレア侯爵は妻ハティーの父親なので、カーティスの義理の父親となる。野心家のカーティスが利益を得るために利用している相手で、向こうもカーティスからの利益を得ている。
 つまり、事業で儲けた分のほとんどを吸いとられていると聞いて驚いてしまった。
 なぜそこまでというのが疑問だが、カーティスは盲目的にパンドレア侯爵を崇拝しているそうだ。今回の食事会は定期的に様々な家で開かれているが、今回はレイヴン家の担当だと聞いた。つまり、反対派の会合と考えていいかもしれない。反対派の中心人物が参加するこの場所で思いがけず、近くで動けることに俺は歓喜した。

「悪者大集合ってやつだ。まずは情報収集だな」

 間もなく広間の大きな長テーブルには食事会の準備が整い、お客様が次々とやってきた。
 人数にして十名程度。一番前の席に座って偉そうにしているのがパンドレア侯爵だろう。
 口回りには黒々とした長い髭をたくわえ、老いてはいるが蛇のような目をした迫力のある男だ。隣にはカーティスが座ってずっと話し込んでいた。
 なにを話しているのか近づいて聞きたいが、担当のテーブルではないので堂々と近づけない。
 俺はワインの瓶を持ちながら、自然に少しずつ距離を詰めていった。

「俺が本気を出したらどうなるか……、あの時は本当に上手くいったからな。見ていて笑いが止まらなかった」

 パンドレア侯爵は何か自慢話でもしているみたいで、得意気に話しながらワインをガバガバと飲んでいた。

「そうですね。侯爵の手腕にはいつも驚かされます」

「あいつもバカ正直に俺のことを告発などしようとするからだ。まぁいい見せ物になった。あれで黙ったやつも出てきたからな」

「子爵も迂闊でしたね。貴方を相手にするなど……」

「ああ、まったくだ。お前に面白い話をしてやろうか……実はな……」

 漏れ聞こえてきた話はもしかしたら父のことかもしれない。二人の会話が重要な局面に入ったところで、俺の服を誰かが引っ張ってきた。

「キミ、聞いている?グラスが空なんだが……」

「あーすみません、どうぞ」

 良いところなのにとイラつきながら、客のグラスになみなみと注いで、また二人の会話に集中しようとした。

「おお……たっぷりだね……。キミ、この肉料理はなんていう名前なんだね?」

「子牛だか大人牛だかのなんちゃらです」

「ほぉ…………そうか。ん?キミ、それは本当に……」

「え?なんですか?あっ……ちょっ……」

 客がしつこく質問してくるので、気をとられていたらパンドレア侯爵が立ち上がってしまった。
 すると他にも数名立ち上がりぞろぞろと別室に移動してしまった。
 慌てて後を追おうとすると、マリーちゃんが俺の前にさっと出てきた。

「サムさん。あっちはいいのです。決められた人しか入れないですから」

「あぁそうなの……それは残念」

 どうやら本格的な反対派の会合が始まるらしい。奥の部屋は幹部らしき連中だけしか入室が許されないようだ。

 その後は向こうの部屋になんとか近づこうとするものの、酔っぱらい客の対応に追われて盗み聞きどころか、一歩も近くに行けなかった。


「ちくしょう……、全然だめだったじゃないか……こんな機会滅多にないのに!!」

 楽しいお食事会の終了後、酒倉庫での片付けの担当になった俺は、悔しさから、客が残したワインをいただきながら、一人で反省会をしていた。

「くそー!あーもうー!俺はなんてダメダメなんだぁー」

「職務中にこんなところで酒盛りしてるくらいだから、だめなんだろうね」

 もう少し上手く立ち回れたら思いながら、悔しさでワインをぐっと呷った時、すぐ後ろから柔らかい声がして驚きで体がビクッと揺れた。

 入ってはいけないところにワインが入って俺はゲホゲホとむせた。

「なっ……だっ……ええ!?」

「牛肉のテリーヌ、ポロディアス風、シェフの気まぐれソース添え」

「は!?」

「肉料理の名前だよ。こら、主人にその言い方はなんだ」

 その男は小さい木樽の上に座った俺のおでこをピンと指で弾いてきた。

「あたたっ……すみません、旦那様……。あの、もしかしてそれ……」

「バッカス男爵に質問されていたでしょう。臨時で入ったとはいえ、料理の質問には答えられるようにしないと」

 まさかあの位置で侯爵と話しながら、俺の失態をチェックしていたとは驚きだった。
 ぱくぱくと魚みたいに口を動かして驚いていると、カーティスはぷっと吹き出して笑いだした。

「いや……。でも、子牛だか大人牛のなんとかって……、本当、やめてくれよ……。侯爵の前で吹き出しそうになったじゃないか……ふっふっっははははっ」

 変な夢でも見せられている気分だった。まさか、探ってやろうとしている人物が目の前で、しかもどうやら俺のことで笑っているという光景が信じられなかった。

「…………俺、クビですよね……」

「いや、面白い。明日からルーカスの部屋に行ってくれ」

「へっ?ルーカスさん……ですか?」

 俺の頭の中に気難しくていつも眉間にシワを寄せている筆頭執事のルーカスの顔が浮かんできた。苦手すぎて近寄りたくない人だ。

「退屈していたところだ。面白くなりそうだよ。楽しみにしている」

「は……はい。よろしくお願いします……」

 職務中に飲むのは禁止だからとそこはピシッと言って、カーティスは倉庫から出ていってしまった。
 潜入作戦はあっけなく終わったかと思った。
 しかし、何がどうなったのかサッパリ分からないがどうやら仕事が続けられそうというのが分かった。

「うーん。なぜかクビにならなかった。カーティスは変わったやつだ……」

 とりあえずもったいないのでワインの瓶は空にすることにして、ぐっと飲み干した。

 明日からの日々が想像できないのだが、少しでも近づいて色々聞き出したいと思いながら、俺は結局もう一瓶空けることになった。
 同じワインのはずなのになぜか美味しく感じて、すっかりいい気分になってしまった。




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