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11、塔から落ちたのは
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ローズベルト家とオリバーノース家の話し合いは速やかに行われた。
それからしばらくして、オリバーノース家より、今回の責任を取り、婚約者はアリアに変更し、先延ばしにしていた式を早めて、来月にすると連絡が来た。
アリアが婚約者になったのは、一度目の時と同じだったので、ミランダに驚きはなかった。
式を早めるというのは驚きだが、これでやっと、フランシスとの婚約が終わったと、ミランダは清々しい気持ちだった。
邸の中は、アリアの結婚式に向けての準備で大忙しだ。
今回はミランダに対して、世間は同情的だった。
変な噂が飛び交うこともなく、妹に婚約者を取られた可哀想な姉、という目で見られることになった。
「ふぅ……」
ミランダは山になった手紙の束を見て、濃いため息をついた。
フランシスとアリアの結婚が決まってからというもの、毎日のように手紙が届く。
送り主はフランシスだ。
内容は、あれは間違いだった、本意ではない、本当に好きなのはミランダで、アリアに迫られておかしくなってしまったと書かれていた。
父親に頼んで、やり直すように言ってもらえないかとまで書かれていて、読んでいるだけで疲れてしまった。
子供の頃はミランダのことを退屈だと思っていた時期もあったそうだ。しかし、いつからか、活き活きとして輝いて見えるようになり、目が離せなくなった。
一緒にいて安らぎを感じるのはミランダだけ、とも書いてあった。
もう、何を書かれていても心は少しも動かない。
早く諦めてくれないかと思いながら、今日届いた手紙を開いたミランダは、思わず息を吸い込んだ。
「何よ……これ……」
そこには、これだけ愛しているのに、どうして応えてくれないんだ。
君が他の誰かのものになるなら殺してやる、と書かれていた。
最後の一文を見たミランダは、手が震えてしまった。
脳裏にあの塔の上でぼんやりと揺れる人影が浮かんできた。
不鮮明で真っ黒にしか見えない口元が動いた。
“……君が他の誰かのものになるのなら、一緒に……落ちよう……どこまでも……一緒に“
コンコンっとノックの音がして、ミランダはハッと我に返った。
手紙を手にしたまま立ちすくんでいて、旦那様がお呼びです、というエラの声で慌てて手紙を封筒にしまった。
思い出した。
あれは、一度目の人生の時に聞いた台詞だ。
どうしてフランシスがその台詞を書いてきたのか……
動揺してまともに考えられない。
フラフラとした足取りで父親の書斎に向かったが、ノックをして中に入ると、そこには父親と、その隣にウェインが立っていた。
「急に呼び出して悪かったな、体調はどうだ?」
「ミランダ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
フランシスとアリアの騒動以来、ミランダは体調を崩して、邸に閉じこもっていた。
変な噂が流れて、お店に迷惑をかけたくなかったからだ。
お店のことはウェインに頼んでいたが、何かあったのかと心配になってしまった。
「私は大丈夫。それより、ウェインの方は? お店の方で何か……」
「こっちも大丈夫、心配しないで。みんなゆっくり休んでって言っているから」
仕事の方で何もなかったようなので、ミランダはホッとしたが、それならウェインがなぜ父親と並んでいるのか不思議に思ってしまった。
「ミランダには、本当にすまないと思っている。生まれた時からの婚約で、嫌がっていたのに無理強いしてしまった。それで、この結果だ。あの子がフランシス様に憧れていたのは知っていたが、まさか、あんなことになるとは……」
「……もう終わったことです。私はアリアとフランシス様が上手くいくならそれでいいと思っています」
「ミランダ……、本当に悪かった。それで、お前の将来を考えたら、新しい婚約を結ぶのが一番だと思ってな」
貴族の娘が父親からの縁談の話を受けるのは、一般的なことだ。
一度目の時も、こうやって呼び出されたが、あの時は父との関係も悪く、ひどい噂に焦っていた父は、ありえない話に飛びついてしまった。
まさか今回も、隣国のご老人との縁談を独断で決めてしまったのかと、ミランダはごくりと唾を飲み込んだ。
「ミランダがよければ、ウェインはどうかと思ってな」
「え………」
「男爵位を受ける予定であるし、何より、事業の成功で、我がローズベルト家に多大な利益をもたらしてくれた。もう、私の息子と言っていい。ウェインから、話があって、彼にならミランダを任せられると賛成することにしたんだ」
そう言った父親の隣で、ウェインはニコニコと笑っていた。
ウェインのことが好きなミランダとしては、嬉しい、この上なく嬉しい相手であることは間違いない。
しかし、なぜウェインがそんな話を持ちかけたのか、本当にいいのかという思いが頭の中をぐるぐると回って、素直に喜ぶことはできなかった。
「まぁ、これは、私からの提案だと思って。あとは二人で話し合ってみてくれ」
父親からそう言われて、ウェインと目が合ったミランダは、何を考えているのか、ウェインの瞳の中から探ろうとした。
ウェインは優しいが、昔から何を考えているのか分からないところがある。
「少し……二人で話せるかな?」
ゆっくり話せる場所に行こうというウェインの提案に、ミランダは分かったと言って頷いた。
吹き抜ける風が気持ちいい。
かつてここは、何か悩んだり苦しんだりしている時、ミランダの気持ちを癒す場所だった。
しかし、二度目の人生になってからは、恐ろしくて一度として足を踏み入れたことはなかった。
ここに行きたいとウェインに言われた時に、断ることができなかった。
ウェインは一度目の人生で起きた悲劇など知らないので、普通に誘ってきただけなのだが、ミランダとしては、あの突き落とされた時計塔に上るということは、かなりの挑戦だった。
無事、街の中心にある時計塔の天辺まで上がったら、色々な意味で息切れしてしまった。
「大丈夫? ちょっと無理させちゃったかな?」
「大丈夫、ここのところ外出していなかったから、運動不足なだけ。それで、ウェインはどうしてここに?」
手すりに手をかけたウェインは、ミランダを見て、優しく目を細めて微笑んだ。
「ここは、仕事のこととか人間関係とか、悩んだ時にたまに上るんだ。街の様子を見下ろすと、安心するというか、色々な人が暮らしている姿を見て、自分も頑張らないと、っていう気持ちになれるからさ」
いつも飄々としていて、悩みなんてないように見えたウェインだったが、もちろん人間なので、ウェインにだって悔しくて枕を涙で濡らす日もあるだろう。
かつて、自分がここを訪れていた時と、ウェインが同じ思いだったことに驚きつつ、ミランダはそうなんだと返した。
「そろそろ教えてくれる? どうして父にあんなことを? 私と結婚なんて、同情してくれたとしても、大事なことなのに……」
「実はね、言っていなかったけど、ミランダを初めて見たのは、商工会の集まりじゃないんだ。それより前に、ミランダはよく教会に行っていたでしょう? 寄付金集めのバザー、音楽会にも参加していたよね?」
「えっ……ええ」
「俺は叔父の家に引き取られる前に、少しの間、教会に預けられていたんだ。その時に、ミランダを見た。貴族の女の子っていうから、偉そうな子が来るのかと思ったら、大人しくてすごく可愛い子だった。一生懸命バザーの声かけをして、音楽会でも誰よりも頑張って声を上げていたよね。その時の印象がすごく残っていて、あの時、友達になろうって言えなかったのを後悔していた」
「ええっ、それは……びっくり、そんな昔に会っていたなんて……」
昔、乳母に連れられてよく町の教会に行っていた。
友達の作り方なんて分からないミランダは、ただ一生懸命目の前のことをやるだけで精一杯だった。
乳母がやめてから、連れて行ってくれる人もいなかったので、足が遠のいていた。
「今考えると、あの時俺は、君に恋をしたんだと思う」
「ええ!?」
「もう一度会いたいって願い続けて、また会えた時には、早く話しかけたくてたまらなかった。一目惚れって言ったら、信じてくれるか分からないけど、ずっと好きだったんだ」
「う……そ……本当に?」
「子爵様と強引に話を進めてしまってごめんね。傷ついているミランダを追い詰めるようなことだったら、断ってくれても……」
「まさか! こ、断りなんてしないわ! だっ……だって、私も……好きだから」
引いていくウェインを引き留めたくて、ミランダは自分の気持ちを伝えてしまった。
慌てて口を手で押さえたが、薄く目を開けると、そこにはキラキラした目で自分を見ているウェインの姿があった。
「嬉しい!! ミランダも同じ気持ちだったんだね」
「あ、あの、でも、今まで婚約者がいた身で……周りに何と言われるか……」
「周りなんてどうでもいいよ。叔父は元から応援してくれているし、仕事のことも気にしないで。何より、俺はミランダと一緒に生きていけるだけで、幸せなんだ」
「ウェイン……」
ゴボンと軽く息を整えたウェインは、ミランダの手を取って、甲に軽く口付けた。
「ミランダ、俺と結婚してくれる? 生涯、大切にして幸せにすると誓う」
予想もしていなかったウェインとの結婚にプロポーズ。
色々な嬉しいものが降ってきて、ミランダの周りを埋め尽くしていた。
死の運命から逃れることばかり考えていた人生だった。
一つ一つ、大丈夫だと乗り越えてきたはずなのに、いつも心配でたまらなかった。
そんな時、側にいて支えてくれたのはウェインだった。
利用するつもりもあったが、ウェインと友達になれなかった苦い思い出がずっと心に付き纏っていた。
今度は必ず友達になると考えて反抗を実行したが、一緒にいるうちにどんどんウェインに惹かれてしまった。
この想いをもう隠さなくていい。
幸せになっていいのだと思ったミランダは、嬉しくてポロポロと涙をこぼした。
「うん、私もウェインを絶対幸せにする!」
「ミランダ……ありがとう」
ちょうど時計塔の夕刻を知らせる鐘が鳴った。
見晴台には他にも何人かいたが、みんな鐘の鳴る方向を見ていた。
だが、ミランダとウェインは二人で見つめ合って、微笑んでいた。
ウェインの顔を夕日が染めた。
まつ毛の先まで赤く染まって、うっとりするほど綺麗だった。
こんなに美しい光景を見ることができて、ミランダは心から嬉しいと思った。
「……ミランダ、好きだよ」
「私も……」
自分もウェインと同じ色に染まっているだろうかと思いながら、ミランダは目を閉じた。
ウェインの唇が重なって、ぎゅっと抱きしめられた。
真っ黒だったものを、最高の思い出で塗り替えたような気持ちだ。
ウェインの温かい胸に抱かれて、ミランダは微笑んで目を閉じた。
時計塔から降りて、一度お店に顔を出そうかと話していたら、急に不安に襲われて、ぶるっと震えたミランダは、足が動かなくなってしまった。
「ミランダ? どうしたの?」
「ちょっと、寒気がして……」
「ごめん、無理をさせてしまったね。馬車を拾ってくる。邸に戻ろう」
「ありがとう、ウェイン」
寒気とともに頭の中に、フランシスから来た手紙のことが浮かんだ。
しつこく手紙が来ていることは、父親に報告していたが、あの内容は、さすがにマズいことになっているかもしれない。
ウェインにも相談した方がいいとミランダが思った時、近くに黒塗りの馬車が止まった。
ガラリと窓が開いて、顔を出したのは、フランシスだった。
「ミランダ、やっと一人になったな。邸を出たと思ったらあんな男と一緒だとは。結婚したら、勝手なことは許さない。邸に閉じ込めてやるから」
「な……何を……!?」
「誰に何を言われようと、俺はミランダと結婚するんだ! 二人で国を出よう、誰にも邪魔されないところで暮らすんだ」
フランシスの目はおかしくなっていた。
付けられていたようだし、言っていることも、とても正気だとは思えない。
恐怖を感じたミランダが、後退りすると、フランシスはガチャリと馬車のドアを開けた。
「ええ!? ちょっ、その格好は!?」
馬車から降りてきたフランシスは、女性物のドレスを纏っていた。
体格のいいフランシスがとても着られるような物ではなく、パツパツになった腕や腰回りは切れているし、背中は見えないがおそらくばっくりと開いたままだろう。
その異様な姿だけ目に入ってしまったが、それは橙色でアリアが着ていた物と同じだと分かった。
足が動かなくて、ドクドクと心臓の音だけがどんどん大きくなった。
目線を下に移動させたミランダが見たのは、ドレスの裾にある薔薇の刺繍だった。
衝撃で息を吸い込んだまま、吐き出すことができなくなった。
「これは、ミランダのために用意したドレスだ。あの薔薇をあげようとした日、君に薔薇は嫌いだと断られてしまった。本当はあの場で渡そうとしていたのに、ひどい女だよ」
「ひどいって……それはアリアに贈ったものと同じでしょう?」
「あの時はまだ迷っていたんだ。だけど、心は決まった。見てくれよ、特注で作ったんだ。君は嫌いもしれないが、薔薇の花がよく似合うんだ。綺麗だろう? 着てみてくれよ」
「あなた、正気なの? 断ったからって、ドレスを着るなんて……」
「俺は正気だ!! 他の男の者になるなんて許さない!! だったら殺してやる!!」
フランシスが叫んだ時、ドレスの間から何かを取り出すのが見えた。
それがキラリと光って、銀色のナイフだと分かった時、ミランダは恐怖で声を出すことができずに目をつぶった。
まさか今度の人生では、刺し殺されてしまうのか。
目を閉じたミランダは、痛みが来るだろうと思ったが、それはやって来なかった。
恐る恐る目を開けると、ミランダの目の前にはウェインが立っていた。
その向こうに、手を赤く染めて呆然と立っているフランシスが見えた。
それからしばらくして、オリバーノース家より、今回の責任を取り、婚約者はアリアに変更し、先延ばしにしていた式を早めて、来月にすると連絡が来た。
アリアが婚約者になったのは、一度目の時と同じだったので、ミランダに驚きはなかった。
式を早めるというのは驚きだが、これでやっと、フランシスとの婚約が終わったと、ミランダは清々しい気持ちだった。
邸の中は、アリアの結婚式に向けての準備で大忙しだ。
今回はミランダに対して、世間は同情的だった。
変な噂が飛び交うこともなく、妹に婚約者を取られた可哀想な姉、という目で見られることになった。
「ふぅ……」
ミランダは山になった手紙の束を見て、濃いため息をついた。
フランシスとアリアの結婚が決まってからというもの、毎日のように手紙が届く。
送り主はフランシスだ。
内容は、あれは間違いだった、本意ではない、本当に好きなのはミランダで、アリアに迫られておかしくなってしまったと書かれていた。
父親に頼んで、やり直すように言ってもらえないかとまで書かれていて、読んでいるだけで疲れてしまった。
子供の頃はミランダのことを退屈だと思っていた時期もあったそうだ。しかし、いつからか、活き活きとして輝いて見えるようになり、目が離せなくなった。
一緒にいて安らぎを感じるのはミランダだけ、とも書いてあった。
もう、何を書かれていても心は少しも動かない。
早く諦めてくれないかと思いながら、今日届いた手紙を開いたミランダは、思わず息を吸い込んだ。
「何よ……これ……」
そこには、これだけ愛しているのに、どうして応えてくれないんだ。
君が他の誰かのものになるなら殺してやる、と書かれていた。
最後の一文を見たミランダは、手が震えてしまった。
脳裏にあの塔の上でぼんやりと揺れる人影が浮かんできた。
不鮮明で真っ黒にしか見えない口元が動いた。
“……君が他の誰かのものになるのなら、一緒に……落ちよう……どこまでも……一緒に“
コンコンっとノックの音がして、ミランダはハッと我に返った。
手紙を手にしたまま立ちすくんでいて、旦那様がお呼びです、というエラの声で慌てて手紙を封筒にしまった。
思い出した。
あれは、一度目の人生の時に聞いた台詞だ。
どうしてフランシスがその台詞を書いてきたのか……
動揺してまともに考えられない。
フラフラとした足取りで父親の書斎に向かったが、ノックをして中に入ると、そこには父親と、その隣にウェインが立っていた。
「急に呼び出して悪かったな、体調はどうだ?」
「ミランダ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
フランシスとアリアの騒動以来、ミランダは体調を崩して、邸に閉じこもっていた。
変な噂が流れて、お店に迷惑をかけたくなかったからだ。
お店のことはウェインに頼んでいたが、何かあったのかと心配になってしまった。
「私は大丈夫。それより、ウェインの方は? お店の方で何か……」
「こっちも大丈夫、心配しないで。みんなゆっくり休んでって言っているから」
仕事の方で何もなかったようなので、ミランダはホッとしたが、それならウェインがなぜ父親と並んでいるのか不思議に思ってしまった。
「ミランダには、本当にすまないと思っている。生まれた時からの婚約で、嫌がっていたのに無理強いしてしまった。それで、この結果だ。あの子がフランシス様に憧れていたのは知っていたが、まさか、あんなことになるとは……」
「……もう終わったことです。私はアリアとフランシス様が上手くいくならそれでいいと思っています」
「ミランダ……、本当に悪かった。それで、お前の将来を考えたら、新しい婚約を結ぶのが一番だと思ってな」
貴族の娘が父親からの縁談の話を受けるのは、一般的なことだ。
一度目の時も、こうやって呼び出されたが、あの時は父との関係も悪く、ひどい噂に焦っていた父は、ありえない話に飛びついてしまった。
まさか今回も、隣国のご老人との縁談を独断で決めてしまったのかと、ミランダはごくりと唾を飲み込んだ。
「ミランダがよければ、ウェインはどうかと思ってな」
「え………」
「男爵位を受ける予定であるし、何より、事業の成功で、我がローズベルト家に多大な利益をもたらしてくれた。もう、私の息子と言っていい。ウェインから、話があって、彼にならミランダを任せられると賛成することにしたんだ」
そう言った父親の隣で、ウェインはニコニコと笑っていた。
ウェインのことが好きなミランダとしては、嬉しい、この上なく嬉しい相手であることは間違いない。
しかし、なぜウェインがそんな話を持ちかけたのか、本当にいいのかという思いが頭の中をぐるぐると回って、素直に喜ぶことはできなかった。
「まぁ、これは、私からの提案だと思って。あとは二人で話し合ってみてくれ」
父親からそう言われて、ウェインと目が合ったミランダは、何を考えているのか、ウェインの瞳の中から探ろうとした。
ウェインは優しいが、昔から何を考えているのか分からないところがある。
「少し……二人で話せるかな?」
ゆっくり話せる場所に行こうというウェインの提案に、ミランダは分かったと言って頷いた。
吹き抜ける風が気持ちいい。
かつてここは、何か悩んだり苦しんだりしている時、ミランダの気持ちを癒す場所だった。
しかし、二度目の人生になってからは、恐ろしくて一度として足を踏み入れたことはなかった。
ここに行きたいとウェインに言われた時に、断ることができなかった。
ウェインは一度目の人生で起きた悲劇など知らないので、普通に誘ってきただけなのだが、ミランダとしては、あの突き落とされた時計塔に上るということは、かなりの挑戦だった。
無事、街の中心にある時計塔の天辺まで上がったら、色々な意味で息切れしてしまった。
「大丈夫? ちょっと無理させちゃったかな?」
「大丈夫、ここのところ外出していなかったから、運動不足なだけ。それで、ウェインはどうしてここに?」
手すりに手をかけたウェインは、ミランダを見て、優しく目を細めて微笑んだ。
「ここは、仕事のこととか人間関係とか、悩んだ時にたまに上るんだ。街の様子を見下ろすと、安心するというか、色々な人が暮らしている姿を見て、自分も頑張らないと、っていう気持ちになれるからさ」
いつも飄々としていて、悩みなんてないように見えたウェインだったが、もちろん人間なので、ウェインにだって悔しくて枕を涙で濡らす日もあるだろう。
かつて、自分がここを訪れていた時と、ウェインが同じ思いだったことに驚きつつ、ミランダはそうなんだと返した。
「そろそろ教えてくれる? どうして父にあんなことを? 私と結婚なんて、同情してくれたとしても、大事なことなのに……」
「実はね、言っていなかったけど、ミランダを初めて見たのは、商工会の集まりじゃないんだ。それより前に、ミランダはよく教会に行っていたでしょう? 寄付金集めのバザー、音楽会にも参加していたよね?」
「えっ……ええ」
「俺は叔父の家に引き取られる前に、少しの間、教会に預けられていたんだ。その時に、ミランダを見た。貴族の女の子っていうから、偉そうな子が来るのかと思ったら、大人しくてすごく可愛い子だった。一生懸命バザーの声かけをして、音楽会でも誰よりも頑張って声を上げていたよね。その時の印象がすごく残っていて、あの時、友達になろうって言えなかったのを後悔していた」
「ええっ、それは……びっくり、そんな昔に会っていたなんて……」
昔、乳母に連れられてよく町の教会に行っていた。
友達の作り方なんて分からないミランダは、ただ一生懸命目の前のことをやるだけで精一杯だった。
乳母がやめてから、連れて行ってくれる人もいなかったので、足が遠のいていた。
「今考えると、あの時俺は、君に恋をしたんだと思う」
「ええ!?」
「もう一度会いたいって願い続けて、また会えた時には、早く話しかけたくてたまらなかった。一目惚れって言ったら、信じてくれるか分からないけど、ずっと好きだったんだ」
「う……そ……本当に?」
「子爵様と強引に話を進めてしまってごめんね。傷ついているミランダを追い詰めるようなことだったら、断ってくれても……」
「まさか! こ、断りなんてしないわ! だっ……だって、私も……好きだから」
引いていくウェインを引き留めたくて、ミランダは自分の気持ちを伝えてしまった。
慌てて口を手で押さえたが、薄く目を開けると、そこにはキラキラした目で自分を見ているウェインの姿があった。
「嬉しい!! ミランダも同じ気持ちだったんだね」
「あ、あの、でも、今まで婚約者がいた身で……周りに何と言われるか……」
「周りなんてどうでもいいよ。叔父は元から応援してくれているし、仕事のことも気にしないで。何より、俺はミランダと一緒に生きていけるだけで、幸せなんだ」
「ウェイン……」
ゴボンと軽く息を整えたウェインは、ミランダの手を取って、甲に軽く口付けた。
「ミランダ、俺と結婚してくれる? 生涯、大切にして幸せにすると誓う」
予想もしていなかったウェインとの結婚にプロポーズ。
色々な嬉しいものが降ってきて、ミランダの周りを埋め尽くしていた。
死の運命から逃れることばかり考えていた人生だった。
一つ一つ、大丈夫だと乗り越えてきたはずなのに、いつも心配でたまらなかった。
そんな時、側にいて支えてくれたのはウェインだった。
利用するつもりもあったが、ウェインと友達になれなかった苦い思い出がずっと心に付き纏っていた。
今度は必ず友達になると考えて反抗を実行したが、一緒にいるうちにどんどんウェインに惹かれてしまった。
この想いをもう隠さなくていい。
幸せになっていいのだと思ったミランダは、嬉しくてポロポロと涙をこぼした。
「うん、私もウェインを絶対幸せにする!」
「ミランダ……ありがとう」
ちょうど時計塔の夕刻を知らせる鐘が鳴った。
見晴台には他にも何人かいたが、みんな鐘の鳴る方向を見ていた。
だが、ミランダとウェインは二人で見つめ合って、微笑んでいた。
ウェインの顔を夕日が染めた。
まつ毛の先まで赤く染まって、うっとりするほど綺麗だった。
こんなに美しい光景を見ることができて、ミランダは心から嬉しいと思った。
「……ミランダ、好きだよ」
「私も……」
自分もウェインと同じ色に染まっているだろうかと思いながら、ミランダは目を閉じた。
ウェインの唇が重なって、ぎゅっと抱きしめられた。
真っ黒だったものを、最高の思い出で塗り替えたような気持ちだ。
ウェインの温かい胸に抱かれて、ミランダは微笑んで目を閉じた。
時計塔から降りて、一度お店に顔を出そうかと話していたら、急に不安に襲われて、ぶるっと震えたミランダは、足が動かなくなってしまった。
「ミランダ? どうしたの?」
「ちょっと、寒気がして……」
「ごめん、無理をさせてしまったね。馬車を拾ってくる。邸に戻ろう」
「ありがとう、ウェイン」
寒気とともに頭の中に、フランシスから来た手紙のことが浮かんだ。
しつこく手紙が来ていることは、父親に報告していたが、あの内容は、さすがにマズいことになっているかもしれない。
ウェインにも相談した方がいいとミランダが思った時、近くに黒塗りの馬車が止まった。
ガラリと窓が開いて、顔を出したのは、フランシスだった。
「ミランダ、やっと一人になったな。邸を出たと思ったらあんな男と一緒だとは。結婚したら、勝手なことは許さない。邸に閉じ込めてやるから」
「な……何を……!?」
「誰に何を言われようと、俺はミランダと結婚するんだ! 二人で国を出よう、誰にも邪魔されないところで暮らすんだ」
フランシスの目はおかしくなっていた。
付けられていたようだし、言っていることも、とても正気だとは思えない。
恐怖を感じたミランダが、後退りすると、フランシスはガチャリと馬車のドアを開けた。
「ええ!? ちょっ、その格好は!?」
馬車から降りてきたフランシスは、女性物のドレスを纏っていた。
体格のいいフランシスがとても着られるような物ではなく、パツパツになった腕や腰回りは切れているし、背中は見えないがおそらくばっくりと開いたままだろう。
その異様な姿だけ目に入ってしまったが、それは橙色でアリアが着ていた物と同じだと分かった。
足が動かなくて、ドクドクと心臓の音だけがどんどん大きくなった。
目線を下に移動させたミランダが見たのは、ドレスの裾にある薔薇の刺繍だった。
衝撃で息を吸い込んだまま、吐き出すことができなくなった。
「これは、ミランダのために用意したドレスだ。あの薔薇をあげようとした日、君に薔薇は嫌いだと断られてしまった。本当はあの場で渡そうとしていたのに、ひどい女だよ」
「ひどいって……それはアリアに贈ったものと同じでしょう?」
「あの時はまだ迷っていたんだ。だけど、心は決まった。見てくれよ、特注で作ったんだ。君は嫌いもしれないが、薔薇の花がよく似合うんだ。綺麗だろう? 着てみてくれよ」
「あなた、正気なの? 断ったからって、ドレスを着るなんて……」
「俺は正気だ!! 他の男の者になるなんて許さない!! だったら殺してやる!!」
フランシスが叫んだ時、ドレスの間から何かを取り出すのが見えた。
それがキラリと光って、銀色のナイフだと分かった時、ミランダは恐怖で声を出すことができずに目をつぶった。
まさか今度の人生では、刺し殺されてしまうのか。
目を閉じたミランダは、痛みが来るだろうと思ったが、それはやって来なかった。
恐る恐る目を開けると、ミランダの目の前にはウェインが立っていた。
その向こうに、手を赤く染めて呆然と立っているフランシスが見えた。
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