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③
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カーテンを開けると朝日が入ってきて、薄暗かった室内が一気に明るくなった。
ううっと唸るような声が聞こえてきて、主人のお目覚めに俺はベッドに近づいて元気よく挨拶をした。
「おはようございます。蝋燭がずいぶん減ってますけど、また夜更かししたんですか?」
「ラン……」
「徹夜で聖書をお読みに? 熱心で素晴らしいですけど、睡眠はしっかり取らないと! あっ、フルーツのジュースを持ってきました。もらったパンもあるので、ハムを挟んで食べましょう」
新しい神父が派遣されてきて一ヶ月。
最初はエパヌイ神父と真逆の、社交性ゼロのパラディに戸惑ったが、やっとまともに会話らしいものができるようになってきた。
パラディ神父は今年二十歳を超えて、神学校を出たばかりの駆け出し神父らしい。
普通は帝都の教皇庁に務めるはずで、こんな辺境の地に来るのは、引退間近の年老いた神父が多いのだが、おそらくなにか問題を起こして流されたのだと思われる。
基本的に寡黙で無愛想、喜怒哀楽の感情があるのか分からないくらい無表情だ。
食事の仕方や身のこなしにキチンと教育受けたようなものを感じるので、おそらく貴族出身だと思うが、それも推測の域を出ない。
とにかく自分の話になると口を閉ざしてしまうので、なかなか取り扱いが難しい。
あまり深く聞かないことを心がけるようにした。
村人の悩み相談も神父の仕事なので、こんなに口下手で大丈夫かと心配していた。
だが驚いたことに、そちらはすんなりとこなしている。
相談者も斬新なアドバイスだったと感心している様子なので、ちょっと俺も相談してみたい気になってくる。
週礼拝などの祭事も滞りなく務めていて、順調そのものに見える。
もう少し人当たりが良ければと思うのだが、人の性格に文句は言えないので、少し離れたところで様子を見ている。
村の人達も、クスリとも笑うことのないパラディ神父の無愛想さに驚いていたが、そういう人なのだと受け入れてくれた。
俺もそういう人なのだと思うことにして、エパヌイ神父にしていたことを、そのままやることだけ考えてこなしている。
「ほら、脱いでください」
「……っっ、必要ない」
「必要とかじゃなくて、俺の仕事なんです」
この無表情男が唯一感情を表す瞬間がきた。
朝の沐浴の時間だ。
実はこの時間が楽しみだったりする。
「ベッドに座ったままでいいですから、すぐ終わります」
俺は桶から濡らした布を持ってきて、パラディの身体を拭き始めた。
シャツを脱いだパラディの身体は驚くほど鍛え抜かれている。腕なんてガチガチに筋肉が付いているし、腹もバキバキに割れている。
机の上で聖書を読んでいた神学生がどこでこんなに鍛えてきたのか、まったく分からないが、質問しても答えてくれなさそうなので黙って丁寧に拭くことに集中する。
「くっ……っっ」
腹の辺りを拭いていたら、何やら下半身の方からむくむくと膨らんできたのが分かった。
同じ男であるので、その辺の事情はよく分かる。
「すまない……」
「いいですよ。気にしないでください」
長下着だけ履いた状態なので、下半身は足先から太ももの辺りまでを拭うだけに留める。大事なところは自分で綺麗にするのが一般的だ。
「……前の神父にもこんな世話を……」
「ええそうですよ。沐浴は世話人の大事な仕事です。ただ、エパヌイ神父は八十を超えていましたからね、ここが元気になることはなかったです」
指を差しながらニカっと笑って見せると、さすがの無表情男にも動揺が見えた。
わずかに頬が赤くなり、目を逸らしたのが分かって、嬉しくなってしまった。
「はい、終わりです。さすがにソコの処理はお世話できないので、自分でやってくださいね」
「だっ……それはっ、当たり前だっっ」
「着替えたら、式の打ち合わせがありますから、礼拝堂に来てください。先に話を進めておきますね」
予想以上に可愛い反応を見てしまった。
喜怒哀楽の感情は死んでいるんじゃないかと思っていたが、それは間違いだったようだ。
そりゃ、こんな田舎の教会なんかで暮らしていれば溜まるものは溜まるだろう。
生理現象だからと俺も深く考えなかった。
ただ、赤くなって動揺していたパラディを見て、少しだけドキドキしてしまったのは気のせいだと思うことにした。
「二人って、お似合いよね」
林檎を丸齧りしていたら、喉に詰まらせそうになってゲホゲホと咽せてしまった。
「なっ! ゲホッッ、ゴッ、何を、どこを見たらそんな風に思えるんですか?」
教会の裏手で薪を割っていたら、籠いっぱいの林檎を持ってきてくれたマレーヌが突然おかしなことを言い出したので耳を疑ってしまった。
マレーヌはロキとソニアの母親で、山の裏手に大きな果実畑を持っていてる。
俺がここに来てからよくおすそ分けと言って、たくさん果物を持ってきてくれた。
「あら、二人ともよく目立つのよ。村の人間とはどう見たって違うし、ランは一見冷たそうな美人ちゃんに見えるけどとっても可愛いし、パラディ神父は神々しいくらい美形で男の色気たっぷり。見ていて目の保養なのよね」
「はぁ……、見た目の話ですか。心の距離はちっとも縮まった気はしないのですけど。それに、神父は神職にある方なのでそう言った話は……」
「あら、神父は子だくさんなんて話もあるくらいよ。結婚も許されているし、新しい神父が来たら、村の人間で年頃の者はみんな色めき立つの。パラディ神父なんて、お付き合いしたいって若い子はたくさんいるんじゃない? 声もかけられていると思うけど」
「そうだとしても、俺と神父は部下と上司の関係ですから、そういうものは勘弁です。だいたい、恋愛なんて俺はする気もないし、一生独り身のつもりです」
「まぁぁ、こんなに綺麗なのにもったいない! それってもしかして、帝都で何かしてここへ追放されたことと関係がある?」
俺が帝都でどんな立場だったかや、何をしたかは詳しい話は村長くらいしかしらない。
その村長からも相手が相手だから、周りには言わないようにと言われていて、今まで適当な話をして誤魔化してきた。
知りたそうにする人は多かったが、ここまで突っ込んで聞かれるとどう反応していいか分からなくなってしまった。
「ええと……、結婚しようとしていた人に、別に好きな人ができてしまって……、それで揉めたというか。それで、もう恋愛とかはいいかな、なんて……」
実際のところ、俺としては皇子にいっさい気持ちはなく、好きにしてくれという感じだったが、憑依前のテンペランスは皇子が好きだった。
だからこそ、嫉妬に狂って悪役令息になったわけなので、その辺のことを絡めながら、愛憎劇に疲れたということにしておいた。
俺の話に聞き入っていたマレーヌは、みるみる顔が赤くなって、ダメよと大きな声を上げた。
「何よそれ! そいつ浮気者じゃない! なんで傷ついた方が、そのまま落ちていかないといけないの!?」
「いっ……ちょっ、マレーヌ。興奮しすぎ。もう大丈夫だから……」
足をドンドン鳴らして怒り出してしまったマレーヌを、なんとか抑えようとしていたら、声に驚いたのか教会の裏口がガタンと音を立てて開けられた。
「ラン、大丈夫か?」
「パラディ神父、騒がしくてすみません」
ここでこの人が入ってきたらよけいおかしな話になりそうなので、さっさと中に戻ってもらおうとしたら、俺の後ろからマレーヌが飛び出してきた。
「神父様、うちのランはとっても可愛いでしょう? それなのに、帝都では男に遊ばれてひどい裏切りにあったみたいなの! 傷ついた心を癒してくれる人を見つけてあげたいのよ。協力してあげて」
「あわわわっ、マレーヌ、それはちょっと大げさかなと……」
変な雰囲気になるからやめてくれと止めたが、マレーヌお得意のお節介モードを止められず、気まずい話を聞かれてしまった。
パラディがどんな反応をするのか怖かったが、恐る恐る見ると、パラディはまったく感情のない顔で頭をわずかに下げて頷いたように見えた。
「そうと決まれば、隣村にも声をかけて若者衆を集めましょう! お貴族様みたいにパーティーよ! ラン、あなたが主役なんだから絶対参加してね!」
「えっ、ちょっ、マレーヌさんーーー!」
勢いに乗ったマレーヌは、林檎の入った籠を俺に押し付けて、猛スピードで走って行ってしまった。
呆気にとられれた男二人、立ち尽くしていたが、気まずさを誤魔化すように俺はまた薪を集めて割ることにした。
パラディは何か言いたげに立っていたが、しばらくしたら教会の中に戻っていた。
パラディとの関係は一進一退という言葉がよく似合う。
昨日長く話したかと思えば、今日は挨拶だけで目も合わせてくれなかったり、その繰り返し。
そういう人だと思っての日々も、さすがに三ヶ月も経てば、もう少し仲良くなってもいいんじゃないかと思うようになってきた。
例えば二人きりになっても、緊張することなく、和やかに会話ができるくらいに……。
「そこ、気をつけてください。コケが多くてよく滑るんです」
いちおう注意してみたが、パラディは軽々とコケゾーンを飛び越えてきたので、自分は本当に必要だったのかと思ってしまう。
エパヌイ神父がいた頃は、一人で何日もかけて登っていたのに、険しい段差も軽々と飛び越えていってしまうので、逆に俺が足手まといになって時間がかかっていた。
今日は二人とも登山用の軽装で、村から少し歩いたところの山に登っていた。
教会では神木と呼ばれる樹齢千年以上の大木から枝を集めて、儀式などの際に火を灯し、それを聖火と呼んでいる。
調達するのは世話人の役目なので、前回は多めに集めてきたのに、このところ婚礼の儀式が立て続いたのでストックが無くなってしまった。
パラディにしばらく留守にすることを伝えたら、一緒に行きたいと言われてしまった。
しばらく祭事の予定はないし、週礼拝までに戻ればいいので留守にしても問題はないのだが、神木集めになんて興味を示したので驚いた。
二人いればたくさん取りに行けるので、助かることには違いないが、首を傾げてしまった。
普通の神父はこんな雑務に関心を向けることなどない。俺が来る前は他の村人がやっていたし、ここに長くいたエパヌイ神父は山には近づいたこともないと言っていた。
神木は発光しているので、誰が見てもすぐに分かるが、何しろ高い山にしかない。
取りに行くことが修行みたいなもので、ただ孤独で疲れる苦しい時間だ。
「はぁはぁ……」
パラディのペースが早いので、付いて行くだけで息切れしてしまう。顔から流れ出た汗が頬をつたってポタポタと地面に落ちて行く。
俺は汗を拭いながら、地面に腰を下ろした。
正直言って普通の人間のスピードではない。
軽くどうぞなんて言って付いてきてもらったが、アスリート並みの速さで登るなんて、聞いていなかった。
先を行っていたパラディがいつの間にか俺の隣まで戻ってきていて、すぐ横にドカンと腰を下ろした。
横でくすんだ青色の髪がふわりと揺れたのが見えて、ドキッとしてしまった。
「すいません、ちょっともう足が動かなくて」
息を吐きながら項垂れていたら、目の前にサッと水筒が出てきた。
「休憩しよう」
「はい……ありがとうございます」
山頂はまだ先で、かなり高いところまで登ってきたはずなのに、空はもっと高いところにあって、見上げると大きな鳥が悠々と雲の間を抜けるように飛んでいた。
不思議な時間が流れていた。
ろくな会話もなく、いつもなら気まずさを感じるはずなのに、開放的で澄んだ山の空気の中では何も感じなかった。
むしろそれが心地よくて、静寂の中聞こえてくる自然の音、そして一人ではなく、誰かと一緒にいるという感覚が嬉しかった。
ふと気になってパラディの方を見ると、彼も俺と同じく静かに空を見上げていた。
パラディは恐ろしさを感じるほど整った容貌だ。
いちおうゲームの登場人物とはひと通り会ってきた。
皇子に、兄の公爵、宰相の息子、隣国の王子。
全員目を引く容姿をしていたが、これほどまでに強烈に印象に残る男はいなかった。
彼は本当にただのモブキャラなのだろうか。
この世界の元になったゲームをテストプレイヤーとしてやり込んだ俺は、攻略キャラ以外にも主人公周辺の登場人物は頭に入っている。
信心深いこの国では、主人公が神殿で祈りを捧げるシーンもあるが、神殿の関係者など名前すら出てこなかった。
「なんだ? 穴が開くほど見てきて」
「あ……ええと、パラディ神父は、どうしてこの村の教会に来られたのかな……と」
「おかしなことを聞くな。命ぜられたから従ったまでだ」
「ま……まあ、そうですよね」
帝都の神学校を出た者は、まず帝都の神殿で修行を積むとエパヌイ神父から聞いていた。
エパヌイ神父もかつては帝都の教皇庁に勤めていたが、内部争いに敗れて各地を転々と回されるようになり、最後に行き着いたのがこの村の教会だった。
二十歳の若者がいきなりど田舎に赴任されるなんて、正直考えられなかった。
「……お前は、帝都で男に騙されたと聞いたが」
「マレーヌさんですね……。私は元貴族で、身分の高い婚約者がいたのです。ただ、元からあまりいい関係ではなくて、魅力的な人が出てきたら、彼の心はその人に……。私はすぐに認められなくて、立場を利用してその人にひどい嫌がらせをしました。その罪を償う方法として、平民になって、この地に根を下ろすことを選んだんです」
「似合わないな」
「え? 嫉妬とか、嫌がらせとかですか? 今はあれですけどその当時は俺だって……」
「いや、お前には明るい笑顔の方が良く似合う」
「え……?」
突然予想外の答えが飛んできて、俺はポカンとして固まってしまった。
パラディは冗談でも言っているのかと思ったが、真剣な顔をしていたのでまた驚いた。
「お前には、幸せが似合う」
「し……幸せ? あ……あの、それって……。はははっ、幸せですか? なんでしょう、俺には幸せがなんなのかよく分かりません……」
「……初めて、お前に会った時、輝いて見えた。心が満たされて……温かく感じた」
「それが……幸せ、ですか?」
パラディは真剣な目をしたまま、こくんと頷いた。
さすが悩み相談でも斬新だと言われるだけある。俺にはよく分からなかったが、一生懸命な気持ちだけは伝わってきた。
その後はまた、二人して無言になってしまったが、心は静かな海のように穏やかで、心地よい静寂だった。
「こっちです! ほら、あの光、見えるでしょう?」
山頂に着いた俺は、神木目指して走った。
神木の光には癒し効果があって、ここまで登ってきた疲れが引いて行くのが分かる。
パラディの方を見ながら、ハシャいでいたら、木の根に躓いてぐらりと体が傾いた。
ここまで来て転ぶなんてと衝撃に備えたが、痛みは襲って来なかった。
「大丈夫か? 後ろ向きで走るな」
「え……は…ぃ…」
転ぶと思っていたのに、音もなく直ぐそばまで来ていたパラディに腕を掴まれた。
そのまま広くて硬い胸の中に押しつけられて、まるで抱きしめられているような格好に言葉を失ってしまった。
心臓の音だけがどくどくとうるさく鳴っていて、口から飛び出てしまいそうだった。
「ほう……あれが神木か。癒しの光を放つと聞いていたが……、確かにそうだな」
真っ赤になって慌てている俺とは違い、パラディの目は神木に注がれていた。
力強い腕はそのまま俺を抱えるようにして、パラディは歩き出してしまった。
「あ……あの、下ろして……」
「じっとしてろ。また転ばれたら困る」
男に抱えられるなんて冗談じゃないと思っていたけれど、不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ、逞しい腕に包まれる感覚は安心感があって、ずっとこうしていたいと思うほど気持ち良かった。
「なるほど、神木になると、木は白くなるのか……。あれは乾燥したからではなかったんだな」
「そうです。神の息吹が宿るのだそうですよ。神木は光り輝き、迷える者を照らす。よくエパヌイ神父が教えてくれました」
「お前は……迷う時はあるか?」
「それは……もちろんありますよ。今日の夕食はなににしようかなとか、髪の毛を切った方がいいかとか……」
質問の意味が違うのは分かっていたが、今はあまり悲しい気持ちにはなりたくなくて、適当なことを言って笑って見せた。
またいつもの無表情が返ってくるかなとおもっていたら、パラディの口の端はわずかに上がっていて、鋭い目は柔らかく細められていた。
「ランは可愛いな」
「ええ!?」
「お前の、存在が可愛い」
何を言い出すのかと思ったが、もっと輪をかけておかしなことを言われたので、俺は真っ赤になってしまった。
イケメンに可愛いと言われて照れるなんて、これじゃ恋する女の子だ。
「ばかっ、変なこと言うなっ、下ろしてってば」
このままだともっと変な空気になりそうなので、もがいた俺はやっと解放されて地面に足をつけた。
「早く枝を切って集めますよ。遊んでる場合じゃないです」
伐採用のナイフを取り出して、黙々と作業し始めると、無表情なのに、なぜか少し笑っているような雰囲気のパラディも遅れて作業に参加した。
日暮れまでに籠いっぱいの枝を切り集めて紐で縛った。今日はここで野宿で夜を明かして、朝一番に下山することになった。
焚き火をしながら、簡単なスープを作り、持ってきたパンや干し肉を食べた。
簡単に寝床を作ったが、毛布は重いので一人分しか持って来られなかった。
夜になるとぐっと冷えるので、毛布はパラディに渡して焚き火のそばで寝ようとしていると、パラディに名前を呼ばれた。
「一緒に寝ればいいだろう、毛布は一枚しかないんだから」
「そんなっ、世話人の俺がそんなことを……、こっちに適当に転がってるので……わっ!!」
地面に転がろうとしていたら、脇の下から抱えられて寝床に入れられてしまった。
俺の横にピッタリと寄り添うようにパラディが寝転んで、一人分の毛布を一緒に入るようにかけてきた。
「こうやってくっ付いていればより温かい。お前がいつも言っているだろう、風邪をひいたらどうするんだと」
「まっ、まあ、そうですね」
「だいたい本当に貴族の令息だったのか? こんな辺境の村で下働きのようなことをして、すっかり馴染んでいるなんて……」
「最初は戸惑いましたけど、慣れです。どうやったって生きていかないといけませんから、プライドで飯は食えません」
「くっ……ははははっ、つくづく変わった男だ」
思わず驚きで固まってしまった。俺を寝ながら後ろから包み込んでいる男が、腹を揺らして笑っていたのだ。
無表情、無感情を絵に描いたような人だったのに、今どんな顔をしているのか見たくなって振り返ってしまった。
「なんだ? 幽霊でも見たような顔だ」
「幽霊より貴重ですよ。パラディ神父が笑っているところなんて……」
「……そうか? 普段から笑う時は笑っているが……」
「分かりにくすぎる! 表情筋をもっと動かしてください! だいたい、笑う時っていつなんですか?」
「ランといる時は笑っている」
「……へ?」
「ランを見ていると、顔が綻ぶんだ」
「バカっぽいとか、変だから……ですか?」
「いや、ここが……温かくなるからだ」
俺の手を取ったパラディは、自分の胸に俺の手を当てて、上から自分の手を重ねてきた。
「お前の笑顔を見ていると、ここが熱くなる。もっと見ていたいと……、それで温かいもので満たされるんだ」
「温かいもの……ですか?」
「ああ、今もこうしていると溢れてくる。もっと……もっと触れたいと……」
月明かりに照らされて、パラディの瞳は黄金色にキラキラと輝いていた。
綺麗だなと見入っていたら、その目がどんどん近づいてきて、鼻息がかかるくらいの距離にパラディの顔があった。
そして、顔を寄せてきたパラディの唇と、俺の唇が重なった。
フワッとして柔らかく温かい感触を唇に感じた。
しばらく軽く触れるだけで、そのうちぐっと深く重なってきた。濡れたような感触を感じたら、ビクッと肩が揺れた俺は慌てて顔を離してしまった。
獣のようなパラディの瞳を見ていられなくて、バっと背中を向けて丸くなった。
自分に何が起きたのか、頭が混乱して、まさかこれはキスなんじゃないのかと頭の中でぐるぐると考えてしまった。
警戒したがパラディはそれ以上何もして来なかった。気がついたらパラディも背を向けて寝ていて、頭の中でため息をついた。
どうしてこんなことになったのか。
戯れ、悪戯、興味、色々な憶測を浮かべては消して、結局眠りについたのは空が明るくなってからで、ウトウトとした浅い眠りの中、パラディに揺り起こされてしまった。
意識してビクビクしている俺をよそに、パラディは手際よく寝床を片付けて、伐採した枝を背中に背負って準備をしてしまった。
何事もなかった様子のパラディに、戸惑いしかなかったが、昨日のことは夢だったと思うことにした。
山を下りて教会に帰れば、元の暮らしに戻るだけだ。
朝出発して、夕刻には教会に到着した。
下山中はほとんど無言で、黙々と足を運ぶことに集中した。
収穫してきた神木を教会の中に入れて、また翌日来ることを伝えて自分の家に戻った。
パラディは本当に何もなかったように、いつも通り無愛想に返事をしていただけだった。
「はぁ……マジで、なんだったんだ……アレは」
自宅に戻ってから体を清めてベッドに入っても、思い出すのはあのキスのことだった。
キスなんて、前世での記憶もないし、今世でも皇子から相手にされなかった俺は、誰ともそんな接触がなかった。
というか一生無縁だと思っていたのに、あんなところで経験してしまうなんて考えてもいなかった。
「開放的な気持ちになったから? それとも、たっ……溜まってたのかな」
こんな人を乱すようなことはもうやめて欲しい。
次に変な接触があったらキッパリやめてくれと言おうと思ったが、困ったことにパラディに触れられたのが嫌ではなかったのだ。
触れるだけでの簡単なキス、ただ口が重なっただけだと思えば思うほど、熱くなって、もっと深く繋がりたいという気持ちまで出てきてしまう。
一人で生きていこうと決めたのに、人の温もりを感じたらもうだめで、ズブズブと深い沼にハマっていくような気がする。
俺はため息をついて枕を抱えた。
こんなこと……、だめだ。
これ以上進んだら、きっと自分がおかしなことになってしまう。
ぎゅっと目をつぶって、全て忘れようと思うことにした。
ううっと唸るような声が聞こえてきて、主人のお目覚めに俺はベッドに近づいて元気よく挨拶をした。
「おはようございます。蝋燭がずいぶん減ってますけど、また夜更かししたんですか?」
「ラン……」
「徹夜で聖書をお読みに? 熱心で素晴らしいですけど、睡眠はしっかり取らないと! あっ、フルーツのジュースを持ってきました。もらったパンもあるので、ハムを挟んで食べましょう」
新しい神父が派遣されてきて一ヶ月。
最初はエパヌイ神父と真逆の、社交性ゼロのパラディに戸惑ったが、やっとまともに会話らしいものができるようになってきた。
パラディ神父は今年二十歳を超えて、神学校を出たばかりの駆け出し神父らしい。
普通は帝都の教皇庁に務めるはずで、こんな辺境の地に来るのは、引退間近の年老いた神父が多いのだが、おそらくなにか問題を起こして流されたのだと思われる。
基本的に寡黙で無愛想、喜怒哀楽の感情があるのか分からないくらい無表情だ。
食事の仕方や身のこなしにキチンと教育受けたようなものを感じるので、おそらく貴族出身だと思うが、それも推測の域を出ない。
とにかく自分の話になると口を閉ざしてしまうので、なかなか取り扱いが難しい。
あまり深く聞かないことを心がけるようにした。
村人の悩み相談も神父の仕事なので、こんなに口下手で大丈夫かと心配していた。
だが驚いたことに、そちらはすんなりとこなしている。
相談者も斬新なアドバイスだったと感心している様子なので、ちょっと俺も相談してみたい気になってくる。
週礼拝などの祭事も滞りなく務めていて、順調そのものに見える。
もう少し人当たりが良ければと思うのだが、人の性格に文句は言えないので、少し離れたところで様子を見ている。
村の人達も、クスリとも笑うことのないパラディ神父の無愛想さに驚いていたが、そういう人なのだと受け入れてくれた。
俺もそういう人なのだと思うことにして、エパヌイ神父にしていたことを、そのままやることだけ考えてこなしている。
「ほら、脱いでください」
「……っっ、必要ない」
「必要とかじゃなくて、俺の仕事なんです」
この無表情男が唯一感情を表す瞬間がきた。
朝の沐浴の時間だ。
実はこの時間が楽しみだったりする。
「ベッドに座ったままでいいですから、すぐ終わります」
俺は桶から濡らした布を持ってきて、パラディの身体を拭き始めた。
シャツを脱いだパラディの身体は驚くほど鍛え抜かれている。腕なんてガチガチに筋肉が付いているし、腹もバキバキに割れている。
机の上で聖書を読んでいた神学生がどこでこんなに鍛えてきたのか、まったく分からないが、質問しても答えてくれなさそうなので黙って丁寧に拭くことに集中する。
「くっ……っっ」
腹の辺りを拭いていたら、何やら下半身の方からむくむくと膨らんできたのが分かった。
同じ男であるので、その辺の事情はよく分かる。
「すまない……」
「いいですよ。気にしないでください」
長下着だけ履いた状態なので、下半身は足先から太ももの辺りまでを拭うだけに留める。大事なところは自分で綺麗にするのが一般的だ。
「……前の神父にもこんな世話を……」
「ええそうですよ。沐浴は世話人の大事な仕事です。ただ、エパヌイ神父は八十を超えていましたからね、ここが元気になることはなかったです」
指を差しながらニカっと笑って見せると、さすがの無表情男にも動揺が見えた。
わずかに頬が赤くなり、目を逸らしたのが分かって、嬉しくなってしまった。
「はい、終わりです。さすがにソコの処理はお世話できないので、自分でやってくださいね」
「だっ……それはっ、当たり前だっっ」
「着替えたら、式の打ち合わせがありますから、礼拝堂に来てください。先に話を進めておきますね」
予想以上に可愛い反応を見てしまった。
喜怒哀楽の感情は死んでいるんじゃないかと思っていたが、それは間違いだったようだ。
そりゃ、こんな田舎の教会なんかで暮らしていれば溜まるものは溜まるだろう。
生理現象だからと俺も深く考えなかった。
ただ、赤くなって動揺していたパラディを見て、少しだけドキドキしてしまったのは気のせいだと思うことにした。
「二人って、お似合いよね」
林檎を丸齧りしていたら、喉に詰まらせそうになってゲホゲホと咽せてしまった。
「なっ! ゲホッッ、ゴッ、何を、どこを見たらそんな風に思えるんですか?」
教会の裏手で薪を割っていたら、籠いっぱいの林檎を持ってきてくれたマレーヌが突然おかしなことを言い出したので耳を疑ってしまった。
マレーヌはロキとソニアの母親で、山の裏手に大きな果実畑を持っていてる。
俺がここに来てからよくおすそ分けと言って、たくさん果物を持ってきてくれた。
「あら、二人ともよく目立つのよ。村の人間とはどう見たって違うし、ランは一見冷たそうな美人ちゃんに見えるけどとっても可愛いし、パラディ神父は神々しいくらい美形で男の色気たっぷり。見ていて目の保養なのよね」
「はぁ……、見た目の話ですか。心の距離はちっとも縮まった気はしないのですけど。それに、神父は神職にある方なのでそう言った話は……」
「あら、神父は子だくさんなんて話もあるくらいよ。結婚も許されているし、新しい神父が来たら、村の人間で年頃の者はみんな色めき立つの。パラディ神父なんて、お付き合いしたいって若い子はたくさんいるんじゃない? 声もかけられていると思うけど」
「そうだとしても、俺と神父は部下と上司の関係ですから、そういうものは勘弁です。だいたい、恋愛なんて俺はする気もないし、一生独り身のつもりです」
「まぁぁ、こんなに綺麗なのにもったいない! それってもしかして、帝都で何かしてここへ追放されたことと関係がある?」
俺が帝都でどんな立場だったかや、何をしたかは詳しい話は村長くらいしかしらない。
その村長からも相手が相手だから、周りには言わないようにと言われていて、今まで適当な話をして誤魔化してきた。
知りたそうにする人は多かったが、ここまで突っ込んで聞かれるとどう反応していいか分からなくなってしまった。
「ええと……、結婚しようとしていた人に、別に好きな人ができてしまって……、それで揉めたというか。それで、もう恋愛とかはいいかな、なんて……」
実際のところ、俺としては皇子にいっさい気持ちはなく、好きにしてくれという感じだったが、憑依前のテンペランスは皇子が好きだった。
だからこそ、嫉妬に狂って悪役令息になったわけなので、その辺のことを絡めながら、愛憎劇に疲れたということにしておいた。
俺の話に聞き入っていたマレーヌは、みるみる顔が赤くなって、ダメよと大きな声を上げた。
「何よそれ! そいつ浮気者じゃない! なんで傷ついた方が、そのまま落ちていかないといけないの!?」
「いっ……ちょっ、マレーヌ。興奮しすぎ。もう大丈夫だから……」
足をドンドン鳴らして怒り出してしまったマレーヌを、なんとか抑えようとしていたら、声に驚いたのか教会の裏口がガタンと音を立てて開けられた。
「ラン、大丈夫か?」
「パラディ神父、騒がしくてすみません」
ここでこの人が入ってきたらよけいおかしな話になりそうなので、さっさと中に戻ってもらおうとしたら、俺の後ろからマレーヌが飛び出してきた。
「神父様、うちのランはとっても可愛いでしょう? それなのに、帝都では男に遊ばれてひどい裏切りにあったみたいなの! 傷ついた心を癒してくれる人を見つけてあげたいのよ。協力してあげて」
「あわわわっ、マレーヌ、それはちょっと大げさかなと……」
変な雰囲気になるからやめてくれと止めたが、マレーヌお得意のお節介モードを止められず、気まずい話を聞かれてしまった。
パラディがどんな反応をするのか怖かったが、恐る恐る見ると、パラディはまったく感情のない顔で頭をわずかに下げて頷いたように見えた。
「そうと決まれば、隣村にも声をかけて若者衆を集めましょう! お貴族様みたいにパーティーよ! ラン、あなたが主役なんだから絶対参加してね!」
「えっ、ちょっ、マレーヌさんーーー!」
勢いに乗ったマレーヌは、林檎の入った籠を俺に押し付けて、猛スピードで走って行ってしまった。
呆気にとられれた男二人、立ち尽くしていたが、気まずさを誤魔化すように俺はまた薪を集めて割ることにした。
パラディは何か言いたげに立っていたが、しばらくしたら教会の中に戻っていた。
パラディとの関係は一進一退という言葉がよく似合う。
昨日長く話したかと思えば、今日は挨拶だけで目も合わせてくれなかったり、その繰り返し。
そういう人だと思っての日々も、さすがに三ヶ月も経てば、もう少し仲良くなってもいいんじゃないかと思うようになってきた。
例えば二人きりになっても、緊張することなく、和やかに会話ができるくらいに……。
「そこ、気をつけてください。コケが多くてよく滑るんです」
いちおう注意してみたが、パラディは軽々とコケゾーンを飛び越えてきたので、自分は本当に必要だったのかと思ってしまう。
エパヌイ神父がいた頃は、一人で何日もかけて登っていたのに、険しい段差も軽々と飛び越えていってしまうので、逆に俺が足手まといになって時間がかかっていた。
今日は二人とも登山用の軽装で、村から少し歩いたところの山に登っていた。
教会では神木と呼ばれる樹齢千年以上の大木から枝を集めて、儀式などの際に火を灯し、それを聖火と呼んでいる。
調達するのは世話人の役目なので、前回は多めに集めてきたのに、このところ婚礼の儀式が立て続いたのでストックが無くなってしまった。
パラディにしばらく留守にすることを伝えたら、一緒に行きたいと言われてしまった。
しばらく祭事の予定はないし、週礼拝までに戻ればいいので留守にしても問題はないのだが、神木集めになんて興味を示したので驚いた。
二人いればたくさん取りに行けるので、助かることには違いないが、首を傾げてしまった。
普通の神父はこんな雑務に関心を向けることなどない。俺が来る前は他の村人がやっていたし、ここに長くいたエパヌイ神父は山には近づいたこともないと言っていた。
神木は発光しているので、誰が見てもすぐに分かるが、何しろ高い山にしかない。
取りに行くことが修行みたいなもので、ただ孤独で疲れる苦しい時間だ。
「はぁはぁ……」
パラディのペースが早いので、付いて行くだけで息切れしてしまう。顔から流れ出た汗が頬をつたってポタポタと地面に落ちて行く。
俺は汗を拭いながら、地面に腰を下ろした。
正直言って普通の人間のスピードではない。
軽くどうぞなんて言って付いてきてもらったが、アスリート並みの速さで登るなんて、聞いていなかった。
先を行っていたパラディがいつの間にか俺の隣まで戻ってきていて、すぐ横にドカンと腰を下ろした。
横でくすんだ青色の髪がふわりと揺れたのが見えて、ドキッとしてしまった。
「すいません、ちょっともう足が動かなくて」
息を吐きながら項垂れていたら、目の前にサッと水筒が出てきた。
「休憩しよう」
「はい……ありがとうございます」
山頂はまだ先で、かなり高いところまで登ってきたはずなのに、空はもっと高いところにあって、見上げると大きな鳥が悠々と雲の間を抜けるように飛んでいた。
不思議な時間が流れていた。
ろくな会話もなく、いつもなら気まずさを感じるはずなのに、開放的で澄んだ山の空気の中では何も感じなかった。
むしろそれが心地よくて、静寂の中聞こえてくる自然の音、そして一人ではなく、誰かと一緒にいるという感覚が嬉しかった。
ふと気になってパラディの方を見ると、彼も俺と同じく静かに空を見上げていた。
パラディは恐ろしさを感じるほど整った容貌だ。
いちおうゲームの登場人物とはひと通り会ってきた。
皇子に、兄の公爵、宰相の息子、隣国の王子。
全員目を引く容姿をしていたが、これほどまでに強烈に印象に残る男はいなかった。
彼は本当にただのモブキャラなのだろうか。
この世界の元になったゲームをテストプレイヤーとしてやり込んだ俺は、攻略キャラ以外にも主人公周辺の登場人物は頭に入っている。
信心深いこの国では、主人公が神殿で祈りを捧げるシーンもあるが、神殿の関係者など名前すら出てこなかった。
「なんだ? 穴が開くほど見てきて」
「あ……ええと、パラディ神父は、どうしてこの村の教会に来られたのかな……と」
「おかしなことを聞くな。命ぜられたから従ったまでだ」
「ま……まあ、そうですよね」
帝都の神学校を出た者は、まず帝都の神殿で修行を積むとエパヌイ神父から聞いていた。
エパヌイ神父もかつては帝都の教皇庁に勤めていたが、内部争いに敗れて各地を転々と回されるようになり、最後に行き着いたのがこの村の教会だった。
二十歳の若者がいきなりど田舎に赴任されるなんて、正直考えられなかった。
「……お前は、帝都で男に騙されたと聞いたが」
「マレーヌさんですね……。私は元貴族で、身分の高い婚約者がいたのです。ただ、元からあまりいい関係ではなくて、魅力的な人が出てきたら、彼の心はその人に……。私はすぐに認められなくて、立場を利用してその人にひどい嫌がらせをしました。その罪を償う方法として、平民になって、この地に根を下ろすことを選んだんです」
「似合わないな」
「え? 嫉妬とか、嫌がらせとかですか? 今はあれですけどその当時は俺だって……」
「いや、お前には明るい笑顔の方が良く似合う」
「え……?」
突然予想外の答えが飛んできて、俺はポカンとして固まってしまった。
パラディは冗談でも言っているのかと思ったが、真剣な顔をしていたのでまた驚いた。
「お前には、幸せが似合う」
「し……幸せ? あ……あの、それって……。はははっ、幸せですか? なんでしょう、俺には幸せがなんなのかよく分かりません……」
「……初めて、お前に会った時、輝いて見えた。心が満たされて……温かく感じた」
「それが……幸せ、ですか?」
パラディは真剣な目をしたまま、こくんと頷いた。
さすが悩み相談でも斬新だと言われるだけある。俺にはよく分からなかったが、一生懸命な気持ちだけは伝わってきた。
その後はまた、二人して無言になってしまったが、心は静かな海のように穏やかで、心地よい静寂だった。
「こっちです! ほら、あの光、見えるでしょう?」
山頂に着いた俺は、神木目指して走った。
神木の光には癒し効果があって、ここまで登ってきた疲れが引いて行くのが分かる。
パラディの方を見ながら、ハシャいでいたら、木の根に躓いてぐらりと体が傾いた。
ここまで来て転ぶなんてと衝撃に備えたが、痛みは襲って来なかった。
「大丈夫か? 後ろ向きで走るな」
「え……は…ぃ…」
転ぶと思っていたのに、音もなく直ぐそばまで来ていたパラディに腕を掴まれた。
そのまま広くて硬い胸の中に押しつけられて、まるで抱きしめられているような格好に言葉を失ってしまった。
心臓の音だけがどくどくとうるさく鳴っていて、口から飛び出てしまいそうだった。
「ほう……あれが神木か。癒しの光を放つと聞いていたが……、確かにそうだな」
真っ赤になって慌てている俺とは違い、パラディの目は神木に注がれていた。
力強い腕はそのまま俺を抱えるようにして、パラディは歩き出してしまった。
「あ……あの、下ろして……」
「じっとしてろ。また転ばれたら困る」
男に抱えられるなんて冗談じゃないと思っていたけれど、不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ、逞しい腕に包まれる感覚は安心感があって、ずっとこうしていたいと思うほど気持ち良かった。
「なるほど、神木になると、木は白くなるのか……。あれは乾燥したからではなかったんだな」
「そうです。神の息吹が宿るのだそうですよ。神木は光り輝き、迷える者を照らす。よくエパヌイ神父が教えてくれました」
「お前は……迷う時はあるか?」
「それは……もちろんありますよ。今日の夕食はなににしようかなとか、髪の毛を切った方がいいかとか……」
質問の意味が違うのは分かっていたが、今はあまり悲しい気持ちにはなりたくなくて、適当なことを言って笑って見せた。
またいつもの無表情が返ってくるかなとおもっていたら、パラディの口の端はわずかに上がっていて、鋭い目は柔らかく細められていた。
「ランは可愛いな」
「ええ!?」
「お前の、存在が可愛い」
何を言い出すのかと思ったが、もっと輪をかけておかしなことを言われたので、俺は真っ赤になってしまった。
イケメンに可愛いと言われて照れるなんて、これじゃ恋する女の子だ。
「ばかっ、変なこと言うなっ、下ろしてってば」
このままだともっと変な空気になりそうなので、もがいた俺はやっと解放されて地面に足をつけた。
「早く枝を切って集めますよ。遊んでる場合じゃないです」
伐採用のナイフを取り出して、黙々と作業し始めると、無表情なのに、なぜか少し笑っているような雰囲気のパラディも遅れて作業に参加した。
日暮れまでに籠いっぱいの枝を切り集めて紐で縛った。今日はここで野宿で夜を明かして、朝一番に下山することになった。
焚き火をしながら、簡単なスープを作り、持ってきたパンや干し肉を食べた。
簡単に寝床を作ったが、毛布は重いので一人分しか持って来られなかった。
夜になるとぐっと冷えるので、毛布はパラディに渡して焚き火のそばで寝ようとしていると、パラディに名前を呼ばれた。
「一緒に寝ればいいだろう、毛布は一枚しかないんだから」
「そんなっ、世話人の俺がそんなことを……、こっちに適当に転がってるので……わっ!!」
地面に転がろうとしていたら、脇の下から抱えられて寝床に入れられてしまった。
俺の横にピッタリと寄り添うようにパラディが寝転んで、一人分の毛布を一緒に入るようにかけてきた。
「こうやってくっ付いていればより温かい。お前がいつも言っているだろう、風邪をひいたらどうするんだと」
「まっ、まあ、そうですね」
「だいたい本当に貴族の令息だったのか? こんな辺境の村で下働きのようなことをして、すっかり馴染んでいるなんて……」
「最初は戸惑いましたけど、慣れです。どうやったって生きていかないといけませんから、プライドで飯は食えません」
「くっ……ははははっ、つくづく変わった男だ」
思わず驚きで固まってしまった。俺を寝ながら後ろから包み込んでいる男が、腹を揺らして笑っていたのだ。
無表情、無感情を絵に描いたような人だったのに、今どんな顔をしているのか見たくなって振り返ってしまった。
「なんだ? 幽霊でも見たような顔だ」
「幽霊より貴重ですよ。パラディ神父が笑っているところなんて……」
「……そうか? 普段から笑う時は笑っているが……」
「分かりにくすぎる! 表情筋をもっと動かしてください! だいたい、笑う時っていつなんですか?」
「ランといる時は笑っている」
「……へ?」
「ランを見ていると、顔が綻ぶんだ」
「バカっぽいとか、変だから……ですか?」
「いや、ここが……温かくなるからだ」
俺の手を取ったパラディは、自分の胸に俺の手を当てて、上から自分の手を重ねてきた。
「お前の笑顔を見ていると、ここが熱くなる。もっと見ていたいと……、それで温かいもので満たされるんだ」
「温かいもの……ですか?」
「ああ、今もこうしていると溢れてくる。もっと……もっと触れたいと……」
月明かりに照らされて、パラディの瞳は黄金色にキラキラと輝いていた。
綺麗だなと見入っていたら、その目がどんどん近づいてきて、鼻息がかかるくらいの距離にパラディの顔があった。
そして、顔を寄せてきたパラディの唇と、俺の唇が重なった。
フワッとして柔らかく温かい感触を唇に感じた。
しばらく軽く触れるだけで、そのうちぐっと深く重なってきた。濡れたような感触を感じたら、ビクッと肩が揺れた俺は慌てて顔を離してしまった。
獣のようなパラディの瞳を見ていられなくて、バっと背中を向けて丸くなった。
自分に何が起きたのか、頭が混乱して、まさかこれはキスなんじゃないのかと頭の中でぐるぐると考えてしまった。
警戒したがパラディはそれ以上何もして来なかった。気がついたらパラディも背を向けて寝ていて、頭の中でため息をついた。
どうしてこんなことになったのか。
戯れ、悪戯、興味、色々な憶測を浮かべては消して、結局眠りについたのは空が明るくなってからで、ウトウトとした浅い眠りの中、パラディに揺り起こされてしまった。
意識してビクビクしている俺をよそに、パラディは手際よく寝床を片付けて、伐採した枝を背中に背負って準備をしてしまった。
何事もなかった様子のパラディに、戸惑いしかなかったが、昨日のことは夢だったと思うことにした。
山を下りて教会に帰れば、元の暮らしに戻るだけだ。
朝出発して、夕刻には教会に到着した。
下山中はほとんど無言で、黙々と足を運ぶことに集中した。
収穫してきた神木を教会の中に入れて、また翌日来ることを伝えて自分の家に戻った。
パラディは本当に何もなかったように、いつも通り無愛想に返事をしていただけだった。
「はぁ……マジで、なんだったんだ……アレは」
自宅に戻ってから体を清めてベッドに入っても、思い出すのはあのキスのことだった。
キスなんて、前世での記憶もないし、今世でも皇子から相手にされなかった俺は、誰ともそんな接触がなかった。
というか一生無縁だと思っていたのに、あんなところで経験してしまうなんて考えてもいなかった。
「開放的な気持ちになったから? それとも、たっ……溜まってたのかな」
こんな人を乱すようなことはもうやめて欲しい。
次に変な接触があったらキッパリやめてくれと言おうと思ったが、困ったことにパラディに触れられたのが嫌ではなかったのだ。
触れるだけでの簡単なキス、ただ口が重なっただけだと思えば思うほど、熱くなって、もっと深く繋がりたいという気持ちまで出てきてしまう。
一人で生きていこうと決めたのに、人の温もりを感じたらもうだめで、ズブズブと深い沼にハマっていくような気がする。
俺はため息をついて枕を抱えた。
こんなこと……、だめだ。
これ以上進んだら、きっと自分がおかしなことになってしまう。
ぎゅっと目をつぶって、全て忘れようと思うことにした。
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