ふたつの幸せを追いかけて

朝顔

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幸せの音 (遥斗)

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 ぱらぱらと教科書をめくる音、かちかちとシャーペンの芯を出す音、バタンと鞄を置く音。
 人の話し声に、笑い声。

 大学の大教室は色々な音が溢れている。

 目を閉じて、ある音を聞き分けるために集中した。その靴音が教室に入ってきてこちらに向かって来た瞬間、七瀬ななせはぱっと目を開いた。

「おはよう、遥斗はると

「おう、七瀬、ったく1限から山崎はマジでダルすぎるよなー」

 遥斗の特徴はいつもカツンという高音の後少しだけ擦れるような、ザラっとした音が混じる。靴の音を聞くのは好きだ。
 そして、遥斗のことはもっと好きだ。

 自分の隣に見た目は硬そうなのに実は猫っ毛で、いつものように少し毛先がはねた頭の男がガタンと音を立てて座った。
 廣川遥斗ひろかわ はるとは、綾見七瀬あやみ ななせの友人であり、密かに七瀬が想う相手だ。

 遥斗は鞄を机に置いたが中を出す気もなく、あくびをしながら机に突っ伏した。

「また夜シフト入ったの?バイトの面接の時に学業優先って話だったでしょう」

「あー、人が足りねーってうるせーから……悪い、七瀬の顔見たら眠くなった。5分寝かせて」

 そう言って本当に熟睡モードに入ってしまった遥斗を見て七瀬は苦笑した。

「おはよー、あれ?また遥斗寝てんの?俺が見るといつも七瀬の隣で寝てんなぁ」

 遥斗とは反対側の席に座ったのは、相模馨さがみ かおる。彼もまた友人である。
 いつも講義の時は、三人並んで後ろの定位置に座っている。
 今年二年生になるこの大学に入学してから、なんとなく話すようになり、集まった三人だった。

「バイトキツいならやめればいいのに……」

「俺はお前たちお坊っちゃまと違って親もビンボーなもんで学費がかかるから大変なんだよ」

「うわっ!寝てると見せかけて起きてた!これじゃおちおち悪口も言えない」

「うるせー、悪口とか言うなばか」

 相模と遥斗の息の合った掛け合いに、真ん中に挟まれた七瀬からはクスクスと笑いが溢れる。いつもこんな感じで二人がペラペラと喋るのを七瀬が笑いながら聞いている。そういう関係が心地よくて七瀬は好きだった。

 寝起きで崩れてはいるが、そんなだらしない状態でも遥斗が目を引くような男だというのは変わらない。艶のある黒髪は少し目にかかっているが、キリっとした眉に少し垂れ気味の目は切れ長で瞳は薄い茶色だ。ピンと鼻筋が通っていて、薄くて大きな唇も男らしい。

 先ほどから前に座っている女の子達からの視線を感じるのは気のせいではない。ちなみに七瀬が一人で座っているときは全く感じなかったものだ。

 同じく色男だが綺麗系の相模と並んでいると二人は嫌でも目立つのだ。
 それに対して七瀬の容姿と言えばお世辞にも男らしいとは言い難い。全体的に色素が薄く、髪は染めていないのに薄い茶色、ふわふわとしたクセっ毛で、背も低く母親そっくりの女顔だときたものだから黙っていたら女の子と見間違えられるときもあるくらいだ。


 七瀬はそんな自分の容姿が嫌いだった。

 自分の性的指向に気づいたのは幼稚園のときだ。すでにそのころから、目で追うのは女の子ではなく男の子だった。

 なんとなくそのことを知られてはいけないと気づいていた。なぜなら、絵本に出てくるのは王子様とお姫様だったし、テレビのヒーローはいつも女の子を救いだして結ばれていたからだ。

 初恋は小学生の時、この時はただ好きな気持ちをどうしていいか分からずに、そっと眺めて満足するだけの恋だった。

 中学時代も同じような感じだった。性に目覚めて、一人でする時に想像するのはいつも男の人で、クラスメイトをそういう目で見たくなくて、色々とあった時期と重なってあまり人とかかわらないようにしていた。

 高校になって同級生を好きになった。同じバスケ部で仲が良くて、どうしても我慢できなくて告白してしまった。
 その時のことは、今でも夢に見て思い出すことがある。

 ¨お前俺のことそんな目で見てたのかよ。男とかキモいしマジ無理¨

 そう言われて完全に無視されて、二度と話すことも目が合うようなこともなかった。

 確かに告白してフラれたのは世界でたった一人だ。そう思ってはみたがその一人の言葉は完全に足枷となってしまった。

 それ以来誰かを好きになるのはやめようと心に決めて生きてきた。それなのに、大学に入って遥斗に出会ってしまった。
 見た目も痺れるくらいカッコ良くて、タイプのど真ん中で、それでいて優しくて、そんな人を好きにならずにはいられなかった。


「おい、遥斗ー、今度は文学部の女フったらしいじゃん。お前今年何人目?ってゆーか今月何人目だよ」

 講義が終わって冷やかすような声が聞こえたきた。同じゼミのやつらで遥斗の遊び仲間だ。

「うっせーな。束縛ひどすぎてムリだったんだよ」

「マジかよー!あの巨乳をフるなんて、男の敵だわー」

「あー、確かにあのチチは良かったわ」

 そう言って遥斗は仲間達と笑い合っていた。すると、今遥斗フリーなの?と女の子達も集まってきた。
 遥斗は完全なノンケだ。しかも来るもの拒まずで次々と女の子と付き合っている。飽きっぽい性格なので長続きしないのだが、それでもいいと言って女の子達は絶えることなく集まってくるのだ。

 こんな時、七瀬は自分と遥斗の間に引かれた線を嫌というほど感じてしまう。
 いくら女の子に似ていても自分は男なのだ。遥斗の恋愛対象に入ることすら出来ない。
 そう、ずっとこのまま……。

「そんな、顔するなら告白しちゃえばいいのに」

 七瀬の顔を覗き見たのか、隣で相模がポツリと呟いた。

「……できるわけないじゃん。百パーセントフラレるのにわざわざ告白するやついる?」

「ばかだよね。ノンケの男に恋するなんて。七瀬なら喜んで尻尾振るようなやつら紹介できるのにさ……」

 相模は七瀬に初めてできた同じ指向を持った友人で、週に何度かその手の男達が集まるというバーで働いている。
 そしてそこのオーナーと恋人関係にあるのだ。
 相模からもしかしてと話しかけられた。同じ指向の人間は仕事がら見分けることが得意なのだそうだ。今では七瀬のよき相談相手になってくれている。

「いいんだ…このままの関係で…、壊したくない」

「不毛だねぇ。あいつなら、そういうの気にしないと思うけど、たとえだめでも今まで通りに接してくれるよ」

 遥斗が高校時代の相手とは違うことは分かっている。けれど、フラレて元通り接してくれたとしても、ちょっとしたことが気になったりして、七瀬の方が意識してしまうだろう。絶対に今まで通りとはいかないと思っていた。

「七瀬、ぼっーとしてんなよ。次移動だそ!行くぞ!」

 遥斗に声をかけられて、七瀬ははっと顔を上げた。
 どこか少年っぽさが残るその笑顔に七瀬の胸はキュンと鳴った。
 この笑顔を失うことはできない。だから、閉じ込めておこうと七瀬は自分の胸に手を置いたのだった。



「え?付き合う?誰と?」

 昼休み、学食でラーメンをすすりながら、昨日のテレビの内容を話すみたいに、遥斗はなんでもない顔で報告してきた。

「だから、一年の女子だよ。名前何だっけな、ルナちゃんだっけ?さっき告白されて、可愛い子だったし、俺今フリーだし別にいいやって思って」

「ふーーん、良かったね」

 ここまで来ると病気みたいなものだと七瀬は呆れた。
 好きな気持ちをこれでもかと熟成させる七瀬に対して、遥斗は好きとか考えずに簡単につまんで捨てている。どうして、こんなに彼のハードルが低いのか、七瀬はそこまで考えたことがなかった。

「……遥斗さ、その子のこと、ちゃんと好きなの?」

「なんだよ、七瀬……。女みたいなこと聞いて。んなのどーでもいいんだよ。向こうもそういうの求めてないし」

 果たして本当にそうだろうかと七瀬は思う。軽い人だと分かっていても、もしかしたらと誰もが思うのではないだろうか。
 そして、その先を求めてしまい皆、遥斗にフラレてしまうのだろう。

「なぁ…それより今日、七瀬の家行っていい?またあれ食べたい」

「……いいけど」

 七瀬が一人で暮らすマンションは、遥斗のバイト先から近いところにあって、お腹を空かせた遥斗はよく七瀬の部屋にごはん目当てで寄っていく。
 七瀬はもしかしたらといつもご飯をおおめに炊いている。今日の分は冷凍しなくて良さそうだと頭の中でほっとため息をついた。




「うひゃー!やっぱり七瀬のハンバーグは最高だよ。食った食った」

 そう言ってお腹を押さえた遥斗はごろんとソファーに寝転んだ。

「食べてすぐ寝るなんて…、豚になったら女の子にモテなくなるよ」

「大丈夫!仕事中動いてきたし、そこで消費してるから」

 遥斗はクッションを抱えてすでに目を閉じていた。夕食を食べてソファーに寝転んで仮眠してから家に帰る。これがいつもの遥斗のコースただ。

 食器を片付けながら、七瀬はすっかり夢の世界へ行ってしまった遥斗を眺めた。
 整った顔に背も高くて手足も長い。まるでモデルになってもいいくらいのカッコ良さだ。

 遥斗は間違いなく子供の頃からモテてきた。自分で望まなくても、いつも相手に囲まれていて、欲することなく次々と相手が現れた。
 そういう風に生きてきたから、人の気持ちを考えることに疎いところがある。
 なくすことなど全く恐れていない。恐れる必要がないのだ。気まぐれに捨てても代わりに困ることなどないのだから。

 自分でもなんでこんな男をと思うことは何度もある。しかし、あの日、七瀬は心を奪われてしまったのだ。それは入学式の時、七瀬は電車の遅延で式に遅れてしまった。
 その頃は実家のある遠い場所から他の皆とは別の路線で通っていたので、他の人達は皆普通に到着していた。
 七瀬は遅れて入ると、そこにいた教師に初日から遅刻とはなんだとしつこく叱責を受けることになった。
 何を言っても信じてもらえなかった。
 そのとき一人声を上げてくれたのが遥斗だった。

 ¨よく調べもしないで遅刻って決めつけるのはどうかと思うけど、ちなみに遅延情報出てましたよ。証明書提出すればいいですよね¨

 その姿は痺れるくらいカッコ良くて、七瀬の頭にはっきりと焼きついたのだった。
 その時から、ずっと目が離せない。


「……ななせぇ…、今日このまま寝かせて…、明日シャワーだけ貸して…」

 よほど疲れているのか、今日は自宅に戻らずに朝までコースらしい。
 そういう日もよくあったので、七瀬は分かったと言って毛布を持ってきて遥斗にかけてあげた。

「あー…マジで癒されるわ。七瀬が女だったら良かったのに…」

 目をつぶったまま遥斗は寝言みたいに呟いた。ばかなこと言わないで早く寝ろと言いながら、七瀬は心の中で、本当にそうだったら良かったねと返したのだった。


 乾いた風が吹いてきて七瀬の髪をふわりと揺らした。落ち葉を踏みしめながら、七瀬はよく知らない道を歩いていた。
 スマホで地図を見ながら歩いているはずなのに、全然目的地に着かない。
 七瀬はスマホの地図をくるくると回転させた。それでも場所がよく分からなくて、自分の方向音痴に絶望的な気持ちになった。

 あれから遥斗はルナちゃんと付き合って二週間で別れた。そして今は別の女の子と付き合っている。
 今日は相模に呼ばれて彼の職場に向かっている。お得意様の貸切パーティーをするらしく、人手が足りないから手伝ってくれと言われたのだ。
 そんなこと今まではなかった。だがきっと相模が七瀬を励まそうとして誘ってくれたのだとなんとなく分かった。

 遥斗の今度の相手は同じ学年の女の子で、ミスキャンバスにも選ばれた子だ。大きな目をした可愛い子で明らかに遥斗のタイプだった。
 いつも自分のペースで適当に付き合う男が、今度は彼女のために時間を作ったりしているのだ。大学内でも二人で仲良く歩いているところを見かける。一緒に並んで受けていた講義も、その子にこっちに来てと呼ばれてから二人で並んで受けるようになってしまった。
 今度は本気だななんて皆から冷やかされて、まんざらでもない顔をして遥斗は笑っていた。

 ずっと考えていた。

 もし、本当に遥斗と合うタイプの子が現れたらどうしようと。

 自分で選んだはずの道だった。そういう覚悟はできていたはずなのに、いざ遥斗が本当に離れていったとき、世界は思っていたよりも冷たくて色がなくなってしまった。

 大好きだった靴音が自分の横に来ることはない。
 冷凍ご飯も増えていった。

 もう潮時かもしれない。七瀬は空っぽになった自分の隣の席を見てそう思った。


「大丈夫?道に迷ったの?」

 突然声をかけられて顔を上げると見知らぬ男性が立っていた。
 上等そうなスーツをキッチリと着こなしている。背が高くどこか日本人離れした整った顔立ちはハーフなのかもしれないと思うような華やかで目立つ人だった。

「ごめんね、突然話しかけて。ビックリしたよね。実は一時間前に通った時もスマホを持って不安そうな顔をしていたのを見てしまって……、気になってまた見に来てしまったんだ。それ、actのチラシでしょう……」

 その男性は七瀬が持っていたチラシを見て気になったようだった。それは、相模の職場、七瀬が向かっているバーのパーティーのお知らせが書かれたチラシだった。

「そう…ですけど。今そこに向かってて…その途中です」

 七瀬がそう言うと、その男性はふわりと微笑んだ。

「良かったら一緒に行かない?ここから十分の距離だよ」

「え!?そんなに近いんですか?嘘……」

 まさかの近くで一時間もウロウロしていたことに七瀬は唖然とした。

「俺は藤沢葵ふじさわ あおいと言います。怪しい者ではないんだけど……、今名刺を……」

 その男性は名乗ったあと、胸ポケットを慌てて探しだしたので七瀬はクスリと笑ってその手を止めた。

「お願いします。もう一時間ここにいたくはないので」

 七瀬の笑顔にその男性もつられて笑った。乾いた風が七瀬の背中を押すようにそっと吹き抜けていった。




「電話してくれれば良かったのに、遅いと思っていたんだよね」

 お店の厨房でお皿を何枚も手に乗せて、料理の配膳をしている相模はやっぱり忙しそうだった。

「手が離せなかったら悪いと思って……、遅くなってごめん、何か手伝えることは?」

「いいよ、こっちこそ急に頼んだから。来てくれてありがとう。できたらテーブル回って飲み終わったグラスを回収してきてくれる?」

「分かった」

 相模の職場actは、駅から近いところにあった。その手の客が多いらしいが、特に限定しているわけではなく、女性もたくさん来ている。小さな店内は満員状態で、お得意様限定のパーティーはかなりの人数が集まっていた。

 急遽入った素人だったが、やることは新しく飲み物を出すのとグラスの回収とだけだったので、すぐに慣れて動けるようになった。
 しばらく経つと客も減ってきて、手伝いはいいから七瀬もゆっくりしていってと言われてぽいっと店内に送り出された。

「綾見くん」

 ぼけっと立っていると、ここに案内してくれた男性、葵が話しかけてきた。

「藤沢さん、先ほどはありがとうございました。…あの、名字で呼ばれるの苦手で…、年下ですし、七瀬と呼んでください」

「そう、分かった。じゃ俺も年上だけど、葵でいいよ。同じく名字が苦手なんだ。仕事みたいだろ」

 葵はいたずらっ子みたいな顔でニヤリと笑った。大人の男性がそんな表情をするとは思わなくて七瀬は驚いておかしくなって笑った。


「馨ちゃんの友達なんだってね」

「そうです。大学が一緒で、今日は手伝いを頼まれたんです」

 人もまばらで静かになってきた店内のボックス席に七瀬と葵は落ち着いた。
 まだギリギリ未成年の七瀬はノンアルコールのカクテルだが、葵はシャンパンを美味しそうに飲んでいた。

「俺もここのオーナーとは同級生なんだ。仕事でしばらく海外にいて、先月戻ってきたばかりなんだよ」

「へぇ、海外ですか。どんなお仕事なんですか?……あっこういうの聞いちゃいけないんでしたっけ……すみません」

「いいよ。大したことはしていないけど、七瀬が俺に興味を持ってくれたのは嬉しい」

 ボックス席の照明のせいか、柔らかかった葵の表情に少し艶が見えて七瀬の心臓はドキリとした。
 葵はどっちなのかと思ったが、こんな風にこの店で男の自分と飲んでいるのだから、こっちの世界の人間なのだろうと思った。

 葵はさすがの大人の男性だった。話し方、話題の振り方、全てにおいてそつがない。七瀬の周りにいないタイプであり、大人の巧みな話術によって、七瀬の話はするすると聞き出されてしまった。

「へぇ、そしたら七瀬は入学してからその遥斗くんに片思いなのか」

「そうです、ノンケだし、女好きで来るもの拒まずだし、全く望みのない片思い」

 七瀬はお酒でもあおるみたいに、グラスの残りを一気に喉に流し込んだ。

「……彼の場合、女好き以前に人の気持ちも自分の気持ちもよく分かっていない気がするな……」

「…………」

「それで、気まぐれに君の家に来て、ハンバーグを食べて帰ると……君は料理が得意なんだね」

「そういうワケじゃないです。他は全然だけど、ハンバーグだけ…。亡くなった母親が困らないようにって、それだけ教えてくれたんです。今は親父も再婚しちゃって作ってあげる相手もいないし、ちょうど良かったのもあって……」

 なんだか、暗くなってしまった雰囲気をごまかすために、七瀬は明るく笑った。

「それにもう、遥斗にはぴったりの相手が現れたから……。今までと全然違うんです。きっとこのまま上手くいくと……」

「ああ、ミスキャンバスの子だね。しかしその子もモテる子なんだろう?」

「え…、そりゃまぁ…」

 葵はしばらく顎に手を当てたオーバーなリアクションで考えたあと、じゃ多分帰ってくるなと言った。

「どうして…そう、思うんですか?」

「向こうもモテるタイプなら最初は付き合いでの嫌なところが合致するだろうか上手くいくよ。だけどそのうちどちらかの気持ちが重くなってしまえばバランスを失う、思ったようにはいかないのが恋だよね」

 葵は目をつぶりながらしみじみと語った。大人らしく、七瀬には分からないような経験をしているのだろう。
 軽いけど的を射ているような気がして七瀬はぼんやりと葵の顔を見つめた。

「しかし、彼が戻ってきても、君達の関係は何も変わらない」

「うっっ…」

 葵に痛いところを突かれて七瀬は言葉が出なかった。

「どうかな。一度揺さぶってみないかい?」

「え……?」

 葵は優雅に腕を組んで目を細めて微笑んだ。七瀬は何を言われているのか、理解できなかった。

「彼が本当は君のことをどう思っているのか試してみようってことだよ。幸い今は仕事がすっぽり空いて俺も暇だし、七瀬の恋が上手くいくように付き合うよ」

「そんな……、それは嬉しい……けど、どうして初めて会った俺にそんな……。葵さんにはなんの利益もないですよね……」

「……昔、好きだった子に似ているんだ……。だからさ、その顔が悲しそうにしているとどうにも胃の辺りがムカムカして気持ちが悪いんだよ」

「それは飲み過ぎじゃ……」

 真面目な顔をしていた葵は七瀬の突っ込みに、噴き出して大きな口を開けて笑った。

 その、本当か冗談なのか分からない理由で葵は本当に七瀬のために動いてくれることになった。
 七瀬にとっては半信半疑だった。ただ、今までの関係から変わるなら今しかないような気がしたのだ。
 よく分からない提案だったが、藁にもすがる思いで七瀬はそれを掴んだのだった。




 ドカンと鞄が置かれる音がして、久しぶりに右側に遥斗の気配がした。今まで遊びに行っていて当然のように家に帰って来たような空気だった。

「なんだよ遥斗、今日こっちなの?」

「あー…そうそう。昨日喧嘩してさ気まずいんだわ」

 七瀬の問いにもあっけらかんとして、当然のように答えてきた。

「それに最近、七瀬不足なの。癒しが足りなくて倒れるかと思った」

 しかも悪気なくこういうことを言ってくるのでさすがに虚しくなった。そして心の隅で喜んでしまう自分にも嫌気がする。

「なぁ…、今日七瀬の家行っていい?またあれが食べたい…」

 遥斗の上目遣いの誘惑に負けそうになり、七瀬はゴクリと唾を飲み込んだ。

「彼女に作ってもらえばいいだろ。仲直りのいいきっかけになるじゃないか」

 見かねた相模が横から助け船を出してくれた。七瀬は急いでそれに乗ってそうだよと同調した。

「やだ、あいつ料理嫌いなんだって。なぁ七瀬頼むよ」

「……ごめん。今日は約束があるんだ」

 七瀬がそう言うと、遥斗は驚いた顔をして目を見開いた。いつも自分を優先してくれるはずなのに、信じられなかったのだろう。

「ああ、藤沢さんと上手くいってるの?」

「……あ…うん」

「誰だよそれ!フジサワサンって!俺は聞いてないぞ」

 相模が葵の名前を出したので驚いたが、相模にはactで仲良くなったことは話していた。
 遥斗は怒ったような焦ったような声を出して七瀬に詰め寄った。

「話すも何も、お前こっちに来なかっただろ」

 相模が後ろから七瀬を庇うように自分の方に引き寄せた。それを見た遥斗はますます怒りの表情になった。

「……誰だよ。どこの学部のオンナだ」

「ああ、うちの店の常連客。オーナーの友人で一流企業に勤めてる身元はしっかりした人だよ」

「店って……お前……」

 相模の店と聞いて遥斗が何を想像したのか分かった。ここまで言ってもらったのだから、後は自分が伝えなくてはと七瀬は口を開いた。

「藤沢さんは男の人だよ。付き合っている……わけではないけど、俺の恋愛対象は男だから、今まで言えなくて……ごめん」

「……七瀬」

 遥斗が驚きで言葉を失っている時に講師が入ってきて授業が始まってしまった。
 遥斗はどう思っただろうか、七瀬は怖くて右側を見ることが出来なかった。




「それで、彼はどうかな?今まで通り変わらずという感じ?」

 ハンドルを回しながら、葵はスマートに遥斗の話題を出したきた。

「ええ。特に変わったようなところはありません。彼女とも仲直りしたみたいだし、俺にも普通に話しかけてきます。ただ、時々物思いにふけるというか、ぼーっとしている時があります」

「良い傾向だ」

 音もなく静かに車を運転しながら、前を向いたまま葵はそう言って微笑んだ。

「彼の中で初めて思い通りにいかず、手に入らないものができた。それが自分にとって何なのか、今自問自答しているところだろう」

「……上手くいきますかね。やっぱりどうでもいいってなるんじゃ…だって、男だし……」

「……そう、そして弱気になっている七瀬につけこんで、俺が美味しくいただいてしまう…と」

 葵はちょっと悪い顔をしながら、歯を見せて微笑んだ。知り合ってそんなに時間は経っていないが、葵のこういうところはすごく良いと思う。ふざけているように見えてさりげなくフォローしてくれる感じが嬉しかった。

「あっ!…ここでいいです」

「いや、前まで送るよ」

 今日は葵に誘われて、海沿いのレストランでランチをしてきた。授業は午後からだったので、七瀬は車で送ってもらったのだ。

「あっ!遥斗……」

 入り口の前まで送ってもらったら、ちょうど前から遥斗が歩いてきて助手席に座っていた七瀬はバッチリ目が合ってしまった。

「へぇー…、彼がね…。確かにモテそうだ」

「あっ…あの、それじゃ…俺は……」

「待って、チャンスだよ。ドアを開けるから、じっとしていて。それと、俺が何をしても驚かないでね」

 そう言って車を止めた葵は外へ出て、本当にドアを開けてくれた。

「今日はありがとう、七瀬」

「……え?はっ…はい」

 葵は自然に七瀬の手を取って車の外へ導いた。そして意味ありげなウィンクをしたので、七瀬は話を合わせることにした。

「とても美味しいハンバーグだった。また作ってくれるかな」

「ええ…はい」

「じゃ次は俺の部屋で……、意味分かるよね?」

 七瀬と繋いでいた手を持ち上げた葵は、そのまま口許に手を持っていき甲の辺りにキスをした。

「………!!」

 驚いて引っ込めたくなった手をなんとか動かさずに七瀬は冷静な顔を作った。
 先ほどはこっちを見ていたが、きっと遥斗は行ってしまっただろうと思っていたが、その考えは大きな声に散らされてた。

「七瀬!」

 大きな声で七瀬を呼んだのは遥斗だった。
 いつもと違うドタドタという靴音を響かせて近づいてきた。

「お前、こんなところで何してんだよ!早く行くぞ!」

「あ…うん」

 遥斗は焦った顔をして七瀬の腕を掴んできた。その強さに思わず七瀬は顔をしかめた。

「君が遥斗くんだね。初めまして、藤沢と言います」

「……なんだよ、アンタ。こんなところで、七瀬にあんな……。……彼氏でもないんだろ、馴れ馴れしいことするなよ!」

「ああ、あれくらい挨拶だよ。俺はもう七瀬の色々な顔を見てきたからね。君みたいな、ただの友達には見せない顔をね」

「なっ!!テメェ…」

 葵に挑発されて遥斗は怒りで手が震えていた。そんな遥斗を子供を見るような目で見て相手にせず、葵は七瀬にだけまたねと言って颯爽と車に戻っていった。

 去っていく車を七瀬に見せるのも嫌だという風に遥斗は七瀬を引っ張って学内に入っていった。

「はる…遥斗、痛いよ…手…」

 七瀬の言葉に遥斗は反応することなく相変わらず手の力を緩めることもない。ただ無言で腕を掴んだまま歩いていった。

 遥斗が連れてこられたのはゼミで使う研究室だった。今日は担当教授も休みだし、誰もいなくてひっそりと静まり返っていた。
 雑然と長い机と椅子が並んでいる中をづかづかと入っていって奥の部屋の扉を開けた。

 そこは倉庫の名目だが教授の休憩スペースで、でかいソファーと本が適当に置かれている。学生もここで友人同士お菓子を食べながら休憩に使ったりする場所だった。

 腕を掴まれたまま押されて七瀬はどかっと音を立ててソファーに倒れこんだ。

「なんだよ!アイツ!ムカつく……!なんであんなヤツに……」

 遥斗はまだ怒りを制御できないようで頭をかきむしりながら、その場に座り込んだ。

「……遥斗、心配してくれてるの?藤沢さんは良い人だよ」

「……心配?ちがう…そうじゃない…」

「遥斗?」

 ギャーギャーと怒り狂っていた遥斗は七瀬の言葉に動きを止めた。ちがうちがうと今度は否定し始めた。そして静かになったと思ったら、ぼそりと呟いた。

「………あいつに食わせたのかよ」

「え?……あっ……ああ、そっそうだね」

 食べさせたという問いから、多分先ほど葵が言っていたハンバーグのことだと思いついた。いつまで話を合わせておくのか分からなかったが、まだ必要だと七瀬は判断した。

「…なんでだよ…、あれは……俺の……俺だけの……」

 ずっと下を向いていた遥斗が顔を上げた。それは七瀬が知っている遥斗の顔ではなかった。いつも通りの端正な顔立ちは変わらないが、目の周りに影を持っていてギラギラと光っていた。恐ろしくて怖いと思うと同時に、七瀬の体をゾクゾクとした感覚が突き抜けた。
 まるで追い詰められた獲物になったような、得たいの知れない恐怖は快感と隣り合わせで、体の奥にじわじわとする熱を感じて七瀬は体を震わせた。

「どうしたの?遥斗……怖いよ……」

「許せない…、俺のものを……俺の居場所を…俺の七瀬を奪っていくなんて…許せない!」

 そう言った遥斗は立ち上がって勢いそのままに、七瀬を覆い被さるように抱き締めてきた。

「……はる…なっ…なにを…!」

 遥斗に抱き締められるなんて待ち望んでいた瞬間であるはずだった。遥斗はよく触れてきたが、自分から触れられることすら出来なかったのだ。なんど夢の中でその温もりを求めたか分からない。強い力で抱き締められることを想像して自分を虚しく収めた日もあった。
 その温もりを今手に入れたのだ。
 しかし、七瀬は求めていた温もりとは違うことに気がついていた。
 まるで七瀬の気持ちなどどうでもよくて、そこにあるのは遥斗の自分勝手な独占欲だけだった。
 それでも、それでも七瀬の体は歓喜に震えて熱くなった。嬉しさが込み上げてきて目尻から涙が溢れていった。

 心の底から嬉しかった。

 もう十分に幸せだった。

「遥斗、俺は男なんだよ。分かってる?」

「そんなの…知ってるよ。当たり前だよ」

 七瀬は心を決めた。今は独占欲で熱くなってもいつかはきっと冷めるときが来る。その時にやっぱり目が覚めたと言われたらこの先、自分は生きていけない。それなら始まる前に目を覚ましてもらうしかないのだ。

「男同士はさ…、こういうことするんだよ」

 抱き締められていた七瀬は遥斗の股間に手を入れてゆっくりと手を這わせた。

「なっ!…ななせ…」

 驚いたような声が聞こえた。手を振り払われるかもしれないと思ったけど、遥斗は大人しくしていた。
 まだ柔らかく反応していなかったものを、やわやわと揉みこんで刺激していくとだんだんと形を変えて硬くなってきた。

「んっ……」

 遥斗の息が荒くなって声が漏れた。反応してくれていると思うと七瀬は嬉しくて緩急をつけて丁寧にしごいた。

「はぁ…はぁ…なな……くっ……」

 十分な硬さになって反り返るほど立ち上がったそれをズボンをくつろがせて取り出すと、七瀬の想像した通り赤黒く脈打つ大きなペニスが現れた。

 抵抗などあるはずがない。そこに舌を這わせることを何度も想像していたのだ。
 七瀬は息を吸うと、遥斗の欲望に一気に顔をうずめた。

「はぁぁ!!なっ…七瀬!!」

 驚いた声を出した遥斗は、軽く抵抗して七瀬の頭を押し返そうとしたが、七瀬は食らいついて離れなかった。

 長いお一人生活で経験はないが、知識だけはたくさんある。唾液を使って滑りをよくして音を立ててじゅばじゅばと吸い付くと遥斗はたまらないという声を出した。

 竿の部分に舌を這わせて玉まで丁寧に舐めていく、時々口いっぱいに入れて舌で転がして吸って離して、七瀬は愛しい気持ちで必死に遥斗の欲望を愛した。

 初めは戸惑っていたようだった遥斗も、やがて七瀬の頭を押さえつけて、蕩けるような息をはいて感じていた。

「あぁ…なな…、もう……やば…ヤバい。だめ……だ。離して……くれ」

 遥斗の終わりを感じた七瀬はいっそう強く吸い付いて口を動かして音を立てて欲望をしごいた。

「ばっ…はか!だめ…だ、七瀬…あっあっ…く…うううっ!!」

 深く口に入れたとき、遥斗のペニスが揺れて喉の奥に熱い飛沫を感じた。
 まもなく口いっぱいに広がった青臭い味が、これが現実であるということを七瀬に思い知らせた。
 二度とない機会に名残惜しさを感じながら七瀬はゴクリと喉をならして白濁を飲み込んだ。

「遥斗!?飲んだのか…?ばか…なんで……あっああ…」

 遥斗のペニスを最後まで綺麗に舐めとった七瀬はやっと顔を離した。
 口の周りについた涎を舌で舐めていると、遥斗が息を詰めて喉を鳴らしたのが分かった。

「これが俺の愛だよ…。俺を手にいれるっていうのは、こういう事をするってことだよ」

「………………」

 遥斗の沈黙が全ての答えだと思われた。それを感じ取って七瀬は微笑んだ。

「大丈夫、全部忘れて…いいから」

 そう言い残して七瀬は走って部屋から出た。遥斗が後ろから何か叫んでいたがもう何も聞く勇気がなかった。

 走って走って走った。

 授業なんて出られるはずもなく、あてもなく町に飛び出して走り続けた。
 走りながら七瀬は思っていた。これはまるで、あのときと同じだと。


 中学の頃に母を病気で亡くした。父は母の闘病中に現実から逃げるように家に帰ってこない日が増えた。

 母が逝ってしまってから、父は女の人を家に連れてきた。新しく家族になる人だと言って。

 受け入れられるはずがなかった。

 小さかった弟と妹はすぐに新しい母に懐ついた。自分一人がバカみたいに抵抗して認めなかった。
 あのときも、父と大喧嘩して家を飛び出した。走って走って、あてもなく走って気がつくと知らない町まで来ていた。
 店の軒下に座り込んでうずくまった。
 それでずっと耳を澄ませた。人の歩く靴音を聞くと心が落ち着くのだ。
 幼かった時、仕事が忙しくて帰りが遅かった両親を家で待っていることが多かった。
 通りに面した家はたくさんの音が聞こえた。玄関にうずくまって耳を澄まして両親の帰りを待った。そうすると父の靴音も母の靴音も分かった。
 必ず自分のもとに帰ってきてくれる音だった。
 だから靴の音が好きだった。

 あのときは結局警察に補導されて家まで送り届けられた。家族とはいまだに上手くいっていない。会社を経営している父のおかげでマンションを与えられて、バイトをしなくても十分な生活費と学費を払ってもらえている。
 それで十分なのだ。
 家族に馴染めない人間と暮らすのはお互い不幸になるだけだ。
 だから、それでいいと思っていた。

 本当は寂しかったけど、多くを望むのは贅沢だ。

 そうやって気持ちに蓋を閉めて生きていた。

 これから先もきっと……。


 公園のベンチに座った七瀬はふと気になってポケットに入れたままだったスマホを取り出した。
 授業中は振動音も指摘されるので電源を切ったままだった。

 電源を入れると画面に見たこともないくらい、着信履歴を知らせる表示が出てきた。
 ほとんどが遥斗だったが、相模からのもあった。遥斗はメールを打つ余裕もないらしかったが、相模からのメールが入っていた。

 最初のメールには、どこにいるのかと、遥斗が死人みたいな顔して必死に探しているから連絡してと書いてあった。次のメールは、七瀬七瀬と言いながらゴミ箱までひっくり返しているからもうおかしくなってるよと書いてあり、そして次は、大学も探し尽くしたし、連絡がないからとりあえず七瀬の家に向かったみたいと書かれていた。
 相模には心配かけたくなかったので、公園で休んでるから大丈夫とだけ返信してスマホは鞄の中にしまった。

「……なんだよ。今さら…もう、俺のことなんて……」

 ポツポツと雨が振りだした。小粒の雨で少しだけ濡れるくらいだったが、ずっと体に受けていれば冷えていくもので、冬の気配を感じる今の季節にはひどく寒く思えた。

 あれからどのくらい経っただろう。辺りは暗くなってすっかり体は濡れてしまったが、七瀬はずっとベンチに座ってうずくまったまま動かなかった。
 気まぐれに落ちてきた雨も止んで、家路を急ぐ人の靴音が聞こえる。
 もう、中学生ではないから、警察に補導されることもない。
 ずっとここにいることはできないけれど、なぜか動くことができない。

 自分はなにを待っているのだろうと七瀬はぼんやりと思った。

 そして、七瀬の耳にあの音が聞こえてきた。コツコツと高く響いて、最後にすこし擦れる音。

 聞き間違いかと思った。
 まさか、ここまで来てくれるはずがない。
 だけど、もしかしたらと思って、ずっと待っていたのかもしれない。
 周囲の音はガヤガヤと小さくなっていき、その靴音だけが体に響いてきた。

「……遥斗」

 その靴音が近くで止まったとき、七瀬の口からはその名前が溢れていた。

「どうして分かるんだよ…。いつも七瀬は俺が来ると、いつも先に名前を呼ぶよな……」

 うずくまっていた七瀬が顔を上げると、髪はぐしゃぐしゃで、顔は目も落ち窪んで薄汚れていていて、服も乱れてぐちゃぐちゃの良い男が台無しの姿の遥斗が立っていた。

「俺は人の靴音を聞くのが好きなんだ。特に好きな人の音はすぐに分かる」

「……七瀬……このバカ……。公園しか言わないから、全部探して歩いたじゃないか。地域に何個あると思ってんだよ!」

「……ごめん」

 ぐちゃぐちゃの遥斗がもう離さないというくらいの力で抱き締めてきた。すでにびしょびしょに濡れていた七瀬も同じようなもなので二人で重なっても寒くてちっとも暖かくなかった。

「勝手に出てって…俺の話も聞かないし…」

「だって間違えたとか悪かったとか言われたら最悪だもん。それに遥斗は彼女がいるし、このままじゃ良くないって……」

「あいつとは別れたよ…。この姿で別れを言いに言ったら誰って言われて……。思ってた人と違ったって…。なんかフラレたみたいになっちまったけど……」

「確かに…臭うね…。まさかゴミ箱ひっくり返したって本当に……」

「あぁ、大学中のやつを……」

「バカ!?ゴミ箱の中にいるわけないだろ!」

 七瀬が呆れた声で突っ込むと、遥斗はだって七瀬がいないからどこにもいないからと言ってますます強く七瀬を抱き締めた。

「……いつもの自信たっぷりで来るもの拒まずの、余裕綽々な遥斗はどこへ行ったんだよ…。俺なんか追いかけて…。ぼろ雑巾みたいになって……」

「…だめなんだよ。俺…、七瀬がいないとだめなんだ…。どんな女の子と付き合っても満たされない。なぜか七瀬のところへいつも帰りたくなる。七瀬が待っていてくれるから、いつも自信満々でいられたんだ……。それなのに…、七瀬がいなくなったら…、俺は全然だめだ。相模にも怒られたよ。自分勝手で全然大切にしていないくせに、自分だけ見ていてくれってアホかって…、本当その通りだ」

「俺…、男だよ。いいの?」

「男でも女でもいい。俺は七瀬が欲しい」

 まさかそんなことを言われる日が来るなんて、七瀬は信じられなかった。
 今自分を包んでくれる幸せが、朦朧とした頭が見せる幻かもしれないと、確かめるように遥斗の髪や顔に触れた。

「……嘘みたい。こんな夢……何度も見たんだ。だけど触れるといつも何も感じなくて……消えてしまうのに……」

「……七瀬、嘘じゃなくて現実なんだけどさ。このままだと二人とも凍死するから…行くぞ…」

 ぼろ雑巾の遥斗は七瀬の手を引いて公園を出た。少し歩いたところにある派手めなネオンが輝いている建物に入った。入り口のところには建物の名前なのか、レーヴと書かれていた。遥斗はエレベーターの前に置かれているタブレット端末でなにやら操作をして表示されたお金を入れた。

「なんか、色んな部屋の写真が選べるみたいだけど、まるでラブホテルみたいだね」

「……まるでじゃくて、ラブホテルだよ。家も遠いし、タクシーは嫌がられるだろ。この近くはこれしかないから仕方ない」

 遥斗がさらりと言った言葉に七瀬は驚きの声を上げた。確かに知識ではあったが、実際に訪れるのは初めてだった。

「分かっているけど…、遥斗慣れてて妬けるなぁ」

「…バカ、こんなところで煽るようなこと言うな!」

 そう言いながらもう余裕がなかったようで、エレベーターの中で遥斗は七瀬を壁に押さえつけるようにしてキスをしてきた。
 お互い冷たい体温だったが、口の中は温かかった。その温もりを求めるように舌を絡めて音を立てて吸い合った。

 エレベーターの安っぽいベルが何度も鳴って、いつの間にか目的の階に着いていたようだった。
 お互いキスの余韻を引きずったまま部屋に入ると、ドアが閉まるのも我慢できなくてまた唇を重ね合った。
 夢中でむさぼるようにキスをしていたら、濡れた体から水滴がたれて入り口に水溜まりができていた。

「はぁ…はぁ…、はる…遥斗、お風呂行こう。一緒に…入ろう」

「ああ…」

 お互い体に張り付くようになった服をもどかしく思いながらなんとか脱いでバスルームへ入った。

 熱いシャワーを出して全身に浴びるとやっと人間に戻れたような生き返ったような感覚がした。
 やけに視線を感じて七瀬が振り返ると、同じくシャワーを浴びて人間に戻った遥斗がじっと七瀬の方を見ていた。

「…なっ…なに?」

「いや…、お前ってそんな体してたんだな……」

「そんなって、なんだよ」

 先ほどのキスもそうだし、遥斗とラブホテルという状況に興奮するしかない七瀬のそこはすっかり熱をもって立ち上がっていた。
 まさかここまできて引かれてしまうのかと思うと、口に手を当てた遥斗が呟くように溢した。

「マジで…、すごいエロいんだけど…。ヤバい……興奮しすぎてアソコがビンビンで痛い」

 周囲に立ち込めた湯気でよく分からなかったが、遥斗のペニスは反り返るほど大きくなってお腹についていた。

「触りたい、七瀬の…触っていい?」

「うん…」

 遥斗は壊れ物でも扱うかのように七瀬のそれに優しく触れてきた。

「んっ…」

「悪い、痛かったか?」

「大丈夫…、遥斗が触れてくれるなんて…嬉しくて」

 七瀬のものは遥斗が触れた時点ですでに先走りが出てしまうほど興奮していた。
 あの手で少しでも擦られたらすぐに達してしまいそうだった。

「七瀬、なな、可愛い…。イクときの顔がみたい」

 遥斗は壁に七瀬をはりつけて、片手で握って擦りながら、近くで顔を見てきた。自分の欲望を七瀬に擦り付けるのも忘れていない。

「あっあっ…んんっはぁ……はっ…あぁ……はるぅ…、もう…むり…イっちゃ…う」

「いいよ。七瀬、イって……」

 遥斗が擦るスピードを速くして、七瀬はあっという間に上り詰めていった。

「ふっうっう……あっ…イク……イク…あっ…あああああっ!!」

 目の前がチカチカして体を揺らしながら七瀬は達した。大好きな人の手の中で達するというこれも夢にまでみたものだった。

「……嘘だろ、可愛すぎる…。なんて顔で……。なんで俺今まで平気でお前といれたんだろう。ヤバい…我慢できない。めちゃくちゃにしてしまいそうだ……」

「いいよ。めちゃくちゃにして…。だって…ずっと…。遥斗にそうしてもらいたかった…」

「っ……七瀬」

 遥斗が辛うじて残していた理性の綱を七瀬はプチりと切ってやった。綺麗なものなんていらない、どろどろに溶かして溺れてしまえばいいと、そう思った。

 かぶりつくように唇を奪われて、七瀬の舌を吸いながら、遥斗は乳首に触れてきた。指でこね回してひっぱって、摘まんでこりこりと動かした。平らな胸を残念と思うかもしれないと考えていたが、それは杞憂だったようだ。

「ああ!はる……そこぉ……」

「ははっ…乳首弄られて感じるのかよ。マジで可愛すぎる。舌で舐めてもいい?可愛すぎて食べたくてたまらない」

 ちゅくちゅくと音を立てながら遥斗は乳首を吸って、れろれろと舐めて転がした。
 時折甘く噛んで七瀬が切ない声を上げるのが気に入ったようで、何度もそうやって攻められて、立ち上る湯気で七瀬の頭は蕩けていく。

「七瀬、ベッドに行こう。我慢できない。早く抱きたい」

 お風呂から出た二人はバスタオルで適当に体を拭いて、そのままなだれ込むようにベッドに転がった。

「遥斗、アナルセックス分かるの?う…後ろ、すぐには入れれないよ」

 ノンケだった遥斗の勢いに若干心配になった七瀬はいちおうと確認してみた。

「そ…そうだな。悪い…なんとなくしか……」

 知識だけ豊富な七瀬は自慰のときに少しだけ弄ったことはあった。
 ラブホだけあってプレイのグッズは大量に置かれていて、その中からローションを手にとって後ろに塗り込んだ。遥斗に準備してもらうのは悪いような気がして自分で用意しようと思ったのだ。

「んっ……ふ……ちょっと……待ってね…。はぁ…もう…少し…広げる…か…ら」

「七瀬…それ、指突っ込んで……、俺のが入るようにしてるのか?」

「……うん。もう…ちょっと……あっああ!」

 せっかくほぐしていたのに、遥斗に手を取られてしまった。

「俺がやる」

 ローションを指に乗せて遥斗は後孔に指を入れてきた。ペニスを触ってきたときの優しい手つきとは違い、荒っぽく突き入れてきたので、余裕のない感じが伝わってきた。

 ぬるぬるとする滑りを利用して中に入り込んできた指は自分のものと違って予測不能で、その動きに七瀬は身を震わせて甘く悶えた。

「すご……、ナカ、すげーとろとろのクセに、吸い付いてくる。うねってて閉まると指を食われているみたいだ…」

「ばっ…、…んな…言うなよ……あっ…」

 二本目まで入ったとか、三本目は簡単に入りそうとか遥斗は嬉しそうに実況し始めた。やめろと言うのにやめないところは遥斗らしいのだが、今は勘弁して欲しい。

「んぁ!!だっ……ためぇ!そこっ……」

「え……、もしかして…、ここ七瀬のイイところ?」

「はぁ……は……ぁあ…、いま…こすらないで…おかしくなる…」

 自分だけが見つけた場所に遥斗の息は荒くなり明らかに興奮の色を強めた。だめだと言うのに、執拗にそこをぐりぐりと擦って七瀬が嬌声をあげるのを眺めた。

「だめだめだっ…らめ……あああっお……や……でっでちゃ…でちゃうよぉ…」

 前立腺をこれでもかと弄られて、七瀬は頭を振りながら身をよじらせて淫らに達した。白濁をお腹の上にびゅうびゅうと飛び散らせて、恍惚に浸るその様は遥斗の欲情を煽るのには十分すぎた。

「なな…ヤバい…、ヤバすぎるよ…。興奮しすぎておかしくなりそう」

「はる…と、きて……。もう大丈夫だか…ら」

「…でも…まだ…」

「遥斗もおかしくなってよ…。俺はとっくにおかしくなってる」

 涙目で赤くなった目を向けて遥斗を求める七瀬を見て、遥斗は唸るような声を出した。遥斗もまた限界は通り越していたのだ。

 一気に指を引き抜いて、自らのペニスを七瀬の後孔にあてがった。ローションを足してからその滑りを利用して正常位で一気に突き入れてきた。

「あああ!あんんぁぁぁぁ………」

 ほぐしてはいたが、かなりの質量に広げられたナカは、軋む音がするくらいの圧迫感があり、七瀬はのけ反って痛みに耐えた。

「七瀬…ごめん…ごめん、我慢でき…な…、ナカ、キツくてすごい…気持ち良すぎ…やば……」

「いい…だ……だいじょ……ぶ。遥斗……きて…」

 七瀬が手を伸ばすと遥斗が来てくれたので、そのまましがみついた。

「はぁ…は…はぁ…七瀬…入った」

「う…ん、幸せ……」

 今日は夢みたいなことばかりでもうこれ以上ないというくらい幸せだったが、やはりこの瞬間は圧倒的な幸福感が身体中を満たしてくる。

「ごめん…、今さらだけど…ちゃんと言ってなかった。好きだ……七瀬が好きなんだ」

 待ちわびたその言葉に七瀬の胸は熱くなった。これまでの思いが込み上げてきて、ぽろぽろと目から落ちていった。

「……う…嬉しい」

「……七瀬」

「俺も好きだよ…、ずっとずっと…遥斗が好きだった…」

 涙で滲んだ七瀬の目に、二人の間にあると思っていた境界線が砂となって風に捕らわれて消えてったように見えた。

 繋がったままキスをすれば、二人して上も下もぐずぐずに蕩けていく。やがて動き出した遥斗は、あっという間に七瀬の中で溶けてしまうのだが、それは終わりのない愛の序章にすぎなかった。
 再び熱を得て動き出せば、また壊れそうなくらい愛し合い、絶頂に震えて声を上げるのことになるのだ。

 砂糖水みたいに甘い夜は更けていき、やがて、二人に熱を残したまま、朝はやってくることになるのだった。



 □□



「全く…二人して仲良く熱を出して三日も休んで……もう体調は大丈夫なの?」

 七瀬と遥斗がラブホテルで愛を確認し合ったあの日、結局ずぶ濡れで冷えたことが原因で、翌日には二人して高熱でダウンした。

 七瀬の部屋で寝込んだ二人のために、相模があれこれ買ってきてくれて看病してくれたのだ。
 二日目には熱が下がり、一日様子を見て次の日にやっと大学に出てきたのだった。

「相模、本当に色々と迷惑かけちゃってごめん。見に来てくれて本当に助かったよ。ありがとう」

「いいよ。七瀬が元気になってくれたみたいだから安心したよ。……あの日、本当に大変だったんだから」

 そう言って相模はチラリと目線を前の方へ投げた。そこには、ゼミの仲間と話している遥斗の姿があった。

「顔面蒼白で七瀬七瀬って呟きながら、講義中の教室勝手に開けたり、お偉いさんの教授の研究室まで行ったみたいで相当怒られてたよ…。七瀬に執着しているのは分かっていたけどさ、自覚なかったでしょう。気づいたらヤバいと思ってたから手を出さなかったけど…。七瀬、大変だよあれは……。今からでも遅くない!藤沢さんにしておきなよ!」

 七瀬の両肩を掴んで詰め寄っていた相模の頭はパコンと音を立ててノートで叩かれた。

「おい!そいつの名前を出すな!七瀬の耳が汚れるじゃないか」

「うわっ!名前にまで嫉妬して…、ヤバすぎでしょう」

 うるせーと言いながら七瀬の隣に座った遥斗は後ろから抱えるように七瀬を抱き締めてきた。
 教室にいる女の子達からキャーっという悲鳴が上がった。

「……遥斗、こんなところで…、皆に変に思われたら……」

「別に何も変じゃない。ゼミのやつらにも七瀬と付き合うことになったからもう女はいらないって宣言してきたから」

「ええ!?」

「……遥斗さ、そういうのデリケートな話なんだからさ……、全くこれだからノンケは手に負えないよ」

 驚いて言葉を失う七瀬と、呆れてため息をつく相模を見て遥斗は悪びれることなくこれでいいんだと言い放った。

「好きなものを好きって言って何が悪い!それで離れていくようなやつは勝手にすればいい。だいたい牽制の意味もあるんだ。俺が宣言したら、何人か俺を睨んできたやつがいたぞ!」

「は?牽制?睨む?なにそれ……?」

「ははーん。それは俺も気づいていたけど。七瀬があまりにも遥斗しか見てないものだからねぇ……。勇気がなくて行動には移せずってやつらだよね」

「なっ…、なんだよ。俺が遥斗を見てたから、嫌な思いでもしたやつがいるの……?」

 今度は遥斗と相模が息ぴったりに七瀬を見てため息をついた。

「……おい、相模。大変なのは俺の方だと思わないか?」

「言っておくけど、花開いた七瀬はヤバいと思うよー。今まで好き勝手やってきたんだから、覚悟しておけ!」

 口の端をつり上げて悪い顔をしてイヒヒと笑う相模と、青くなって七瀬をぎゅうぎゅうと抱き締める遥斗。

 話の方向が分からずに目を泳がせていた七瀬だったが、二人の間の心地よい空間と、愛しい人と触れ合っていられる幸せに喜びが溢れて微笑んだのだった。



 □□


 タネを作って丁寧に手でこねた。
 丸く成形したらペタペタと叩いて空気を抜いて、真ん中に窪みを作る。
 特別な手法などない、七瀬の作るのはごく普通のハンバーグだ。

 丸くできたら、お皿に並べてラップをかけて、冷蔵庫に寝かせる。
 遥斗が帰ってきたら、焼きたてを食べてもらいたいのだ。

 週末、バイト帰りの遥斗をこうやって部屋で待つ時間ができた。
 今までと違うのは、ちゃんと会う約束していることと、食べるだけじゃすまないことだ。
 帰って来た遥斗にいきなり押し倒されて、玄関で抱かれることもある。
 お互い次の日は休みということもあって、そのまま食事も忘れて抱き合って、気がつくと朝を迎える日も。
 付き合って分かったのは、遥斗は心配性の寂しがり屋だ。
 二人でいるときは、片時も離れたくないらしく、ベッドから出ようとする七瀬をちっとも離してくれない。二人でゴロゴロしていて気づいたら夕方みたいなそんな日もあるくらいだ。

 今日は課題のレポートからやっと解放されたので、遥斗の好きなハンバーグを作ってお疲れ様会をやるつもりだ。

 付け合わせは何にしようと冷蔵庫を覗いて、ニンジンと卵を取り出した。
 目玉焼きを乗せて少し半熟の黄身を割って食べるのが遥斗も七瀬も好きなのだ。

 七瀬は微笑みながら台所に立って、まな板の上にニンジンを乗せて包丁を持った。

 その時、ある音が聞こえたので、動きを止めて耳に意識を集中した。

 それは、七瀬の好きな幸せの音だった。

 どんどん近くなる音に我慢できずに七瀬は包丁を置いて玄関に走った。
 幸せの音がピタリと止まり、七瀬はドアを開いた。


 人の歩く靴の音が好きだ。
 それは自分のもとに帰ってきてくれる音。
 幸せを運んできてくれる音。
 そして七瀬はもっと好きな音を見つけてしまった。

「ただいま」

 愛しい人のただいまは、最高に幸せな言葉で大好きな音だ。


「おかえり」





 □完□
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