サクラメント300

朝顔

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25 大きな翼

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 新鮮な空気を肺にいっぱい吸い込んで、空に向かって吐くと、体全体が生まれ変わったように軽くなった。
 季節は冬が終わり春になろうとしている。
 冷たい風が暖かくなったのを感じて、その心地良さに佐倉は目を閉じた。

 高台から見える光景は、連なった山々とひたすら続く大きな田んぼと畑だけだ。
 高いビル群に囲まれた生活をしていると、別の世界に迷い込んでしまったような感覚に陥る。

 はたして自分の居場所はどちらなのか、それともどこにもないのか。
 ずっと分からなくて苦しんでいた。

 両親が死んでしまった時、帰る場所をなくしてしまった。
 子供のいない叔父夫婦は良くしてくれたが、ある日別の親戚から叔父夫婦は子供が苦手で、二人での生活を望んで作らなかったと聞いてしまった。

 今考えると余計なこと言ってくる意地悪な親戚だったが、その時はショックで申し訳ない気持ちになってしまった。
 何をしてもされても、気を遣われている気がした。迷惑をかけているんだと思うと、早くここから出ないといけないと思うようになった。

 大学の費用は両親の遺産から払った。
 残ったお金の半分は叔父夫婦に渡して、半分を持って上京した。

 この景色の前に立つと、帰ってきたという思いもあるが、故郷の記憶は楽しい思い出も悲しく感じてしまい、できれば帰りたくはなかった。

 三日前、泰成からの電話で叔父の危篤を知らされた。
 叔父夫婦には元気でやっているから心配しないでと手紙を送っていた。
 手紙の中に緊急連絡先として泰成の携帯を書いて、泰成にも叔父の連絡先を伝えていた。
 もし自分に何かあっても、泰成が上手く説明してくれるだろうと思っていたからだ。

 そろそろまた手紙を送ろうかと思っていた頃だった。
 もともと心臓が悪かった叔父は、農作業中に倒れて、救急車で運ばれた。
 緊急手術となって、危篤だからみんなを集めてくれという話になったらしい。
 それで連絡が来たというわけだった。

 すぐに事務所に向かって泰成に会った。
 今後の話を軽くして、すぐに向かえと言ってくれたので急いで新幹線に飛び乗った。

 新幹線に乗ってから梶に連絡をしようと思いスマホを探したが、会社に置き忘れてしまったことに気がついた。
 戻っている時間はないので、仕方なくそのまま進むしかなかった。

 遠くの山々の方に、空を飛ぶ大きな鳥を見つけてぼんやり眺めていたら、名前を呼ばれたような気がした。

 振り返って見たが、そこには今までと同じ、静かに墓石が並んでいて、誰一人いなかった。

「お墓ってなんでこんな高台に作るんだろう……。死んでも良い眺めが見れるからなのかな。ねぇ、父さん母さん」

 佐倉の目の前には黒い墓石が立っていた。
 これは両親の墓だ。
 隣は叔父の家の墓だが、叔父はまだここには入らずにすみそうだ。
 手術が成功して、しばらくすれば退院すると言われていた。
 一時期は危篤だと騒がれたが、開いてみたらそれほど酷くなかったとかで、翌日には意識が回復して親戚に揶揄われて元気に笑っていた。

 佐倉がなかなか顔が見せられなくてごめんと言うと、叔父は心配だからたまには帰って来いと言ってくれた。それと、墓参りも忘れるなと言われてドキッとしてしまった。

 久々に父と母のお墓を訪れたが、叔父が管理していてくれたので、綺麗に整理されていた。
 父の好きだったお酒と、母の好きだった花をお供えして、一息ついたところだった。

 この三日間、誰とも連絡が取れない。
 仕事の休みはとってあるし、最初は慣れなかったが、なければないで何とかなるものだ。
 梶からはきっと今まで通り何の連絡もないだろうから、スマホがなくても何も変わらないなとひとりで笑ってしまった。

「それにしてもここ、歳を取ったらお参りに来るのは大変だな」

 先祖代々のお墓は、山のてっぺんに作られていて、千段ぐらいの階段を上って来なければいけなかった。
 まるで修行みたいだと思って、また山を眺めようとしたら、今度こそ本当に未春と名前を呼ばれた。
 こんなところで聞こえるわけがない。
 だけどその声は幻聴ではなく、佐倉の腹の奥まで響いてきた。

「未春」

 願望を抱き過ぎておかしくなったのかと思ったが、わずかに風に乗って流れてきたフェロモンの香りで、現実だと分かってしまった。

「うそ……だろ、なんで……」

 会いたいと思う気持ちが見せた幻……

 ……にしてはずいぶんとひどい格好の梶が立っていた。
 膝に手をついて苦しそうな姿の梶は、髪が乱れてボサボサになっていた。
 はぁはぁと荒い息をして、いつもキッチリ着こなしている高級スーツは大量の汗で濡れていて、ヨレヨレの皺だらけだった。

「智紀……大丈夫か?」

「な……まえ、何度も呼んだ……ハァハァ……やっと……、ここは……万里の長城かっ」

「走って上ってきたのか? 全部で千段近くあるぞ。普段運動しているからって……」

「無茶しても……未春に……」

 そこまで言ったところで、よほど急いできたのか、梶はゲホゲホとむせてその場に座り込んでしまった。

 佐倉は梶を支えて、とりあえず近くの木陰に座らせて、鞄の中から持っていたペットボトルの水を取り出した。
 梶は何度か咳き込みながら、その水を一気にごくごくと飲み干した。

 その光景を見ている間も、佐倉は何が起きているのかよく分からなくて、早く状況を聞きたくてたまらなかった。

「なんでここにいるんだ。どうやってここが……」

「いくら急いでいるからって、スマホを忘れるなよ。会いに行ったら未春はいなかったから、会社の人に場所を聞いた。若社長と話して、事情を話して何とか信じてもらって、やっと渡してもらえたから届けにきたんだ」

 そう言って梶はポケットからスマホを取り出して佐倉の手の上に載せた。

「いや、ありがたいけど……わざわざ、ここまで来るなんて……」

「だってこうでもしないとお前、また消えてしまうかもしれない。もう嫌なんだ……いなくならないでくれよ」

「なんの話だよ。ここへは叔父のことで来ただけで……明日には帰る予定で……」

 やけに感情的になっている梶とは違い、佐倉は状況がよく分からなくて困惑していた。
 会いにきてくれたのは嬉しいが、なぜここまでしてくれるのか、それが分からなかった。

「ごめ……ごめんなさい。俺のせいだ」

「え? 何が……?」

「未春が写真家のSAKURAなんだろう?」

「えっ!? どっ、どうして知って……」

「コンテストだよ。五年前の! あの時、俺が気軽に参加したせいで、票が流れてしまった。本当は未春が優秀賞だったはずなんだ……それなのに、俺のせいで……ずっと謝りたくて……」

 号泣に近い勢いで梶は泣いていて、だんだんと状況が掴めてきた佐倉は逆に冷静になっていた。
 とにかく落ち着かせて話を聞こうと梶の背中を撫でた。

「五年前って言ったら、智樹は高校生か。関係者の息子が賞を取ったって話はチラッと聞いたけど……そうか、それが智紀だったのか。それでSAKURAを……探していた? もしかして泰成にでも聞いたのか? うーん、でも別に俺が賞を取れたとは限らないし、そんなに気に病むことじゃ……」

「そんなわけがあるか! SAKURAの写真が他のどの作品より輝いていた! 間違いなく優秀賞だったんだよ! 俺が奪ってしまったせいで、SAKURAは写真をやめてしまったんじゃないか……俺が未春の夢を……俺のせいで……」

 宥めて落ち着かせようと思ったら、両肩を掴まれて倍の熱量で返されてしまった。
 これはどう説明したらいいのか、考え過ぎて頭が痛くなってしまった。

「俺の作品を気に入ってくれたのは嬉しいけど、写真をやめたのは自分のせいなんだ。夕貴のことだよ。話しただろう、あの事がちょうど結果が出るくらいの時だった。夕貴を殴ってしまった手で、カメラを持てなくなったんだ。だから全部捨てて逃げてきた。コンテストの結果は残念だったけど、それで誰かを恨むとかそういう思いになったことはない」

「恨んで……ない?」

 佐倉が大きく頷くと、梶は魂が抜けたような顔になって、手から力が抜けてぐらりと揺れてしまった。
 また地面に倒れそうになったので、佐倉は急いでデカい梶の体を支えた。

「おーい、しっかりしろよ。なんでショック受けるみたいになっているんだ。謝る必要ないのに」

「ううぅ……」

「もしかして、俺のファンだったとか?」

 いつも自信たっぷりで堂々としている男が、花が萎れたみたいになって、真っ赤な顔で頷いていた。
 いつもとても年下には思えないのに、今は梶に年相応の幼さが見えてドキッとしてしまった。

「そっか……、そこまで思い詰めて、何年も謝ろうとしてくれていたなんて……逆にこちらがお礼を言うべきだな。忘れないでいてくれて、ありがとう」

 梶はまた目を潤ませて、こくこくと頷いた。
 ちょっと可愛いなと思ってしまい、佐倉は笑いそうになってしまった。

「まったく、泰成先輩も俺がSAKURAだったこと喋っちゃうなんて」

 何のきっかけでその話になったのか知らないが、口止めしていたのにどうしてだろうと思ったら、梶はブンブンと首を振った。

「違う、会ったんだ……。偶然、帰りの飛行機で津久井という医師と隣になって、彼を迎えに来たのが夕貴と名乗る男だった」

「え………」

「彼らも探していたんだよ。未春のことを……」

 二人の頭上空高く、大きな鳥が飛んでいった。
 その影が地面の上を滑っていく様子を見ながら、佐倉は梶に言われたことを頭の中で繰り返した。





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