サクラメント300

朝顔

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6 変化の兆し

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「梶智紀って言ったら、梶社長のご長男だよ」

 泰成がキーボードを叩きながら、淡々と返してくれた答えに、佐倉は飲んでいたコーヒーを噴きそうになった。
 事務所をコーヒーまみれにして危うく怒られるところだった。

「ご長男ですか? し、親戚とかじゃなくて? ということは次期……」

「社長候補ナンバーワン!」

 とんでもない人と気軽に話してしまったと、佐倉はついにここを去る自分の姿が目に浮かんでしまった。

「ナンバーワンってことは……」

「ツーもいる。智紀さんは優秀なアルファでご長男、社長の後妻さんの子がベータの次男、宏樹さんだったかな。ただ彼も優秀で中学時代に作ったナントカってプログラムが海外で賞をとったとか……」

「へぇ、バース性というより、優秀な血筋ってやつですか」

「あっ、智紀さんも学生時代に賞をとっていたよ。そっちは何だったけな……親父が酔って話していたから……」

「もう賞の話はいいですよ」

 梶兄弟の優秀さは今の説明で分かった。
 詳しい話など聞かずとも、梶グループの人間であるというだけで、一般人とは頭の作りが違うのだ。

 先週末に起きた災難のことは、泰成にすでに報告済みだ。
 エレベーターの点検はよくあることなので、特に何も言われなかった。
 一緒に乗っていた人物のことまで、聞かれなかった。あまり話を広げたくなかった佐倉は、梶のことは話さなかった。

 ただ、どうしても気になって、たまたま耳に入ったからと言って名前だけ聞いてみることにした。
 やはり頂点の人だったので、何か失礼があったかもしれないと心の中で震えていた。

「上層の担当は慣れたか? 色々話しかけられて大変だろう」

「それはもう慣れました。小波さんがずいぶんと親切に色々やっていたみたいで、引き継ぐのは大変でしたけど」

「頼むぞー、機嫌を損ねると厄介な連中の溜まり場だからさぁ。あっ、梶常務もこっちに戻ったらしいし、どこかで会うかもな。会ったら飲みにでも誘ってもらえよ」

 泰成が学生ノリの冗談を言ってきたので、顔では笑って見せたが、心の中ではちっとも笑えなかった。

 清掃の最後に回って来いということは、軽く世間話でもできる相手が必要だということだろうか。
 確かにそう言われたと思うが、思い返してみたら社交辞令の類だったのかもしれない。
 たまたま少し話して楽しかったから、また会った時はよろしく、というような……。

 世界がひっくり返っても、梶と飲むようなことはないなと思いながら、佐倉は重い腰を上げた。




 週が変わっても、佐倉の仕事は変わらない。
 いつも通りゴミを集めて、トイレの中を綺麗にする。
 毎日その繰り返しだ。
 だが、この単調な毎日のおかげで、佐倉はまともに生きてこられたといってもいい。
 無心で仕事に取り組んでいなければ、罪悪感と恐怖で押しつぶされてしまいそうだった。

 一通り仕事を終えて最後に向かったのは、役員フロアの奥にある部屋だった。
 深い色の木で造られた重厚なドアの横には、梶常務と書かれた銀色のプレートあった。
 廊下は壁一面が大理石で作られていて、床はフカフカの絨毯でまるで高級ホテルのようだ。

 いくら考えても場違いにしか思えなくて、佐倉はドアの前でウロウロしながらどうしようかと考えていた。
 その時、カチャリと音がして重厚なドアが開いた。
 緊張が最高潮に高まって、口から心臓が出そうになっていたら、中から出てきたのは梶ではなく、ビシッとこれまた高そうなスーツを寸分の乱れもなく着込んだ男性だった。
 銀フレームの眼鏡をかけていて、ぴっちりと後ろに撫で付けた黒髪から、真面目で仕事ができそうなイメージを受けた。

「何か?」

「え?」

 男性は不審そうに眼鏡を指で押し上げて、佐倉に向かって一言発してきた。
 それはそうだろう。
 清掃員の格好だが、掃除もせずに扉の前でウロウロしているなんて、どう見ても怪しい人間にしか見られない。

「あ……あの、梶さんは?」

「常務のことですか? 今は私用で席を外していますが……何か御用ですか?」

「いっ、いえ、いいんです。気にしないでください!」

「はい?」

「こ、これ、今日のゴミですよね。確かに受け取りましたので、私はこれで……」

 床に置いてあったゴミ袋を手に取った佐倉は急いでその場を後にした。
 真面目そうな男に、訝しんだ目で見られてしまった。

 まったく何をやっているんだと思いながら、さっさとフロアから消えようとしたが、男子トイレに清掃道具を忘れてきたことを思い出した。
 どうやら災難は続いていたらしい。
 頭をかきながら、男子トイレに入った佐倉は、手洗い場に残していたバッグを発見した。

 さっと手を伸ばした時に、ちょうど個室から出てきた人にぶつかってしまった。

「わっ、失礼しました」

「いや、こちらこそ……」

 慌て過ぎて人にまで迷惑をかけてしまった。
 後ろに下がって頭を下げようとしたら、ちょうどよかったと声をかけられた。

「えっ……」

「いいタイミングだ。私も今仕事が終わったところだ。コーヒーでいいか?」

「い………」

 顔を上げるとそこには、あのエレベーターであった梶が立っていた。
 前回と同じく、高級なブラックのスーツに身を包んで、彫刻のように整った顔で微笑んでいた。

「……はい」

 何がいいのかと自分でも理解できないうちに、とりあえず頷いてみたが、顔を上げても本当に何のことだか分からなかった。

 頭にハテナが埋め尽くされた状態で、こっちだと言われて、さっき逃げてきたばかりのあの部屋に連れて行かれるハメになった。




 豪華な部屋というのは、天井まで豪華に作られている。
 安普請のアパートのシミのついた天井しか知らないので、絢爛豪華に彩られた天井も部屋の中も、眩し過ぎて落ち着かなかった。

 そしてこの酸味と苦さも……。

「コーヒーはグアテマラ産が好きで、取り寄せているんだ。どうだ?」

「え……ええ、美味しいです」

 コーヒーといえばインスタントで、コンビニの百円のやつがたまの贅沢だと思う佐倉にとって、豆を挽いて作られたというこの至高の一杯は、美味しいを通り越して何の味なのか分からなかった。

「お口に合ったならよかったです」

 そう言ってお菓子を机の上に載せたのは、先ほど会ったばかりの真面目そうな男だ。
 気まずい再会に、佐倉は口の中に入れたコーヒーをゴクリと飲み込んだ。

「秘書の目黒川だ。運転から身の回りのことも目黒川が専属でやっている。彼は、ヤマノクリーンの佐倉くんだ」

「ええ、先ほど廊下で少しだけお会いしましたね。秘書の目黒川です。何か必要なことがあるかもしれないので、こちらが私の連絡先になりますのでお持ちください」

「は……はい、よろしくお願いします」

 名刺を渡されたのだが、佐倉は返すものがない。頭を下げてとりあえずよろしくと言って、名刺を作業服の胸ポケットに入れた。

「あの、この前……エレベーターの点検の時に助けていただいて、少し話をしたというか……」

 お前は誰だという目線を感じたので、佐倉は悪いことをした言い訳でもするように、言葉を詰まらせながら説明すると、目黒川はそうですかと興味を失ったようにトレーを持って立ち上がった。

「何かありましたらお呼びください」

「ああ、それほど遅くならない」

 目黒川が出ていくと、なぜかホッとしてしまった。
 ああいう真面目そうな人には、ちゃんと対応しないといけないと思うと、余計に緊張してしまう。
 佐倉が苦手とするタイプの人に見えた。

「無愛想なやつで悪かったな。仕事はできるんだがなぁ」

「そんな……、真面目でしっかりした雰囲気で、ああいう方に憧れます」

「おいおい、二人きりなんだから普通に話してくれ。ずっと仕事モードは疲れるんだ」

 目黒川が出て行って、さっそくリラックスモードに入ったのか、ソファーに深く腰掛けた梶は自分で肩を揉んで眉間に皺を寄せていた。

「あの、じゃ……じゃあ、遠慮なく……」

「おう、頼む」

 よく分からないが、またあのエレベーターの中での友達ごっこの続きが始まるらしい。
 何か失礼があったのではと一日怯えていたが、梶の雰囲気から読み取るに、ざっくばらんに話をする相手が欲しかったのかもしれないと思った。

「仕事は全部終わったのか?」

「もうここで最後。ただ、残業代は出ないから、そんなに長居できるわけじゃ……」

「それは問題ない。山野社長に話を通して、綺麗好きな常務に残って清掃をさせられているって話にしておく。その時間の費用はこっちで持つと言えば断られないだろう。予定とかは? 迷惑だったらいいけど」

「予定は特に……帰って寝るだけだし。残業代が出るならこちらとしては嬉しいくらい……」

 梶は何か言いたそうな顔で目を細めていたが、まぁ飲んでくれと言ってコーヒーを勧めてきた。

 最初は酸っぱい味しか分からなかったが、何度も飲み込んでいると、深みというかコクのようなものが分かったような気がして、心の中で笑ってしまった。

 何の共通点もないと思っていたが、前回同様、徐々に話が弾んでいった。
 梶は仕事上必要なのもあるだろうが、話題が豊富な人で、世の中の娯楽に詳しくない佐倉でも、何とか話についていけた。

「そうか、大学に入ると同時にこっちへきたのか。親御さんも一人暮らしだから心配されただろう」

「親、というか……叔父夫婦と暮らしていたんだ。両親は中学の時に事故でね」

「そうか……すまない」

 暗い話題になってしまったと佐倉は慌てて頭を振った。

「もう、昔のことだから。叔父さん達にはよくしてもらったから感謝しかない。ただ、どうしても馴染めなくて、自分だけ違う……っていうか、気を遣われているのが……なんとなくね。だから、一人で暮らす方が楽なんだ」

「一人の方が楽ってのは分かるよ。俺も大学に入る前に一人で別のマンションに移った。父は家にいることの方が少ないし、そうなると継母と腹違いの弟との暮らしだからさ。仲が悪いわけじゃないけど、息が詰まるってやつ」

「お互い複雑だね」

「ああ、どこか似ているのかもな。だから、居心地がいいのかも」

 似ていると言われてまさかと否定したかったが、その言葉は不思議と胸の中に落ちた。
 向こうは血統書付きのサラブレッドで、こっちは野原にいる痩せた馬でしかないのだが、言葉を選ばなくても自然と気持ちが出てくる。
 空気が合うというのが、当てはまると思った。

「佐倉」

「え?」

「……いや、未春と呼んでいいか?」

 名前で呼んでくるのかと驚いたが、そう言えば知り合いが同じだとか言っていたので、向こうからしたら呼びにくいのだろうと思った。

「いいよ」

「じゃあ、俺のことも、智紀で」

「ええ!?」

「お前だけ梶さん梶さんもおかしいだろう。だいたい梶と呼ばれると父の顔がチラついて居心地が悪くなる」

「……分かったよ。でも会社の人の前では呼べないから」

「ああ、それでいい。嬉しいよ」

 梶は髪をかき上げてカッコよく笑った。
 自然と出てしまう仕草なのか知らないが、無駄に色気を撒き散らすなんて、相手が違うよと佐倉は言いたくなった。

 困った人に気に入られてしまったなと、佐倉は頭の中でため息をついていたが、心臓だけはトクトクと揺れていて、やけに胸が熱く感じた。






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