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5 孤高の楽園
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「ねぇ、もっといい匂いのシャンプーないの? メンズのしかないんだけど」
自宅に帰るとバスルームからバスタオル一枚の女が出てきた。
濡れた髪や体からポタポタと水滴が垂れていて、部屋の中は甘い匂いが充満していた。
「はぁ……、髪を乾かしたらすぐに帰れ。今日は気分じゃない」
ネクタイを解きながらため息をついた梶は、女に背を向けた。
「ちょっとぉ、目黒川さんから連絡があったのよ。鍵も渡されたし、準備して待っていたのに」
「目黒川が勝手に気を回したんだ。俺は呼んでいない」
上着を脱いでシャツ一枚になったところで、女が後ろから抱きついてきた。
シャワーを浴びた後の熱が、背中にピッタリと当たった柔らかい胸から伝わってきた。
「ひどい扱いでもいいのよ。私にとっても智紀は特別だし。他の子は嫌がって逃げちゃうじゃない。私ほど、従順でどんなことも気にしないオンナはいないと思うけど」
前に回された女の指が、シャツの間をなぞるように落ちていき、ベルトまでたどり着いたところで梶はやめろと声を上げた。
「何度も言わせるな。匂いがキツすぎる」
「……なによぉ、半年も海外に行っていたから久しぶりに遊んであげようと思ったのに。私のフェロモンに反応しないのって智紀だけよ」
「俺をその辺のアルファと一緒にするな」
女の手から逃れた梶は、もう一つのバスルームに向かって歩き出した。
片手でスマホを操作して、この状況を作った相手である秘書に連絡を入れた。
「ああ、目黒川か。余計なことはするなと言っただろう。すぐに出すから、車で送るように」
用件だけ言ってさっさと通話を終了した。
梶の秘書である目黒川は、仕事のできる男だが、いつも先の先に動くのがクセになっている。
アルファの欲求を満たそうと、定期的にオメガやベータの女性を用意してきた。
彼女達は秘密厳守の金持ちの遊び相手であり、連絡があれば時と場所を選ばずに駆けつけてくる。
梶はそういう相手に困ったことはないが、扱いが雑なのは自分でもよく分かっているので、後腐れがない彼女達と確かに関係を持つことがあった。
バスタオル一枚で喚いているのは、何度かここに来たことがある愛華というオメガの女だった。
ウェーブした長い髪が特徴的で、美人と言われる部類の女性だ。
彼女がいくらフェロモンを放っても、梶がヒートを起こすことはない。
梶はアルファの中でも、最もバース性が強いというタイプで、完璧なアルファと呼ばれている。
匂いを感じることはできるが、催淫フェロモンに誘発されてラットの状態にはならない。
逆に強いフェロモンでオメガをコントロールすることができると言われている。
フェロモンが強過ぎるからと抑制剤を飲んでいるが、ほとんど意味はなかった。
アルファの中でも稀有な存在で、あまり知られてはいない。
立場的にどうにか梶に近づこうと、様々な人間がオメガを利用して迫って来ることもあったが、この特異体質のおかげでトラブルを避けてきた。
ひとりでシャワーを浴びた梶が部屋に戻ると、愛華の姿はなかった。
どうやら大人しく帰ってくれたようだ。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した梶は、バスローブ姿のままソファーに座った。
ひどい渇きを感じて、ごくごくと水を一気に飲み干した。
忙しい一日だった。
常務就任からずっと続く挨拶回りに、株主向けのイベントやパーティーへの出席、分刻みのスケジュールを組まれていて、やっと本社ビルに入って自分の部屋に戻ったのは、外が暗くなってからだった。
やることがありすぎて、整理するためにパソコンを立ち上げて、資料に目を通していたら、いつの間にか遅い時間になってしまった。
退勤する連絡を入れると、目黒川からお疲れ様です、ご自宅でゆっくりお楽しみくださいとメッセージが入った。
嫌な予感がしていたが、やはり思った通りだったと梶は息を吐いた。
周囲に集まるのは敵か味方か分からない連中ばかり。
大学を出たばかりの若造が、父親のおかげでいきなり重役に抜擢。
一族経営ならおかしくないことだが、反発は大きかった。
それぐらい自分でどうにかしろというのが、あの人のやり方だが、神経をすり減らす毎日に疲れてしまった。
だから気分転換でもと、秘書が思いついたのは理解できる。
だが、勝手に気を回されて、自分の意にそぐわないことをされるのが梶は大嫌いだった。
そのせいで大事なものをなくしてしまった。
自分のせいであの人は……
グシャリと音を立てて、梶はペットボトルを握りつぶした。
眉間に皺を寄せた梶だったが、頭の中に思い浮かんだのは、困ったように笑う口元だった。
退勤時、エレベーターにトラブルがあって、会社の清掃員と二人で閉じ込められてしまった。
時間も遅かったし、疲れていたので早く帰りたいと思っていた。
最悪だとイラつきながら、壁にもたれてため息をついたのを覚えている。
でもそんなイラつきも、佐倉という清掃員の一言で嘘のように飛んでいった。
¨災難でしたね¨
佐倉はそう言って困ったように笑った。
その顔が妙に懐かしく思えて、胸を打ったような気がした。
見ればボサボサの長い髪でほとんど顔は隠れているし、剃り残した髭もあって、清潔感という面ではひどいものだと評価するしかない。
一緒に乗ったのが女性社員であったなら、怯えてしまうくらい陰気な印象を受けた。
しかしその声は、驚くほど柔らかくて耳に馴染む優しい声だった。
このアンバランスは何だろう。
興味を持って返事をしてみれば、佐倉は話に乗ってきたのが嬉しかったのか、先ほどよりも明るい口調になって話しかけてきた。
会社の役員と、その会社のビルで働く清掃員。
初めはその名前が気になって声をかけてしまった。
仕事も立場も何もかも違う関係なのに、不思議と空気が合うというか、彼と話していると胸に溜まっていた黒いものが消えていくような気がした。
向こうからしたら、話しかけにくい相手であることは間違いない。
閉じ込められた恐怖から逃れたいのか、隣にいる梶に一生懸命言葉を選んで話しかけているように見えた。
緊張して上を見たり下を見たりしている様子をじっと見ていると、信じられないことに可愛いと思ってしまった。
おそらく自分より年上で、モサっとした不気味な男に見えていたのに、どんどん可愛く見えてしまうことに目を瞬かせた。
梶も背は高い方だが、向こうも背が高く、自分より少し小さいくらいだった。
全体的に細身で、作業服はブカブカで体から浮いて見えた。少し痩せすぎなくらいなのかもしれない。
話しながら観察していたら、隠しきれない彼自身の輝きのようなものが、前髪の隙間からそっと見えた気がした。
ベータのようには見えない。
しかしオメガとも違う。
纏う空気にはアルファのオーラを感じる。
少し肉がついて、スーツを着こなしたらモデルのように見えそうだ。
やはりアルファかと思った。
それなのに、アルファ特有の強烈な欲の匂いはカケラもなく、あるのはどこまでも透明な美しさだった。
なんて不思議な人なんだろうと、気がつけば座って夢中で話していた。
立場が違うから、初めはそう思ったのだが、彼自身が纏う空気がどうも心地良い。
自分の胸の内をするする話してしまい、彼が答えてくれる一言一言に癒されているのを感じていた。
もっと近づきたい。
他者を拒否するように引いている線の向こう側に行ったなら、彼はどんな顔をするのだろう。
それが見たい。
単純な好奇心。
きっとそうだ。
周りにいないタイプだからこそ、新鮮な気持ちが湧いた。
それだけ……
ペットボトルをゴミ箱に捨てた梶はゆっくり歩いて寝室のドアを開けた。
そこに広がるのは、梶の楽園だ。
何もかも忘れて浸ることができる。
自分だけのサクラメント。
「久々によく眠れそうだ」
ベッドの上に目を向けたら梶は、うっとりと微笑んで静かにドアを閉めた。
□□□
自宅に帰るとバスルームからバスタオル一枚の女が出てきた。
濡れた髪や体からポタポタと水滴が垂れていて、部屋の中は甘い匂いが充満していた。
「はぁ……、髪を乾かしたらすぐに帰れ。今日は気分じゃない」
ネクタイを解きながらため息をついた梶は、女に背を向けた。
「ちょっとぉ、目黒川さんから連絡があったのよ。鍵も渡されたし、準備して待っていたのに」
「目黒川が勝手に気を回したんだ。俺は呼んでいない」
上着を脱いでシャツ一枚になったところで、女が後ろから抱きついてきた。
シャワーを浴びた後の熱が、背中にピッタリと当たった柔らかい胸から伝わってきた。
「ひどい扱いでもいいのよ。私にとっても智紀は特別だし。他の子は嫌がって逃げちゃうじゃない。私ほど、従順でどんなことも気にしないオンナはいないと思うけど」
前に回された女の指が、シャツの間をなぞるように落ちていき、ベルトまでたどり着いたところで梶はやめろと声を上げた。
「何度も言わせるな。匂いがキツすぎる」
「……なによぉ、半年も海外に行っていたから久しぶりに遊んであげようと思ったのに。私のフェロモンに反応しないのって智紀だけよ」
「俺をその辺のアルファと一緒にするな」
女の手から逃れた梶は、もう一つのバスルームに向かって歩き出した。
片手でスマホを操作して、この状況を作った相手である秘書に連絡を入れた。
「ああ、目黒川か。余計なことはするなと言っただろう。すぐに出すから、車で送るように」
用件だけ言ってさっさと通話を終了した。
梶の秘書である目黒川は、仕事のできる男だが、いつも先の先に動くのがクセになっている。
アルファの欲求を満たそうと、定期的にオメガやベータの女性を用意してきた。
彼女達は秘密厳守の金持ちの遊び相手であり、連絡があれば時と場所を選ばずに駆けつけてくる。
梶はそういう相手に困ったことはないが、扱いが雑なのは自分でもよく分かっているので、後腐れがない彼女達と確かに関係を持つことがあった。
バスタオル一枚で喚いているのは、何度かここに来たことがある愛華というオメガの女だった。
ウェーブした長い髪が特徴的で、美人と言われる部類の女性だ。
彼女がいくらフェロモンを放っても、梶がヒートを起こすことはない。
梶はアルファの中でも、最もバース性が強いというタイプで、完璧なアルファと呼ばれている。
匂いを感じることはできるが、催淫フェロモンに誘発されてラットの状態にはならない。
逆に強いフェロモンでオメガをコントロールすることができると言われている。
フェロモンが強過ぎるからと抑制剤を飲んでいるが、ほとんど意味はなかった。
アルファの中でも稀有な存在で、あまり知られてはいない。
立場的にどうにか梶に近づこうと、様々な人間がオメガを利用して迫って来ることもあったが、この特異体質のおかげでトラブルを避けてきた。
ひとりでシャワーを浴びた梶が部屋に戻ると、愛華の姿はなかった。
どうやら大人しく帰ってくれたようだ。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した梶は、バスローブ姿のままソファーに座った。
ひどい渇きを感じて、ごくごくと水を一気に飲み干した。
忙しい一日だった。
常務就任からずっと続く挨拶回りに、株主向けのイベントやパーティーへの出席、分刻みのスケジュールを組まれていて、やっと本社ビルに入って自分の部屋に戻ったのは、外が暗くなってからだった。
やることがありすぎて、整理するためにパソコンを立ち上げて、資料に目を通していたら、いつの間にか遅い時間になってしまった。
退勤する連絡を入れると、目黒川からお疲れ様です、ご自宅でゆっくりお楽しみくださいとメッセージが入った。
嫌な予感がしていたが、やはり思った通りだったと梶は息を吐いた。
周囲に集まるのは敵か味方か分からない連中ばかり。
大学を出たばかりの若造が、父親のおかげでいきなり重役に抜擢。
一族経営ならおかしくないことだが、反発は大きかった。
それぐらい自分でどうにかしろというのが、あの人のやり方だが、神経をすり減らす毎日に疲れてしまった。
だから気分転換でもと、秘書が思いついたのは理解できる。
だが、勝手に気を回されて、自分の意にそぐわないことをされるのが梶は大嫌いだった。
そのせいで大事なものをなくしてしまった。
自分のせいであの人は……
グシャリと音を立てて、梶はペットボトルを握りつぶした。
眉間に皺を寄せた梶だったが、頭の中に思い浮かんだのは、困ったように笑う口元だった。
退勤時、エレベーターにトラブルがあって、会社の清掃員と二人で閉じ込められてしまった。
時間も遅かったし、疲れていたので早く帰りたいと思っていた。
最悪だとイラつきながら、壁にもたれてため息をついたのを覚えている。
でもそんなイラつきも、佐倉という清掃員の一言で嘘のように飛んでいった。
¨災難でしたね¨
佐倉はそう言って困ったように笑った。
その顔が妙に懐かしく思えて、胸を打ったような気がした。
見ればボサボサの長い髪でほとんど顔は隠れているし、剃り残した髭もあって、清潔感という面ではひどいものだと評価するしかない。
一緒に乗ったのが女性社員であったなら、怯えてしまうくらい陰気な印象を受けた。
しかしその声は、驚くほど柔らかくて耳に馴染む優しい声だった。
このアンバランスは何だろう。
興味を持って返事をしてみれば、佐倉は話に乗ってきたのが嬉しかったのか、先ほどよりも明るい口調になって話しかけてきた。
会社の役員と、その会社のビルで働く清掃員。
初めはその名前が気になって声をかけてしまった。
仕事も立場も何もかも違う関係なのに、不思議と空気が合うというか、彼と話していると胸に溜まっていた黒いものが消えていくような気がした。
向こうからしたら、話しかけにくい相手であることは間違いない。
閉じ込められた恐怖から逃れたいのか、隣にいる梶に一生懸命言葉を選んで話しかけているように見えた。
緊張して上を見たり下を見たりしている様子をじっと見ていると、信じられないことに可愛いと思ってしまった。
おそらく自分より年上で、モサっとした不気味な男に見えていたのに、どんどん可愛く見えてしまうことに目を瞬かせた。
梶も背は高い方だが、向こうも背が高く、自分より少し小さいくらいだった。
全体的に細身で、作業服はブカブカで体から浮いて見えた。少し痩せすぎなくらいなのかもしれない。
話しながら観察していたら、隠しきれない彼自身の輝きのようなものが、前髪の隙間からそっと見えた気がした。
ベータのようには見えない。
しかしオメガとも違う。
纏う空気にはアルファのオーラを感じる。
少し肉がついて、スーツを着こなしたらモデルのように見えそうだ。
やはりアルファかと思った。
それなのに、アルファ特有の強烈な欲の匂いはカケラもなく、あるのはどこまでも透明な美しさだった。
なんて不思議な人なんだろうと、気がつけば座って夢中で話していた。
立場が違うから、初めはそう思ったのだが、彼自身が纏う空気がどうも心地良い。
自分の胸の内をするする話してしまい、彼が答えてくれる一言一言に癒されているのを感じていた。
もっと近づきたい。
他者を拒否するように引いている線の向こう側に行ったなら、彼はどんな顔をするのだろう。
それが見たい。
単純な好奇心。
きっとそうだ。
周りにいないタイプだからこそ、新鮮な気持ちが湧いた。
それだけ……
ペットボトルをゴミ箱に捨てた梶はゆっくり歩いて寝室のドアを開けた。
そこに広がるのは、梶の楽園だ。
何もかも忘れて浸ることができる。
自分だけのサクラメント。
「久々によく眠れそうだ」
ベッドの上に目を向けたら梶は、うっとりと微笑んで静かにドアを閉めた。
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