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年越しの儀
儀式前日(1)
しおりを挟む車は山間の道を走っている。
広葉樹は葉を落とし、幹がその形をさらけ出している。枝にわずかに残った枯れ葉は、今にも飛ばされそうに風になぶられている。
路肩にはあちこちに土に汚れた雪が寄せられ、そのまま固まっている。丸みを帯びた形は、まるで生き物がうずくまっているようだ。日陰のものはもちろん、日向のものもまだ形を保っている。
車窓を流れるそんな風景を見るだけで外の寒さが思われ、身が震える。膝に掛けているコートを引き上げ、遥はため息をついた。
「エアコンの温度を上げましょうか?」
隣の則之が遥の顔をのぞいた。遥は苦笑いを浮かべた。
「いや、それは大丈夫。でも外は寒いんだろう? 当然水も冷たいんだろうな」
「禊ぎのことでございますね。外気温より水中の方が温度は高いと存じます」
「それじゃ今度は水から出られなくなる」
不平がましく言うと、則之がうなずいた。
「それは確かに。ですが、隆人様がご一緒ですから大丈夫でございますよ」
遥はただ苦笑を返した。
凰となって初めての年越しを迎える。
加賀谷の鳳と凰は毎年大晦日から三が日の間、年越しの儀のために本邸で過ごすことになっている。
儀式には禊ぎが欠かせない。明と宵の二回ずつ、四日間で計八回だ。
嫌そうな顔をした遥に、それを毎年行ってきた隆人はあっさりとこう言った。
『冷たいのは事実だが、ずっと浸かっているわけではない。そんなに怯えるな』
その一方で、遥の健康診断を行った家庭医の滝川亮太郎は不安を訴える遥にこう返した。
『確かに長い鳳と凰の歴史の中では、年越しの儀で体に変調を起こした事案がなかったとは申しません』
もっとも心電図のデータを見た亮太郎には『これだけ元気そうな心臓なら大丈夫』と太鼓判を押されたが。
またため息が口をついてしまう。
だいたい年越しの儀の内容も問題なのだ。
遥が年越しの儀についての定めの書があると聞かされたのは、捧実の儀が終わった後だ。しかもそれは、和綴じ、墨書き、くずし字という代物だという。そのままでは遥にはまったく歯が立たない。それを諒が読みといてパソコンに入力し、印刷したものを遥に渡してくれたのが十二月の頭。そこから諒の指導の下、古語辞典を片手に読んだ。
一つの儀式としては長文の「年越しの儀」の定めを遥が目を通しおえたのは、一昨日だ。
まず思ったのは「嘘だろう?」だった。
ずっとつきあってくれていた諒が目を合わせようとしない。
「これ、知っていたのか?」
「いいえ。パソコンに入力したときに初めて知りました」
すまなそうにする諒から視線をはずし、そうか、とつぶやく。諒が言い訳めいたことを口にする。
「年越しの儀は御本家の方のみで行われる秘事ですので、部外の者は知らないのです」
再び諒を見る。
「世話係はもう部外ではないわけだな」
「はい。おそらく本邸に到着しましたら、私どもは儀式の内容を他言せぬことを誓うことになるでしょう」
「血判でも押すのか?」
皮肉のつもりで言ったのに、真面目な顔でうなずかれた。
「血判か、それに近いことになります」
遥は目を丸くした。今の時代にそんなものを取って誓わせる集団が存在していることが信じられない。もっと奇異に感じるのは、諒たち桜木を含めた加賀谷の一族はそんな自分たちに何の疑問も感じていないように見えることだ。
もっとも疑問を感じたなら、延々とこんなことを繰り返しはしないだろう。
そして、遥も加賀谷の一族に凰として受け入れられることを承諾したのだから、凰の定めからはもう逃れられない。
読んだ文面の上に手を置き、ため息混じりに言う。
「これが俺のやるべきことだと決まっているのなら、仕方ないからやるけど」
「ありがとうございます」
諒がほっとした顔を見せたのに、苦笑が浮かんでしまった。
そのようなやりとりを経て、遥は十二月三十日、則之、諒、基という三人の世話係を従え、本邸に移動していた。
ふと思いだし、則之に訊ねてみた。
「結局俊介は来ないのか?」
「参上できないと桜谷隼人より連絡がございました」
則之の眉尻が下がっている。
「ご期待にそむき、誠に申し訳ございません」
「あいつの居場所、知ってるのか?」
疑問を素直に投げると、則之が首を横に振った。
「わたくしどもも存じません」
「お前たち桜木の当主なのにか」
則之からストレートな返事は戻ってこなかった。
「俊介は畏れ多いことではございますが、隆人様からご信頼いただいております、ただ遥様のお世話係としての務めを十分に果たせないとなれば、任を外されるのも致し方ないかと存じます」
「心配していないのか、と訊いたんだよ」
則之が困ったというように眉を寄せた。その表情に遥は後悔した。
心配していないわけはないのだ。任を外されている者を心配と口にすることは、それだけで主――すなわち隆人への不信と見なされてしまうのかもしれない。
思わず頭を下げた。
「ごめん」
「謝罪など口になさってはなりません」
きっぱりとした則之の口調に遥は息を飲んだ。
「則之」
運転席から諒が則之をたしなめた。だが、則之は遥にしっかりと顔を向けている。
「従者にとっては主の判断や決定なさったことのみが真実でございます。もし誤ったこと、心苦しいことを口にしたと思われても、従者に詫びてはなりません。別のお言葉で解決をなさってください」
そのまま則之が視線を逸らしてしまったので、問い返すことができなかった。
則之は過敏な反応をした。もしかすると則之たちは遥が考えている以上に俊介について心配をしているのかもしれない。
いつもいる人がいない。それはひどく不安をかき立てることだ。
遥も父が亡くなったとき、心に穴が開いたような虚脱感に苦しめられた。父は遠からずずれこの世を去るとわかっていたが、それでもショックだった。
俊介は親たちが亡くなってからずっと弟や従兄弟達を保護者のように守ってきたという。その俊介の現在の状況がまったくわからないまま何もできずに帰りを待つことは、家族にとって耐え難いに違いない。
車窓を流れる木立を眺めつつ思う。
おそらく則之も年越しの儀までには俊介が戻ると予想していたのだろう。それを裏切られて不安や苛立ちがあるのかもしれない。
さっさと戻って来いよ、俊介。皆がお前を待ってるんだぞ。
心の中で呼びかける。
車の中の重い空気を払うため遥は大きく伸びをした。
「あーあ、本当に早く帰ってこないかな。下ネタをたっぷり用意して待ってるってのに」
則之と基が噴きだした。運転席の諒までが笑う。車内が穏やかになった。
遥は微笑みを浮かべたまま、ふっと息を吐いた。
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