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夏鎮めの儀
1.出迎え
しおりを挟むその日は朝からそわそわしていた。それというのも約一ヶ月ぶりに梅雨が明けた東京に桜木俊介が戻ってくるからだ。今日の世話係の基と諒には微笑われたが、待ち遠しいものはしようがない。
世話係は桜木家の全員で七人。しかし俊介だけが最初の監禁から遥の世話をしてきた。憎んですらいたが、すぐ側で一対一の世話をされているうち、そして遥と隆人との関係が変わるにつれて印象がマイナスからプラスに転じた。最も信頼する世話係だ。
それにからかい甲斐もある。
俊介は隆人の調教のサポートをしていたくせに、下ネタに弱いという信じられないほとウブな、言い換えると馬鹿がつくくらい生真面目な男だ。
『俊介ー、隆人がちっとも来なくてムラムラしてきたから、お前の手でしこってくれよ』と手をつかんで股間に当てさせて迫ったときの、恐怖に凍りついた顔は涙が出るくらい笑わせてもらった。
その後顔を真っ赤にして、俊介にしては珍しく怒っていたが、それもまたかわいいレベルだった。
遥には何も言えない分、湊に当たり散らしたらしいが、すました顔の裏側にそんな一面を隠しているのかと思うとますます興味深い。
儀式については任せておけば安心と思えるのも、信頼できる由縁だ。
今は任務で空けた期間に衰えた分を厳しい稽古で取り返すという、非常にストイックな理由で、遥の前から姿を消している俊介――
早く遥の日常に帰ってきてほしかった。
遥をさんざん待たせた人物は、午後にやっと姿を見せた。
「ただ今戻りました」
「遅い!」
俊介が申し訳なさそうな顔をしつつ、頭を深く下げた。
「大変お待たせして申し訳ございません」
遥の、作った不機嫌はすぐ消え失せ、首を振る。
「いいよいいよ。無事に戻ってきてくれれば――って、俊介、痩せた?」
記憶より顎のラインが鋭くなった気がする。
「体が引き締まったのだと存じます。体重は減ってはおりませんので」
にこにこしている俊介のまわりを回って、しげしげとその体型をチェックする。細くなった気がする。
「筋肉の方が脂肪より少ない量で重いというから、深くは追求しないけどさ」
だが、遥は後でこっそり湊か則之に体型についても聞くつもりだった。一ヶ月ではっきりわかるほど顔が痩せるとは、いったいどれだけハードな修行をしているのか。
俊介のいない間、一度だけ桜谷の運営している道場に視察に行ったことがある。
無限と思える素振りや型稽古、激しい打ち合い、見ているだけで痛くなりそうな筋力トレーニング等々、遥には馴染めそうにない世界だった。
ただこの稽古を乗り越えて、隆人や遥を守ってくれる桜谷を始めとする人々がいることには、感謝しかない。
だが俊介のしている稽古とは恐らくそれを超えたところにあるらしい。技術のみならず、精神的な高みをも目指しているのだと、隆人から聞いた。
「茶を入れてくれよ。久しぶりに俊介の煎れたのが飲みたい」
「かしこまりました」
基とともにキッチンに向かう後ろ姿も、やはり細いと思った。
『俊介は筋肉がつきにくい体質なのは事実です』
稽古場での休憩時に稽古着の中を拭っていた則之に声をかけた。さっと稽古着に隠される前に見えた腹筋は見事に割れていた。
『ただ俊介の強さはそれを超えたところにあります。わたくしは未だに十本戦って三本取れればいい方ですから』
集中力や動体視力、反射神経、先読みの能力が道場随一なのだそうだ。師範代である桜谷隼人ですら真剣ならば敵わないだろうと則之は言った。
『恐らくは奥義の修得と関連があるのでしょう』
それがどんなものかはわからないが、俊介は才能と努力で磨き上げられた天才なのだと桜木たちは言う。
遥としては天才でも凡才でもいいから、納得するまで稽古をすませて一刻も早く本格的に戻ってきてほしい。
「ああ、やっぱり俊介の煎れてくれた茶が一番うまい」
茶碗を手に思わず笑んだ遥に俊介が、ちらりと基と諒を見て答えた。
「皆の煎れ方をチェックしないといけませんね」
「相変わらず真面目だなあ、鬼軍曹」
「は?」
俊介が反問した。
遥はあっと思った。それだけで俊介にはわかってしまったらしい。にっこりと笑った。
「遥様、後で湊とじっくり話をしたいと思いますので、お時間をちょうだいしてもよろしゅうございますか?」
(湊、ごめん)
そう心の内で謝りつつ、遥はこくこく頷いた。
ごまかすように話題を変える。
「結婚相手はどうだ。見つかりそう?」
俊介らしくもなく、露骨にうろたえたのがわかった。
「申し訳ございません。何分技量の衰え著しく、その回復に励んでおりましたため、その、結婚のことなどはいっさい頭に浮かばず……」
遥はソファの背もたれに身を投げ出した。
「みんな見る目ないなぁ」
俊介は困ったような顔をしている。
「桜木の当主と結婚するということは、一族の女性にとって大変な決意を必要といたしますので……」
言外に理解してほしいという気持ちが察せられた。
遥は肩をすくめる。
「まあ、確かに俊介は『妻より主』ってタイプだしな」
ほっとしたように頬を緩めた俊介を見た時、遥はふと思い出したことがあった。
「俺が風邪をひいた時のことを覚えてるか?」
「はい、お熱が上がって大変お辛そうでしたね」
「夜、俺が言ったことは覚えているか?」
俊介は曖昧な笑みを浮かべ首をかしげたが、遥は直感的にわかった。
俊介は覚えている。
そこで釘を刺した。
「俺はお前の子どもを抱くの、諦めてないぞ」
いつも冷静沈着な俊介の、これ以上ない困り顔を目撃した遥は、得をしたとほくそ笑んだ。
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