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1.主従の朝
(後)
しおりを挟む澄人の家、白井家は江戸時代は武家だった。主家を失った後、剣術道場を開いて代々続いてきたが、世情混沌とした幕末期に道場の維持はおろか、日々の食事にも事欠くようになった。当主白井孫三郎は生きるために一族全員で、大商家であった紅林家に雇われることを選んだ。それ以来、代々紅林家に護衛から奥向きの用までさまざまな分野で仕えている。
明治期に紅林家は商いで得てきた豊富な財を注ぎこみ、土木建築請負業に手を広げ、十分力をつけた上で建築業を分家させた。泰徳はその建設会社KUREBAYASHIの家系の一人息子で、澄人もそちらに仕える白井家四人兄弟の三男だ。
澄人と泰徳は同学年で、五月生まれの泰徳に対し、澄人は翌年三月生まれである。誕生後すぐに澄人は、泰徳の小学校入学時から「影」と呼ばれる護衛兼世話係として側に上がることが決められた。物心つく前からいざという時は泰徳の盾になれと教えられ、護身術や合気道で身を鍛えた。同時に泰徳と同じ小学校に入学するための受験勉強もした。泰徳が幼稚園から高等部までを擁する鳳集学園に入園したためである。
泰徳の幼稚園通園は紅林家の車で送迎されていたが、泰徳の祖父の方針で、初等部からは一般の生徒と同じように公共交通機関を使うことになっていた。澄人はその通学時の護衛として必要とされたのだ。
初等部合格後、澄人は初めて紅林邸内に足を踏み入れた。広間で対面した泰徳は既に主の風格が備わった凜々しい少年だった。澄人を見て鷹揚に笑み、よく通る落ちついた声で話しかけてきた。
「お前が澄人か。可愛らしい顔をしているが、大人をも投げ飛ばす手練れと聞いている。これからよろしく頼む」
「はいっ、精一杯おつとめさせていただきます。よろしくお願いいたします」
平伏しながら、澄人は高揚する気持ちを抑えられなかった。自分はこの方を守るために生まれ、努力を積み重ねてきたのだ。主の温かな声音には澄人への親しみと信頼がにじんでいる。そんな泰徳に仕え、守れることがうれしい。自分の身を盾にしても守るべき方だと実感した。泰徳と同じ髪型にしてもらったのも、澄人から申し出たことだ。紅林家にとって白井家の者は取りかえのきく駒に過ぎないとしても、泰徳のためになら自分の身など惜しくない。事実澄人は命を賭けてきた。
習い事――珠算も学習塾も造形教室も水泳も、すべて泰徳の希望に合わせてともに通った。長じて同じ大学で建築を学んだのも、卒業後泰徳とともに二級建築士の試験を受けて資格を取ったのも、泰徳の側に在り続けるためだった。
そして今、社会人としての澄人は株式会社KUREBAYASHIの第二開発本部商品企画部第二企画課で、課長たる泰徳の部下として働いている。
六本木駅から日比谷線に乗る。役員になるまでは一般社員と同じように通勤せよという祖父の教えを泰徳は守っている。当然澄人も一緒だ。ラッシュの特に激しい八時より前に乗車するが、それでも他の乗客と体が触れる。今朝は特に混んでおり、五月中旬の車内は空調が働いている。澄人は泰徳をシート前の吊革のある位置に通して、自分はその隣で何も掴まらずに立っていた。
「大丈夫か?」
百八十三センチの泰徳が八センチ低い澄人を気遣ってくれる。澄人は、はいと答えて笑みを返すと泰徳も微笑みをくれた。そのとき、振動で車両が揺れた。よろめいた澄人は左の脇腹に違和感を覚え手で押さえた。古傷が引きつれたのだ。そんな澄人の腕を、吊革を放した泰徳が掴んでくれていた。
「あ、ありがとうございます」
澄人は頬が熱くなる。毎日乗っているから揺れがあることはわかっていたのに、泰徳に見とれたせいで油断した。くっくっと泰徳が笑っている。澄人は恥ずかしさに下を向いた。
下車駅の茅場町駅では、しっかり泰徳の前を歩いて通り道を確保した。
「役目、ご苦労」
冗談めかした言葉だが、泰徳に言われるとうれしく、身も心も熱くなる。どんなにささやかでも泰徳の役に立つことが澄人の喜びで、それは幼い頃から変わらなかった。
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