なぜ柿の木の枝は切られたのか

雲野蜻蛉

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なぜ柿の木の枝は切られたのか

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 ベッドから降りた私はカーテンの隙間をすり抜ける朝の陽をあびて、あくびをしながらぐうっと身体を伸ばした。
 まだ彼女は夢のなからしい。とっくに暖かくなっているのだし、もうふたりで寝る必要などないのだが、とかく彼女は私をベッドに連れ込みたがる。しょうがないから、気の向いた昨夜はこうして付き合ってやった。
 私は後ろから前におおきくストレッチ、顔洗い、ヘアセットといった朝のルーティンを着々とこなし、本日の体調はいかに、と自身の体と対話する。
 日々の健康をまもる大切な時間である。そうしてやっと、私は部屋にある立て鏡に自身をうつして最終確認をするのだ。



 鏡のなかでは、すこしぽっちゃり気味の黒と白をしたタキシードキャットが、ニヒルな笑みを浮かべている。
 よし、私は今日も完璧だ。
 かるく食事と水をとった私は、ふたたび彼女の部屋へとひき返し、眠っている彼女のうえにとぴのると、起きるよう催促する。その愛らしい唇にポンと手を乗せて待つこと三十秒、「んー」という若干迷惑そうな声とともに覚醒するのもまた、彼女の朝の日課であった。





 まだ細い目をした彼女に見送られて、私は朝の散歩に出かける。
 季節は春。そろそろ桜も散りかけんかという時分で、山野にはいろんな活気づいたものがあらわれ、我々の五感を刺激する。じつによい季節だ。

 我々のすまうマンションは、ブナやらコナラやらのそろう、いまどき珍しい雑木林の真ん中にぽつんと建っている。人間の界隈では不気味、日当たり悪そう、妖怪アパート、などと呼ばれているが、どういたしまして、そんなことはない。アパートの周囲はポッカリと空いていて、これで日当たりは結構良好。洗濯物なぞもよく乾く。ぽかぽかとして、昼寝スポットにこまることもない。
 我が同居人たるリナは、私が仔猫のときから一緒にいる、よき相棒だ。ときおり異常な甘えグセを発揮する以外は、我々猫のこともよくわきまえており、生活をともにするにはまあ、わるくない相手といえる。だがもう成人なのに、いっこうにお相手をウチに連れてくることがないのが、目下私の心配事のひとつだった。くるのは賑やかな女友達だけ……
 たしかに彼女は私のものだし、私にぞっこんなのも知っているが、いかんせん猫と人。こればかりはどうしようもないので、はやく良い相手を連れてくればいいのにと思う。可能な限り、あまく採点してやるつもりではいる。


 まだ朝露がすこしのこり、林も奥の方をみればまだ暗い。緑の香がたちこめ、あたりには野生の雰囲気が立ちこめていた。
 はて、今日は何ごとかおこるのか?
 私はヒゲの先が、妙な予兆を感じとった気がした。
 いけないいけない。今日はいい日なのだ。気分を入れ換えよう。私は元気を取り戻すと、さくさくと草を踏んで散歩を再開した。
 まず最初のたち寄り処は、このままゆけば人間でも迷うことなく着ける、まあ我らのよき隣人である。









 我が家をでてすこし林のなかを進むと、なかなかオツな館が木立の向こうから姿をのぞかせる。二階建ての昔風なモダンな造りで、壁は黄色く、大きめの屋根などや柱などの木材はふかい飴色の、まことにけっこうな館だ。
 二階の窓にとどくほどの大きな柿の木がウリで、私はここの柿の木の枝でひと休みするのが好きだった。今日も一服つけようとやってきたのだが……
 木を見上げた私は、あまりのことに思わずあんぐりと口を開けたままにしてしまった。


 ない! 柿の木の枝が、一本たりとなくなっているではないか!


 何としたことか。これではむこう一年はこの木で気怠い午後の微睡みまどろを過ごすことはできぬではないか。我々にとって、それは気の遠くなるほどの時間だ。
 これはとても調べずにはおれない。ただちに調査を開始しなくてはならぬ。私の好奇心と危険予知本能がむくむくと頭をもたげた。


 まず考えるべきはなにか。


 私は木を見上げてすわり込み、尾の先をふりながら思案にふけった。
 我が友人をこんなにした相手──つまり犯人をとっちめてやりたいと思うのは勿論だ。だが、それをつきとめるには大して困らぬだろう。これをやったのはまず人間で、あとはこの舘の外の者か内の者か、というだけの話だからだ。
 外の者なら嫌がらせならまたやって来る可能性もあるし、二、三日はりこんで、夜中にでもこようものなら死ぬほど脅かしてやればいい。
 内の者ならあきらかに、この舘に利があってやったこと。こちらの方はまあ、部外者の私がどうこう言えることではないので、理由如何によっては我慢してやらぬこともない。
 というわけで、まず考えるべきは「なぜこの木の枝は切られてしまったのか」という、原因の方である、と私はそう考えた。

 最初、考えられるのは、この木に何かがあって、結果丸坊主にされてしまった──つまり木自体が原因である場合だ。
 私は柿の根本周辺の匂いをかぎ、かるくツメを研いでみた。こうするかぎりは、別段この木に異常はみられない。
とすると次にくるのは、この木に関係するなにかが原因である、という場合ケースか。
 だがこれには様々な可能性を考慮しなければならない。それにはまず、この舘の住人について把握しておきたい。それについて私にはうってつけの友人がいる。





 いったんその場を離れた私は、いつもの散歩コースをたどり、ぐるりと雑木林を一周して、川沿いの道へとでた。そこをゆくと、四段ほどの低い階段のある小径をうかがう場所に出る。じつはここは我がアパートの表口にあたるところで、それを控えめにつげるすこし錆びた看板が、表札代わりに古ぼけたフェンスにかかっている。彼はいつもの時刻どおりぴったりに、そこにいた。


「やあ、きょうも時間どおりだね、とむ」
 私は体の大きな灰白の猫にそう呼びかけ、小走りにかけよった。直前で歩速をゆるめ、鼻と鼻同士の猫式挨拶をかわす。
「やあ、君も元気でなにより」
そうこたえ、とむはうぐいす色の瞳をほそめた。

 とむ。あまり社交慣れしていない私の、数少ない友人のひとりである。

 さっきものべたとおり体の大きな奴で、世間でいうところのさばネコという毛柄をしている。口のあたりから胸、腹にかけて白く、ほかは灰色の地に黒の縞がある。長い尾の先がすこしかぎのように曲がっていた。四本の脚すべて靴下をはいたように白いが、ゆいいつ、左後足のそれのみがだらしなくズレたように短くなり、そこにすこし茶が混じっているあたり、多様な家系の変遷をうかがわせる。
 ちなみに名の由来だが、本人によると、昔テレビで人気だったらしい、小賢しい鼠にいてこまされまくる間抜けな猫からではなく、恐れおおくも外国文学の主人公からきているらしい。(たしかに毛色はそっくりなので勘違いされても仕方がないのだが)とおく離れた故郷に、ソックリの姿をしたソーヤ、という弟がいる、といえばわかるだろうか。
 いつも一本橋をわたった川の向こう岸から、ここまでやってきている。
 おっと、すこし紹介が細に入りすぎた。先をつづけよう。


「どうした? いつになく慌てているようじゃないか」
 彼はひくい凸凹の下段にゆっくり箱座りしながら好奇の目をこちらにむけた。私も上段に位置どり、ひと息つく。歳では彼のほうが先輩だが、ここは私のテリトリーであるため、彼は遠慮してくれているのだ。このへん、意外に気働きのできるよい奴なのである。
「ああ、じつはさっき、お気に入りの木の枝が切られているのを発見してね。これはぜひ、確かめておかねばと発奮していたところだったんだ」
「へぇ」とむはチラリと薄目をあけた。
「あいかわらず変わりごとに敏いね。で、なにが聞きたいんだ?」
 一見気のないフリをしつつも、私に負けぬ好奇心の持ち主である彼はここいら一帯を隅々まで歩きつくし、多種多様な情報に通じていた。
「あの舘のことについて教えてほしい。とくに住人のことなんかを」
「そうさねぇ」
 彼は思い出しているのか、それとも温かさを増してきた午前の日差しに眠気を誘われたのか、ゆったりと瞼を閉じ、思案にしずんでいた。
「そうそう、あすこには素敵な女性がいるね。深窓の令嬢っていうのかな」
「素敵な女性?」
「白い長毛の上品なレディさ。僕はマダムって呼んでいる。残念ながら外には出ないのでお近づきにはなれないが、昼下りによく窓越しに世間話をするよ」
 ほう、そんなご近所さんがいたとは。ついぞ知らなかった。
「ほかには、そこのご主人である老婦人がいるらしい。又聞きだがね」
 なるほど。ではあれをやったのは、そのご主人ということになるのか?
 だがまて、と私は肩先の汚れをなめて落とした。
 例の柿の木は、まえにも述べたとおり、二階の窓に届くほどの高さなのだ。その枝をキッチリ丸々落とすことなど、そんな老婦人にできる業だろうか。かりに出来たとして、どんな利があるというのだろう。
 だがまあ、これでとっかかりはつかめたわけだ。その「利」こそが、動機ということになるのだろうから。
「なるほど。助かった。また家にも寄ってくれ。歓迎するよ」
 私は友にそういうと、訪問の仕方をまとめるためにも散歩のつづきに戻った。








 昼下り。自宅にもどった私はキッチリ補給をすませると、お隣さんにむかった。訪問の目的は、その深窓の令嬢に面会するためである。
 正直、これで初対面の相手を訪れるときは緊張する。猫本来の細心さというだけではなく、私個人の問題なのだろう。
 そこいらに咲いていた花の迷惑などお構いなしに、私は二、三度ごろごろすると、覚悟をきめて出発した。



 とむの勧めとおり、私は裏庭へとまわった。
 側面には大きなガラス戸があり、カーテンがかかっていたが、その隙間から体半分をのぞかせるようにして、くだんの猫はいた。
 確かに美猫である。どこまでも白く優美にのびた毛並みは艶があり、そのつんとした形の良い鼻のうえにある、美と深淵さが共存した蒼の瞳が私をとらえた。
 深窓の「令嬢」というにはすこしばかり熟しておられる。おそらく歳は十歳をこえているらしいが、ぱっと見は私と同年ほどにしか見えぬ。まさしくその姿は、ひと目みたどんな雄猫の猫心をも惹きつけずにはいられないだろう。
「失礼、マダム」
 私はできうる限りの上品を装って座った。
「とむから紹介をうけてやってきた者です。出来うるならスズメでも贈物としてもってきたかったのですが、なにぶんお部屋内からはお出にならぬとのことだったので」
 本来ならば歳上に食べ物を贈るというのは失礼だろう。しかしこの方は人間社会での生活がながいとのことだったので、私はそちらに従った。当然ガラスにへだてられて声はきこえぬ。だが我々には発声をともなわない会話の術がある。
「あら、これはご丁寧に」
 マダムはすずやかにいった。
「でも私、スズメはたしなみませんの。それに贈り物なら、貴方のおぐしについた色とりどりの野花の花弁で充分でございますわ」
「これは………どうも」
 私はちょっと決まりがわるくなって、すこしなめて毛並みをととのえてから切り出した。

「じつは私、近所に住んでおります。いつもお宅のお庭を拝見するたび、立派な柿の木に見惚れておりました。そこでまあ、ありていに申せば、時折枝のうえに失礼して結構なひと時を過ごさせて頂いたこともございます」
「………あら、そう」
意外にも、マダムはすこし懐かしいそうに目を細めて私を見つめ返した。
「それが今朝通りかかりました際、その枝がすべて切り落とされていたのです。それで勝手ながらご心配もうしあげたました次第です。ご承知だったでしょうか」


 マダムは一瞬おおきく目を見開いた。そしてとてもちいさく「そう、それで」とつぶやいたのを、もちろん見逃す私ではない。
「もちろんですわ」
マダムはきりりと胸を張るようにして言った。
「この家のことについて、私の知らぬことなぞございません」
「ごもっともです」私はすこし彼女の機嫌を損ねてしまったのではと心を配りながらうなずいた。
「もしよろしければ、理由などお聞かせ願えませんか。また、なにかお手伝い出来ることがございますなら──」
「なにもございません」
 マダムはピシャリとにべもなく応える。
「貴方のお力をお借りすることなど、当舘には何ひとつございませんわ。ずいぶんとお節介な方のようですけれど、まあ、ご近所さんであるならばご親切と受けとらせていただきましょう」
ペロリと手をなめる。
「いまあの部屋には──あの柿の木の枝がとどく部屋には私の世話人が寝起きしておりますの。少々具合が良くないので、すこしでも明るい部屋にということで寝かせております。枝を切ったのも、陽当りをよくするためです。
 これで宜しいかしら?」
 その一語は、有無を言わせぬ会話の終わりを告げていた。もうこれ以上、マダムから話を聞きだすことは無理であろう。私はあきらめて礼をすると、その場を後にした。



 ──と、そんなふうに見せた。そう、見せておいただけだ。一時間ほどだっても私はまだ近辺の草陰にひそみ頑張っていた。
 よく飽きっぽいと揶揄されるが、元来猫は辛抱づよいのだ。獲物を狩るためなら一時間だろうが二時間だろうが粘っていられる生き物であることを、この際申し上げておこう。
 マダムの言っていたことは、まあ、全部が全部まちがいではないのだろう。だが私には直感があった。
 マダムはほんのすこしの真実のうちに、おおきな嘘をつつんでいる。




 今日いますぐに何事かおこって、その嘘を暴く発端になるとは、さすかに私も思ってはいなかった。だが、機会はつねに待っているものにしか訪れないはずで、今日から備えておいても、決して無駄にはならないだろう。
 と、そんなことを考えながら待っていると、まったく今日の私はツイていることがわかった。

 舘の表道にあたる方から、ザリザリと砂利を踏む車の車輪の音が聞こえてきたのだ。
 この家にはマダムとそのバートナーである老婦人しかいないという話だ。であれぱ、これからやってくる人物は部外者ということになる。それだけで、なにやら剣呑な雰囲気がする。


 表道のはてに乗りつけたのは、道でよくみかけるタイプの車だった。
 私は自動車には詳しくない。冬などちょっと寒い時期にその鼻のうえに乗って暖をとるくらいであり、その際の良し悪ししか論じることはできない。が、この車はどちらかといえば街中の上品なアスファルトよりも田舎の砂利道のほうが似合っているように思われた。
 バタムと音をたててドアを閉めたのは、なんとも厳つい様子の中年男だ。背丈はそれほどてもないが、腹回りに貫禄かあり、骨格もしっかりとしている。怒らせれば恐ろしい腕っぷしを発揮しそうなやつである。
 男はどこか不機嫌そうにし、吸っていた煙草をプッとはき出すと、靴の裏でぐりぐり踏んで消して、舘のドアへむかって歩きだす。手前までくると上着のポケットからヂャラリと音をさせて鍵の束をとりだして解錠、ゴチャリとドアを開けて入っていった。
 私は大急ぎで草陰からとび出すと、車の車輪の臭いを嗅ぎ、念のためにマダムがどこかから見ていないか確かめたあと、注意ぶかく柿の木にはしった。まるで足場のようになっている壁面の飛び段ブロックを登って、もうこれ以上近づくと見えてしまうというギリギリのところまで部屋に近づく。
 なかではどうやらふたりの人間が話をしているらしかった。ひとりはあの大男、もうひとりは女声なので例の老婦人だろうか。残念ながら今日は雨戸が閉まったままになっていて、猫の聴覚をもってしても詳しい内容を聴きとるまでには至らなかった。
 やがで議論が白熱でもしたか、男のほうが声を荒げると、乱暴にドアを閉める音がきこえた。 
 私はいそいでその場を降りると、男がでてくる前に草むらの中に飛びこんだ。当然男は見張られていたことに気づくこともなく、ふたたび表のドアに施錠すると、車に乗ってどこへともなく帰っていった。







 これで少しずつ見えてきた。鍵を握るのはあの大男で間違いあるまい。おそらく柿の枝をはらったのもそうだろう。高い所まで登るには立派な腹回りが邪魔かもしれぬが、梯子をつかえばやれそうだし、人間には猫にも発想がおよばぬ便利な道具がいろいろある。
 だが今やそれはどうでもよい。事は思いがけなくも、重大な様を呈してきた。
 私は背筋が震えるのを感じた。
 これはれっきとした犯罪ではないのか。あの男はマダムと、力では抵抗できない老婦人になんらかの圧迫を加えているのではないのか。そしてマダムは、老婦人に危害が及ぶのをおそれ、あんなことを言ったのではないのか。
 やはり確かめずにはおれぬ。私は意を決すると、もと来た道をとって返した。



 次の日。私は一日を柿の木舘の周辺で過ごした。あいにくと天気はご機嫌とはいえず、朝から曇って空気が重い。こんな日に我々がしゃっきりとしているのには中々骨が折れた。
「今日はもうこないんじゃないか?」
 心強くも、助っ人をたのんだ私にふたつ返事で快諾をくれたとむが、仮眠から醒めて大あくびをしながらいった。
「なにも毎日くると決まったわけでもないんだろう?」
「そうかもしれない。でもあのとき、車のタイヤの臭いを嗅いだとき、すごくしっくりくる感じがしたんだ。あのタイヤはすくなくとも私達がよくしる草や泥を踏んでいる。だからきっと近いとこに住んでいるんだよ」
「ふーん」
とむは私の名予測にたいして興味もなさそうにつぶやくと、薄目を館のほうへむけた。
「きっと近いうちにくる。今日はすこし遅くなりそうだけど、平気かい?」
 我々にも門限、という厄怪なものがある。あまりに遅く午前様にもなろうものなら心配されて、しばらくウチに缶詰にされるなんてこともあり得る。
「家はまあ、少し遅くなってもオーケーさ。僕がひと声かければすぐに起きてきてくれるし」
「そんなには遅くさせないよ。大丈夫、人間は我々ほど夜長は出来ないんだから」

 その予感はあたった。陽が傾いても我々ふたりがならんでじっと待っていると、人時間で夜九時を過ぎたあたりだろうか。暗いなかあのジャリジャリとわだちをふむ音がきこえて、例の車がやってきた。
 とにかくなんとかして家のなかに忍び込めぬものか。それさえ出来れば、マダムも観念して協力してくれるだろう。ふたりを救う道も開けるはずだ。無謀かもしれない。全くの的外れかもしれない。それでも我々はやるつもりだった。
 私達はヒゲで合図をしあうと、のっそりと暗がりから出て、男に気取られぬよう背後にまわった。 
 とそのとき、男が鍵束を落とし、それを拾おうと身をかがめた。ドン臭くもその男はみずからの足でその鍵束をちょっとだけ後方に蹴ってしまった。男は舌打ちしてそれをおって若干身をひねる。

「!」

ああ、なんたる残酷さか。運悪く、本当に運悪く、我々とその男の目が合ってしまったのだった。さらに運の悪いことには、男が暗いなか探しものをするために懐中電灯を取りだしていたのだ。
 パッと、するどく白い光が私達を射抜く。
「──おまえッ!」
 最悪だ。私の腹あたりを彩る白毛は光のなかでよく映える。さらに最悪なことには、相方とむのデカい灰白の身体は、さらに目立つ。
「戦略的撤退!」
 私は叫ぶと、いっさんに回れ右して駆け出した。ありがたいことに人間は追っては来れぬ。この夜道を我々のように素早く動くことが出来る者なぞ、そうそうはいない。










 まったくの惨敗だった。まさに運命の罠とでもいうべきか。いかな猫といえど、この深淵なる流れはいかんともし難い。だがいつまでもくよくよしないのもまた、我々の美点だ。
 ふたりそろって入念に毛づくろいをし、あー吃驚した、と、これで終いである。
 数日後。私ととむは、木漏れ日さす公園の樹の陰でふただひ作戦会議をもった。


「いや、ほんとあの夜はやらかしたな。まあ運がなかった」
とむが樹の幹を枕がわりに寝そべりながらつぶやく。
「そして計画もずさんだった」私はお日様と風のいたずらで揺れる光のきらきらを眺めながら自省した。
「目的を明確にさせてなかった。ゆえに出足がにぶり、あんなミスをしたし、君まで危険にさらしてしまったんだ。今度はそうはいかない」
「とすると、まだ君はやるつもりだね?」とむはすこしだけ上げた尻尾のさきをくりくりさせた。
「もちろんだよ。ここまできた以上、この目で真実をみるまでは引き下がらないよ、僕は」
 そう、それにこれはもはや私個人の復讐劇にあらず。我々の同胞と、我々にやさしい人間のピンチなのだ。これを黙ってみているようでは猫がすたるというものだ!
「オーケー、やろうじゃないか」
表向きまったく興奮をみせずに、それでもどこまでも付き合いのいいこの友人は頼もしくそう告げた。




 もはや猶予はならない。猫の堪忍にも限度がある。私達はつぎに男がやってきたときが決行の時だと決めた。
 そして待つこと二日。とうとうそのチャンスが巡ってきた。



 昼下り。マダム風にいえば、優雅な午後のひとときをティータイムで、という時分だ。
 私たちが潜む草葉のさきで、例の車が館の門前に乗りつけた。鍵をジャラジャラさせながら男がおり、いつかのように玄関のドアをあけて中にはいる。

「いまだ! ゴーゴーゴーゴー!」

 私はとむを、というよりは自分を勢いづけるためにそう叫び、ふたりは柿の木舘の玄関に突進した。
 うまいことに玄関の把手はベロを下に押し下げてあけるタイプのもので、男には家の中に入ってまで施錠するという用心はなかった。
 とむはノブにとびつくと、普段自慢にしている脱走のテクニックをいかんなく発揮した。器用にベロを抑え込んで全体重をかけてぶら下がる。その間に反動で開いたわずかな隙間に手を突っ込んだ私は、チョチョイと小突いてそれを拡げると、あとはもう頭からずぼっと身体を突っ込ませる。
 やった! 侵入成功だ!
 そうおもった矢先、「わっ、なんだお前らは!」と野太い声がとぶ。
 ああ、またもや何たる不運。いままさに男はニ階へと続く階段のまえにたち、いましもそれを上ろうとしているところであった。
「ひるむな!」
後ろからきこえたとむの声に、私は勇気をとりもどし、ヤッとばかりに駆け出した。狼狽える男の股下をくぐり抜けると、一目散に柔らかな素材をはった初見の階段をトタタとかけ上る。とむもつづく。
「おいこら、シュシュ、どうした」
男が追いかけてこない、と思ったら、そんな声が耳の端にひっかかってきた。どうやら我々の企てに気づいたマダムが男を足止めしてくれているらしい。二階の柿のみえる部屋はもう目と鼻の先だ。
 我々は開いていたドアから一気に部屋へと突入した!
 そのとたん、

「モンちゃん!」

私にむけて私のものではない名をよぶ、ベッドのうえにいた老婦人の歓喜に満ちた声が部屋中にひびいた。












 今日も私は定刻どおり、庭ともいえる雑木林のくれる様々な刺激を愉しみながら、その下草をサクサクと踏む。
 あの挑戦以後、近隣に乱れはない。ゆいいつあるとすれば、我が友とむに、そこまで仰々しくない穏やかな変化があったくらいだ。
 ときおり柿の木屋敷のあの部屋へいき、ふたりのマダムとお茶を嗜む。そんなとき、いつも決まって私よりさきにとむがいる。
 あの折、思わず老婦人が叫んだ名前。最初は私に向けられたものだと思った。だか、本当はその後ろにいたとむに向けられたものだった。

 おもてなしのミルクをいただきながら、マダムは話してくれた。
「以前、この館にはモンブランという猫がいたのよ。そう、貴方のご友人にソックリな猫ひとが。でも私より歳上だったから天に召されてしまったわ。そのとき彼は猫の古式にのっとって、私たちに黙って姿を消した。だから婦人かのじょはまだ、彼がいなくなってしまったことを半分呑みこめないでいるのよ」
 マダムは自分のまえにおいた皿の水で口を湿らせた。どこか遠い目つきを、懐かしそうに窓にむける。
「本当にソックリで、よくあの柿のお気に入りの枝にのっては居眠りをしていたわ。でもあるとき、彼女は枝にのる貴方のご友人の姿をみてしまった。あの人だって半分は、もうモンはいないって解ってる。でもあまりに似すぎた姿に哀しみでふさぎ込んでしまった。それを心配した慎一……息子さんがもう乗れないようにって枝を落としたのよ」
 こうしてすべての謎は解けた。あの木は私だけではなく、本人は言わなかったがとむにとってもお気に入りの木だったのだ。
 よくよく考えればありそうなことだ。あの木の上は極上の昼寝スポットであり、彼はマダムに会うためにちょくちょくこの家に通っていたのだから。あまりに慣れた匂いだったので、私の鼻もすっかり彼の気配を嗅ぎのがしていたと、そういうことなのだった。
 はじめは、とむがその失ってしまった猫でないとわかった婦人は複雑そうであった。が、マダムが彼がその部屋へ入ることを許し、毛づくろいまでしてやる様をみて、なにかを納得したらしい。今では、優雅な午後のひとときを共にする、よき友人となっているとのことである。




 さて、そろそろ話の幕をおろす頃合いとなった。
 最後に私は? と誰か訊いてくれるお人がおられたときのためにこう添えておこう。
 私は何も変わらない。我が世話人と同胞を愛するひとりの男猫として日々を過ごしている。ただ、あの館への足はすこしだけ遠のいた。
 いつの世も、事件が解決したあとの探偵は、クールに去るものだからである。



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