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すると、詩音が気まずそうに言った。
何かとはきっと以前、恋人だったことだろう。そう思った瞬間、ふと、ある疑問が過った。
以前とは一体いつのことなのか。
医者によると詩音の記憶は、惣一郎と付き合っていた頃からの記憶が失われていると言った。仕事のこと、他の友人たちのこと、仕事仲間のことも読書仲間たちのことも、朧気に覚えていることはあってもそれはまるで霞がかかったような記憶で、決して鮮明ではない。
優星は昔、詩音と恋人だったとしか言っていない。つまり、昔とは惣一郎と出会った頃でもある。
つまり、まさに今。詩音が大学生だった頃の今、詩音の恋人は優星だったかもしれないのだ。
聞くことが怖い。もし、今の詩音の記憶の恋人が優星だったらと思うと、萎れかけた花がピンと生き返ったというのにまた、萎れてしまいそうで、太刀打ちなどできない気がした。
が、何も答えないわけにはいかない。ただ、こくん、と首だけで頷くと詩音は悪戯がばれた子どものように無垢な笑顔を惣一郎へと向けた。
「やっぱりね、そっか」
「詩音」
「軽蔑、した?」
無垢な笑顔は既に消えていた。代わりに見せたのは、不安げに揺れる眼差しで、惣一郎はその眼差しの意味を唐突に理解した。
詩音は気持ち悪がれないかと、心配しているのだろう。同じ同性である男と付き合っている自分を惣一郎が侮辱しないか、軽蔑しないか、罵らないかと。
今まで詩音と付き合っていたからすっかり忘れていたが、まだ、この国では同性愛に少なからず差別はある。表向きは受け入れようと試みてはいるのだが、どうしても全ての人がそれを受け入れてはくれるはずもない。
仕方がない、詩音は記憶を失っているのだから。
何回も何回も、過った言葉で自分を言い聞かせる。仕方ないことは仕方ないのだから、今、目の前にいる詩音を受け入れろと、頭が言っている。
しかし、ショックだった。大学生の頃、詩音と惣一郎は親しくしていたと思っていた。同性が好きだとは打ち明けられていなかったが、趣味や好きな食べ物、嫌いなこと、苦手なことなど、話せる仲だと思っていた。
けれど詩音の中ではまだ、詩音がゲイだと惣一郎が受け入れるまでの仲に至ってはいなかった。
こんなにも過去の自分を悔やんだことは、詩音が記憶を失った事故以来だった。口数が少ない自分を憎み、呪いたくなった。
「詩音、そんなことない」
しっかりと、その言葉が詩音に伝わるように、真っ白なシーツの上、無造作に置かれた痛々しい手に優しく触れ、目を見つめた。
「詩音が誰を好きで、誰と付き合っていても俺は軽蔑なんかしない。俺も、同じだから」
「え?三田くんもって」
「俺も同じ。詩音と同じで、好きな人がいる。その人は男だ」
ドクドクと早く心臓に血液が送られている。まだ夏で外は暑いというのに、口は乾き、潤いを求めるように唾液を飲み込んだ。
詩音を好きなことを誰かに話したのは、初めてだった。それがこんなにも勇気がいることで、軽蔑されないか不安になる気持ちも初めて知った。
もし、詩音が俺の好きな人だと伝えたら、詩音はどう思うだろう。
伝えたい、けれどまだ伝えてはいけない。ゆっくり、詩音のペースでまた自分を好きになってもらおうと決めた。
今度こそ、詩音が自ら惣一郎にどんな花が好きで、男の人が好きだと打ち明けてもらえるような人になりたい。
願うように驚きに見開かれた目を見つめていると、重ねた手の下がぴくりと動いた。
「そっか、教えてくれてありがとう」
「軽蔑、しないか?」
「まさか!その人との恋が上手くいくといいね」
ニッコリと笑って言われた。その人が目の前にいる自分だとも知らない笑みは、無垢で純粋だった。
いつかその人が自分なのだと、誰よりも詩音を愛しているのは俺なんだと、そうわかってもらえる日が来るといい。
今、優星と詩音が恋人なのかと、気をもんでいたことなど忘れ、惣一郎はただ、目の前の詩音の笑顔に見惚れていた。
何かとはきっと以前、恋人だったことだろう。そう思った瞬間、ふと、ある疑問が過った。
以前とは一体いつのことなのか。
医者によると詩音の記憶は、惣一郎と付き合っていた頃からの記憶が失われていると言った。仕事のこと、他の友人たちのこと、仕事仲間のことも読書仲間たちのことも、朧気に覚えていることはあってもそれはまるで霞がかかったような記憶で、決して鮮明ではない。
優星は昔、詩音と恋人だったとしか言っていない。つまり、昔とは惣一郎と出会った頃でもある。
つまり、まさに今。詩音が大学生だった頃の今、詩音の恋人は優星だったかもしれないのだ。
聞くことが怖い。もし、今の詩音の記憶の恋人が優星だったらと思うと、萎れかけた花がピンと生き返ったというのにまた、萎れてしまいそうで、太刀打ちなどできない気がした。
が、何も答えないわけにはいかない。ただ、こくん、と首だけで頷くと詩音は悪戯がばれた子どものように無垢な笑顔を惣一郎へと向けた。
「やっぱりね、そっか」
「詩音」
「軽蔑、した?」
無垢な笑顔は既に消えていた。代わりに見せたのは、不安げに揺れる眼差しで、惣一郎はその眼差しの意味を唐突に理解した。
詩音は気持ち悪がれないかと、心配しているのだろう。同じ同性である男と付き合っている自分を惣一郎が侮辱しないか、軽蔑しないか、罵らないかと。
今まで詩音と付き合っていたからすっかり忘れていたが、まだ、この国では同性愛に少なからず差別はある。表向きは受け入れようと試みてはいるのだが、どうしても全ての人がそれを受け入れてはくれるはずもない。
仕方がない、詩音は記憶を失っているのだから。
何回も何回も、過った言葉で自分を言い聞かせる。仕方ないことは仕方ないのだから、今、目の前にいる詩音を受け入れろと、頭が言っている。
しかし、ショックだった。大学生の頃、詩音と惣一郎は親しくしていたと思っていた。同性が好きだとは打ち明けられていなかったが、趣味や好きな食べ物、嫌いなこと、苦手なことなど、話せる仲だと思っていた。
けれど詩音の中ではまだ、詩音がゲイだと惣一郎が受け入れるまでの仲に至ってはいなかった。
こんなにも過去の自分を悔やんだことは、詩音が記憶を失った事故以来だった。口数が少ない自分を憎み、呪いたくなった。
「詩音、そんなことない」
しっかりと、その言葉が詩音に伝わるように、真っ白なシーツの上、無造作に置かれた痛々しい手に優しく触れ、目を見つめた。
「詩音が誰を好きで、誰と付き合っていても俺は軽蔑なんかしない。俺も、同じだから」
「え?三田くんもって」
「俺も同じ。詩音と同じで、好きな人がいる。その人は男だ」
ドクドクと早く心臓に血液が送られている。まだ夏で外は暑いというのに、口は乾き、潤いを求めるように唾液を飲み込んだ。
詩音を好きなことを誰かに話したのは、初めてだった。それがこんなにも勇気がいることで、軽蔑されないか不安になる気持ちも初めて知った。
もし、詩音が俺の好きな人だと伝えたら、詩音はどう思うだろう。
伝えたい、けれどまだ伝えてはいけない。ゆっくり、詩音のペースでまた自分を好きになってもらおうと決めた。
今度こそ、詩音が自ら惣一郎にどんな花が好きで、男の人が好きだと打ち明けてもらえるような人になりたい。
願うように驚きに見開かれた目を見つめていると、重ねた手の下がぴくりと動いた。
「そっか、教えてくれてありがとう」
「軽蔑、しないか?」
「まさか!その人との恋が上手くいくといいね」
ニッコリと笑って言われた。その人が目の前にいる自分だとも知らない笑みは、無垢で純粋だった。
いつかその人が自分なのだと、誰よりも詩音を愛しているのは俺なんだと、そうわかってもらえる日が来るといい。
今、優星と詩音が恋人なのかと、気をもんでいたことなど忘れ、惣一郎はただ、目の前の詩音の笑顔に見惚れていた。
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