愛の重さは人知れず

ゆきの(リンドウ)

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「じゃあ、これからも僕が選んでいいのかな?」
「え?」
「えっと、スーツとネクタイ」

 ギプスで固定され、動かない首はそのままに。目を細め、小さく微笑んだ。

 また、救われた気がして心の鎖が軽くなった。いつも、惣一郎が悩んだり困ったりすると、詩音はそうして笑って励ましてくれる。

 つい、降りしきる雨のように目の前の事実が、残酷に思えていた。雨を避ける傘を忘れ、途方に暮れたように。
 受け止めるとは言いつつも、きっとまだ、受け止められていなかったのだ。頭ではわかっていても、些細な言動が思いたい事実と思わなくてはならない事実を惣一郎に打ち付けてくる。
 そして、気付かされる。どうして詩音は忘れたのだと、そう責めていることに。

 だって俺なら忘れなかった。誰よりも、たとえ家族を忘れたとしても詩音、お前だけは忘れなかったのに。

 それほど、詩音にとっての自分は存在価値が薄かったのか。愛は届いていなかったのか。
 愛していると思う気持ちが届いていなかった。まるでそう、言われているようで、辛くてきっと無意識に溢れ出てくる感情に蓋をしようとしていた。
 それを詩音が、開けてくれようとしている。一気に開かなくても、少しずつ、少しずつ。無理矢理ではなく、一ミリずつを大切に。

 惣一郎の頬には涙が伝っていた。目から溢れる涙は温かく、けれど流れ落ちた涙は冷たい。膝に握りしめていた拳に冷たさが落ち、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。

「三田くん」
「ごめんッ!大丈夫、大丈夫だから…」

 言葉とは裏腹に、涙は止まることを知らない。流れては消え、また流れ。目の奥が異常に熱くて、喉まで苦しさが込み上げてくる。

 思い出はいつか薄れていく。いつか、惣と呼んでくれた声を思い出せなくなるかもしれない。
 その時、自分はどうなるのか。できることなら永遠に、今、この時の記憶のままで留めてしまいたい。

 どうして、どうしてと、後悔ばかりが頭を駆ける。あの時、愛していると言葉にして言えていればと、思っても仕方のないことばかりが涙になって流れていく。
 現実は目の前まで迫ってきていて、だからこそもう、目を開けて向き合わなければならない。
 けれど今だけは。今、この瞬間だけは許してほしい。後悔が全部、涙となって流れ落ちるまで、待って欲しい。

 詩音が開けてくれたのだから、今、この時を大切にしたい。
 そうすればきっと、もう、前だけを見ていられるから。

 一人、恥ずかしげもなく泣く声を上げる。詩音と二人しかいない病室には、やたらと惣一郎の声が響く。
 そうしてもう、何分経ったのだろうか。頬を伝う涙の量が少しだけ、落ち着いてきた頃、詩音の声が耳に届き、拳ばかり見ていた顔を上げた。

「三田くん」
 呼ぶ声はまだ小さく、ベッドの側まで近づいた。

「ごめん、泣いたりして」
「違う。誰でも泣くから、大丈夫」
「…そっか」
「…ごめんね。でも、ありがとう」
 まだ濡れる顔を上げた。ごめんもありがとうも、詩音に言われる言葉ではなく惣一郎が言う言葉だったのに。

「なんで、詩音が」
 思わず、戸惑った心のままに聞く。

「違ってたらごめん。ただ、三田くんが泣いてるのは、僕のことを思ってくれたからなのかなって」
「え?」
「だから忘れてごめん。でも、大事に思ってくれてありがとうって意味」

 瞬間、また、視界が滲んだ。もう、止められなかった。

 ベッドの柵に置いた手の上に、額を乗せ、そして思いのまま泣いた。泣いて泣いて、もう涙が枯れるほどに。
 心にかかっていた鎖が解けた。がんじがらめに巻いた重い鎖が、いとも簡単に軽く、跡形もなく消えた気がした。

 もう、大丈夫だ。そう思いながら、惣一郎は柔らかな意識へと、身を預けていた。
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